昨年の暮れの大掃除で、昔の「日本読書新聞」が出てきたということはNo413で書いたが、その新聞に、映画「赤軍―PFLP世界戦争宣言」の記事が載っている。
この映画は、若松プロダクション製作。監督は若松孝二と足立正生。
映画は1971年に公開されたが、その後、2009年に若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」がDVD化される時に、38年ぶりにDVD化された。
DVDの宣伝文によると
「鬼才・若松孝二、足立正生監督らがレバノンの赤軍派、PFLPと共同し、パレスチナ解放のために闘うアラブゲリラの日常を描いたドキュメンタリー。未だ話題の人物である元赤軍リーダー・重信房子のインタビューなど、貴重な映像を収録した1枚。」
この「赤軍―PFLP世界戦争宣言」はユーチューブでも一部画像を見ることができる。
今回は、1971年の「日本読書新聞」に掲載された足立正生氏による記事を掲載する。

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(映画のポスター)

【映画運動の戦略論について 足立正生 赤軍―PFLP世界戦争宣言マニフェスト 日本読書新聞 1971.10.4】

すべての<運動>を包摂し世界革命戦線の創出に向け

我々は今、日本共産主義者同盟赤軍派とパレスチナ解放人民戦線が、その世界革命戦線の建設を、相互の戦略理論闘争を過程にして行おうとしてる<ニュース映画>『赤軍―PFLP・世界戦争宣言』の上映運動を始めようとしている。それは、赤軍派とPFLPが、映画を共同制作するという、新たな戦略論の実践形態を持つ契機を全ての方針とし、映画の上映運動を「文化活動」、「思想運動」、「大衆運動」の全てを包摂しきろうと試行錯誤することから始まろうとしている。

<映画と政治運動の党派性の確執>
実際にフィルムを作るのは、私たち若松プロダクションの映画製作スタッフが分担している訳だが、映画作家が作家の立場を固持する党派性、赤軍派とPFLPの共闘とその戦略論上に措定される「世界赤軍」の生み出す党派性の確執の現実化を、映画運動の戦略論として構造づける任務を負おうとすることから始めようとしている。つまり、<ニューズ映画>を「世界赤軍」建設のマニフェストとするのである。
 そこで、我々が提出する<ニュース映画>とは何か。
 「プロパガンダは即<情報>であり、<情報>は真実を伝えることである。しかも、我々(パレスチナ解放人民戦線)の真実の、最良の形態は武装闘争である。従って武装闘争こそがプロパガンダの最良の形態だ」という戦略論が私たちの掌中にある。従って<ニュース映画>は、その伝えるべき真実と伝える方法を、そのプロパガンダ=武装闘争の<言葉>を現実から把みとり、現実へ再び<言葉>として投げ返す戦略論の一つとして、プロパガンダの実態として提出されなければならない。
 従って、武装闘争=プロパガンダ。
プロパガンダ=<ニュース映画>
 そして<ニュース映画>=プロパガンダ=武装闘争という、世界革命戦線のマニフェストの戦略論を体現しなければならない。我々の<ニュース映画>が真実の<言葉>であり得るかどうかという課題と、よし真実の<言葉>であったとして、<言葉>はいかに、どこで語られてゆかなければならないのか。マニフェストはいかに行われなければならないのか。<言葉>は、その映画運動の基本的な問いを自らに課さなければならない。
 すでにイスラエル国境を深く入った駐屯地から、対戦車砲を切札にした索敵行動に出発しようとした時、彼等は紫色に熟した桑の実を一杯にした二つのコップを持ってきて押しつぶし、果実液を作った。「あっ、これは劇映画につかう血ノリと同じ色だな」と私が悪い予感を覚えた通り、未明の三時から五時までの行軍が終わったその場で、「我々は今、イスラエル兵と遭遇している!ただちに戦闘配置につけッ!」と全員に隊長が宣言し、今まで8人いたゲリラ兵士が6人に減っていた。
 自動小銃クラシニコフを乱射しながら陣形を展開し、手榴弾を投げて突撃した彼らが再び匍匐前進して一点を包囲すると、隊長が威厳含みの静かな口調で藪に向かて演説を始めた。再びクラシニコフの乱射、殺到した6人が負傷したイスラエル兵に模した同志を捕え、武装解除していった。隊長を始め隊員たちが、得意満面に。カメラを握ってただ呆然と突っ立っていた私に「どうだ。いいオプレーションだったろう。我々パレスチナ解放人民戦線兵士は、いかなる敵にも戦略論で説得し、それども敵対するなら捕えるか殺す。」と、5分たらずの模擬戦闘シーンの展開がいかに典型的に実現したを説明してくれた。私には、それが演習であることも、ゲリラたちは私のカメラの為に、最も危険な朝陽の下の敵陣近くで行ってくれた決意も分かっていた。しかし、私は、カメラのシャッターを押すことは出来なかった。何故か。

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<己の崩壊する全過程を記録し>
彼等はゲリラであり、戦場の任務を分担しているのであるが、更にその上、「パレスチナ解放闘争のためのプロパガンダ」映画の俳優も同一位相で兼務していることを、実に明確に桑の実の果汁を塗りつけて、私のカメラに語りかけているからである。日常的に行っている現実と私のカメラのために表現している非現実の戦闘に、彼等は区別をつけないことを主張しているからである。
 ドキュメンタリズムの精神は、このゲリラ兵士を対象とした時、記録係である私の位置が崩壊してゆく全過程を記録することを強要して、撮影を続行してゆくだろう。
 あるいは、プロパガンダとしての<言葉>は、そのゲリラ兵士たちの戦争=武装闘争というゲリラ戦の戦略戦術の現実を<報道>することによって語りつぐことは可能になるだろう。<ニュース映画>は、作家がその<言葉>に対峙して韜晦するのではなく崩壊してゆく時の全過程を通して<言葉>たり得ることを、私はこのエピソードで学んだ。
 そして、その<言葉>の所在は、ゲリラにとっての現実と非現実の誤差が、彼等の<武器>を媒介にすれば零だと主張できるものであったように、<ニュース映画>にとって<報道>する内容対象と、<報道>の対象と<報道>の方法が、やはり、「世界革命戦線」と「世界赤軍」建設の党派性によって立証されない限り、所在不明となってゆく。「兵士から学んだものは、兵士にかえしてゆく」ことが、我々がエピソードそのものを語ることによってではなく<言葉>に関し、我々の<ニュース映画>が負い得る真実の<報道>の任務ではないだろうか。
 今、我々は、<ニュース映画>を上映する行為によって、それを体現しようとしている。上映運動は、抑圧された人民の<真実>が、抑圧された<報道>という名の商品におとしめられることから解放されなければならない。
 <ニュース映画>、『赤軍―PFLF世界戦争宣言』は、われわれの<言葉>として、その上映運動の過程で、我々の<報道>機構を創出し、運動実態に還元されるべく用意されている。

<兵士に学んだものは兵士に返す>
武装闘争=プロパガンダ。
プロパガンダ=ニュース映画
我々は運動実態の創出によって、<ニュース映画>=プロパガンダ=武装闘争の戦略論の体現を行おうとしている。そして、それは、世界革命戦線の創出を目標とする<革命バス>による遊撃戦によって一歩一歩具体化されていくだろう。
 <革命バス>の行軍は、今、あなたの横腹を走り抜けようとしている。
 乗る者は、誰か。乗っている者は、誰か。<革命バス>は走る!

(筆者あだち・まさお氏=映画作家)