野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2015年01月

今回は、前回に引き続き、昨年の9月28日に開催された日大930会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」の概要レポートの後半部分を掲載する。
なお、後半部分はゲスト・スピーカー発言後の質疑の部分も含めると長くなるので、質疑の部分は、更にもう1回、「質疑編」ということで次回に掲載することにした。
したがって、この日大930会公開座談会概要レポートは3回シリーズとなる。
では、後半の部分、ゲスト・スピーカーの発言の続きである。

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(会場写真)

【日大930の会(後半) 2014年9月28日 文京区・本郷のホテルにて】(前半でゲスト・スピーカー4名の発言があった。)

中大全中闘 O氏
「中央大学第二部でした。中央大学第二部というのは、60年安保の時は全学連反主流派の教育大、中央大学二部、早稲田文学部という学生運動の伝統あるところだった。しかし、私が入った65年には残念ながら民青に自治会が全部握られていた。その中にいた構造改革系の人たちは崩れてしまっていた。
中央大学は大学問題を中心にするという流れになっていたが、私たちのグループも学生運動をもう1回再構築するためには、政治課題、街頭闘争だけではダメで、大学の学内問題を取り上げて学生層全体に訴えていくということで、そういうものの先駆け的な闘いとして学館学費闘争があって、68年2月に学費値上げ白紙撤回という地平を開いた。
この流れを全国の学生運動に広げていきたいと思っていたので、68年5月に日大闘争が始まった時は、中大は近くにあるので、感動したと同時に興味深く思った。大学の在り方というのは、学生の決起の大きな課題になるという確証を持った。その中で我々の党派の活動家も獲得しなければいけないということで、しょっちゅうこの日大の闘争には出かけていた。ところがどこの党派が主導しているのか、そこも分からない。そこを見抜けないと入って行けない。
そういう中で感じたのは、中大闘争は終って正常化している、そういう中で、68年5月になると東大、教育大、日大と新しくバリケード・ストに入ってくる。そういう中で中大では2月の学費闘争の時にブントと大激論して、ブントは『このまま70年安保までバリケードで行くんだ』という方針を出した。これは学生大衆には通らない。闘いは一旦閉めようということで、またいろいろな問題を抱えて闘争をする、その時にどういう風に持っていくのかということは、今から考える正直無かったと思うが、本来であれば、その段階で東大、日大、教育大連帯ストライキというスローガンでもよかったのではないか。そこまでの政治力が弱かった。国際的な労働運動を見れば、どこかの工場がストライキに入れば、他の工場も連帯ストに入る、そういうものが問われていたと思う。神津さんの本にも『中大もバリストに入れ』ということを言われたと書いてあるが、、バリストをやるには課題、大義がなければいけない。その大義をどうするかということが、学費値上げ白紙撤回の後の闘いをどうするかという中で、バリケードを解除しようと言った我々にも問われていたものだと思う。
9月30日の大衆団交の時は、私は図々しくもあの団交に参加していた。壇上の一番隅に、いかにも日大の学生のような振りをして、そこに座って一部始終を見ていた。調印が行われて勝利した。私はこれは第二の中大だと思った。これでバリケードを解くだろう。中大の学費値上げ反対闘争の勝利の段階と同じような気分になって帰ってきたが、翌日に佐藤首相の介入があって白紙撤回した。日大闘争を権力闘争にしたのは政府側である。大きな節目は9・30だったのではないかと感じた。
三番目は、11・22。我々は全共闘の連絡会議・共闘を作ろうということで、一つは全学連が党派別に分裂している中で、学生戦線を統一するには、全共闘という組織体の連合という方向しかないのではないか、そのための大きな一歩が日大・東大闘争勝利全国学生総決起集会だった。当日、夕闇迫る中での日大部隊の登場というのは、映画になるような感動的な場面だった。どちらかと言うと、東大全共闘にしても対民青の戦術的な位置づけであって、戦略的に、これを機会にいかに全都の全共闘運動の連絡会議を作るとか、そういうところまでいかなかった。
東大安田講堂攻防戦が終わってから、5派でやっていた党派の調整会議が8派になって、その段階で初めて全国全共闘の組織を作ろうということになった。準備をして7月に全国全共闘活動者会議をやって、9月5日に全国全共闘連合を設立した。
代表が山本さんで、副代表が秋田さんで、あとは8党派の代表が事務局職員ということで、私も事務局職員としてやっていた。今から考えると8派共闘を越えるものではなかった。
9月17日に第1派として教育大奪還闘争をやっていただいたが、11月の佐藤訪米阻止闘争の時には、全国全共闘連合は機能していなかった。各派とも党派軍団でやった。そういう流れの中で全国全共闘連合が不十分なままで行ってしまった。
私は広い意味の大学闘争ということでは、日大も東大も教育大も同じだと思う。それが全体として大学をどう変革していくのかという綱領的なものが出来ていない段階で、各個別闘争の煮詰まりの中に行ってしまったということに問題があったのであって、大学変革、大学闘争という範疇の中に日大も東大も中大も全部含まれているのではないか。
ですから、68年の闘いは、大学闘争という範疇の中で、その生成、発展、ぶつかった壁というものを総括することが今でも必要ではないかと思っている。」

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(1968.2中大大衆団交)

司会:日大M氏
「5人の方から日大とどういう形で接触してきたのか、日大闘争をどう見て来たのかについて発言をいただいた。会場に来ている他の方からも発言をもらいたいと思う。
明治大学も中央と同じように闘争課題をどうするのかということで、全共闘がどういう形で出来たのか発言をもらいたい。」

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明大Y・R(会場から)(68年学生会中執委員長)
「明大全共闘ですか?私は明大全共闘の時にいないので、今回、彼(Y)に出てもらった。全共闘ではなく党派の人間として69年の東大安田講堂で逮捕されているので、明大全共闘結成や9・5全国全共闘結成の過程にもいない。」

明大全共闘Y
「明大全共闘は69年6月に結成した。私が作った訳ではないが、69年4月に駿河台の学生会館に機動隊が入ってきて、それがきっかけで大衆団交があり、全学的な盛り上がりがあり、学内的には学生部の廃止とか農学部再編反対とか学館の自主管理とか大学立法粉砕など六項目の要求を出して、6月に学生大会をやってスト権を確立して、並行して全共闘を結成した。学生大会で、これからの運動は全共闘に一任していくという形で、全共闘が自治会の運度の範囲ではなくて、全共闘の運動としてやっていくことが承認されてやってきた。6月にバリストに入ったが、10月初めに機動隊が導入されてバリストは解除された。元々、明大全共闘も党派主導で、党派が7から8、残りがノンセクト(一般)という割合だったので、ブント内あるいは党派間、ML派と解放派の内ゲバなどがあって、70年に入ると全共闘は実質的に解体していった。
(筆者補足:全共闘結成に至るきっかけとして、69年4月の日大全共闘の闘いに伴う駿河台学生会館への機動隊乱入があったが、これはあくまでもきっかけであって、それがなくても他のきっかけがあれば、それによってバリストや全共闘結成に至ったと思う。それだけ情勢が煮詰まっていたということだろう。なお、69年6月に結成された明大全共闘は、一部(昼間部)の全共闘であり、二部(夜間部)は別組織として、7月に全二部共闘会議を結成した。その後、9・5全国全共闘結成を前に、一部と二部の全共闘を統一した全明全共闘結成に向けた動きがあったが、ブントとML派の組織論の違いにより決裂。結局、ML派と中核派主体の全明全共闘が9月に結成されたが、、ブントと解放派、ノンセクトの大部分は参加しなかった。全共闘が解体し、70年6月以降、運動は停滞期を迎えるが、72年に明大新聞学会闘争を闘うノンセクトを中心としたマップ共闘が結成された。ここに明大全共闘の総括を踏まえた運動の遺産が受け継がれたと考えている。)

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(1969.6明大全共闘結成大会)

司会:日大M氏
「学内問題があって大衆運動があって全共闘が結成されたのではなく、どちらかというと政治的なスローガンが全面に出て、俺たちも遅れるなということで全共闘が結成されたということですね。」

【会場に来ていた「福島原発行動隊」のS氏(60年安保社学同委員長)から60年安保世代から見た日大闘争について話を伺う】

司会:日大M氏
「闘争が日大で起こったということは、どんな形で知ったのでしょうか。」

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福島原発行動隊 S氏
「当然、ニュースなどで知りました。私は60年安保闘争を闘いまして、61年の末に最後にいたのは革共同ですね。当時全学連委員長をしていた唐牛健太郎と、私は社学同の委員長をしていましたが、この2人は運動を離れた訳です。その時、私も唐牛も考えたことは、すでに革共同とブント、全学連主流派を指導していた政党が分裂をして、お互いに理論闘争で済めばよかったんですが、角材を持ち出した暴力的な闘争になりだしたところだった。自分たちは、これは何かおかしいんじゃないか、帝国主義と闘い、共産党と闘うということで血盟の約束をして発足したブントだったんじゃないのか。これが内部分裂をする、これは仕方がない。分裂してもお互いが理論的に闘うというのならいいんだけれども、これが暴力を持って闘い出したということに対して、自分もその暴力に手を染めて、これは何かおかしいということですね。別に理論的根拠がある訳ではないんですが、自分たちはエリートだ前衛だ、これを言っている限り、俺こそが正しい、あいつは間違っている、間違った奴は反革命、こういう理屈になる前衛意識そのものに間違いがあるんじゃないかと言って、私たちは運動を離れる訳です。
私はそれから神戸の港湾労働、山口組の田岡さんが社長をしている会社に入って、港湾労働者の中に入る、その後は埼玉県の工場に行って共産党と掴み合いのケンカをするといったように労働運動ばかり歩いて行った。68年9月30日は、夜の工場でそういうことをやっていました、連日、赤旗に叩かれてやっていたことを覚えています。
そうした党派とか前衛意識とか、そういうものから離れた日大の闘争は、そういうものとは無関係なものだなと、本当に新しい学生たちが自分たちで闘争を盛り上げて行く、とても素晴らしい闘争だなと、唐牛とも話をしたのを覚えています。大変新鮮に見えました。
60年安保闘争の時は日大の自治会の旗を見た覚えはないんですね。活動家として日大芸術学部の学生とのお付き合いはありましたが、日大がまさか学生運動をするとは60年当時は思っていなかった。
縁が無いと言えばウソで、実は共産党と闘うためには、相当こちらの態勢を強化しなければいけないということで、日大の空手部の人と非常に親しく、空手部が組織として当時のブントにやってきては、空手その他で社学同などの行動隊を教育してもらうこともありますし、いくつかの全学連の大会には日大の空手部の人に大勢来てもらいまして、共産党が攻めて来るのに準備をするということがありました。先ほど、東大の中で民青の宮﨑君たちの団体のことが出て来て、学生でなくて大人が出てきたと言っていましたが、共産党の行動隊というのは力があると覚えていますが、幸い日大空手部の前には共産党も現れませんでした。60年安保闘争においては日大とのつながりはそのくらいしかありません。
私は労働運動をやっていましたので、日大の現場を見に行くことは出来ませんでしたが、唐牛の方は東大の闘争にお手伝いをしたいと思って動いていたようです。私は年寄りが出て行く場合じゃないから止めた方がいいんじゃないかと言いましたけれど、そんなことを覚えています。あの全共闘闘争というのが、日本の学生運動にしっかり根を下ろして活動した。これから、いつかまた学生運動が盛んになるとしたら、やはり同じように全共闘というスタイルの闘争になるんだろうと僕は思います。今、党派党派と言われておりますが、党派が主導するようなものは党派のための学生運動であって、全共闘は自分たちのための運動だったんだなと思います。(後略)」

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(1968.9.30日大講堂での大衆団交)

(ゲスト・スピーカーの発言の後、会場から質問が出されたが、この部分は次回に掲載する。)

以上、昨年の9月28日に開催された、日大930の会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」でのゲスト・スピーカー発言の概要を2回にわたり掲載した。

日大全共闘は他大学全共闘からどのように見られていたか・・・やはり、この人の発言が日大全共闘に対する正当なかつ最大の評価だろう。
この公開座談会の1週間後、品川区の「きゅりあん」で10・8山﨑博昭プロジェクト「講演と映画の会」が開かれ、山本義隆氏(元東大全共闘議長)の講演があった。
山本氏は講演の中で日大全共闘について次のように発言している。

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山本義隆氏
「その点ではね、本当にね、初めのうちは(東大では)共闘会議と言ってたんですが、そのうちに全共闘という言い方、これは日大から輸入したんですけどね、あれ、全共闘と言ったのは日大なんですけどね、本当の意味で全共闘を作ったのは日大です。これは文句なしに本当に。単に日大全共闘というのは武装した右翼とのゲバルトに強かっただけじゃないです。
本当に、あのね、学生大衆の正義感と潜在能力を最大限発揮した、最大限組織した、ボク、あれは戦後最大の学生運動だと思います。今でも、あれ、考えるとナミダ出てきます。
ホント、そうです。ボクは、東大全共闘はものすごい恩義があるのです。借りを作っているのです。返しようもないけど、ホントすごいです、本当にそう思います。」
(日大のJUNさんによる書き起こし)

この山本義隆氏の講演の動画は、以下のサイトでご覧になれます。
「10・8山﨑博昭プロジェクト」  http://yamazakiproject.com


(次回「質疑編」に続く。)

今回は、大分時間が経ってしまったが、昨年の9月28日に開催された「日大930会」の概要レポートである。
「日大930」会から開催案内が郵送されてきたのは昨年の7月頃だったろうか。。封筒を開けると、「公開座談会へのお誘い」と書いてある。あれ?確か昨年の930会では、今年は「救対」のことを取り上げるということだったように記憶しているが、違うテーマになったのだろうか?
「お誘い文」によると、「全共闘運動の時代を生きてきた全国の友人たちに、『日大闘争』をどのような出来事として見ていたのか、また日大闘争から何を受け取り何を考えたのかなどを、自らの全共闘経験とともに語っていただく公開座談会を開催することにいたしました。」と開いてある。
今回のテーマは「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」。
この「お誘い文」に続いて出席者の名前が書かれており、その中に何故か私の名前が!?
出席予定の方は東大全共闘のK氏、早大反戦連合(早大全共闘)のT氏、教育大全学闘のM氏、中大全中闘のO氏、いずれも歴戦の活動家の皆さんである。そして明大全共闘ということで私。
明大全共闘といっても、デモや集会に顔を出していた程度で、一般学生とさほど変わらない活動しかしていなかった私では、いかにも不釣り合い。他の方とは格が違う。そして決定的なのは、1968年の日大闘争をリアルタイムで見たり聞いたりしていないことだった。これでは座談会にならない。
そこで丁重にお断りのメールを930会事務局の方に送ったのだが、明大土曜会に930会事務局の方がやってきて、再度、出席要請があった。「68年のことを知らなくてもかまわない。相対的に多少若い世代の視点から語って欲しい」ということであった。
当日の参加費が無料ということもあり、公開座談会への出席を了承した。
明大土曜会の中でも、特に異論はなかった。
この「日大930会」概要レポートの前半と後半を、今回と次回の2回に分けて掲載する。

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【日大930の会(前半) 2014年9月28日 文京区・本郷のホテルにて】

司会は日大のM氏。
「日大闘争の記録を出版しているが、今までは日大闘争の初期の事柄を中心に紙面を割いてきた。それは日大闘争の始まりの頃を探ることによって、どういうきっかけで日大闘争が起こったのか、そして日大全共闘はどういう作られ方をしてきたのか、という日大闘争らしさを表現できる部分だと思って初めの頃の特集をしてきた。
今日は私たちの日大闘争が何だったのかということを話し合っていくにあたって、その入り口として、日大闘争が私たち以外の人からどう見られていたのかということを検証してみようということになった。
930の会は主に日大の仲間を中心に集まり、日大闘争を経験した人を軸に話を進めてきたが、今回は少しレンジを広げて、日大闘争が外側からどのように見られていたのかを5名のゲスト・スピーカーの方に語っていただく。
では、順番に自己紹介をお願いしたい。」

<ゲスト・スピーカーの自己紹介>

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東大全共闘 K氏
「この会には日大全共闘結成40周年の時に来た。何故、会に出席することになったのかというと、NHKのBSの番組で戸井十月さんのインタビューでTVに出演したこと。私は末端活動家なので、こういう場に出て来ていいのかなと思うが、前回は東大安田講堂の隊長だった島さんが来ていたので付録みたいな気分だったが、今日は島さんがいないので、よろしく。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「930の会とは、この間、一緒にやらせていただくケースが多い。全共闘白書作成の前後から日大の方と会って話をするようになった。プロジェクト猪で活動している。自治労本部に勤めて、定年後は『ふるさと回帰運動』を現在やっている。この『ふるさと回帰運動』が早稲田の全共闘運動の延長線上にあることを公言している。」

明大全共闘Y
「69年明大入学なので、68年の日大闘争のことはリアルタイムで分からない。930会への出席は一度は断ったが、年齢が比較的若いということで出ろ、ということなので、それだけで出席させていただいた。」

教育大全学闘 M氏
「元旧教育大ということを最近肩書きとして書いているが、東京教育大がなくなったので旧教育大と称して、それの出身なので元旧教育大と書いている。
65年入学で、文学部自治会闘争委員会副委員長だった。文学部の常任委員を務めていた時に、正副委員長は民青で常任委員は反代々木系だった。呉越同舟の時期があったが、正副委員長が出て来なくなり、文学部自治会闘争委員会を作った。
2007年に同人誌『置文』で大学闘争の回顧と総括の事業をしようという呼びかけをしたら、それが日大の方の目に留まって、それからこの会にも毎回出させていただいている。 去年『大学闘争45周年記念フォーラム』を行い、日大の方々にも参加していただいた。
この時の報告をパンフレットに作ったので、購入していただきたい。」

中大全中闘 O氏
「1965年に中大Ⅱ法に入学。昼間働き夜学ぶということですが、霞が関役人、都庁役人が半分以上いた。あとは昼間の法学部を目指す人など。
中大は昼間は社学同で夜は民青。全中闘の主流派は社学同で、非主流派として共学同で活動していた。67年に行われた中大学館自主管理闘争に勝利し、67年末から68年にかけて学費闘争が行われ、68年2月に全面勝利しバリケードを自主撤去した。そんな中で日大闘争が起こった。」

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(1968.9.7神田三崎町)

司会:日大M氏
「今回は比較的レンジを広げて集まりを持つことなった。主にこの集まりでは日大闘争を軸に話を進めていく。それは1968年の出来事であり、全共闘でありということで、全共闘とはどういう運動であったのか、1968年はどういう時代だったのか、それと私たちの今との繋がりがどういうものだったのかを含めた議論になっていくと思うが、できるだけ実感的な形で、私は日大闘争をこう見ていた、あるいは知り合いが日大でこういう闘争をやっていましたという具体的で実感的な話を入り口にしていきたい。」

(2年前の930の会に参加して発言された「福島原発行動隊」の山田さんが、7月に亡くなられた。山田さんを含め、この間亡くなられた全共闘の方に対し1分間の黙祷を行った。)

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東大全共闘 K氏
「68年6月は日大だけでなく東大でも闘争が大きなうねりになった時で、私の記憶に大きなものとして残っている。新聞TVで日大闘争を知った。日大に関しては、日本で一番大きいマンモス大学で、かつ学生自治会もないという、我々の抱いていた大学のイメージとは違う雰囲気の大学だった。6月に様子を見に行った時、数が圧倒的に多いことに驚かされた。まさに白山通りを埋め尽くして、皆笑っているような 嬉しいことがあったような感じだった。67年10・8羽田闘争で山﨑君が殺されて、私自身も何かやらなくてはいけないと思っていた時期だった。
東大では医学連が安田講堂を占拠して、当時の大河内総長が機動隊を導入して排除したということがあった。それに対して機動隊の導入を糾弾するという運動が始まった。
東大の社会問題に感心がある学生の中では、日大でとうとう始まったのかという感じだった。日大は学生の自由な活動が抑制されて、学ランを来た人たちがカッポしているというイメージがあったが、そういったものが一気に変わって、正に革命的状況という印象を受けた。私の経験では、何が革命的だったかというと、日大闘争の大衆的広がりと嬉しそうな雰囲気で、世界の若者たちの騒乱と通じるイメージがある。
具体的な日大との連帯は、11月になってから。11・22で日大全共闘の皆さんが東大の本郷キャンパスに大挙来て下さった。確か到着が遅れたと思うが、安田講堂の前の広場を日大全共闘用に開けていたところに、暗くなってから意気揚々と入ってきたことを記憶している。安田講堂のバリケードの強化や駒場での闘いなどでは、日大全共闘の方には本当にお世話になった。東大全共闘は日大全共闘をお世話したこのはないと思う。そんなことで今日は出てきた。」

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(1968.11.22東大安田講堂前)

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「早稲田は65年66年に学費闘争があって、68年ころに文連の主導権を巡る解放派と革マルの争いで、駒場に解放派が追い出された。そういう中で日大、東大闘争が起きる。早稲田はどうするということで、68年夏以降 各学部から有志が集まり「反戦連合」が作られていく。ある程度の数が集まって、革マルとゲバルトをやっても恰好がつく段階で表に出た。69年の2・7集会で4~500名で学内に初めて登場した。そこに日大の田村書記長が来て連帯の挨拶を行った。革マルのしめつけが厳しくて、下宿にいても襲われるような状態だった。党派の連中は革マルが来ると逃げるが、反戦連合は革マルとぶつかる。そうでなれれば学内で集会ができなかった。学内的には全共闘系の運動体の登場を心待ちにしていた部分もあって、結構な人たちが集まってきた。折にふれて日大とは連携して、文理には何回か行った。初めてヘルメットを被った日大の人たちに会ったのは新宿東口のカンパ。日大の人たちはうれしそうだし、誇らしげだった。学生運動は大衆運動だから、ニコニコ笑ったり誇らしくないと、人が寄っていかない。
田村とはその後もずっと付き合っていた。いろいろと思い出がある。あと、早稲田で全都全共闘の集会をやった時、夜、法学部の民青を襲ってたたき出して法学部を奪還した。その時、どうしても壊せなかった民青のバリケードを芸闘委が取り囲んで、あっという間に解体して整理した。改めて日大の芸闘委のすごさにひれ伏した。」

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(1968.5早大構内)

明大全共闘Y
「69年に明治大学入学。ということで68年は高校3年生でノンポリ高校生だった。日大闘争はテレビで観ていて、大学って大変なところだと思っていた程度。69年4月に明大に入って、最初に大学に行った日が全学ストライキだった。これは、日大全共闘の闘いの影響で、駿河台の明大学館に機動隊が乱入して無実の明大生が暴行されたり、逮捕されたことに対する抗議のストライキだった。大学の最初の日が授業ではなく、大衆団交だった。
和泉の学生会館運営委員会に入っていた。学館には日大の方もたくさんいて、場所的に日大の方をお世話したというか、受け入れたと思う。日大の文理の方が多くいて、私の知り合いの文理の方に話を聞くと、私より食堂のメニューをよく知っていた。当時の和泉は明大というよりも、明治大学日本大学みたいな感じで、非常に日大の方が多かったような記憶がある。
(会場から「学館の1階と地下は日大で使っていた」という発言あり)
70年以降、Nプロの方と付き合いがあったと思うが、詳しく記憶していない。73年に新宿警察署の前の『秀新』という経済のKさんがマスターをやっていた店でアルバイトをしていた。その店にも日大の方が来ていて、そこでも付き合いがあった。」

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(1969明大和泉学生会館)

教育大全学闘 M氏
「私は直接日大の方と接触したことが少ない。68年6月から69年2月まで教育大の闘争があったが、初めの頃は弾圧を受けるとか民青と激しくやり合うことがあまりなかった。
他の者が外に支援に行くことはあったが、私は65年入学で党派の責任を担う立場でもあり、バリケードの中で留守を守る役割を行っていた。その後、69年2月にバリケードから撤収した後は逮捕状が出たので、1年間逃げ回った。
バリケードの中で留守番している生活と、逃げ回っている生活だったので、日大の方と接触する機会はなかった。
日大の闘争は新聞で知ったが、68年の6月7月の頃のことは印象に残っている。私たちから見ると、学生運動とあまり関係のない方々も立ち上がっている。これは何か新しいものが出てきたのかなという気持ちはあった。同時に、我が教育大もそれに間に合ってよかったという感じだった。大学に入って学生運動に関係するようになって、先輩から『学生運動の御三家というのを知っているか』と質問されて、『それはどこですか』聞いたら、『早稲田と東大と教育大だ』と言うんです。御三家であるならば、自分が学生運動に関わろうと思っている以上、あまり恥ずかしいことは出来ない、それなりのことはやらなくてはいけないという意識があった。
例えば、教育大ですぐに出てくるのは ハガチー事件。60年安保の時にアイゼンハワーの来日の下見で、ハガチーが羽田に来た。それに対して全学連の反主流派が迎え撃ちのデモをやってハガチーの乗った車を包囲したため、ハガチーがヘリコプターで救出されたという事件です。その後すぐに、権力は教育大に踏み込んだということがあった。そのように教育大はいろいろな運動をやってきたという思いがあるが、私が入った65年に文学部が日共民青に乗っ取られてしまうということがあった。それをきっかけに、我々のグループは凋落していく、それをどう食い止めるかということが私の大学生活の大きな部分を占めていた。それと、大学解体・破壊の策動が動いていた。東京教育大を解体して文部省立的な大学を作ろうという構想があって、67年に移転が決定された。当時、日共民青が指導部だったので、有効な反撃の闘争が出来ず、ピケット・ストも崩壊してしまう。68年にそれを挽回する闘争があった。68年の6・7月にバリストに突入できてよかったと思た。フランスの5月革命を始めとする闘争の一端に付くことができてホットしたというのが正直な印象だった。
あと、日大の闘争と教育大の闘争は非常に対極的であるということ。日大の人たちは陽気に楽しくやられているということに対して、教育大はそういう雰囲気の闘争は出来なかった。67年で移転が決まってるので、それをどうやって引っくり返すのか、というところに追い込まれており、権力は教育大を潰そうと思っている。権力の強い意志と、学内でのそういった意志に同調する勢力の力があり、一方で日共民青も力を持っており、反対闘争をするが、過激なことはやらない。ピケット・ストどまりで実質的な力にはならないという状況だった。沈鬱というか、非常に苦しい闘争になっていった。
もう一つは、党派と大衆の関係が非常に違うということがある。外からは自然成長的な大衆の爆発というように見えていた。教育大の場合は、10のうち6が党派的な割合で4がノンセクト・大衆の割合ではなかったのかという感じだった。もちろん小党派だから大した指導もできないが、そういう運動構造が大分違うということがあった。
三番目は、教育大は日共民青との対峙関係が非常に強いということ。60年安保からの経緯があり、全学連の反主流派が日本共産党と近かったが、反主流派が60年代初めに分裂して、いわゆる構造改革派が日共民青から飛び出すということがあった。その時に教育大は殆どが飛び出した。それは日共中央にとっては衝撃だったと思うので、それをまき返すための彼らの策動は大変なものがあった。日共民青とゲバルトをやることはあまりなかったが、日共系と反日共系の抗争の陰湿さは想像できると思う。教育大と日大を闘争を対比的に見てみると、日大闘争のいろいろな面が浮かび上がってくると思う。
闘争の衰退期のことをお話すると、教育大から追い出されていたが、日大のテロ・リンチが凄まじいという噂が飛びかっていた。
それから全国全共闘連合のことです。全国全共闘連合の結成にいろいろな問題があったということは、この間、議論されているところですが、教育大の人間としては、全国全共闘連合が結成の第一派闘争として教育第奪還闘争をやっていただいたことは、すごく恩義に感じている。教育大はそれまで他のところから恩義を受けたことがなかった。その時は日大の方にも来ていただいて、大いに力づけていただいた。お礼を申し上げたい。
最初は日大闘争と教育大の闘争を比べて異質感みたいなものはあった。教育大の筑波移転反対闘争は特別と思っていた、しかし、日大の9・30の大衆団交の後、いよいと権力と対峙することになった時に、急速に同質感を感じた。日大の場合は大衆団交が持てて、要求がぶつけられて、一時的には回答が得られた。教育大の場合は全く妥協がなかったので、正直、羨ましかった。」

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(1969.9.16教育大正門前)

(次回に続く)

先週に引き続き、昨年の12月6日に明大紫紺館(旧小川町校舎)で開かれた「土屋源太郎さんを支援する集い」の報告である。


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今回は「集い」の後半、明大学生運動60年を振り返り、4名の方から発言があったが、その発言の要約を掲載する。

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【K氏(1966年明大学費闘争で全学闘副委員長)発言(要約)】
「僕らが大学に入った頃に擬制の終焉ということがよく言われた。よく意味が分からなかったが、戦後民主主義の擬制の終焉とは何を言っているのか、1年の頃、吉本隆明なんて難しくてよく分からなかった。
我々は学費闘争の中でもポツダム自治会の終焉ということを言った。ポツダム自治会は自然に無くなったのか、人為的に崩壊させられたのか、その転換点になったのが明大学費闘争ではなかったのかと思っている。
自分個人としては1人1票制の大衆組織というのは崩壊させてはいけないと今でも思っている。学生会は1人1票ですから、形式はその後続きますが、実際は学費闘争で崩壊した。学費闘争が始まる前、あるいは渦中で学内のヘゲモニー争いが当然ある訳で、大学当局内部のヘゲモニー争い、あと、学生戦線の内部のヘゲモニー争い、これは明大社学同、統一ブントが明治を完全支配していたけれど、三派全学連を作ってくる過程で、それぞれの党派が少数ですが明治にいた訳で、これが介入してくる。それから、明大社学同の内部のヘゲモニー争いもあっただろうと思う。
それから三派全学連の委員長に斉藤さんがなった訳ですけれども、旧学館のトイレで、ある党派の政治局員が『明治みたいな私立大学で何で全学連委員長を出すんだ』と発言したのを聞いた。これが実際のところではないかと思った。帝国大学の残滓はこういう運動にもあるんだと、つくづく思った。党派同士の争いの中に、帝国大学的な学生運動支配の一端を垣間見るような気がして、斎藤さんが委員長になっても容易ならざることが起きるのではないかと思った。
それから、学費闘争とは一体何だったのか。私は和泉地区闘争員会の委員長ですし全学の副委員長をやっていたが、私も含めて豊かな学生はいなかった。ですから出発点は、単純な生活擁護闘争だったんだろうと思う。そういう素朴な生活擁護闘争の中に党派性を持ち込むとどういうことになっていくのか。明大学費闘争は正にそれだった。党派性がかなり強力に持ち込まれた。その中で明大社学同としてどういう対応をしていくのか。明大闘争の山場は2・2協定とよく言われるが、僕は2・2協定だと思っていない。記念館の体育会がいるところへ突撃した時が学費闘争の極限の瞬間だったと思っている。突撃する方針を出したのは各党派の学対部長の合同会議で、あるブントの政治局員が私に指示した。記念館に突撃すべしということになるが、その背景には2つあったと思う。
一つは、単に右派体育会系学生に対する我々の暴力的な反対行動だった、あるいは怯えだったのかもしれない。しかし、もっと大きな怯えは、記念館に突撃する1週間くらい前から駿河台が崩壊していく。和泉地区闘から見れば、駿河台が何で簡単に崩壊するのかと思ったが、要するに大学側から卒業できないと言われる。4年生は卒業できないと次の展望が出ない。就職が待っている、生活が待っている、ということで駿河台が崩れてくる。
自分たちの運動が崩れる、体育会が妨害している、これを暴力的に粉砕すればいいという単純な論理なのかと思っていたが、どうもそうではない気がする。記念館に突撃した後、大学院団交が行われた。私も張り切って総長に恫喝をかけて、学費値上げは白紙撤回、それから学生は処分しないことを瞬間的に約束させた。協定文を書こうということになって、協定文を作る用意をしていると、応援団が飛んできて、記念館から学生が引き上げていると言う。それで総長は、約束は無かったことにしようということで全てが無かったことになった。それで大学院の1階に降りてきた時の風景が全てだと思っている。大学院の1階に降りてきた時に、民青の諸君はボス交反対と叫んでいる。それから右派系の人たちも叫んでいる。三派系の人たちも叫んでいる。大学院団交で全学闘と明大社学同が完全勝利をしてしまったら、困る人たちがいたのではないかと思った。完全勝利をされてしまったら、少なくとも三派全学連の中におけるヘゲモニーと、明治大学の中におけるヘゲモニーが握れないと思う人たち、この人たちは反対をした。そういう流れの中で、おそらく記念館突撃も計画されたのではないかと思う。
記念館に行く前に3つか4つの流れがあったと思うが、妥協を探る動き自体は確かにあった。妥協を探る一つの流れが、大内君が2・2協定を結んでいく人たちだが、記念館突撃から大学院団交を経た後の2・2協定は、ただの2・2協定でしかない。ところが、2・2協定があったからこそ、その後の明大学生運動が残ったという極めて皮肉な現象が起きる。私も短期間だが、2・2協定反対の運動の先頭に立つ訳だが、記念館突撃から大学院団交の中での敗北が一切隠れて、矛先が2・2協定に向かった。自分としては、そのことによって明大の運動が残ったのではないかと思っている。明大の学費闘争が終わった結果、三派全学連の中で、統一ブントあるいは明大社学同を除く他の党派は全部利益を得ている。
半世紀経って私が学んだことは、鉄砲玉をやってはいけない。僕は明治の学生運動が終わって少し労働運動もやったが、自分も鉄砲玉にならない、人も鉄砲玉にしないということでやってきた。あとは、兵隊のいない大将はただの裸の王様、しかし、大将のいない兵隊は烏合の衆だということも学んだ。
以上、学費闘争について簡単に報告させていただきました。」

引続き、60年代後半から70年代前半の全共闘運動の時代について、生田から2名の方が発言した。以下、要約を掲載する。

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【S氏発言(要約)】
「私は学費闘争が終わった67年の入学です。工学部です。当時の大きな課題は70年安保闘争ないしはベトナム反戦運動だったと思います。私の次の年代の人たちは、卒業するまでに一度も試験をしたことがないという年代です。私の世代は学費闘争の敗北を背負って入った世代ですが、学生会としての再建ということが出てきます。私が一番大きな衝撃を受けたのは、10・8羽田闘争です。これから全共闘運動は大きく政治的な課題に向かって進んで行った時代ではないかと思います。
当時、社学同自体も分裂してく中で、戦旗派と叛旗派、情況派という目に見えない動きがありまして、赤軍派との対決もありました。ただ、私自身は直接そういう党派闘争には関わりを持ってこなかった。工業化学科闘争委員会を作ってキャップを務めていました。どういう訳か、学生時代はブントから全く声がかかりませんでした。卒業してから誘いを受けまして、生協で6年間勤めました。その当時は激しい党派闘争がありました。
私は生まれた娘が重い障がいを背負ってしまって、東京に居られなくなってしまった。完全介護が必要で、今でも7人がかりで介護しています。そういう中で長野に帰らざるを得なくなり、生田に10年いたんですけれども、長野に帰りました。     
長野に帰って私立学校に5年ほど勤めました。ただ、娘のことがあり、障がい者が抱えている課題について活動しなくてはならないだろうということで、表向きは日本青年奉仕協会のボランティア活動ということで10年ほど活動しました。その後、10年間リタイアしまして、長野市から標高千メートルの飯綱高原で隠遁生活に入りました。それから今の活動に入っています。今は約9町歩の自然農法の農地があります。農業生産法人を作っています。
一つの目的として日本の農業を何とか再生したいというのがありまして、工学部でしたが、農学部で微生物学、地質学、気象学などを勉強しました。農業に非常に大きな魅力を感じていましたので、長野に帰った時に、何とか農業をやろうと決意しました。
今は公益財団法人「いのちの森文化財団」で5つの事業をやっています。30人ほどのメンバーがいますがほぼ全員が精神障がい者の方です。この20年で約500名を社会復帰させるために一緒に生活して社会に復帰させていく活動をしているんですが、最近は症状が重たい子が多いです。今の日本の精神科医療は極めてお粗末、本当の治療をしていないのが現状なんです。私の活動のベースになっているのは、生田での10年間の活動だと思います。土屋さんとKさんのお話を聞いて、私たちの中に息づいている明大魂みたいなものがどこかにあるような気がします。」

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【W氏発言(要約)】
「私は69年に工学部に入学しました。私の年代は高校生時代に羽田の10・8だとか、防衛庁闘争だとか、東大闘争を見ていて、大学に行ったら学生運動をやるんだと、それで入った人間が結構いるんです。僕もその類で、入学の日に、ストライキの集会をやっていて、中村幸安さんが元気のいいアジテーションをしていまして、これしかないと改めて思いました。次の日にSさんがクラスオルグに来た時に、僕やりますと言って、そのままずっと学生運動をやってきた。僕は授業に出る気もしないし、卒業式も全くないので、僕が取った単位は10単位。授業は自治会の委員を決めるような時しか出ない、6月からストライキでしたからほとんど授業に出ない。農学部の人たちは真面目だったので、OやKさんなんかは8年かかって卒業しています。2・3年で辞めてしまうか、あるいは8年かかって卒業するかでした。僕は毎日毎日活動していました。
生田は篠田さんと中村幸安さんの2人の巨頭がいて、その中でバランスを取りながら僕らが活動をやっていた。工学部も農学部も委員長は4年生だったが、学費闘争の関係で名ばかり委員長で、ほとんど学生運動はやらない。主要には1・2年生が活動をやっていた。4年生は顔を出すけど遠巻きにしていた。だから大学に入ったと同時に全面に出されて、その後すぐブント内の党派闘争がありまして、生田は生田ナショナリズムみたいなものがあって情況派に行った。毎日、活動と内ゲバということです。連戦連敗です。1年の時は訳も分からないのに赤軍派との内ゲバに連れていかれたり、ML派との内ゲバに動員されて行きました。中大の寮に行った時は怖かった。上からブロックが落ちてきてヘルメットが割れた。翌日に明大の校舎に入って逮捕されました。
大学は毎日行って泊まって、中身の濃い学園生活を送っていたけれど、2年2ケ月しか大学にいなかった。幸いHさんたちが地域生協を作るということがあったので、食い扶持を見つけられた。生協もそんなに長くやるつもりはなかったんだけれども、ずっと続けてやらせてもらった。
いろんなところで生田の活動家の人たちが地域活動をやっていて、皆と一緒にやってきたことが今日に生かされているのかなと思っています。
今、ヘイトスピーチ反対の『のりこえネット』というのをやっています。それと同時に『ソウル宣言の会』というものを起ち上げて活動しています。」

最後に、二部からH氏から発言があった。以下、要約を掲載する。

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【H氏(1969年全二部共闘会議議長)発言(要約)】
「二部の文学部自治会に在籍していましたHです。私が入学したのが1966年、明治の学費闘争が起こった年でした。その時から学生運動にのめり込んで、その後、67年10・8羽田闘争とか佐世保闘争とか王子野戦病院闘争とか、さまざまな街頭闘争に参加してきました。
考えてみますと、当時の学生運動は、一つにはそれぞれの学園内部の矛盾と、もう一つ大きな背景としてあったのは、ベトナム戦争に対する立場の表明、ベトナム戦争に反対する行動だったんだろうと思います。そういうものを経ながら、当時、僕らはある未来みたいなものを夢見て形作ろうとしていたんじゃないかなと思います。ですから、社会主義学生同盟ですとか、私はML派でしたけれども、そういう組織に加盟することによって未来を夢見ていたんじゃないかと思います。
当時、思っていた未来と、現在迎えている現実とが一致していたのか、一致していなければどれだけズレているのか、ということを最近ちょくちょく思うことがあります。それだけの長い時間を経て、私たちが何を作って来たのか、振り返りながら考えます。答えはまだ出ていません。
それから、夢を壊す出来事を、僕らは一方で随分作って来たんじゃないのか。その象徴的な事件が連合赤軍の仲間殺し。あの事件は、当時の学生運動に関わった人たちに内在していた、どうしようもない部分だったのではないかと思います。セクト争いが暴力沙汰になり、暴力沙汰が最後に殺人沙汰になっていくというあり方が、当時僕らが社会主義や共産主義を望んだりした、夢の中で作ろうとした社会とどれだけ一致していたのか、ズレていたのか、こんなことをこの歳になってなお考え続けているところです。
そんなことを考えながら、この近くでお好み焼き店をやっています。」

以上、土屋源太郎さんからの報告と、4名の方からの発言が終り、懇親会に移った。「土屋源太郎さんを支援する集い」の締めは、明大の校歌とインター斉唱。歌唱指導は柳家三壽さん。

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二次会はH氏がやっている近くの「お好み焼き」店へ。ここでも夜遅くまで懇親を深めた。
今回のような明大学生運動に関わった方々が一堂に会する「集い」は、Y・R氏も言っていたように、これが最後かもしれない。しかし、大掛かりな会合は難しいとしても、小規模ながら定期的に開催している「明大土曜会」がある。
「明大土曜会」は明大関係者が中心ではあるが、他大学の方や、学生運動に関わりのない方、若い方も参加して情報交換など活動を行っている。
偶数月の第一土曜日の午後2時からH氏の「お好み焼き」店で開催しているので、「集い」に参加した方も参加しなかった方も、明大以外の方も顔を出してもらいたいと思う。

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(終)

2015年最初のブログは、昨年の12月6日、明大紫紺館(旧小川町校舎)で開かれた「土屋源太郎さんを支援する集い」の報告である。
土屋さんは1953年に明治大学に入学され、明大中執委員長、都学連委員長、全学連書記長を歴任された。1957年の砂川闘争で逮捕され、「伊達判決」で無罪になったが、その後の最高裁で差し戻しとなり、差し戻し裁判で有罪となった。
土屋さんは現在、「伊達判決を生かす会」の共同代表として活動され、砂川事件最高裁判決無効を求める闘いを中心となって担っている。
今回の集まりは、今までの土屋さん闘いを支援するとともに、1953年に明大学生運動が始まって以降、60年の歳月を振り返るという趣旨で開催された。
今週と来週の2回に渡り、この「集い」の概要を掲載する。
今週は前半の土屋源太郎さんからの報告である。

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司会はY・R氏。今回の集いの趣旨と会の進行について説明があった。
「今回の集まりの趣旨は、皆さんにご案内したとおりです。土屋源太郎さんは今でも闘っておられますので、土屋さんを支え、あと砂川闘争から60年経ちますので、この60年間を振り返ってみようという趣旨で開催しました。
選挙があったり、暮だったり、風邪などでちょっと集まりが悪いですが、50名近くの方に集まっていただきました。本当に有難うございました。
今日は最初に土屋源太郎さんから、土屋さんが今闘っておられる闘いの報告を含めて30分ほど、その後、学費闘争に関してKさんに発言していただきます。70年代の全共闘運動について、生田で活動していたWさんの発言を受けます。そのあと、二部の方からも発言を受けて、懇親会に移ります。
懇親会の後、皆さんから活動の報告など発言を受けて、最後にインターと校歌を歌って閉会とします。
では土屋源太郎さん、お願いします。」

土屋さんから、明大時代の学生運動の状況と砂川闘争、そして現在行っている砂川事件最高裁判決無効の裁判について報告があった。以下、報告の要約を掲載する。

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【土屋源太郎さんからの報告(要約)】
「私が明治大学に入学したのが1953年です。当時の明治大学は皆さん想像できないかもしれないが、ひどかったんだ。例えば生田の学生が小田急線の中でションベンしちゃったとか、体育会の合宿所で出前を運んで来た女の子を暴行しちゃうとか、暴力団系の学生が結構いて、そいつらがパーティー券を暴力的に脅かして売りつける。とにかく新聞の三面記事に明治大学がものすごく載ったんです。
その背景としては、当時の明治大学は残念ながら教育というよりは学校経営が中心で、いかに儲けるのかということだった。理事とか評議員の中に、暴力系や右翼系の人間が結構いた。その連中が支配していたために、良心的な教授などが排除されて発言できないという状況が現実にあった。
1952年に、商学部がそれに反対してストライキやるということになって、それがきっかけで学内浄化運動が始まったけれど、理事会側がのらりくらりで、入学の時には不正入学、大教室に詰め込みですよ。それから教授がアルバイトをするので休講を平気でしてしまう。それから教科書は使い回し、少し内容を変えて毎年それを買わせる。買わないと試験に通らない、そういう状態だった。
学生会はあったが、学生会としての自治の機能が働いていない。法学部、商学部、政経学部という中心学部が、ほとんど学校寄りで、中央執行委員会が学校側とボス交をやっている、そういう状況だった。
そういう状況の中で、このままにしておけないという声が広がって、1953年の6月に学生大会があり、不正入学反対とか理事会・評議委員会を変えろとか12項目の要求を出すと同時に、そういう学園民主化運動をする以上は他の大学との連携も必要だということで全学連加盟が可決された。全学連は国立大が中心だったが、明治が加盟するということで、私学が結構加盟した。
学生大会で、12項目について回答しなければ全学ストに入るという決議がされ、僕もクラスの闘争委員に参加した。それが僕が学生運動に関わる最初だった。4月1日の全学ストはうまくいった。それに対して暴力学生が暴力を振るうということはあったが、最終的に教授会が仲介案を出して、それを理事会が飲むということでストが中止された。
それと併せて保守的だった学生会が崩壊するという状況になって、学生中心の自治活動に変えるということになった。僕は1年生だったが、法学部の執行部改選の時に事務局長になった。明治の場合は、そういう経緯があったから自治会という名前が使えなかった。学生会だった。だから書記長ではなくて事務局長。そういう状況で中執も変わっていく。全学連に加盟することによって明治も非常に大きく運動自身が変わっていくきっかけになった。

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全学連加盟によって全学連の中央委員にもなって、外ともいろんな関係ができる。その年の12月に共産党に入党した。共産党に入党して分かったことは、全学連の中央執行委員はほとんど共産党員という状況で、共産党の影響力がものすごくあったことだ。
54年くらいから、共産党内部の分裂からいろいろ問題があって、55年の六全協が出る前で、共産党としても今までの極左冒険主義に対する批判が出て来て、学生運動そのものも政治主義ではなくて、学内のより良き学生生活、これをテーマにした運動になっていった。当時は歌って踊って平和というおかしな状況になるが、一方で原水爆禁止の運動が始まる、そういう状況で54年に明治で全学連の平和集会をやった。ただし、これは歌って踊ってが中心。54年から55年の初期には、原水爆禁止の運動や原爆実験への抗議行動に明治から大量の学生が参加した。その背景にはサークル活動が基本にある。社研とか論潮とか民主主義団体協議会のサークルが非常に強かった。それと法学部、文学部、経営学部が中心になって運動を進めていた。商学部、政経学部、農学部は学生運動は学内に絞るべきという依然として保守的な傾向があった。そのため、学生大会になると、全学連加盟によって運動が政治的になりすぎるという問題が出されたが、我々としては当然、政治的な課題に取り組んでいかないと学生運動も学生生活そのものも守って行けないという主張をした。54年の秋に中執の事務局長になり、55年の秋に中央執行委員長になった。
当時、共産党の影響力は非常にあったから、中執委員長になった時に、僕は共産党の明大細胞のキャップをやっていたし、千代田区の地区委員会の学対責任者でもあった。
しかし、党との間ではいろいろな問題があって、絶えず矛盾を感じていたというのが実態です。ですから、55年の砂川闘争は全学連は全然関わっていないです。そういう方針でいたから、鈍かったんです。その一方、原水爆反対運動では街頭で激しい蛇行デモなどやるんですが、砂川闘争には参加しなかった。
ただ、明治大学というのは、当時、蛇行デモをやると頭か尻尾なんです。そういうつらいところを引き受ける。当時の明大の学生運動は周りからも信頼されていたし、力も付いてきた。

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55年の砂川闘争は、立川の米軍飛行場を原爆を搭載した飛行機が離着陸できるように拡張するための土地収用が決定されて、それに反対する地元農民が中心となって反対運動を展開した。55年闘争の時に、警官による暴行や反対運動に対する切り崩しがあって、反対同盟の中の動揺が広がった。そういう状況を受けて、反対同盟の中から、この際、全学連にも支援を要請する必要があるということで、56年の春に全学連に要請があった。
たまたま56年に全学連の体制が変わる。55年末から56年にかけて全学連の体質改善が進んできて、香山などが中執委員にいて、僕が中央委員でいた。そういう中で砂川闘争が始まった。我々は55年に闘争に参加しなかったことを非常に反省して、56年の闘争に取り組んだ。
明治でもクラス討議や、いろんなところで討議を重ねて支援した。大変な動員力があった。56年は僕が明大の中央執行委員長だったので、闘争にずっと取り組んで行った。56年の闘争は千人からの流血があったが、最終的に測量中止に追い込むということで勝利した。56年の闘争が10月にあったが、その秋から全学連内部の抗争が始まる。全学連が砂川闘争で新聞とかいろんなことろに出る、地元や総評から評価を受けるということで、全学連内部から『砂川闘争は総評の手のひらで踊らされた』という批判が出て来て、それに対して党中央が、どちらかというと批判する側に肩入れしてきた。そういう抗争があって、何とか改選しなくてはいけないということで、57年1月に僕が都学連委員長になった。56年は明大全体の闘争と、全学連中央委員として現場闘争に関わったが、57年は都学連委員長として現場指揮の責任を執る形で闘うことになった。
57年は基地内の土地の強制収用なので、基地内に入って抗議行動するということを基本方針として持っていた。前の晩の戦術会議で総評から『明日は中に入りませんよね。強行突破しませんね。』と言われていたんだけれども、『できるだけ状況を見ながら慎重にやります』と答えながら、実際には夜中から工作部隊を出して、柵がすぐに倒れるように作業して、当日、突っ込んだ。
我々が突っこめば、スクラムを組んでいるので、皆そのまま突っ込むだろうということで、案の定、皆突っ込んだ。後で考えれば、学生は身軽でいいが、、起訴された労働者は首になったり大変な思いをした訳です。入ったことによって、1月の時点では杭を打つことも出来ずに、双方別れた。ところが9月になって逮捕されるという状況になった。57年に起訴されて、59年の3月30日に伊達判決が出て、米軍駐留は憲法9条違反という事で無罪となった。

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この、57年58年というのは全学連にとっても大変な時期だったし、明治も大変だった。僕が都学連委員長に出てくという状況の隙を突いて、右翼系の連中を中心とした連中に中執が乗っ取られた。商学部、政経学部、農学部、工学部そして経営学部の一部が結託した。このままでいったら、全学連へ加盟しないとか、学内闘争が否定される状況になってくる。そこで学生大会で、会計の使い込み問題があり、それをネタにして罷免決議をしたら、執行部が全員総辞職した。本来は中執で委員長など執行部を決めるのに、その場で決めた。それに対して体育会や応援団が記念館に座り込みをするなど妨害をして、学生大会が開けない。一方で、全学連と共産党との間の抗争が始まる。58年6月に全国学生党員代表者会議が代々木の党中央で開かれて、僕が議長になって進行をするのを党中央が認める認めないで、グチャグチャになって、最終的に我々が会議を乗っ取った形になった。共産党中央執行委員の罷免決議までやった。それで僕は査問会議にかけられたりして、最終的に除名された。
当時の共産党がおかしかったのは、例えば原水爆実験に対して、アメリカの原水爆実験は汚い、けしからん、ところがソ連の実験は綺麗な実験だと言う。馬鹿言うな、原水爆実験に綺麗も汚いもあるか、そんなことも含めていろんな政治課題で対立し、全学連大会においては、特に教育大学や早稲田の一部の妨害によって揉めにもめた。そういう状況があったため、どちらかというとそっちに精力を取られていた。
59年の3月30日に伊達判決が出る。伊達裁判長が主文で無罪と言った時は、本当に頭の中が真っ白になった。それから理由について述べて読んで行くうちに『すごい。こんな裁判長がいるのか。』と思った。しかし、最高裁に跳躍上告になって、12月16日に一審判決破棄・差し戻しの判決が出て、差し戻しの裁判で二千円の罰金になる。それで、砂川裁判は一応のケリがつけられた。
57年58年にいろいろな動きがあって、57年暮れに革共同ができる、58年にはブントができる。本来、ブントも革共同も一緒に運動をすればよかった。ところが、つまらないことで対立した。それが60年安保闘争にも影響したし、全学連が分解していく要因を作り出した。この辺が現在にもつながる教訓があると思う。
最高裁の裁判において、当時のアメリカ大使から日本の外務大臣に対して強力な働きかけがあり、当時の最高裁長官がアメリカ大使に会って裁判内容などについて3回に渡って会って話をしている。
このことが2008年に明らかになったために、この伊達判決をもう1度蘇らせて多くの人に知ってもらいたいということで、当時の全学連や明大の多くの仲間に呼びかけて「伊達判決を生かす会」を結成した。それで日本側の情報公開請求もやったが、情報はほとんど出て来ない。この問題に対する闘いが組めないか、弁護士の先生と相談した結果、当時の最高裁長官の行為が、裁判の公正を欠く行為であり、憲法37条に明らかに反しているので再審請求をやろうということになった。それで、今年の6月17日に再審請求を行った。安倍政権が集団的自衛権を行使するにあたって、砂川裁判の最高裁判決で集団的自衛権を認めているということを引用している。これは全くインチキな話で、それがあったものですから、何とか国会開会中に間に合わせて請求を行った。
皆さんにいろんな形で感心を持ってもらいたいし、署名簿も持ってきているので、署名していない方は是非署名をよろしくお願いしたい。」

土屋さんからの報告は以上である。
来週は「集い」の後半、明大学生運動60年を振り返り、4名の方からの発言を掲載する予定である。

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