5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。
NHKのネットニュースは吉川氏の訃報を次のように伝えた。
『ベトナム戦争に反対する団体「ベトナムに平和を!市民連合」、通称べ平連の事務局長を務め、平和運動などに力を注いだ吉川勇一さんが28日未明、慢性心不全のため亡くなりました。84歳でした。
吉川勇一さんは昭和6年に現在の東京・千代田区で生まれ、東京大学在学中に自治会の議長として、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約への反対運動に参加しました。
大学中退後、ベトナム戦争が本格化した昭和40年からは作家の小田実さんや、哲学者の鶴見俊輔さんらが立ち上げた市民運動団体、通称べ平連の事務局長を務め、昭和49年の解散までアメリカの反戦運動と連携し、脱走兵の支援をするなどの活動を続けました。
吉川さんは、その後も予備校の講師を務めながら、非暴力と民主的社会の実現を目指すという目的で市民グループ「市民の意見30の会・東京」を結成したほか、近年は反原発運動にも参加していました。
関係者によりますと、先月30日にはベトナム戦争終結から40年を記念した集会に車いすで参加しスピーチをするなど、元気な姿を見せていたということです。
しかし、吉川さんは27日夜、体調が急に悪くなり、28日午前4時20分ごろ、暮らしていた東京都内の高齢者用住宅で慢性心不全のため、亡くなりました。』

吉川氏は亡くなられる数日前に、私も関わっている「10・8山﨑博昭プロジェクト」の賛同人に申し込まれたばかりであった。
プロジェクトとして、以下のような追悼文をHPに掲載した。

『吉川勇一さん(賛同人)を追悼します
吉川勇一さんが2015年5月28日に亡くなられました。84歳でした。謹んでお悔やみを申し上げます。吉川さんは、1965年に発足したベトナムに平和を!市民連合(通称「ベ平連」)の事務局長を務められ、ベ平連解散後も、長く平和運動を進めてこられました。
吉川さんが亡くなられる6日前、5月22日に書かれた「10・8山﨑博昭プロジェクト」事務局宛のお手紙を、わたしたちは受け取っています。
発起人の一人である山本義隆に宛てて、「ことは山﨑博昭さんのことですし、また、山本さん、水戸さん、最首さんらのご努力のことで、これには、ぜひとも賛同させていただきます」との言葉とともに、賛同金を同封してくださいました。
わたしたちはこの吉川さんのお手紙を、わたしたちへの遺言として受けとめています。最期の激励の言葉に胸がつまり、首を垂れる思いでいっぱいです。
戦後一貫して反戦・平和運動の重鎮として活動されてこられた吉川勇一さんのご意思を満身で受け止めます。心からご冥福をお祈りいたします。

◎吉川勇一さん:1931年、東京市生まれ。『帰ってきた脱走兵』『市民運動の宿題』『反戦平和の思想と行動(コメンタール戦後50年 第4巻)』『民衆を信ぜず、民衆を信じる』など著書、翻訳書、論文多数。

10・8山﨑博昭プロジェクト発起人一同、事務局一同』

私が明治大学に入学したのが1969年4月。当時はベ平連の最盛期であった。全国での動員は数十万とも言われていた。私もベ平連の定例デモに参加したことがある。定例デモでは明大ベ平連のメンバーと一緒だったが、明大ベ平連は大学ベ平連の中でも「トロベ」(トロッキスト・ベ平連)言われており、水色の旗に黒ヘルで、デモの最中にもジグザグデモを繰り返していた。
その「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に「週刊アンポ」という雑誌が発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。
吉川氏は、この「週刊アンポ」の第1号から「市民運動入門」という記事を連載していた。
今回は吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号の吉川氏の記事を掲載する。

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【市民運動入門 第1回 吉川勇一  週刊アンポNo1 1969.11.17】
『大きな声を出そう -市民運動とは大声を出すこととみたりー
今夏大阪で開かれたハンパク「反戦のための万国博」の際のことである。1日を費やしてハンパクに集まった各地ベ平連の人びとが一堂に会し「ベ平連全国懇談会」を開催した。その日の夜、ハンパク会場の大テントで全国懇談会の討論の模様を報告する集まりがあった。テントは沢山の人で溢れたが、その中にはまだべ平連運動に加わっていない人びともかなりいた。

<大天幕の中の話しあい>
「私のところでもべ平連をつくりたいのだが、どうしたらよいのか」という質問も出た。その会の終る時、小田実が立って怒鳴った。「これからベ平連をつくろうという人、ベ平連についてもっと聞きたいという人、このあと会場に残って下さい。吉川君がゆっくりと説明するそうですから。」
傍らで聞いていた私はビックリした。ヤレヤレ、また彼のクセが始まった。そんな予定はなかったのだし、もう夜の10時近かった。夕飯はおろか、ろくすっぽ昼飯もたべてはいなかったのだ。小田氏は予定だの、あらかじめの打ち合わせなんて気にもしない。ポンポンと思いつきが飛び出すし、それは、しかも、引っこみがつかない形でとび出してしまうのだ。
第1回日米市民会議(1966年)だってそうだし、昨年の「反戦と変革にかんする国際会議」だってそうだったし、この「週刊アンポ」だってそうだ。あっちこっちでシャベリ、書き、遂には記者会見をし、そしてしばらくたって冷静に考えてみて、「こりゃエライこっちゃ。とても出来そうにないわい。」と気がついた時はもうあとの祭りで、もうやるよりしょうがなくなっている。これまでのところ、それで何とかなってしまうんだから恐ろしいものである。「シャーナイヤナイカ、マア、ナントカナルヤロ」という彼の口ぐせは、これまでのところ、そのとおりになっているのである。
いや、思わぬグチが出た。そんなことが本題ではなかったのだ。小田氏の突然の発言で30人ほど集まったそのベ平連についての会合は、続けて開かれることになった。
みんなベ平連ははじめてで、そしてベ平連の運動をそれぞれの地域や学校で始めようと思っている人たちだった。大天幕の裸電球の下、まるく並べた椅子の前列二列ぐらいは空いていて、みんな後の列のほうに座っている。

<引っこみ思案をなくそう>
 さて、どんな話をしたものだろうか。これらの人たちのこれからベ平連運動を始めたいと考えている地域や学校や職場の状況はみんなさまざまであるはずで、こうすればベ平連運動が始められる、市民運動はこう始められるべきだ、というそんな処方箋などあるわけがないのだ。
 「それぞれの方がどんな気持ちで運動を始めようとなさるのか、ちょっと事情を話して下さいませんか」私はそう聞いた。沈黙。
 そこで私は話をつぎのように始めた。「反戦のための市民運動を始めようとする人、ベ平連運動を始めようと思う人、そういう人はまず第一にこういう集まりで後の方の椅子に腰を掛けたり、沈黙を守ったりすることをやめなければいけないでしょう。
 ベ平連の運動、あるいは反戦のためのいろいろな市民運動は、よく自発性とか自立性ということを問題にします。誰に命令されるでもなく、自分の判断にもとづき自分から進んで行動に出る、という姿勢を重視します。実際こうした積極性なしには運動はまったく進まないでしょう。ここに集まった人びとはこれから反戦の運動を始めようと考えている人たちばかりだと思いますが、とくにどうすればそれがうまくゆくという妙手は別にないのです。あえていえば、自分からやろうと思い、まず行動を始めること、そして行動の中で考え、仲間たちと討論を重ね、また行動をする、という以外にはないでしょう。そうだとしたら、こういう集まりで後の列の椅子に腰掛け、発言をせず、人のいう話だけを聞いている、それではベ平連方式の正反対なんです。話し方が下手でもなんでも全然構わないのです。」
 「いわぬは腹ふくるるわざなり」昔の人はそう書いた。だが兼好法師に教わるまでもなく、市民運動とは、政府のやり方について、世の中の在り方について、役所や学校のやり方について、もう我慢できない、もう黙ってはいられない、そう思った市民が、言あげをし、異議をとなえて行動をおこすということなのであって、そうであるなら、腹の中におさめてグッと我慢したり、人の話を聞いておいてあとで一人で考え、あんなやり方なら自分は賛成できないな、やめとこう、などと思うのではなく、いいたいことをドンドンといい、反対なら反対ということが、そもそも出発点なのだろう。
 引っこみ思案をなくそうということである。市民運動とは大きな声をだすことと見たり、というところだろうか。

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<定例デモでの提案>
 別のところでもちょっと書いたが、ベ平連には役員はおらず、労組や政党のような中央委員会とか執行部といったようなものがない。それならベ平連の具体的な行動プランはどこできまってゆくのか。ある意味では、それは大きな声を出すことによってきまるのである。
 たとえばこうだ。ベ平連は毎月定例の反戦デモをもう4年以上も続けている。第一土曜日の午後2時、清水谷公園(地下鉄「赤坂見附」下車)に集まって歩き出す。東京以外でもこうした反戦の定例デモやフォーク集会をやっているところが多い。このデモのための集まりの時、いつも1時間ほど集会を開く。この集会でのマイクはすべての人に開放されている。そこではいろいろの人が話をする。運動の報告もあるし、自分の意見う人もある。カンパの訴えも行動の提案もある。ある行動を始めるべきだと思った人はそこで話をすればよい。
 ただし、その行動の提案は、提案するその人が先頭に立ってやるということが一つの約束になっている。つまり、自分はやらないがお前たちはやれ、というような提案では困るということである。だから「自分はこれこれのことをやりたいし、やろうと思っている。いっしょにやる人はいませんか。」としゃべるわけである。
 その提案に賛成の人がいればあなたのまわりに集まって、あなたの提案を実行に移すにちがいない。もし誰も集まらないとしたら、もう一度つぎの機会に「自分はすでに始めた。誰かいっしょにやる人はいませんか。」ともっと、大きな声で怒鳴ればいい。しかし、それでもし誰も来なければ、その時は仕方がない。その提案は誰の賛成もえられなかったわけであり、一人でもそれをやりとおす覚悟をするか、それとも提案をあきらめて、捲土重来、ねり直した上で再提案を考えるしかないだろう。たとえそうなったとしてもいいではないか。恥ずかしいことはない。いや、ちょっと恥ずかしいだろう。でも恥ずかしい思いを全然しないで運動をやろうなんて考えが、今の世の中ではちょっと無理な話なのだろう。唄の文句にもあるではないか。「座り込みをするのや、デモをするのはかっこが悪い。それはカッコ悪いよと、君は何度も言うけれど、平和の為なら構わない、ララララ、ランラララララ・・・。」
 すべての人が小田実氏式に「シャーナイヤナイカ、ナントカナルヤロ」という具合にいくかといえば、そうはいかない、と思うけれど、それならなおさら、小田実以上に大きな声を出すよりシャーナイヤナイカ。
 市民運動入門、その第1回は、引っこみ思案をやめ、恥ずかしがらずに大きな声を出そうということである。遠慮はやめようということである。
 とにかく政府の方はマスコミを使って、毎日のように市民運動は悪いものだと大きな声で騒ぎたてているのである。だとすればわれわれの声はよっぽど大きなものでなければならないわけである。』

この吉川氏の「市民運動入門」の連載記事は、今後、定期的にブログに掲載する「予定である。

(終)

【お知らせ】
来週はブログとホームページの更新はお休みです。
次回は6月26日(金)に更新する予定です。