野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2015年08月

先日の明大土曜会で、長編ドキュメンタリー映画「三里塚に生きる」を上映した。当日は、この映画の監督・編集の代島治彦氏に来ていただいて、映画の上映後、お話を伺った。
(監督・撮影は大津幸四郎氏)
今回は、この代島監督のトークを掲載する。

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(写真「三里塚に生きる」)

【「三里塚に生きる」を語る 代島治彦監督 2015.8.1 明大土曜会にて】
1.明大関係者について
57歳です。いろんなことが終わった後、大学に入りまして、どちらかというと政治活動より文化活動です、僕らの時代は。この映画で明治大学に関係があるのは2人で、1人は最初に出てきた山﨑宏という明治大学農学部の人。彼は高校時代から関心があって、明治に入ったら中核に入ろうと思っていたそうです。そうしたら誘われなかった。サークルでも勧誘されなかったし、自分が田舎から出てきたみすぼらしい青年で、労活評(労働運動活動者評議会:構造改革派)にたまたま入ってしまって、今、こうやってまだ三里塚にいる。彼が『あの時中核に入っていたら、絶対俺はここにいないし、労活評だから続いているんだ』としみじみ言っていました。

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(写真 山﨑宏さん)

『あまちゃん』の音楽をやった大友良英に音楽をやってもらったんですが、彼が明治なんです。彼はそれまでは前衛音楽で、1979年に三里塚で2回目の幻野祭があった時に明大から行っているんです。そんな縁もあって、この音楽をやってもらったんです。
だから明治大学に関連があるスタッフというと、この2人です。」

2.映画を作るきっかけ 
「映画を作るきっかけというのは、小川プロの三里塚シリーズの一番最初の『日本解放戦線三里塚の夏』、1968年に作られて、1968年から69年の大学のバリストの中のいろんなところで上映されて、それを見て感動して三里塚に行った学生とか若者が多いと聞いているんですけれども、それを撮影したのは大津幸四郎という、僕と一緒にこの映画を撮影した人なんです。僕は大津幸四郎さんと10年くらい一緒に映画とかテレビのドキュメンタリーとかやっていまして、大津さんが77歳の時に『俺は最後にもう一度三里塚に行って映画造りたいんだ』と言ったんです。

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(写真 大津幸四郎監督))

あの時、小川紳介と1本で袂を分かって、その後、土本典昭と一緒に水俣に行ってしまうんです、大津さんは。三里塚で1本だけなんです。その後、小川さんは別のスタッフと三里塚シリーズをあと6本作るんです。大津幸四郎としては小川紳介の作り方が気に食わなかったところがあって、もっと農民の姿を撮ったんだけれども、『三里塚の夏』という映画は、この映画(「三里塚に生きる」)と違っ気持ちが高揚してくる映画なんですね。それは黒澤明の『七人の侍』とか『隠し砦の三悪人』的な、助っ人が来て、あるいは農民自身が強い者に立ち向かって行ってやっつけていくんだみたいな盛り上がって行く映画なんですね。それはそれでドラマチックで面白いんですけれども、大津さんとしては、もうちょっと俺は百姓の姿、百姓が何で土地にしがみついて、土にしがみついて生きているかというのを描きたかった。それが出来ないまま水俣に行って、ずっと三里塚は小川紳介のテリトリーだから、なかなか再び入るということはなかった。小川紳介は1992年に死んでいるんですね。その後、ずっと時間が流れたんだけれども、もう大津も77歳になったし、三里塚闘争の初期の農民たち、青年行動隊だってもう60代だし島さんはもう70ですから、そういう歳になって、おっかあなんか死んでいる人もいる。だから俺にとっても最後のチャンスかもしれないから、今、彼らがどうしているか、彼らの人生みたいなものを訪ねていって、映画になるかどうか分からないけれどもやってみたい、と。僕は大津さんに誘われて付いていった方なんです。僕が大学2年の時に管制塔占拠ですから、知ってはいるんです。知ってはいるだけど、僕は三里塚に行っていない。、何となくそういう僕自身の後ろめたさがあったんです。
僕は埼玉の熊谷出身なんですが、家は農家なんです。農家の長男なのに家を継がないで、農業なんてもう食っていけないし、どっちかと言うと東京に行って一旗揚げてやろうみたいな感じで出てくる訳です。東京一極集中に一役買っている訳ですけれども、そういうことが何となく、50代後半になって人生を振り返った時に、農業をあんなにあっさり見捨ててよかったのかとか、そういう気持ちはあったんです。
あともう一つは皆さんんの世代、一番若者たちが盛り上がった60年代から70年代という時を生きた皆さんの世代に対してあこがれもあれば反発もあるんです。何でそうなったのか。僕らは何か大きなものが挫折した後に青春を迎えるんです。だから僕らが過ごした青春って、意外と挫折感しかないんです。」

参加者1「あの時は挫折する必要ないもんな。」
参加者2「キャンパスの雰囲気がね。」

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(写真 代島治彦監督」)

「キャンパスの雰囲気もそうだし、俺たちはそういう暴れるとか、そういうことをやっても空しい訳です。やってもしょうがない。どうせああいう風に悲しい結末とか、浅間山荘、若松さんが最後、意地を張って作りましたけれども、ああいうこととか浴びるようにして、大学に入ったら俺たちどうなるんだろうと思って、1977年に大学に入るんですけれども、どちらかというと僕らの場合は文化活動ですね。芝居やったり音楽やったり映画作ったり、そういうことで自己表現していこうよというような感じですよね。そういうところで入って今まで生きて来たので、僕の中のテーマで言うと、皆さんたちの世代をどういう風に見ていくかという、この映画にどう込められるかというのと、あとは自分が農家の百姓なのに、田舎を見捨てて都会に出てきたことの後ろめたさみたいなもので 僕の中では、あとは大津幸四郎が三里塚を見捨てて、見捨てた訳ではないですけれども、袂を分かって出て、自分が死ぬ前にもう一度三里塚に行きたいと、大津さんが三里塚に行ったのが77歳から79歳の2年間です。それで80歳で映画が完成して試写会が終わって、映画公開の1週間後に亡くなるんです。最後は肺がんなんですけれども、僕と撮影している時も本当に痰が止まらなくて、医者に通いながら薬を飲みながら撮っていた。だから映画を撮ることで命を縮めたようなところがあるんですけれども、そういう大津幸四郎の執念をちゃんと撮ろうということもあったんです。だから映画の一番最後に撮影している大津幸四郎の姿がクレジットのところにちょこっと出てくるんです。あれは、小川プロが『三里塚の夏』を撮った時に、大津幸四郎が公務執行妨害で捕まっているんです。その連行シーンが最後に出て来るんです。当時、公務執行妨害で捕まったカメラマンというのは大津さんだけなんです。当時としては、なかなか反骨のカメラマンだとかいうことで、取り上げられ・・・」

参加者1「起訴された?」

「起訴までいかずに1日です。」

参加者2「撮影しているだけなんだから。」

「カメラで殴ったというんです。一番大事なフィルムが入っているカメラで殴るはずがあるかということで、その頃、日本監督協会というのがあって、大島渚が理事長をやっていたんですが、すぐに記者会見を開いて声明を出すんです。『これは権力からの表現に対する弾圧だ』と。それがすぐに記事になって報道されて、翌日釈放されるんです。そういういきさつがあった大津幸四郎が、執念で撮りたい。あとは、何て言うんでしょうね。やっぱり長い時間が経っているから、人生というか、何が善で何が悪かということはないんですけれども、この題材はそういうものが入り混じった一つの時空間みたいなものが描けるかなと思ったんです。」

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(写真「三里塚に生きる」タイトル)

3.三里塚での撮影
「ちょうど2011年3月11日の原発事故があって、僕の知り合いのドキュメンタリストは東北の被災地、今、目の前で起きている事を撮りにいく訳です。そこで記録映画もいっぱい生まれましたけれども、今起きていることをみんなに伝える、人間の姿を伝えるということは大事なことだと思うんですけれども、目の前のことだけでは伝えられないことがあるだろうとうことで、僕は三里塚に行った時は、本当にみんなのところを取材に回っていて、みんな喋ってくれないんです。何て言うんでしょう、いまさら喋ってもしょうがない。ある意味では、気持ちの中で熱いものはあるんだけれども、終わったことだ。90年代にシンポジウムと円卓会議があって、移転した人たちが多かった。移転した人たちは何十億というお金を貰って移転して、御殿のような家を建てて、もうそういうところをその中に晒したくない訳です。柳川(秀夫)さんとか小泉(英政)さんは、もう言ってもしょうがない、俺たちは俺たちの生き方で闘っているんだから、ということで、柳川さんも最初は『俺は喋んないよ』と、実際に柳川さんにはまともにインタビューしていないです。『柳川さん、生き方で反対続けているんだったら、その生き方を撮らせてよ』と言って、柳川さんは『生き方、畑耕している姿ならいくら撮ってもいいよ』ということで、柳川さんは畑を耕しているところと、農作業をしながら、僕が恐る恐る『柳川さん、ところでどうして反対しているんですか』と聞いているところしかないです。ただ、それが逆にリアルなんです。堂々とインタビューに応じるようなものじゃないんですよね。そういうものが総体として何となく出ているんじゃないかと思うんです。」

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(写真「三里塚を生きる」を読む)

4.映画を公開した後の反応
「公開しても、やっぱり、今、三里塚と言われてもピンとこない人が多いんです、世の中。あるいはマイナスのイメージの方が多い。だから、これを公開する時に、宣伝とかPR活動がすごく大変でした。見てくれれば分かるんですけれども、見るまで全然ピンとこなくて、映画評としては新聞は全部出たし、映画の中身としては評価されたんですけれども、観客動員には全然結びつかないという状況が続きましたね。
やっていくうちにだんだんいろんなところに広がっていって、今、だいたい2万人くらい観てくれていまして、映画館でいうと、北海道から沖縄まで28館くらい。映画祭でいうと、台湾国際ドキュメンタリー映画祭のオープニングフィルムに選んでくれて、800人くらいの会場で2回やって、ほぼ満席でした。その後、香港国際映画祭もやってくれて、香港もほぼ満席で、その後、ソウルでやってくれて、その後、上海国際映画祭でやったんす。アジアは回っているんです。何故かと言うと、台湾と香港は特に、ちょうど台湾は学生たちの国会占拠の年だったんです。2014年の春にひまわり学連の若者たちが国会占拠をして、ひまわりを持って平和的に退場した。そういう活動をやった若い人たちが観てくれた。その若者たちは三ノ宮文男の遺書の朗読のところで泣いていた。メディアでは平和的に、あまり苦労や苦難がないような風にも見えるけれども、話を聞いてきましたけれども、中は大変だったみたいですね。仲間割れとか、意見が対立するとか、さっきシールズの話が出てきましたけれども、台湾にしても香港でもその前の運動世代が黒子になって指導しているんですね。前の教訓を全部、そこで意見をすり合わせなければだめだとか、最後まで誰かが傷つくまで闘っちゃだめだとか、ちゃんと言う人がいたんです。だから成功しているんです。香港の雨傘の学生たちもそうでした。雨傘の学生たちもかなり観に来てくれて、雨傘の方はまだ動きが続いていますし、そういういろんな動きがありまして、日本でも、今、安保法制のこともあるし原発のこともありますが、それがどう結びついてくるか分かりませんが、国内の動きで言うと、今年の秋に山形国際ドキュメンタリー映画祭という、日本で唯一のドキュメンタリー映画祭ですけれども、そこで特別招待作品に選ばれて上映してくれます。あとは11月に多摩シネマフォーラムというのがあって、この映画と辺野古の映画を2本連続して上映して、三里塚から辺野古というシンポジウムをやろうということになっている。」

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(写真 映画より)

5.再び三里塚の映画を撮ろうと思った
「僕はこの映画を作る時に、三里塚の現地で取材をしたり撮影をしたりしている時に。結構心はしんどかったんです。というのは、ほとんど明るい話ではないじゃないですか。人間がグチャグチャグチャってなっている中をもう一度踏み込んで行く、傷口を無理やり開ける訳ではないんですけれども、人の傷ついたことばかり聞いている訳ですし、結構しんどくて、この1本まとめたらもう三里塚には近づかないのかなと思っていたんですけれども、終わってみたら、柳川さんとか小泉さんとか、ここに出てくる人たちと心が親しくなったんです。あとは、行けるところは全部、上映会場に行って話をするんですけれども、あの時代、これだけ多くの人が三里塚に行ったり関わったり関心を持っていたのかということに改めて驚くんです。
大阪とか京都に行った時も、同志社とか京大とか立命館の人とか、みんな京都シネマということろに映画を観に来てくれて、終わった後、話をしていたら、第一次強制代執行の時にバスツアーみたいにして行ったとか、そういう人が結構いて、女性も多くて、あと、この間、管制塔を占拠したグループの花見に出たんですけれども、その人たちはその人たちで何か持っているとか、いろりろ垣間見ることがあって、支援者、当時そこに入った若い人たちですよね、そういう人たちの三里塚を舞台にした映画ができるかなと思い始めて、今、そのことをいろんな人に会って話を聞いています。

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(写真「三里塚花子の恋」)

まだカメラを回していないし、自分の中でシナリオ、構想ができない。一応、始めようと思ってチラシは作ったんです。『三里塚花子の恋』(仮題)といって、三里塚に行った女性たちということの象徴的なタイトルですが 恋というのは闘争だけじゃなくて、みんなには日常もあっただろう。日常が楽しかったからみんなが行ったんじゃないか。団結小屋なんて、いろいろあったけど、とってもユートピアだったんじゃないか。若い人が何故あの時、三里塚の団結小屋を目指して行ったのか。ある人から言わせると、67年68年69年70年代前半、大学のバリケードの中がある意味、ユートピアだったというか、皆が何かを賭ける場所だった。ところが、それがどんどん潰されていく訳です。」

参加者1「ユートピアというのはちょっと・・・」

「ユートピアは例えですが、そういうものがあって、それがある意味そっくりそのままじゃないけれども、三里塚の団結小屋が一番多かった時期には18くらいありましたよね。セクトの人たちやノンセクトの人たち、いろんな人たちがいましたよね。そういう場所だったんじゃないか。それがたぶん1978年の開港阻止闘争くらいまでは、いろいろゴチャゴチャありながら続いていたんじゃないか、という感じがするんです。
反対同盟が1973年の3月に分裂します。それで中核派が三里塚基軸を打ち出してもう一度巻き返しを図ってテロルとかあります。そこでまた闘いの局面が変わっていって、85年87年の東峰十字路の裁判の執行猶予が出ます。85年も中核派が仕掛けた3・20三里塚交差点の闘争とか、無意味な闘争をやっているんですけれども、そういうところまで引きずっている。その辺の事は、この映画ではスッポリと抜け落ちているんです。それを管制塔占拠の人たちから指摘されたんです。『俺たちがいないじゃないか』と言われても、そういう文脈じゃなかったんです。」

参加者3「管制塔を入れたら七人の侍とかそういう路線・・・」

「そういう路線になってしまう。確かに三里塚には違う文脈もあるんです。だから、この映画の英語のタイトルは『The Weges of Resistance Narita Stories』ですけれども、抵抗の代償、抵抗した結果受けた代償ということなんです、海外の人は三里塚の地域闘争なんて知らないんです。この間、ニューヨークで上映しましたけれども、ニューヨークでも非常に関心が高くて、映画のレビューもよかったんですけれども、その人たちは抵抗の物語として観るんです。日本の若者もこんな抵抗をして、こんな時代があったのか。日本ってそんな風に見られないですね。レジスタンスなんてないんじゃないか。要するに同化圧力が強いから、常に国民総動員で高度成長でもみんなでがんばるという国だと思われているんです。そういうところでは、すごく新鮮に見られるところがあります。
それで、もう一つの三里塚の文脈としては、農民じゃなくて、当時若者、今はおじいちゃんおばあちゃん、そういう文脈もあるんじゃなないかと思っています。ただ、僕は知らないですから、この前も加瀬勉さんの家に行って5時間くらい喋ってきましたけれども、やっぱり聞かないと分からないです。加瀬さんは加瀬さんの闘争に対する解釈があるんです。
加瀬勉の自分なりの冨里から三里塚に移ってきてこうなったという解釈があるんです。それで、加瀬さんが言っていた言葉で僕がジーンときたのは、加瀬さんはボロボロなんです。俺が運動やったために両親が貧乏だった、家も直せなかった、農機具を入れている小屋もつぎはぎだらけ、加瀬さんは自分の代でお終いだと言っている。
この間、島寛征さんに聞いたら、自分たちがやった闘いは自分たちの代で終わらせるくらいの覚悟を決めてやらなと、次の世代の負担になる、ちゃんと継げない。だから俺たちの代で1回終わらせなければいけないんだ。次の代は次の代で始めればいいんだ。だから、前のそういうしがらみとか、決着がつかないことを次の世代までタスキ渡しする必要はない、気持ちだけでいいんだと。、だから、そういうことを聞いていると、モヤモヤしたものがそこいら中にまだあるんです。
管制塔占拠に関わったある人が、今言っていた『七人の侍』、『俺たちは侍だったんだ』という言い方をするんです。『七人の侍』の一番最後に、侍のまとめ役だった志村喬が『勝ったのは俺たちじゃない。百姓だ。』と言うんです。『俺たちはこの地上を舞っている風のようなものだ。土に生きている百姓が勝ったんだ。』と言って映画が終わるんです。ただ、そんなかっこいいものでもないんじゃないかと思うんです。
かっこいいものじゃないんだけれども、絶対にそこには何か大事なものがあって、大事なものを今でも見えなくしている何かモヤモヤしたベールがあるんです。それをやってみたい。加瀬さんと話てみても、誰と話していても、その人のフィルターがかかるんです。この映画もそうですけれども、その人の記憶は、それぞれの思いがかかったものしか言えないじゃないですか。それを10人20人組み合わせた時に、もしかしたらフィルターとフィルターが重なって、あるフィルターが5枚くらいかかったら、そこでスーッと透明になるかもしれないです。そこで、何か事実が浮かび上がるかもしれない。」

参加者1「映画の発想だね。」

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(写真 映画より)

「だから、スーッと最後透明になる瞬間が出てきたら映画になると思うんです。ただ、その透明になる瞬間がまだ見えない。透明になった先に見えているのものは一体何なのかということが、まだ分からないです。『三里塚に生きる』を編集している時も、そういう感じがあったんです。一体、この皆が言いたくない事って何だろう、言いたくない事の先には何があるんだろうと思った時に、三ノ宮文男の遺書だったり、いろいろなものがありますよね。そういうものに行くんですけれども、言いたくないと言われた時に、これは映画にならないかなと思ったんですけれども、皆がそうなっていった時に、これは映画になるかなと思ったんです。そういう中で椿たかさんとか、おっかあたちは結構積極的に喋ったり、あとは三ノ宮文男のかあちゃん(静枝)ですね、かあちゃんがこういう喋りをしたのは、皆初めて聞いているんです。今までは絶対、文男のことは口に出さなかった。ところがこうやって喋った。そういうのが重なっていくうちに、もう40数年前の事ですよね、彼らの気持ちが透明になって見えてくるという感じなんです。
ですから、次回の『三里塚花子の恋』(仮題)は侍の方の気持ちをやってみたいと思っていて、侍の中には女性もいるだろうし、三里塚の百種と結婚して向こうに住んでいる人もいますよね。20数組結婚して、そのうち13組くらい離婚している。この映画の中で柳川さんがシンポジウムの時に言っているですけれども、『1人自殺した。昨日葬式があった。』
それがプロ青(プロレタリア青年同盟)の人で、彼女は移転を苦に自殺してしまうんですけれども、活動家で入った人たちは純粋じゃないですか、やっぱり気持ちがあるから。そういう決断を迫られた時に悩むんです。そういう人に何人も出会ったんです。」

参加者4「必ずしも純粋じゃないよ。」

「純粋じゃないところも出てくるんです。」

参加者4「純粋だったら活動やめたら自分で死んじゃうよ。だから、我々が生き残っているということは、あまり純粋じゃなくて、フレキシブルというか・・・」

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(写真 代島治彦監督)

「純粋じゃ生きていけませんよね、不純さも含めないと。そいうことを含めて出てくると思うんです。例えば、今回取り上げなかった青年行動隊の人がいます。その人の奥さんは、三里塚で始めて農家の人と結婚した中核の人なんです。その人も移転する時には1回離婚しているんですね。また戻って結婚していますが、そういうことが事実として今もあるんですね。そういうことを2~3ケ月前からこねくりまわしながら人と会っていまして、最近、中核派の人の本で『革共同政治局の敗北』という本が出ましたよね。水谷さんと岸さんが書いた本ですが、あれを読んだんですが、あの中でも三里塚は利用主義だったという自分たちの総括が出てくるんですね。特に第四インターへのテロを含めて総括しているんだけれども、その具体的なものは出て来ないです。岸さんが『悪かった』と一言書いているだけなんです。そういうことが出てくると時なんですね。(中略)
僕が『三里塚に生きる』を作る時に、一番読んだのはドストエフスキーです。『カラマーゾフの兄弟』なんですけれども、『三里塚に生きる』のエピグラフという一番最初に出てくる一粒の麦というキリスト教の聖書の言葉ですが、あれは『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフなんです。ドストエフスキーの文学って、たった1週間とか2週間とか短い期間の出来事なんです。そこに100年、200年のいろんな事を凝縮させる、あの感じをやってみたかったんです。


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(写真 映画より)

『よくよくあなたがたに言っておく
一粒の麦が
地に落ちて死ななければ
それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら
豊かに実を結ぶようになる。

ヨハネによる福音書
第十二章第二十四節 』

(終)

※ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」には、三里塚関係の冊子・ビラを多数掲載しています。そちらもご覧ください。
<アジビラ(新左翼・三里塚関係)>


【お知らせ】
明大土曜会では、8月30日(日)の「戦争法案廃案! 安倍政権退陣! 8.30国会10万人・全国100万人大行動」(主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会)に参加します。
●集合場所  経産省前テント広場
●集合時間  午後1時30分
       午後1時45分出発 
       午後2時~3時30分 国会議事堂周辺で包囲行動に参加
(国会エリアと日比谷エリアに分かれているため、状況によって日比谷公園霞門周辺で行動に参加する場合があります。)

※当日は「戦争法案反対の明大土曜会の旗」を目印に集まって下さい。

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差し入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
今回は「オリーブの樹」130号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

【「革共同政治局の敗北1975~2014――あるいは中核派の崩壊」(水谷保孝・岸宏一著・白順社刊)】

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「革共同政治局の敗北1975~2014――あるいは中核派の崩壊」(水谷保孝・岸宏一著・白順社刊)を読みました。読んだ直後、思わず「うーん」とうなってしまいました。様々な意味からです。
1960年代以来、第二次ブンド崩壊以降も戦闘的に闘い抜いて来た革共同(中核派)がなぜ分裂したのか。かつて革共同政治局の「左派」として、議長清水丈夫さんと共に中核派を導いて来、2006年に離党した著者2人の総括として、党内闘争を全面的に開示しながら、本多書記長なき後の1975年~2014年にわたる政治局の問題点を切開した稀な本です。
私はアラブに在って、日本の左翼運動の実情には疎い上に、中核派は距離があったので、親和性の無い事件が多く、そういうことがあったのか……と初めて接する中核派の歴史でした。
「緒言」で、まず、446頁にわたるこの本の著者の意図、構成、批判点が概括的にまとめられ、その上で、かなり詳しい事実関係に沿って、清水丈夫さんの指導のあり方、「ダブルスタンダード」「保身」なども暴き出しています。
 まず、執筆動機と目的として「本書のテーマは革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同、いわゆる中核派)の分裂と転落の歴史、及び実相の切開である。これは、筆者らにとって臓腑をえぐられる程辛いものであり、元同志らをはじめ、左翼運動に関心を持つ多くの読者の皆さんにとっても暗く重く失望の念を禁じえないような、幾多の事象を綴ることになる。しかし、どうしても書いておかなければならない」と著者らは考えたのである。
 一つは、「革共同の党員および党籍をおいた者には、リンチ・クーデターをめぐって起こった数年にわたるすべての事実を知る権利がある」ということである。
 二つ目の理由は、2013~2014年にかけて出された革共同50年史(上)(下)の内容が、清水丈夫による「全編これ嘘と歪曲と居直りの書である」こと。
 三つ目の理由は、「革共同はすでに死んでいるということである」とし、「革共同ならざる革共同」は歴史の屑籠に放り込むべきだし、そのようにしてこそ「次代の青年労働者学生たちが、我々の時代の輝きと敗北を教訓として、自ら進むべき道を切り開くことにつながるだろう」としている。
 そこに示されているように中心的には革共同の党内闘争の発展的展開であり、革共同と共に闘う人々への教訓を示す責任を意図として記されているものです。
 本書の構成は、「序章では、革共同あるいは中核派とは何であったのか、その輝きと誤りについて概括的に述べる。第1部は、06年3・14党内リンチのドキュメントである。そして、今日の革共同の堕落しきった惨状への批判であり、筆者らの自己批判である。第2部は、本多書記長が虐殺されて以降の革共同政治局史をあえて暗部を抉り出す視覚からほぼ全面的に明らかにしたものである。本多時代の革共同の若干の重大な誤りについても自己批判的総括の視点を提起した」と、著者らが記している通りです。
 各論的に記されている批判点は、「緒言」の中で、清水議長らの「50年史批判」として、エッセンスをまとめているので、それを記しておきます。
 「現在の革共同指導部が右翼的清算主義と歴史偽造している点で、次の諸点は重大である」として、6点挙げています。
「①何よりも『動労千葉特化路線』『階級的労働運動路線』の名によって、革共同が深化・発展させてきた革命論・革命戦略と戦闘的労働運動論を歪め否定し、革共同の歴史を動労千葉唯一主義で、ことごとく偽造している。根本的には戦後日本の労働者運動の豊かな経験と様々な苦闘をないがしろにしている。②70年、華僑青年闘争委員会からの糾弾を受けての7・7自己批判とそれにもとづくアジア人民・在日アジア人民への7・7自己批判路線(血債の思想)《重信註:これは華青闘から中核派の入管闘争論を、魯迅のことばで批判された中に“血債は必ず同一物で返済されなければならない”としるされていたことにゆらいする。その指摘を受けて、中核派が自己批判宣言した。》を『血債主義』と罵倒して、全面否定するに至っている。③安保・沖縄闘争が日本革命・アジア革命の核心をなす戦略的闘いであること。革共同はここに死力を尽くすべき党であることを押し隠している。④80年代に革共同が文字通り総力をあげた三里塚基軸論にもとづく三里塚二期決戦の展開を驚くほど過小に低めている。⑤89~90年天皇決戦を始めとする対権力武装闘争をことごとく清算している。⑥本多書記長が最先頭に立ち一人ひとりが血みどろになって革命の命運をかけて闘った対カクマル戦争の革命論的意義を抹殺し、単にカクマルとの政治・軍事力学の問題に解消し、かつ対カクマル戦争の持つ矛盾の内在的な総括から逃亡している。これらは、06年の党内リンチ以降、一気に全面化した。」
この6点は、政治局の総括方針討議を歴史的にとらえ返す中で、様々な形をとって、局面局面で対立していた姿が2000年代以降徐々に筆者ら「左派」と対立していった姿でもあります。
本書では、中核派の歴史、リンチ、スパイ問題、杉並区選挙戦、千葉動労の中野洋さんや関西の中核派のこと、私にとってははじめて知ることばかりでした。(公安調査庁の誘引役がかつて69年10・21の日、田宮さんが裏指揮所として「マスコミ反戦」の神保さん宅を借りたが、その神保さんだというのには驚いている。当時はスパイ活動していたと思わないが、あの日神保宅を出たあと、私は任意同行を求められ、振り切ったが前田さんは逮捕状か収監状が出ていて、畑の中に逃げたが大捕り物で捕まったのを思い出しています。)
著者が指導部の一員として責任を明らかにし、覚悟を決めて真摯に総括しようとする姿勢とその努力には、まず敬意を表します。
その上で、2つの点について記しておきたい。一つは、「革命暴力」についてと二つは「党指導部」について。
まず、私が中核派に「悪感情」を感じてしまったのは、その「暴力性」です。66年明大学費闘争における「2・2協定」(2・2協定とは、66年1月30日の徹夜団交に機動隊が導入された後、事態の収拾のため当時再建全学連初代委員長になって間もない斉藤克彦さんら、明大ブント指導部が、学生らに図らず、2月2日理事会側と闘争妥結の協定書を交わした。)の不当に怒り、明大学館に中核派集団が連日乗り込んで、学生会室にいるブント系学生たちをリンチし、自己批判書を書かせ、自治会備品を壊し、スプレーで落書きするという行為をくり返したことです。当時、明大二部政経自治会に数人の中核派もいたし、ML派も学館に沢山いましたが、暴力をくり返すのは外部からの中核派だけでした。
当時、無党派の私は、もちろん「2・2協定」反対でしたが、中核派の暴力に止めに入ったり、騒いで批判したら、殴られそうだった。MLの畠山さんが「中核派は斉藤を追い出し、秋山を委員長にすえるためにゲバルトをかけているんだ」と言っていたが、ブントに自己批判させ、中核派委員長にするための戦術だったと私も思いました。「暴力で物事を決着つけようとする中核派」が以来嫌いになったものです。逆に殴られても「自分たちにも責任があるから」と自治会室に残り、黙々とスプレーを消していた学生たちに同情し、誘われて明大社学同再建に関わったことから、私の党派としての活動が始まったのでした。
本書で、自己批判的に記されているように、10・8闘争前段での中核派による解放派高橋孝吉さん半殺し事件は、当時も怒りに震えたものでした。あの当時の「内ゲバの武器を権力へ!」と10・8闘争の初の角材武装となったのを聞いて、胸をなでおろした一人です。私自身としては、中核派のこうしたあり方こそ3・14の「リンチ事件」を深化させて問う必要があると思うのです。革マルとの分裂にはじまる「暴力性」は、他党派にも向けられ、全学連再建でも持ち込まれ、権力との闘争が激化すればする程、肯定されていきました。中核派だけでなく、新左翼にも広がっていきました。
新左翼運動は豊かな創造性と戦闘性をもった良質な側面はありました。しかし、党派は、スターリン時代の「一国一党」の観念から自由でない分、自らの党の唯一性に拘泥し、「無謬の自らの党」の存立のために、他党派を否定するあり方でした。リーダーたちの狭量な競争心は、豊かで戦闘的で自由な学生、青年労働者たちの多様な持続的発展を損なったと言えるのです。
「革命暴力」は、階級敵のみに対する手段の一つで、徹底した「階級」としての自己肯定と自己防衛の手段であると思います。しかし、闘う者たちへの暴力は傲慢な自己肯定と自己保身でしかないのです。「3・14事件」から著者らはとらえ返し、10・8前段の事件、連合赤軍事件を外在化してきた誤りなど、真摯に記していて、新しい克服への視野を提起していることは評価したいと思います。
 もう一つは、党指導部について。今回詳しく読んでみて、指導のあり方、相互関係がとても家父長的な組織であることに驚いています。著者らは、「革共同の限界」を問い、「組織論における反スターリン主義の不徹底」って「便利な言葉」として切開を妨げてはいないでしょうか? 清水さんら党中央のあり方は能力以上のことが問われ、学ぶよりも、「指導」に汲々とし、隣にいる同志が競争相手で信頼仕切れていないのが革命党として不可思議でもあります。指導者トップの質は、やはり全党を規定します。指導者の質として(本書を読む限り)多分本多さんと清水さんの違いは下部からの吸収(学ぶ)能力、姿勢の違いが確信と求心力の違いとなっているのだと思います。「地下指導部」であればある程、「大衆点検」を党が受ける構造が工夫される必要があります。
私自身の教訓としても「個」の強化や個の強さや積極面で結び合うよりも、むしろ弱さを互いに把握し、指導の変革にまるごと一つになって、党員のために服務しようとする自己変革の姿勢こそ指導であり、必要だと思います。
著者らの率直で誠実な検証は、しかし、「党内のどちらが正しいか」といった論点を超え切れていないところもあるように思います。正鵠を得ているのかもしれませんが、私のような部外者には正論を対置した党内闘争そのものに映ります。その意味で、第11章で、「革共同の敗北から新しい道へ」と中核派を運動総体の側から相対化してとらえ返していく、開かれた方向への提起を評価したい。
そしてまた、現在の清水丈夫さんらはこの書に対して同志的に変革へと歩むとらえ返しが行われるでしょうか。その点を注視したいと思います。
(6月7日)

【お知らせ】
明大土曜会では、8月30日(日)の「戦争法案廃案! 安倍政権退陣! 8.30国会10万人・全国100万人大行動」(主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会)に参加します。
●集合場所  経産省前テント広場
●集合時間  午後1時30分
       午後1時45分出発 
       午後2時~3時30分 国会議事堂周辺で包囲行動に参加

※当日は「戦争法案反対の明大土曜会の旗」を目印に集まって下さい。
暑いので、熱中症対策を忘れずに。

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの2回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。
今回は、「週刊アンポ」第10号に掲載された「秋田明大獄外記」である。

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【「秋田明大獄外記」 週刊アンポNO10 1970.3.23発行】
秋田明大はくだらねえ、という声をはやく聞きたい・・・彼はじぶんからそういった。そしたらおヨメさんももらえるし・・・。しかし、動き出した人間・秋田明大はその動きを止めるわけにはいかない。右翼におそわれた全共闘学生は死んだ。秋田は怒った。
より日大をかたれ、よりたたかえ、これが秋田明大の、いまの、スローガンだ。
オレは逃げていると思う・・・彼はこうもいう。彼が逃げれば逃げるほど、彼の好きな<自然>に近づいていく。<自然>との距離がせばまればせばまるほど、現代の秩序、現代の権力のメカニズムは、秋田明大をとらえようとするだろう。
自然児・秋田明大は逃亡する。自然児・秋田明大は逃げることで権力にたちむかう。10ケ月の空白のあとで、動き出した人間・秋田明大<何処にいる?>

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たくさんの犠牲があった。68年の5月に日大闘争が急激に爆発する以前に、すでにものすごい犠牲が出た。
退学させられた学生たち、追い出された教官たち、こうしたひとびとのことを僕たちは忘れることはできない。こうしたひとびとが、68年6月以前に、困難なたたかいを持続していたからこそ、日大闘争は開始されたのだ。

68年に全共闘運動が始まった。この運動は歴史的必然だった。
それまでのたたかいというものは、いわゆる革命理論を立てることから出発していたけれど、全共闘運動というのは、あるいはベ平連運動というのは、自己解放という視点からスタートした。
それからもうひとつは、直接民主主義という視点。

全共闘運動のなかからたくさんの犠牲が出た。いや、今だって出ている。
1700近く、という数字は、日大闘争のなかで逮捕された学生の数だ。一万名以上、というのは負傷した学生の数だ。
日大では、この数字は当然のことだ。ほんとうは当然ではないんだが、日大の現実を見ていると、当然のように思えてくる。

68年4月25日、20億円の不正事件が明らかになった。会頭古田は、それにもかかわらず、いなおりつづけた。
日大闘争は、この事件の追求から始まった。それを追及するのは当然のことだった。日大生でなくても20億円横領に怒った。だから・・・。

68年6月11日、古田の追求集会を経済学部前で開いていた。、そこにはたぶん5千名をこえる日大生が集まっていた。
そのとき、二階の窓から、砲丸や鉄製のゴミ箱がとんできた。学生たちはたくさんケガをした。投げたのは三百名ほどの日大右翼だった。
機動隊が構内に入ってきたのは、そのときだ。彼らは機動隊を拍手で迎えた。逮捕されたのは、しかし、僕らのほうだった。右翼はだれひとり逮捕されなかった。

日大では、自民党が倒れないぎり、たたかいはおきない、よくそういわれていたことを覚えている。日大闘争のおきる前だ。
しかし、僕らは自民党が倒れるのを待っているわけにはいかない。いや、待っていればいるほど、自民党は倒れないのだ・・・。
僕らはすでに、たたかいを始めてしまったのだ。このたたかいを推進するほかに、僕らの進むべき道はない。

全共闘運動は、日大闘争は終息したとよくいわれる。だが、たたかいは始まったばかりだ。

「敵を恐れるな・・・せいぜい敵は君を殺すことができるだけだ・・・友を恐れるな・・・せいぜい君を裏切ることができるだけだ・・・無関心な人々をこそ恐れよ・・・彼らは殺人も裏切りもしない・・・だが彼らの暗黙の承認の前に、この世に殺リクと裏切りが存続するのだ」

現在という時代を生きていくなかで、僕らは悪しき秩序、悪しき知恵を得て生きて行く。人間性をすりへらして生きることを要求される。
これが大衆なのだ。さまざまな自己矛盾をかかえて生きている。その自己矛盾が何であるのかを、ひき出していくことによって、僕らは大衆であることを脱皮していく。否定的な意味での大衆であることを。

久しぶりに、ある友だちに会った。彼は昨年までいっしょにたたかった仲間だ。そして今は、ある会社に就職している。
職場で優秀な人間であるといううわさは前から聞いていた。優秀ということばの意味を、僕はかなり否定的にとらえていた。彼の場合。
ところが会ってみて、僕はうれしくなった。彼は昔とかわっていなかた。あいかわらずシンのある人間だった。
職業を否定することはできない。そうである以上、僕らはたたかいながら働くことが必要だ。友だちは実行者だった。

友だちはいま、どこかの組織に入っているわけではない。少なくとも名目的には。しかし、ある種の結びつきはある。その結びつきは、いわば個と個の結びつきとでもいうべきものだ。
個と個の結びつき、というのは非常に強いものだ。全共闘運動というのは、こうした個と個の結びつきを大切にする。
だから、全国全共闘が、いわゆる八派の連合になっているのはまずいことだ。このことを、他人事のようにいうことはできない。僕にも多くの責任があるのだから。
けれども、全国全共闘が八派連合になっているという矛盾をインペイすることはできない。それは、たたかっているひとびとに対するギマンだ。

全共闘を解体しようという声がある。全共闘を止揚しようというのなら、話はわかる。だが、止揚と解体はけっして同じものではない。
全共闘解体に、僕は正面から反対する。

2月25日、午前10時20分、日大全共闘に加えられた弾圧。

日大全共闘文理学部闘争委員会の学生30数名が、文理学部府中校舎の1年生に対して、「古田新支配体制粉砕!」のため、京王線武蔵野台駅前にて、同日午後4時から開く予定の「2・25 1年拡大討論集会」の呼びかけのビラを配布中、文理府中校舎方向より駆けつけた日大アウシュビッツ体制の右翼警備員2~30名―この右翼連の一部は文理世田谷校舎からトヨエースで駆けつけた。後に判明するーに丸太(直径5センチ)、鉄パイプ、木刀で襲われ、多数の重軽傷者を出し、この混乱に乗じて卑劣にも国家権力―機動隊は被害者である文理学部闘争委員会の学友29名を逮捕していったのである。

このとき、日大全共闘、中村克巳君は傷つき、3月2日午前7時20分、死亡した。

左側頭部に3センチ四方の陥没骨折。

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(中村克巳君が被っていたヘルメット。「日大930の会」にて。)

警視庁発表<3月2日午前11時>中村君は交通事故死。理由―1.電車の車体にヘルメットの塗料がついていたという目撃者がいる。2.運転手の証言によると「ガツンという音がしてショックを感じたので急停車した。」
よって運転手の業務上傷害致死事件として捜査する。

府中署公式見解(2月25日)の修正見解。
「証人の調べで、鉄パイプ等は全共闘学生のものではなかったことが判明。したがって、これまで被害者としてのみあつかってきた体育会系学生を、過剰防衛の疑いがあるので、暴力行為容疑で取り調べる用意がある。しかし、体育会系学生は現在スキーに出かけているので、いますぐには取り調べはしない」

病院発表・・・「中村君の体の傷は、左側頭部の傷以外にはなく、服も汚れていない」
目撃者の証言・・・「運転手は車掌の車内電話の知らせではじめて知り、急停車した。ガツンという衝撃ではない」

中村君を殺したのは、日大右翼であり、それをあやつる古田体制である。そしてさらにそれと結びついた国家権力である。
たとえ百歩ゆずって、中村君の死が交通事故であったにせよ、殺人者は右翼と古田理事と国家権力なのだ。

日本大学は大学ではない。これがわれわれの日大に対する認識だ。われわれというのは、すべての日大生、ということなのだ。
学問・研究の自由はない。自治会活動は圧殺される。各学部学生分断支配。集会・出版の自由は口にもできない。右翼警備員の検問、検閲体制。農獣医学部の小林忠太郎講師ら、まともな学者の追放は昔からだ。
失うものは、われわれには何ひとつない。

ぼくには、たたかいが日常だ。
3年前、闘争と日常は僕のなかで分離していた。集会やデモのあと、その次は映画、あるいは酒、というふうに。
けれども、いつのまにかこうした分離がなくなってきた。それを僕は不安だとは思わない。

日常性というものを、僕はたいへんに恐れる。バリケードのなかにも日常がある。その日常に埋没していくことはたやすいことだ。そしてそれは危険なことだ。
しかし、僕は、日常性を拒否しない。うまいものを食べること、いい家に住むこと、こうしたことをダメだと誰がいえるだろう。
ソボクな欲望をおさえることを、僕はしない。
自己をいつでも変革していかなければならない。しかし、この自己変革と日常性は互いに矛盾するものではない。

家族帝国主義フンサイ!とよくいわれる。けれども、これで親の愛情を否定できるだろうか。否定できないものとしてあることを、僕は認めよう。

日大闘争にかかわっていることを、僕の親は最初知らなかった。新聞に僕の名前が出たとき、親は東京に出てきた。ビックリしたからだった。
「バカみるのは、お前だけだよ」と父親はいった。僕はこたえた。「お父ちゃんは学生を裏切ってもいいのか」
おやじは何もいわなかった。体にだけは気をつけろ、そういっただけだ。

「はやくヨメをもらえ」
このまえ、おやじはいったものだ。
「でも、食っていけないよ」
「おまえの分だけ、オレが働けばいいんだから」

まだ結婚はしない。日大闘争をもっと押し進めなければならない。それに第一、あるひとりの女性を、独占することはできない。コレガオレノ女ダ、ということはキライだ。性というものが、相手を独占することなく、解放されるとはどういうことなのだろう。もしかしたら、それがわかるまで結婚できないのかなあ。しかし、これはちょっと大変だ。

はやく「秋田はくだらねえ」といわれたい。そしたら議長もやめられる。運動ももっとよくなる。
人間は単純なのがいい。とにかく自然が好きだ。

東京の雨、いなかの晴天、これが好きだ。

自然に生きるために、いま、たたかわなければならない。

(終)

【お知らせ】
来週はお盆休みです。
次回のブログとホームページの更新は8月21日(金)です。

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