野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2015年10月

今年は、1967年10月8日の第一次羽田闘争から48年目となる。10・8山﨑博昭プロジェクトでは、10月10日の夜、新宿文化センターでプロジェクトの第3回東京講演会「家族という病・国という病 講演と音楽の夕べ」を開催したが、その講演会に先立ち、午後2時から山﨑博昭君が亡くなった羽田闘争の現場である羽田・弁天橋で献花と黙祷を行った。

当日は、京浜急行の「天空橋」駅に約30名が集合し、徒歩で弁天橋まで向かった。

 
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今にも雨が降りそうな天気だったが、雨は降らず。

弁天橋はすぐ近くである。

 
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弁天橋の上の参加者。

 
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参加者は弁天橋の脇の鳥居のある広場に向かった。


 
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献花と黙祷の前に、この広場で、発起人を代表して山﨑建夫氏からの挨拶。続いて、当時、闘争に参加したH氏とK氏の2名の方から現場での様子についての説明。そして、発起人の小長井良浩、山本義隆、佐々木幹郎の各氏から発言があった。
 
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司会は発起人の辻恵氏である。



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辻惠(発起人:弁護士・大手前高校同期生)「皆さん今日はご苦労様です。羽田闘争から48年目ということで、再来年が50年ということで、去年から10・8山﨑博昭プロジェクトを発足させて、去年も10月にここで献花と黙祷を行いました。毎年恒例でやっていきたいと思っております。

まず代表の山﨑建夫さんからお話をいただきたいと思います。」

 
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山﨑建夫(発起人:山﨑博昭兄)「48年目ですね。当日は8日で抜けるような晴天だったそうです。何度かここへ一人で来ることがあるんですけれども、いつ来ても感無量ですね。

ただ、気になっているのは、どこで死んだかはっきり分からへん。ハの字型に止められた装甲車があって、その橋の左側の装甲車が動いていった後に、学生たちがあふれた。そこに機動隊が逆襲した。当日、それまで機動隊は何回もやられていたから憎しみを込めて学生を乱打している写真はたくさん撮られています。実際、このプロジェクトに関わっている人の中でも頭を割られて入院した人がいてます。

だけど、当時の記事ではとにかく学生が運転する車に轢かれた、轢かれた場所は左側の動いた車の真後ろ、非常に矛盾だらけの話なんですけれども、目撃した当時の学生にも話を聞いているんですが、一人の人は橋の右側だったと言うし、一人は橋の左側だったと言うし、それが山﨑博昭だったかどうかは分からない。他にも何人も殴られて頭を割られているから。けれども、僕自身は何回来ても、どこがその現場なのか橋の上は間違いないんだけれども確定できない。まだまだこれから聞き取りをやっていかなあいかんなと思っています。

あと2年で50年、長いですね。みんな白くなったりしましたけれど、亡くなった弟はまだ18の青年ですよ。写真見たら憎たらしいくらい若いもんな。当り前やけれど。

そういうことで、プロジェクト、死因の究明も含めて記念碑の建立、そして記念誌、それからベトナムへの資料の提出、向こうで資料を展示するという話があります。これからどんどん進めて行きますので、みなさん、是非ご協力のほどよろしくお願いいたします。」

 

辻惠「去年は10・8の弁天橋の上で参加者の北本弁護士から彼の体験を語っていただいたんですが、今日も、当日参加された方にこの場にご参加いただいているので、一応お2人を予定しています。Hさんの方からよろしくお願いします。」

 
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H(10・8羽田闘争参加者)「Hと申します。ちょうど48年前の10月8日でしたけれど、先ほどお話がありましたように大変その日は晴れておりました。

私共は前の晩から法政大学に泊りこみまして、翌朝電車で羽田に向かったんですね。大鳥居駅で降りたんですけれども、降りた時にはもう機動隊がずらっと駅にいたんです。そこから闘争は始まったんです。ですから私たちも目的である羽田空港に何としてでも突入したいという意思を固めておりましたので、あっと言う間に機動隊を蹴散らして、それから公園(萩中公園)に行って、ちょっとした集会をやって、それから弁天橋に向かったんです。

弁天橋に向かうまでに相当な激戦がありまして、私の仲間も相当そこで血だらけになったり、弁天橋にたどり着く前に救急車で運ばれた学友がいました。そういった中で、私も何とか弁天橋にまで来て、ようやくこれから空港に突入するというところで、装甲車があったんです。この装甲車が障害物になっておりまして、そこに機動隊がずらっと警備しているということで、私たちは石を用意して石を投げたんですね。それで装甲車の周辺が少し空いたというか、1台の装甲車を乗っ取ることができたんです。鍵を忘れた機動隊員がいて、(鍵を)置いたまま逃げてしまった。もう1台の方を何としても橋の下に落とそうということで、大勢の力を借りて一生懸命やったんですが、なかなか動かないんです。

そういった中で、僕らは周囲を見る余力はありませんでしたので、山﨑君が一緒にそういうことをやっていたと思うんですが、私の山﨑君の記憶はありません。自分の闘いで精一杯という中で、約1時間くらいでしょうか、羽田弁天橋での攻防の中で、仲間が死んだという声が出たんですね。そこから闘いを止めて、みんなで一時黙祷をこの橋のたもとでやった記憶があります。それが山﨑君が死亡されたということで、ちょうどお昼前くらいだったんでしょうか、それから闘争が一応終わったんですけれども、また黙祷が終わった後に、我々としては目的が達成出来ていませんので、何とか空港に行こうということで再度戦線を作って突入を試みたんですが、力及ばずして届かなかったということで、その後、総括集会をやって解散したということです。

私は幸い怪我もなく、逮捕もされなかたんですが、私の横で山﨑君がやっていたということは、ちょっと間違えれば私であった可能性もあったということを、今、思って、私もそれから48年間生活してきましたけれども、山﨑君は年齢も私と同じだったんですね。ちょうど大学1年生で、私も学校に入って半年目だったので、今日まで私も社会人として生活してきましたけれども、山﨑君の意思を引き継いで、当時、戦争反対という気持ちで私たちはやった訳ですから、今、国自体が戦争に向かった法律を整備し始めているという中で、その意思を継いで戦争反対ということが、今、生きる私たちの責任ではないかと私は思っています。

今日は48年ぶりに私もここに来まして、山﨑君を追悼したいと思います。」

 

辻惠「ありがとうございました。では、もうお人方、Kさんの方からよろしくお願いします。」

 
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K(10・8羽田闘争参加者)「Kと申します。当時大学3年生でした。それで、先ほどの方と同じように、前の晩、法政大学に泊って、朝、大鳥居で降りて萩中公園で集会をして弁天橋に向かったと思います。

山﨑さんを個人的には存じ上げていませんでしたけれども、法政に泊った時に、近くに京都大学から来た人がいっぱいいらして、夜中に法政の校庭で、京都大学の人が中心になってデモをしていたのを、とても記憶に覚えています。

私も当時は戦闘的な学生でして、装甲車があって、装甲車の前までは行ったんですね。時間的な経過をよく覚えていないんですが、装甲車の前にいた時に機動隊が催涙弾を撃ったんですね。それまで私が学生運動をやっていた中で、銃弾を撃ったというのが初めてだったので、それが催涙弾とは思わず、機動隊が銃を撃ったというのがすごい印象に残っていまして、とりあえず1回引こうとしたら、装甲車が斜めに止まっていたので、左側に行ったら、橋の欄干と装甲車の間が人一人しか通れないような場所があったんですね。みんな引いて後ろに行こうとするし、そこがすごい狭くて、ぎゅうぎゅうで、橋の欄干が低い感じがして、体が半分以上橋の欄干からのり出していて、目の下は川だったので、泳げないし、落ちたら死ぬと思ったんですが、うまく押されて後ろに戻ることが出来ました。それから山﨑さんが亡くなったというのを聞いたんですが、本当に私自身があの時、川に落ちて亡くなっていたかもしれないし、他の理由で亡くなっていたかもしれないことを思いますと、それから48年ですけれども、50年近くいろんなことがあっても生き延びて来られたんですね。でも、その時亡くなっていたのは私であったかもしれないということを、いつもいつも心に思って、山﨑さんのことは1日も忘れたことはありません。

その時も、ベトナム戦争反対といった反戦の意思で参加して、今、世の中のこういう状況を見ますと、あの時の反戦の意思というものが、今、本当にここで強く意思表示して行動しなければいけないと強く思っています。ありがとうございました。」

 

辻惠「ありがとうございました。最初に山﨑建夫さんもおっしゃったように、10・8山﨑博昭プロジェクトは、一つは、弁天橋でどういう事態が起こったのかということを、死因究明を含めて、聞き取りとかいろんな形で当時を再現していきたいというのを大きな軸としております。弁天橋はその後拡幅されたということで、当時はもっと狭かったということでありますし、今、当時闘争に参加された10人くらいの方々から順次聞き取りを進めて行きたいと思っていますので、お知り合いの方とか、ご証言いただける方をご存知の方は、是非ご紹介いただければと思います。

それでは、1967年の7年前の1月16日に、羽田空港で樺美智子さんが逮捕されたと思いますけれども、その闘争参加者で、この弁天橋は当時木であったことを記憶しておられる小長井先生の方から一言お願いします。」

 
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小長井良浩(発起人:弁護士・当時遺族代理人)「昭和一桁でこの会に参加してるのは私一人ではないかと思うので、発言をしなければいけない立場になった訳なんですが、当日、ここで激しいデモがあるということまでしっかり認識していたかどうか、自分でも自らに問うて恥ずかしく思うような状態なんですね。ですが、ちょうど日曜日で天気のいい日、何しろ学生が亡くなったという、誰か弁護士を紹介してくれないかという、そういう連絡がありましたのでやってみましたけれども、(連絡した弁護士は)出ていて分からないものですから、亡くなっているのなら連絡するよりも自分が行こうということで駆けつけて、今日に至っている訳です。

ベトナム戦争に反対するという大変大事な皆さんの行動があって、私が関わったのは、亡くなった後に、警察が学生側が轢いたなどというとんでもないこしらえ事をして、そして皆さんの運動を貶めるという行動に出たということは、これは私はあの時に関わって弁護士という仕事をしておりまして、大切な自分の生き様の一つであったと思います。

今、紹介していただいたように、1960年、樺さんが亡くなったのは6月15日なんですが、1月16日の岸首相が渡米する時は、弁護士になる前に司法研修所という最高裁判所の施設がありまして、そこで2年間、法律を実践においてどう進めるかということで裁判や検察や弁護士の修養をする訳なんですが、その研修所に行く前に、その時は自分も血が騒いで、この木橋のところを突っ込んで行った訳ですが、ちょうど自分の前のところで機動隊の列がある、向こうに押し返される。前の人たちはみんな中に入っちゃったんだけれど、自分は入られなかったものだから起訴されずに、デモに参加するというだけで済んだ訳ですが、そのために山﨑博昭君の警察に対して立ち向かうという、あの時誰か言わなかったら、警察のこしらえたのを解いちゃった訳ですから、そいういう意味では、あの時に関わって行って、確かに警察がやったということは、その頃、私はまだ30を少し超えたくらいでしたが、それまでに経験したことからしても間違いないと今でも思っておりますので、今、辻先生からみなさんにお願いしたように、是非、その当時のことの知っている事を教えていただいて、警察がやったことは間違いないことなので、詳しくは機会を見ましてまた申し上げたいと思いますが、是非、真相の解明のために皆さんのお力添えをいただきたいと思っております。」

 

辻惠「ありがとうございます。もうお一方だけお話を伺いたいと思います。当時、東大のベトナム反戦会議で羽田闘争にも闘ってこられて、この度『私の1960年代』という本を出版されました山本義隆さんの方から一言お願いします。」

 
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山本義隆(発起人:科学史家・元東大全共闘議長・大手前高校同窓生)「私は1967年の時は大学院の2年の時で、その前の年、ベトナム戦争が特に米軍の北爆が激しくなってきた頃にベトナム反戦会議というのを作って、これは大学院と助手が中心です。そんなんだったので、学生諸君ほど戦闘的にはなれなかったんですけれども、文京反戦の部隊として僕らはやっていました。羽田闘争を組む時も、文京反戦の部隊です。文京区というのは大きな工場とかなくて、零細企業しかなくて、反戦といっても本当に個別に小さな職場から来ている部分と、プラス東大の大学院と助手だったんですよ、文京反戦の場合は。そんなでずっと、その当時、文京反戦として王子とか羽田とかに行っとったんですけどね。山﨑君に関して言いますと、たまたま僕の高校の7年後輩で、大手前高校なのかというのでびっくりしたんですよ。僕らの頃の大手前高校は、そんな雰囲気全然なかったですからね。僕も含めてそうですから、そういう諸君がいたのかというのが、とても、さっきの小長井先生の話がありましたけれど、その日の夕方の新聞は一部、機動隊の撲殺によることがかなり明確に書かれていたんですけれども、次の日になると一切その記事がなくなってしまって、学生が奪って運転した装甲車に轢かれて死んだという、それはみごとに全部の新聞がそうなったんで、その直後に書いた我々のビラも、一体何なんだと、前の晩の報道と全く違うではないかと、明らかにこれは作為があると、そういう内容のビラを出した記憶がありますけれども、ずっとそのことが引っかかっていました。

今回、辻さんや佐々木さんや山﨑さんのお兄さんがこういう運動を起ち上げられたので、僕も出来る範囲で協力しようと思って、去年もここに来たんですけれども、一緒にやってきましたので今後ともよろしくお願いします。」

 

辻惠「ありがとうございました。大手前高校の同期のうちの一人として、佐々木幹郎さん、一言よろしく。」

 
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佐々木幹郎(発起人:詩人・大手前高校同期生)「あの鳥居、さっきから気になっているんですけれど、平和と言う文字が今年は、去年はあれはなかったけれど、シンボリックな文字が鳥居に付けられましたけれど、一つだけご報告しておきます。
 
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私は山﨑さんと高校時代の同級生だったんですが、今日の講演会でも短くご報告しますけれど、ここではみなさんにゆっくり聞いて欲しい。

この8月に辻さんと2人でベトナムのホーチミン市に行ってきました。私たちのプロジェクトの目的は3つありまして、一つは羽田の近くに山﨑君の小さな追悼碑を作るということ、それとこの50年間の私たちの歴史、それから50年前の山﨑博昭の本当の死の真相をもういっぺん50年目にどこまでも突き止めたい、そういうことを含めた記念誌を出すということが二つ。三つ目は、最初から長い間かかってベトナムとの交渉をしてきました。私たちはベトナム戦争に反対するという運動をしてきた、そしてそれがベトナムにちゃんと伝わっていない。そのことを考えまして、日本における駐日ベトナム大使の方及び秘書の方と何度もお会いしまして、最終的に、ベトナムのホーチミン市にベトナム戦争証跡博物館というのがあります。3階建ての大きな建物です。そこに日本におけるベトナム反戦活動の歴史として、今現在はベ平連関係と日本共産党関係の小さな展示コーナーがありますけれども、この羽田闘争については一切展示されていない。山﨑博昭の遺影をそこに飾っていただいて、羽田闘争の歴史もそこに展示させてもらおうと、その交渉をずっとしてきました。

 
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(戦争証跡博物館)

ホーチミンの博物館の方から、来るんだったら夏に来いという招請を受けまして、私と辻惠の2人がこの8月に行ってきました。私たちは最初は小さな、50センチでも1メートルでもいいから壁面が欲しいという交渉で行ったんですが、大変な逆提案を受けました。

私たちは写真とかいろんなものを館長にお見せしたんですけれども、こんな情報は全く知らなかったと驚かれて、高校時代の友人たちが50年目にこういうことをするというのは、ものすごく感動した。博物館の1階のホールに大きな部屋があるんですが、毎年1月から3月の3ケ月間特別展示をやっている。そこを使って3ケ月間展示をして欲しい。特別企画展をやりたい。そしてそこでは山﨑博昭の死を中心とした羽田闘争と、1960年から70年代にかけての日本の反戦運動の歴史を紹介する部屋を作って欲しい。特別企画展でそれをやって、その後はベトナム全土の大学を回って1年かけて移動展示をする。それをしたい。その2つをやった上で、ベトナムの人たちの反応を見て永久展示を何と何にするか決めたい、という私たちが思った以上に大きな提案を受けまして、10・8山﨑博昭プロジェクトとして全力でそれを引き受けて、来年の1月からやってくれと言われたんですが、それはとても時間がありませんので、再来年の1月に向けて、この年末から1年かけて資料を整理して展示の仕事をしようと思います。山﨑博昭プロジェクトが大きく発展しました。それと同時にベトナム日本友好協会の会長、この方は今、ベトナム政府の閣僚なんですが、この方からも特別賛同人としての英文メッセージをいただきました。追悼碑が出来た時は参列するということです。

1967年のここでの羽田での闘い、ベトナム戦争に反対するという闘いが、ベトナムの人たちに届いて、そして50年後に交流がそういう形で出来るようになったというのは皆さんのお陰です。このプロジェクトが去年から始まって持続してきたこのエネルギーのお陰だと思います。

これから資料のセレクト、それは山本義隆さんを中心に私も一緒に頑張りたいと思います。どうぞこれからもお力添えをいただけますようよろしくお願いいたします。」

 

辻惠「ありがとうございました。それでは、献花をして、それに向かって黙祷をしたいと思いますが、まだ記念碑が建っておりませんので、この場所で山﨑建夫さんから献花をしていただいて黙祷したいと思います。」

 

挨拶と発言の後、広場のテーブルに献花を置いて全員で黙祷した。

 
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黙祷後、全員で記念撮影。

パチリ。

 
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※10月10日の夜に新宿文化センターで行なわれた、10・8山﨑博昭プロジェクトの第3回東京講演会「家族という病・国という病 講演と音楽の夕べ」の詳細については、後日、ブログに掲載します。

 

【10・8山﨑博昭プロジェクト大阪講演会のお知らせ】

117日(土)開催の講演会「【大阪発】あかんで、日本!―理工系にとっての戦争―」は満席となりました。ありがとうございました。

当日、IWJで中継を予定しています。会場に来られない方はご覧ください。

 
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(終)

 

以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった(写真)。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第2章である。

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(「さわさわ」)

【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (今回掲載)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き

(以降、第2部、第3部執筆予定。)

1960年代と私」第一部第2章
第2章 1965年 大学入学
1.1965年という時代 
1964年10月のオリンピックを契機に様々に「戦後復興」から「繁栄の道」にすすみはじめるスタートラインが1965年といえるでしょう。
その社会的ひずみや矛盾が顕在化していきます。学生運動が正義や真っ当うな社会を求めて闘う故がありました。
オリンピックにむけて、東海道新幹線が開通し、日米海底電話ケーブル、名神高速道路などインフラ整備がすでに行われてきました。米国の占領政策に組み込まれた日本は、60年安保を経て、アメリカの意向に合致した勢力が国家暴力装置を強化し、日本の舵を握る構造が定着しはじめていました。岸信介ら、かつての戦前の支配勢力が親米勢力として転向し、政界・経済界に再編されて残りました。戦前の官僚支配のシステムも又、再編されつつ日本はそのまま残されました。かっては軍の意向に鉛って、戦後は、米軍基地の存在にみられるようにアメリカの意向に沿って日本は、歩きはじめたのです。国内のインフラを整備しながら、よい技術でよいものをつくり、海外に市場を求めていく年として、65年は、画期をなしています。
64年に佐藤内閣が成立し、1965年に日韓基本条約が6月に調印されます。この条約は、これまでの国内の生活と生産に忙しかった企業が海外アジアに経済進出していく足がかりとなる条約です。アメリカを介して、韓国と反共戦路のもとで戦前の日本のアジア侵略を清算しアメリカの傘の下で協調することを示したものでした。米国の反共戦略の仲介と利害なしには、日韓条約は成立しなかったでしょう。日韓条約に象徴されるように、アメリカの反共路線下のアジアの融和をめざし、日本は経済進出を計っていく時として、1965年がありました。
又、国内的には、当時は、衣食住において、いまだ一般国民は貧しい時代です。大学に行けるのは、わずかな層であった時代から、このころには、無理してでも子供を大学に入学させて、将来の子の出世を夢見る庶民も多かったと思います。又、支配の側は、新しい国づくりにふさわしい人材育成を「期待される人間像」で語り、文部行政にみあった産業に役立つ人材を育成することを考えています。国に奉仕する軍人から、会社に奉仕する人間づくりです。そして又、大学の経営を安定させるために大学生の大量生産(マスプロ化)と授業料の値上げが頻発しはじめるのもこの年です。
60年日米安保条約に反対して、市民・青年・学生・野党が闘いながら敗れた後、その総括をめぐって沈滞していた運動も、基地反対闘争、日韓条約反対闘争として盛り上がりはじめていました。65年1月に米軍による北ベトナムヘの北爆がはじまり、ベトナム戦争に反対する国際的な世論が生まれてきました。反戦平和をもとめる市民・労働者・学生の声が高揚し、騒然としはじめました。
 そんな65年2月に私は、お茶の水の駿河台校舎で入学試験を受けました。19歳の私は、18歳まで町田から通っていた高校のあった、渋谷や新宿には馴染みがありました。又、東京駅から、日本橋の妙に静かな小網町や水天宮、人形町辺りのキッコーマンの職場の周りも馴染みがあります、でも、お茶の水は通勤で電車で通ることが時々あっても、降りたことはありませんでした。お茶の水駅の改札を出て、駿河台の大学へと願書を取りに足早に歩いた時にも、時間に追われている日々で、それ以外あまり印象はありませんでした。でも、歩道をはみ出すほどの学生たちが行き交い、昼間から、楽しそうに語り合って、そこここに一杯なのには、驚きました。学生街とは、こういうものかと。労働しなくても学べる人たちが多い街なのだなと、実感したものです。

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(明治大学記念館)

2.大学入学
夜間大学の入学。当時は、ほとんどの受験生が入ることが出来たのではないかと思います。難しい問題が出題されたという記憶もないし、とても易しかったように思います。市販の入試問題集を解いては、当然受かるだろう思っていました。それでも合格発表の日、貼り出された受験番号を見た時は、ホッと嬉しかったものです。合格の番号を確認してから、父や母に、明治大学の夜間部に行くと告げました。
確か、受験票と引き換え又は見せて、入学金の払い込み用紙や学校案内など一式を受け取りました。その時、机を出して明治大学のバッチを売っていました、私は小さな白いMを象った明大のバッチを買いました。大学生になれたこと。それは、これから先生になれることと同義語であり、誇らしかった思いが、それを買わせたのでしょう。
 それから、何日かして、入学金の払い込みに、再び大学に行きました。もう、入学式を間近にひかえていた頃だったと思います。
 まだ少し寒さの残る御茶ノ水駅に降りて、人波の続く駿河台の方に向か・って歩きました。大学院校舎の前にマットを敷いた上に胡坐(あぐら)をかいた数人のよれよれの服装の髪のもじやもじやの男たちがいました。何か異様でした。そのうちの一人は、ハンドマイクで演説をしている。立て看板や旗がありました。もうよく思い出せないのですが、「不当処分上杉君の復学を勝ちとろう!」というようなことが立て看板に書かれていました。立ち止って、読んでいると、不当処分について男たちは口々に説明し「一緒に座りませんか?」と私を誘いました。自分のためではなく、次に 入ってくる学生たちの為に、学費か管理費か値上げされるのに反対しで闘っているという話です。他人の為に尽くしたそうした人が処分されるなんて不正義ではないか。彼らの言う通りだと思いました。そんな風に知り合った人々が、文学部と政経学部自治会にいた反日共系の学生たちだったのです。
 明治は当時、昼間部の自治会はずっと60年安保闘争の時代から反日共系の人々が引き続き担っており、夜間の二部の全学自治会の学苑会は60年安保の後、それまでの反日共系から、日共系の人々に渡っていたようでした。学苑会の主流の日共系に属さないこの人々が政経学部の自治会と文学部の自治会の人々で、それが反日共系の人々の残された拠点だったようです。当時は、私は日共も反日共も知らないので、「人々の為に尽くした人が当局によって処分されるのは、おかしいではないか?」という素朴な考えから、この人々の話に共感を持ったに過ぎませんでした。
キッコーマンの仕事は、デルモンテの拡売が軌道に乗り出して忙しかったし、丁度、出来はじめたスーパーやデパートの食品売り場で私もディスプレーしたりしていました。又、その調査にあちこち現場に出掛けたりと楽しかったのですが、残業が出来ないごとは心苦しいことでした。又、会社は、将来を見越して、ワインを作って売るために私たちの食品課の隣に「キッコー食品」を新設しました。この「別の子会社」の形をとった「キッコー食品」は牧歌的です。いつ出来るかなど、勝沼ワインの夢を語り、輸出課から天下ってきた「キッコー食品」のトップの外国滞在の長い石川部長から、大学行きを励まされたり、居心地は悪くありませんでした。大学も又、会社も楽しく生きがいの夢に向かって走り出していました。

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(1970年当時の明大駿河台校配置)

3. 65年お茶の水
2000年のある日、降りたって歩いてみたお茶の水駅は、ちっとも昔と変わりありませんでした。駅のホームというのは、一番変らない記憶の地図の砦のようです。ホー-ムに立ってみると、当時の方位や情景を、正確に思い出すことが出来ます。お茶の水の明大通りは昔の面影のまま、そこにありました。
当時、職場の日本橋から東京駅ハ重洲口を通り抜けて、中央線で東京駅から高尾行きに乗ってお茶の水のホームに、いつも急ぎ足でした。お茶の水駅で降りて、階段を駆け上がり古い改札口を抜けると、すく、活気のある大学の街。聖橋口は、中大の学生たちが溢れるのですが、明大の私たちは、反対の駿河台通りに向かう出口です。この二つの出口の間は、ホームの長さに並行して、喫茶店・焼肉屋・楽器屋・画材店などが並びその対面の駅前にはパチンコ屋や喫茶店が並んでいました。
駅から明大までの100メートル程の道は純喫茶とか、名曲喫茶と呼ばれた「丘」とか「穂高」とかが並び、マロニエ通りへと折れる角が、学生会館の旧館です。旧館に続くブロックは、大学院や短大、本館と続き、駿河台下までずっと、明大の敷地が続いていました。マロニエ通りに折れると、大学院の裏は文学部の校舎で、右手に新学生会館と商学部校舎がありました。左に折れると法学部の建物や山の上ホテルに続きます。法学部の校舎の坂道の下は錦華公園になっていて、神田古本祭りの賑やかな会場にもなります。

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(喫茶店「丘」の広告)

入学した当時は、5:00の会社の勤務を終えると、すぐ大学へ急ぎます。明大に向かうお茶の水駅から、足早に旧学館の横を曲がるとすぐ、大学院の建物の横の入りロから、文学部の授業のある建物に入ります。入ってすぐ掲示板で、今日の授業のプログラムを見ながら教室ぺと急いだものです。今日の仏語の授業は休講だとか、教室の変更とか、掲示板には、貼り出されているからです。急ぎ足で、夕方5時に職場を出てお茶の水駅から大学に5時半すれすれに着くと、まず、その掲示板を見ながら、教室へ急いだものです。
新入生のオリエンテーションを受けた後で、高校のようなクラス担任が居た記憶がないのですが、日本史科のクラスにはまとまりがありました。日本史科の先生が、当初は、コンパにも来てくれたような気もします。入学式直後からクラスで自己紹介をしあったし、世話役を決めて、コンパも飲み会もやったりして仲間意識が育ちました。夜間大学だったことは、今になってみれば、とても有意義な貴重な体験だったと思います。昼間は何をしていますか?溶接工ですとか、郵便局員ですとか、自衛官や警察官もいました。公務員も多くいました。
夜学は、地方から、高卒で東京に就職してきた向学心の強い村の優秀な青年たちの溜まり場でもありました。クラスで討論し、職場の苦労を語り、下宿や就職の世話をしあったり、クラスやクラスを越えた友だちがひろがっていくようになりました。サークルも又、同好の志の集まりで時間が限られている分、みな真剣です。今の時代と追って、戦後の、新しい体制の中で、政治的・社会的にも体制自体が安定しておらず、国民の衣食住において貧しかったし、こんなに物が溢れてもいませんでした。まだ、「正義」や「反体制」の主張が、60年安保闘争を経て、国の意見を二分するような勢いのある時代にありました。
明治大学では、60年の、日米安保条約改定に反対して、学長白身が、全学ストを呼びかけて、正門をロックアウトし、紫紺の明大旗を掲げて校歌「おお明治~」と、歌いながら数千が参加しで参加者の一部が国会に突入したのは有名な話です。国会へなだれ込む先頭に夜学の紫紺の学苑旗が、なびいているのを毎日新聞映画ニュースで、6、15記念の日こ見たのは、入学した年か、その翌年でした。
私が入学した年は、60年安保闘争の敗北から、新しい闘いに向けた上り坂の時代の65年にあたります。また日韓条約が締結批准され、65年、1月には、米軍による北爆が始まる年で、一挙にベトナム戦争反対と日韓条約反対の運動が盛り上がっていく国際的な時代の中にありました。加えて、学費値上げ反対闘争が、既に慶応、早大で始まっており、反戦反米反基地闘争と重ねて、学生運動も又、ラジカルにならざるを得ない状況にありました。
こうした環境の中、日共系も反日共系もクラス討論に、授業前の教室に入れ替わり入ってきては、時事問題を語りビラを配っていました。クラスに入ってきてアジる反日共系の人は、大学院の前に座り込みをしていた人々でした。60年安保以来の生き残りの人々も居ます。このうち一部の人々は、田安門から入っていく皇居のなかにあった旧近衛兵の宿舎だった「東京学生会館」を根城にしていました。この戦前の近衛兵の兵舎を戦後、学生寮に使っていたものです。皇居の堀の内側が、学生運動の拠点になっていたので、追い出そうと政府は画策していました。明大の学生たちも時々集まったり、学習会などをしていました。一度、1年生だった私たちは何人かこの東学館の学習会に連れて行かれたことがありました。あまりの暗い雰囲気と希望のない顔つきのよれよれの人たちにその雰囲気のまま一方的に話しまくられて、二度と行くまいと、クラスの友人と話したものです。この人々が反日共系のMLとか中核の人だったらしい。日共系の人々は、二部の学生自治会の学苑会を牛耳っていて、自分たちが正当に選ばれた自治会の執行部であり、中央執行委員会のもとに、開催されるベトナム反戦や、日韓条約に反対する学苑会主催の行事に参加するようにと訴えていました。彼らは、反日共系の人々と違って身ぎれいにして、話し方も、ソフドだったのですが、私にはわざとらしく感じられました。サークルでは、社会主義研究会や民主主義科学研究会などに属していて、「赤旗」を宣伝し、民青の新聞を配ったり売ったりしていました。
 夜間の学生たちは午後5時30分に授業が始まり、9時50分くらいまで、3単位くらいの授業を受けます。その後終電まで思い思いに自治会やサークル活動で活気があります。授業は、教室が固定しているわけではなく、選択した自分の授業のある教室へ急がねばなりません。こうした教室の入れ替えの始まりに、反日共系の文学部自治会と目共系の全学自治会の学発会の、ピラや演説が授業までの短い間に、学生に語りかけオルグするのです。時々は、両者が教室に鉢合わせして、怒鳴りあいすることもあります。誰に頼まれたわけでもないのに、よくやるなあ…というのが、当初の私の感想でした。 私は、誘われたら時々、目共の友人にも反目共の友人にも顔を出すけれど、これといった熱意があったわけでもなかったのです。ことに、文学研究部に入って、詩や童話、小説を書いてみたいと思ってい
たのでなおさらです。勧誘の熱意に時々つきあうというくらいでした。4月の入学から夏の間は、キッコーマンの仕事のサイクルと大学のシステムを学び、何事にも興味津々に関わりました。ただ、先生になる!先生に成れる!と喜び一杯だったのです。
 私のはじめてのデモは、5月か6月、出来たばかりのべ平遠の米国のベトナム侵略北爆に反対するデモです。小田実のシュプレヒコールに合わせて、歩きながら芝公園に向かいました。この時、少し白髪の「おじさん」と、もう一人の人がデモで歩きながら、ちょうど私たちの隣にいました。私はクラスメートと二人で中ヒールにスーツのOLスタイルです。「どうして参加したの?」と話しかけてきました。私たちが、「デモは初めてです。今日デモがあるのを大学の掲示板で見ましたから。」と言うと、私たちの横を歩きながら、ベトナム反戦の意義を語ってくれました。私たちは初めてのデモが嬉しくて、ミーハーのノリでカメラも持っていました。芝公園まで行進した後で、そのおじさんと一緒の写真を撮りました。ずいぶん後になって、この「おじさん」が、いいだももさんと、開高健さんだと、写真を持っていたので気付きました。
 初めてのデモはとても小さなものですが、達成感がありました。私たちはただ、何キロメーターか、みんなにくっついて歩いたに過ぎなかったのですが。

(つづく)

【10・8山﨑博昭プロジェクト大阪講演会のお知らせ】

11月7日(土)に大阪での初の講演会「【大阪発】あかんで、日本!―理工系にとっての戦争―」を開催します。
この講演会は、2014年に発足した「10・8山﨑博昭プロジェクト」の大阪での最初の講演会です。1967年10月8日に戦争に反対して死んだ山﨑博昭(大阪府立大手前高校卒。当時、京都大学1回生)を追悼し、半世紀後の現在、ますます戦争への道を歩んでいる日本に対して、関西弁で戦争に反対する声を上げたい、関西弁で考え、語りたいという講演会です。
戦前・戦中にかけて、理工系の専門家たちはどのように戦争を迎え、戦後どのように反省したのか、しなかったのか。現在の日本の「科学技術立国」という思想は、戦時下の総力戦体制の中で生まれています。その歴史をふり返り、3・11以降の現在、原発に反対し、戦争に反対するほんとうの声を新たに求めたい。世代を超えて、その展望を見つけるための講演会です。
山本義隆さんが関西で講演を行います。大阪・関西在住の方は是非お申込み下さい!

【大阪発】あかんで、日本!―理工系にとっての戦争―
講師:
山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長)
「日本の科学技術―理工系にとっての戦争」
白井 聡(政治学者、京都精華大学専任講師)
「ネオリベラリズムと反知性主義」

日時:11月7日(土)13:30開場、14:00開演
場所:御堂会館・南館5階ホール
〒541-0056 大阪市中央区久太郎町4-1-11
TEL(06)6251-5820(代表)

アクセス
・地下鉄御堂筋線「本町駅」8号出口南へ200m
・地下鉄中央線「本町駅」13号出口南へ50m

参加費:1500円

主催:10・8山﨑博昭プロジェクト
公式ホームページ http://yamazakiproject.com/

参加を希望される方は以下のメールあてに申込み下さい。
E-mail monument108@gmail.com

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5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的に掲載することにした。
今回は「週刊アンポ」第4号に掲載された「市民運動入門」第4回を掲載する。

この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。

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【市民運動入門第4回 吉川勇一 週刊アンポNo4 1969.12.29】
権利を守るということ -市民運動の重要な根―
三億円事件の容疑者の誤逮捕事件はひどいものであった。さんざん人権蹂躙をやった上、草野青年に完全なアリバイが証明されて釈放することになったあとまでも、警察は「なぜ当日のアリバイをもっとはっきり言ってくれなかったのか」などと責任が警察にはなかったかのようなことをしゃべっている。マスコミも警察に輪をかけたようなやり方で草野青年を犯人に仕立てあげようとした。
 だが、こうした警察権力とマスコミによる権利の侵害が明らかにされ、曲がりなりにも被害者に対して謝罪がなされるといった例はごくごく稀なことなのだ。さんざんひどい目にあい、新聞では凶悪犯人であるかのように書きたてられ、しかも事実無根と判っても、まるで警察当局の恩恵のごときありさまで釈放されるといった例は、学生運動、市民運動などの場合には、枚挙にいとまがない。
 つい最近の私たちの経験を紹介しよう。10月10日、ベ平連は多くの団体といっしょに反戦・反安保の集会とデモをやった。午後3時から東京の明治公園には10万近い人びとが集まったが、反戦青年委員会や高校生のグループや、各大学ベ平連などは、それぞれ正午から独自の集会を別の場所に集まって行い、そこから明治公園の統一集会にデモで参加した。この参加デモの中で、大学ベ平連のジグザグやフランス・デモなど、公安条例によって付された条件に違反したという理由で、そのデモの現場責任者であった早大生、遠藤洋一君が逮捕された。
 遠藤君は21才。「ベ平連ニュース」の編集を担当しており、陽気な青年である。90キロの巨体をもち、クジラの異名をもつ。クジラがジグザグ・デモの指揮をするのはさぞ大変だったろうと察するが、それは本題と関係ない。遠藤君は3泊4日を警察の留置場ですごし、ろくな取り調べもなく釈放された。
 ところで、遠藤君逮捕の翌朝、警視庁公安部はベ平連の事務所を家宅捜索した。これはひどいもので、入口のドアに連絡先の電話番号まで書いてあるのに、鍵をぶちこわし、ドアを破壊して中に入り、関係者の立会いなしに捜索を強行した。おまけにベ平連の事務所とはスチル製の大戸棚とベニア製の扉で区別され、そのドアに鍵までかかり、「アンポ社」の掲示もしてある有限会社「週刊アンポ社」の編集室まで、鍵の蝶つがいをはずして侵入し、中を荒しまわった。
 彼らが持ってきた捜査令状に、ベ平連事務所とはあったが、「週刊アンポ」社事務所が指定されていないことはいうまでもない。この捜索で、彼らは「日本のアウシュビッツ 大村収容所」というビラ8枚、「出入国管理令を粉砕しよう」というビラ31枚、「10月行動委員会」のカンパ用ビニール袋2枚、「ベ平連ニュース」10月号5部、英文パンフレット「ウイ・ゴット・ザ・プラス」5部など、計12件99点を押収していった。
 ベ平連と「週刊アンポ社」は、ただちに弁護士さんと相談し、「週刊アンポ社」は家宅侵入罪で警視庁を告訴し、またベ平連は、押収品が遠藤君の被疑事件とまったく関係ないとして、即時返還を求める準抗告を提訴した。

<盗ったものは返せばすむか>
 この裁判は現在進行中であるが、先日この準抗告裁判の証人尋問として、捜査に来た警視庁外事一課の木下惠という警官が裁判所に尋問された。この時のやりとりは、警察官のものの考え方を知る上で非常に興味深いものだったが、それを詳しく紹介する余裕は今はない。さてこの時の最後に、木下刑事は発言を求め「押収品は警察の手を離れて検察庁に渡っているが、検察庁は調査も終り、不要になったので、返還するから受取りにくるよう、再三、遠藤洋一に通知しているのだが、遠藤はいっこうに取りに来る様子がない」とのべた。
 押収していったのはベ平連の事務所からである。それはベ平連や10・10実行委の所有物であって、遠藤君のものではない。まず返還するのなら、所有者であるベ平連に知らせるのが当然である。さすがに裁判長も「それは少しおかしいですね。遠藤の所有でないものを遠藤に返すといっても、受取れるはずはないでしょう」と注意していたが、ここで言いたいのは、直接には、そういう非常識なやり方についてではない。私たちが裁判所に提訴してまで争っているのは、押収されたものが必要だから、何とかお返しいただきたいとお願いしているのではないのである。返還は当然であるが、その前に、押収したという警察の行為が、まったく法の規定をふみにじったものだと主張し、その取消を要求しているのだ。そのかんじんのところが、証人として呼び出された警官には全然理解できないのである。「盗ったのが悪いのなら返しゃいいだろう」というのが彼らの考えなのである。昔から「あやまって済むのなら警察はいらない」とよくいう。しかしあやまりもせず、返せばいい、というのを警官がいうのでは話にもなんにもならないだろう。
 第一、押収されたものを返してもらうのにはどういう手続きがいるのか、それが大変に侮辱的なものなのである。
 まず、検察庁から葉書が来る。「さきに押収した左の物品を返還するから、某月某日、本状と印鑑を持参して検察庁証拠品領置課窓口へ出頭されたい、云々。」と書いてある。勤め人や学生だったらその日の勤務や授業を休まなければならないのだ。午後5時以降や日曜日には絶対に受付ない。元来、こっちが頼んでやってもらっている仕事ではないのだ。ふつうの社会常識からいえば、もってった奴が返しに来るのが当然なのだが、そんな考えは彼らに薬にしたくもない。
 そればかりではないのだ。印鑑をもってゆくと、散々待たされたあげく「押収品仮還付受領書」なる紙に署名、押印させられる。それにはなんと、「今後、検察庁が必要になった場合には、いつでも提出いたします」という文句が入っているのである。
 裁判までして争っている私たちが、かりに返還通知を貰ったところで、こんな馬鹿げた手続きをしてまで押収品を受け取りに行けるだろうか。
 裁判官がいった。「そうですね。ベ平連の方がノコノコ受けとりにはゆけないでしょうね。どうです。あんたがたのほうで返しに行ったらどうですか」彼はノコノコという言葉を使った。オメオメでもいい。とにかく、普通の市民的常識でいえばそうなのだ。だが、こう言われた木下刑事は当惑していた。押収品を検察庁が、返しに行くなどということは前例がないのである。結局、この話はまとまらず、裁判は続行することになった。警察にこの捜査の不当性を認めさせるのは、まだまだ容易ではないだろう。頭の構造までただすのは絶望的でさえある。

<ピストル事件とマスコミ>
 警察だけではない。マスコミも同じである。とくに警察まわりの記者や警視庁クラブ詰めの連中は、もう警察の考え方と同じである。警察の言い分をなんの検討もせず、うのみに記事にする。場合よれば、それに輪をかけた記事さえ書く。憲法の精神などどこにもない。
 まず、警察につかまったら、そいつは悪い奴で、無罪を立証するのは本人の義務だというとんでもない逆立ちした考え方をもっている。今度の三億円事件の報道などその典型だ。
 こんなこともあった。今年の2月、警視庁は、逮捕された米脱走兵の自供から判ったとして「銃砲刀剣類不法所持容疑」というとんでもない名目で、「イントレピッド4人の会」の世話人である立教大学の高橋武智助教授の自宅を家宅捜索し、予備校生山口文憲君を逮捕した。脱走兵援助のグループがピストルをもっている、というのである。新聞は一斉にこの捜索と逮捕を大々的に書きたてた。たしかに記事としては興味深いものだろう。だが、事実無根なのだから、有罪を立証する証拠などあるわけがない。警察は山口君を3日後に釈放した。私と山口君はすぐ警視庁記者クラブを訪れ、記者会見し、この釈放と警察の不当なやり方についてのべた。
 ところが、その時集まった記者団の中の一人は、山口君に対し、事実無根だという証拠を求めたのである。しかし、もしピストルを持っていたのなら、警察がそれを立証することが可能かもしれないが、もっていない時に、それをもっていないということを一個人がどうして立証できるだろうか。物的証拠にもとづいて有罪を立証できぬ限り、その人は犯人ではないという戦後の法体系の考え方を、この記者は警視庁にいる間にすっかり忘れてしまったのである。

<徹底的に争おう>
 反戦運動に対する弾圧の中では、こんな例はいくらでもあるのだ。さて、市民運動としては、どうしたらいいのか。どんなささいな人権蹂躙をも絶対に黙過せず、抗議、公告、告訴など、あらゆる手段を用いて徹底的に争う以外にはないだろう。新聞の誤報も追及の手を緩めてはならないだろう。記事を書いた記者とその責任者への抗議を必ずすることが大事だろう。
 小田実が書いている。今度のデモで逮捕者は2人だった。少ないナと思う。そんな考え方を私たちがすべきではない。その2人の逮捕が不当なのだ。デモのたびに逮捕や捜索が行われるという、このとんでもない警察のやり方をなくすには、私たち自身の権利を守るための大変な努力がいる。手間も時間もかかる。だが「週刊アンポ社」は10月11日の家宅捜索の不当を裁判で争い続けるし、ベ平連は押収されたすべてのものを「仮還付書」に印を押さずに取返すまで争い続けるだろう。

(終)

【10・8山﨑博昭プロジェクト大阪講演会のお知らせ】

11月7日(土)に大阪での初の講演会「【大阪発】あかんで、日本!―理工系にとっての戦争―」を開催します。
この講演会は、2014年に発足した「10・8山﨑博昭プロジェクト」の大阪での最初の講演会です。1967年10月8日に戦争に反対して死んだ山﨑博昭(大阪府立大手前高校卒。当時、京都大学1回生)を追悼し、半世紀後の現在、ますます戦争への道を歩んでいる日本に対して、関西弁で戦争に反対する声を上げたい、関西弁で考え、語りたいという講演会です。
戦前・戦中にかけて、理工系の専門家たちはどのように戦争を迎え、戦後どのように反省したのか、しなかったのか。現在の日本の「科学技術立国」という思想は、戦時下の総力戦体制の中で生まれています。その歴史をふり返り、3・11以降の現在、原発に反対し、戦争に反対するほんとうの声を新たに求めたい。世代を超えて、その展望を見つけるための講演会です。

山本義隆さんが関西で講演を行います。大阪・関西在住の方は是非お申込み下さい!

【大阪発】あかんで、日本!―理工系にとっての戦争―
講師:
○山本義隆(科学史家、元東大全共闘議長)
「日本の科学技術―理工系にとっての戦争」
○白井 聡(政治学者、京都精華大学専任講師)
「ネオリベラリズムと反知性主義」

日時:11月7日(土)13:30開場、14:00開演
場所:御堂会館・南館5階ホール
〒541-0056 大阪市中央区久太郎町4-1-11
TEL(06)6251-5820(代表)

アクセス
・地下鉄御堂筋線「本町駅」8号出口南へ200m
・地下鉄中央線「本町駅」13号出口南へ50m

参加費:1500円

主催:10・8山﨑博昭プロジェクト
公式ホームページ http://yamazakiproject.com/

参加を希望される方は以下のメールあてに申込み下さい。
E-mail monument108@gmail.com

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