野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2015年03月

昨年の4月に始めた「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの2回目。

今回は羽仁五郎氏が語る「歴史とはなにか」。

1969年12月に発行された「週刊アンポ」第4号に掲載された記事である。

羽仁五郎氏は当時67歳の歴史学者で、「都市の論理」という本を出しており、反日共系学生に絶大な人気があった。

1969年2月11日に中大中庭で行われた「日大闘争勝利労学市民5万人大集会」では約2万人の参加者を前に「最後の勝利者は、闘う学生きみたちのものだ!」とアジ演説を行っている。

 
 
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(1969.2.11中大中庭)


私は1969年4月に明大に入学したが、日本武道館で行われた入学式の後、学生会主催の第二部で講演を行ったのが羽仁五郎氏であった。羽仁氏の講演を聞いたのは、もちろんその時が初めてだった。大学では周りの仲間がみんな「都市の論理」を読んでいたので、私も借りて読んだが、どういう内容だったか殆ど記憶にない。

 
 
 
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【歴史とは何か(聞き書き)羽仁五郎】週刊アンポ 第4号 1969.12.29


では始めようか。

歴史というふうにみなが考えているものは実際は、歴史じゃないんだ。

このごろ歴史ブームなんて言って、「天と地」だとか、その前だったらば「赤穂浪士」。それから大仏次郎の「パリ燃ゆ」だとかいうふうなものが、ふつうの歴史だと思われている。それから、山岡なんとか・・・荘八か、あれの何とかね、それから吉川英治の何とかいうのが、歴史だとみんな思っているんだが、それは歴史じゃないんだ。大学で教えている歴史学というのも、実際は歴史とは言えないのではないかな。歴史っていうのは一体なんなのか。いまいったような歴史っていうのは一体なんなのか。いまいったような歴史というのは、一種の昔話みたいなもので、ある意味では非常にくだらないものだ。それから、このごろ何だっけな、ありゃ、何とか55号とかいうんで、こうジャンケンして変わり番に裸になるっていうやつね。しばらく前の毎日新聞なんかに、そのコント55号ってのは、実にくだらないが、でも、「天と地」ほどはくだらなくはない、というような話が出ていたらしい。ぼくもあとから人に聞いたんだがね。どういう意味でそういうふうに言ったかよく知らないんだが、まあ確かに、そのコント55号みたいなものなんだ。いままでの歴史はね。「天と地」とくらべると、まだそのコント55号の方が意味がある、おもしろい。

 
 
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(羽仁五郎氏)

<帝王の学から人民の学へ>

歴史じゃないものを歴史のように教えられているんだ。これは偶然そうなっているわけではない。また人民が無知で、ああいうものを歴史だと思っているわけでもなくて、歴史じゃないものを、歴史と思わせていることが、いま一番の問題なんだ。歴史というものを、人民が学ぶと、非常に困るんだ。そうでなければそれをごまかすはずはないと思うんだ。それほど歴史ってものは、おそろしいものなんだよ。

歴史ってものは、昔は帝王の学問というふうに言われていた。だから中国でも史記とか何とかいうものは、その帝王に読ませるために歴史家が書いたんだ。帝王が最後に勉強するのは歴史であった。どうしてかっていうと、帝王として、人民を支配するために、いままでの君主がどういうようにすると、うまく人民を支配でき、どういうふうにやると、自分が滅亡するか、ということが歴史から解るからだ。だから秦の始皇帝のように、いたずらに学問を弾圧すると、三代で滅びてしまうのだ。あんまり学問を弾圧したりすると、早く滅びてしまう。そういうことはやらない方がいい。しかしあまり学問を自由にしても、よくない。とかなんとかいうことを学ぶ帝王の学が、歴史と言われていた。

 だが現在は、かっての帝王の学が、いま人民の学になるかならないかというとこなんだ。そういう人民の学としての、人民の最高の学問としての歴史というものができあがると、支配階級は非常に困る。だから、そこでいろいろインチキをやるんだな。

 それで結局、歴史とは何ぞやと言えばね、現在の段階では、その帝王の学に対する人民の学の闘争だ、というふうに言ってもいいのではないか。帝王の学に対して人民の学、という対立において、歴史および歴史学というものを、とらえることができる、と思うんだ。それは別にぼくが一人で勝手に言っているわけではない。現にそうなっているんだ。いまだれでも帝王の学というものと、闘わなきゃならないということは、わかっているわけだ。つまり支配階級の最高の理論というものに対して、人民がやはり最高の理論を持たなければならん、ということだろうな。

 その帝王の学という場合には、つまり二つあるわけでね、一つは帝王が自分で学ぶ歴史学というものと、それからもう一つは、その帝王が支配するために、人民をそういうふうに教育する、そういう意味での歴史学。二面性っていうか、それは一つのものなんだけれど。現在の日本でも文部省がいろいろ考えている。家永君の歴史の教科書なんかを、弾圧してね。文部省がつくろうとしているやつが帝王の歴史、支配階級の歴史だろう。

 支配階級のイデオロギーというものと、それから支配される階級のイデオロギーというものと、そのまあ二種類あるんだろうね。帝王のイデオロギーっていうのも、それからその支配階級に支配される人民のイデオロギーというのもひっくるめて、階級的支配の歴史というふうに言っていいと思うんだな。それに対する人民の歴史学というのは、階級的解放の歴史学ということになるんだろう。それで、その違いはね、いろんな点ではっきり出てくるわけだ。

 
 
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 <サラリーマンとニセの歴史>

 歴史を支配階級を中心に書いている。たとえば日本の歴史を天皇陛下を中心に書いていく。あるいは、王朝の公家、あるいは封建時代であれば武士を中心に書く。明治維新なんかでも、下級武士、NHKなんかで放送する時は、さむらい階級が、その改革運動をやったというふうな話になっている。つまり人民っていうものは出てこないんだね。それが第一の違いだな。あの人民の出てこない歴史学は、人民の歴史学じゃないっていうことは、はっきりしている。だから、サラリーマンなんかが「風林火山」なんか読んで、あるいは「徳川家康」を読んで、サラリーマンが徳川家康に、支配階級になることは、絶対にないんだ。だから、サラリーマンが徳川家康なんか読んで、山岡荘八なんかを読んで、何か教養になったというふうに思っていれば、それはだまされているか、そうでなきゃ、仲間を裏切っている。おもしろいのは、豊臣秀吉について、福沢諭吉が、あれは「文明論の概略」だったか「学問のすすめ」のどっちかの中で、豊臣秀吉は百姓から出て太政大臣になったと、えらい人だというふうに普通言うのだけれども、百姓の方から見れば裏切りもんである、となるだろうって書いてあるのは、今の関係をよくあらわしていると思うんだよ。豊臣秀吉っていうのは、初めは百姓一揆で実力をあらわしてきたんだな。それで百姓一揆で、武士を倒すはずで、だから蜂須賀小六なんていう盗賊と、盗賊っていうのは一種の不平分子、武士階級の中の、まあ造反というほどでもないけれども、その批判的な分子だね、それと結びついて出てきた、けれども最後に刀狩りで人民の武装を解除してしまう。しかも秀吉の刀狩りあたりから日本は人民が武装する習慣を失っちゃったんだな。それでいまでもちょと学生がヘルメットとゲバ棒ぐらい持つと大騒ぎをやるんだよ。だけどアメリカやヨーロッパじゃ学生が軽機関銃を持って出てくるんだからね。そりゃ日本は、ヘルとゲバぐらいだからあれでいいじゃないか、とまああの程度でありがたいと、支配階級は思えばいいんだな。

 人民を中心にする歴史学というのはね、いままで研究されていないんだね、まったく。ぼくの岩波新書の「日本人民の歴史」あたりがまあ始めじゃないのかな。ちょいちょい人民が出てくる。人民の横顔ぐらいが出てくるのは、いままでもあるんだ、たとえば柳田国男なんか、みんながだいぶこのごろ持ち上げているけれど、あれは人民の正面の姿じゃなくて人民の背中。うしろ姿ぐらいがちらりちらり見えると、ばかにそれを値打ちがあるようなことを言うんだ。人民を取り扱うのに、腰を曲げてさ、何かしょっていくうしろ姿ぐらいが出てくると、大よろこびしているんだから、そんなのは道楽もいいところでね。やっぱり人民が正面から出てくるのをあつかわなくてはだめだ。人民の歴史の研究が非常にむずかしいっていうのは、史料がないことだと思われている。支配階級の方はいろいろ文章があるだろ。公文書もあるしね。いろいろな著述もあるし。ところが人民の方は文章がないというんだ。柳田国男なんかは、文章じゃなく、口に伝えられている歴史があるんだ、なんていうんだけれど人民の歴史の史料がないというのは、大まちがいで史料はあるんだね。でその史料っていうのは、どういうときにできるかって言うと、百姓一揆なんかのときに、支配階級の方にその史料がちゃんとできるんだよ。だから、人民の闘争の記録っていうのはあるんだね。闘争の相手が支配階級だから、支配階級がその史料を残さざるを得ないんだ。だから平安朝の貴族、たとえば藤原定家の日記の中に、そのころの京都の市中に、彼らの口から言えば、賊があらわれてきた。つまり人民の蜂起があらわれてきて、なかなかそれを押さえることができず、困ったもんだ、というふうなことが出てくるんだ。それから、江戸時代になってくると、百姓一揆の記録はあるんだ。それでは闘争のときの姿だけが出てきて、ふだんの姿がわからないじゃないか、というようなことを言う人がいるんだが、闘争の時を通して、ふだんの姿がわかるんだ。たとえば、闘争のときに米を食えるようにしてほしいと言えば、ふだん米を食ってないってことはわかるんだよ。

 現代に歴史学がどう生きるかということも、昔の歴史を現代に生かそうっていうと変になっちゃうんだよ。たとえば家康のことを研究して、それで会社の中で巧みに部下を操縦する、そういう意味において歴史を現代に生かすということは、まったくナンセンスなんだね。そうじゃなくて、人民を中心にして、はじめて歴史が現代に生きてくるということなんだろう。

 
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<過去へ向かう歴史と未来へ向かう歴史>

 それから、そのいわゆる支配階級の歴史との違いの方は、歴史というものは、だんだん進歩してきているんだから、支配階級にとっては過去の方がいいにきまっている。いまの自民党にすればね、帝国憲法時代がいいにきまっているんだな。天皇主権時代がいいにきまってんだ。だけど人民にとっちゃ、もう過去に行けばいくほど、ひどい目にあってね、奴隷であったり、農奴であったりなんかしてんだろ。だから、人民にとっては歴史学が、未来の方に向かっている。過去の方にひっぱって行く歴史学ってのは、支配者の歴史学であって、だんじてわれわれの歴史学じゃないんだ。現在から未来へ持って行くという歴史学が人民の歴史学だっていうことはわかるだろう。それから支配階級にとっては、世の中がね、落ち着いている方がありがたいんだ。動かない方がね。自分につごうがいい。しかし人民にとっちゃもう世の中が動かなかった日にゃもう手も足も出ないんだ。だからその支配階級にとっちゃ歴史は制度の歴史みたいになるんだよ。人民の側から言えば、その制度がくずれて新しい制度ができてくる。そういうのが変革だね。あるいは革命。だから制度論に対してその変革の論理、それが人民の歴史学だ。歴史でも、たとえばその唯物史観なんていう歴史でもね、階級構成ばかり問題にしているやつがいるんだが、これはほんとうの人民の歴史学とは言えないんだ。たとえば、ぼくの今度の「都市の論理」なんかに対しても、大学、ユニベルシタスというのは一種の自治体であるというのを、それは当時の制度の面から言うとギルドってなものは閉鎖的なもんで、それを現代に生かすことはできないって言う。だからぼくの「都市の論理」は間違っているってな論議をやる連中がずいぶんいるんだね。それは、ルネッサンスを制度的にしか考えないということだ。そのギルドってものが、どういう古い制度を打ちやぶって出てきたかということを考えない。つまりギルドっていうものは市民階級というものが、初めてあらわれてきた形なんだ。封建的な制度に対してはギルドってものは進歩的なんだ。しかし市民階級はその後に労働者階級になったり進歩してきたから、そののちの姿に比べればギルドというものは遅れた形なんだろう。

 まあいずれにしても制度と言う側面ばかり考えるという考え方は世の中は動かんという方の考えだな。支配階級の考えなんだ。もちろんその革命ってものが起こるには、どういう状態が、どういう条件が必要か、という意味では、その制度の問題に十分なる。ならなきゃならない。ならなきゃならないが、その重点が制度の方にあるんじゃなくて、古い制度がやぶれて、新しい制度が生まれてくるというところにあるんだろうね。そういう意味でマルクスなり、エンゲルスなりが、歴史というのは階級闘争の歴史だというふうに言ったのだろう。

 だから現在の大学闘争の中でも、その大学の歴史学に対する闘争というのは、大きな問題なんだ。たとえばね、ぼくなんか、東京大学やほかの国立大学で絶対その歴史を教えさせないんだ。これは偶然じゃないんで、東京大学は人民の歴史学を研究するという任務をごまかしている。それで帝王の歴史学をやっているかといえば、そうじゃないだろう。どっちでもないようなあいまいなものをやっているんだね。だからこれは東京大学に限らず京都大学にせよほかの国立大学にせよ私立大学にせよ、いまの大学の歴史ってものは、いま言ってきたような点から言って、はなはだあいまいなものなんだよ。人民の歴史学ということになってくると、その歴史の法則ということが問題になってくる。支配階級の場合だと先例っていうふうなことが重要になる。人民の場合には先例で生活することはできない。奴隷だったのだから。だからこの将来を判断するということだと、歴史現象に法則がないと将来の判断ができないんだ。歴史が過去を問題にすればね、法則は問題にならないんだよ。先例でいいんだな。安保条約なら、まあ外交問題なんかでもいまの政府が国会で答弁するなんかはほとんど先例をこしらえているのに過ぎないんだな。それで、いままで原子力潜水艦が日本に寄港するときに、核兵器は積んでいなかったんだから、いまも積んでいないと思う、とかなんとか先例で判断する。それから裁判官がほれ、いま東大闘争なんかで三百人も入れる法廷はないっていうのも、いままでないという先例なんだな、それから裁判の例で言えば、なぜ大学紛争が起こったのかなんていう原因は、刑事事件では扱わな

い。石を投げたか、投げないか、おまわりをつき飛ばしたかどうかということが問題なんだっていうのも、先例ではそうなっているというだけなんだな。だから東京地裁の裁判官が言うのはようするに先例しか問題にしてないんだ。

 
 
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<法則としての歴史へ>

 歴史学が人民の歴史学になるには、法則でなければならない。こういうふうにすればこういうふうになると。したがって、こういう弾圧に対してはこういうふうに戦うとね。それから戦い、闘争が分裂すれば弾圧されちゃうとかっていうふうないろんな法則だね。その法則が問題になるんだ。この点についてほら、東大の歴史の方の主任教授の一人である林健太郎っていうのが、歴史は法則じゃないということを、もうだいぶ前から主張しているんだね。その林健太郎ってもんが、この間の東大闘争のときにどういう立場をとったか。ようするに学生の新しい要求っていうものに対しては答えができないんだな。いままで大学ってもんはどうやってきたかという先例のことしか答えられないという。だから東大闘争において林健太郎教授がとった態度っていうのは、彼の歴史学とぴったり一致しているんだ。それは加藤学長の法律学が彼の確認書ってものにハッキリあらわれている。確認ってなようにすりゃね。いまだって法律で言えばね、裁判だって当事者主義で検察官と被告とは対等なはずなんだよ。ところが事実はその被告と検察官とは対等じゃない。被告はどんどんだまされて退廷させられ、検察官だけが裁判官とぼそぼそとやっているという、だから確認したからって何も意味がない。闘争ってものを認めないなら、確認書ってものは単なる形式で、だれも守りゃしない。そういう法律学における形式主義ね、つまり法というものは闘争の上に成り立っているんだということを否定しちゃって、法というのは闘争を否定するためにあるように言ってくる法律学、それと並んで歴史学は法則科学じゃないという林健太郎なんかの主張が、現代の大学の主流なんだな。それを、学生が破壊しなきゃだめだという。単に大学の建物を破壊するだけじゃない。大学の学問の問題だというようにきているんで、したがって大学がその正常な状態にもどるなんていうのはね、元の状態にもどるのを正常っていうんで、それは先例主義なんだ。文部省の考えている正常ってのはようするに学生はものを言えない。そして教授はもうでたらめや汚職をやって、医学部の教授は薬屋とぐるになって悪いことばっかりやってゆく、そして講座があって教授は自分の学説とちょっとでも違うようなことを言う助教授はどんどん追い出しちゃう。というおよそ腐敗した大学の状態にかえるってことなんだ。それを正常の状態にかえるというふうに言ってるんだろう。そうなれば、歴史学だって結局、帝王支配階級にとって都合のいいような歴史をまた教えられる。それがどういう歴史学であるかって言えば、革命を否定する歴史学なんだな。

 
 
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(写真集「日大全共闘」より転載1969.2.11中大中庭)

 

(終)

 

前回に引き続き。1971年1月22日号の「朝日ジャーナル」に掲載された「総合生協への道-都下鶴川団地からの報告―」という記事の後半を掲載する。
前半は、公団分譲住宅の欠陥問題への取り組みから深夜バスボイコット運動までの経過が報告されていた。

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【特集・71 市民運動の重層化 総合生協への道 -都下鶴川団地からの報告― 中村幸安】(朝日ジャーナル1971.1.22)(後半)

<自治会活動から自主参加運動へ>
 巨大な<壁>の一部を破壊したからといって、<壁>は1枚ではなかった。従来、公共料金値上げ反対運動は無数に展開されてきた。しかし、どの反対運動をとってみても、「署名」「アンケート」「請願」のサイクルで収斂するのが常だったのと比較し、われわれは代替手段を住民自らの手によって提起したことが特徴であるといえよう。しかも、自家用車の無償提供から「共同所有車」の購入をはかり、「深夜バス反対者」が共同で自家用車を所有することに発展したのである。
 しかしこの共同所有車を購入する過程で、「自治会」なるものの清算と位置づけをはからねばならなかった。自治会がきわめて日常的な通勤者の足の確保のために、「共有財産」をもつことを「多数派」できめていいものかどうかということは、自治会にとって大問題であった。われわれは、これを自治会活動の限界と読み「自動車クラブ」(共同所有者による組織)なる組織を結成した。このことによって、鶴川団地に現在3つある自治会の枠を越えて、新たなる組織を自主参加のかたちでかちとることになったのである。この日を境に、自治会は「鶴川自動車クラブ」を支援するか、しないかという立場に追いやられ、鶴川自動車クラブを主体的に担っている鶴川団地東地区自治会は、全面的に支援することを自治委員会で決定したのに対し、社会党協会派のイデオロギーによって固められている賃貸団地の鶴川団地自治会常任委員会は「尊重する」という立場しか表明しきれていないのである。
 しかし、鶴川自動車クラブの会員の6割強は何と鶴川団地自治会の会員であることをわれわれは見ておかねばならないだろう。われわれの運動は、代替手段を共有するということを契機に自治会の従来の枠を突破り、新たなる段階に入ったということができる。この契機は、自然発生的に全般的な物価値上げ攻勢に対する防衛組織としての「生活協同組合の結成」に向かうことは必然であった。
 牛乳供給、鶏卵供給、食品雑貨の共同購入、野菜の「夕市」を自治会の事業部として実施し、月額200万円強の供給高をあげるに至ったのは70年9月の段階からである。しかも生協設立に向けての努力は、丁目、自治会の枠を乗越えて、各地区住民の自主参加により東地区自治会を中心として展開された。
 しかし、これが従来の「生協」ならば何も今さらとりたてていう必要はないだろうが、われわれが射程に置いている生協は「車の両輪論」(生協運動の内容を業務と運動という2側面で捉え、この調和によって生協が発展するという無媒介的、機械論的理論)を超克した位相において思考し実践しているが故に有意味なのである。強いて類似した生協をあげるならば、大阪府連の生協とそれにかかわる関西大学生協の運動、九州では東部生協をはじめ地域化に実績をあげている九州大学生協の運動があるだろう。ここで使用する「われわれ」は既に使用してきた「われわれ」とその内容が違うことを明確にしておかねばならない。「深夜バス」ボイコットのための共同所有車の運転には、明治大学生協の従業員及び明治大学全学評議会の学生が住民の運転士と共に運動を共有化し、もし明大生協の協力が得られなかったならば、われわれ鶴川の住民もここまで運動を維持し発展させることは不可能であっただろう。
 しかも、この協力は単に心情的なものではなく、数年前から明大生協が検討を加え、総代会で決定までしていた「生協のさらなる発展は地域化へ」というスローガンの実践形態をわれわれ鶴川住民の運動の中に見たからにほかならない。もはや、「われわれ」という語を「鶴川びと」の代名詞として使用することはできないというのはかかる意味内容からである。われわれは、運動論的にも組織論的にも、従来の「生協」の枠にとどまって「生協」を展望することはできない。

<ゲリラ的組織拡大論>
「ゲリラ的組織拡大論」とわれわれの組織論とは、こうである。タマ生協の事業内容と事業目的は定款や事業計画書に明示されているとおりである。この事業を目的に沿って遂行し生協の防衛をはかろうとする者が組合員なのであって、組合員の生活を守るのが組合の、<本部>なのではない。したがって辺鄙な地域にあっても定款に明示された<地域内>ならば、10世帯(原則)が班を形成して、自らの生活を防衛してもらうことを考えてもらうことになる。
 たとえば、辺鄙なところであるから、雑貨品については、<三か月分>の共同購入をするとか、<本部>から配送してもらったのでは経費がかさむから、だれかの自家用車を出して商品を運ぶとかすることによって、無店舗方式が実体化し、われわれはそのことによって、共有財産としてコミュニティの場を形成することがより近くなると考えるのである。<班>の要求を表現しよう。そして、自らの班の生活の防衛と発展のための「生協」を考えることが必要である。
 学生諸君がこの間、好んで使った社会総体の帝国主義的再編という言葉の内容は、職住分離→各個別問題→コミュニケーションの分解→市民社会の24時間管理とイデオロギー支配というルーチンによって表象できる。現代日本資本主義の根本矛盾を「賃労働と資本」の問題としてとらえつつも、この根本矛盾を反映したものとして管理社会の基本矛盾を「職住分離」としてとらえるならば、われわれは、生産拠点における矛盾の階級的止揚をはかる一方、この「職住分離」の矛盾に刃を向けなければならない。しかも、その運動の構造は、まさに管理化社会のルーチンを逆撫でするものにほかならない。
 個別問題の問い詰め→コミュニケーションの活性化→新しい住民組織→イデオロギーの創出→「労働を基礎とする」諸機能組織の統合と総合化…がそれである。
 筆者は、本誌69年12月7日号「状況は<不明不暗か>」で明大全学評のことに触れ、全学評は<点>としての大学・地域を線に発展せしめ、その線を地域化という<面>に拡大していくことを目標としていると説いた。あれから1年、明大生協は神奈川大生協を設立しタマ生協を設立し、桜美林大生協の設立に援助を送り、文字通り多摩ニュータウンの<核>になりつつある。
 明大助手共闘を中心とする園芸研究者集団は鶴川六丁目の植樹の管理を一手に担い切り、団地の自主管理に向けてその一翼を担っている。決してわれわれの行動は勇ましくないし革命的ではない。しかし、生産点一点主義・バガボン的政治中枢への進撃という戦術極左に陥り、社会総体の帝国主義的再編に何等なすところを知らない既成政党、とりわけ既成左翼に対しわれわれ住民は、生活者の運動をもってその質を超克するであろう。

<新しいコミュニティーの創造へ>
1月6日の「朝日新聞」社説は「6年前の大学紛争に対する政治の対応も含めて、最近の政治には、そうした機能喪失が著しい。いま政治が姿勢の立てなおしを怠るならば、本来議会制民主主義を補完するはずの住民運動は、政治否定の直接行動主義にひらすら傾斜してゆくであろう。発火点となる問題が、いたるところに充満しているからである」と述べ、住民運動を議会制民主主義の補完物と規定しているが、われわれは住民運動を議会制民主主義の終焉からはじまると認識している。多くの活動家や研究者は九州へ静岡へ足尾銅山へ、そして三里塚へ≪出張≫する。しかし<私>の住んでいる『生活環境』も『状況』も。<三里塚>と同じなのです。とにかく、自らの存立する<職場>で、自らの存立する<居住区>で固有の運動を創造し、この分断されている<職><住>における根源的矛盾を<統一的>に展開することが必要なのです。<連帯>という<言語>のもつ内実は<実践主体>がそれぞれ固有の運動を所有し、<共通の敵>に当たることであって、<指示><支援>を表明することではない筈です。
 1969年の蒲田、新宿における<自警団>の登場は、われわれの運動の欠陥の反映としてあったといわねばならない。われわれが創造する<自警団>は生活過程を通して明確化していく「階級性と政治性」をふまえた国家権力に対する<自警団>であり、われわれはそれを「コミュニティ」と表現している。
 「生協」それ自体が目的なのではない。目的はコミュニティの創造にある。「生協」それ自体は「集団的な資本家による企業」という相対的矛盾を内包した存在であり、ブルジョア社会の矛盾として発生し、発生基盤を否定しつつそれに依拠している存在である。したがって、「生協」には、国家独占資本のもとでの国家的「価格体系」のメカニズムの中で「商業利潤を分けあう」という従来の生協の捉え方を、「生協事業の限界性」として捉えておかねばならない。
 しかし、だからといって「生協」の存在意義が薄れるものではなく、生協は組合員の即目的な要求を満たすという改良の成果を「自主的な組織」でもって志向するときにのみ「財」としての<コミュニティ構成員の意識>を残すことになる。この「協同意識の形成」を抜きにした「生協」は何等住民と隔絶した関係にある公設市場と変わらないのである。
(なかむらゆきやす・タマ生協設立発起人会代表)

以上、2週に渡り「朝日ジャーナル」に掲載された「総合生協への道-都下鶴川団地からの報告―」を掲載した。
最後に、先週の記事の冒頭にも引用したが、筆者の中村幸安氏が2002年に明大の講師を退官された時に配布された資料の中から、今回の記事に関係する部分を引用する。

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「私が目指しているのは、共同体論の実践課程としての『コミニティー作り』にあった。
これは、都市型コミニティーにほかならない。
勝手に団地という名の巣箱を作っておきながら、主要動線と団地の間の交通機関が計画されていない『陸の孤島政策』を批判してきたが、私たちは、明大生協の支援と学生の支援を得て、消費物資の共同購入を都市型コミニティーの核を、共同三原則においたテーゼを打ち上げた。共同消費・共同購入・共同分配がそれである。
そして、テーゼにのっとり大学を解放すべく、千葉大農学部の生産物を共同購入して、町田市鶴川地区の住民に供給したし、明大農学部を社会に解放すべく、住民の援農を組み込んだ学・住一体の運動体の創造に取り組んだ。それらの実験資料を基に、50 万人都市を人為的に作り替える『タマ生協』をタマニュータウンのど真ん中に作った。
そして、遂に、この運動が、バスという準公共料金の深夜分の値上げという民間運送業者の要求を鵜呑みにした運輸行政に対して『われわれは自分で自分の足を守る』というスローガンの元に、鶴川駅から鶴川団地へ、聖跡桜丘駅から永山団地まで、町田駅から山崎団地までというぐあいに、署名運動型から自立型運動へとその方向性を転換する事になる。
我が団地の欠陥問題が一段落した頃から、私は『欠陥住宅の専門家』と言われるようになり、請われるままに原稿を書き、マスメデイアに顔を出すことになった。」

(終)

今回のブログ記事は、「朝日ジャーナルで読む1970年代」シリーズの3回目。1971年1月22日号の「朝日ジャーナル」に掲載された「総合生協への道-都下鶴川団地からの報告―」という記事である。
この記事の著者は中村幸安氏。中村氏は、明治大学学生会中央執行委員長として、60年安保闘争を闘い、その後、明大工学部の講師となるが、69年から70年の明大闘争では、助手共闘の中心となって活動された方である。建築科の講師ということもあり、「NPO法人建築Gメンの会」の理事長をされていた。
中村氏は当時、記事の「鶴川団地」に居住しており、2002年に講師を退官された時に配布された資料の中で次のように述懐している。
「1968 年に購入した『公団分譲住宅』が、実は欠陥住宅であることが判明したのは、1969 年である。大学は学園紛争の真っ直中。住居は欠陥問題で大騒ぎ。自分の問題の解決も図れない者が、どうして世直しなんかできるものかと主張を繰り返してきた者としては、自分の住まいの問題を自分で解決する良い機会訪れたと言うわけである。」

記事が長いので、今週と来週の2回にわけて掲載する。

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【特集・71 市民運動の重層化 総合生協への道 -都下鶴川団地からの報告― 中村幸安】(朝日ジャーナル1971.1.22)(前半)

<分譲住宅の雨漏りと駐車場>
  われわれの共有する住民運動を語る場合、所有する住居の特殊性を説明しておかねばならない。その特殊性とは、われわれの住居は公団分譲住宅団地であるという点である。土地は共有であり、個人所有に帰属するのは五階建てアパートの専用空間のみである。したがって、いやおうなしに住民は共有地、共有施設の管理運営を通してコミュニケートせざるを得ない存在なのである。
 しかし、この存在形式が普遍的なものとして運動創造への基盤になるなら鶴川六丁目を語る必要はない。ところが、日本住宅公団から分譲された共有・専有資産(施設)は1年(造作・植栽)と2年(躯体)にわたる瑕疵補修期限がついたものであることによって、瑕疵補修請求運動が特殊な形で組織されることになったのである。管理組合の理事会は住民の中の建築専門家による建築専門委員会を組織し、全面的に日本住宅公団に当たることにし、瑕疵に関する一切の問題を10世帯単位から選出される自治委員(自治の階段代表)を通して処理するようにし、住民に建築知識を付与し、住民による補修工事の監視体制をとることにした。そのためには、団地を一巡して、クレーム例を解説し、集会所においてスライドを利用してクレームの内容と補修工事監視上の留意点を教示した。
 このことによって、天下り的告発運動を下部に定着させ、住民総体で買い取った商品の瑕疵を補修させ、直接公団の営業所へ出向き大衆団交も再三再四もってきた。この運動の経過こそ、それ以降の運動の方向性を想定したものといえるだろう。買った商品が雨もりするので、それを至急補修してくれるように請求しても、それが容易に運ばないことの本質とその社会構造を住民はいやという程見せつけられたのである。あたかもこの瑕疵補修請求運動の運動論と組織論が検証されるような恰好で表面化してきたのが路上駐車追放の住民の声である。
 入居時において既にパンクしている公団団地の駐車場の実態は説明を要しない。したがって入居早々に、共有財産としての道路(私道)に私有財産としての自家用車がやむなく駐車しはじめ、子供の安全が脅かされることになった。自然発生的に自動車を所有する者、しない者の如何を問わず、道路からの退去を要求する声が起こった。この現象はどこの団地でもあることである。しかし、この問題に対処するため、鶴川六丁目の自治会と住宅管理組合は「鶴川団地駐車場対策委員会」を組織し、管理組合の代表とマイカー族で結成していたモータークラブの代表と自治会の代表を参加させて、路上駐車をはじめとする駐車場問題の抜本的解決の方途を諮問した。答申は「報告書」として提示され、「報告書」を中心に自治委員会で大衆討議にかけ、暫定処置として、子供の安全や排気・騒音の影響を比較的受けない私道と市道を積極的に仮設駐車場とすることに決定したのである。
 この駐車場問題を契機として、住民の間には10年先、20年先はともかくとしても入居して2年に満たない段階で駐車場がパンクする団地とは一体「何」なのか、と住宅政策そのものに、激烈な討論の結果もふまえ疑問を抱きはじめたのは事実である。その結果が、駐車場問題を解決するためには住民が共同出資して駐車場用地を買収すべきだとする意見と、与えられた駐車場に入りきらない自家用車を持って入居する方がおかしいという両派(本質派と秩序派)にわかれつつも、目下、駐車場拡大の方向に住民の意識が向かっていることは事実である。

<職住分離の壁に挑戦>
 瑕疵問題、路上駐車問題、住宅管理問題を個別登りつめたわれわれは、さらなる壁の除去のために、公団分譲住宅管理組合の「連絡協議会」の結成を働きかけ、連帯して闘うことを呼びかけた。東京、神奈川、千葉、埼玉県下の24の管理組合の参加を得て、その第1回の会合を持ったのは69年の9月20日である。準備会をもってから、1ケ月を待たずしてわれわれは「連絡協議会」の結成に成功したのである。
 この協議会の場を通してわれわれが把握したものは「アウシュビッツ団地」の実体にほかならない。「職住分離」がもたらす居住地の限りない退廃は、一切の問題を自治能力によって解決し得ないくらいにしており、職住分離の政策がものの見事に体制の意図する方向に進行していることであった。
 しかし、この状況からの脱出は単に管理組合が連帯するだけではなく、各地に存在する自治会そのものが連帯する必要があるという確認に至り、70年の5月31日に「町田市公団公社自治会連合会」の結成を見るに至るのである。そして、この連合会は昭和45年度活動方針の「はじめ」につぎの一文を載せた。

「しかしながら、このような人口増加にもかかわらず、教育施設の整備はまったく遅れ、教室が不足し、保育所が不足し、教員、教材が不足しております。また、交通機関も不足し、バスは超満員で乗り残しがあいつぎ、電車も超満員でのろのろ運転に終始し、タクシーが足りず1時間以上待たされる。消防設備はさらに遅れ、急病人が出ても救急車が来ない。それどころではない。医者がいない。安心してかかれる医療施設がない。保健所も貧弱だ。というように団地住民は無計画な団地造成政策の被害者であります。
それだけではなく、団地内の物価はたいへん高く、しかも品不足でよい品を安く手に入れることができない。駐車場が不足し、路上駐車により被害をうけているのは一般住民はもとより車の所有者も例外ではありません。
 かかる現状の認識の上にたって個別に進みつつ共に撃つことで連帯し合ったのです。」

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 1970年3月1日、鶴川六丁目(鶴川団地東地区自治会)は、慎重な検討の末、独占メーカーの牛乳に対抗し、全販連と共同し生産者農家の原乳を加工している「小岩井牧場・小岩井牛乳」を住民に供給することにした。当時、生協や団地自治会で扱っていた牛乳価格をみると、最低が関西主婦連会館内で販売されていた180cc―18円の時実牛乳であり、鶴川六丁目の自治会牛乳は200cc―17円50銭(セルフサービス)であり、配達して19円という格安のものである。しかも、「本物の牛乳」とあって非常に好評を博した。
 配達は住民学童のアルバイトにより、事務、会計は住民の参加によって賄い、収容能力三千本の冷蔵庫も全販連のはからいで管理事務所横に設置することを管理組合理事会は積極的に承認し、上屋の建造に当たっては立替払いをしてくれるまでに、各機関の協力によって牛乳供給活動は軌道に乗り、現在は物価値上げの中にあって200ccの牛乳をセルフサービスで17円に値下げし、配達で19円50銭という価格で供給しているのが実情である。しかも、単なる斡旋業としてではなく一切合切住民の手によって賄っているのである。
 牛乳供給を開始したわれわれの自治会は1970年度の活動方針の主要な柱として「生活協同組合の設立」をかかげ「住宅環境整備」をかかげた。筆者が管理組合の理事をやめ建築専門委員会委員長として瑕疵問題を引継ぎ自治会の事業部長に就任したのは、文字通り「生協設立」のためであった。6月から生協設立に向けての活動が開始され、地元養鶏農家との鶏卵の取引を再編し取引価格は東京生鮮市場の取引日の全販連価格を基準とし、週1回集会所で事業部の主婦が販売しはじめ、引続き農生産物の販売も開始した。明治大学農学部誉田農場、千葉大学園芸学部からの直送野菜を「夕市」と命名して自主販売した。
 こうして、単なる安売り機関としての事業部や「生協」とは違い、地元の生産者との結合をはかり、業務全体を住民の直接参加によって行う、というさらなる共同体(コミニュティ)の創造に向けて我々の運動は飛翔しはじめたのである。この状況下に降ってわいたように突出されてきたのが通常料金の3倍の運賃で、定期券が使えないという「貸切深夜バス」であった。

<深夜バスボイコット闘争へ>
 この「深夜バス」なるのもは、運輸省、陸運局と私鉄資本が1970年3月の段階から準備したものである。バス料金の改定が困難な折柄、同一の路線を同一のバスが走るのに、従来の終バス以降は、別事業の貸切バスとして別途料金を利用者に課してくるというものである。牛歩に似た行政事務手続きも、このときばかりは、7月16日に私鉄神奈川中央交通が陸運局に申請し、何と7月18日に認可されたのである。青天のヘキレキともいうべきこの大衆収奪の毒牙にわれわれは予想以上の冷静さを維持しえたのは、既述したような運動を既に共有しえていたからだといえばうぬぼれだろうか。
 われわれのうちのだれからともなく、「深夜バス」をからっぽにして走らそうと、声が出てきたのは、神奈川中央交通や陸運局担当官との交渉を大衆的にもやったあとのことであった。7月27日遂に「深夜バス」第1便が発車する日、われわれは住民オーナーの自家用車を13台動員し、第1便のバスに1人も乗らない状況をつくり出すことに成功した。
 このわれわれの反対運動に呼応して、東京バス協会(52社で都営バスも含まれている)は①「深夜バス」と従来の終便との間は間隔を置くこととし、現行の終便を延伸することは原則として行わないこととする。②現行の23時以降のバスとこの「深夜バス」との間には、当然運賃格差などが生ずることとなるが、当分の間はそのままとし、運賃改訂期等に検討することとしたい。③「深夜バス」の特別運賃は、タクシーの割増による一人当たり運賃支出額を考慮の上定める。一般の定期券は原則として認めないこととしたい。という申し合わせ事項を決定し、独占禁止法に抵触する内容のものを出してきた。
 しかし、われわれの戦列も拡大し、鶴川のボイコット闘争を支援する多くの団体が名乗りをあげてきた。われわれが「深夜バス」をボイコットしている理由はこうである。
 『新経済社会発展計画』は「都市計画などによる生活環境の整備に当たっては、地域住民の意見の反映に努めることが必要であり、都市地域の広域化、人口急増による地域社会の再編成等に伴って生ずる地域的な利害の調整に十分留意しつつ、合理的な方法によってこれを実施する」とうたっている。
 しかしながら、現実を見ると、これら諸問題の解決に名をかり「公共料金の値上げ」「租税負担の強化」「受益者負担の原則の徹底」等によって、すべての経済負担を勤労者、住民に転嫁しようとしているのである。それに加え、「収益性の確保しうる」ような事業は「民間事業主体」に委ねるというにいたっては、われわれはそれを黙過できない。生活環境整備に関する資金は社会資本によって賄われるべきであり、政府、地方公共団体、それに利益企業が負担すべき筋合のものである。
 われわれは好き好んで陸の孤島とよばれる団地に住んでいる訳ではない。土地の高騰、賃金の相対的低下という関係で、所得に見合った居住地を選ばざるを得なかったのである。ところが住んでみると、全くといってよいほど、建設行政と運輸行政ばかりではなく、行政側の一致した施策が存在していないことに気付いたのである。鉄道が午前1時5分まで駅に勤労者住民を運んでいながら、バスは午後10時45分を終便としている。新宿駅から1時間を要することを考えると、職場を9時に出ないと「バスに乗り遅れる」ことになるという勤労者の生活は、生活環境として正常なものだろうか。しかも、この「深夜バス」は通常バス料金改定の政策的布石であることを東京陸運局長がわれわれに公言している。
 また、60円という料金の根拠は全くない。この60円の根拠はといえば、東京バス協会もいっている通り、タクシーの相乗り料金を見計らって出してきているものであり、全く原価計算の根拠はないのである。このことは、われわれがボイコット運動を開始すると同時に会合を定期的に持ち始めた神奈川中央交通の労組員の証言によって自治委員全員が確認していることでもある。神奈川中央交通といえば、常にバス企業の中で合理化の先兵をつとめ、ワンマンバス・自動チケット制、車内放送制をいち早くとり入れた会社であり、有価証券報告書にも、組合は上部団体に属していないことを誇らしげに語る会社でもある。運転手の労働災害率はきわめて高く、運転士の平均睡眠時間は5時間そこそこという発言がわれわれの自治委員会の席上で運転士によってなされているのが実情である。

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<タクシーより安いか>
行政、会社側は深夜にバスを出せば経費もかかるという論理をもって運動圧殺に乗り出したが、この論理を適用するなら、早朝割引を割増しにしなければなるまいと住民は反論した。また、午後10時45分までは経費は変わらず25分あとの午後11時10分からどうして経費が急増することになるのだろうか。
 それに、この深夜バス運行で、神奈川中央交通と陸運局は一体となって違法行為を行っているのも事実である。申請されたバスは2台であり、運転士1人に補助者1人の同乗が貸切バスに義務づけられているにも拘らず、初日からバスは1台で往復し、運転士は1人であった。しかし、原価計算では、バス2台、運転士1人、補助者1人で60円を妥当とデッチあげておきながら、実際に走っているバスは申請内容に似つかわしくないものなのである。
 われわれは、これらの事実を大衆的に暴露する中で不退転の決意をもってボイコット運度の継続発展に踏み切ったのである。われわれの非妥協的な代替手段を共有化した闘いは、過去の住民運動で見られなかった成果を引出した。11時以降の通常料金による終バスの延長を行わないと申合せた東京バス協会の確認事項を反古とし、現実に11時10分の「深夜バス」を普通バス料金にし定期券が使えるようにしたのである。
 しかもわれわれの闘争は地域の特殊性から出発しつつも、バス企業の労働組合員(運転士)と結合することによって、問題の「階級性と政治性」を明確化してきた。
 しかし、時間延長そのものが「深夜バス」と抱き合わせで出されてきている限り、われわれの闘いは続くであろう。「時間帯による公共料金の二重価格制」は。<地域別料金><目的別料金><混雑度別料金>制へと住民、勤労者の≪差別≫化の方向で出されてくるのは必至である以上、この政府と独占企業が一致して出してきている国民不在、住民不在の<悪政策>を撤回させなければならないだろう。
 新聞値上げ反対の際にも、ある新聞社の広告に出されたように、「古新聞も値上がりしているから、古新聞代を差引けば・・・」という論理を新聞社は採用した。それが、この深夜バス問題ではもっと強固な<壁>として存在したのである。「20円が60円になったのは不当である。しかし、『深夜バス』はもともとわれわればタクシーに乗って帰っていた時間なのだから、タクシーに比較すれば随分安いではないか」という、本質論を抜きにした経済性の比較論は市民社会の日常秩序とさえ化しているのである。
 この<壁>に対し、真正面からわれわれは対峙した。反対運動のエネルギーまでも「労働」に換算していくのなら、一切の自治会活動も赤字だからやる必要はない。また、問題の本質を抜きにして、「バス」と「タクシー」を「乗物」という概念で取扱ってはならない。「バス」は公共企業、公共事業の立場で捉えるべきものであり、「味噌も糞」もごっちゃにしてはならないことを説くとともに、反対していかねばならないのは「深夜バス」だけではなく、諸物価の値上げに反対していかねばならないことを説いた。そして、この「深夜バス」問題をバス会社対住民の問題から自分の中にある<会社対自分>の問題に置換えていったのである。
 しかし、<運動>そのものを「採算性・経済性」で論じようとするのは、「労働組合運動」そのものの中に貫徹していることを見ておかねばならない。70年安保を「闘う」と宣言した総評をはじめ各組織は「闘争資金・弾圧に対する救援資金がない」ことを理由にサボタージュしたことを思うと、「職住分離」のイデオロギー支配は、骨のズイまで貫徹しているといわざるを得ないだろう。

(次週に続く)
 

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