野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年12月

1969年11月17日から1970年6月上旬まで発行された「週刊アンポ」(編集・発行人 小田実)の記事を紹介するシリーズ。
第2回目は「週刊アンポ」第3号に掲載された、69年1月19日の神田カルチェラタン闘争で逮捕された芝工大の2名の学生に対する警察暴力を告発する記事である。

【告発(その2) 警察暴力】(週刊アンポ No3 1969.12.13発行) 
『今日、日本の国家秩序は、機動隊という名の数万の特殊な機能集団の防具つきの手によって支えられている。この集団は、あのグロテスクないでたちのまま、白昼街頭に立っていても誰も奇異に思わない程われわれの日常生活の中に入り込み、のさばっている。彼らは日夜、所と相手かまわず暴力を振るい続けることにより、われわれの「生活」を守っていると称している。
もう一度われわれは、彼らの姿の異様さにまゆをひそめる感覚(つい1、2年前までわれわれはそれを持っていた)をとりもどそう。あのいでたちは彼らの唯一の目的、「暴力をふるうこと」のために徹底的に考え抜かれているのだ。(中略)

<証言1 機動隊暴力の「効き目」>
今年の1月18日、19日の東大決戦の際、「お茶の水カルチェ」で機動隊に立ち向かい、逮捕された芝浦工大のA君は「あまりあの時のことを語りたくないな」といいながら、こう話してくれた。

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1969年1月19日、その日僕は中央大学の中庭で行われた東大闘争勝利の連帯集会に参加し、12時前後、東大(本郷)へ向けて出発した。
本郷二丁目の交差点まで来た時、見ると前方に百人くらいの機動隊がいた。他の学生はほとんど引き返してしまって、結局、そこに残ったのは、僕たち50人くらいになってしまった。そこでデモをくり返していると、後方から50人前後でやって来た部隊が真っすぐに機動隊に向かって進んでいった。僕もそこまで前進したとたん、それまで退く一方だった機動隊が一斉にこちらへ突進して来た。これはまずいと思って逃げたとたん、後ろにいた機動隊に足をかけられてころんでしまった。はね起きて5歩位逃げたけれど、すぐに押さえられヘルメットをはがされた。しかし、また振り切って逃げ、今度はヤッケの首をつかまれたが、前かがみになったらヤッケが脱げたのでまた逃げた。最後は体にしがみついて来たのでふりはらったが、前二人後一人の三人でおさえられ、その時右前にいた四人目の隊員に頭を、樫の木の楯を垂直に使ってなぐられた。頭から血がにじみ出て、一瞬目の前が真っ暗になってしまった。それからなお数人の隊員に顔をふまれ、右半分のまゆから頬にかけて血がにじんでいた。
本富士署に連れていかれ機動隊員の調べを受けていると、僕の前にいた学生が調べで黙秘するのを、逮捕した隊員が二人がかりで足をふんだり、頬をつねったり、髪の毛を引っ張ったりしていた。
夜までいくら傷が痛むといっても医者には見せてくれず、ようやく病院へ連れて行ったと思ったら名前をいわないと治療させないと恫喝をかけてきたが弁護士を呼んでくれと言うと、しぶしぶ治療させた。
顔面の擦過傷全治十日、頭部の裂傷は二針ぬって全治二十日であったが、現在でも寝不足すると傷跡がいたむ。
取り調べの時、黙秘すると、当時僕は少年だったので、刑事はしゃべらなければ練鑑送りだと言ったり、練鑑ブルースを口ずさんでみせたりまでした。
拘留23日目の時間ギリギリまで待たされて釈放された。あの23日間の苦痛を考えると、もうカンパニア闘争にしか参加できず、実力闘争などの時には、日和ってしまっているわけである。
最近常に、官僚も僕たちとどこもかわることがない人間なのに、どうして警察官の採用合格しただけで人を逮捕することができたり、なぐっても罪にならないのかと思っている。

A君のような体験は今日余りにも多く、マスコミのいう「ニュース性」を持たなくなっている。しかし、A君の素直な証言によって機動隊暴力の暴力たる根本的ゆえんがあらわれてくる。「自由意思の圧殺」、個人をきずつけ痛みつけることによって意思と行為をねじまげ、精神を破壊してまで支配の中に押さえつけ、くみこむ、それこそ権力の常に目指す所だ。

<証言2 機動隊暴力のエネルギー源>
A君と同じく1月19日逮捕された芝浦工大のT君は興味ある証言をしている。

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気がついて周囲を見たら、機動隊しかいない。ヤバイ!と思って逃げ出した瞬間、うしろから折りたたみ式の楯でガーンとやられた。ふらつくところをタックルされて、おまけに80キロはあるというヤツに押さえこまれてしまった。バタバタもがいていたら、右目に強烈なストレートをくらって、戦意喪失。誰かが「手錠を前にかけるなんと、もったいない。後手にしてしまえ」なんてワメいている。しかし、それはまぬがれた。理由はほとんどの機動隊員が手錠はもっているが、そのカギを持っていないことだ。そうやって運ばれて、せまい露地につれこまれ、壁にガッチリ押さえられて所持品検査。
捕えた人数に比例して特典があるらしく、あまり関係のなさそうな隊員に向かって先輩らしいヤツが、「お前も捕えたことにしておくか」
「ハッ!お願いします」
なんてやってやがる。
車に乗せられて○○署へ行く。血が出ている奴が目についた。精神的にも肉体的にもまいって、かがもうとすると、「コラ!芝居なんかやめろ!」「こいつ芝居がうまいんだ」なんて仲間とニヤニヤしてやがる。狩りの獲物と同然だ。
取り調べの時、逮捕時の状況報告を見せられたら、あることないこと、ウソ八百。デカはそれに合わせて調書をとろうとする。あとで聞いたところによると、できるだけ勇ましく書いた方が、昇進の時、有利なんだそうだ。

T君のききもらさなかった対話の中に大事なことが示されている。機動隊は、1個の「肉体労働者」なのだという当たり前の事実が。彼らの「やる気」の源は、まさにこの出世欲なのだ。逮捕後の暴行の証言の中には、連行中立ち並ぶ周囲の隊員からリンチを受けた例が多い。逮捕した当の隊員は、その時点ではむしろ後生大事に、出世のもととなる「獲物」をかかえていく。他の隊員たちは責任のない所でその「他人の獲物」に暴行をふるう。時には連行中の隊員が「オイ、よせよせ」ととめることさえある。こうしたそれ自体犯罪的な情景は、この「出世欲」という要素を含んで考えると、いっそううすぎたないものとして映ってくる。
日大闘争の中で不幸にも亡くなった第五機動隊西条巡査部長(当時34才)について、東京タイムズ社会部編の「裸の機動隊」はこう伝えている。
『昇任試験に合格することは彼の大きな目標であったらしく、ユウ子さんと結婚した前後、繰り返し「二年以内に必ずパスしてみせる」と約束していたという。殉職三か月間の43年6月、希望して五機に入隊した。
「機動隊に移ったのは勉強できるからだと思います。だから、機動隊の中でも“学の五機”にはいれたことを非常に喜んでいました。勤務はとてもつらいようで、よくコボしていましたが、機動隊は幹部になるため一度はやらなければならないところ、と思っていたのでしょう。」
とユウ子さんは当時の夫の姿を思い浮かべながら語る。』
法を守る使命感も、個人的なイデオロギーも彼らを支える理由の一つではあろう。しかし、この出世欲こそが彼らの「やる気」の源なのだ。しかも、西条巡査部長(当時)は、そのために命を落としたのだ。
そう考えると、人間としての彼らの悲愴な位置が明らかになってくるし、さらに彼らを「やとい」自己の利害のために暴力をふるわせている、権力の中枢にいる人間たちの存在が鮮やかに浮かび上がってくる。
その人間こそ我々は最終的に告発していかなければならない。(後略)

(終)

【お知らせ】
年末年始はブログ(野次馬雑記)とホームページ(明大全共闘・学館闘争・文連)はお休みです。
次回は来年の1月9日(金)からとなります。来年もよろしくお願いします。


今回は「朝日ジャーナルで読む1970年代」シリーズの2回目。
朝日ジャーナル1973年6月29日号に掲載された、日大全共闘書記長だった田村正敏氏の記事である。

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【朝日ジャーナル1973年6月29日号】
にんげん(最終回) 「全共闘運動」を問い直そうとする 田村正敏さん

『アパートの自室の本棚。マルクス、レーニン、毛沢東などの著書のわきに「大西郷全集」全三巻がならんでいた。さらに、吉田松陰、高杉晋作、坂本竜馬など明治維新の志士たちの伝記。「やはり西郷隆盛に一番強くひかれますね。彼は大衆の持つエネルギーを非常によく知っていたと思いますよ。闘争をやっていたころは毛沢東に強くひかれていたんですけどね」。運動に挫折した若者にしばしば見られる「土着の思想」への回帰なのだろうか。
田村正敏君。26歳。もと日大全共闘書記長である。全共闘議長だった秋田明大君とともに5年前の日大闘争を“指導”した一人だ。その彼がこの5月、もとの仲間といっしょに「無尽」という雑誌を出した。全96ページ。秋田君と詩人の秋山清氏との対談のほか、田村君ら、もと“闘士”たちが寄稿した論文・随筆で埋まっている。テーマはいずれも「68年闘争」である。一冊300円。地味な本だが、意外な反響を呼んだ。初版三千部の大半がすでに売れた。かって闘争に加わった人たちだけでなく、広く若い世代にも反響を呼び、「版元」の田村君のところへはすでに100通近い手紙が来ている。
創刊の弁は「そろそろ風化し始めたでしょう。日大闘争の記憶も。そこでもう一度、掘起し、全共闘運動とは何であったかと改めて問い直したいんです。新しい出発のためにも」。直接のきっかけになったのは昨年の連合赤軍事件だったという。「全共闘運動は、ああはならなかったと思うけれど、それにしても、彼らとどこかで交差する部分があったかもしれない、という恐れみたいな気持ちがありましてね」。
この気持ちが日大闘争を改めて整理し、分析してみようという行動のバネになった。仲間といっしょに昔よくあった無尽講にならってカネを出し合い、無尽出版会をつくった。今年二月のことだ。
「鋳物の町」として知られる埼玉県川口市で育ち、いまも川口市内に住む。もともと東京の下町が延びていったような土地柄だ。そのせいか彼の持つ雰囲気も著しく下町風である。「短気でおっちょこちょいなのが欠点」と彼を知る人はいう。
「男っぽさ」へのあこがれもある。玄関の壁に高倉健が日本刀を抜いているポスターがあった。日大全共闘の最大の敵だった故古田重二良会頭についても、「彼はすくなくとも男だった。悪いやつだったけれども」と形容する。一種の“敬意”をこめて。
11ケ月に及ぶ拘置所生活、拘置所では同房者からいろいろなことを教わった。ドロボウの入り方、ブルーフィルムを作るコツ・・・。婦女暴行犯とも親友になる。気さくなところが好かれたらしい。「目からウロコが落ちるようで、いい勉強になった」。釈放後、業界紙の校正係、トラック助手などを転々、転職に次ぐ転職で1ケ月に5種類もの名刺を作ったこともある。生活にもまれ、厳しい現実にいやおうなしに直面する日々。「苦しかったですね。しかし、同時に、これまでの自分はなにか大切なことを忘れていた、という気持ちがし始めた。あの闘争を通じて、自分の見たこと、知ったこと、考えたことを一つ一つ語り、思い出してゆく作業が、その忘れていたことをさぐりあてる糸口になりそうな気がして」。
「無尽」の出版がその作業というわけだが、この仕事は彼のいう“風化”との競争かもしれない。5月末、田村君たちは、4年ぶりに日大文理学部を訪れた。「無尽」を後輩たちに売りつけるつもりだったが、売れたのは結局37部だけ。
しかもそのうち20部はかっての「敵」である大学当局のお買い上げ。当局側はどうやら、「敵を知る」ためにまとめて買ってくれたらしい。「本に興味がないならまだしも、日大闘争ってなんですか、と真顔で聞く学生がいたのにはまいったな」。が、彼のかってのバリケード仲間の中にも、こんな声があることは事実だ。
「ボクらが5年前、たたかったとき、60年安保のことなんか全然知らなかった。今の学生が68年闘争のことを知らなくても当然じゃないか。昔のことにいつまでもこだわるのはナンセンスだ」
「気がついたら、全共闘の書記長に押し上げられていた。状況の方が個人の意志より先行していたんだな」と田村君はしみじみという。彼の肩にはいまもあの挫折した巨大な闘争の重荷がずっしりとのしかかっているようだ。』

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(「無尽」創刊号 日大全共闘農獣医学部闘争委員会HPより転載)
(終)

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