野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2015年12月

5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」第1回という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的に掲載することにした。
今回は「週刊アンポ」第5号に掲載された「市民運動入門」第5回を掲載する。

この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。

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【市民運動入門 第5回 吉川勇一 週刊アンポ  1970.1.12】
自衛隊員や警官にビラをまこう ーセカンド・フロントのすすめー
<羽田空港ベ平連>
佐藤首相訪米の取材前のことだった。「羽田空港ベ平連」をつくったが・・・とベ平連の事務局へ訪ねて来た人がいた。空港そのものに働いている職員である。すでに始まっていた気違いじみた警備状況についていろいろその内容を話し、これからの活動の豊富などを語って帰っていった。
 首相が発とうとするとき、政府が考え警察がやったことは、機動隊を出動させて羽田や官庁街をとり囲む壁をつくり、その中からデモ隊はおろか、国民全部をしめ出して無人の街にしてしまうことであった。そうすれば安全だと思ったのだろうか。
 だが、それは錯覚なのであって、無人の街とはいっても、そこには機動隊員はいたし、空港職員はいたし、飛行機の整備員も操縦士もいたのである。そしてそういう人びとは追い出し、しめ出すわけにはいかないのだ。そこにベ平連が出来ていたなどということは、支配層は夢にも考えていなかっただろう。彼らにとってベ平連とは、機動隊の壁の向こう側で黄色の旗を先頭にデモをしているグループとしてしか理解できないのだ。

<人間のいるところにベ平連>
だから、ましてや機動隊員の中や自衛隊員の中に「週刊アンホ」の読者がいたり、警視庁ベ平連や自衛隊ベ平連が出来てきたりすると仰天するわけである。
しかしベ平連の運動は、官庁や空港の職員の中であれ、そこに人間がいるところであるなら、どこへでも拡がり、はじまっていくものなのである。権力者はこうした人びとを人間とみない。道具であったり、壁であったり、計算機と考えたりする。市民運動はそうではない。権力機構の中におかれていても、人間であるかぎり、悩んだり、苦しんだり、ベ平連運動をはじめたりすることがあるのだと考える。この違いが権力者には最後までわからないのであろう。またわかったところでどうにも手のうちようもないアキレス腱となるだろう。

<機動隊・自衛隊の「第二戦線」>
米軍兵士の中における抵抗や反乱はますますひろがっており、アングラ反戦新聞は日本の各基地の中でつぎつぎと発行されだした。その反戦気分の拡がりは創造よりはるかに広い。本誌に連載された「基地の中の脱走兵」にもそれは詳しく出ていた。また12月26日、NETのモーニングショーで大泉市民の集いの朝霞反戦放送が紹介されていたが、放送に対して多くの米兵が指を二本出してV字の平和サインを示していたのには、あらためて驚いたほどだった。
在日米軍兵士の間で今話題になっている「WE GOT THE BRASS」は「セカンド・フロント・インターナショナル」が発行している。セカンド・フロントー第二戦線という意味は、つまり米軍を粉砕し、解体する戦いの第一の戦線がベトナム人民によるものということなのだろう。
機動隊のデモに対する弾圧が苛烈となり、自衛隊の治安出動訓練が激しくなるにつれて、その内部の動揺も次第に大きくなってきている。彼らも人間である以上、それは当然だと思う。とすれば、それらに対し、力をもって正面からぶつかる闘争と同時に、ここでも第二戦線がつくられてよいはずである。いやぜひつくらなければならないだろう。市民の中に不定形の拡がりをもつベ平連のような市民運動がそれをはじめるべきだと思う。

<機動隊のうた>
川内孝範が作詞し、橋幸夫がうたっている機動隊をたたえる歌「この世を花にするために」のレコードがビクターから出され、売れゆきは好評だという。とにかく警察が懸命に宣伝しているのだし、全国で約16万の警官が買うだけで大変な数にはなるだろう。
 だが、警官の間でこの歌が好評だとしたら、それなりの理由があるのだろうし、それが判るような気がする。機動隊のこれまでの歌というのは「暴力のやから騒げば 輸送車は地軸をゆすり 法守る聖なる怒り 精鋭の胸にたぎりて 出動は怒涛のごとし ああ力 我等機動隊」という勇壮きわまりないものだったが、今度の歌は「恋も情けも人間らしく してもみたいさかけたいが それすら自由になりはせぬ この世を花にするために 鬼にもなろうさ機動隊」とか「何をこのんでそしりを受ける 損はやめろといわれても・・・」とかC調でうたうもので、そこに人間としての哀愁が出ているからなのかもしれない。フォークゲリラの歌う「機動隊ブルース」の「政府をみごと守るため恋しちゃならない機動隊 平凡パンチの写真みて ひとりさびしく暮らすのよ」などという「砂をかむよな味気ない」話と実に裏表の関係があるようで興味深い。こういう歌がつくられ、はやるということ自体、機動隊員や若い警官の中の矛盾や動揺の増大を示しているのだろう。
 いささか脱線するが、ちょっと面白い話があったので紹介しよう。
 昨年12月6日のベ平連定例デモで、青山通りを渋谷に向けて行進中、機動隊約百人が規制に出動してきた。途端にデモの先頭のベ平連の宣伝カー・スピーカーから、この「この世を花にするために」のメロディーが流れ出したのだ。ところがこれは別のフォーク・クルセーダースの「オラは死んじまっただ」式にテープのスピードをわざと倍にしてあったので、せっかくの橋幸夫もピーチク・パーチクのような感じの唄になっていた。デモの方は大喜びで手を叩いていたが、一人の若い警官がサッと宣伝カーに駆けより、中に向かって怒鳴ったのだ。「オイ、このレコード45回転なんだぞ。SPでかけてんだろう!」
 どうだろう。この唄をデモの方がいただいてしまったら?デモのたび、機動隊が出てくるたびに、みんながうたうわけだ。案外機動隊をズッコケさせる効果があるんじゃなかろうか。元来、相手の武器をもらって使うのはゲリラの常道だろう。

<自衛隊・機動隊向けビラを>
 さて、本題にもどって具体的な行動について考えてみよう。米軍基地のあるところ、米軍兵士のいるところだったら、ぜひ英文の反戦新聞をまこうではないか。「WE GOT THE BRASS」や「KILL FOR PEACE」など、本誌創刊号で紹介されたアングラ反戦新聞はベ平連の事務所を通じても入手できる。横浜や横須賀のベ平連や、沖縄ベ平連、福岡ベ平連などはそういう活動をしているし、静岡各地のベ平連も昨年暮のクリスマスに熱海へ一斉に出かけて休暇中の米兵にこれをまいた。米兵の反応はかなりいいようである。
 米軍基地のないところでは、自衛隊員や機動隊員、警察官に対するよびかけを考えてみよう。警察官はどこにでもいるし、自衛隊のいない県はない。デモの時、出動してくる機動隊員にまく独自のビラも用意してみようではないか。彼らのやる非人間的行為を人間として断固糾弾するとともに、彼等のもつ人間としての矛盾をつくような人間的なビラを。
 自衛隊員、機動隊員を反戦運動の仲間にしてゆく活動は、1970年代の運動の重要な柱の一つとなることだろう。

【お知らせ】
年末年始(12月25日、1月1日)のブログとホームページの更新はお休みです。
次回は来年1月8日(金)になります。
また来年も見に来てください。

(終)

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差し入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
今回は「オリーブの樹」131号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「歌集“暗黒世紀”坂口弘」(角川学芸出版刊)】
(ブログ管理者注:日誌では歌の漢字に読みのルビがふられていましたが、見づらいので括弧に入れました。)
「歌集“暗黒世紀”坂口弘」を読みはじめました。
はじまりの章「冬の花火」に2000年の歌が集められているのですが、読みはじめて胸を衝かれぐっと涙をこらえる想いです。はじまりから哀しい。“二〇〇〇年一月一日午後一時弁護士辞むると怒りの手紙きぬ”“弁護士に去られし吾に追打ちの<恩知らず>なる誌上批判あり”“何やらむ冬の小菅の夜の空に数十発もの花火上がれり”この三首がまず最初の頁にあります。
坂口さんにとって2000年というのは「二〇〇〇年六月に裁判のやり直しを求め、再審請求の申し立てをしました」(あとがき)とあり、また同年11月8日、私は日本で逮捕されました。「冬の花火」の頃、私はまだ逮捕前ですが、のちに同じ獄という環境に在った分、これらすべての歌を生活史として読み、また実感するので、感情が溢れてしまうのです。獄の「死刑確定囚」の孤立感の中で弁護士とどんなやりとりか分かりませんが、驚きと苦しみにもう一人の自分が直視して詠んでいる姿がうかびます。
その後の方に“待ちまちし弁護受任をしらせくる電報をおし頂きて見る”“銭(かね)すこし差入れせむかと言ひくるるさても情(こころ)ある弁護士さんかな”と詠んでいて、やっと心開ける弁護士に出会えたことにこちらもホッとします。
そんな心境を経ながら再審にたちむかっている時、私の逮捕を知ったようです。“驚きをもちてニュースを聴きてをり重信房子が国内逮捕と”“昨日(きぞ)ありし重信逮捕は触れもせで朝まだき母は面会に来つ”と詠んでいます。続いて“文春誌になほ屹立(きつりつ)せる重信の父君の書きし達意の文かな”“<日本赤>と言ひてラジオは切られけり七十五年八月四日午後”など。父を詠んでいたのを知って、また涙が迫りそうです。父が当時の激しい非難糾弾の中で「重信房子の父として」と月刊文春に私を弁護する一文をよせました。はたちをすぎた大人が「確信犯」で行っていることで親を非難するのはおかしい。かつての戦前の赤狩りのような風潮」と淡々と記していました。それを思いだし、また坂口さんがそれを目にとめて刻んだ心根に嬉しくなってしまいました。
さらに坂口さんは私の逮捕から、かつて奪還闘争に自分が指名され、拒否し、現在があることを振り返りながら、その時のことも詠んでいます。“沈黙の間(ま)をしばらくは置きて言ふ<出国はせず>とただの一語を”“出国する者ら思ひて明けの空遠ざかりゆく爆音聞きをり”
坂口さんは「あとがき」で次のように記しています。
「再審請求を申し立ててこれまでのくらしに区切りがついたため、過去を振り返ってみました。遠い昔に、過激な路線ともまた組織とも手を切り、その結果として出国拒否にいたったこと(1975年)、一審死刑判決(1982年6月)と同判決をめぐる出来事、そして長年の間筆者を支えて下さった恩ある方への追悼などを取り上げ作品化しました。
また昔からの牢のくらしの折折の感慨も歌に詠んでみました。
幼稚ではありましたが、政治闘争をした端くれとして、またマルクス主義は放棄したもののリベラリストでありたいとする願望から、政治問題に対する関心をなくすことができず、アメリカによるアフガン戦争とそれに続くイラク戦争に関わる素材を極めて少数ではありますが、取り上げて作品化しました。
本歌集が扱った8年間(注:2000年から2007年)、死刑執行は空白をつくることなく、毎年判で押したように着実に行われました。当事者として嫌でたまらないこの素材は、できることなら避けて通りたいと願っています。しかし、そうしたらこの歌集は価値が半減するでしょうし、何よりも国により生命を絶たれた人たちへの申し開きができません」と。
さらに死刑制度批判、本歌集のタイトルの説明をしています。
「このタイトルは、実は歌集の内容を反映したものではありません。それは新世紀である二十一世紀を特徴づけるのにふさわしい言葉として、筆者が選んだものなのです」。「それは人類に束の間の繁栄をもたらしはしましたが、本当は人類を滅亡に導く呪うべき文明なのではないでしょうか?」と産業革命以来の産業社会批判としてタイトルを示しているとのことです。
2000年から2007年までの作品334首を収録していて「跋」は佐佐木幸綱氏が2007年の歌集「常しへの道」に続いて記しています。そして佐佐木氏は母をうたう歌を特に評価しておられます。“縮みたる母の身体に縮まざる大きな双手がいつも目に付く”など六首をあげ、「坂口の歌はどれもまなざしがやさしいが、母をうたう歌は特にやさしい」と評し、坂口さんが2007年で歌を終わらせたことにある区切りの意味があったのではないかと思わせられるとして、2008年93歳で母菊枝さんが他界されたと記しています。「著者は、母の死を、自分の人生の大きな区切りと考えたのだ。そう思いつつ、私はあらためて坂口の母の歌を読みかえし、人生というものを思うのである」と跋文を結んでいます。
どの歌も自分のくらし、心境をさらけ出し、時には悔・感謝を、時には憤りやこらえがたい思い、そうした自分を切りとるように詠んでいて「坂口弘」という人がどんな人なのかがわかるような気がします。
2000年の「冬の花火」に続いて詠まれている歌から私の心に残ったものを記していくと以下です。 
「新世紀」2001年 “弁護士にわれ恵まれて存(ながら)へたり恵まれず逝きし死囚多かり”。
「国民の敵」2002年 この年は佐々淳行原作・役所広司主演のあさま山荘事件の映画が宣伝された年です。“紙(し)をくればわれに攻めくる機動隊のあさま映画の大広告あり”“名指されて<国民の敵>と役所氏の指弾受くるとは思はざりしかな”“佐々書きし過誤あまたなるあさま本をべた賞(ほ)めしたる作家もあるかな”“人質を利用して逃ぐる企ては左翼なればこそ思はざりけれ”一方的なストーリーに対する静かな怒りが詠まれています。
「新獄舎」2003年 “国家より死ねと言はれて十年経(へ)ぬ十年経しかと今さら思ふ”“判決にて<自殺もせずにおめおめと逮捕され>とかく嘲(あざ)けられしかな”“総身より血の気が引きて総身を死のホルモンのごときが満たしぬ”(一審死刑判決をいひ渡されて)“死囚なる身分となりてしばらくは地に足のつかぬ生活(くらし)をしたり”“逆立ちを二年ぶりにせり水流の錆(さ)びし鉄管にほとばしるごとし”
「ときの淘汰」2004年 “小菅の空仰げば思ふ虹を見たし一度なりとも見たしと思ふ”“亡き指導者がわれを誘はむと摑む手を怒りて払ふつづけて見し夢”
「派兵」2005年 “屋上に逆立ちすれば足うらに冬の陽あたりこころ温(ぬく)もる”(私がこの歌集で一番好きな歌です。)“イラク派兵かくも安易に決めたるをいつか悔い深く省みをすべし”
「水琴窟」2006年 “あらざるにわが子の名前を考へをり死刑囚にして独り身のわれが”“ああ便器水琴窟となりぬらむ滴(したた)れる水の音のすがしさ”“上告をわれに促さむと三日続け小菅に来たまひ驚かされぬ”“三十八年われにより添ひてをりをり助言をしてくれ給ひき”
「生存死刑囚」2007年 “人生の節目のをりも正装して過すことなき人屋の生活(くらし)”“新聞に生存死刑囚と書かれをり魂すでに亡きがごとくに”“落ちこめるときわが本の苦しかる総括場面を読みて癒せる”“なりたきは総理と書きて笑はれし小学四年のわれなりしかな”“何ありともこの花のみは裏切らぬと金木犀の香を深く吸ふ”
昔の闘いの日々、更には公判での様々な難しさ、奪還を拒んだこと、そして獄での思索と作歌、想像しきれないことももちろん多いですが、身につまされることもまた多々あります。強く心に響く歌集です。 

虹みたしと拘置所の狭き空仰ぐ
坂口弘のくらし哀しも  
(7月22日)

<出版社の紹介文>
獄中から暗黒の世の中を問う--死刑囚からのメッセージ
死刑判決を受けたあさま山荘事件のことや、獄中から見た世の中をせつせつと詠いあげる。おのれのためでなく死刑廃止を願う真意とは。〈あらざるにわが子の名前を考へをり死刑囚にして独り身のわれが〉。
発売日:2015年03月23日
定価(税込): 1944円
四六判
角川学芸出版

(終)

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