野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年11月

先週の重信房子さんの獄中書評の中に、板坂剛氏の著作「三島由紀夫と全共闘の時代」があった。板坂氏は日大全共闘芸術学部闘争委員会で活動されていた方で、現在はフラメンコダンサーであるとともに、作家としても多くの著書がある。
今週は、その板坂氏が5年前の日大闘争40周年にあたり、月刊「紙の爆弾」という雑誌に書いた文章を転載する。
この月刊「紙の爆弾」という雑誌は、鹿砦社(ろくさいしゃ)から出版されており、鹿砦社のホームページによると「毎月7日発売タブーなきラディカルスキャンダルマガジン!芸能から社会問題まで、大手マスコミが書けないすべての真実をタブーなしでお届けします。」ということである。
鹿砦社といえば、1970年頃、「左翼エスエル戦闘史」、「マフノ叛乱軍史 ロシア革命と農民戦争」、「クロンシュタット叛乱」などの本を出版していた。当時、よく読んだ本の出版社である。

今回は、「紙の爆弾」に掲載された「日大闘争四十周年 あるフラメンコダンサーの述懐」と「再び日大闘争四十周年に あるフラメンコダンサーの述懐PARTⅡ」を転載する。
「日大闘争四十周年 あるフラメンコダンサーの述懐」は、日大930の会事務局発行の「930新聞2009年新年号」にも転載されている。

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(「紙の爆弾」表紙)

【日大闘争四十周年 あるフラメンコダンサーの述懐 文 板坂 剛】
 二〇〇八年十一月二十二日、東京・神田の「一ツ橋画廊」に行ってしまった。『1968年全共闘だった時代-日大闘争の記録』を目撃するためである。あの「日大闘争四十周年」ということで、当時の出版状況にもちょっとした衝撃を残した奇書『叛逆のバリケード』がリメイクされ、新版として三一書房から出版される、その出版記念写真展なのだそうだ。
 しかも同様の写真展は新宿や神田の別な場所でも開催されていたという。今時都内三か所で写真展同時開催なんてヨン様並みの人気ではないか、と驚く。○七年七月と十月にNHKのBS2で、日大闘争について好意的に取り上げた番組が放映されて大きな反響を呼び、以来日大闘争再検証熱は、静かに昂まり続けているらしい。
 「一ツ橋画廊」では、何とひと足お先に関西から駆けつけていた鹿砦社の松岡社長が、既に前時代の革命的な空気に酔っていた。つい十数分前にオープニングのセレモニーが行われ、復元された全共闘各学部闘争委員会のヘルメットをかぶったかっての闘士たちが、さながらグループサウンズ再結成、芸能界復帰の記者会見かと思わせる熱気で盛り上がっていたという。
 この写真展で、もう一人知った顔に出会った。日大全共闘の中でも常に過激な行動を取りたがる、と周囲から異端視されていた芸術学部闘争委員会(略称「芸闘委」)の行動隊長として、自他共に認める「単ゲバ」男だった山崎晴久。デモの最先頭に立って機動隊に突っ込んで行く勇姿は、一時期“神田解放区”の名物でもあった。
 彼とは実に四十年ぶりの再会である。申し遅れたが、私も当時は芸闘委の末席を汚し、主要なデモには殆ど参加していた活動家だった。戦闘力という点では、むろん山崎の比ではなかったが・・・

 日大闘争の正当性については、『叛逆のバリケード』以外にも、映画、写真に至るまで他大学には見られない説得力のある記録が残されているので、ここでまた私がくどくどと述べる無駄は除きたい。ひたすら四十年後の今を語るのみである。
 写真展の後は、東大のすぐ近くにある機山館というホテルで行われる「同窓会」にも行ってしまった。この「同窓会」もまた「四十周年記念」ということで、広島に蟄居していた元議長の秋田明大を招いて行なわれると聞けば、全共闘の「同窓会」なんて悪趣昧じやないか、と少なからず抵抗を感じつつも、やっぱり足が勝手に向いて行く。もしかしたら、会場にはヘルメットと角材が用意されていて、飲んで食べてその後は、歩いても十分とはかからない安田講堂まで行くことになるのでは……と、そんな不安と期待を抱きつつ。
 一〇分押しで始まった「同窓会」の冒頭では、主催者より「某テレビ局から取材の申し入れがあったが、会場にカメラを入れることは拒否した」との報告があり、ちょっぴり緊張感が漂う中、松岡社長が高校生だった当時「雲の上の人」と憧れていた秋田明大が登場、野獣の咆哮の如き昔のままのアジテーション風挨拶。
……週刊誌等で時おり。“あの人は今”風の醒めた視点から、悄然とした近況が伝えられていたが、そんなイメージを払拭するようなメッセージが伝えられた。
 日大闘争が「不条理の中で闘われた」と単純明快に総括し、だから「世に不条理が存在する限り」日大全共闘の「不屈の精神」は、語り継がれなくてはならないという爽やかな割り切りが、その声、喋り方から一瞬にして伝わって来る。
 不思議な男である。喋っている内容は決して高度な理解力を要しない。当時、全共闘の内部でも、党派に属していた活動家の多くは秋田を軽視していた。しかしそんな連中でさえ、秋田を議長から降ろそうとは考えもしなかったはずである。それはカリスマと呼ばれる人間の常なのだろうか。
 東大全共闘の議長は自ら東大闘争を『知性の叛乱』というタイトルで表現したが、私が日大闘争をひと言で語れと言われれば、迷わず『感性の叛乱』と答える。論理ではなく、一瞬にして通じ合う感性=血の共鳴が、進むべき道を示し合う。それが日大全共闘だった。そのリーダーに秋田明大以外の人間を想定することは、今も私には出来ない。
 もちろん知性にも感性にも、それぞれの限界がある。が、相方が互いの限界を補完し合えば、理想的な共闘関係が成立する。四十年前の十一月二二日(偶然にもゾロ目の日どり)に実現した東大=日大安田講堂前の連帯集会は、まさにその好例だった。
 写真展も同窓会も、敢えてこの日を選んで行われたのは、そこに賭けた思いが強かったからだろう。同窓会では元東大全共闘のメンバーも出席し、「日大全共闘には大変お世話になりました」と発言、脆弱だった東大のバリケードを堅固に作り直してくれたのは日大生だった。安田講堂での徹底抗戦が二日間も持ちこたえられたのはそのおかげ。また一月初頭の民青との内ゲバでも、日大生の活躍は目ざましかった・・・等々、四十年ぶりの謝礼を述べてくれたが、当時のマスコミはこういう裏事情を殆ど報じていなかった。

 昭和四十四年九月の全国全共闘結成、そして十一月佐藤訪米阻止闘争に連なる学生運動の統一戦線的な高揚が、前年十一月二二日を出発点としていたことは疑う余地もない事実であり、日大全共闘がそこでも大きな役割を演じたことが、現在の日大闘争に対する再検証の気運を盛り上げているのだとしたら、時の流れは案外、人を公平な判断に導くものなのだろうか。BS2と言えどもあのNHKが、好意的に日大闘争を取り上げる日が来るとは、少なくとも私は予想出来なかった。        
 しかし、当初の不安と期待に反して、なごやかな雰囲気のうちに、革命歌インターナショナルの大合唱で同窓会が終わった時、これでいいんだろうかという戸惑いを感じたのはどうしたものだろうか。
 十代の半ばに、地方のある割烹料亭で戦争体験者の宴会を目撃したことがある。そこで♪さーらばラバウルよーと歌う酔った大人たちの姿に吐き気を催した。死者に対して失礼ではないかと。
 今、インターナショナルを歌う我々を見て十代二十代の若者たちは同じ感慨を抱かないだろうか。
 日大闘争の過程でも死者はいた。正直言って私が一度だけグラついたのもその時だった。経済学部に対する強制執行の際に、学生の投石を受けた機動隊員が死んだ。
 新聞に掲載されたその人の顔写真を見た時、それが何とも優しそうな顔立ちだったからだろうか、きっと家庭ではいいパパなのだろう、それほど高齢でもないからには、子供はきっとまだ幼いのだろう、その子は父を殺した学生の暴力をどう思うのだろうか・・・・等々、つい考えてしまった。むろん全共闘の内部では 「責任はすべて学校当局にある」で片づけられた問題である。
 正しいと信じた行為の結果、敵対する者が死に至ったとしても止むを得ないという考え方もある意味男らしいとは思う。が、こうした精神的な強さの末に、連合赤軍の敗北や革共同両派の不毛な内ゲバがあったような気もするのだが・・・・。
 そんな思いを抱きつつ、同窓会の後、本郷から水道橋へ、松岡社長と二人、深夜の暗い坂道を下って行った。眼下に東京ドームが見えた時、歩みを止めて思ったのは、あれ以降水道橋の駅の改札を通ったのは東京ドームにローリングストーンズの公演を観に行く時だけだったこと。やっぱりこの四十年、私の心の中で転がり続けていたのは、ローリングストーンズと日大全共闘だったという結論を象徴するような眺望ではあった。


【再び日大闘争40周年に あるフラメンコダンサーの述懐 PARTⅡ 
文 板坂 剛】)
 日大闘争再検証熱はどうやら本物になって来たようだ。つい先日も日大芸術学部文芸学科の講師という方から「最近、卒論で日大闘争を取り上げる学生もいたりするので、当時の話を聞かせて欲しい」という依頼があって『卒論で日大闘争って! マジッスカ? ……・』こっちが読みたいくらいですよ)、近頃の大学生も棄てたもんじゃないと少し安心した。
 巷では『蟹工船』の次は”日大全共闘”だという噂が流れているらしい。確かに、思い当たるフシがある。『蟹工船』のあまりにも有名なあの最終章。
 「薄暗くなった頃だった。ハッチの入口で、見張りをしていた漁夫が、駆逐艦がやってきたのを見た」という文章から始まる言葉のやりとり。
 『この、俺達の状態や立場、それに要求などを、士官達にくわしく説明して援助をうけたら、かえってこのストライキは有利に解決がつく。分りきったことだ』
 『我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろ』
 『国民の味方だって?・・・・・いやくゝ』  
 『馬鹿な! 国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理屈なんである筈があるか!?』
 そういうわけで……。
 「皆はドヤゝと『糞壷』から甲板にかけ上った。そして声を揃えていきなり、『帝国軍艦万歳』を叫んだ」
 しかし……。
「それ等(海軍の兵士達)は海賊船にでも踊り込むように、ドカゝと上ってくると、漁夫や水、火夫を取り囲んでしまった」 
「『有無』を云わせない。『不届物』『不忠物』『露助の真似する売国奴』そう罵倒されて、代表の九人が銃剣を擬されたまま、駆逐艦に護送されてしまった」
 ここに描かれているのは、昭和の初期、オホーツク海の洋上での出来事である。
が、殆ど同じことが、昭和四三年、東京のど真ん中の神田三崎町で起った。あの時、あの場所にいた日大生は、誰もが『蟹工船』の右の一部を思い出しただろう(読んでいればの話だが……)。
 日大闘争の発火点となった「6・11血の弾圧事件」(経済学部の校舎前で集会を開いていた学生に対して、暴力団員と体育会系の学生が、校舎内から机、椅子、消火器、鉄アレイ等を投げつけ負傷者が続出した事件である)、この時、出動して来た機動隊を、多くの日人生は『蟹工船』の漁夫たち、が『帝国軍艦万歳』と叫んだように、万雷の拍手で迎えた。彼等が加害者の暴力団員や体育会系の学生を検挙するに違いないと思ったからだが、結果はよく知られている通り、検挙されたのは被害者側の集会参加者だった。
 「日大の暗黒」をまざまざと見せつけられたこの事件の体験者は、『蟹工船』の登場人物たちに、容易に感情移入することが出来ただろう。
 従って『蟹工船』が突然異常なベストセラーとなる不可解な時代には、日大闘争が再び脚光を浴びることにも無理はないという等式が成立するのである。

 そしてまたNHKである。一月十七日、BS2ではない、本放送で東大闘争を特集する番組が放映された。全共闘の活動家のその後を追跡調査する内容で、随分前にも以だような企画で制作された番組を見た記憶がある。
 しかも今回は、東大安田講堂での徹底抗戦から四十周年である。それなりに深化した形でのNHK風「総括」が行われると思われたが……。活動家のその後を追う取材方法は従来通りだったが、ここに日大全共闘の活動家二人が登場した。
 議長の秋田明大と、例の「単ゲバ男」山崎晴久。わざわざこの二人を登場させたことは、東大闘争に日大全共闘が密接に関わっていたという認識が、NHK側にあったからなのだろうか。
 それにしても亡くなった今井澄をはじめ、元東大全共闘の方々に漂う”その後”の苦悩を連想させずにはおかない悲哀感に比べ、日大の二人に脹る何という朗らかさ。
「あなたにとって日大闘争は何だったんですか?」という凡庸過ぎる質問に対して、笑いながら「何だったんですかねえ」と答えた秋田明大のポーカーフェイス。また山崎晴久の口をついて出る相変わらずの武勇伝!武勇伝!
 しかしこの明暗もまた、NHK風「総括」なのだろうか。ただこの番組も、単純明快な日大闘争とは対照的だった東大闘争の複雑快奇な様相を解明したとは、とても言い難い。
 東大=日大闘争の全局面を、大胆なほど緻密に把握しているように感じられた島泰三の『安田講堂1968-1969』(中公新書)にも書かれていなかった東大闘争の裏側。
 今後、日大闘争を再検証する際にも、それは避けてはならない問題であり、これまで忘れられたかのように封印され続けていた謎の部分であると、敢えて前置きして述べさせていただきたい。

 日大生が最初にそれを感じたのは、やはりあの記念すべき六八年十一月二二日の集会に於てであった。集会の始まりは、島泰三の著書でも、あるいはNHKでさえも、実に感動的に伝えられている。私はその時二千名を超えるデモ隊の先頭最前列の旗竿部隊で「芸闘委」の旗を持って入場したので、その「感動」に偽りはないことは証明出来る。
 だが、残念なことにその「感動」は、十数分後には早くも失望に変った。日大全共闘の部隊の両サイドにいた革マル派と社青同解放派が、革マル派委員長の発言をめぐって激しい罵り合いを始めたのである。
 われわれはただ呆然とするばかりだった。もしどこかのパーティ会場で、メインゲストを目の前にして主催者が口論を始めたら、それはまさしく「醜態」と呼ぶに値する愚行ではないか。日大全共闘内にも、党派に属する活動家は相当数いたが、立場を逆にして考えた場合、あの集会が日大講堂に東大全共闘を招いて行われたとしたら、東人生の面前で仲間割れを演じて見せる日大生は1人もいなかったと断言出来る。
 案の定、十二月に入って、革マル派と社青同解放派は東大構内で武力衝突に至ってしまう。国家権力との直接対決を目前に控え、学内も”かい人21面相”=宮崎学に指揮された民青が闘争破壊を企てようとしているその時に、己の足元を危くする分裂騒ぎは明らかな利敵行為であるということが、あの最高の「最高学府」に属する方々の頭には判らなかったのである。
 そして一月、機動隊が導入されたその時、安田講堂の時計台には「中核」と書かれた旗が掲げられていた。前年十一月の集会の時には「革マル派」の旗があった同じ場所に、である。
 われわれは主役の俳優が急病になって、代役が起用された芝居を観る思いだった。この間の東大全共闘内部での党派の流動について、全共闘は学内に対しても学外に対しても全く説明を行っていない。
 安田講堂外の建物で、最もよく戦ったのは法学部研究室の中核派と列品館のML派だったが、この二つの建物と安田講堂の間には法文一・二号館の校舎があった。ここは当然革マル派と社青同解放派が死守すべきだった、と思われたが、抵抗らしい抵抗は行われなかった。それぞれにそれぞれの考え方があり、事情があったのだろうが、革マル派と社青同解放派が徹底抗戦を回避するというのなら、法文一・二号館には中核派とML派を配置すべきだったのではないか。そうすれば機動隊が安田講堂にとりつくのはもう一日を要しただろう。
 明らかに戦術ミスと思えるのだが。この年の初め、全共闘とその周辺のシンパ層の間では「一月東大、二月日大、三月京大」という合言葉が流布されていった。入試粉砕闘争のスケジュールである。が、一月東大にも三月京大にも全国動員で対応した新左翼各派も、日大にはソッポを向いてしまい、組織温存を迫られた日大全共闘は、封鎖解除にも徹底抗戦は行わず、奪還闘争も小規模にしか行えなかった。その問、東大全共闘からの支援は全くなかった。
 「東大のヤツら、じぶんたちにはさんざん協力させといて、他人には何もしないんですね」
 一年後輩の芸闘委の学生が、そんなグチを言った時、私はなぐさめるように言った。
 「俺たちは所詮。椿三十郎”なんだよ」 言った瞬間、恥しくなって顔をそむけたが、相手は納得したように、ビールを飲み続けていた。

(終)

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。

 今回は「オリーブの樹」121号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。

(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

 

【松田政男著『風景の死滅 増補新版』(航思社)】


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 先日贈られた『風景の死滅』を読み終えました。日本に居たブント、赤軍派時代の文化状況を思い返しつつ、今回出版された意味を探ろうとしました。この『風景の死滅』初版は1971年で、今回2013年に増補新版として11月に出版されています。

 これは“風景論”と当時言われた永山則夫の視座を追体験する映画制作過程を経て論じられている意図をさまざまな角度から示しているものです。当時「60年安保」を経て、アメリカ型の資本主義大量消費者会が“成長神話”として社会を席捲しはじめていた時代です。同時にそれに抗した斗いの時代。その中の永山則夫の「犯罪」。「日本の先進的な青年学生たちは何処にも無い場所としてのユートピアを志向していた非日常的な闘の局面から、何処にでもある場所としての〈風景〉にいかに抗い、そしてそれをいかに超えうるかという日常的な戦闘の局面に自らを移行させつつあると言ってよい」(「なぜ風景戦争なのか」)と著者は風景論でありふれた日常に変革への根源と視座を示し求めようとしていたことがわかります。

 日常のやわらかさにつつまれた「風景」としか呼びようのない“成長神話”の日々に、実は屹立している暴力的な強制力・国家の支配がうごめき貫徹している姿こそ国家の本性が晒されていること、それを透視し変革こそ求めていたと言えるでしょう。それゆえに今、この「風景論」を語る意味を新しい文化の創造の一石を投じるものとして求めているのだろうと思いました。

 私自身は風景論としてではなく、第三世界の斗いのあり方として記されていた(それも風景論とも言えるが)「私怨の空間」と題する論文に興味を持ちました。著者が1950年代に見た「眼には眼を」というアンドレ・カイヤットの映画を通して、アラブ人民が反植民地斗争や第三世界とは何ぞや?と論じられている文章です。

 映画は、妻の治療を仏人医師に断られ、ただ黙って妻の死に立ち合わざるをえなかったアラブ人が、その仏人医師を砂漠に連れ出すだけの映画だそうです。砂漠は不毛の大地の風景がひたすらに続き、恐怖と絶望の頂点で仏人医師は倒れるのです。これはアルジェの斗いと連なり、フランツ・ファノンの暴力に関するテーゼと関連することを著者は解明しています。「『全力をこめて私怨に身を投じること』をば、ひとりのアラブ人が身をもって実践した時、彼は、それを、過去数世

数世紀にわたって支配されつくした彼ら自身の大地を奪還する行為と結合することによって、フランス人植民者

ランス人植民者の歴史的連続性を断ち切ってしまったのだ」と。それらはパレスチナの、レバノんンのンの、アルジェリアなどの各地の「個人的経験」、「私怨」が普遍的な解放の斗いの根っこにあることを私も同感しながら読みました。

ンの、アリジェリアなどの各地の「個人的経験」、「私怨」が普遍的な解放の闘いの根っこにあることを私も同感しながら読みました。

そしてその中で、「第三世界」とは何か?と問うています。「第一世界・先進資本主義や植民地主義国、第二世界・先進社会主義国と、対立している冷戦構造が世界政治を支配している限りにおいて有効な呼称としての他の世界」という堀田善衛の論理や「一言でいえば第三世界とは“飢えている世界”」という志水速雄らの論に批判を加えて、著者は言う。「あえて言い切っておけば、第三世界とは架空の空間なのである。地理区分上の或る実体的な大地が、歴史の真只中に自己を突出させた時、すべての地理区分を超えるべく歴史に敷設されたところの媒介的な架空の概念である。それは言い換えれば〈何処にも無い場所〉真の主人公──(ファノンの言うところの:重信補)地上の呪われた者たち!──が未だそこを奪還することを得ぬ約束の地なのだ」。うーん、……。

「架空概念」というよりも実体的政治的な概念として、私たちは友人たちと使うことが多かったです。つまり「第三世界」は堀田善衛的過渡期世界概念の通念を持ちつつ、世界的意味においても、地域的〔リジョナル〕意味においても、また一国的意味においても、参加決定する当事者でありながら、その能力と役割を持ちながらも、それを奪われた人々とその人々の住む空間というふうにとらえていました。著者の言と共通するところもあるかとも思いつつ読みました。(1122日)


【板坂剛著『三島由紀夫と全共闘の時代』(鹿砦社)】


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『三島由紀夫と全共闘の時代』読みました。

 著者は「まえがき」で「人間の心の奥に潜む解決不可能な矛盾、それが『パンドラの箱』の中身であると、ここでは定義しておきたい」と、断った上で、“三島由紀夫と全共闘運動”のパンドラの箱を開いてみようとこの一冊に込めています。著者は両者の類似点はまったく同質の“狂熱的自己陶酔”であったが、その方向性、運動論、政治理念は真逆を示していたと捉え、「この一律背反に美点も欠点も鮮明に示されているにもかかわらず、両者の関係性について本格的に検証されていない」と自らの個人的体験から語りはじめています。

 日大芸斗委の苛烈な戦斗の渦中に居、6869年の日大・東大斗争時代のエピソードを語り、フラメンコダンサーとしての現在から、時代を俯瞰的にとらえた「あるフラメンコダンサーの述懐」を記しています。この本の中に「鼎談三島由紀夫死への希求」が収録され、三島の本を出版した三人(椎根和・鈴木邦男・板坂剛)がさまざまな角度から三島を語っています(かなり雑談風に)。著者は大学以前から三島の本を愛読しており、日大での斗いを経て、同世代の熱烈な一途な情念を三島と全共闘としてくくりやすいのかもしれません。私はサークルが文学研究部で、三島を語る友人もいましたが、まったく心に響かなかった……。そして701125日、三島のニュースに衝撃を受けている友人の知識人たちに、むしろ驚きと違和感を感じた方です。ですから著者の日大芸斗委時代の燃える筆の文章に一番興味がありました。同時代、私も同じ学生運動の末席に居て、御茶ノ水界隈では大学を越えて助け合い、日大経済学部や医科歯科大、専修、東大、中大などよく助け合いましたが、江古田の当時の激烈な斗いは実感できませんでした。それらを読みながら、かつて芸斗委の隊長だった岩淵クンが「斗いも、人間も、もうたくさんだあ」と言いながらひたすら花札にのめっていた姿を思い出しました。70年のことですが。(当時日本大学当局が雇った「関東軍」と称するやくざ軍団が、学生をあらゆる暴力で痛めつけ、芸斗委はそれに立ち向かって逆襲勝利したことで名を馳せていた。)

本を読み終えて、「はじめに」で、著者が提起したパンドラの箱は「鼎談」で拡散してしまった気がします。だって設定が設定ですもの、それでいいのかもしれません。でも、著者は全共闘時代の教訓はいろいろな角度から語っています。「例えば、七〇年には、中核派が法政大学の六角校舎で革マル派の活動家を殺してまったわけだけれども、私は、あの事件の時に、日本の新左翼運動はもう駄目だと思ったんです」「正しいと信じた行為の結果、敵対する者が死に至ったとしても気にする必要はないという考え方も、ある意味男らしいとは思う。が、こうした精神的な強さの末に、連合赤軍の敗北や革共同両派の不毛な内ゲバがあったような気もするのだが……」などと語っている(男らしくない!「強さ」は「たてまえ」で、「弱さ」の本当の姿が見えなかったと私は思うけれど)。著者の逡巡的記述に、いくつも正鵠を読み取りました。パンドラの箱の中身は、一度開いたら元に戻せないとしても、まだ箱の底には“希望”が出番を待っています。全共闘時代を次への希望として、さらに語ってほしいと思いました。(124


 【金平茂紀著沖縄ワジワジー通信』(七つ森書館)】


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 正月の読書は『沖縄ワジワジー通信』の再読から始めました。

 この本は20111月から1212月まで「沖縄タイムス」に連載された「沖縄ワジワジー通信」と088月から109月までの同紙連載「ニューヨーク発徒然草」を再録し、大田昌秀元知事ら沖縄の人との対談で構成されている本です。

「ワジワジー」は、著者のイライラ、ムラムラする気分に対して「金平さんは、いつもワジワジーしているね」と沖縄の友人に言われて「『ワジワジーするさあ』だなあ」と実感し表題にしたとのことです。

 著者は「あとがき」で「沖縄から日本がよくみえます。よくというのは、嫌いな部分も好ましい部分も含めて東京あたりにどっぷりつかって生活し、ぼんやり見えているのと違って日本の国の風景がより鮮明に見えてくるという意味です。(中略)沖縄に対して東京を中心とした『中央』が、どのようにふるまい続けているのかで日本という国の真の姿が見えてくるのです。弱い立場・遠隔の地域に、自分たちにとって、都合の悪いものを押しつけ続けている態度は端的に醜い。米軍基地の74%が沖縄にあるという事実の重み。僕にはあの原子力発電所の存在がダブってみえてきます」と記しているように、「外側」から「中央」をとらえようとしています。

 沖縄によりそいつつ、次の章ではニューヨークから世界の視座で、同じように日本の「常識」「中央」のあり方を問うています。その視座はパレスチナ・アラブから、あるいは欧州から日本を比較対象化してよく見えたものと共通していると感じました。辺境外側に在って見ると、日本は相対化され、多様な世界の文化や価値観の一つであることが鮮明で、「中央」の「ヘンさ」も浮き彫りになります。「中央」ほどそれが見えないのでしょう。

 著者は沖縄から日本の「沖縄忘却」を告発し、3・11に通底すると看破し、また一方でニューヨークでちょうど現認したオバマ大統領誕生のアメリカの多様性「Yes we can」の変革の熱気に感動し、またグアンタナモのあの収容所取材などホットな臨場感で、私の知らないアメリカを教えてくれます。

 対談では大田元知事の具体的な知事時代、それ以前の日本・米政府のあり様、沖縄を犠牲にして来、今も犠牲にし続ける「中央」そして日本本土の私たちに、沖縄のあきらめない斗いの鋭さを改めて教えています。

 この本は、一人のジャーナリストの沖縄ばかりか世界から日本を見つめる政治だけではない生活の本音語られています。沖縄の今を、今年も「辺野古埋め立て」のみならず犠牲を直視する意味でも、この本を読むのは価値があります。(14日)

 

(終)

 

 

【お知らせ】

「土屋源太郎さんの闘いを支援する集い」が12月6日(土)に開催されます。

12月6日(土)に「土屋源太郎さんの闘いを支援する集い」が御茶ノ水の明大紫紺館で開催されます。
土屋さんは、砂川事件最高裁判決無効の裁判闘争を現在行っています。その闘いを支援するとともに、土屋さんも関わってこられた明大学生運動60年の歴史を振り返るというのが、この集いの趣旨です。
明大関係者が中心となりますが、それ以外の方々にも参加を広く呼びかけています。多くの方の参加をお待ちしています。
 
○日時  2014年12月6日(土) 午後6時~9時
○会場  明大紫紺館(JR「御茶ノ水」駅下車 徒歩8分)

○会費  八千円

○申込み 11月25日までに下記ホームページのコメント欄に連絡先を明記の上、申し込んでください。

 

ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」

http://www.geocities.jp/meidai1970

 

 


赤瀬川原平さん追悼第2弾として、1970年に出版された赤瀬川原平さんの初のエッセイ集「オブジェを持った無産者」の書評を掲載する。


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(表紙)

この本はエッセイ集ではあるが、いわゆる「千円札裁判」に関する文章が半分以上を占めている。
「千円札裁判」とは、1963年に赤瀬川さんが製作した模型“千円札”に関して警視庁が「通貨及証券模造取締法」違反で取り調べを行い、1965年11月に起訴された事件である。裁判の特別弁護人に美術評論家の瀧口修造氏が就任している。裁判では「懲役三月執行猶予1年」の判決を受けた。
本の書評は「現代の眼」1970年8月号に掲載されたもので、画家の中村宏氏が書いたものである。
中村宏氏は1950年代、政治的、社会的な事件や事象に取材して描いた作品群で「ルポルタージュ絵画」として注目を集め、絵画だけでなく、装丁、挿画、イラストなども手掛けている。1970年前後の作品には、空に浮かぶ蒸気機関車、セーラー服姿の一つ目の少女などがモチーフとして描かれている。早稲田祭ポスターや夢野久作全集の装丁などで作品を目にした方もいると思う。
中村氏の書評はやや難解な部分もあるので、理解を助けるために、この本にも掲載されている赤瀬川原平さんの「スターリン以後のオブジェ」という文章を先に読んでいただきたい。

【スターリン以後のオブジェ】「都立大学新聞」1968年10月掲載(引用)
『催涙弾、石ころ、警棒、ラムネビン、手錠、竹槍 - 私たちはこれらを「オブジェ」としてみることができるだろう。あるいは裁判所ではこれらすべてを「ブツ」という。裁判所でいう「ブツ」とは、かって犯行に用いられたもの、あるいは犯行に用いる予定であったもの、それらのいわゆる「凶器」が静寂を強制されている法廷の中に持ちこまれた状態である。
私たちのいう「オブジェ」も、その自立的であることにおいてこの「ブツ」とよばれる状態に似ている。しかし私たち「民間人」は「ブツ」のように静寂を強制できる法廷というものを特別にもってはいない。私たちは日常生活の中に足をひたしながら、そこに交叉する法廷状の空間を仮構し、そこにオブジェという命名を行うのである。だから私たちがオブジェとよんだにしても、それはいつかは投げつけられて、機能する催涙弾として私たちの前に現れ、私たちはそれに涙を流さずにはいられない。しかし私たちはそのとき催涙弾の恐怖とともに、法廷の中に置かれ、機能を留保した催涙弾にもまた別の不安を感じる。それは、催涙弾が相手の人間に投げつけるための使命をおびたものでありながら、その法廷状の空間における催涙弾は、その投げつけられる相手をも含めた「私たち」と同等であり、同等の権利を主張することの不安なのだろうか。いいかえれば、相手をも含めた「私たち」が、その催涙弾の使用者としての地位を奪われることの不安であるのかもしれない。
オブジェという名称が、はじめて私たちの周囲の日用品につけれれたのは、法廷ではなかったが、それはいわば法廷状の空間である美術館であった。1917年、ニューヨークの美術館に一つの便器を持ちこんだ下手人は、いわずとしれたマルセル・デュシャンである。彼は便器を便所から解放し、その解放された空間の一つとして美術館を選んだのである。私たちは便器を、私たちの排泄を受け入れ、下水道に導く使命だけを担わされたものとして認識している。そのようにして便器を支配し、管理統制している私たちの内部の権力をデュシャンは放棄し、便器に自由を与え、それによって彼自身の頭蓋骨の内部も自由によって満たされたのである。このような双方の互いに対応する解放の条件として、オブジェという名称が生まれた。
一方、同じく1917年、ロシア大陸で行われていたことは、これとはまったく対称的なことである。10月、ペトラグラードの彼らは同じく「自由」を得るために、自らの生活を支配する権力を奪取したのである。一方にならっていうならば、いわば彼らは便器をかち取ったということができるかもしれない。たとえばロシアよりもさらに東方にあった八路軍が、進撃した都市の水洗便器をそれと知らずに米をといだというようなエピソードを、私たちは祖先の帝国軍人から軽蔑的によくきかされる。しかし、そのようにしながら彼らは中国大陸を支配する権力を奪取し、その便器をも手中にしたのである。
この双方、ニューヨークの便器に対応するものと、アジアの便器に対応するものとが交叉し、完全に同居する一瞬間というものがあるに違いない。片や自由のために権力を放棄し、方や自由のために権力を奪取する。その双方をとりもつ「自由」というものは、それを志向する彼方にしか完成しないものであり、たとえ交叉するにしても、この双方はその交叉地点にとどまってはいない。それぞれの志向する自由の一応の実体化と同時に、ふたたびそれらはその交叉地点から遠ざかっていくのであろう。いやこの双方は、永久に志向する彼方で交叉する予定しかないのだろうか。
私たちが自由のために奪取しようとする彼方の権力とそれを手中にし、そして完成された権力とは連続していながら明らかに異なる方向に向いているのだろう。
しかし、私たちが外部の支配から解放されようとするとき、私たちにおおいかぶさる権力の奪取に向かう以外、最終的はないのであるが、その権力を奪取しようとする行為の先端で、私たちはもう一つの権力、己れの内部を支配している権力をひそかに放棄するのではないだろうか。ラムネビンはオブジェを通過してラムネ弾となり、旗竿はオブジェを通過して竹槍となるだろう。しかし、一瞬放棄されたかもしれない私たちの内部の権力は、再びラムネ弾、竹槍として認識を支配する。このような状況に迫られた放棄よりも早く、己れの内部の権力を自らが放棄するとき、おそらくそのときオブジェという認識が生まれるのだろう。
私たちが完全に、すべてを放棄するとき、私たちは完全に、すべてを蜂起する。というとあまりにも洒落らしくなってしまうが。しかしたとえそうなるにしても、私たちは蜂起するために放棄するのでも、放棄するために蜂起するのでもないだろう。その最前線に接近するにつれ、それらは統一の様相を呈する筈のものである。少々大げさになったが、ただその双方を性急に統一しようとすることほど、おろかなことはないだろう。それは最終的には官僚と、そして官僚的芸術を生み落すのがオチである。
いずれにしろスターリン以後のオブジェという課題が、おそらく私たちには潜在的にあるのである。その一つが模型千円札なのである。それはまた、デュシャン以後の闘争なのである。この模型千円札は、国家権力によって拉致され、「ブツ」として法廷の中に置かれたのだ。(後略)』

それでは、「現在の眼」(1970年8月号)に掲載された書評を見てみよう。

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(現代の眼)

【著者への手紙】
『オブジェを持った無産者』赤瀬川原平著   中村 宏(画家)

本誌編集部より電話あり。“著者への手紙”欄で貴殿の『オブジェを持った無産者』をあつかいたいので、ひとつ頼む - と。
苦しかったけれども一応ひき受けた僕は、貴殿に向けて手紙を書かなきゃならんはめにおちいってしまった。
実は、他人に頼まれて手紙を書くなんぞ、とても僕には出来ないことだし、第一、貴殿に今さら手紙など、ちとしらけすぎている。
なによりも、数年にわたる内容をもつ、貴殿のこの本に対して、ちょっくら何か書けと言われても、僕の手にあまるものだ。いわばこのエッセイ集は貴殿の珠玉編であるわけだろうから、僕などの手あかに染めぬほうがいい。
と、まあ逃げの手を打ってはみたものの所詮は何か書かなきゃならんのだ。困った。どこから、何を書こうか。原平さんよ、何か言ってくれ。「手紙なんぞいらないよ。よく読んでくれればそれでいいよ」とか、なんとか。
ぐちばかり、ぶつぶつ言っていても始まらない。ともかく、とりとめもなく、書き始めることにするよ。それにしても貴殿は文章がうまい。ちょっとしたエッセイストだ。絵かきにしておくのは惜しい -いや失礼 -。過日東京と言う精神的へき地に作られた美学校と言う、図画工作教室の廊下で、この本を貴殿から渡され、今もこの本の装丁を見ているわけだが、まず目にとび込んで来る本のケースは、なかなかにくにくしいものだ。荷札にカモフラージュしてはり込んだタイトルの手ぎわよさは、ちょっとしたもんだと思うよ。すでに表紙のハンマーとはさみ同様、この本自体も法権力へ向けての第X号目の物的証拠であることを予告したわけか。
マルセル・デュシャンの便器に、いたく思いを寄せる貴殿は、しかし次のように言う。
≪・・・(デュシャンの)便器にとっては、輸入された、上からの革命であり、便器の上には再び美術館という支配者が根をおろした。(中略)一方、ハイレッド・センター(筆者注:高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の名前の頭文字を英語にしてつなげたもの)のオブジェは、その後にできた、デュシャン以後、あるいはスターリン以後のオブジェである。偽造されたオブジェ、あるいは模造されたオブジェである・・≫
つまりデュシャンの美術館的有産者オブジェよりも、もっと観念的、いや虚構的、いや無産者的であるのが、貴殿のオブジェと言うわけか。なるほど、貴殿のオブジェは、たしかに空間的論理的呪物的であるよりも、まず時間的心情的行為的である。そして、「タブロウ」(筆者注:壁画や彫刻に対して,カンバスや板に描かれて額縁に納められた絵)にはならず、すべて「情況」となる。
≪・・・そしてたしかにこれもオブジェであるのだが、これは<東欧風>の便器とは違って。我々の<行為>を当然のことのように要求し、誘発し、山手線に乗って裁判所へ行ったりすることを、誰にでもせがむのだ≫。
だが、どうだろうか。「便器デュシャン」としてのデュシャンから、デュシャン自身、「便器以後」をつくっているのではないだろうか。デュシャンのオブジェ観念は、便器止まりではなく、もっと深部を、つまり、オブジェ ⇔ 情況 ⇔ オブジェよりも、オブジェ ⇔ 論理 ⇔ オブジェの円環を提示しているはずだと思う。便器からガラス作品への方位をそう見るのだが、いかが。
要するに、便器のデュシャンは「美術館」と「お芸術」に唾棄したかっただけのこと。便器でも何でもよかったのではないか。痰壺でもいいわけだ。公衆便所を黄金でつくることにかかわって、革命が眼前にある、とレーニンが言ったと噂を流すダリの観念、あるいは60年安保闘争中、国会議事堂正面玄関の階段に立小便の放列をした若者たちの行為と、つまりは、同じ、情況オブジェ論につきているのではないだろうか。
ガラスのデュシャンは、情況オブジェ論から一歩出て、各オブジェ間の論理的解明へと向かう、論理オブジェクト論を示していると思える。僕が考えるオブジェ観念は後者に属する。たしかに貴殿が指摘するように、オブジェを「ブツ」と言った方が、何かはっきりする。しかし、すでに貴殿のオブジェは「法廷」という「美術館」の軍門に下ったことのその意味から「ブツ」に転位したのである。この場合の「ブツ」とはむろん物質のことではなく、あくまでも物件のことであり、情況の中の価値品目である。
情況ぎらいの僕が思うには、やはり芸術作品と言われる品目は、どうさかだちしても「美術館」からはぬけ出す出来ないと思う。あたかも、われわれ自体の生活が、国家あるいは階級関係からぬけ出せないように、だ。ああ、いやだ、いやだ!
ひとり、芸術品目だけが、かりに「美術館」からぬけ出せたとしても、もうひとつ外側の「美術館」 - 国家、がまちかまえている。むしろ国家へ近づくだけの話だ。国家へ近づくことを、「情況化」という。ここにあっては美術館を有するデュシャンの便器も貴殿の法定を有するオブジェも、同質のものとなる。「行為」とは観音様の手のひらの上の悟空であったのだ。
芸術品目、すなわちオブジェは、このように情況とかかわればかかわるほど、国家権力へ近づく。つまりオブジェにおける呪物性をさけて、逆にオブジェを拡大すればするほどオブジェは情況化し、国会意志の御意にめすことになる。この辺のあたりで「芸術と政治」なんぞという低次元の問題をもたげる。
さて、オブジェは、あくまでも拡大してはならず、むしろ逆に、呪物として自閉させ、その果てに論理物質としてのオブジェを見る、としなければならないものだと考えるがいかが。オブジェとは僕が思うには、あくまでも、呪物であり、物質の内側において覚醒する論理そのものでなければならないのだ。したがって、情況と係わり合うことではなく、情況は、あとからつくられるものとなる。呪物とはまた、物質に向かう微粒子的自覚であり、それはタブロオの自覚の世界へとつながっていると思う。
貴殿のオブジェは「物品贈呈式」を経て拡散していったらしいが、どうも僕には疑問だ。しかし、貴殿のオブジェは贈呈出来るものなのだろう。僕のオブジェ、いや呪物は、贈呈など出来るしろものではない。古典的女学生のごとく恥ずかしくて、とても、とても ―。
いや、まったくへんな話になってきたようだが -。それにしても貴殿の精神には、一貫してパロディー魂が感じられて、痛快だ。なかんづく、社会主義リアリズムに対して「資本主義リアリズム」とはねえ。面白い。
「スターリン以後のオブジェ」とか、「順法絵画」とか、「蒼ざめた野次馬を見よ」とか「野次馬軍団」とか、「芸術は武装放棄せよ」等々。なによりもエセ「千円札」とはパロディそのもの。本当に痛快だよ。だけどここだけの話だが、本当の「ニセ金づくり」てのは、本当の芸術家だと思うよ。ニセ金つくるやつなんざあ、きっと自閉症にきまっている。芸術なんかも、自閉症患者のつくったニセ世界の絵図面だぜ。
≪・・・“千円札裁判”は、私にとっては救いであったのだ。私は“梱包”をつくり“千円札”を作ってからやることがなくなってしまい、心臓ノイローゼと同時に極度の睡眠恐怖症におちいっていた≫と、貴殿はあとがきでかいている。少なからず、ほんの一部分ではあったが、世間様をさわがせた罪人の、真人間に対する、これは詫びであるように、僕にはとれる。
いいではないか、「懲役三月猶予1年」になろうが「無罪」になろうが、実はどっちでもよかった、と言う罪。そして裁判を利用して心臓ノイローゼや睡眠恐怖症をなおし、あまつさえ「オブジェを持った無産者」を出版したと言う罪も、貴殿のこの1通の心のこもった詫び状で、すべて許されるのだ。腹黒いユーモア、おっと“黒いユーモア”などと、きどらないで、罪を詫びる、そしてそれを許す「悲しくも優しいユーモア」の方が、僕には分かるような気がする。
≪・・・ひょっとすると、私のまえに逆光の中の人影として見えた瀧口氏は、エレベーターで昇って廊下を歩いてきたのではなく、最初から逆光を背にして、逆光の窓の外側からこの廊下にはいっていたのだろうか≫と、貴殿の恐怖は瀧口修造氏をとらえる。
悲しさを理解したもののみがもつ恐怖。その恐怖をもっても理解した瀧口氏。本当は瀧口氏こそ、貴殿に向けて手紙をかくべき人ではなかったか。

(現代思潮社刊・B6版・363ページ・980円)』

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(裏表紙)

(終)

10月27日の新聞を見ていたら「赤瀬川原平さん死去」という見出しの記事を見つけた。「えー!?」という感じである。あの赤瀬川さんが死んでしまった・・・。(絶句)

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(新聞記事)

赤瀬川さんは、私の大好きな芸術家であり、作家であり、写真家(カメラマン)である。
ちょうど翌日の10月28日から千葉市美術館で開催される「赤瀬川原平の芸術原論展」を見に行こうと思っていた時だったので、よけいショックだった。
10月28日は少し風は強いが秋晴れのいい天気だった。
千葉市美術館は千葉駅から徒歩15分ほどのところにある。建物の下の部分は千葉市の中央区役所になっており、美術館は上階にある。
美術館に到着すると、正面に人だかりがしている。カメラを持った人たちもいる。赤瀬川さんが死んだということで、美術展の初日ということもあり、取材か?と思ったら勘違い。全く関係のないCMと思われる撮影スタッフの人たちだった。
美術館の入り口には「赤瀬川原平の芸術原論展」のポスターが貼ってある。美術館へのエレベーターは私一人。もっと人がいると思ったのだが・・・。

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美術館の館内に入ると、入口に
「去る10月26日、赤瀬川原平氏がお亡くなりになりました。77歳でした。ここに、生前の氏の活動に対し改めて敬意を捧げるとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。」
という小さな紙が貼ってある。
美術展のパンフレットによると
【赤瀬川原平(1937−)は、前衛美術家、漫画家・イラストレーター、小説家・エッセイスト、写真家といった複数の顔を持つ芸術家です。 
 前衛美術家としてその経歴をスタートした赤瀬川は、1960年、篠原有司男、吉村益信、荒川修作らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加。1963年には中西夏之、高松次郎と「ハイレッド・センター」の活動を開始し、「反芸術」を代表する作家となりました。またこのころ制作した一連の《模型千円札》が「通貨及証券模造取締法」違反に問われてしまい、1965年より「千円札裁判」を闘うことで、その名は現代美術界の外にも広まって行きました。同裁判の控訴審が終了した1968年頃からは、漫画家・イラストレーターの領域に活動の場を移し、『櫻画報』の成功によって一躍パロディ漫画の旗手となります。さらに70年代末より文学の世界にも本格的に足を踏み入れ、1981年には芥川賞を受賞しました。80年代以降は、「超芸術トマソン」「路上観察学会」「ライカ同盟」の連載や活動を通して、街中で発見した奇妙な物件を写真に記録・発表しました。また1999年、エッセイ『老人力』がブームを巻き起こしたことは、記憶に新しいところです。 
 このように赤瀬川は、とてもひとことでは言い表せないほど多彩な活動を展開してきました。一方で、様々な分野を大胆に横断しながらも、60年代から近作まで、その制作への姿勢は一貫しています。彼は何かを表現したり、創造したりすることよりも、卓越した観察眼と思考力を駆使して、平凡な事物や常識をほんの少しズラし、転倒させることを好みます。そうすることで見慣れた日常を、ユーモアに満ちた新鮮な作品へと変えてしまいます。60年代の《模型千円札》《宇宙の缶詰》にしろ、《トマソン》『老人力』にしろ、この独特のズラしや転倒の方法論から生まれました。 
 赤瀬川原平は、その独創的な作品と発想によって、日本の現代美術史において揺るぎない地位を築く一方、いまなお若い作家たちに刺激を与え続けています。本展は、500点を超える赤瀬川の多彩な作品・資料を通して、50年におよぶ氏の活動を一望します。1995年に名古屋市美術館で開かれた「赤瀬川原平の冒険−脳内リゾート開発大作戦」を除けば、これまでその活動が本格的に回顧される機会はありませんでした。今回、60年代の前衛美術はもちろんのこと、70年代の漫画・イラストレーション、80年代のトマソン、路上観察学会の仕事にも大きなスペースを割き、美術分野を中心に、この作家の幅広い活動を展観します。さらに土方巽、唐十郎、足立正生、小野洋子、瀧口修造、林静一、つげ義春、永山則夫、中平卓馬、鈴木志郎康らとの交友を示す作品資料も展示することで、当時のより広い文化状況の一端もお見せ出来ればと思います。】
とのことである。

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(パンフレット)

当初は赤瀬川さんの50年に及ぶ活動の回顧展として企画されたものと思うが、直前の赤瀬川さんの死によって、遺作展になってしまった。まだ存命の方の作品の回顧展と、亡くなった方の作品の遺作展では、見る側の気持ちも違ってくる。
会場には、1960年代の「読売アンデパンタン」展に出品された作品、「ハイレッドセンター」時代の活動を記録した写真、梱包作品、シェルタープランの模型、宇宙の缶詰、そして、伝説的な千円札裁判で押収された模型(自家製)千円札、模型千円札で梱包されたカバン・ナイフ・ハサミ・カナヅチ、大日本零円札などの作品が並んでいる。
この時代の関係書籍としては、以下のようなものがある。

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「赤い風船 あるいは 牝猫の夜」(1963年)

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「オブジェを持った無産者」(1970年)

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「いまやアクションあるのみ!」(1985年)

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「東京ミキサー計画」(1984年)

次のコーナーには、娑婆留闘社発行の獄送激画通信、朝日ジャーナルに掲載された「桜画報」の原画、各種雑誌への掲載作品(週刊アンポの表紙、現代詩手帖カット、映画批評表紙など)、ポスター(三里塚幻野祭、第2回国際反帝会議、赤軍―PFLP世界戦争宣言)などが並ぶ。
この時代の関係書籍としては以下のようなものがある。

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「追放された野次馬」1972年)

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「桜画報・激動の千二百五十日」(1974年)

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「週刊アンポ」(1970年)

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「朝日ジャーナル1971年3月19日号掲載の桜画報」

次のコーナーでは、「トマソン」と路上観察の写真群が並ぶ。「トマソン」とは「むかしジャイアンツの助人外人にゲーリー・トマソンがいた。高額の契約金でジャイアンツに入団しながら、毎打席ごとに三振の山を築き上げた。人間扇風機といわれながら、打者としての機能を失くしてベンチに控える姿は、そのまま超芸術の構造をあらわしていた。以後私たちはその存在を胸に焼きつけながら、超芸術物件をトマソンと呼ぶようになったのである」とのこと。
町の中の道路や塀や建物などに、人知れずひっそりとある造形物、トマソン=「超芸術」物件の写真が並んでいる。
私もカメラを趣味としているが、なかなか「超芸術」物件は発見できない。というかカメラで撮る自分自身の自意識に縛られている。これらの写真を撮る境地まで、まだ達していないということである。
この時代の関係書籍としては以下のようなものがある。

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超芸術「トマソン」(1985年)

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「東京路上探検記」(1986年)

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「路上観察学入門」(1986年)

赤瀬川さんは作家尾辻克彦として芥川賞を受賞しているが、千葉市美術館では作家としての作品は展示していない。
「赤瀬川原平×尾辻克彦」という文学と美術の多面体展が「町田市民文学館ことばらんど」で12月21日まで開催されているので、作家としての赤瀬川原平に興味のある方は、そちらの展覧会へどうぞ。

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「父が消えた」(1981年)

時代ごとの赤瀬川さんの関係書籍を何冊か紹介したが、1冊となると、この本がいいかもしれない。赤瀬川さんへのインタビューを基に作られた本である。「全面自供」のタイトルどおり、自伝的本である。

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「全面自供」(2001年)

このブログを書きながら、本棚の赤瀬川さんの本(尾辻克彦を含む)を数えてみると、29冊もあった。私の蔵書の中ではダントツで1位の著者である。朝日ジャーナルや現代の眼、構造、現代詩手帖など関連書籍を含めると、どのくらいあるか分からない。
いままで写真で紹介した本は、私の本棚の中の一部である。
冒頭にも書いたが、赤瀬川原平さんは私の大好きな芸術家であり、作家であり、写真家(カメラマン)である。
このブログのタイトル「野次馬雑記」も、以下の赤瀬川さんの文章に影響を受けて付けたものである。
「野次馬軍団宣言
東京に野次馬が出る。蒼ざめた野次馬である。ふるい東京のすべての実権派は、この野次馬を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる。警視庁と新聞社、検察庁と裁判所、体制内反対派と体制内賛成派。・・・・
万国の野次馬 蒼ざめよ!」

千葉市美術館で赤瀬川さんの作品や写真を見ながら、その作品や写真が出来あがるまでの行為(アクション)そのものが、私たちを惹きつけ、刺激するものだということに改めて気付かされた。
出来あがった作品や写真は、行為の結果として美術館に展示されている。それは行為の到達点であり、到達点だけを見ても、その作品や写真の意味を理解することはできない。
作品や写真が出来あがるまでの過程、それを作る行為そのものが作品であり芸術なのである。それらの行為(アクション)は、私たちに現実(対象)が持つ既定の意味への疑問を投げかける。与えられた既定の意味をそのまま受け入れて生きていけば、何も考えることはない。体制側にとっては都合のいいことである。既定の意味に疑問を持たせないことが、体制を守ることなのである。
しかし、行為(アクション)が現実(対象)への疑問を投げかける時、私たちを取り巻く世界は変わっていく。
赤瀬川さんの「ゲージュツ」の核心は正にそこにあるのではないだろうか。

合掌。

※「赤瀬川原平の芸術原論展 1960年代から現在まで」千葉市美術館で12月23日まで開催。

(終)

【お知らせ】
「土屋源太郎さんの闘いを支援する集い」が12月6日(土)に開催されます。
12月6日(土)に「土屋源太郎さんの闘いを支援する集い」が御茶ノ水の明大紫紺館で開催されます。
土屋さんは、砂川事件最高裁判決無効の裁判闘争を現在行っています。その闘いを支援するとともに、土屋さんも関わってこられた明大学生運動60年の歴史を振り返るというのが、この集いの趣旨です。
明大関係者が中心となりますが、それ以外の方々にも参加を広く呼びかけています。多くの方の参加をお待ちしています。

○日時  2014年12月6日(土) 午後6時~9時
○会場  明大紫紺館(JR「御茶ノ水」駅下車 徒歩8分)
○会費  八千円
○申込み 11月25日までに下記ホームページのコメント欄に連絡先を明記の上、申し込んでください。

ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」



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