野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2016年01月

昨年5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的に掲載することにした。
今回は「週刊アンポ」第6号に掲載された「市民運動入門」第6回を掲載する。

この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。

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【市民運動入門第6回 「ベ平連として」ということー開かれた行動の場をつくろうー   吉川勇一 「週刊アンポ」1970.1.26】

<「ベ平連」として」とは何か>
 べ平連の事務局にはいろいろな電話がかかってくる。講演の依頼、スケジュールの問い合わせ、バッチの注文、さし入れのやり方の相談、午後になると二本の電話はひっきりなしに鳴り響く。そんなさまざまな電話の中で、いつも私がひっかかるのは「ベ平連としては」という言葉である。たとえば全国全共闘の結成大会が近づくと「ベ平連としては参加するんですか」という問い合わせがある。糟谷君の人民葬がある。そうすると「べ平連としては行くんですか」という電話が沢山の人からかかり、そのたびに私は考えこんでしまう。この「としては」というのはどういうことなんだろう。
 同じようなことだが、挨拶の依頼も最近ずい分多い。○○○決起集会にベ平連として挨拶に来てほしい、とか、○○○ティーチ・インにベ平連として講師を一人出してほしい、というような電話。
 どうやらベ平連を政党や労働組合のように考えているのではないかと思う。この欄の第1回目にも書いたが、ベ平連は団体ではないから、労組や政党のような機能がないし、「中央委員会として・・・を決定する」ようなことがない。小田実と吉川勇一とがいて、黄色のベ平連の旗が立っていれば、それでベ平連として参加したことになるのか。そんな馬鹿なことがあるはずはない。
 ベ平連にかぎらず、反戦市民運動はイデオロギー的一致はない。実にさまざまな思想の持ち主がいる。市民運動、一般やベ平連への評価も当然それぞれの人によって違うのである。だからベ平連としての議論など出ようがない。小田実だの鶴見俊輔だの、いいだ・ももだの、小中陽太郎だの、沢山の人が講演をしているが、みんなそれぞれのベ平連運動にもとづいてやっているので、その内容も考え方もえらくくいちがっている。それでいいのである。だから「誰でもいい、ベ平連から一人来て話せ」などという注文が来ると、本当にこの人は誰の何の話を聞いたのか、と困ってしまう。とくに「有名な人なら誰でもいい」なんていわれると気持ちは判らないでもないがウンザリしてしまう。政党ならそういう注文に喜んで応ずるのだろうが、ベ平連はそうはいかない。結局、意地が悪いようだが、依頼者に希望の人の名前を挙げてもらい、こっちではその人の住所や電話を知らせるだけで、交渉はすべて直接やってもらうことにしている。つまり誰でもいいからベ平連として一人という依頼はお断りしているのである。

<開かれた行動の場>
 ところで、最初の問題を考えてみる。「ベ平連としては参加するんですか」という問合わせ。その問はどんな答えを予想もしくは期待しているのだろうか。ベ平連として参加するなら、自分は行く。ベ平連がいかないなら自分も行かない。そうなるのだろうか。そんなことが、自発性を重んじ、個人原理にもとづく市民運動にあるはずがないではないか。誰からも命令されなくても自己の判断でやらなければならないことは一人での実行してゆく。また、どんな大宣伝が行われても自分の判断で間違いだと思うことは決してやらない、それがこの運動のあり方なのである。もちろん、私はこの姿勢をすべての運動に普遍化すべきだというのではない。集団行動の約束や団体の規約を自ら認めて加わった場合、それを尊重し、場合によっては多数意見に少数が従って行動することも当然ありうるだろう。ここでいいたいのは、その場合であっても、その規約や約束はあくまでも主体的に自分が承認したのであって、決して自分の判断を人に預けたのではないということである。
 とすれば、電話の問合せを何と考えたらよいのか。集会やデモには、一人で行ったのではとての参加しにくいものがある。私自身も経験した。原子力潜水艦が横須賀に入港する。抗議集会が臨海公園であるという。沢山の人が集まっている。旗も多い。いよいよ出発。順列の指示がある。まず地元横須賀地区労、ついで官公労、民間労組、あるいは南部、中部・・・などという順序。最後に民主団体と学生団体という。一人で出かけていった者、誰でも入っていい隊列など最後まで案内されない。みんな最初からどこかの団体に属している人ばかりなのだろうか。ウロウロしてどこかの隊列の後に遠慮しながらくっつく。そんな時、「誰でも参加できるデモ、声なき声の会」などという旗を見た時の嬉しさ。ホッとしてそこへ飛び込む。
 「ベ平連として今度のデモに参加するんですか」そういう電話は、そうした開かれた行動の場があるなら、ぜひそこへ加わりたい、と希望する積極的な行動への意欲の現れのはずなのだろう。
 たしかに、ベ平連のデモはいつも開かれている。誰でも参加できる。ベ平連がデモをするときは、はじめて参加した人はここへ、個人で加わって来た人はそこへ、というふうに必ず案内する。

<プラカードをつくろう>
もう少し考えてみる。個人での自由に参加できる場を求める。そうなのだろう。その場合、もちろんデモの趣旨は賛成しての上であることははっきりしているが、それにしても、それぞれ参加する立場がいろいろあるはずだし、いいたいこと、表現したいことが一人ひとりにあるはずだ。多様な行動とはいっても、一人ひとりの思想の違いに厳密に応ずるだけのデモの形態の違い(たとえば静かに歩く、ジグザグをする、フランス・デモをするなど)の数はない。とすればぜひとも自分の意見を表現するプラカードが欲しいと思う。この欄の第二回でも書いたが、プラカードの数は最近目立って減っている。創意と個性にあふれたプラハードをつくろう。旗・差物のたぐいもいろいろ工夫できるはずだ。エンタープライズが入港するのに抗議するデモだったから、もう二年ほど前のことだが、葛飾ベ平連の阿部さんは、動くプラカードをつくった。とても評判がよかった。

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<誰でも参加できる場所>
もうひとつ考える。多くのデモで個人が参加しにくいのなら、参加しようと思った個人が、そういう場を自分からつくろうではないか。昨年の10月10日の大デモの時は、そういうプラカードや旗がいっぱい登場した。曰く「個人グループ」曰く「体力には自信がないが反安保の決意は堅いグループ」、「あらゆる分類を拒否する人のグループ」などといういささか矛盾したような分類のグループの旗もあった。自分たちが主催するデモの時、そうした新しい参加者やまったくの個人で参加した人たちの加われる場を用意するのはもちろんのこと、他の団体が主催するデモに参加する時、同じような参加のしかたをする人びとのことを考えて、そんな旗やプラカードをつくって持ってゆこうではないか。
 昨年の6月の新宿西口広場の集会でのことだった。その日は機動隊が出動し、西口地下広場や、付近一帯は騒然としていた。その時、武蔵野市から参加した一人の人が「武蔵野ベ平連」と書いた旗をもって歩いたという。実際はまだ武蔵野市にベ平連は出来ていなかったのだが・・・。
 ひとわたりウロウロしたら、その旗のうしろに数十人のグループができていた。みんな武蔵野市付近の人で、知り合いはなく、個人で西口の集会に来ていた人ばかりだった。そして武蔵野ベ平連は実際にその人びとによって誕生した。
 私にも似た経験がある。二年前の佐世保のことである。東京から小田実と私の二人だけが佐世保に行っていた。デモは沢山あったが、みんな総評や共産党、社会党主催のものばかりである。さっそく小田実が大きな看板をつくった。その日の午前中、小舟に乗ってエンタープラーズのまわりをまわった時、その小舟にのっけた英文入りの看板のウラを使って「どこへも入るところのない人、いっしょに歩きましょう。エンタープライズに抗議して」と大書した。二人でかついで集会の場所まで歩いた。やがて数百人の人が加わって隊列が出来た。その日の夜、これらの人びとの中から世話人が出て、佐世保ベ平連がそこに誕生した。

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 「ベ平連として参加するか」という問い合わせをすることを批判しているのでは決してない。しかし、自分がベ平連なのだから、そんな旗かプラカードをつくって、同じような人びとを誘うこともぜひやってみようではないか。

(つづく)

以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった(写真)。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開していく予定である。
今回は、第一部第3章である。

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(「さわさわ」)

【1960年代と私*目次 重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (2015.10.23掲載済)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)(今回掲載)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き

(以降、第2部、第3部執筆予定。)

【1960年代と私  第一部第三章】
三、大学時代-65年
1.大学生活
大学に入って、 私が当初もっとも興味を待ったのは、文学研究部と雄弁部でした。文学研究部は、私白身高校時代には、文芸部で、短篇や詩、作文などを書いていたし、キッコーマンに入社してからもその気持ちが残っていました。千葉の本社の文芸誌「野田文学」を発行しているのに参加していたので、その延長上に興味をもっていました。史学科なので小学校の先生か歴史の先生になり、歴史上の人物で悪者とかいわれている人々に実は、悪者ではなかったのではないか、とか、歴史の敗者を、公正に浮かび上がらせるような小説を書いてみたい。そんな思いもあって、文学研究部略称「文研」に入りました。このサークルの人たちは、ほとんど進歩的ながらノンポリで、いわゆる日共・反日共の政治活動には興味を示さず、もっぱら、純文学中心の系譜のようでした。1960年、倉橋由美子が『パルタイ』で、明治大学の学長賞を受賞し、その後、文芸誌に転載され、芥川賞候補になったことから、それに続こうとする気概があったし、かなりの書き手が何人もいるようでした。
 明大には、本多秋五や舟橋聖一なども教授陣にいたし、近代文学の戦後の主体性論争とか「近代の超克」とか「文学における戦争責任」など講義や討論や小林秀雄論など、それぞれが、分科会で、学習研究していました。各々が作品を書いては、その作品の品評を行い、また「駿台派」という文研の同人雑誌を発行していました。私は、高校時代『橋のない川』を読んで、こんな世界が日本にあったのか…と差別支配に大きな驚きを受けて以来、高校では、差別とか人間の葛藤を子供の目線から、いくつか短編を書いてきていました。それで、そんな作品からまず書き始めてみたかったのですが、文研は、そういう児童文学の雰囲気はありませんでした。丁度、新聞で児童文学「こまの会」という会合が、水道橋辺りであると知って、どんなものか行ってみたことがありましたが、失望しました。身内の人々らしいわけのわからない会話を交わしながら、煙草の煙もうもうとする中で、児童文学に関する話は、一向、出てこなかったためです。19才の私は、失望してしまいそれっきりでした。それで、当面は詩を書くことにしました。高校時代に、書いていた延長上のものですが、情念を言葉に置き換えてみたかったからです。後に65年、明大新聞に一年生の時、短編で応募したこともありました。『くちなわの声』という小説です。本当にあった話ですが、日韓闘争のデモで、国会前に座り込んだ時のエピソードです。スクラムの隣にいたはずの友人が機動隊のごぼう抜きの実力行使が直ぐそばに迫った時、いなくなってしまいました。後に、彼は被爆者で、白血病だと告白し、血が止らなかったらどうしようと、怖くなったと話をしてくれました。その時のことを書いたのです。
阿部知二教授から、なかなかいいから書き直して持ってくるようにと、幾つか指摘され
ましたが、そのままにしました。何かそこまで熱中して短編を書き上げる気持ちが失せてしまったようです。中途半端でした。

2.雄弁部
それからもう一つは雄弁部でした。私は、雄弁を好きだったわけではなかったのです。それでも小学校時代ラジオを聞きながら、好きだった秋山ちえ子さんみたいに自分の考えを人に語れる人がいいなと思っていました。弁論で、人を感動させることにだんだん興味を持ちました。私が弁論をやるようになったのは、姉の影響です。高校になって、一年生の時、弁論大会で「学生の特権について」の題で弁論大会のクラス代表の役を指名されてしまいました。姉に論旨を書いてもらい丸暗記して、優勝したことがありました。やりだしたらおもしろく、高校三年生の時、「青年の主張」にも参加しました。
その延長で、大学でも雄弁をやってみたいと思って部室を覗いてみました。ところがこの、明大雄弁部はマッチョの溜り場のようなところでした。当時、何処の大学雄弁部も同じだったのですが、政治家を目指す人々の集まりのようでした。政治家になるための、演説の弁論、しかも、マイクを使わない地声の、明治時代の演説会を思わせるバンカラです。良く声が通るように発声練習などをしていて、女性の部員は一人も居なかったので、がっかりでした。しかし、当時は、大学の弁論部は、各大学、全国の弁論大会があるので、同期の交流もあります。各地の選挙運動に呼ばれるし、弁論部は引く手数多のアルバイトの出来るところでもありました。
 私は入学してすぐの4月か5月に、インド大使館主催のネール記念杯に応募しました。「論文審査を一番で通りました」といわれ、いい気になって弁論大会に臨みました。早大大隈講堂で決勝大会が6月頃行なわれました。「ネールとガンジーの非暴力による変革」が私の諭旨でした。会場一杯に、早大生を中心に人々は溢れかえっていました。しかしマイクのない旧来の雄弁方法の大会でした。私は、マイクがないと遠くまで声が届きません。発声練習もしていないので、論旨はよくても、弁論で一番にはなれませんでした。私の弁論を野次った人が「野次賞」を獲りました。「ディスクジョッキーじゃないぞ!」という野次だったのを憶えています。
 私が、このネール記念杯に参加したのは、優勝がインド招待だったので、インドに行ってみたいという思いからでした。ガンジーを読み“非暴力の変革”を貢いた姿勢に共感したためにその「非暴力による変革」を論旨としたものです。
当時は、大学弁論部には、東京でも女性がほとんどいなかったので、ネール杯以来あちこちから、何処で聞きつけたのか、明大雄弁部に、選挙のアルバイトが舞い込んできました。各地の選挙の為の“ウグイス嬢"とか“女弁士"のアルバイトです。私も神奈川・福島・町田など興味津々で、他の大学の雄弁部員と競い合って演説したものです。不思議なもので、事務所に行って話を聞くと、この候補者は落ちるだろうというのは、直ぐにわかります。それでも、高額(当時でも一日1万円位)で引き受けるのです。その候補者の取り柄や略歴を聞いて、それから演説用の短い論旨を三つか四つ練り上げて、候補者にくっついて車に乗ります。駅前とか団地で、車を停めて降りると、私たち弁士は、数人のサクラの聴衆を始まりとして、より多くの聴衆を集める為に熱弁を振るうのです。準備した論旨を順に叩き込んでいて、臨機応変に、幾つかのバージョンを切々と語り、そして、候補者を紹介します。候補者をたてるのもなかなか難しい。もうこれは、望みないなどと判る場合でも、アルバイトの雄弁部の学生同士では、どっちの応援演説が聴衆を集めるかとか、どっちの話が団地の窓を多く開けさせるかとか、競い合うのです。夜、私たちの演説が始まると、明かりの点いた団地の窓が、がらりと開いて聞いてくれるのです。そのために、訓話とか、歴史話とか、聞き耳をたてたくなるように話を続け、最後に候補者を持ちあげる方法を使いました。私も、早大や中大の雄弁部の弁士と何度も団地の窓を開けさせる演説競争を楽しんだものでした。
そんな楽しいアルバイトは、私がキッコーマンを辞めてからでしたから、66年くらいからだったと思います。66年、20歳の時、町田で“私は二十歳になりました。初めての選挙です。二十歳の私の投票したい人を見てください"と友人の父親の応援演説をやっていました。

3.婚約
こうした活動を通して、65年から66年にかけて、私はある大学の仲間と結婚しようと約束しました。外国に行っていた彼が帰国するのを羽田で待っていたある日のことです。たまたま隣で雑談していた、地方から息子を迎えに出てきた田舎のおじさん風の紳土が、偶然、彼の父親だったのです。彼が、通関して来合わせて、父親と知ったのですが、父親は地方の自民党のボスでした。私のことを、‘政治家の妻に相応しい。直ぐに手をつけろ。貧乏人でも素性はかまわん”と言って、当時、定宿にしていたホテルに部屋をとったというのを、息子である、誠実で真面目な彼から聞きました。それを聞いて、無礼千万とカンカンに怒った私は、帰ったのですが、それがまた、その自民党ボスの父に気に入られてしまったようでした。そんなことを経て、二人の間では婚約することにしました。
「世の中を良くしたい、日本をかえて、もっとよい社会にしたい」。それは、父と語り合った私の願いであり、また政治家を目指す彼とも、共通の願いでした。この65年の頃には、ガンジーを語るように私には、変革の方法はあまり分からなかったし、左翼的に物事を考えていたわけではなかったのです。フィアンセと日本をより良くすることをお互いに語り合い、父親が来ると一緒に派閥のボスの屋敷にもついて行ったこともありました。
学費闘争が66年に始まると、だんだん「世の中を良くする」方法や実現の仕方において二人の間に、埋めがたい溝が出来たように感じました。私は自民党内の変革では貧しい人々は救われることはないと思いました。大学で先輩たちから習い始めた「階級」や「革命」をリアルに実感し始めていました。彼は、寛大にも、私に自分の信ずる道をすすむことに賛成だと言いました。「でも日本は、暴力革命も受け付けないし、自民党の改革以外に変化は、あり得ない」と主張していました。彼は、金持ちだったから根源的な貧しさを分かっていないなあ、そんな思いで距離が出来ていくようになりました。婚約者と会う度に論争し、論争する度に、私には、よりラジカルな革命こそ求められていると、思いを深くするようになりました。後に、こうして婚約を一方的に私の方は取り止めてしまいました。
彼は、「君が、今の左翼的やり方では、日本を良くすることは出来ないと考え直して、戻ってくるまで、待っているよ」と、笑っていました。
後に彼は父親を継いで政治家となり、議員になりました。2000年に逮捕された時、何処で聞きつけたのか、検察は、ある議員の名をあげて、婚約者だっただろう、と聞いていました。とにかく雄弁部の世界は、政治家に繋がる世界で、それもまた、当時の私にとっては楽しい世界でした。

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(日韓条約反対デモ1965.6.22)

4.デモ
文研と弁論、加えてクラス討論や夜学研のメンバー(夜学研というのは夜間大学の学生自治会の連合をめざしていて、昼間部の全学連と違って、働く学生たちの自治や改善、連帯の為の研究サークルのようだった)と社会や世界を語り大学の学問の自由や自治を語ることが生きている実感のように楽しいものでした。そんな中から、ベトナム戦争に反対して、5月か6月、初めてべ平連のデモに参加しました。 それから後、日韓条約反対のデモが激しくなり、文学部自治会に誘われて、国会に向けたデモにも参加しました。国会通用門のところに座り込み、国際学連やインターやワルシャワ労働歌を歌いながら、お互いに地面に座ってスクラムを組んで、ごぼう抜きに抵抗していました。
「斎藤君!都学連委員長の斎藤君、君ら学生たちの行為は違法です。直ちに解散しなさい。解散し、引き揚げない場合には、実力を行使します。」
投光機が放射状にデモ隊を焦点に光を投げかけると、夕暮れの暗闇に浮かび上がった都学連委員長の斎藤君(明大・66年初代再建全学連委員長、後に明大学費闘争のボス交によって失脚した)が、当時の公開録音のプロデューサーのように、右手を振り上げてまわし、抗議の仕草で合図をすると、何百人~千人位の座り込みの学生部隊が呼応します。「ナンセーンス!我々は闘うぞ!」と機動隊に向かって叫ぶのです。夜の真剣勝負は荘厳でした。その野外劇場のような情景に圧倒されます。
そのうちに、「これから君たちを排除します!」と、警察は宣言すると、座り込みの私達は、ぎゅっとスクラムを組んで互いに繋がっている隊列を、さらに強く握り合います。そこへ、機動隊が、ゴボウ抜きのようにに引き剥がしながら排除していくのです。引き剥がすと二人の機動隊員が一人ひとりの両腕を捕って1 00メートルほど先の交差点の方に連行し、そこで放します。私たちは、また、知らない者たちとスクラムを組み反撃しようとしてデモの隊列を組む、というイタチごっこが続くのです。そんな風に、日韓条約批准の頃まで、盛んに闘ったものです。
 当時は、捕まることは無かったし、直ぐ釈放されました。指導者が捕まっても数日で、直ぐに出てくるのが常識であったのです。社会党・共産党・国鉄労働者・日教組など、大勢のデモが、国会での論戦とあわせて院外でも、盛んに繰り広げられていました。権力側も、そうした反体制運動の総体の一翼として学生たちへの弾圧にも、無茶は出来なかったのです。今の、デモやビラ配り、落書きへの警備弾圧はひどい警察国家の姿を示しています。

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(明大駿河台7号館付近の様子)

5..初めての学生大会
入学後、65年5月か6月か、明大全学自治会の学苑会の学生大会が開かれることになりました。日共系学苑会執行部の人たちがクラス委員を選んで、大会への参加を呼びかけるようになりました。そうすると、一方、反日共系の方は、この日共系の学苑会は"正統性を失っており、ボイコットすべきだ"と主張し、ビラを撒いていました。文学部自治会としては、大会をボイコットするようにと、クラスに呼びかけています。両方が、授業の合間に教室に来てはオルグ合戦し、かち遇っては論争しています。それをみていて、私たち入学して間もない史学科日本史専攻としては、どうするか話し合いました。そして今回は、代議員を大会に出すことはやめて、出来るだけ多くの人が大会にオブザーバーとして参加することにしよう、と決めたのです。そんなわけで、40人ほどのクラスの8割くらいがオブザーバ一席に参加して、大会の成り行きを見守ることになりました。
大会が始まり、資格審査委員が参加代議員を読み上げて大会の成立を告げました。ところが、日本史専攻の代議員としでクラスのSさんが座っていました。彼女は、高校時代から民青だと語っていて、学生大会への参加を強く主張していた女性です。この一件を通して、私は日共の友だちに対して批判的になり、反日共系に肩入れしていく出発点となりました。
大会成立を告げる議長に、「異議あり!」と挙手をして、私は発言を求めました。オブザーバ一席に、白い帽子を被り、紺に白の水玉のワンピースの見かけない女の子が手を挙げたので、思わず議長は私を指したのでしょう。当時は、キッコーマン出社スタイルの流行りの出で立ちのままで、大学に通っていました。オブザーバー席から、20メートル以上ある階段教室の600人収容の大会場の前までやっと辿りついてマイクの前に立ちました。そして、私のクラスでは大会には、代議員を出さずにオブザーバーとして参加すると決めた。そして今日本史のほぼ全員がオブザーバ一席にいる。にもかかわらず、Sさんが、1年日本史の代議員となって座っているのは不当であり違法だと訴えました。 私の発言の趣旨がわかりはじめたところで、「うるせーこのガキ!」と野次が飛び「トロツキスト!」と罵声が飛んだのには吃驚しました。「あなたたちは人の話も聞けないのですか?!」とやり返しているうちに、今度は、オブザーバ一席にいた反日共系の学生たちが待ってましたとばかり、一挙に壇上に駆け上がりました。そして議長や壇上の日共系の学苑会高橋委員長以下を殴りつけました。その上、「シュプレヒコール!この大会は不当だ!」「デッチあげ大会粉砕!」などと叫びます。スクラムを組んで「ああインターナショナル」とインターを気分よく歌い上げると、スクラムを組んでデモ行進しながら退場してしまいました。私たち一年生はあっけにとられていました。倒れていた日共系の高橋委員長はマイクをとり「学友の皆さん、見ましたか!これが暴力集団トロツキストの正体です。さあ、民主的な我々のもとで大会を続けましょう」と、呼びかけると、「異議ナーシ」の合唱のもとに、学生大会は議事進行し、スムースに日共系の議案と人事を採択して、終ってしまいました。
何のことはない。大人と子供の勝負みたいなものだったのです。私は日共系の誤魔化しはまったく許せない欺瞞だと思いました。同時に、反日共系の自己満足的なやり方では、学生を結集させられないと思いました。ちゃんと計画を立てて、日共系から秩序に則って、学苑会を取り戻すことを考えるべきだと思いました。先輩たちにそう言ったのですが、そんなことは無理だと一喝されました。そうかな、でもやってみる価値はある。そんなに難しいことはないと思う。この一年生の時の、学生大会における日共の誤魔化しが、私を反日共に追いやりました。そして、学苑会を日共系から奪回するために、数年かけてもやってみようと思うようになったわけです。もちろんそれだけを目的にしたわけではなかったけれど、日共からの奪回を日指しはじめました。
頼まれてやり始めた文学部の自治会の執行部はやめて、文研から出向する形で研究部連合会執行部に加わろうと思いました。ここなら、各サークルをオルグして文学部以外とも協力して日共との論争をも全校的に行えるからです。

6.研連執行部として
 研究部連合会、通称「研連」は、もう幾つのサークルがあったのか忘れたが、20位のサークルがあったと思います。各サークルには大学側や自治会費から助成金が出て、研連執行部が予算を管理配分し、研連の活動の自治を保証していました。反日共系の人たちは、この研連は、民青の牙城だと言ってオルグもしていません。私はそうは思いませんでした。自分の文研サークルも民青が牛耳っているわけではありません。実際、研連の執行部に加わってみると日共系の人は、執行部の半分くらいのものです。それも「ゴリ民」というより、日共シンパのような人たちだったのです。
研連執行部として、活動にもっとも必要なことはサークル活動の保証とサークル相互の支援を強化することなど、当たり前のテーマで活動していくと、日共も反日共もない、みな友好的な仲間でした。そんなに、日共系の人が多くないと判ったと同時に、政治研究部や近代経済研究部などには、社会党系とか学内の反日共系とは一線を画して昼間は労働しながら、職場で組合運動や活動している人たちも、多々いるのが分かりました。そして、日共批判の理論的研究をしている仲間がいるのもわかってきました。
そうしているうちに、66年、明大でも早大に続いて学費値上げが語れ始めました。以降、学費値上げの白紙撤回を求めて、学費闘争が始まります。
この学費闘争の始まりは、今から思えば、これまで、60年安保闘争以降、日共系が牛耳っていた学苑会を、私たち研連を中心として、反日共系が学苑会を奪回する学生大会となっていきます。66年秋のことです。
この頃には、もうキッコーマンでの正社員としての仕事と大学の両方がこなせなくなって、2年近く勤めたキッコーマンは、20歳の冬に退職していました。そして、当初は、世田谷の中学の学区域にあった経堂の伯父の家から大学に通っていました。それでも夜10時の授業のあとの研連の活動や文研の会合は最終便にぎりぎりです。0:20分の新宿発の最終で帰ってくる私を、門の外で待っていてくれる子供のいない伯母の優しさが申し訳なく、気づまりになって、そこを出て小さな下宿を借りることにしました。婚約者とは、日本を変えるために、自民党を変革するという彼とラジカルな革命を求める私で、会う度に論争になっていた頃です。
この学費闘争を巡る秋、私は21歳になります。
私の20歳は丁度、大学に65年に入学し、デモや学生大会、雄弁や選挙運動、婚約まで経験しました。「自分の限りない献身や尽力が、社会や人々の力になる!」というとても一方的な「信念」に燃えていた20歳の時代です。

(つづく)

今ではちょっと考えられないが、1969年11月の佐藤訪米阻止闘争の直前、「週刊読売」の臨時増刊号が出版された。まるまる1冊、当時の新左翼の活動に関して特集したものである。
内容は「学生は発言する 11月決戦 70年安保の戦術と戦略」「本誌独占『獄中記』真実という重荷を背負って 秋田明大」「『守り』から『攻撃』へ 転換する警視庁機動隊」「暴徒制圧!自衛隊は出動するか」「激化する高校生全学連」などの記事が掲載されている。
「学生は発言する 11月決戦 70年安保の戦術と戦略」については、以前、このブログでも一部紹介した。
この週刊誌の中に、明解「風雲・花の全学連用語辞典」という記事があるので、今回はこの記事を紹介する。

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【明解「風雲・花の全学連用語辞典」 赤塚行雄(前・日大助教授)1969.11.13週間読売臨時増刊号】
<ア行>
アオカイ 社青同解放派のこと。

圧殺 不正入学に反対する高崎経済大学の闘争を描いた映画に「圧殺の森」というのがある。岩波映画労組や反代々木系全学連などの協力でつくられたもので、苦悩に満ちた闘争を「敗北の相」において描き切った傑作といわれる。
 圧殺とは押し付けて殺すこと。「学校当局はッ、僕らにッ、卑劣なッ、恫喝を加えッ、意見をッ、圧殺しッ・・・」

アンポ後遺症 60年安保後に起こった、さまざまな現象をさして、アンポ後遺症と総称する。発狂、自殺、転向、フーテン、裏切り。民青の「敗北不感症」も、中核派や革マル派の「憎しみボケ」も、やはりアンポ後遺症だという。
 「心情的にはよくわかるんだ」などと言っている三十代、四十代の教師、ジャーナリストに対し、「あの野郎、妙に感情的なチョロイやつだな。アンポ後遺症じゃねえか」などと陰口をたたく。

一点突破の全面展開 ひとつの闘争に全力をあげ、それを突破口にして、闘争を全面的に拡大すること。もともとは社青同解放派の戦術論であったという。

エンプラをポチョムキンへ ベ平連のように「脱走」を“おすすめ”したり“お願い”するのではなく、エンタープライズの乗組員自身が、戦艦ポチョムキンの水兵たちのように決起し、士官を逮捕し、砲塔をアメリカ帝国主義に向けよ、というもの。武装蜂起準備委員会関東地方情宣局(通称プロレタリア軍団)が佐世保闘争の際に出したアピール。
 いささか現実ばなれした観念論なのであるが、そこがプロレタリア軍団の魅力だという人たちが多い。発想が文学的で、ロマンチックな印象があるからであろう。

おんな革マル “逃げの革マル”ともいう。東大・安田講堂攻防戦の前に逃げ出したというので、各派は革マルを悪く言う。しかし「行動の中核・社学同、理論の革マル」などとも言われ、革マルは理論面でリードしているという見方もなくはない。
 特に強気の社学同は革命的左翼の大連合体を結成し、70年安保へ向かっての「大全学連」構想を練りはじめたが、その際も革マル派は除外された。

お授け主義 ラジカル(radical=語源ラディックスは「根」のこと。つまり根本否定)な学生たちは、教授の提案をお授け主義として拒否する。説得はお授け主義で、うっかりしていると親がわりの政策で、がんじがらめにされてしまうと考える。

<カ行>
街頭戦と陣地戦の結合 社学同が提唱した戦術。羽田、佐世保、成田、王子などの学外闘争と学園内闘争を結び付つけ、同次元で闘い、高揚させていこうとするもの。

革命の起爆剤 「前衛」とは、大衆に先立ち、それを導いて行く政治組織ではなく、既存社会に対してラジカルな拒否の態度を表明し、自らが革命の起爆剤となる「行動する少数派」である。
 東京女子大の全共闘も「お前らは、今まで何をした!」と一般学生に叫んだというが、「行動する少数派」の、そのはなばなしい行動によって心理的ショックを呼び起こし、現体制の弱さと、腐敗ぶりを暴露し、一斉蜂起を呼びかける。反代々木系がよく使う言葉。

家族帝国主義 活動家学生が打倒しようとするものに、日本帝国主義、アメリカ帝国主義があるが、その前に「どうか学生運動だけはやめておくれ」という肉親の懇願の声と涙を振り切ること。つまり家族帝国主義を拒否することが大切だという。
 「あたし、家族帝国主義には弱いのよ。パパなんか何ていうことないけど、ママに泣かれると、つらくなっちゃってね・・・」

寄生虫戦術 社会党の組織内に寄生して、独自の組織をつくった社青同解放派の戦術。

逆ゲバ ゲバは、もう言うまでもないことだが、ドイツ語のゲバルトから出たもので、実力闘争(暴力闘争)のこと。
 ゲバにもいろいろあり、単ゲバ、すなわち単純ゲバルトというのは機動隊とぶつかり合うこと。内ゲバ、内々ゲバルトは反代々木系内のぶつかり合い。
 なぜ学生戦線内部で分裂し、激しい内ゲバが行われるのかというと、自己を絶対化しないと、「前衛」である確信が持てないからで、一種の粛清の論理によるものだろう。
 ところで、逆ゲバとは、右翼=体育会系の本格的な反撃をさす。民族主義の学生連合も台頭しつつあるので、これからは、内ゲバよりも逆ゲバが盛んになるのではなかろうか。

クシザシ理論 教授会権力を打倒することにより、ブルジョア権力を打倒するというクシザシの考え方。改良的課題も、体制の打倒なしにはかちとれない、とする反代々木系のあせりを批判して、民青系の学生がよく使う。

経験学習 機動隊とぶつかり合う時に、最前線に立たせ、肉体的に“憎しみ”をたたき込む新人訓練のやり方。
 「お前をなぐったのは機動隊、すなわち国家権力なんだ。ただの“青カラス”(青ヘルメットに青の戦闘服から出たもので、機動隊員のこと)だと思ってはいけない。あれが国家権力であり、独占資本なんだ。」

ケルン・パー 中核はドイツ語でケルン。派をパーと呼んで、ケルン・パー。黒田寛一が最初に中核派攻撃に使ったものといわれ、そこから広まった蔑称。

現象面 「ぼくらが石を投げたとか、投げないとか、そういう現象面で裁こうとする。ぼくらが何を訴えているかということを考えてもらいたい」
 現象面とは、表面だけの現われという意味では、本質的ということに、また感覚的にとらえられた面という意味では、本体に対立するもので、学生たちは、よく「総体的にみよ」などと言う。

行動なき理論は死 「行動なき理論は死、理論なき行動は無 トロッキー」、こういう落書きが日大で目立った。行動だけに走り、理論を欠くことをおそれて、自戒のために書きつけたのであろう。
 アメリカのSDS(学生反戦組織で民主社会のための学生同盟)も、50年代の「行動なき理論」と、60年代の「理論なき行動」の状態を止揚し、新たな理論と行動の統一図式にもとづいて70年代を迎えようとしている。

<サ行>
ササヤキ作戦 バリケード内に出入りする女子学生をつかまえ、耳もとで、いやらしいことをささやく反スト派のいやがらせ作戦。
 「おい、何しにバリケードの中に入って行くんだい。そんなことをしていると、お嫁さんのもらい手がいなくなっちゃうよ」。

サヨナラの総括 愛情関係の解消のこと。女の子と別れるに際して、感情的な混乱を整理し、いろいろな事情を一つにまとめて締めくくり、イデオロギー的に正しい結論を導き出すことをいう。
 学生運動の過程で傷つき、自殺した横浜市大生の奥浩平君が残した言葉。「青春の墓標―ある学生活動家の愛と死」(文芸春秋)から広まった。奥君は中核派、彼の恋人は革マル派に属していた。新谷のりこ子の歌にもなったから、これから、ますます流行しだすのではなかろうか。

更に多くのベトナムを この言葉は、永久革命論をひっさげてゲリラ戦を果敢に闘い、その果てに戦士していったチェ・ゲバラの論文から出た。ゲバラが、ソ連が、ベトナムを局地の問題としてとらえ、世界的大戦になることを阻止し、アメリカとの和平交渉を図ることを激しく批判、「更に多くのベトナムを」と叫んだわけである。
 反代々木系の中でも、プロレタリア軍団は早くからゲバラに心酔し、「極左暴力主義者」としてゲバラに続こうとしているが、最近は赤軍派の武装闘争がいろいろウワサされている。

質の向上 ストライキを宣言し、バリケードによって学園を封鎖するが、その中で理論的統一を図らねばならない。バリケード構築の直後は、ノンポリ学生は簡単に中にはいれない。うっかりすると、反スト派のスパイかも知れないからである。最初に立ち上がった者同士の質の向上を図ってから、ノンポリをしだいに引き込んでいくのである。

主体形成理論 闘争の高揚の中で、革命の主体として自己変革することにより、革命的学生運動を創造せねばならないとする理論で、黒田寛一が提唱したもの。紛争校の教師たちが、何も分からないまま自己変革、自己変革と騒いでいたのは、こっけいであった。

ショッカク 職業的革命家

ショック戦法 おだやかな行動をとるとみせかけ、突然、過激な行動を展開する戦法。
「先生のご意見をうかがいた」というので出かけて行くと、途中から急に態度を変えて、四方八方から攻撃を始めて、つるし上げたりする。

前段階武装蜂起 赤軍派の提唱する戦術。赤軍の母体は、ブント内の多数派である関東派(中大、電通大、青学大など)と理論派といわれる中間派(明大、早大など)に対立した関西派(同志社大、大阪市立大、桃山学院大など)が中核だといわれる。ロシア革命の際の、トロッキー指揮の赤衛軍になぞらえて赤軍の名をつけたといわれる。
 その赤軍の前段階武装蜂起とは、革命成立前の決起で、二、三千人で国会を占拠し、自衛隊を出動させる。すると怒った大衆がストで抗議するだろうし、帝国主義軍隊・ブルジョアとプロレタリアの対立関係がはっきりして、状況が満ちてくるだろうというもの。つまり武装蜂起、内戦突入を説くわけだ。
 京大全共闘の機関紙「ストラッグル」(9月7日付け)は、「全共闘をパルチザン遊撃軍団へ」と提唱している。つまり、五人組のパルチザンをつくって、あちこちで「早すぎる部分的蜂起」を起こそうというのだが、そういう意味では赤軍派と似た印象がある。

先駆性理論 1956年6月、反戦学同によって提唱され、社学同によって受け継がれ、その運動理論となったもの。「プロレタリアートが真に目ざめ、立ち上がるまでは、学生が労農市民にさきがけて闘い、その方向を示さねばならない。」とするもので、学生運動の果たす先駆的役割を強調する理論。

戦闘的日常生活への招待 先にふれた「質の向上」の後に、電話や手紙でノンポリ学生を呼んで、バリケード内の生々とした日常を見せ、徐々に自派陣営に引き入れるやり方。

<タ行>
大衆次元への埋没 「前衛」は、はなばなしい行動で運動を盛り上げねばならないが、その過程で過激な行動を非難されることも多い。非難を受け、大衆に迎合し、予定の過激な行動を中止することを、大衆次元への埋没としておそれるわけで、中核派が使っていたところから広まった。

挑発者集団 民青系の用語。反代々木系をさす。つまり、レーニンが指摘しているように、反動は「政治問題をあくまで実務的に取り扱うことに慣れており、言葉を信用せず、物事の急所を押えるのにたくみである」。反動は、反代々木系を甘やかせ、泳がせ、挑発者集団としての急所を押さえて、トロッキストを利用しているとみる。

転換理論 1956年の全学連第11回大会で、路線転換が行われた。ここで代々木系と反代々木系が分裂することになるが、反代々木系は、先の「先駆性理論」に八中委、九大会の路線を組み入れ、労働者階級の同盟軍、階級的視点に立って闘おうとするもの。つまり、この社会の矛盾は、すべてブルジョア対プロレタリアの階級対立に起因するのだから、学園内改良の道をたどっては何も得られない。常に個々の対立事項にとどまらず、果てしなく発展し、全社会の変革の運動へと導かれねばならないとする。

トイレット・ペーパ作戦 同年9月19日、北大全共闘がクラーク像にヘルメットをかぶせ、「ボーイズ・ビー・リボルーショナリー(青年よ革命家たれ)」と落書きしたこととともに、体験や伝統の継承に対する若者たちの拒否反応は、いろいろな問題を呼んでいる。一橋大全共闘も、歴代学長の首を切り落としてしまっている。
 「便所にトイレット・ペーパーがない。早く備えつけろ」といったぐあいに、民青系の闘争は、トイレット・ペーパーから始めるという皮肉。

トロレス トロッキストのレスリングという意味で、反代々木系と機動隊のぶつかり合いを軽蔑する民青系の用語。労学共闘ならぬ警学“狂闘”だ、などともいう。
 泥沼のように現実を混乱させ、その中で多くの市民を目ざめさせ、運動を発展させようとするもの。反代々木系が使う。

<ナ行>
ねずみ男 水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の副主人公。もともとはネズミの妖怪で、たえずチョロチョロし、好奇心が盛んで、自ら事件づくりに一役買って出たりするが、いざとなると逃げて高見の見物をする。チョロチョロしている日和見主義者をさす。

ノンセクト・ラジカル どの派にも属していないが、本質的に急進派の学生をさす。

ノンポリ ノン・ポリティカルの略で、政治や学生運動に無関心の学生をいう。

ノン・スチューデント これはノンポリと違って、ちゃんとしたアメリカ語。一般的には聴講生などと訳されるが『デイリー・カリフォルニアン』紙に出たリー・フェルゼンシュタインの定義によれば、正規の登録学生ではないが、みずから学園コニミュティーの一部と考え、学園における政治活動の中で一定の役割を演ずる者たちのこと。
 アメリカの場合、ベトナム帰りの三十歳近いノン・スチューデントは、戦争とセックスの体験者であり、キャンパス内での影響力も強い。日本の学園紛争においても、卒業生、中退者などがはいりこんで、指導する場合が多い。

<ハ行>
パラノイア的願望 武力闘争をすれば、革命が達成すると思い込んでいるのは、かっての日共の火炎ビン闘争の延長で、パラノイア、つまり偏執狂のはかない願望にすぎないとする。もともとは、中核派を批判した革マル派の用語。

バリ祭 バリケード内のお祭り。日大闘争では、おでん屋、綿あめ屋、ラーメン屋、たこ焼き屋などの屋台ができ、のど自慢大会やゴーゴー大会などが開かれ、話題を呼んだが、京大全共闘のバリ祭でも、ティーチ・インのほか、三昼夜ぶっ続けのゴーゴー大会、ヌード撮影会、荒木一郎の「反逆のギター」を聞く会などが催された。闘いの高揚のために必要なのであろうか。

半民青 民青系を支持しているわけではないが、反代々木系のラジカルな行動にはついていけず、結果的に民青系を支持する人びとをいう。

蛮族的闘争 日大全共闘の闘い方をいう。北小路敏のアナロジーに、日大がロシア革命で、東大がドイツ革命だ、というのがあるが、大学闘争の二つの天王山として、東大と日大の戦闘的結合は、1968年11月22日、「東大=日大闘争勝利・全国学生総決起集会」として開花した。
 この結合が「感情的デュエットたることをやめて、壮大な大合唱」になるためには、日大の「破壊の思想」の実践的かつ思想的徹底性を、大胆に「輸出」することで、東大闘争の貴族的装いを打ち砕き、質を変える必要があったといわれる。1969年3月になると、日大闘争は次第にハッキリしなくなるが、その蛮族的闘争は、各地の大学にすでに「輸出」済みで、とくに同年4月12日の岡山大全共闘の抵抗ぶり、機動隊との衝突ぶりはすさまじく、機動隊員52人を負傷させ、日大闘争についで、警官の第二の犠牲者まで出してしまった。

平民路線 民青(日共)の唱える「平和の民主主義のために」から出た言葉。戦後の日本は、共産党ばかりでなく、保守党まで「平和の民主主義」を唱え、「平和」も「民主主義」も、保守・革新の共通のシンボルになり、その中で諸問題がアイマイ化されてしまっていると、反代々木系は平民路線をきらう。
 そこからまた、日常性を打破して市民を目ざめさせようとし、ゲバルト信仰が生まれたとみてよかろう。

別個に進み、共に射(う)て 反代々木系全学連の統一戦線論の背骨となったトロッキーの戦術論から出た言葉。「別に立ち、共に射て」ともいわれる。イデオロギー的にはぶつかり合っても、共通の敵に対しては共同の行動をとれ、ということ。

<マ行>
マッセンスト 社学同がよく使う言葉で、マッセンとは「大量の」という意味のドイツ語。学園を陣地として、中央権力闘争を繰り広げ、労農市民がそれぞれストに突入して、内戦を起こそうとするもの。

マヌーバー方式 manoeuverは欺瞞的策謀と訳す。「学校当局のマヌーバー方式にひっかかるな」

民コロ シュッコロ、イチコロというCMから出たもので、民青への悪口。

<ヤ行>
ゆがんだ青春 安保ブントの全学連委員長・唐牛賢太郎が、安保闘争中に知謀的反共主義者といわれる右翼の田中清玄から数百万円の運動資金をもらっていたことがバクロされたのは、1963年2月26日のTBSラジオから放送された「全学連OBのその後」という録音構成。『トロッキストその理論と実態』(日本青年出版社)なども出ているが、そこから、ゆがんだ青春という言葉が流行した。

<ラ行>
理論の分裂・行動の一致 元三派全学連委員長の秋山勝行がよく使った言葉。戦略戦術上の違いから内ゲバに走りがちだが、日ごろの対立を越え、共に射てということ。

レーニンに帰れ スターリン以前の、正統マルクス・レーニン主義に立ち帰れということ。ヘルメットや旗に「反スタ」と書いてあるのは、反スターリン主義のこと。
 スターリンン主義とは、マルクスやレーニンの言葉をねじ曲げ、共産党官僚の利益を守り、その地位を維持するためのイデオロギーになってしまったニセのマルクス・レーニン主義のこと。

<ワ行>
わだつみ拒否 立命館大の全共闘は、1969年5月20日、立命館キャンパスに立っていた「わだつみ像」を倒して話題になった。全共闘によれば、この像こそ「擬制的民主主義のシンボルだ」というのである。
 この像はもともと、戦没学生の手記『きけわだつみの声』を記念して本郷新が制作したものだが、ドイツ戦没学生の手記『僕らはごめんだ』(オーネ・ウンス)のように、死者の声に耳をかして感傷的に結びつくのではなしに、「オーネ・ウンス」と拒否しようとする。

(終)

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