野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年07月

2010年に作成され、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭などで上映されてきた映画「革命の子どもたち」が7月5日(土)から「テアトル新宿」で上映されている。
このブログでも2回にわたって宣伝してきたが、初日(7月5日)に映画を観に行ってきた。雨模様の天気だったが、観客が続々と詰めかけ、上映前のロビーは観客であふれた。
映画終了後、映画に出演している重信メイさんと映画監督の足立正生さんの舞台挨拶があった。今回は、その舞台挨拶の様子を掲載する。

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「革命の子どもたち」初日舞台挨拶 2014.7.5 (テアトル新宿)

司会:配給会社「太秦」小林氏
『この映画を知ってから公開するまでに3年くらいかかりまして、この作品は、この映画館をホームグラウンドにしていました若松孝二さんが「やれ」ということで、ずっとやっていたんですが、その間に勝手にお亡くなりになりまして、その後、テンションも落ちたりしたんですけれども、ようやく皆さんのご協力のもと、ここに初日を迎えることが出来ました。本当に感謝申し上げます。(拍手)
ご紹介したいと思います。本作品の出演者でもありジャーナリスト、プロデューサーでもある重信メイさん、どうぞ!(拍手)(パンタさんの歌とともに登壇)
そしてもうお一方ご紹介したいと思います。映画監督の足立正生さんどうぞ!(拍手)
まず、初日を迎えた感想をお一人ずつお願いできますか?』

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重信メイ
『皆さん、こんなに大勢来られるとは思わなかったので、立ち見だと教えてもらってびっくりしました。本当により多くの人に、ちょっとでも違うアングル、違う角度でこの話を見ていただきたいと思っていたので、本当に有難うございます。』


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足立正生
『元々私も映画を作っているので、非常に真面目で穏やかな記録的な表現を出して面白いかなとは思います。映像の中で語っていることなんかよりも、更につらい目に合わせたメイちゃんがここまで大人になっているんですから、私は何も発言しなくてもいいのではないかと。以上です。』(拍手)

司会
『実はこの映画館は日本映画専門映画館でして、ここに至るまでにアイデンティティの問題がありまして、アイルランドの監督だから日本映画じゃないんじゃないかというので、メイさんは日本人だから50%くらい出ている、足立さんが5%くらい出ているからこれは日本映画だということで押し切りまして、最後は若松さんのホームグラウンドということで、ようやくここに至ったということです。僕は若松さんのホームグラウンドで足立さんをお迎えするのは非常に感慨深いものがあるんですけれども、あまり関係ないですか?』

足立正生
『あんまりない。(笑)若松が最後の頃、ここでいろんなレトロスペクティブみたいなこともやりたいと、それに近いことをやったりしていましたけれども、むしろこの映画館がもう少し頑張ってくれれば、若松さん、あるいは私ら、そこからも若い監督がいっぱい出て行けるので、もっともっと若い人に門戸を開くような映画館になって欲しいとずっと思っていました。だから、今日、この映画を上映できて、見に来ていただいた人たちに、そういう映画館として育ててくれることをお願いしたいと思います。よろしく。』(拍手)

司会
『この映画の内容についてお話をさせてもらいたいんですけれども、メイさんと今までに何度か会って、いつもにこやかなメイさんなんですけれども、このドキュメンタリーを見て改めて思うことは、子どもの時から生命の危険を肌で感じながら生活していられたんだなと、僕らの想像力の及ばないところがあって、それは具体的はどういう風に感じていたんですか?』

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重信メイ
『正直言って、生まれた時からそういう状況だったから、突然大人になって変わった訳ではないので、ストレスというようなものではないけれども、周りの人とはちょっと違うなというのはいろいろ感じましたし、大人と離れる度に、その大人とは二度と会えないかもしれないという思いを持ちながら、私の母も含めて「さようなら」と言うのが辛かったけれども、そういう風に生きないと逆に生きていけないというのがあったので、しょうがないなという感じでした。』

司会
『それで、メイさんの本を読んだりすると、一人のお父さんではなくて、何人ものお父さんがいた。足立さんもその一人であったというような、どういう風な関係でお話をしていたり、まさか叔父さんと言っても嘘っぽいでしょうし、どういう風に接していたんですか?足立さんとメイさんは?』

重信メイ
『本当に家族のような感じで、例えばある人は叔父さんみたいな感じだったりするし、ある人はお父さんみたいな感じだったりするし、ある人は叔母さんみたいだったり、ある人は母みたいだし、本当に大きい家族があるような感じでいたんですけれど。』

足立正生
『少し暴露すると、いろんな仲間が力を出し合って、メイちゃんたちを育てるようにはしているんですけれども、メイちゃんの側から見れば、いいお父ちゃん、悪いお父ちゃん、俺なんか何も付かない単なるちゃん、というような、彼女の目から見れば、(彼女が)持っているものがあって、そこから呼び名を付けているんですね。その呼び名を付ける付け方が非常に感性鋭くて、何でいいお父ちゃんなのか、何で悪いお父ちゃんなのか、俺みたいに何でちゃんだけなのかとか、そういうことがあって、今言ったようなストレスなんて、彼女自身はそればっかりだから、実は感じていなかったんじゃないかと思いますね。』

司会
『いつも死が隣り合わせという中で、向こうの世界で明らかに日本人と異質だったんじゃないかと思うんですよ。その中で足立さん自身も危険を感じていたでしょうし、その中でどのように普通の生活を送っていたのかということを聞きたいんですけれども。』

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重信メイ
『家の中では普通に家事をするお当番とか、料理を作るお当番とか、いろいろとその日によって子どもの宿題を手伝うお当番とかあったんですけれど、その代わり、私たち子どもたちが学校に行ってたり寝ている時は、他の政治的な仕事をするような感じだった。
本当に若い頃は集団的に生活をしていたけれど、それだと目立ちすぎるので、アジア人らしい人たちがグループで住んでいるとおかしいから、そのうちどんどん分かれて住むようになったんだけれど、周りの人に一生懸命日本人じゃないと説得するのが大変でしたね。
違う国籍の人だと言ったりとか、何でこんなに大勢の人が一つの家の中に住んでいるのかということも、目立たないようにストーリーを作らないといけないし、外と向き合った時に工夫をしなければいけないところがありましたけれど、でも家の中では普通の生活の中でも私たちは特別な生き方を持っているから、それはそれなりにちゃんと向き合わないといけないから、毎日、身のまわりに危険があるかないか皆で確認するために、夕食の後に報告をするとか、普通の家族だとたぶんないだろうなというのがあるけれども、それ以外ところでは本当に家族みたいにいろいろとやっていました。だから両方あった。普通に家族っぽく生活しているところもあったし、それなりに私たちが危険の中で生きているということもあったから、子どもも入れた報告会みたいなものもありました。』

司会
『若松さんにこの映画をやれと言われた時に何からと考えたんですね。やっぱり重信房子さん、赤軍、リッダ、いろんなことが3分の1とか4分の1とか1面以下みたいな形で、このまま定着すると、本当にそれだけしか残らないんじゃないかという気があって、何が本当かはさておいて、本当のことを探る転機になればいいかなと思って、それでやれたみたいな気がするんですけれども、足立さんはその辺はいかがですか。』

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足立正生
『若松はいろんな思いがあって、そう言ったんだろうというのは分かります。もう一つ暴露すると、メイちゃんが生まれた後、国籍をどうするかという問題があった時に、彼が毎年のように来ていたんですけれども、メイちゃんにも会った時があったんです。その賢さや何かを見た後、よし決めた、彼女は俺の娘にする、つまり養女にする。アラブの女性に産ませた子どもだから連れて帰る、そういうようなメイちゃんの置かれている境遇なんかに同情して28年一緒に過ごしたというのがあるから、マインホフの子あるいは房子さんの子のメイちゃんということで、万感の思いがこもっていただろうというのはありますね。もちろん柄は悪いけど自分の娘はちゃんと育てているから、それもいいかなと思ったりしましたけれど、結局それは実現しなかった。そんなところです。』

重信メイ
『確かに若松さんは、私なんか若ちゃんと呼んでいたんですけれども、結構、お父さんの一人のような方だったので、そういうところもあったんじゃないかな。そういう思いもあって、28年間中東で生まれ育つというのはどういうことかを日本の方々に伝えるいい機会だと思ったんじゃないかなと思います。』

司会
『僕は「Children Of The Revolution」といのが原題なんですが、それに邦題として「革命の子どもたち」というのを付けて、ベティーナ・ロールさん、すごく対照的は母親像を抱いているなと思ったんですが、メイさんはベティーナさんの母親に対する印象というのは。』

重信メイ
『私はベティーナさんも、ベティーナさんのお母さんのことも映画を通してしか知らないんですけれども、キャラとしては私の母とはちょっと違うんじゃないかと思えるところがあります。もっと気が強い、私の母も強い人でしたけれども、何ていったらいいのかな・・ヨーロッパ的、西洋的な強い女性というのがありますよね。、私は日本的な強い女性と違ったキャラクターだと思うんですけど。
足立さんはひょとして2人とも知っているから、足立さん知ってますよね?』

足立正生
『誰を?』

重信メイ
『マインホフさん。』

足立正生
『そういうのはあまりここでは・・・』(笑)

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重信メイ
『私はその人を知らないから、それと私が生まれて直ぐくらいの時に死んでいますので分からないですけれども、一つこの映画を観て思ったことは、何で私とベティーナさんの意見がこんなにも違うんだろう、と不思議だったですね。もちろん生きている環境が結局は違った。母親のイデオロギーが似ているかもしれないけれども、違う生活をしてきた。
彼女は中東に向かうはずだったけれども、結局は行かなかった。それと母親を批判するお父さんと一緒に育った。それだけではなくて、非合法ではなくて合法的に育ったし、そういうものもあったけれど、私はそれだけが違いではないと思ったんですね。本当に考えて思ったのは、2人とも母と普通の生活ができた訳ではないけれど、私と彼女が違うところは、一緒にいる時間が少なかったとしても、私の場合はずっと母親に会うことも出来たし、いろいろ疑問に思ったこととか、聞きたいこととか、何でと思った時には聞く機会だってありましたし、そして答えもきちんと戻ってくることもありましたし、そして母の愛情もそうですし、周りの他の家族の人たちの愛情も本当にいっぱいもらって育った。その中で私はこの映画のように思えるようになったと思うんです。ベティーナさんは、母親の愛情を十分に受ける前に、しかもいろんな疑問に対しての答えを貰う前に母を亡くしてしまった。そのギャップが、疑問とか不満とかの感情に変わってきたんじゃないかと思ったのと、それでもう一つ思ったのは、親子の愛情というのは当たり前のことじゃないんだなと思った。今までは親子というのは、当たり前のように愛情があるはずだし、更に大変な中で生きて行くと、絆というのが当たり前のように強くなるものだと思っていたんだけれども、そうじゃなくて本当に努力があってからこそ、愛情というものが生まれるんだなと思った。
当たり前に生まれつき出てくるものじゃなくて、例えば私の場合は母親の愛情とか周りの人の愛情が、みんな大変な中でも努力して、この子はうまく育つようにと、子どものことを第一に考えていることが本当に伝わっていたんですね。何を決めるにしても、例えば移動を決めるにしてもまず学校をどうするかとか、本当に子どものことを一番最初に考えているというのは感じてくるんですね。それもやっぱり努力があって愛情が伝わってきたから、子どもも愛情を感じることができたと思うので、私も学んだことの一つなんですが、愛情というのは当たり前のように伝わるものではないから、自分も人にちゃんとコミニケーションする努力をしないといけないと思いました。』

司会
『当然、足立さんもすごい愛情を注いでいたと思うんですけれども。』

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足立正生
『今、彼女が言ったこととあまり違わない問題ではあるんだけれども、メイちゃんと僕らが一緒に住んでいたということもあるんだけれども、それはほんの20分の1くらいであって、他の軍事基地に居たりいろんな仕事をして、彼女と一緒に居られる時間というのは非常にいい時間なんですね。ですから、そういう意味のラッキーな出会いの部分だったというのが一つと、僕なんか既に娘が3人いた後に姿を消して合流しているんですが、他の人たちは皆学生運動上がりの若い人々で、出産とか子育てとか全く分からない人たちですよね。ですから、そういう仲間と一緒にメイちゃんを育てる、あるいは他の子たちも産まれたりして、それを育てるというのは一つの基本的な、いくら革命家、テロリスト、過激派と言われても、基本的な生き方の中で問われる問題を、メイちゃんを通して出会うということをやっていた訳です。
ですから、メイちゃんにとっては、それが非常にかけがえのない愛情と見えたんだろう、あるいはマインホフの娘はマインホフを敬愛する、あるいは以前からの仲間たちがしっかりと支えて育てたということも知っています。それからマインホフさん自身は、強さというよりも、実際に社会の問題そのものを受け止める、そこで実行するというタイプだと、学生の頃から知っている2人の老いた女性が言っていましたけれども、激しさというのはあたかも脳腫瘍を取って鉄板を入れて人間が変わったんだという、たとえそいういう要素があるにしても、鉄板を入れて変わってそれから始まって、腦がおかしいものを持てないのは分かるんだけれども、心理的な変化があったんじゃないかと、どうでもいい分析をこの映画の中でもしていますけれども、そういう具合に思おうと思ったら思えるんですね。
だからメイちゃんの母親の房子さんでも、決断したから中東に行ったし、決断したからリッダ闘争の死んだ人たちのものも引き受けようとしたし、というように、強さとかいうものは、メイちゃん風に西洋的、東洋的という言い方もあるかもしれないけれども、むしろ、自分が背負っていたものをそれなりに強くやろうとしたんだなと思います。
それからマインホフの方は、そういう意味で言えば母親の愛情というものは分からなかったということを映画の最後に言っていますよね。つまり、もちろん政治上の路線上の問題は、西ドイツと日本の私たちの違いとかいろいろありますけれども、本当は分かっていなかったんだ、子どもを産んで分かった、それが全ての回答になっているんですよね。
だから、僕も娘を見て、娘たち立派に育っていて、親はいなけりゃ子は育つというのは世界の真実だと分かったんです。でも、親がいても育つ子もいる訳でしょ。その例がここにあると僕は思っているんです。
マインホフのこと、メイちゃんとほとんど変わりがないと、あるいは変わりがないんだけれど、そういう時分のお前らがかつてやった過激派の闘いじゃなくて私たちの世代は私たち世代の生き方の中で身につけた戦い方をしますよ、と両方言っている訳だけど、古い方の世代から見れば、愛情というのはメイちゃんが言っているように、ワシらはラッキーでメイちゃんと愛情の関係をしっかり持ちながらやれたけれど、そうじゃないところの方が大半な訳ですね。その程度の違いはあるのかなと。だけど、マインホフの子が最後に、子ども産んでよかったと言ったので、私もちょとウルウルなって、今でも目が濡れているんですね。以上。』

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司会
『最後に質問なんですけれども、重信さんが捕まった時、ニュースで日本全国ほとんどの人がご覧になっていると思うんですが、それをまた映画の中で見た時に、すごくひどい中傷があったような記憶があるんですね。でも、メイさんは、我々と全く違う、生きていることが分かったというようなことをおしゃっていましたよね。だから全然違うんだなというか、僕たちの鈍感さを恥じたということろがあるんですけれど、その話を聞かせてもらえればと思います。、』

重信メイ
『もちろん逮捕されることはとても残念なことですし、ああいう形で未だに、私からすると無罪の、本当に証拠もないまま20年も独房に入れられるということはすごく不正義で残念なことだと思うんですけれども、今まで人生の中で心配していた暗殺とか拷問というものがなかっただけ、ホッとした。もちろん、逮捕された時の報道が、ある友人の方から電話がかかってきて、ひょっとして貴方のお母さんが逮捕されたかもしれないという話が耳に入って、その日、わずかに映るNHKニュースをずっと見ていて、悪い映りのテレビあるじゃないですか、ああいう感じでNHKで映ったんですね。でも、私は母だとすぐ分かったんだけど、本当に難しい気持ちでしたね。
とうとう逮捕されてしまった、私がずっと恐れていたことが起こってしまったという本当の悲しい思いと、でも殺されなかったという思いの難しい複雑な感じでしたね。』

司会
『それでは今日はマスコミの方が来ていらっしゃいますので、パネルを囲んで立っていただけますか。』
(映画のポスターのパネルを囲んで重信メイさんと足立正生さんがマスコミ用の撮影に応じる)

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司会
『握手をして欲しいというオーダーが入っていますけれど。』(笑)
(パネルの前で2人が握手)

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司会
『最後に一言ずつ、あと3週間ほどやりますので、その間にまた足立さん、メイさんにも登壇していただきますので、最後に一言メッセイージをいただいてシメたいと思います。、』

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足立正生
『題名が「革命の子どもたち」となっているように、年取った私たちのことではなくて、今、生きている人も死んでいる人もいろいろあると思うけれども、メイちゃんたちの世代を継いだ人たちが、どういう思いでどういう具合に生きようとしているのかというのをテーマにしようとした映画でもあります。そういう意味で、今後ともメイちゃんをよろしくお願いします。』(拍手)

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重信メイ
『私は映画の中でも言いましたけれど、メディアの関係で今仕事をしているので、言いたいことは、メディアに一方的に、日本みたいに一緒くたの報道の仕方とか、意見というものが流れる中では、やっぱりどこか違うものがあるんじゃないかという風に、この話だけではなくていろんなこともそうですけれども、世界の情報も日本の情報も疑いの目を持ってみなさんにこれから見ていただきたい。このメディアが言っているんだから正しいんだろうというのではなくて、言っていないこともいっぱいありますし、言い方も違っていたりしますし、いろいろあるので、本当にみんなで一緒に視野を広げるようなきっかけになる、いろいろと自分からもすることもあるようにしていただければいいなと思います。
ありがとうございました。』(拍手)

司会
『どうもありがとうございました。盛大な拍手をどうぞ。』(盛大な拍手)

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舞台挨拶終了後、メイさんは映画のパンフレットを買った人たちにサインをしていた。サインを待つ人が長い列を作っていた。

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【映画「革命の子どもたち」絶賛上映中!】

詳細は以下のサイトでご覧ください。

革命の子どもたち公式サイト

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このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
このコーナーは、「日誌」の中の読んだ本への記述をオリーブの樹編集室が抜萃したものである。今回は、「オリーブの樹」123号に掲載された中から2冊の本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【原発は滅びゆく恐竜である】
『原発は滅びゆく恐竜である』(水戸巌著 緑風出版)を読み終えたところです。
こんなに深く胸に残る本は稀です。本のタイトルは、原子核物理学者であり、まだ原子力発電が素晴らしいと言われていた初期から原子力発電の危機を訴えて来た著者の言葉から付けられたものです。この本は、涙なしには読めません。水戸巌という著者がどんな人だったのか、その人柄が語られる度に、涙があふれてしまいます。
「はじめに」は、小出裕章さんの文です。まず、本の構成を目次から示すと、「反原発入門」という第1章では、原子力発電はどうしてだめなのか? 17の質問に答えるスタイルで、原発の基本的問題を説明し、第2章では、「スリーマイル島とチェルノブイリの原発事故から何を学ぶか」を語り、日本の原発が同じ危険にあること、「3・11フクシマ」を明確に予測しています。1979年から1986年にも! 第3章は「原子力―その闘いのための論理―」で、危険性を解明し、「原子力発電は永久の負債だ」「原発は原水爆時代と工業文明礼讃時代の終末を飾る恐竜である」と喝破し、「う~んと唸りたくなるほど、水戸さんらしく、また原子力の本質を余すところなく捉えた表現だと思う」と小出裕章さん。第4章は「東海原発裁判講演記録」と各章編まれています。「あとがき」は、後藤政志さんで、70年代80年代に構築した水戸巌さんの論理がいかに「フクシマ」の危険に言及していたのか、その論理の鋭さ、正しさを原子炉設計にかかわった者として、自分も含めて、科学技術的に解説しています。
 この本は原発に対する明快な圧倒的な論理を学習できるばかりではありません。その後に、「水戸巌に捧ぐ」とさまざまの方の惜別の追悼文、そして最後に「発刊に寄せて――水戸巌と息子たち」夫人の水戸喜世子さんが「特別寄稿」しています。この本は一個人がこれほど誠実に生き、闘い続けたのか、そして突然の息子二人(二人とも父のように生きようと京大、阪大で物理学などを研究する学生だった)と共に、剣岳で消息を絶った水戸さんの人柄がくっきりと浮かび上がってくる本なのです。この本の著者に対する他の人々の深い思いが胸を衝き、この本を深いものにしています。そういう意味では、この本は、「はじめに」の小出さんの文、そして水戸喜世子さんの「特別寄稿」をまず読んでから、じっくりと原発に関する内容に触れ、学習するのがよいと思います。
「はじめに」で小出さんは、当時、東大原子核研究所の助教授だった水戸さんについて、出会いをこんな風に記しています。
「私自身は、1970年秋から東北電力女川原子力発電所に対する反対運動に参加していた。女川でぼろぼろの長屋を借りて、ビラを書き、海沿いに連なる小さな集落を回って、ビラを配って歩いた。(中略。そんな中で、女川から原子力発電所まで、淡水を送る工事が行われるようになり、座り込んで数名の仲間が逮捕された。)自分たちの行為が正当なものであることを示そうと『略式起訴』を拒否し、原子力発電の是非を問うための正式な裁判を受けることにした。国を相手の裁判に協力してくれる学者、専門家はほとんど居なかったが、水戸さんは快くその裁判の証人になってくれた。小さな田舎の集落で開かれる小さな集会にも来てくれ、住民たちに原子力発電の危険性を話してくれた。東北大学で開いた学生相手の講演会にも来てくれた。それも貧乏学生だった差し出すほんのわずかの謝礼も受け取らない人だった。」
「私に原子力のことを教えてくれた人はたくさんいる。……しかし、私が恩師と呼ぶ人は片手で数えるほどしかいない。その一人が水戸さんである」と記されている。
追悼の文や小出さんの文も「水戸さんを慕う何よりの理由は、水戸さんが誰よりも優しい人だったからである」。権力には決して屈しない一方、「社会的に弱い立場の人たちに徹底的に優しかった」と述べています。
その水戸さんがチェルノブイリ事故の86年の暮れに剣岳で消息を絶った様子は、夫人の喜世子さんの淡々と記された文をぜひ読んでほしいです。水戸さんに対する脅迫の電話が頻発する中で、安全な子育てのために、東京と大阪に離れて暮らさざるを得なかったご家族。巌さんと同じような人柄の喜世子さんは、3人の不明の捜索によって他の友人たちや人々が二次、三次災害を起こすことがないかと気遣いなから死を確認していった様子は、涙涙で読みました。なんとすばらしい愛情で結ばれたご家族だったのだろう。反原発の人々の多くが体験しているように、脅かしに抗して父の信念と共に生きた息子、妻たち。死の現場もなんだか不可解もあったのですね。87年にアラブで水戸さん遭難を知った時、「謀殺されたのでは?!」と訊ねたほどです。私のまわりには「謀略」や「暗殺」がうごめいている地下戦争の地で、水戸さんの死をなんだか一つにつなげて考えてしまったためです。どれほど当時の時代の要の人だったか、知る人ぞ知る人でしたから。
私の知る水戸さんは60年代の反戦反体制運動に対する厳しい弾圧、逮捕、拘留に対して救援の手を差し伸べ、ご夫妻で「救援連絡センター」を創設した水戸さんです。あの頃大量逮捕と拘留も2泊3泊から23日拘留に変わり始めた時です。警察に留置された学生たちの歯ブラシやタオルの差し入れ、弁護士の接見派遣と「救援連絡センター」が活動し始めたのは巌さんと事務局として身を粉にして闘った喜世子さんの努力からです。私も69年秋、初めて逮捕され、「救援連絡センター」の恩恵を受けた一人です。また、当時の党派の「内ゲバ」で救援ができなくなるのを憂慮し、反弾圧で権力に対して闘う者を差別しない原則を築いたのも水戸夫妻です。また、リッダ闘争支援岡本公三さんの軍事法廷で一人裁かれる岡本さんに対して、庄司弁護士は駆けつけてくださったのに、イスラエルは入国を拒否し、飛行機から降りることも許しませんでした。この時のことを後に庄司先生から聞き、水戸さんらの不屈の尽力に驚き感謝したものです。この本には、そうした水戸さんの「反弾圧戦線」での闘いには触れていませんが、是非「水戸巌さんの生き方」として喜世子さんに「特別寄稿」に記された内容をさらに一冊上枠してほしいと思います。
本の装丁がまたすばらしいです。喜世子さんを父、兄弟の死後、生き支えてきた娘さんの装丁でしょうか。(4月6日)』


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【戦後左翼たちの誕生と衰退・10人からの聞き取り】
『戦後左翼たちの誕生と衰退・10人からの聞き取り』(川上徹著・同時代社)を読みました。
著者は1940年生まれ。60年に日本共産党に入党。64年から66年まで全学連(民青系)委員長。その後90年に共産党を離党した人です。この著者が委員長の時代、私たちは明大二部学苑会の高橋事務局(民青系)から、学費闘争をめぐって学苑会を66年に私たちの側に( 新左翼系に)変えたのを思いつつ読みました。
帯に「戦後新・旧左翼にフロント、解放派、第4インター、ブント赤軍派、中核派、社会主義協会、共産党など、かつては所属し、あるいは現在も所属している10人。彼らはそれぞれの道を歩んできた。自らを振り返りつつ衰えの時代を共に考えた」と記されています。今の「危ない時代」の始まりを予感し、「多くの人が一種の喪失感を味わっている時期、10人への聞き取りを行っていった」著者。「ほぼ完全に左翼と名のつくものは日本現代史の舞台から消え、衰勢に歯止めがきかなくなったのには根拠があり、それが何なのか? 権力によって打倒されたのか、それとも左翼自身が抱える内的要因によってなのか。とにかく私が左翼(日本共産党)であったころ、対立しあっていた人々が衰勢の中で今何を考えているのか、感情でも反省でもいい、語れる範囲で聞いておきたいと考えた。」
もう一つの主眼として、一人ひとりの左翼の「誕生」、つまり「なぜその道を選んだのか」、「損得」ぬきのファイティングポーズをとったのか、その飛躍の実相を記録したい。それは時代の息吹が刻印されているはずだという問題意識です。かつての「日共」の著者が、違った党派の人と向き合い、誠実に時代と一人ひとりの若者の姿を描こうとしているものです。
登場する人々は本名で当時の自分を率直に語っていて、同時代を生きた私には多く身につまされ、また共感し、立ち止まって考えるところがありました。ことに「何故その道を選んだのか?」どの人も、友人や家族、環境の変化や出会いの中できっかけができ、正義や良心の命ずるままにふみだしていきます。敵権力に対する革命の実現の希望と共に、義理や人情、葛藤、様々な思いに駆られまた飲み込んで生きてきたのだな……。読みやすく心に届くのは、ここに登場する方々が、かつての“党”を背負わずに、“個人”として自らの革命参加の関わりを述べておられるからです。実に素朴で志に燃えた初心が、どの人からも伝わります。それが当時の時代の中で良心にかられた多くの若者たち(私も)共通のものであることに気付きます。こうした個々の謙虚な心情を大切にしていたら党派の傲慢な過ちも少なかっただろうなあ……。衰亡の根拠は、党の「無謬性」に価値を置いて、「無謬性」「唯一性」を争い、現実を変える力を社会から学びえなかったからだと思います。個々の良心は、党の「無謬性」や「指導」の観念に収奪されてしまったのでしょうか。
10人の聞き取りの一人である水谷さんを例に触れておきたいです。私と同年の水谷さんの父は、敗戦の8月、皇居前で同志12人と共に自決したとのことです。「母が身重の時に死んだわけです。子供が生まれることを知りながらなぜ? というのがぼくの長い間の疑問でした。」母親は、自らを戦争の犠牲者として納得できない怒りを秘めて、母一人子一人の戦後の出発を強いられたのです。母親は小学校の教師となり、日教組の組合員でもあった中で水谷さんを育てたと、自分史を語っています。早稲田大学雄弁会で左翼に初めて会い、その傲慢さに驚き、しかしあらゆる権威に対する批判精神を見た気がして、これまで自分を育てた文化を卒業したとのこと。さらに革マル非革マルの対立にカルチャーショック。中核派を選び取っていく中で、早大学費闘争を闘い無期停学に。「なぜ中核だったのかと問われれば、そこに中核派があったからとしか言いようがない。」そして、水谷さんは79年から革協同政治局員として活動し、2006年に離党。著者は、「中核派を辞めるに至った事情経緯やその過程で、水谷自身が味わった苦渋なども正直に語ってくれた」と記しているが、それらはこの本には記録されていない。
 インタビューを受けたお連れ合いのけい子さんの切実な問題意識も読みごたえがありましたが、やはり紙面の足りなさでしょうか、もっと知りたい。「ぼくが指導部にいて多くの党員や関係者にかけた恥多き誤りや迷惑について、きちんと自己批判し謝罪しなければならないと思っています」と水谷さんは語っています。水谷さん、水谷さんの生きてきた歴史を率直に語り記録することは、きっと多くの旧友や未知の方々に教訓を伝えることになると思います。
友人小嵐さんをインタビュアーに、出生の時からの物語を一冊にしたためてほしいと思っています。
(4月19日)』


【お知らせ  映画「革命の子どもたち」7月5日より上映中!】
2010年に作成され、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭などで上映されてきた映画「革命の子どもたち」が7月5日(土)よりテアトル新宿で上映されています。

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<朝日新聞記事 2014.7.4 朝刊>
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詳細は以下のサイトでご覧ください。
重信メイさんのトークショーも開催されます。

革命の子どもたち公式サイト

<映画パンフレットより>
「1968年、学生たちによる革命運動のうねりのなか女性革命家として名を馳せた重信房子とウルリケ・マインホフ。
ベトナム戦争で行なわれた虐殺に戦慄した彼女たちは、世界革命による資本主義勢力の打倒を目指し、それぞれ日本赤軍とドイツ赤軍を率いて活動した。
本作はふたりの娘である作家兼ジャーナリストの重信メイとベティーナ・ロールが、母親である房子とウルリケの人生をたどり、現代史において、最も悪名高きテロリストと呼ばれた彼女たちの生き様を独自の視点から探ってゆく。
母親たちが身を隠すなか、ある時はともに逃走し、誘拐されるなど、メイとベティーナは過酷な幼年期を過ごし、壮絶な人生を生きてきた。
再び民主主義の危機が叫ばれるなか、彼女たちは自身の母親たちが目指した革命に向き合う。 彼女たちは何のために戦い、我々は彼女たちから何を学んだのか?

若松孝二監督が公開を熱望した、 
最後の遺言とも言えるドキュメンタリーが遂に公開! 
これまで非公開であった革命軍のキャンプ風景が初めて明かされる!
東京、ベイルート、ヨルダン、ドイツにて撮影された本作は、1968年当時の貴重なニュース映像や、二人に接した人たちのコメントを交え、テロリストと呼ばれた母親の素顔とその娘たちの生き方を重層的に、そして現代が失った変革を恐れぬ勇気を象徴的に描き出した。
監督はアイルランドの気鋭ドキュメンタリスト、シェーン・オサリバンが務め、ヨーロッパ各地でセンセーションを巻き起こした。
国籍や名前を変えて生きなければならなかった房子の娘であるメイは、その苦悩と母への想いを涙ながらにカメラに向って語る。
革命家であり母親でもある彼女たちの生き方、また革命家の娘として生きた子どもたちの人生は、“幸福な社会”とは何かを、私たちに激しく問いかけてくるであろう。」

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