野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年09月

2017年の10・8羽田闘争50周年を前に「10・8山﨑博昭プロジェクト」が始動した。このプロジェクトに関連して、前回と前々回のブログで、1967年10月8日の羽田闘争を当時の新聞記事と羽田10・8救援会発行の「10・8救援ニュース」の記事で振り返ったが、今回は羽田闘争の映画「現認報告書」についての「映画反戦」の記事を掲載する。
この資料は山本義隆氏よりプロジェクトに提供されたものである。

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(「現認報告書」大阪自主上映会ポスター)

【映画反戦 第1号 1968年1月20日】(抜粋)
ドキュメント「権力」製作・上映実行委員会 岩波映画労働組合気付

「現認報告書」上映運動へ!   実行委員会
『われわれ、この映画の製作・上映実行委員会は、10・8羽田闘争における山﨑君の無念の死が問いかける重い意味を受け止め、そこでたたかった学生、労働者の爆発的な怒りを、全面的に共有しようとするものである。
羽田事件は、現に進展しつつある日本のヴェトナム戦争への加担を鋭く告発すると同時に、あらゆる既成の反体制運動と組織に、そのあり方の本質的な再検討をせまった。突出してたたかった学生たちを、その突出ゆえに批判し、たたかいの効果を公認の尺度ではかるような客観主義的な立場にたつことを、われわれは拒否する。各人の分断孤立の状態をその痛みにおいてとらえ、われわれの日常に複雑なかたちでせまる経済的、経済外的権力の支配構造をみつめ、持ち場における自己を洗い出し、運動の有機性を回復することなくして、真の連帯を準備することはできないだろう。
両次にわたる羽田デモへの暴虐な弾圧は、70年安保体制への布石として、あらゆる批判者の口を封じようとする日本帝国主義の、人民に対する挑戦である。それはまた、権力の尻馬にのって、良識という名の睡眠薬を大衆にふりまこうとするマスコミのキャンペーンとともに、われわれが日常的な映画創造活動において対決しているところの、あらゆる表現の自由を圧殺しようとする隠微な体制の意志と直結しているのである。例えば、明治百年を記念すると称して戦後の諸矛盾をおおいかくし、万国博を謳歌して太平ムードを宣揚し、沖縄返還問題を曖昧化させて運動にくさびを打ち込もうとするというような一連の動きが、他方における、羽田闘争を民主勢力破壊と評価し、山﨑君の死を官憲マスコミ以上に誹謗する一部左翼勢力の腐敗ぶりとみごとに癒着しつつ、大衆的な規模で戦後民主主義を欺瞞的に裏切って行くという今日の状況がある。それを、われわれ自身の主体空洞化の危機としてとらえかえさない限り、未来への展望はあり得ないだろう。
映画「現認報告書」はあくまでも映画作家の自立をつらぬきつつ反体制、ヴェトナム反戦を真に志向する多くの人々とともに、羽田闘争の本質的な意味をほりさげて考えるための作為である。政策・上映実行委員会としては、この映画の製作に直接、間接参加してくれた多くの有志に感謝と連帯を表明するとともに、今後の上映運動への積極的な協力と、あらゆる角度からの討論を切望するものである。
また、今度のドキュメント“権力”「現認報告書」製作・上映運動を当面する重要な課題としてとり組んで来た岩波映画労組、映像芸術の会、グループびじょん、自主上映組織の会、大阪自主上映実行委員会等の横のつながりは、今後の目標設定の中で持続的に展開されて行くだろう。とりあえず、そのためのコミュニケーション媒体としてこの通信―名づけて「映画反戦」第1号をおくる。更にあらたなグループ、個人の参加を期待する。

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(ドキュメント「権力」シナリオの表紙)

【私は観た】
「暴力」とは何か    大江健三郎

僕は暗がりのなかで、つい唸り声をたててしまいながらこの映画を見た。この作品が、羽田の犠牲者の死因を充分にあきらかにしたということは、おそらくできないであろう。しかし、ここに写しだされたデモンストレーションの光景は、「暴力」がいかにもあきらかに「権力」のがわにあることを具体的に示している。しかもその「暴力」は、整備され訓練され、いやがうえにも肥大しつつあることが明瞭である。
そして学生という「民衆」のがわの「抵抗」は、それは画面を見つめる者の眼に、いかなる意味でも「暴力」とはうつらない。学生たちは、不思議なほどストイックな我慢強さにおいて苦痛を耐えている。まことに絶望的なほどの勇敢な弱者の印象である。
ここにおいて羽田の死者がどのようにしてあらわれたか、ということの根本的な意味は切実に了解されるのである。僕はいま、もっとも直截にいわねばならない。学生が今後どのような状況のもとに殺されるとしても、その殺害者は「権力」であり。その最下端の執行者たる武装警官の「暴力」である。
われわれがいま、どのように悪い時代に生きているのか、ということをこの映画は、あらためて教える。学生のデモンストレーションにおける行動が、われわれの時代を、一挙に解析して、その悪しき本質をあきらかにするのをわれわれは画面に見るのである。
日本の言論を代表するような様ざまの報道機関が、あえてその真実の、自然な表現を拒んだところのものを、僕は苦痛の感覚と共に、あらためてここに直視しなければならなかったのである。この映画を見る者は「強権」の共犯たりえないであろう。
ある明確な呼びかけの意志をこめて、若い芸術家たちが作品を作ること、そのかけがえのない清新な力を、ここに見出すことができたことをもまた、僕は感動してそれをみずからふりかえりみるためのヤスリとする。
(作家)

敗北感を基底に権力への怒りを   鈴木清順

山﨑さんの死に深い哀悼の意を捧げます。ありていに言って映画「権力」は私を含めてあの日の観客にどよめきと怒りを与えませんでした。山際さんが今、初期の目的を達したと言われている心に、何か隙間があるように思えてなりません。私も企業内で仕事をしていますのでいろいろの制約があります。ましてあなた方は権力の中で仕事をしようとなさったのですから、私の想像以上の制約があったと思います。今、貴方がかんじて居られるのは、本当は生なましい敗北感ではないでしょうか。権力への敗北感、誰一人「敗けた」とも「口惜しい」とも言わない。「権力」には深いところでの敗北の涙がありませんでした。折角ラスト警官にとりかこまれたデモ隊の敗北も、その前の学生たちの不敵な面だましいのUPのられつ(吐き気を催すほど厭でした)に冷たいくらい悲しい敗北の余韻がちょん切られてしまいました。敗北感を基底に権力への恐怖、怒り、憎しみが力として凝結してくるのではないでしょうか。(それは長い長い権力への闘争ですから・・・権力対反権力。反権力対反反権力についての私なりの意見もありますが)
歳末テレビ街頭録音「言い度いこと」で、若い男はベトナムについて意見なし、若い女はミニスカートのことばかり。私は「権力を」みたあと、初めて日本の若者ものに激しい怒りを感じました。今年は「圧殺の森」「河・あの裏切りが重く」「権力」と私自身何しているのかと言い度くなるような立派な地道な運動が静かに流れ出したのを涙が出るくらいうれしく思いました。運動自体が大切なことです。皆様の折角の御自愛を祈ります。
(映画監督)

【スタッフレポート】
「現認報告書」その出発と過程の中で  大津幸四郎

10月8日、佐藤の訪ヴェトを阻止するため学生と労働者の突出した部分が羽田に結集した。国家権力は彼らの正当なデモ隊を、抵抗権を死でもって鎮圧した。山﨑君は殺され、国家権力とそれに見事に協調したマスコミ、一部自称民主的文化人は彼らを「暴徒」とたたき積極的に国家権力の弾圧体制に協力した。連日、マスコミは学生をたたき、学生の闘いを擁護すること、歴史に対する正当な位置を占めるべき彼らの闘いを擁護する意識は全く反映しないばかりか、その類の言説を主張することは一種の犯罪者的臭いさえ伴わなければならなかった。闘う戦線はずたずたに引き裂かれた。大きく後退していること、そして体制はまさにファシズムへの道を着々歩んでいること、このまま放置したなら創造行為という根源的自由までも簡単に侵される時代がすぐ目の前に来るだろう、と我々は毎日をいらだって過ごした。既に「圧殺の森」を創る中で闘う学生達の正当さと権力の弾圧の激しさを体験したスタッフは山﨑君の死因に大きな疑問を持つと共に、権力に抵抗する学生達の声を歴史の中に正当に位置づけたいと思っていた。
10月17日、山﨑君の追悼中央葬が雨の中日比谷公園で行われた。公園の周辺は戦闘服に身をかためた機動隊で包囲され、参加者は一人一人、1kwのサーチライトを浴びせかけられ、身体検査までされなければ会場にたどりつくことさえできなかった。旗竿、葬儀用角材はとりあげられ、山﨑君の分骨まで機動隊に一時没収される。しかし報道のキャメラは機動隊の暴力には向けられず、指名手配中の学生活動家の出現にのみ集中している。この異常な事態―ファシズムのピークの状態―を怒りをもって記録すべきフィルムは存在しないのか?フィルムにたづさわる者としてこの状態を黙って見ていて良いのか?創る場がないとすれば、我々で作る場を作っていかなければならない。我々の根源的自由、根源的権利が今、目の前で侵されつづけている。我々は創る場を作ることから出発しよう。我々は我々の怒りを塗りこめるべきフィルムを作ることに踏み切った。
われわれの衝動は多くの映画作家の危機感、怒りと合体し、実行委員会の形成へと進んだ。しかし権力の弾圧、特に製作途上での弾圧を恐れ、ゲリラ化の方針で進められた。このため、実行員会はまさに血を吐くような苦しみを経過しなければならなかった。スタッフは事実の収拾―特に山﨑君の死因の事実の収拾に乗り出した。ここで、そしてそれ以後もスタッフは常に権力の弾圧とその威圧にさらされることになる。山﨑君の死因を握っていると見なされる学生活動家は常に私服の尾行を受け、何時破防法の名の下に弾圧されるかわからない緊張状態におかれていた。
スタッフも尾行する私服をまきながら彼等と会うが、事は現在政治的時間の中で揺れ動いている事件であるため、事実を全的に公表することは権力側がそれによって次の弾圧体制をひくことが予想されるため発表できない。(これに類似な事実はその後も数多くあった)
更に権力の実態を暴こうととする我々の企図を権力側は妨害破壊する可能性は充分計算される。そして、権力は単に我々の外部に存在するばかりでなく、その威圧感と影響は我々の内部にも陰を落としている。我々の目は、進行する事態を我々スタッフが浴びるであろう直接間接の弾圧とが我々スタッフの内部でどう揺れながら終局的には闘う側、歴史の正当性に対する強靭な意識へと高まるかのプロセスを記録しつつ現実にアプローチしていく(スタッフが前面にでること、それは闘う戦線と後退の中で、政治的意味と影響とその責任まで含めて、闘う者の意識にまで到達できるであろう対象を発見できなかった)そのことを企画しながら権力の威圧と攪乱に混乱させられ、明確な方法論に到達できず、シンクロキャメラの技術的方法論を読みきれぬことと相まって、製作途上でその企図は曖昧に流され形骸化され、その後闘う側に加えられる弾圧の激しさとそれへの単純な怒りによりかかってしまう。権力の弾圧と威圧、我々の内部に生きる権力、これらが一体となって我々の対象に迫る方法論を鈍らせてしまう。その後、11月11日の中央大学での学連大会とその後の動き、その中で彼等は闘う意味と姿勢をある種の情熱を以って語り合ったと後に伝え聞いたが、彼らのすぐ近くまで接近しながら、撮影することで闘う側を不利に陥し込むかもしれないと云う疑いと権力の直接の弾圧に攪乱され撮影に踏み切れなかった。もっとも、スムースに入って行くにはルートが発見されていないため、たとえ入っても彼等も我々を警戒しただろうし、そのことで我々も臆病になるーそこに闘う戦線を分断する権力の楔を我々は見る。権力との闘いを、権力の実態を我々の内部を滲して見る。そのための明確な方法論を読み得ない内に、権力の弾圧の激しさの前に混乱させられてしまう。今その痛みをもって作品の全製作過程を振り返っている。
(キャメラ・マン)

以上。「映画反戦」の記事を抜粋して掲載した。
この映画「現認報告書」は、10月4日に品川区の「きゅりあん」で行われる「10・8山﨑博昭プロジェクト 講演と映画の会」で上映される。
1967年10・8羽田闘争関連資料の掲載は、今回でいったん終了する。「10・8山﨑博昭プロジェクト」は今後も続くので、機会を見て新たな資料を掲載していく予定である。

<お知らせ>
10月4日の【10・8山﨑博昭プロジェクト/50周年まであと3年 講演と映画の集い】は定員に達しましたので、申込みを締め切らせていただきました。ご応募ありがとうございました。
なお、プロジェクトの賛同人の申込みは随時受けておりますので、下記アドレスからお申込み下さい。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」  http://yamazakiproject.com

2017年の10・8羽田闘争50周年を前に「10・8山﨑博昭プロジェクト」が始動した。このプロジェクトに関連して、前回のブログでは、1967年10月8日の羽田闘争を当時の新聞記事を中心に振り返ったが、今回は羽田10・8救援会発行の「10・8救援ニュース」の記事を掲載する。
この資料は山本義隆氏よりプロジェクトに提供されたものである。
 
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(神戸新聞より転載)

【10.8救援ニュース No1 1967.11.9】羽田10・8救援会事務局発行
『10・8真相究明の活動について
10・8羽田闘争における最大の犠牲者山﨑君の死因は、警察によるとれき死です。しかし、その詳しい死因はいまだ発表されていません。
無責任にも警察は、れき死の証拠をあげていません。すなわち、遺体に残された傷と警備車の車輪とが一致するかどうかというようなたいせつなことを発表していません。そればかりでなく、警官の目撃談、目撃した警官の氏名、その他の警察側の発表は、時と共に変わっています。(朝日新聞、週刊朝日を日付順に並べてお読みください。)
つくり上げられた事実は必ずボロを出します。小長井弁護士をはじめとして多くの人たちが、現在事実を明らかにする作業を行っています。
わたくしたち羽田10・8救援会は、明らかにされたかぎりの事実をパンフレットにして発行する計画を立てています。そのときは、ぜひそのパンフレットを、10・8救援活動に役立てていただきたく思います。小長井弁護士が、社会新報に発表された一文を転載します。
なお、同文中の「死体検案書」などの資料は、御希望のかたには、コピーをお送りします。
 
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(死体検案書コピー)
 
山﨑博昭君の“死”について   弁護士 小長井良浩
政治的な「れき殺説」 デモ根絶めざす治安当局
(一)
この事件を私が最初に知ったのは、10月8日午後3時15分頃、自宅で裁判記録を読んでいるときであった。私は、国鉄労組、全電通労組、政労協、全糖労協などの顧問をつとめる総評弁護団所属弁護士であり、三里塚空港設置反対運動の弁護団長でもあるが、この日曜、たまった仕事を処理すべく、明治不動産事件の無罪弁論の構想を練って、昼食もぬきにして没頭していた。
そこへ電話で一学生がデモで死んだので、ともかく現場にすぐ来て欲しいという連絡を受けた。私は、多忙などのため、学生事件はこれまで引き受けないできたが、とにかく人の生命が失われたからにはなにかをしなくてはならないと決意し、現場に急行することにした。遺体の収容されている大森の牧田第二病院に着いたのは、午後4時40分、すでに遭難後5時間余りを経て、夕暮れになっていた。病院前に警護する警察官をかきわけて院長に面会を申し入れ、副院長に案内され、遺体が安置されている霊安室で院長らに所見、治療などについて尋ねた。
そのときの院長らの話では、死因は脳内出血、ほかにはさしたる外形的所見はないとのことであった。遺体の搬送を控え緊張した雰囲気の中ではそぐわないことではあったが、そこは弁護士としての勘がピンと来たので、思い切って遺体を見せて欲しいと申出て、棺のふたをあけた。そして問題の頭部について、居合わせた社会党国会議員、弁護士、友人たちにも見ておいていただいた。遺体の右側頬部および頭部に座創がある。右額になにかで突かれたような跡があることが顕著であったが、顔面、頭部が挫滅したわけではなく、生前の山﨑君の姿はそのまま思い浮かべることができた。
このとき、私は学生がデモで死んだという以外になんの予備知識もなかったが、いずれにしても死因の究明がなされなくてはならならず、それには解剖が重要であり、警察・病院側だけが立会うようでは真相の発見が妨げられ、公正に疑念をもたれると考えられた。遺体解剖の搬送に来ていた刑事らに検事への面会を取りつぐよう強く申入れたが、かたくなに拒否された。
こうして慶応病院の地下室に遺体が搬送されたのを見届けて、次の対策のため、タクシーで事務所に行く途中、NHKラジオの午後7時のニュースが、京大生山﨑君を学生の運転した自動車が轢き殺したという警視庁発表を流していたが、私もこのニュースにはショックを受けた。これは学生諸君に対する絶好の攻撃材料に使われよう。学生諸君も拙いことをしたものだと案じた。しかし、この報道には、どうもひっかかるところがある。事務所でいろいろ考えてみると、脳内出血が致命傷という自分が聞いた病院の話、遺体が挫滅していないという現に自分で観た事実が、学生が運転台を奪った巨大な装甲車が轢き殺したという警視庁発表とどうしても結びつかないのであった。あれだけの装甲車の重みをもって轢かれたならば、人間の顔は見るも無残に押しつぶされてしまうのではないか。従来取扱った交通事故事件の例では、思わず目をそむけるような被害であた。
私は、警備の言っていることは違う、と思うようになっていた。このままではなにか警察がいい子になって、学生諸君がいわれなく悪者にされかねない。警視庁発表が圧倒的な洪水のように全国にあふれるなかで誰かがこれに疑問を出さなくてはならない。それをするのは、この場合、私しかないと思った。私は、最初事故発生の電話を受けたとき指示しておいた目撃者捜しを強化することを奨励しその結果、当夜のちに、私の疑問を確かめることができたのである。
 
 
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(神戸新聞より転載)
 
(二)
翌9日の朝刊各紙には、山﨑君の死因についての記事が出た。加害者について学生説(警視庁)、警官説(私)、犯行について轢殺説(警視庁)、殴殺説(私)、致命傷については内臓(腹・胸・首)説(警視庁)、頭部説(私の見た限りで)といったように、警視庁と私とで事件の見立てが真っ向から対立した。
しかし、警察当局の問題対処の方策には初めから、許しがたい非道が重ねられていくことを指摘しなくてはならない。
第一に「警視庁は8日午後9時、同鑑識課と東京都監察医務院の検死結果」として、「死因は内臓損傷」と「発表」し(例えば10月9日付朝日新聞夕刊)頭部傷害についてはまったくほおかむりした。しかし東京都監察医務院の10月8日付「死体検案書」には「死亡の原因」として「腦挫滅、胸腹腔内(推定)損傷の疑い」と明記されているのであって、死因の主位は頭部傷害である腦挫滅となっている。警視庁が最も大切な頭部傷害を隠し、胸腹部の傷害とすりかえたことは、動かすことができない。警視庁の死因の発表が学生による轢殺との印象を与えるために行われた工作であることは、疑いを容れない。
第二に、捜査当局は遺族の報告によれば、司法解剖に20名近い係官を立会わせ、執刀する斎藤慶大教授のそばで、「これは轢殺に間違いない」とささやき、圧力をかけるとともに、遺族の推薦する医師の立会いはついに拒否した。そもそも捜査段階における鑑定処分には宣誓も対立当事者の反対尋問もないのに、かけがえのない遺体を処理してしまうことには問題がある。まして本件では、死因が争われている事案である。しかも捜査当局が頭部損傷について検死結果を隠し、ねじまげて虚偽の発表をしているときである。安保闘争でたおれた樺美智子さんのときには、遺族の意志を尊重して立会い医師を認めた先例もある。しかし、山﨑博昭君については、一方的な態度に終始し、捜査当局によって独断的な発表が敢行され、学生による轢殺という世論操作に用いられたのである。
第三は捜査当局は、山﨑君の死亡を学生による殺人事件として捜査すると発表した(例えば10月9日付朝日夕刊)。あまりの政治的捜査に唖然とする。法律家の常識では、たとえ警察発表を仮定したとしても、過失致死事件であって、殺人事件は立つはずがない。さすがに国会では、警視庁次長は殺人事件にはならないと答弁した。しかし、このような発表が行われると、一般人は、なにか学生が仲間同士殺人をしたような誤解をもつであろう。そこが治安当局の狙いに違いない。本件において、捜査権力は、手段を選ばない政治的な仕方で、一切デモを叩きつぶすことを策しているものとみなすべきである。
 
(三)
本件の捜査は、山﨑君の死につけこみ、商業報道機関を総動員して佐藤首相のベトナム行きという政治問題から国民の目をそらせた。
そして、学生の集団示威運動自体を不許可にした警察当局の違憲処分の問題をかくまおうというのである。そればかりか、山﨑君の虐殺を学生諸君になすろうとしている疑いが濃い。
70年安保問題をひかえ支配権力は政治街頭デモをこの機会に根絶やしにすることを狙っており、権力側と運動側とで死活の攻防がくりひろげられているとみなくてはならない。こうして山﨑君の死因問題は特殊な政治問題として当面の焦点となっている。この政治的事件についてなにかとてつもない陰謀によって虚偽が固められているのではないか、という疑惑をとことんまで追求したい。』
 
この小長井弁護士は、今回の「10・8山﨑博昭プロジェクト」の発起人の一人でもある。
次回はドキュメント「権力」製作・上映実行委員会発行の「映画反戦」の記事を掲載する予定である。
 
<お知らせ 1>
【10・8山﨑博昭プロジェクト/50周年まであと3年 講演と映画の集い】
●日 時  2014年10月4日(土) 午後1時30分より(開場12時30分)
●会 場  「きゅりあん」6階第会議室 (品川区東大井5-18-1)
      (京浜東北線「大井町」駅東口下車 徒歩1分)
●参加費  1,000円
●内 容    講演 「私の1960年代 -樺美智子・山﨑博昭追悼ー」
          山本義隆 (科学史家・元東大全共闘議長)
映画上映 「現認報告書」(1967年 監督:小川紳介)
 
<参加申し込み>
以下のメールアドレスあてに、お名前と参加希望と明記の上お申込み下さい。※定員になり次第、締め切りとさせていただきます。お早目にお申込み下さい。
 
このプロジェクトの詳細及び賛同の申込みは以下のホームページをご覧ください。ホームページからも10・4集会の申込みが出来ます。
10・8山﨑博昭プロジェクト
 

<お知らせ 2>
4大学共闘共同行動 9・23は亀戸中央公園へ!
9月23日(祝)、江東区の亀戸中央公園で【川内原発再稼働するな!フルシマを忘れない!さようなら原発全国集会&大行進】が行われます。(会場が代々木公園から変更になりました)
4大学共闘(日大、明大、芝工大、専修大の全共闘派)は、この集会とデモに参加します。
皆さんの参加をお待ちしています。
 
●2014年9月23日(祝)
●亀戸中央公園(東武亀戸線「亀戸水神駅」下車2分、JR総武線「亀戸駅」下車15分)
12:30集合 (集会会場はB地区・4大学のノボリ旗の下に集合)
12:30 オープニングライブ
13:00 トークライブ
集会後錦糸町までデモあり
主催:さようなら原発1000万人アクション
 
 
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「10・8山﨑博昭プロジェクト」が始動したことは先週のブログで紹介した。今回のブログでは、1967年10月8日の羽田闘争を、当時の新聞記事と資料で振り返ってみたい。
まず、10・8翌日の神戸新聞の記事である。

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(神戸新聞より転載)

【神戸新聞 1967.10.9】
首相外遊反対の反代々木派 装甲車奪い放火
58人を逮捕 負傷者七百越す
佐藤首相が第二次東南アジア歴訪に旅立った8日朝、「首相が南ベトナムに行くのはアメリカの侵略に協力するものだ」として出発を阻止しようとする二千人のデモ隊が羽田空港周辺に押しかけた。その主力となった反代々木系全学連各派の学生約千六百人は、空港入り口付近で警視庁の警官隊と激しく衝突、警備装甲車に次々と放火するなどして空港突入をはかったため、警官隊は警棒を抜き、ガス銃を撃ち込んで大乱闘のすえ実力で排除した。市街戦のような騒ぎの中で京大生一人が車の下敷きになって死亡、双方で七百人を越す重軽傷者を出し、58人が逮捕された。デモ騒ぎで学生の死者が出たのは27年の血のメーデー、35年の安保騒動以来のことであり、佐藤首相の外遊に暗い影を落とした。

反代々木各派の学生は、この日のデモを「ベトナム反戦闘争の最大のヤマ場」として力を入れ、全国各地から上京した学生も含めほとんど全員が前夜から早大、法大、中大の東京都内の拠点校に泊まり込んだ。警視庁側もこれに備えて二千五百人の制私服警官を羽田空港周辺に配置、羽田街道から空港に通じる弁天、稲荷、穴守の三つの橋には装甲車や有刺鉄線などの阻止線を築いて学生をシャットアウトする構えをとっていた。
学生は午前9時過ぎからヘルメットに身を固め、1メートルの角材をふるい。石を投げて真正面からバリケード突破をはかり、給水ホースで対抗する警官隊と三つの橋の上で一進一退の押し合いを続けた。佐藤首相の特別機が飛び立った午前10時半ごろには、学生の行動は一段と激しさを加え、装甲車のタイヤの空気を抜き、ついには次々と7台に火を放って炎上させた。学生らは明らかにガソリンを用意していた。
弁天橋上ではフロントガラスをハンマーでたたき破って乗りこみ、これを運転して空港突入をはかった。警官も警棒をふるい投石で対抗、文字通り双方入り乱れての“白兵戦”となったが、この混乱の中で、京大文学部一年山﨑博昭君が装甲車の下敷きとなり近くの牧田病院に収容され、間もなく死亡した。
ついに犠牲者が出たというショックで、一時休戦、しばらく海老取川をはさんでにらみ合ったが、午後1時20分、警視庁はガス銃を5発発射、ようやく学生を追い散らした。ガス銃を使ったのは血のメーデー、安保に次いで3回目。(後略)』

この時に、装甲車を運転していたとして二人の日大生が重過失致死で逮捕されたが、不起訴となった。弁護団は死亡診断書から警察官の警棒による頭部殴打が山﨑博昭君の死因と判断した。 
この神戸新聞には、山﨑博昭君の死因を巡る警視庁と弁護側の主張がそれぞれ掲載されているので見てみよう。

まず警察側の主張。
【神戸新聞 1967.10.9】
死亡者は京大生 
学生が奪った装甲車にひかれる  警視庁調べ
警視庁公安部は8日羽田空港近くのデモ騒ぎで京大生山﨑博昭君が死亡したのは、警備の装甲車を乗っ取って運転した学生がひき殺したものとみて過失致死事件として捜査に乗り出した。
警視庁の調べによると、8日午前11時25分ごろ、羽田空港入口近くの弁天橋で機動隊員350人が警戒中、中核派などの600人が押しかけ、にらみ会った。学生らは橋ぎわに並べてあった警察の装甲車5台に乱暴を始めた。1台の中にいた第二機動隊の助川哲巡査は身に危険を感じ車から逃げ出したが、そのさい車のキーを車の中に落とした。学生のうち2人がこの車に乗りこみ、エンジンをかけ、警官隊の方に突っ込もうとしたが、橋ゲタに衝突したためバック、前進を2、3回繰り返したさい車の近くにいた山﨑君を右バンパーにひっかけ前輪で腹を、後輪で頭をひいたという。
現場を目撃した警視庁警備課調査官小林茂之警部らの話を総合すると、学生が運転していた装甲車が警官隊に取り囲まれるような恰好で前進したとき、警官と学生の間に一人の学生がころんで橋と直角の形で横になった。そこに装甲車が前進してきて右バンパーで学生をひっかけたが、その時はブレーキをかけて止まった。小林警部は鉄板をたたき運転の学生に注意しようとした。
しかしなんと思ったか車は再び動き出し、右の前輪で腹を、後輪で顔をひいて去った。警官、学生の怒号と投石の中の出来事だった。小林警部は「助けに行こうと思ったが、投石が激しく危険で動けなかった」と語っている。』

次に弁護側の主張。
【神戸新聞 1967.10.9】
警官の乱打で死ぬ 三派系全学連の秋山委員長語る 死体にタイヤの跡ない
三派全学連の秋山勝行委員長は8日夜、港区新橋の小長井法律事務所で小長井良浩弁護士とともに記者会見し、山﨑博昭君の死因について「警察側では学生の運転する装甲車の下敷きとなって死んだと発表しているが、遺体の所見、目撃者などから明らかに警棒で乱打されて死んだものである」と次のように語った。
小長井弁護士は山﨑君の収容された牧田病院で院長、副院長の立会で遺体を所見したが、右ほおのすり傷と内出血、右額の打撲があるだけでタイヤの跡は認められなかった。両医師も死因は脳内出血といっている。
一学生の目撃談では、山﨑君は橋のらんかんに寄りかかっていたが、2、3人の機動隊が警棒を斜め上から何度も振りおろして乱打した。まもなく顔から血が吹き出し、山﨑君は失神した。またもう一人の目撃者によると、山﨑君が倒れる直前、警官の一人が近くで装甲車にひかれ、別の警官に救出された。警察側ではこの二つの事件を巧みにすりかえて、ごまかしている。』

東京都監察医務院の死体検案書のコピーが手元にある。これを見ると、死亡時刻は昭和42年10月8日午前11時40分頃。死因は「脳挫滅、胸腹腔内損傷の疑い(推定)」となっている。死因の主な原因は腦挫滅であることが明記されている。

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(神戸新聞から転載)

この10・8闘争の逮捕者の救援組織として「羽田10・8救援会」が結成された。山本義隆氏からプロジェクトに、その要請文のコピーの提供を受けたので、ここに掲載する。

【羽田十・八救援活動についての要請】
『さる十月八日、佐藤首相の南ベトナム訪問への抗議行動に対し、過剰な警察力の行使加えられ、その際、1名の学生の命が失われ、多数の労働者・学生が負傷しました。何名かの重傷者はなお病床におります。
当日、学生だけでなく、多数の労働者が抗議のすわりこみを行っていましたが、機動隊は、この人々にも激しい“規制”を加え、労働者に多数の重傷者を出しました。現在までの学生および労働者の被逮捕者は66名、起訴者および拘留者は27名います。
亡くなられた山﨑博昭さんの死因については、講評された警察の発表自体が時とともにかわり、それらが互いに矛盾するなど、“れき死”と考えるのは疑問が多く、他方、担当の小長井弁護士は、死因として頭部傷害を重視しています。
当日の学生の行動についての意見の相違は当然あるとしても、わたしたちは、第一に、この事件の最大の要因は首相の南ベトナム訪問の強行であり、それへの抗議という目標において、当日、羽田におもむいた学生・労働者への連帯を確認することができます。
第二に、この事件において、当日の空港周辺の学生の集会・デモを一切禁止したなど思想・表現の自由に対する不法な侵害が存在したこと、事件後の処置において、この方向が強化されようとしていることに対し、抗議します。
さらに、機動隊の警棒使用において、法律の規定をこえた過剰な警察力が行使されたことに対し、強く抗議しなければならないと考えます。
このような立場から、わたしたちは事件全体の真相を究明し、国家権力の不法な行使による犠牲者(死者・負傷者・被逮捕者・起訴者)に対し、治療費と法廷費用の試験援助など、救援の手をさしのべたいと考え、みなさまの協力をお願いします。

1967年11月9日

よびかけ人

浅田 光輝、いいだもも、井岡 大冶、石田 郁夫、井上 清、茨木 のり子、岩田 宏、梅本 克己、海老坂 武、大井 正、大沢真一郎、岡本 潤、小田切秀雄、小野十三郎、観世 栄夫、樺 光子、黒田 喜夫、河野 健二、国分一太郎、小島 輝正、斉藤 一郎、
佐多 稲子、寿岳 文章、新村 猛、菅原 克巳、杉浦 明平、鈴木 道彦、田中寿美子、鶴見 和子、奈良本辰也、野田 真吉、野間 宏、野村 修、羽仁 五郎、埴谷 雄高、林 功三、林 光、日高 六郎、星野安三郎、本田喜代治、松田 道雄、三木 卓、水戸 巌、務台 理作、森 毅、山下 菊二、雪山 慶正、吉野源三郎 』

この要請のよびかけ人の一人である樺 光子さんは、神戸新聞の記事で次のように述べている。

【神戸新聞 1967.10.9】
政府の露骨な弾圧のあらわれ  樺 光子さんの話
安保で娘が死んでからもう7年たった。今の学生の動きを見ていると、当時よりとても激しくなったと思う。警察側は装備なども進んでおり、学生側のデモはいつも素手が建て前、それだけにデモは危険だし、なんとかやり方を考えなくてはいけない、
佐藤首相は南ベトナム訪問反対の強い世論にもかかわらず、強引にそれを押しきって飛び立った。
安保当時の岸首相の姿勢と全く同じで、かかってくるものを容赦なく弾圧する態度が露骨に出ている。佐藤首相はアジアで反共体制を整え、米国のベトナム戦争を助けるためにどんな無理もやり通そうとしている。70年の安保改定を待たずして、すでにもうそれが行われているといえる。
安保闘争当時も一般の人たちの立ち上がりはおそかったが、今度も総評をはじめ各平和団体は“平和”を口にするものの、行動ではちっとも示さなかった。結局、学生だけが抵抗運動を起こさざるを得なくなっている。本当に胸が痛くなる事件だ。』

この要請文と同日の日付で「羽田10・8救援会事務局」発行の「10・8救援ニュースNO1」が発行された、
次回の「資料で見る1967年10・8羽田闘争 その2」では、「10・8救援ニュースNO1」の記事を紹介する予定である。

<お知らせ>
【10・8山﨑博昭プロジェクト/50周年まであと3年 講演と映画の集い】
●日 時  2014年10月4日(土)午後1時30分より(開場12時30分)
●会 場  「きゅりあん」6階第会議室 (品川区東大井5-18-1)
      (京浜東北線「大井町」駅東口下車 徒歩1分)
●参加費  1,000円
●内 容    講演 「私の1960年代 -樺美智子・山﨑博昭追悼ー」
          山本義隆 (科学史家・元東大全共闘議長)
映画上映 「現認報告書」(1967年 監督:小川紳介)

<参加申し込み>
以下のメールアドレスあてに、お名前と参加希望と明記の上お申込み下さい。※定員になり次第、締め切りとさせていただきます。お早目にお申込み下さい。
monument108@gmail.com


このプロジェクトの詳細及び賛同の申込みは以下のホームページをご覧ください。
ホームページからも10・4集会への参加申し込みが出来ます。
10・8山﨑博昭プロジェクト

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「10・8山﨑博昭プロジェクト」が始動した。このプロジェクトは以下のような趣旨で始められた。
 
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(現在の羽田・弁天橋)

<10・8山﨑博昭プロジェクトとは>
1967年10月8日の「羽田闘争」は、わたしたちにとって忘れることはできませ ん。当時、ベトナム戦争に反対する学生たちは、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとして、羽田空港へ通じる橋に集まりました。そのときの激しい闘 いで、京都大学一年生の山﨑博昭君(18歳)が、弁天橋の上で亡くなりました。 1960年の安保闘争で国会議事堂前で亡くなった樺美智子さん(22歳)以来の、戦争に反対する学生運動のなかでの死でした。「10・8ショック」とも言われるほど、その影響は多方面に及びました。
一人の無名の若者の小さな死。その小さな死こそが、わたしたちにとっていまも大事です。あれから半世紀が経とうとしています。わたしたちは「10・8山﨑 博昭プロジェクト」を立ち上げました。 このプロジェクトは、半世紀という歴史的時間を経て、2017年に弁天橋の近くに山﨑博昭を追悼するモニュメントを作ること、この50年をふり返る記念誌を作ることを目的としています。
このプロジェクトは、日本が徐々に戦争に向かいつつある現在、山﨑博昭の名とともに、わたしたちがいまも、これからも戦争に反対し続けるという意志表示でもあります。みなさんのご賛同をいただけますよう、お願い申し上げます。

(「10・8山﨑博昭プロジェクト」ホームページより)

2017年が「10・8羽田闘争」から50年になるということで、追悼モニュメントと記念誌を作成することを目的としたプロジェクトである。
今年は、50周年の3年前になるということで、3年前イベントとして以下のような講演と映画の集いが開かれることになった、
 
【10・8山﨑博昭プロジェクト/50周年まであと3年 講演と映画の集い】
●日 時  2014年10月4日(土) 午後1時30分より(開場12時30分)
●会 場  「きゅりあん」6階第会議室 (品川区東大井5-18-1)
      (京浜東北線「大井町」駅東口下車 徒歩1分)
●参加費  1,000円
●内 容    講演「私の1960年代-樺美智子・山﨑博昭追悼ー」
        山本義隆 (科学史家・元東大全共闘議長)
    映画上映 「現認報告書」(1967年 監督:小川紳介)

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(「現認報告書」大阪自主上映会ポスター)

山本義隆氏が公の場で発言するのは極めて珍しい。さらに、あの時代との関わりを発言するのは、おそらく初めてではないだろうか。そういう意味では画期的な講演といえる。
 
<参加申し込み>
以下のメールアドレスあてに、お名前と参加希望と明記の上お申込み下さい。※定員になり次第、締め切りとさせていただきます。
 
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        (山崎博昭君)

このプロジェクトは山﨑博昭君のお兄さんである山﨑建夫氏の呼びかけにより始まった。
<山﨑建夫さんからのお願い>
1967108日、羽田弁天橋で弟・博昭が死んでまもなく50年になろうとしています。
1967年の50年前と言えば、第一次世界大戦があり、ロシア革命があり、米騒動のあった頃です。私には歴史の教科書でしか知らない出来事です。それだけの時間が経過しました。
当時ごうごうたる非難が浴びせられ、仲間に殺されたとフレームアップがなされ、弟は二度殺されました。当時国内外を問わずさまざまに闘われたベトナム反戦運動の中で、機動隊に衝突するという突出した闘いだったから。
私にとっては青天のへきれき。大きな渦に投げ込まれた感覚でしたが、しっかりと見極めなければならないという思いでした。
弟を良く知る高校時代の同級生を始めとして、当時羽田にいた人(自分が山﨑であったかもしれない人)、救援に携わった人々、自分はどう生きるのかと問い詰めた人々たちが、50年を機に、反戦運動に命をかけた若者の姿を後世にとどめたい、と声を上げてくれました。嬉しいことです。弁天橋のそばに小さな記念碑を建て、50周年記念誌を編もうと。
肉体の年齢は1811ヶ月で終えましたが、その意思と名は私よりも長く生きさせられたらと思っています。
一〇・八を心に刻み、それぞれの分野でご活躍の皆様と共に、50周年を迎えられたら、弟も喜んでくれるのではないかと想像しております。
個人の資格で、賛同人を募りたいと思っています。ぜひとも賛同人になって頂きたく、お願い申し上げます。
201474
山﨑 建夫
 
山﨑建夫氏の呼びかけにより、山﨑博昭君の高校時代の同級生を中心に17名の発起人が集まった。発起人は以下の方々である。
108 山﨑博昭プロジェクト〈発起人〉>
 山﨑 建夫 (山﨑博昭兄)
 北本 修二 (弁護士、大手前高校・京都大学同期生)
 佐々木幹郎 (詩人、大手前高校同期生)
 辻   惠 (弁護士、右同)
 三田 誠広 (作家、右同)
 宮本 光晴 (経済学者、右同)
 山本 義隆 (科学史家、元東大全共闘議長、大手前高校同窓生)
 上野千鶴子 (社会学者、京都大学同期生)
 鷲田 清一 (哲学者、京都大学同窓生)
 川村  湊 (文芸評論家)
金城  実 (彫刻家)
 高橋源一郎 (作家)
 福島 泰樹 (歌人)
 道浦母都子 (歌人)
 小長井良浩 (弁護士、当時遺族代理人)
 水戸喜世子 (十・八羽田救援会)
 山中 幸男(救援連絡センター事務局長)
 
このプロジェクトの詳細及び賛同の申込みはホームページをご覧ください。

10・8山﨑博昭プロジェクト


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