野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2015年11月

10月31日、東京・飯田橋の中華料理店で明大活動家OB会が開催された。今回は、このOB会の報告、特に呼びかけ人の一人である土屋源太郎さんの発言を中心に掲載する。
このOB会は1950年代に明大に入学し、砂川闘争に参加した方々が多いが、明大土曜会からもY氏、H氏と私の3名が若手?として参加した。
このH氏からOB会参加報告が送られてきたので、まず、それを見てみよう。

【明大OB会参加報告 明大土曜会H】
<明大1950年代OBの会が10月31日に飯田橋の中華料理店で開催されました。参加は31名(内土曜会から3名)です。
1951年~60年明大入学の活動家だった人が28名参集されました。圧倒的に1953年~55年入学が多いのです。土屋源太郎さん(明大中執委員長、都学連委員長、全学連書記長、「伊達判決生かす会」共同代表)53年法、中村幸安さん(1960年明大中執委員長)55年工といった塩梅です。
当時女子大生の方7名いらっしゃいました。*来られなかった方の名簿には28名記載されていました。皆さんの近況報告と明大土曜会年代では知らない思い出話やエピソードが披露されました。入学から60年たっても「明大の学生運動をやったという一点とその青春譜」の集まりでした。
共有されている運動の思い出は、60年安保の時は卒業していた方も多いので、圧倒的に1956年と57年の砂川闘争でありました。
そこから話題は、土屋源太郎さんの「砂川闘争と伊達判決」「最近の砂川事件再審請求」「アベ政権安保法案と、昔と違っている組織力を背景としない若い人たちの国会デモ」となりました。
1960年代やや後半からの明大の学生運動は1953年の「明大民主化全学ストと勝利」に基礎(本源的蓄積)を置いていることを改めて実感いたしました。
日共の五全協から六全協の混乱混迷の中、明大では53年の若手教授や革新派職員と一緒になった、明大全学ストとその勝利で、「明大固有の運動と組織の力量が高まった」と思います。
その力は56年からの砂川現地闘争への全都大学一番の動員になり、「明大の部隊は常にデモ隊の一番前か最後尾であった」(土屋源太郎さん 談)。
また、60年安保では本校から国会前までデモ隊が途切れることなく続く「全明全学ストライキ」が展開されました。
そして60年代の半ばは60年安保ブンドの混乱と崩壊もあり、各党派の運動・明大独立社学同運動や三派全学連結成や明大学費闘争になったと思います。
1950年代OBの集いは来年も行うとのことです。若い世代に伝えること若い世代との連帯も求めていらっしゃいます。
明大土曜会の幾つかの活動や今も砂川闘争を継承している砂川現地の反基地平和運動の構造なども報告いたしました。>
 
OB会では土屋源太郎さんが司会・進行を務めた。
その土屋源太郎さんの発言(要約)を中心に掲載する。 

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土屋
『砂川事件というのはどういうものだったのか。今の若い人と話をすると、北海道の炭鉱の話じゃないかと思われる。そういう意味で言えば、砂川闘争、砂川事件というのは、(安保法制の関係で)お陰様で広まりました。新聞の取材、原稿依頼、いろいろありました。
実はこの再審請求、あまりにも田中耕太郎とアメリカ大使と、最高裁判決で差し戻しということについて、非常におかしい汚いやり方をして、明らかに憲法37条違反だということで再審請求しています。請求人は4人でやっています。

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東京地裁で審議入りは難しいかなと思いましたが審議入りを認めました。早ければ年内、来年の春には出るだろうと思います。この再審決定が出れば大変なことになる。安倍政権にとって(安保法制の)法的根拠が全く覆される。仮に却下ということになると、この却下というのは大変難しい。判決文で再審請求(決定)をする方がよっぽど楽なんです。
却下の場合は、あの(米国)公文書館の文章から何から全部どうするのかやらなくてはならないから、当然そこにはいろんな矛盾が出てきますから、これは我々は上告して闘いを続けます。何年かかるか、私がどこまで生きているか、まだまだ頑張って行きたいと思っています。
さっき、砂川闘争60年の話がありました。今年でちょうど60周年。1955年に第1回があってて、56年、57年と3度にわたって闘いがあった訳です。この度、11月5日に立川で大掛かりな集会があります。是非参加して下さい。
砂川の再審請求と砂川闘争について、弁護士が中心となって、安保法制で砂川最高裁判決使ったということで、急きょ作った本です。是非、買って下さい。それともう一つ、Y君たちが計画して作った本があって、よかったら買ってください。砂川闘争の写真も結構載っています。』

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土屋
『沖縄について考えた時に、当時、砂川の闘争もあり、沖縄の闘争もあって、いろんな形で闘争があった。確かに本土の闘争では、砂川も立川基地を返還させるということで勝利したかもしれない。ただ、そこで一つ大きい問題は、その結果どうなったかというと、我々が砂川闘争をやった時代は約8割弱が日本の本土に米軍基地があった。ところが何と今、その基地の約73%が沖縄にある。何故かと言うと、我々が闘って勝利した結果が沖縄に基地が移った。だから海兵隊だって岐阜とか甲府にいたんです。その海兵隊が結局、沖縄に行ったんです。だから今の沖縄の人たちが本当に言うのは、当時いろんな事情があったにしても、我々はあの砂川闘争と併せて沖縄の基地反対闘争ができなかった。これは大きい反省すべきことではないか。本土がもっと沖縄の問題を共通の問題として、同じように取り組む必要があるだろう。ところが残念ながら今の状況というのは、本土でもそういう意識は薄すぎる。関心が薄い。

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だから、今、辺野古で呼びかけをしているんだけれども、大挙して沖縄に行くことが大事なんだ。今までどちらかというと沖縄の人たちは本土でギャアギャア言うな、本土は本土で闘えと言ったけれど、こうなってきたら、やっぱり本土からも押しかける。できればチャーター便を5~6機用意して乗り込む。現地で、砂川闘争ではないけど、すごい闘いをやって機動隊でも何でもどんどん出させてそこで激しい闘いをやると世界的にも反響が起こる。米国内でも反響が起こる可能性がある。そういう運動にしない限り止められない。何故ならば、安倍というのは異常人格者だから、法律もへったくれもないんだから、そういうやつと闘うにはこっちもまともな発想ではダメ。まともな発想じゃない闘い方をするべきだと私は思う。だから、この歳でいろんなところで言っているのは、この運動を組め。組んで組んで、それでチャーター便でも何でも出して、年寄りでも何でもみんな乗っけて、Y君が中心になってそういう運動を展開して、沖縄で本当の抗議行動、体を張った行動が大事だと思っているで、是非これを考えて欲しい。その時には是非参加して欲しい。私も一番最初に行くから。もう1回捕まってもいいと思っている。』

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土屋
『異論はあるかもしれないけれお、中国の脅威論は全くのインチキ。抑止力というのも全くのインチキ。日本と中国、中国とアメリカ、皆さん知っていますか?日本の輸出総額の18%が中国、アメリカの輸出総額の19%が中国、こんな国同士が戦争しますか?戦争したらお互いが経済的に破たんします。そんなことあり得ないじゃないですか。その他にも言ういことはいろいろありますが、安倍が言っている中国脅威論は全くの噓。安保法制を通すための詭弁。だから彼ら何でも有りなんだよ。菅官房長官がグァムに行って海兵隊を移すポーズを取りたい。これでみんな騙されちゃうんだよ。政府は努力をしているんだと思う人も出てくる。海兵隊が1万9千人沖縄にいると言っているけれども、実際はそんなにいませんよ。1万人を切るくらい余裕がある。それをたった3千人をグァムへ移すのに3千億だという。こんな馬鹿げた話がありますか?』

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土屋)
『今、大学だって自治会すらない。それでクラブ活動もほとんどない。ですから、とっかかりそのものがない。ここのところ国会でシールズという若い人たちが参加したり、明治は安保法制に反対するオール明治の会を作ってそういうものに参加しようと、そういう若い人も入ってくることもあるだろうけれど、その辺をどうやっていったらいいか。これは非常に悩むところですね。

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よく言うんだけれども、集会をやったりいろんなことをやっても来るのは70代から80代だよな。50代は数が少ない。集会をやっても似たような人が来るんだよ。金太郎飴だよ。これも悩みなんだ。
静岡で「総ががり運動」を何とか作りたいということで、3人で動いた。ところがものすごい抵抗があった。共産党と一緒にやりたくないとか、社民党系と民主党系のスローガンの違いとか、なかなかうまくいかない。だけど粘りに粘って1ケ月半くらいかかったかな、最終的に4月18日に静岡で「総がかり」が今までにない3千人規模でできた。今までは200から300。そういうこと一つやるのにも非常に問題がある。

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というのは、総評から連合になる経過の中で、お互いにものすごい確執がある。こんな馬鹿な事を言っていてどうするんだと言っているんだけれども、だから選挙協力もなかなか問題がある。だけど、これも国民の声だから、我々がどうやってそれを起こしていくか、それが大事だと思っているし、あきらめない。辛抱強く小さいグループでもいいけれど積み上げて行く。そういうことをするしかないと思っています。』

OB会の途中、明大の校歌を斉唱。
「お~明治♪・・・・・」の歌が会場に流れる。

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女性
『みなさん覚えてらっしゃるかどうか分かりませんけれども、第1回砂川闘争の時、みなさんインターとかいろいろ歌っていらしたけれど、明治は校歌を歌いましょうということで、テントで校歌を歌ったんです。』

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土屋
『砂川闘争の時は歌は、小降りの中をスクラム組んで座り込んでやった訳でしょ。それで歌は最初は国際学連の歌だとか労働歌だとかインターナショナルだとか歌っていたが、だんだん歌が無くなってくるんだよ。次はいろんな校歌だった。明治が一番最初。最後に夕方になって何となく寂しくなってきて、その時に「赤トンボ」と「カラスの子」を女子学生が歌って、それがパーッと広がって行った。それが新聞に載ったりして、「赤トンボ」はそういういわれだった。

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その時に経営学部のTが捕まった。それで三鷹警察に抗議行動にいって、釈放になった。あの時はいい闘いだったね。腹に週刊誌を巻いて、突っつかれても週刊誌が効いた。その代わり、頭からくるのには参ったな。それから軍靴みたので蹴っ飛ばすのでスネが大変。

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57年の闘争では最初から中に入る計画だった。それで工作隊を作った。当時、肥溜めにウンコがいっぱいあったので、麦わらをきざんで、そこにウンコを入れて「ウンコ爆弾」を作った。ただし、これはあんまり効果がなかった。何故なら、機動隊まで距離があるから。下手するとこちらに側に落ちる。それから夜明けのまだ薄暗いうちに、境界線の下を全部掘っておいた。実はちょっと行けば倒れるようにしておいた。考えてみると、我々は学生だったから、そういう意味では生活のことを考えていない。俺たちが入ってしまえば労働組合も一緒に入ってしまう。大勢入ってしまえば、簡単に捕まりっこないということもあったから。ところが後で考えてみれば7人起訴されて、そのうちの3人が学生、4人が労働者。労働者はみんな首を切られた。復職闘争も5~6年かけてやって、最終的に勝ったんだけれど、そういう思いを彼らはした。俺らはそこまで考えていないから。後で「おいおい源さん、おかしいんだよな。俺らが行ったらあの柵が簡単に倒れたんだよ。」と言われた。「実は白状しちゃうけど、これこれこういうことですぐ倒れるようにしておいたんだよ。」と言ったら「やっぱりなあ。悪ガキはやることが違うよな。」と言われたが、本当に彼らはそういう苦労をした。僕らはそこまで考えなかった。
結果的には捕まって、伊達判決という判決が出た。こんなに素晴らしいことはない。これは私の一生の宝物ですね。』

明大活動家OB会での土屋源太郎さんの発言を紹介したが、最後に、今年の砂川闘争の集会に参加したH氏からの発言を掲載する。

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H氏
『9月8日の砂川の集会にアメリカのレイクランド大学の教授4~5人と若い学生が来ていた。砂川までアメリカから来たのかと思ったんですが、このレイクランド大学は新宿に学校があるんですね。そこの教授と学生12~3名が来ていたんですが、教授が立川に住んでいて、砂川闘争に興味を持った一つの理由は、砂川闘争のミヤオカさんの砂川闘争の記録が翻訳されているそうです。それを読んで、自分はニューヨーク郊外の農家の息子で アメリカが空港を作るので用地を買収した時に、自分の土地を含めて、みんながすぐに買収に応じた。砂川のような地域住民の農地を守るという団結のコミニュティがなかったと言っておりました。
二つ目は、支援した学生や労働組合がいっぱいいますが、そこでの非暴力、流血と言われていますが、非暴力で流血してしまったが、その精神がすばらしい。それは今日の国会デモに受け継がれている。
三つ目は、国有地を自分たちの手で子どもたちのために平和利用して行こうという、そういうコミニュティが出来ている、そこに感銘したと言っていました。
結論的には、教授は、伊達判決、砂川闘争は今日も続いている。これは、沖縄とか、アメリカに非常にインスピレーションを与えていくだろううと言っていました。』

<10月11日「砂川の大地から、届け平和の声~砂川闘争60周年現地集会」参加報告。H氏>(写真は砂川闘争60周年現地集会実行員会主催FBより転載)。
『地域や世代や国籍を超える手づくり感ネットワーク満載の現地集会(約150人だったろうか)でした。
(1955~1957)当時、砂川の農家が支援学生にふるまったというみそ味の「砂川鍋」も食べて来ました。

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集会は4時ごろ終わり、立川駅前でSさん・Kさん・Yさんさんと生ビール、集会やデモの後では生ビールが旨いのですが、異口同音に「今日来て良かったネ」。
「60年安保前の砂川闘争の意味内容の継承と草の根を越えているけど平和主義の土台は草の根主義」なる、一文を思いましたが私の能力を超えるものがあります。私の隣に座ったおばーちゃんは砂川三番とのこと。お父さんが砂川米軍基地の軍人の車ではねられ、青梅街道の川に落ちて大けがをしたが、その軍人は7日後に米国に帰ってしまい、結局は後遺症が残るだけの泣き寝入り、と話していました。
横田基地の騒音訴訟の人来ていました。オスプレイは開発から約百人が死んでいる、あのイスラエルも配備は拒否したが、横田基地には17機のうち10機配備は決定した。
といっていました。』

明大活動家OB会に明大土曜会として参加したのは初めてである。OB会では明大土曜会の宣伝も行い、更なる交流を呼びかけた。

(終)

2015年11月7日(土)、10・8山﨑博昭プロジェクトの初めての大阪講演会「大阪発 アカンで、日本!-理工系にとっての戦争―」が開催された。
今回は、その講演会の概要を掲載する。

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私も当日、事務局の一員として大阪に向かった。大阪に行くのは10年ぶりくらいだろうか。講演会の会場は地下鉄「本町」駅の近くの御堂会館・南館5階ホールである。

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会場の定員は210名であるが、定員を大幅に超える約260名の方が参加した。椅子に座れない参加者は会場の外にまであふれ、演壇の後ろに「演壇占拠!」と言いながら座り込む参加者もいた。会場は超満員であったが、参加者は熱心に講演に聞き入った。

講演会の冒頭、発起人を代表して山﨑建夫氏(山﨑博昭兄)から「賛同人および賛同金に協力して欲しい」との挨拶があった。

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続いて、発起人の水戸喜世子さん(十・八羽田救援会)から、講演会の前半の講師である山本義隆氏(科学史家・元東大全共闘議長)について「沈黙の40年間に考えられたこと、学ばれたことを、今、私たちに示して共有され、しようとしています。本当にありがたいことです」と紹介があった。

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山本氏は大阪出身なので、会場参加者からの「お帰り」コールの中、「日本の科学技術―理工系にとっての戦争」というタイトルで講演が始まった。

【「日本の科学技術―理工系にとっての戦争」 山本義隆】(講演概要)
「このタイトルで言う科学技術は、近代のヨーロッパで出来た自然科学です。この自然科学に基礎づけられたあるいは導きだされた技術であって、近代社会の発展に寄与した技術ということで科学技術を語っています。」
「日本における科学技術は3つのことで特徴づけられています。一つは科学と技術が一体となって入ってきたということ。もう一つは、それが軍事偏重だったこと。三つ目は権力のイニシアチブで科学技術の勉強も含めて進められたことです。」

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「西洋では科学と技術は元々別のものであって、科学技術というものは存在していなかった。科学というのは純粋に言葉の学問であって、実際に実験して測定してという発想は全く無い。他方、技術というのはアカデミズムとは全く縁のない職人の世界で培われてきた。理屈ではなく経験の蓄積です。16世紀になって初めて職人の世界で培われた知識を活字によって表せるようになった。アカデミズムの世界でも、それが自然科学の研究にとって有効なのではないかということで、17世紀の科学革命が起こった。18世紀に広がって行って、19世紀になって逆に科学の新しい法則や知見が、新しい技術の開発や改良に役立つのではないかということが分かってきて、そこで初めて科学技術が出来た。
まさにそのタイミングで日本は黒船により科学技術に遭遇した。日本では科学と技術を一つのものとして受け入れた。もう一つ言うと、西洋では科学技術、蒸気機関は元々民生用の技術であって軍事とは関係なかった。日本ではいきなり蒸気機関を軍事力として見た。決定的な違いがある。日本は初めから政府のイニシアチブで科学技術を進める。科学と技術が一体となっている、軍事偏重である、政府のイニシアチブでやっている、これは日本の科学技術の非常に大きな特徴であり、その後の科学技術の在り方をある意味で規定していったと思う。」
「軍事における科学の重要性が出てきたのが第一次世界大戦。科学技術の力というのは戦争を左右する。普段からそれを育成していかなければいけない、と改めて認識させられたことで日本における科学研究が強力に進められることになった。」
「それに対して学者はどう対応したか。研究費があれば喜んでそれに飛びつく。左翼も同じ対応をしている。戦争中は学者は権力の科学技術政策の豊かな研究費と、権力の研究体制の合理化、近代化の中にのめり込んで行った。科学こそ戦争を勝利に導くということに学者も左翼も全部協力していく。」
「戦争で敗北した時にどういう反省をしたかというと、戦争を始めたことを反省する訳でもなければ責任を追及する訳でもなく、科学力が不足していたと。
戦後になって、これからは民主主義の世の中だとなると、今まで戦争のために科学が大事だと言っていた連中が、同じように民主国家日本の建設には科学が大事なんだと言う訳です。」

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「戦争中に総動員体制を敷いた官僚たちは、人脈も組織もイデオロギーもそのまま残った。
戦争中の総動員体制の中で、アジアへの軍事侵略を支えていた、アジアの諸国に対する優越感と排外主義ナショナリズムの思想が官僚の中にそのまま残った。
50年半ばに日本が原子力政策を進めていく上で潜在的核武装路線を唱えたが、戦前の全ての産業能力は潜在的軍事力であるという発想そのままなんです。
50年代に日本の資本主義が復活していく中で、改めて総力戦体制を作って行く。それが日本の高度成長を進めた。戦前の殖産興業・富国強兵というのが、そのまま高度成長・国際競争に置き換えられただけであった。」
「戦後一時期、民主化運動だと言っていた科学者は、60年代の高度成長の過程で理工系ブームが起こってくると、見事に体制の中に取り込まれていく」
「戦前の総動員体制というのは命を権力に預けて下さいということを意味していた訳で、それが戦後の総力戦体制としての高度成長の過程で軍事力は使わないけれども、経済戦争に乗り込んでいく。ある程度の犠牲はやむを得ないということで、公害病に苦しむ患者や開発で土地を追われた人たちを見捨てて行った。高度成長の総力戦体制は戦前と同じで、基本的に戦前ほど手荒ではないけれども、場合によっては命を国に預けてください、ということをやってきた。」
「今、アジアの国との経済格差を利用して経済的支配権を拡大していくという路線がもはやできにくくなっている。そうすると、アジアの人たちに対する優越感を伴った列強主義ナショナリズムというのは、もっとグロテスクな形の排外主義に転化する可能性がある。すでに始まっている。家電製品や自動車で商売できなくなったら何に手を出すかといったら、原発であり武器です。
武器を輸出するということは、武器は常に最先端でなければならない。武器輸出で外国と競争するには常に最先端の武器をつくらなければいけない。また、実戦で役に立つという保証がなければならない。ということは、武器輸出が存在するためにはどこかで戦争しなければならない。武器を最先端にするということは、大学の研究機関の協力が必要になってくる。」

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「明治以降の日本の科学技術は常に上からのイニシアチブでかつ軍事的なものを重視してきた。日本の科学者は、今、軍事研究でと言わたらコロッといってしまう。軍事研究に動員されていくという非常に際どいところにきている。
日本の科学技術というのは、初めから現在に至るまで、西洋と決定的な違いは、軍事偏重として育て上げられてきたことと、権力のイニシアチブで科学技術は実は育成されてきたということ。それが改めて日本の自然科学の研究の脆弱な体質、権力的な体質が今また問われる時が来ていると思います。」

休憩を挟んで、講演会に協賛している大阪自由大学の池田知隆氏から、講演会の後半の講師である白井聡氏(政治学者・京都清華大学専任講師)について「日本の戦後社会の在り方に鋭くメスを入れてこれらた。現代政治の分析においては若手第一の論客である」との紹介があった。

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白井氏の「ネオリベラリズムと反知性主義」というタイトルの講演が始まった。

【「ネオリベラリズムと反知性主義」 白井 聡】(講演概要)
「山本先生の本を読んだ感想として、日本の科学技術というものが、その発端からして軍事と骨がらみだったということに関し、認識を新たにしました。
『和魂洋才』と言う言葉に日本の近代のの特殊性が現れていると思います。『洋才』の『才』は言い換えればテクノロジー。『和魂』の『魂』はソウルであるとかハートを意味する。本来ならば近代的な科学の出どころは全てはソウル、ハートから来ているが、近代の日本人はそれを分離できるように考えざるを得なかった。本来分離できないものを、テクノロジーの方だけを取り入れることが出来ると思ってしまった。その弊害が大きいということを、今再び痛感せざるを得ない情勢に立ち合っていると思います。」

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「戦後、科学者や技術者の戦争責任は追及されなかった。その贖罪として一つは科学技術の研究発展を軍事転用してはならないということが一定程度根付いたと思う。技術というものがいい使い方もできるが、人を殺すという使い方もできるので警戒しなければいけないという常識が根付いていたと思う。もう一つは戦争中に発展した科学技術を戦後の経済発展に役立てて行くということ。それによって戦争に加担してしまった罪をあがなっていったと推測します。」
「戦後70年経って記憶の風化が進んでいく。科学者や技術者たちも記憶の風化のために歯止めがきかなくなる、そういう情勢が着々と進みつつある。それに対してどう対抗していくのか。それは容易な事ではない。時代状況がネオリベラリズムと反知性主義に侵されているので、そう簡単にこれに抵抗できるものではない。安易で空疎な希望を語るより、しっかりと問題の根源を捉えて、次世代の足場になる何かを残すべきではないかと考えます。」

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「ネオリベラリズムというのは競争至上主義であると言われているが、これは表看板であって、公正な競争を謳いながら、実は国家と資本の腐敗した癒着であり、結託であるという定義が下される場合が多い。特に、資本主義の経済成長が成熟した国々にどこにでも現れいる。」
「ネオリベラリズムというものが単に政治経済的な現象ではなくて、人々の感性とか物の考え方、意識というものに対して非常に大きい影響力を持つ、ある種の新しい文化段階なのだと捉えるべきではないか。人々の感性や物の考え方が既にネオリベラリズム化しているため、ネオリベラリズムを規制することができないということが生じている。
ネオリベラリズムが人間の心ないしは精神に持ち込む影響の核心には、ニヒリズムがあると思っている。ニヒリズムがどこから来たかというと、止めどない消費社会における消費主義が隅々まで行き渡った時に、その社会は同時にとてつもない強度の高いニヒリズムに覆われているのではないかと考えるようになった。」
「今の状況を知る気もない、変わらなければどうしようもないという状況であるこが分からない人たちがいる。どうしてこのようになるのか、これはある種の消費主義だと推測します。自分が何かをする、そうすると自動的にそれに対する結果が出て来て、ああ良かったとなるのが当たり前で、世の中が変わって欲しいと言えば世の中が変わってくれる、そんな事はない訳ですが、お買いもの感覚でしか世の中を捉えられない。何か動いてみたところで結果がでるかどうか分からないというものには取り組めない。消費者のスタンスで言うと賢い消費者になる。こうなってしまったのは何なんだろう?」
「今、2015年安保と言われているが、1960年安保の時と比較してみた。今年もいろいろなことが言われたが、60年安保の時もそっくり同じことが言われていた。
60年安保の時も安保問題は外交問題ではなくて内政問題であることが語られていた。55年間たっても進歩ゼロという事実に向き合わざるを得なかった。
谷川雁は『60年安保は人は出てきたが疑似市民運動だからダメだ。疑似市民運動はそれを動かしているのはニヒリズムにすぎないからだ』という言い方をしている。
谷川雁は、ニヒリズムがダメではなくて、中途半端なニヒリズムはダメだ、問題はニヒリズムの強度であるということを言っている。吉本隆明は、『声なき声』と言われる政治的に全く無関心な大衆が、全学連主流派を支持していたと言っている。
天下がひっくり返ろうが、政治の世界で何が起ころうがそんなことはどうでもいいと考える大衆はある意味でニヒリストといえる。
谷川、吉本の議論は、強度の高いニヒリズムに日本の社会のポジティブな担い手を見出そうとしていた。当時の戦後民主主義者たちは、60年安保で出てきたエネルギーをしっかり維持してやっていけば、より良い民主主義社会になると言っていたが、それは破たんした。当時の情勢判断としては谷川、吉本の言っていることは的確な何かを含んでいたと思う。」
「強度の高いニヒリズムに依拠できるのだろうか?1983年頃の敦賀市長の原発を巡る有名なスピーチがある。『50年後、100年後に生まれてくる子供が皆かたわになっても、それはそれでしょうがない。原発はお金が天から降ってくるようなものだから原発はやった方がいい』という言葉で締めくくられている。金、金、金という話です。
ニヒリズムは何ですかといったら、この講演を読みなさいと言いたい。そう考えると、谷川雁や吉本隆明が言っていた、ニヒリズムに対するポジティブな物の見方は大変甘かったのではないかと思う。高度成長の中で頭をもたげてきたニヒリズムはもっと恐ろしいものではないか。それは今日のネオリベラリズムとどこかで繋がっていると思う。日本では消費主義として生まれたニヒリズムが巨大なものになっているのではないか。」

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「もう一つの論題である反知性主義について、ネオリベラリズムとどう繋がるのか?反知性主義は簡単に定義できない。いいものなのか悪いものであるのかも簡単に定義できない。
カンボジアのポルポト派支配は反知性主義の極限みたいなもの。
今日の反知性主義で一つ指摘できるのは、知識人とかアカデミズムと一般大衆が対立するという構図で反知性主義の歴史が展開してきたが、今起こっていることは、反知性主義の批判の対象であったアカデミズムや知識人の世界が反知性主義に覆われているということです。」
「否定的なものに耐えられない、否定的なものはないことにしようというのが現代における反知性主義の特徴なのではないか。そのことと、ニヒリズムがどう関係しているのか。
ニヒリズムは信仰を持っています。それは無限に続く科学の発展だったのではないか。それによって消費生活が豊かになって行くはずだというのが現代的なニヒリズムの信仰だと思う。」
「私たちは価値の混乱した世界に生きている。それはどこから始まったのか。科学技術を進化させたものは戦争に他ならなかった。私たちの生活そのものが過去の戦争によって蓄積された技術によって支えられているということを認めざるを得ない。
マルクス・レーニン主義の思想は労働者階級に奉仕する科学技術を標榜したが、技術の持つ両義性を克服できなかったと思う。
私たちは何を心して考えるべきなのか?大きく言えばニヒリズムの克服であるが、少なくとも今言えることは、新しい科学技術のあり方を社会そのものが試行していかなければいけないということが言えると思う。戦争こそが技術発展の最も効率のよい優れた契機となるという状態から、どうやって私たちは脱することができるのかということが、今の課題だろうと思います。そのことを忘れる時、消費社会のニヒリズムが世の中を覆い尽くすことになる。だいぶ覆い尽くされていることは間違いないのですが、何とかこの現状を正確に認識して、認識するところからしか、そこから脱却するヒントというものは見えてこないと思います。」

講演終了後、当日参加した9名の発起人、山﨑建夫、北本修二、佐々木幹郎、辻惠、三田誠広、山本義隆、道浦母都子、水戸喜世子、山中幸男の各氏から挨拶があった。

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挨拶の中で、プロジェクトへの賛同とカンパの要請が行なわれ、10万円を超えるカンパが集まった。また、会場で賛同人の申込みをされる方もいた。
最後は大阪講演会の実行委員長である道浦母都子さん(歌人)から閉会の挨拶があった。

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「1967年10月8日に亡くなった山﨑さんの魂と、今、みんなが心の拠り所になって欲しいと願っている山本義隆さんの魂と、この2つの魂が交叉するような場所を、是非、大阪でやりたいと思いました。是非、大阪でやっていただきたいとお願いしたところ、山本さんが快く返事をしていただき、今日に至りました。今日は沢山の方が来ていただきまして、みなさんが本当に真剣に聞いてくださったということを、心から感謝しております。
これからも沢山宿題があります。どうぞ今日の熱気と同じように私たち山﨑プロジェクトにご一緒に参加くださいまして、賛同人になって協力下さいますようお願いいたします。」

10・8山﨑博昭プロジェクトの初の大阪講演会は大成功で終了した。
山本義隆氏と白井聡氏の講演の詳細は、後日、ブログに掲載する予定である。

【お知らせ】
来週のブログとホームページの更新はお休みします。
次回は11月27日(金)です。

先週のブログで、10月10日に羽田・弁天橋で行われた10・8山﨑博昭プロジェクトの献花と黙祷の様子を掲載した。
今回は、重信房子さんから10・8山﨑博昭プロジェクトに寄せられた手記(メッセージ)を掲載する。(重信さんは当プロジェクトの賛同人にもなっている。)
重信さんは明大社学同の一員として1967年10月8日の羽田闘争に参加しており、その様子を克明に描いている。

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【重信房子さんの手記】
山﨑博昭さんの「死」に怒り、更に一歩歩を進めた者として「追悼の鎮魂碑」に賛同し、連帯の想いを伝えます。
10.8羽田闘争参加者  重信房子

朝から眩しい青空。10月8日、あの日私は明治大学二部の3年生だった。
社学同系の隊列は、これまでと違って行先を知らされなかった。萩中公園に行くのだろうと仲間たちと語り合っていたが「三々五々、東京駅へ行って次の指示を待つように」という。
東京駅のホームで「品川駅京浜急行ホームにただちに結集せよ」との指示。品川駅ホームには社学同系の仲間たちがあふれかえっている。「ピーッ」笛が鳴って「乗れーッ」と号令。私たちはみなあわてて乗り込んだ。しばらくすると又、笛の音と共に「降りろーッ」の声が響いた。降りたのは小さなホーム。「大森海岸」と駅名が書かれている。「とびおりろーッ」の大声。無賃乗車のまま下車だ。ホームは簡単なコンクリートの柵。それをまたいでみな次々と跳び降りている。かなりの高さだ。仕方がない。私も跳び降りた。
 「我々は決死の覚悟をもって羽田空港に突入し、佐藤訪米を阻止する!」成島全学連副委員長が武者震いをしながらアジッている。どこからもち込んだのか、この日、初めてデモ隊は“武装”した。角材がどっと前に置かれ、一人一人角材を握った。角材は多分50人ほどしかいき渡らなかった。“武装”部隊を先頭に数百人の隊列が組まれた。私たちは救護班で一番後に続いた。
 デモ隊が高速道路の鈴ヶ森ランプの坂道の下までくると笛が鋭く長く一声した。「羽田へ突入するぞーッ」「走れーッ!羽田はすぐそこだぞーッ!」と激がとんだ。角材をもった連中は全速力で高速道路を逆走しはじめた。置いていかれては救護の役割は果たせない。身軽に棒一本持った彼ら数百を追って荷物を抱えた私たちも必死に走った。たちまち引き離されながら高速道路に上がると、すでに一般車両の通行を禁止していたらしく車は見当たらなかった。かわりに何十メートルおきかに見張りに一人ずつ立っていたらしい機動隊員たちが居た。デモの急襲になす術なかったのか、重武装のまま、一発なぐられて寝た格好のもの、しゃがみ込んでいるもの、呆然としているものたちが点々と居る。私たちは機動隊員たちを避けながらデモ隊の後を追いかけて疾走した。
 そのうち羽田と大森双方から慌てて出動してきた機動隊に挟撃された。デモ隊のうち包囲を突破していくもの、高速のインターチェンジの少し低いところに押しこまれて結局落とされた者もいた。装甲車から隊員は重武装で次々降りてきて、ジュラルミンの楯と金属棒でデモ隊の頭を殴ったり蹴ったり激しい暴力を振るっている。頭を割られた人が続出し、血の臭いが充満している。次々と頭を殴ったり蹴ったりしながら逮捕せず蹴散らす方針らしい。私たちのところに来た。看護の腕章を巻いている者がいて一目瞭然なのだが、殴りかかりジュラルミン楯を振り降ろす。「救護班に何する!」「無抵抗な女に何する!」「やめろーッ!」みな口々に騒いだ。私も暴行はうけたが頭は割られなかった。
そこに丁度、首都高速道路公団のマイクロバスが羽田方面から走ってきた。「運転手さん!助けて下さい。怪我人が居ます!」私は車の前にとびだして叫んだ。30代くらいか、若い運転手は、うなずくとすぐ車を止めて、マイクロバスのドアをあけた。そして7~8人のけが人を運び入れるのを手伝ってくれた。機動隊は羽田方面に移動しはじめている。運転手は大声で「ひでえことするなあ」と言いながら、どこに行けばいいのか?と、私に尋ねた。「この近くに個人病院はありませんか?大きい病院だと警察に知られるし、困るんです。お金は私がちゃんと大学にもどってすぐに即金で払います。」というと「よし、わかった。」と運転手は、車を走らせた。私たちが逆走して入った鈴ヶ森ランプから普通道に入って、奥まったところにあった個人病院に連れていってくれた。私がとびこんで院長に話した。「治療して下さい。今手元にあるお金をまず払います。これから、とんぼ返りして治療費を持ってきますから、こちらの怪我人を助けて下さい。警察には知らせないで下さい。私もこの怪我人の名前も知りません。聞くつもりもないんです。とにかく私が責任を持ちますからお願いします。」と訴えた。運転手は、怪我人を運ぶのを手伝ってくれた上に、自分のポケットをあちこちさぐって、あり金を差し出した。「これ治療費に使って下さい。学生さんたち、がんばれよ!」と言って行こうとした。「あ。名前教えて下さい。あとでお金返したいので。」というと「いや、いいから。一市民ですよ。それでいいでしょ。」と笑いながら「がんばれよ!」と怪我人に声をかけて去ってしまった。院長は年寄りだったが、「まあ若いんだから大丈夫だろう」と割れた頭を見ながら引きうけてくれた。
私はすぐタクシーにとびのって、お茶の水へ戻りお金を準備するとすぐ又大森の医院へとって返した。この大森に向かうタクシーの中で運転手から「あんたは学生さんか?今、学生が殺されたらしいよ」と教えられた。息を飲む思いで話をきいた。私には羽田近辺の橋の名前はわからない。いくつかの橋の上でデモ隊が羽田方面に向かい、機動隊と衝突した中で、学生が死んだというラジオニュースが流れた。殺された・・・。高速道路から突き落とす殺意は、橋のあたりでも、学生たちを殺したのだ・・・。運転手と話ながら大森の個人病院に戻って精算した。その後、居合わせた仲間たちと羽田の方へ行こうとしたが、どこも通行止めに合い、夜にお茶の水の学生会館に戻った。
「京大の山﨑君という人が殺された。抗議で萩中公園に行った」という仲間たちも戻ってきた。この日、共に闘った一人の学生が殺されたことは、だれにとっても大きな衝撃だった。ベトナム侵略に日本が加担することに反対し、佐藤訪ベトに抗議したことで虐殺されるなんて・・・。「命を賭けなければ、最早、闘えない時代になったんだなあ・・・」明大の仲間たちはため息をついてそう言った。理屈抜きにもう後へは引けないぞ、という気持が、みんなの中にみなぎってくる。「学校の先生になる私たちこそ、こういう闘いの中で日本社会の変革の担い手になるべきなんだ。」共に教師をめざしている仲間がそう言った。そうだ、これまでは明大学費闘争の延長上に活動してきたけれど、社会の一員として、先生になっても、社会を変えていくんだ!そんな一つの転機となったのは、この10月8日だった。
少したって、チェ・ゲバラがボリビアの山中で戦死したニュースが伝えられた。「二つ三つ、更に多くのベトナムを!」と呼びかけ、又「我々のことを夢想家というなら、何回でもイエスと答えよう」と語った人、ゲバラ。世界の若者たちを共感させ、心をつないだゲバラが戦死した。山﨑君と同じように、恐れず一歩前へすすもう。今は犠牲の中で革命が成就する時代なのだ。
求められたら、活動を第一に優先したい。そんな風に生き方定め、一歩踏み出した日。それが私の「10・8」だった。

2015年3月8日 記

【10・8山﨑博昭プロジェクト大阪講演会のお知らせ】
11月7日(土)開催の講演会「【大阪発】あかんで、日本!―理工系にとっての戦争―」は満席となりました。ありがとうございました。
当日、IWJで中継を予定しています。会場に来られない方はご覧ください。

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(終)

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