野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2015年02月

2010年6月、1冊の本が出版された。「叛逆の時を生きて(朝日新聞出版)」。1960年代後半から70年初頭にかけての「あの時代に、学生運動に加わった人たちはどんな思いだったのか、なぜ、あんなに学生運動が盛り上がったのか、急速にしぼんだのはなぜなのか」、当時の学生運動に関わった人たちや関係者に取材した本である。2009年に朝日新聞紙上でも連載された。
この本の中に、明大から取材を受けた人がいる。

「革命家になろうと思ったことはなかった」米田隆介(「叛逆の時を生きて」より引用)
(前略)安田講堂ではセクトの外人部隊のひとりに米田隆介がいた。明治大学自治会の委員長で社学同のメンバーだった。米田は攻防の始まる3日前、安田講堂に入った。
「安田講堂に入れば逃げられないことはわかっていた。それまでのさまざまな闘争で先輩が次々に逮捕されていた。今度は自分の番だと思っていた。ためらいはありませんでした。」
たてこもるねらいはなんだったのですか。
「ひとつは、権力に抵抗して闘いの火を広げること。もうひとつは、社学同の組織をアピールし、組織拡大をめざすことでした。安田講堂攻防の後、全国各地の大学で新たに闘争が起きた。その意味では、効果があったのかもしれません。」(中略)
安田講堂の攻防では5階のバルコニーにいた。道路からはがした敷石が投石用にたくさん用意されていた。
「あれはかなり重かった。機動隊の頭に当たると、亡くなったり、大けがをしたりする。その前年に、日大で警察官が亡くなっていた。そうかといって、投げないわけにいかない。直撃しないように投げた。機動隊員の近くに落として、バーンと割れるように。」
攻防が終わったときは、放水でずぶぬれだった。
「冬の夕方だったから、ともかく寒かった。これで暖かいところへ行ける。しばらく休める。そんな気持ちだった。」(後略)

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(安田講堂攻防戦の写真)

米田氏は、当時、明治大学学生会中央執行委員長であったが、社学同の行動隊長として東大安田講堂に籠り、1969年1月18日と19日の攻防戦を闘った。
先日の明大土曜会で、米田氏から46年前の東大安田講堂籠城に至る経緯や攻防戦の状況など話を伺ったので、その要約を掲載する。

【明大土曜会での米田氏の話】
<東大安田講堂籠城に至る経緯>
2008年の時に東大の駒場祭に呼ばれて、東大闘争について話をして欲しいということで、東大助手共闘の最首悟さん、東大全共闘の片桐さんとともにパネラーで話をしたことがあります。
69年に東大安田講堂に入った時は、明治に全共闘はなかった。私の意識としては、明治の中執委員長としてではなく、社学同の一員として入ったということを駒場祭でも話をしました。
69年1月10日に駒場で民青とやった時の写真があります。荒君とか私とか久保井さんとか大下君も写っています。これは荒君の本「破天荒伝」の中に使われている写真です。

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私にとっては、東大闘争は全共闘運動という意識は全くなくて、三派全学連の宣伝合戦、70年安保に向けて自分たちの勢力をどれだけ増やしていくかというのが主題の闘いであった訳です。
当時のブントがどうなっていたかというと、68年の10・21防衛庁闘争の時に、後の赤軍派のグル―プは火炎瓶を使えということを言っていて、それに対して東京のさらぎさんなどのグループはそれはできないということで、それの折衷案として丸太を抱えて防衛庁に突っ込こんだ。前日の10月20日に、明大の池原さんを隊長にして20名程の部隊がトラックに乗って防衛庁占拠を目指して、一部占拠した。そういう闘争があって、ブントの中も東京系と関西系に分かれていた。
1月16日の夜、ブントの政治局メンバーから、社学同の指導部であった委員長の荒岱介、ブントの学対部長の高原浩之に「機動隊の導入が近いが、革マル派から連絡が入った。彼らは法文二号館から出ると言っている。社学同も安田講堂から出ろ」と何とも信じられない方針が出たそうです。私はこのことは直接聞いていませんが、安田講堂に荒君と高原さんが戻ってきて、そんな事を言っていたという記憶はあります。
高原さんが「出ろってなんや。学生は皆、死ぬ気でやっとるんや。敵前逃亡しろと言うのか、」と言ったことに対して、「政治局の決定に従えないなら、全てお前らの責任だ。」ということで大ゲンカになって、対外的には社学同だけでやる、ブントの政治局の許可を得ない、社学同の勝手な判断でやったという形になった。
その時の社学同のメンバーは、委員長が荒さん、ブントの学対が後に赤軍派に行きますが高原さん、北海道から山内さん、中大の久保井さんなどがいた。明治では、当時社学同が30人くらいで、トップが池原さん。明治は学費闘争の後に上の世代が皆いなくなったので、学費闘争が終わった時の66年入学の1年生のグループと65年入学の小森さんなどが中心だった。その小森さんが67年8月頃に運動を辞めてしまう。学費闘争の時の中執の大内委員長の後に、中執委員長代行を小森さんがやっていたが、「米田を中執委員長にする」ということで去っていった。生田は篠田さんなどの力があって、妹尾さんがキャップだったと思う。池原さんが68年10月に逮捕されて、社学同の組織のキャップは両川君がやった。両川君も11月に逮捕される。やる人間がどんどんいなくなる中で、本来、僕は中執委員長だから残った方がいいと思ったけれど「しょうがないから行くか」ということで入ったのが、私が東大安田講堂に入る経緯です。
1月18・19日に至る具体的な経過を話しますと、1月15日の安田講堂前で行われる「東大闘争勝利・全国学園闘争勝利労学総決起集会」に向けてブントとしては同志社を中心に関西からも動員して200名くらい集まった。当初は全員籠城という意気込みだったが、そうもいかないということで、指導部レベルでは、荒君も高原さんも、山内君も久保井さんも村田さんも全部入らない。米田が入れということで私が入り、関西から来た100名くらいは人選して半分くらい返している。関西から50、東京から50で全部で100名くらいが入る事になった。

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(1.18部隊配置図)

当初、ブントが守る場所は安田講堂ではなかった。資料の1.18部隊配置図の安田講堂の後ろに「(理)1号」とある理学部一号館だった。この建物は安田講堂の裏手の斜面になっている低い位置にある。東大の正門玄関から安田講堂に向かって左側がML派の列品館、その隣が中核派の法学研究室、その奥が革マル派が守るはずだった法文2号館で、マスコミにアピールするのは正面がメインなので、安田講堂の後ろにいたのではやってられないとうことで、荒君が安田講堂にいた今井さんのところに行って、「68年の6・15の時に医学連が安田講堂を一時占拠した実績があるのでブントは安田講堂だ」ということで無理やり入り込んで、解放派と「出て行け」「そうはいかない」と殴り合いのケンカになったが、今井さんが仲裁してブントが入る事になった。

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(安田講堂攻防戦写真)

<1月18日の状況>
1月18日、午前7時30分に青医連が立てこもっていた医学部の図書館の封鎖が解除され、22名が逮捕された。8時15分頃、300名位のデモ隊が正面玄関から入ってきた。機動隊は安田講堂を攻めるために正門は検問していなかったのではないか。デモ隊は安田講堂の前までやってきた。外にもこういう部隊がいるということで、こういう仲間もいるんだと思い、悲壮感はあったがやる気になった。デモ隊は銀杏並木を1周して機動隊に押出された。
革マルはいないということだったんですが、実際には法文2号館にいました。革マルはここで12名逮捕されています。まあアリバイですね。私は安田講堂にいたので見えるんですが、何もないのに革マルのヘルメットを被った人間が屋上に出て来て、その後、機動隊が出て来て、ほとんど抵抗なしで逮捕されていった。そういう意味では革マルは敵前逃亡したが、アリバイ的に12名を残していた。
列品館では、明治の滝沢君が東大闘争の中で一番重い刑を受けている。放火が付いた。都市ガスを引いて、先にノズルを付けて火炎放射器のようにしていた。ML派は38名が逮捕されたが、見ていてもすごかった。ノズルの先から火が出ていて、その他に火炎瓶も投げるので、建物の中で燃えて煙が出てきた。休戦協定を結んで、怪我人を一人降ろした。消防車が来て放水して火を消したが、また火が付いて、ML派はそこで闘いを止めた。
私はブントの隊長ということで安田講堂に入っているし、滝沢君も列品館で頑張った。そこそこ明治も頑張ったということです。
18日の闘いでは、中核派が法学研究室で闘って、建物内部の闘いは見られないが、屋上でゲバ棒で機動隊と最後までやり合っていた。第四インターもここに入っていて、167名が起訴された。安田講堂以外では、ここが一番数が多かった。18日に一番最後まで闘ったのはここです。
1月ですから4時か5時には暗くなる。機動隊の放水も5時10分には終わっています。
その日の安田講堂は1階に機動隊が入ってきた。安田講堂の正面玄関は3階になっていて、裏側から機動隊が1階に入ってきたが、暗くなったので5時過ぎに引き上げた。それで「1日持ったな」という記憶がある。この日はまだ安田講堂の中を行ったり来たりできた。

<1月19日の状況>

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(安田講堂の断面と各党派の配置)

東大の島泰三さんの「安田講堂1968-1969」という本と、私の記憶でによると、安田講堂の屋上には各党派の旗振りが一人ずついた。ブントは上原君が最後まで旗振りで残った。6階部分には中核派、5階の左側に社学同の関東の部隊が50名で右側がケンカした解放派が40人くらい、4階には東大全共闘の全闘連と青医連のグループが30人くらい、3階の後側は東大全共闘40人、3階の正面には関西の社学同が50人と第四インターのグループがいた。
1階は誰もいなくて、1階から入ってきた機動隊が階段を上がって来るのを防ぐという形になっているので、2階に中核派がいた。一番の闘いは1階から2階に上がる過程だった。
3階の正面玄関は、屋上から我々の部隊が火炎瓶をどんどん投げるので、機動隊は鳥籠みたいなものでやってくるが、一升瓶の火炎瓶の効果でなかなか入れない。すんなり入れるのは1階だから、ここから入ってきた。1階と2階の階段にバリケードを作っているが、中核派がバリケードの隙間から火炎瓶をバンバン投げていた。機動隊は消火器で消して、バリケードを確実に1個づつ取り除いていく。向こうも簡単に引いたりしない。実際に闘いになったのはここです。
機動隊が2階に上がった段階で、勢いもなくなって、2日目で水を浴びて体力を消耗しているので、3階の社学同の部隊はメタメタにやられていた。この時点で、東大の防衛隊長の今井さんからは「抵抗はするな」という指令が出ていた。午後2時くらいには実質的に抵抗は終わりで、4階まではちゃんとした階段があるが、5階から上は人が一人くらいしか通れない階段なので、そこにバリケードを作って抵抗すれば1日でも2日でも持ったと思いますが、下の部隊が降伏しているので、上の部隊も止めようということで、その時点で抵抗は終った。
機動隊は外側に仮設の階段を作って5階に入ってきた。5階で抵抗せず、インターを歌いながら逮捕された。逮捕されたのは午後5時頃だった。
僕たちの部隊は殴るけるの暴行は受けなかった。というのは、新聞社も従軍記者みたいな形で来ていましたから、手で殴ることが出来ないので足で蹴ったりしていましたが、そういう状態でした。以上が私が体験した東大闘争です。
なにせ寒かったという記憶がすごくあります。放水というのは、そういう意味で効果があった。特に私たちの部隊は5階のバルコニーに出て火炎瓶とか敷石を投げる役割だったので、出れば必ず上(へり)から水を浴びるので、水の中に催涙液のような薬品が入っていて、私も2ケ月くらい足首に火傷をしたような炎症があった。医務官は火傷だと言って薬を塗っていましたけど。外でやった人はだいたい火傷したんじゃないか。どうやってトイレに行ったかと食事をどうしたかは全然覚えていない。
逮捕されたのが682名で、そのうち起訴されたのが474名。起訴されなかったのは未成年の人だと思う。大学別で言うと、東大が一番多くて83名、次は広島大で29名、これは中核派が頑張ったんですね。早稲田が23名、同志社18名、同志社はほとんどがブントだと思います。明大が16名、法政が16名、東北大が14名、芝工大も14名、京大が13名、山形大が9名、九大が6名です。全国82大学から来たそうです。
その内訳は9割くらいが党派の動員です。党派の会議で安田講堂の守る場所を決めていた。東大の片桐さんのように自分の意志で入った人もいるし、地方から個人で入った人も何人かいたようです。

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(安田講堂攻防戦写真)

<逮捕後のことなど>
私は午後5時37分に、5階のバルコニーで皆と一緒にインターを歌いながら逮捕されて、成城署に連行されました。そうしたら、私の高校の先輩だという検事が2日目くらいに面接に来て、どうだったのか話をしてくれれば先輩が何とかするみたいな話をしてきた。警察は逮捕した時点で、出身高とか人脈をフルに使って、懐柔策はすごかったです。誰が入れと言ったのかなど聞かれたが、しばらくしたら「荒がお前に行けと言ったんだろう」とか、指揮系統を全部知っていた。成城署に行って、23日で起訴されて、刑務所から保釈されたのが70年の1月10日ですから、ほぼ1年です。判決が71年に出て、凶器準備集合・不退去・公務執行妨害で懲役2年6ケ月。ML派で放火が付いた人は5年になったが、それ以外は最長で2年6ケ月。ブントでは、僕と荒君、上原君もそうかな。
私は翌年の72年の6月に控訴を取り下げた。それは、連合赤軍の問題や浅間山荘事件もあったし、僕らが最後まで属していた戦旗(荒派)も中で4人組が出来たり、4人組というのは僕と両川君と早稲田の本多君と大下君で、全員66年入学の同じ学年です。当時、荒君と対立することがあって、もうやってられないと思った。自分が何かで死ぬことは仕方ないとしても、内ゲバで誰かを殺せという世界に入ってきたので、そこまではやれないということで、控訴を取り下げれば刑務所に行く道もあったので、6月に控訴を取り下げて静岡刑務所に行きました。翌年の10月に出所したので、1年4ケ月入っていた。
以上簡単ですが話を終わります。

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(安田講堂攻防戦写真)

米田氏の話の後、明大土曜会参加者からいくつか質問が出された
<質問>
質問1「山本義隆さんはその時はいなかったんですか?」
米田「山本さんはもちろん外に出ていました、今井さんとホットラインがあったということですが、今井さんの方が学生運動の歴史が長いし、実際的には今井さんが決めていたと思う。」

質問2「東大全共闘と党派との関係はどうだったのでしょうか?」
米田「東大全共闘といっても党派がいる訳だから、色の付いていない人はまずいない。党派会議もやっていた。60年安保の世代がいろいろやっていた。
表向きは東大全共闘だけど、実際は党派の交渉をやっていたのではないか。ブントは久保井さんが会議に出ていた。
17日の夜に、指導部は各部隊の責任者を残して安田講堂を出た。」

質問3「全学連との関係は?」
米田「あの時は全学連という意識はない。三派全学連は結成直後に割れて、中核派とかブントとかの党派の全学連だった。そういう意味で完全に党派。」

質問4「あれから46年経って、今から考えると東大安田講堂に籠ったことについてどう考えますか?」
米田「ああいう時代だからね。あの当時の学生運動のピークをどこに見るのかということもあるけど。全共闘系だった人はその後に来たと思うし、僕は三派全学連を作った時がピークだったと思う。その後、どんどん分かれて行く訳だから。そういう意味では66年の学費闘争の最中に全学連を再建した時が、気持ちとしては一番高揚していた。」
「その流れの頂点から、東大闘争は下降に向かう最後の闘いみたいな感じだった。」
米田「それがちょっと遅れて地方でいろいろ起こり、高校生のレベルまで行った。中学生(全共闘)までいた訳だから。」
「我々の世代は全学連の最後の世代で、2つくらい下の世代は全共闘の雰囲気を持っている。それがある程度続いて全国的に広がったというのは、全共闘の方はあった。我々も明治に入った時に、1年くらいで全学連が再建されて、明治もいいかげんなんだけれど盛り上がった、社学同も30人くらいしかいなかったが、(学内を)仕切れた。それが66年の学費闘争でなくなってしまった。」

(終)


今回は、2週にわたって掲載してきた日大930会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」の概要レポートの最終回である。
座談会の後半、ゲスト・スピーカーの発言の後、会場から質問が出され、それに対する質疑の部分を「質疑編」という形でまとめたものである。

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(看板写真)


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(会場写真)

【日大930の会(後半・質疑) 2014年9月28日 文京区・本郷のホテルにて】
(ゲスト・スピーカーの発言の後、会場からの質問に対する質疑)

質問(会場から)
「9・30団交の後、佐藤発言を受けた首相官邸包囲デモが何故できなかったのか。それを日大全共闘が提示できなかったこと、そして皆さんに協力をいただけなかったこと、その辺を5人の方にご意見をいただきたい。」

中大全中闘 O氏
「これは党派の中に非常に複雑な微妙な心理があったと思う。中大の最後の問題はその最初の表れだったと思う。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「党派の話はいいんじゃないの。」

中大全中闘 O氏
「その問題があって、向こうが反古にしたというのは、ある意味で権力闘争という観点からすれば、一つのそういう心理なり意識も働いたことだと思う。その微妙なところがまだ運動の中に残っているテーマとしてあるのではないか。」

司会:日大M氏
「大学闘争が直接的な政治とどう向き合うかということで言うと、日大闘争は、まだそれに向き合う体つきになっていなかったことは事実だと思う。直接の問題でストレートに機動隊とぶつかったけれど、私どもとしては、直接政治と向き合うということはテーマとしてなかったと思う。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「一般的にはどんな感じだったんですか。大体ああいう風になれば、じゃあ敵は誰だとハッキリ見えてくる。そうしたら、それに対して抗議・行動なり、国会包囲デモ、官邸包囲デモという方針は全共闘でも出るわな。」

司会:日大M氏
「出せないということは無かった。日大闘争のスローガンは、古田を倒せなどいくつかのスローガンに代表されるものでしたから、それを突然明日、佐藤首相の発言があったからといって首相官邸のデモになるかといったら、それはなかなか馴染まなかったのだと思います。」

質問者
「むしろ党派が指導してやるべきだった?」

司会:日大M氏
「日大は党派はそんなに強くないですよ。」

会場から
「セクトの刈り上げで日大全共闘は潰れたんじゃないですか。佐藤がああいったことを言ったということが、日大生は一瞬だったから理解できなかった。何故、佐藤自身がそんなことを言ったのか理解できなかったからです。」

司会:日大M氏
「そういう流れになったのかなという感じはしたんじゃないか。個別学園闘争の問題だと思っていたら、いや、意外にそういう問題ではなかった。だからあんなに機動隊と激しくぶつからなければならなかったということも含めて皆の中にあったのではないか。僕の中にもありましたが、それが直接政治と闘うことと結びついていなかった。」

質問者
「勝利した者は勝利した決着を付けなければダメなんだよ。何故官邸包囲デモくらいできなかたのか。これからも全共闘運動をやっていく上で同じ問題が起きる。中途半端にやったらまた負ける。」

日大T氏
「後で分かったことだけど、翌日、あるセクトの人間に『いつバリケードをはずしますか』と聞いたら、『大学側が昨日の約束を完全に守るという確約するまでバリケードははずさない』と言った。僕はそれを言われた時点ては感心した。実はそうではなかった。その党派は70年までバリを引っ張ろうとしていた党派だった。所詮、セクトは我々を利用することしか考えていなかった。日大闘争が敗北したのはその辺に原因があった。次回、日大闘争が始まったら、その辺は気を付けてやろうじゃないか。」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「次回の日大闘争の為に、今日ここで皆で集まって、45年前の話をしている訳だよね。
官邸を包囲しても勝てないと思う。でも、せめて包囲する、それでまた挫折する、それで起ちあがる。だから、先ほどの話にもあったように党派は大衆を利用する、党派を拡大するために草刈り場にする、党派のサガですね。ですからそういうものとして対応すればいいし、早稲田の場合は、革マルと状況が厳しくなるとセクトは皆逃げるわけだよ。残るのは反戦連合だけだよ。それで革マルにつかまって、僕も数か月入院したことがあった。
そういうものとして付き合えばいい。僕らは下の年代にキッチり伝えて行く。例えば労働運動を35年やってきたが、最近の若い連中は使い物にならない。それはどういうことかというと、学生運動の経験がないから。運動を組織したり、要求書を作ったり、デモをやったり、そういうことも知らずに、パソコンに向かっていたらこれで運動が出来るみたいなつもりでいる。これじゃ全然ダメ、それが現実です。」

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(1968.9.30「叛逆のバリケード」より)

司会:日大M氏
「日大闘争を巡って、今のようにそうすべきではなかっただろうかと見ていた人がいたというのは、我々の日大闘争に対する一つの意見であることは間違いない。
何故、佐藤発言の後、国会包囲しなかったのか、そういう方針が全く出されなかったことについて、例えば副議長だったYさんに聞いていいのか分からないけれども、全学共闘会議の全体会議でそういう議論がなされたことがあるのでしょうか。」

日大Y氏(副議長)
「肩書は全共闘副議長だったけれども、私の個人的な事しか言えないが、9月30日と10月1日はすごい転換点で、私は両国講堂から歩いて法学部まで戻りました(会場から「電車が無かったので皆歩いて帰った」という声あり)。気分としては意気揚々として帰った。
それで10月1日の発言があって、個人的には次の手は何を打つのかとか、頭が真っ白になったのではないかと思います。先ほどから話があった11・22とかは、私はパクラレて11月は20日間ほど神田警察署にいて、11月22日の(東大の)銀杏並木のことろに日大生が千名とか二千名集まってすごかったという話を聞きまして、結果論ですけれども、10・1の佐藤発言に抗議の意思を持った学生が東大の前に集まったとも解釈できると思います。
頭が真っ白になったまま、1969年の1月を迎えたという感じで、全共闘の幹部の中でどうするのかという話し合いがあったかどうかは殆ど記憶にない。」

司会:日大M氏
「敢えて聞きますけれども、政治党派から指導はなかったんですか?」

日大Y氏(副議長)
「私は一応ML派だったけれども、そういう指導を受けた覚えは一切ない。ML派も法学部や経済や文理学部にオルグを派遣してやっていましたが、最終結論は『Y、お前はどうも使えない』と言われたことは覚えています。」

司会:日大M氏
「Mさん(芸闘委)はどうなんですか。」

日大M氏(芸闘委)
「結論から言うと、官邸デモなんかやらなくてよかったと僕は総括している。実際、全共闘でもそういう論儀は全く出ていない。9・30があって、佐藤発言があって、3日の2回目の団交で拒否される訳です。この過程の後も、実際に勝ったという実感を持っている訳です。全共闘の実体を残して、いずれバリケードが無くなって、大学を実体取れるかどうかという論議は何回もした。どういう風にするか、学生会館みたいなものを取らなければいけないだろうとか、いろんな話はしていたけれども、政治闘争に行こうという話はしていない。どういう風にして全共闘の組織を作ってきたかというと、全共闘は日大闘争のスローガンを実現する組織です。この全共闘を政治党派が引っ張り回さないということ、約束というか明文化したものではないが、各党派が政治闘争は自分たちの部隊を連れて行く、全共闘という形をとらないで行くべきということになっている。中核派はマル学同中核派日大支部という旗を持っていく訳です。ML派は解放戦線という旗を持っていく訳です。ただ、全共闘が政治党派と同じように動くということはしない、という不文律があって・・・」

早大反戦連合(早大全共闘) T氏
「それは一つのあり方だよね。」

日大M氏(芸闘委)
「これを守ってきたから、党派もそれを守ってやってきたから、68年の段階での日大闘争は保持できた。何で全共闘がそういう求心力があったかというと、全共闘が解体したら日大では右翼に勝てないんですよ。敵が目の前にいるんです。その頃は芸術学部で右翼とぶつかる前ですから、必ずどこかで(右翼と)ぶつかると皆知っている訳です。これに勝つためにも全共闘を傷付けたらダメということを党派の人間も皆知っているんです。
だからそういう論議にならなかった。政治闘争なんか止めた方がいいんだって。」

司会:日大M氏
「確かに10月1日の佐藤発言で、私の所属していた3年生闘争委員会での話の中では、本当に勝利するためには、もしかしたら政治と向き合わなければいけないのかもしれないという議論は、話としてはしました、ただ、我々が何をするのかという時には、例えば一番象徴的だったのは、10・21国際反戦デー、ああいう政治的テーマの時にはわれわれは全共闘としていくのは止めよう、個人で参加しよう、全共闘は政治的テーマについて取り組むべき組織・運動体ではないという了解の中で全共闘をやってきた。」

日大M氏(芸闘委)
「もう一つ、芸術学部で起こったことですが、元々革マルだった人たちが中心のグループが、学生権力ということを出してくる。これは元々書記局グループが言いだして、それは9月でものすごい爆発が起こって、それを見て急に左ブレしたのか、そういうことを言い出した。ところが学生権力ということ自身には理論付けできなくて、結局、第四インターと結びついて、というのはインターの書記局の人が芸術学部に泊り込んでいたので、それの意見について行って、日大闘争が越えて行こうという論議がいっぱいあったんです。
政治化しようという論議もあった。だけど、全共闘自身ではそれを取り上げなかったということです。」

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(会場写真)

日大N氏
「10・1の佐藤発言があって、一時、日大全共闘が方針を出し切れないことがあったと思うんですけれども、68年の11月頃には9・30確約事項の内実化ということを言ったと思うんです。具体的に学生会館を獲得する委員会とか、生協設立準備員会とか、そういうのを打っていって、そいうスローガンを揚げて進んで行ったと思います。私は生協の設立に関わって明大生協に大変お世話になって、補助金をいただいたのに踏み倒したんですけれども、それがどうにか方針として持ったのは(68年の)暮くらいまでです。暮れになってくると、今度は向こう側が疎開授業を始めて、それを潰しに行くので忙しくなってしまって、内実化の運動の組み立てが殆ど出来なかった。そのまま69年に流れこんで行ったという経過があったと思います。」

会場から
「違う話ですが、1966年くらいだったと思うんですが、佐藤栄作の翼賛組織で日本総調和連盟が出来る。1967年の秋に日大のオール体育祭というのがあるんです。僕はそのために盆踊りを練習させられた。その盆踊りは、当時人気絶頂だった橋幸夫が歌っていたんです。今でも踊れるかもしれません。10・1の佐藤発言といいますけれども、それ以前にずっと古田重二良は相談していたはずなんです、その流れの中で、もっとも政治意識を出したのは日大なんですから。私の感覚は全く勝ったと思っていなかったし、嬉しくも何ともないし、次の日に佐藤さんが発言した時も普通なんです。当然なんです。だって親方は佐藤栄作なんだから。だから皆さんの感覚と大分違うなと思った。私の感覚からすれば普通なんです。当然です。古田重二良は(佐藤栄作の)子分みたいな形で来た訳ですから、ある意味で企業舎弟。佐藤栄作の発言によって何も驚くことはないし、あれから始まったというのは僕の日大闘争なんです。皆さんと分析の仕方が微妙に違うと思った。」

司会:日大M氏
「国会包囲はどうなんですか?」

会場から
「国会包囲だろうが学内だろうが、相手は国家権力だと思っているから、それは単なる戦術の問題で、しようがしまいが大した問題ではないと思う。」

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(会場写真)

日大T氏
「私も付属の体育会出なので補足しますが、日本(にっぽん)会という会があって、総裁が佐藤首相。日本の精神を日本に反映または浸透するということで、ポツダムの憲法を当然否定している訳です。それの会長だったのが古田なんです。その中には自民党だけでなくて、当時の民社党の連中がメンバー全部入っている。そのルートで、日大は古田体制になって文部省から補助金を日本で一番もらっていた。国立大学ではないのに。当然そこから佐藤派の方に現金は行っている訳だし、そうしたグループの1員だから佐藤と古田がくっ付いたって何もおかしいことはない、ということなんです。それが他大学にはない、汚い世界の大学に我々は居たんだということです。」

会場から
「日大の付属出身ですが、今、2人が言ったことは、後で考えればそうだなということで、僕は1年生だったので、その時、次の日にどうしていいか、一瞬で理解ができなかったのが本当なんです。何で首相がそんなこと言うの?そこで、日大闘争は実はかなり大きい闘争なんだな、政府もこれはマズイと思っているんだな、つまり学園闘争ではないんだと、その時初めて知ったというのが、一般のレベルの闘争に入っていた人たちの考え方だったんじゃないかと思う。つまり、後から考えればそうだなと。でも、その現場にいたあの日の頭の中はそうではなかったと僕は思う。」

司会:日大M氏
「多くの人の頭の中はどうだったのかということと、後からどうだったのかということは確かにあると思う。」

日大Y氏(芸闘委)
「話が変わりますが、69年1・18-19の時、何故、安田講堂にたどりつけなかったのか。白山通りのバリケードは何だったのか、一指揮者として今でも不満です。行けたのではないか。誰か邪魔したのではないか。邪魔をしたのは誰だ。7不思議なんです。」

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(1969.1.18-19神田カルチェラタン)

日大T氏
「行けましたよ。」

司会:日大M氏
「私も医科歯科大の前にいたけれど、バリケードは自分たちで敷石積みました。でも何でこんなことしなくてはいけなのかなという・・・。」

日大T氏
「医科歯科の前はテーブルを重ねただけだから、あんなものはバリケードではない。」

日大Y氏(芸闘委)
「白山を潰したバリケードは誰が作ったの。」

司会:日大M氏
「分からない。」

日大T氏
「本郷交差点まで3時過ぎたらガラガラだった。誰もいなかった。」

司会:日大M氏
「行けるか行けないかということだったら、行けました。」

会場から
「僕もその時、学ラン着て見ていたんですが、どうして行かないのかと思った。たぶん、その秘密を知っている人たちはいるはずです。」

司会:日大M氏
「私の記憶では、法学部は何人かヘルメットをカバンに入れて安田講堂の周りをウロウロしていました。私も最初はそうしてましたが、現地の方は結構、(警備が)厳重だった。それで御茶ノ水に戻って、ガラーンとした御茶ノ水で、何で安田講堂に行かないのか、頭の中に疑問としてありました。多くの人がそうだったのではなかったかと思います。」

日大Y氏(芸闘委)
「全部撤収して安田講堂に行ったからガラーンとなった。情報がたぶん掴んでいたはずなのに、行動隊に伝令が来なかった。」

日大T氏
「来なかったんじゃないよ。『経済、動くな』というのは初めから朝から言われていたし、追加で2時頃にまた言われた。」

日大I氏
「僕は、あの時にこうした方がよかったんじゃないかとか、これだったらこうなるんじゃないかという考えを捨てたんです。今やっていることと、今生きていることが大切で、疑問は疑問で、あの時、だからこうならないかというのと、先輩には申し訳ないけれど、一時は何なんだろうと思ったけれど、それを越えられなかった僕らも考えた方がいいかな。それは恨みとか何とかではなくて、今何をするかということで、あの時、こうだったからこうならなかったという考えはありません。その方がいいと思っている。」

日大Y氏(芸闘委)
「それを総括しないと、次に全共闘運動をやった時に同じ過ちを犯してはいけない。」

日大I氏
「俺も先輩も、もうそんな力はないんだよ。」

日大Y氏(芸闘委)
「あるんだよ。」

日大I氏
「グズグズ考えることは止めよう。」

日大N氏
「誰が止めたかというのは、去年あたり明らかになっていると思う。日大全共闘の情報局が警察無線を傍受して、催涙弾が無くなったということを聞いた連中が2人くらいいて、その人たちがどこかの党派の偉い人に軟禁されてしまったということだと思う。それが日大全共闘が安田講堂に行けなくなった一つの要因ではないかと思う。」

司会:日大M氏
「我々の日大の集まりとしては初めて外部のゲストをお招きしてお話をということで 当初は5人も呼んだら時間がないので碌な話も聞けないのではないかということで、確かに一言くらいしか話を聞けなくてもう少しという感じもありますが、今日の公開座談会はここまでとします。」


以上、昨年の9月28日に開催された日大930会「公開座談会-日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」の概要レポートを掲載した。
こうやって文字起こししてみると、当日、話を聞いていただけでは気付かなかった事も見えてくる。
この座談会の詳細については、次号の「日大闘争の記録 忘れざる日々Vol.6」に掲載されると思うので、それをご覧いただきたい。

(終)

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