野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2016年03月

先々週のブログで、「週刊アンポNo12」に掲載された「大泉市民の集い」が行っていた「大泉反戦放送局」の活動記事を紹介したが、今回は、同じ号に掲載されていた山口県岩国基地の現地報告の記事を掲載する。

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<ラブ・イン>
あどけない若いアメリカ兵士が「1週間後またベトナムにつれて行かれるのだ」という恐怖と不安の中で安らぎを求めるとすれば、結局、酒に酔いつぶれることか、女をだくことしかないだろう。それは、あまりに荒涼としていて絶望的だ。だが、それ以外にヒューマニティックなものがあるとすれば、愛を語り、平和を語り、歌をうたうことだろう。

 桜のつぼみがふくらみかけた、4月4日、花見客でにぎわう山口県岩国錦帯橋のそばで、大きなピースマークののぼりが、桜の木にぶるさがっていた。花見のための、ぼんぼりちょうちんの下で、毛布をしき、ニューロックが流れブルージンに金ぶちのメガネ、それにビーズのネックレスが象徴的な若いアメリカ兵士がすわっている様子は、平和な、本当に平和な風景だろう。パイプの煙をくゆらせながら、瞑想にふける者、大きな声でうたう者、一輪のタンポポを手に平和をかたる者、それにピースマークのバッチをつけた者、ASU(アメリカ兵士組合)のバッチをつけた人もいる。およそ20人。そしてベ平連に参加する日本人。
 「ハーイ!ブラザー」陽気に笑いかける。様々なピースパンフレト。ウィ・ゴット・ザ・ブラス(注:反戦米兵の国際組織セカンド・フロント・インターナショナルの機関誌)が、ピース・ニュースがキルフォーピースが熱い目で読まれる。彼らは山口県岩国基地の米軍海兵隊員。基地の中で反乱を開始した反戦兵士たち。おだやかな日ざしの中で、彼らの中の歌が好きな連中が集まり、アルティメイトファットが、ハーモニカ、ギター、タンバリンを手に大きな声をはりあげて歌をうたう。ハラの突き出た、大がらなシンガーは、日本語でなんと言うのかとたずねたので、「百貫デブ」だと笑い合った。その笑い顔は、平和そのものだろう。ブラック・ピープルは彼の感動的なブラック・パンサーのサインで手をにぎりしめる。ちょど、その光景は、ぼくらが解放された広場を作るために運動している京都は三条大橋の橋の下大学と同じ光景。彼ら反戦兵士は、その岩国の集いを、ラブ・インと呼ぶ。だが、無邪気な顔の若いアメリカ人が、明日カンボジャに送られるのだと悲しそうにツブやいた時、ぼくらは何を思い、何が出来る。現在岩国基地は、朝鮮戦争当時と変わらないぐらい増強されていると言われる。夜のバー街を歩くと2人1組のMPが三百メートルかんかくでパトロールしている。以前にまして、その警ら体制は強化されている。そして、野犬がり使う車のように、金アミの格子ががんじょうにはまった灰色の中型トラックがまちを走る。酔いつぶれたやつや、ケンカしたやつはそれにのせられる。ベトナム行きで絶望的な兵士たちは、自暴自棄に酒を飲む。のまざるをえない。それをかんしする険悪なMPの眼。その状況下で、わずか20数名の少数者(基地内には、もっと多くの反戦兵士がいる)であったとしても、たたかいのノロシが上がる。それは、つまりヤンキー・ゴーホームというスローガンのもとでなく、アンタイ・ウオ―・ジーアイ・ウィー・サポート・ユー、反戦米兵支えんの新しいイメージのもとでの、アメリカに絶望してる若いアメリカ人との、ぼくらの連帯の始まりだろう。

<反戦米兵連帯デモ>
 ピース・ナウのシュプレヒコールが、4月5日夕方、金網を越えて、岩国基地の中へとどいた。星条旗がひるがえり、だだっぴろい芝生の中に点在するカマボコ兵舎からは、彼らが見つめていた。体をのり出して、カメラを向けるやつ、ピース・サインを送るやつ。遠くのビルディングの屋上には兵士が群がっている。
 それに無表情に銃をかまえたまままの兵士、MP、だが日本の機動隊と私服警官はびっしりとぼくらのまわりをかためる。ゴー・ホーム・ライオット・ポリス!岩国、広島、山口、福岡、岡山、同志社のカラフルなベ平連の旗がひるがえり、2歳の女の子がママにおんぶされてデモるのを含めて50人、先頭の横断幕には「反戦米兵連帯デモ(ザ・ジョイント・ラリー、ウィズ・アンチ・ウオー・GI)」と書いてある。
 そして白ヘルメットの中核派80人、赤ヘルのプロ学同90人、彼らは果敢にジグザグデモを敢行する。逮捕者5名。
 たそがれどきの岩国市内を今日、基地、金網ぞい、バー街を歩く。2時間、8キロメートル。デモがバー街にさしかかると、Aサインマークのついたバーや、スナックから、少々赤らんだ顔の兵士が、最初は不思議そうに、そしてしばらくしてニッコリ笑ってぼくらのデモをみる。はずかしげにピースサインを送るやつ、あるいは英字ビラを受けとるやつ、だが、MPは、たちどまりビラを受けとろうとする彼らを威圧的に追い払う。
 ウィ・シャル・オーバー・カムの歌声は流れ、“安保フンサイ!基地撤去!”のかけ声が響く。けげんそうな地元の人々の顔、顔。基地によって生活している人々と外から基地をみる人々は恐らく違う。これからも地元に土着した運動として執拗に米兵支援の活動を展開するということはかなり困難な作業だろう。ややもすると、現在の基地内での反戦米兵の運動の方が外側よりもラジカルに未来の状況を先取りしている。ASU兵士組合(アメリカン・サービスメンズ・ユニオン)の結成、反戦リーフレット、センパー・フィー(かわらぬ忠誠)の発行、ラブ・イン(広場の創出)そして司令官と反戦米兵による大衆団交、そしていうまでもなく脱走。

<崩壊する在日米軍>
 外部のぼくらとそして内部の彼らと連帯しえるとすれば結局ぼくは、行動がたとえ小さくても持続していくことだろう。同じ人間として弱さを共有しながら・・・。
 そしていかに戦争機械から自分自身を切り離すか、あるいは闘うか。
 サングラスをとった時の顔は、やはり18歳のまだこどもっぽい顔の若いアメリカ人は、かりに名前をスミスとすれば彼はこういうだろう。
 「またベトナム行きだよ。俺はあんな戦争で人殺しなんかしたくないので、脱走するよ。脱走、そう自由を求めて。」
 
 もしも現在、日本がスウェーデンのように政治亡命が認められているとすれば、たちどころに在日米軍は崩壊するのではないか。つまり、若いアメリカの兵士はベトナムに行くことが絶望的にばかばかしく悲惨なことだとすでに知っている。だからサボタージュや脱走、あるいは軍隊の中で反抗する。たしかに手ごたえがある。ぼくらはとにかくどこまでも彼ら反戦米兵を支援していこう。そして、ぼくら自身は反戦を叫び続けよう。ベトナムはナンバーテンプレイスだ。
 「脱走するよ」とぽつりとスミスはつぶやいた。

(現地報告 鈴木正穂)
(終)

【お知らせ】
本の紹介です。
「反安保法制・反原発運動で出現――シニア左翼とは何か」が出版されました。
明大土曜会や日大930会に関する記事も出てきます。また、10・8山﨑博昭プロジュエクト発起人も何人か出てきます。

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「反安保法制・反原発運動で出現――シニア左翼とは何か」
出版社・:朝日新書(朝日新聞出版)
著者:小林 哲夫(教育ジャーナリスト)  
定価:842円(税込)
発売日:2016年3月11日
「反安保法制、反原発……。国会前のデモなどで、若者以上に目立っているのが60、70代のシニア世代だ。若い頃、世の中に反旗を翻したものの、その後は体制に順応したはずの彼らは、なぜ再び闘っているのか。同窓会? 再びの世直し? 新集団をめぐる『人間ドラマ』を追った。」

2月6日に「明大土曜会」の定例会が開かれた。会合では、今に続く砂川闘争の報告などがあったが、当日参加した土屋源太郎さんから、1月24日に投票が行われた沖縄宜野湾市長選挙応援の報告や、砂川再審請求の状況、夏の参議院選について話があったので、今回は、その内容を掲載する。
土屋源太郎さんは、1953年に明治大学に入学、明大中執委員長、都学連委員長、全学連書記長を歴任され、1957年の砂川闘争で逮捕され、「伊達判決」により無罪となったが、その後、最高裁で差し戻しとなり、差し戻し裁判で有罪となった。現在、「伊達判決を生かす会」の共同代表として活動され、砂川事件最高裁判決無効を求める闘いを中心となって担っている。
 この砂川事件最高裁判決再審請求について、東京地裁は3月8日(火)、再審請求を棄却する決定を行った。再審を求めていた土屋さんらは、即時抗告を行う予定。

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(朝日新聞夕刊2016.3.8)

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(朝日新聞朝刊2016.3.9)

【沖縄・宜野湾市長選挙応援報告】
土屋「土曜会としてカンパをいただきありがとうございました。1月15日から22日まで8日間、沖縄へ行ってきました。
俺が行ったのは、一つは、60周年の砂川の集会をやって、その収益金が結構あったので、その一部を沖縄基金にカンパするのと、それから今回の宜野湾の市長選にカンパするというので、実行委員会から2人行くというので、それでは、どうせ行くのなら俺も行くかということで行って、2人は3日で帰った。私はせっかく行ったのだから8日間いた。いろんなところに行って、いろんな収穫がありました。

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具体的に言うと、まず、15日に名護の市役所に行って、稲嶺さんに会う予定だったんですが、選挙の関係で忙しくて会えなかった。稲嶺さんに60周年の砂川の集会の時に、メッセージを私がお願いしたものですから、そのお礼も含めて行ってきた。そこで基地対策課の係長に会ってきた。そこで、みなさんもあまり知らないことで、名護の問題で、辺野古の新基地建設だけじゃない。何が問題かというと、キャンプ・シュワブの中に、いわゆ廃材処理場というのがある。これは非常に大きいらしい。そこで、いろんなところの基地から来た、廃棄になった爆弾とか不発弾の処理をしている。その処理の音がすごい。朝から始まったり、夜もやる。爆音だけだが、ちょうと居る時もあったが、音が相当響く。それともう一つは、シュワブの中で山に向かって射撃訓練をしょっちゅうする。その音がものすごい。そういう被害に遭っていることも知って欲しい、ということを言っていました。
それで、名護市へ行って、いろんな話とか辺野古の状態を聞いて、15日の夜に志村さんの決起集会をやることが分かったので、そこの集会にも参加した。4千人くらい入る大きな集会場で、本土とは違うものすごい熱気がある。いろんな連中が発言をしたり、沖縄の県の連合の会長が最終的な締めの発言をするとか、雰囲気は非常に良かった。
それで16日にキャンプ・シュワブの座り込みに行こうということで。これは沖縄基金の関係で那覇から出ているバスがものすごく安い。9時半に出て、向こうに着くのは11時前くらいに着くけれど、往復で1,000円。基金からお金が出ているから。普通だと、高速を使うと片道2,100円で4,200円かかる。これを使うことは非常に有効。実は、みんなシュワブの座り込みというのは早朝だと思っているんじゃないか。早朝に行かなければ間に合わないと思っている。ところが実際は違う。今年から変わってきた。去年までは早朝だけ。今年からは、朝7時半から1回、午前中11時から12時の間に1回、それと午後は2時と4時くらい、だいたい3回から4回ある。だから早朝に行かなくても、座り込みには参加できる。

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(「沖縄・意見広告運動」ニュースより転載)

16日に行った時は150人くらいいた。何よりも全国各地から来ている。北海道から九州まであらゆるところから人が来ています。むしろ16日は本土からの人の方が多かった。
本土から来るのは女性が多い。だいたい6:4くらいの割合。だいたいが60代前後から70くらいの人が多い。それで、、16日は山城君が司会をやっていたが、来た人、来た人みんなに発言してもらう、これは非常にいい事なんです。全員が発言する。どこから来て、どういう事で来たのか全部分かる。
問題は排除。僕が行った16日は午前中1回と午後1回の2回あった。正面ゲートは向こう側にあって、こっちに資材ゲートがある。距離にして300メートルくらい離れている。そこに全員座り込んでいる。今、地べたに直接座るのは大変だということで、小さい椅子を地元で全部用意している。そこにみんな座っている。僕が行ったら「年寄りはそんな小さい椅子は疲れるから大きい椅子があるから」ということで、そこに座った。座っている後ろ側に警備会社の警備員が20人くらい、黙って突っ立ている。運搬車両が入ってくると、電話連絡で分かるのと、機動隊が動き出す。これから来るぞということになって、そのうち機動隊がワッーと出てくる。150人に対して200人くらい。それで、何しろ今のやつらは体格がいい。昔の砂川の時に比べたら全然違う。そいつらがずらっと立つ訳だよ。白い指揮棒を持った指揮者が指揮棒をサッとやると、一斉にゴボウ抜きになる。俺の椅子は5人がかりでお神輿みたいに運ばれる、よっぽど蹴飛ばしてやろうかと思ったけれど、沖縄に行く前から、今の再審請求をやっている最中に公務執行妨害で捕まると困るから、大人しくやってくれと再三言われているものだから、しょうがないから、蹴飛ばすのは止めた。

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水曜日と木曜日が今年から動員日になった。水曜日と木曜日は比較的動員が多い、先般の木曜日は動員が300人くらい。その日は搬入しなかった。機動隊も来なかった。だからそういうこともある。それと、浜の方に行った。その時問題になったのは、引き潮になった時に古い時代の遺跡が出てきた。今、予定地の中に文化財があるということで、教育委員会を通じて文化財調査をしろということを文化庁に提案している。遺跡調査をやって、遺跡が1ケ所ではなく数箇所あるということになれば、埋め立て非常に障害になるという問題があって、今、その提起をしている最中。その事についてはあまり知られていないので、そいう事について文化庁に対して、そういう遺跡があるのだから調査しろという圧力をかける、そういう運動は必要と思う。

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17日は告示日で志村さんの出陣式があった。それに行って、選対本部だとかいろいろ行ったんだけれど、志村さんの選対事務所は6つあって、一つは本当の本部、もう一つは総がかりの本部、あと4つは共産党系。共産党がやっている統一センタ、そこは17日は200人くらい来ていた。選対本部に17日に行って、帰る日の22日にも選対本部に寄ってきた。そこでいろいろ感じたことを率直に言うと、僕は負けると思った。この選挙には勝てない。というのは、何しろ選挙全体の雰囲気が選挙をやっているという雰囲気じゃない。選対事務所というのは活気があって、ワーワーしている雰囲気があるでしょ。ところがそういう雰囲気じゃない。やっぱり年寄りが多くて。今回、5.800票差で負けた訳だけど、実際の選挙結果について分析してみると、一つには、確かに集会では4千人位集まって熱気があったけれども、集会でいくら熱気があっても選挙の票にはつがらないといことが一つ。
それで、自民党はどういう戦法を取ったかというと、彼等は国会議員が来てもあまり宣伝カーに乗せない。最初の17日は升添と島袋が来た。ところが議員などが行ったが、彼らが何をやったかというと主な企業回り。徹底してローラーかけた。期日前投票が前回の3倍くらいあったけれど、あの期日前投票は彼らが相当組織した可能性がある。だから、当時、期日前投票が3倍もあるということが、かえっていい結果が出るんじゃないかと言う話もあったけれど、実際はそれが裏目に出たというのが実情だった。それと、12月初めまで、志村さんの選対事務所の全体的なまとまりがあまり良くないという事実があって、翁長さんがそれを見てものすごく危機感を持った。翁長さんが12月の初めに選対本部を始め選対関係者、それからその近辺の村長、市長と会う詰めの会合をやった。そこで翁長さんが大ハッパをかける。「このままでは勝てない。もう1回、全体を立て直しをしろ。」とパッパをかけた。逆に組織があまりにも大きくなったために、市長選挙という枠組みではなくて、知事選とかそういうような枠組みになってまとまりがつかなかった。実際、核になる奴がいなかった。
それで、前回900票差で負けた訳だけど、あの時も最終的には1晩のローラーをかけられて負けたんだよ。これはハッキリしている。要するにあの時も自民党に1晩で引っくり返された。その教訓が生かされていなかった。だから、最終的な結集が出来ていなかったのと、翁長さんがあれだけやっても、結局、翁長さんの意思をきちっと選挙につなげる中核になる人間がいなかったということが、一つ言えるのではないかな。選挙というのは、確かにそういうところに問題があって、今後のいろんな課題にもなると思う。
今回の成果としてもう一つあるのは、読谷の村長さんなど5人の町長村長さんが、僕が来ているということで、砂川の話を聞く機会を作って欲しいということで、話をさせてもらいました。やっぱり砂川についてあまり知らないところもあって良かった。きちっと聞いてくれた。21日にそれをやって、22日には帰るつもりでいたら、今度は名護の市会議員から「帰る時間が決まっていなかったら、ちょっと話を聞かせて欲しい」ということで、全部で6人市会議員が来た。その中で、名護市議会の議長も来た。いろんな質問もあった。
そういう意味ではいい交流が出来ました。そういう種を残すことが出来たし、自治体のそういう人たちとの連携もこれから非常に大事になってくるだろうと思います。
そういう意味では、お陰様ですごく収穫のある沖縄旅行でした。ただ、81歳の爺さんにとっては、ものすごい強行軍。16日の早朝6時から、22日も東京に着いて泊まるところに入ったのが夜の12時。
みなさんの応援もあったし、ありがとうございました。

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(沖縄意見広告運動)

沖縄意見広告運動が7期目に入る。朝日新聞と沖縄タイムズ、琉球新報に新聞広告を出す。もし賛同いただけるのなら、賛同して下さい。私も世話人になっていますので、是非、よろしくお願いします。」

【砂川事件最高裁判決再審請求について】
土屋「大事な事を忘れていたけど、再審請求は、一昨年の6月17日に安倍が安保法制を閣議決定、その時に砂川最高裁判決を悪用したということも含めて、再審請求をぶつけた。
去年の段階で、我々の意見書も5回にわたって出した。検察側の意見も却下しろというものの、事実は認めている。アメリカ大使と田中耕太郎が会ったという事実も。意見陳述も、去年の8月に裁判長が受け付けて、僕も意見陳述をやった。全部一応終わっている。それで、今の状況でいくと、3月が異動期で、今の裁判長がまる3年経つ。そうすると、大体まる3年で異動。それを考えると、今年の2月から3月にかけては、もしかすると出るかもしれない。
今年の「伊達判決を生かす会」の「伊達判決57周年記念集会」を4月3日(日)にやることになった。もし、その前にどういう形で結論が出るにしろ非常に大きい反響になる。ましてこの問題で、もし仮に再審が決定ということになったら、安倍政権に大打撃になる。この辺がどう動いていくかというに注目して欲しい。」

参加者「異動期が近づいているという事と、判決を出すというのは、おそらく裁判官が判決を書くのかどうかということになる。長いこと審理をやっていて、たった1回の形式的な裁判だけをやって、次の、当事者の声を聞かない裁判官が判決を書くということになる、ということ位までは分かる。そうすると、今の裁判官は、土屋さんの目から見てどうなのか。」

土屋「正直言って分からない。どちらかと言うと、棄却の可能性の方が高いと思う。一つ言えるのは、僕が陳述した時も、顔色変えませんでしたね、ただ、陪席の判事は結構反応していた。もう一つは、最終意見書を出した時に、裁判長からの依頼ということで事務官から連絡があって「3通下さい」。ということは、ある意味、陪席を含めた3人の裁判官が一応全部読みますという意思表示なんです。この辺が、どう微妙に動くのか。
それともう一つは、証拠としての能力があれほど高いものはない。公文書館にある文章。これは否定のしようがない。その扱いをどうするかが問題になる。それから、仮に裁判官が代わるとなると、その意見書を書く前に、そう簡単に証拠をこうする訳にいかないから、一からやり直しになる可能性がある。そうすると、もっと年数がかかる。そういうことから考えると、どっちにしても出てくる可能性が高い。ただし、割合から言ったら棄却の可能性が高い。
その場合、当然、上告もします。理由に対する反論が出来る。ここにもう1回争う余地が残される。それから世論に対する宣伝も出来ると思っている。これは何とも言えない。
再審開始となれば、引っくり返えるような問題も出てくる。まして統治行為論そのものが問題になってくるということがある。」

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【夏の参議院選挙について】
「このままの状況で行くと、7月の参議院選挙は衆参同日選になる可能性の方が高い。その理由は、一つは宜野湾の問題。北海道補欠選は負ける。今の鈴木宗男の動きから見たら残念ながら北海道は負ける。それから、沖縄の県議選はなんとかカスカスで持つかもしれない。それから、甘利の例の問題でも不思議なことに支持率が全然落ちない。それと、ここにきて安倍が9条改憲を言い出した。これは明らかに参議院選挙と同日選をにらんだ戦術なんだ。彼は、今の状況なら勝てると思っている。
確かに同日選になった場合、野党はますます難しい。特に比例区。統一候補にした場合、比例区の票がどうしても分散しやすい。民主党は共産党に呑みこまれるという変な感覚もあるし、共産党はこの際だからやれるということもあるし、そういう意味で今のいろんな布石から見て行くと、私は同日選になる可能性が高いと思う。
そうなった時に、今の状況だけでは負けるね。残念ながら。これをどうしていくのか、本当にみんなで真剣に考えないといけない。これは最重要課題と思います。」

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【お知らせ】
伊達判決57周年記念集会が開催されます。
 伊達判決を甦らせよう! 多数ご参加ください。
 日時:4月3日(日)午後1時30分から。
 会場:東京しごとセンタ-、地下2階講堂。(JR「飯田橋」駅または「水道橋」駅下車)
 講演:「今こそ対米自立を」天木直人(元レバノン大使)。
 資料代:500円。
 主催:伊達判決を生かす会。

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(チラシ)

私も関わっている「10・8山﨑博昭プロジェクト」では、プロジェクトの目標の一つとして、ベトナムのホーチミン市にあるベトナム戦争証跡博物館での、1960年代を中心とした、日本におけるベトナム反戦闘争の記録の展示に向けて準備を進めている。
博物館での展示については正式な決定ではないが、来年(2017年)初頭に、博物館での企画展示を実現するため、現在、山本義隆さんを中心とするチームで関係者への聞き取りや写真、ビラ、旗などの現物、冊子などの資料蒐集を進めているところである。
プロジェクトでは、このベトナムでの展示に先がけて、今年の6月中旬に文京区のギャラリーで、集まった資料や写真の展示を行う予定である。

日本におけるベトナム反戦闘争の歴史を語る上で、ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)の活動を抜きに語ることはできない。
そんなこともあり、今回のブログでは、「週刊アンポ」No12に掲載された記事を掲載する。

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当時、あまり知られていなかった、ベ平連による反基地・米軍解体活動の記事である。
この記事に出てくる大泉反戦放送局とは、「大泉市民の集い」が埼玉県・朝霞の米軍基地「キャンプ・ドレイク」で行っていた「基地よ出て行け放送局」の通称である。基地の金網越しに携帯マイクで英語で呼びかける「放送局」である。
大泉反戦放送局の活動は、週刊アンポNo1の記事によると「教師、学生、牧師、青年労働者、集まった有志がかわるがわるマイクを持ってアナウンサー役をつとめる。よびかけ、反戦運動関係のニュース、天気予報。そして、テープに用意した反戦フォーク・ソングや、来日したアメリカのブラック・パンサーやSDSの活動家にとくにふきこんでもらったという兵士への反戦と戦闘拒否をすすめるメッセージなどを、ひきりなしに流していく」こんな様子だったとのこと。
今回の記事は、大泉反戦放送局が、放送ではなく、ビラを米軍基地内に投げ入れるという行動を行ったことのレポートである。

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【レポート こちらRCMG大泉反戦放送局です 週刊アンポNo12  1970.4.20】
<反戦放送局“ビラ爆弾”を投下>
「ゴミをこっちに入れるな やい、やめろったら」と白人兵が叫ぶ。「そうよ戦争大好きよ。ベトナムの奴らは糞ったれさ、殺してあたりめえよ」とわめきちらしていた兵士である。彼の背後には7、8人の白人兵がいて、そのうちのひとりはライフル掃射のまねをしている。埼玉県朝霞市にある米軍野戦病院での反戦放送の一風景である。今年の3月15日。“戦争大好きよ”といった米兵は“ゴミ”と呼んだけれど、ゴミではないレッキとしたビラである。これまでもいろんな新兵器を、ない知恵をしぼってつくってきたけれど、ビラ爆弾のことをきき、われわれなりに工夫して、つくりあげた苦心の“ゴミ”なのだ。学生のS君がとくに熱心にせっせと原稿を切った。
ワラ半紙を16等分した白やピンクの弾丸には、朝霞反戦放送局(レディオ・キャンプ・マスト・ゴー、アサカ)の基調もしくは、コマーシャルが、さまざまなレタリングで書いてある。
「反戦・叛軍のために団結して起ちあがれ」「人間として行動せよ」「われわれに支援・連帯の備えあり」「安保粉砕」「すべての権力を人民に」「虐殺を止めろ」「反戦GI新聞を読もう」「帝国主義打倒」「人種差別をなくせ」「戦争の陣営を去って平和の陣営に加われ」などの16種。
ビラは4,50枚まとめてセロテープで束ねる。2センチほどは紙にする。ヒモをつけ、投げヒモを引っぱれば、紙の部分が切れーつまり信管―爆発するというわけだ。投げるのに熱中したのは労働者のS氏である。高さ3メートルの鉄条網をこして、70メートル近く離れた病舎にまでビラの束を投げるのはむずかしい。軟式のボールでも、70メートルとばせれば、かなりの腕前だろう。これまでの最高飛行距離は30メートルというところか。失敗すると、われわれの頭上に爆弾が落ちる。みんなで拾って束ねなおす。向こう側ではMP氏が拾っている。“互いに見合わす顔と顔”ということもある。
朝霞反戦放送局は昨年の6月1日に開局した。王子でも何回か行われ、11月に横浜の岸根陸軍野戦病院で開局、今年に入って、3月21日、山口県岩国の海兵隊基地でも“レディオ・フリー・イワクニ”が開局した。他でもいくつかの局が準備中だ。「反戦放送局は全国ネットワークになりつつある」と、われわれは朝霞でいってきたのだが、いまや完全に誇大報道ではなくなった。朝霞とくらべものにならない強い反応をくり返していた岸根では、病院閉鎖というひとつの勝利を手にした。このまえ会ったとき、岸根放送局員は「岸根闘争勝利」といった。どう控え目にみても、去年の11月から毎週土曜日、激しい弾圧化、粘り強く、激しく、それに米兵の強い反応と支援でつづけられてきた岸根反戦放送は、病院閉鎖の一因である。

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<「GIイエス」「MPノー」>
朝霞では昨年の11月から、毎週日曜日。11時ないし11時半から2時間近くやってきた。MPの規制は厳しさを増しているが、米兵たちの反応は、賛否とも強くなってきている。最初に書いた3月15日のこと。一方には、好戦的な白人兵の一団が狂ったかのように異を唱えた。「こっちへ入ってきやがれ」-日本語で言う「表へ出ろ」と同じである。他方、これと反対に、われわれはあいつらとちがう、と身振りと言葉で表現する、白人1人をまじえた黒人兵の一団があった。そのうちの3人はビラ爆弾を拾いながら、MPの規制をはねのけて鉄条網のそばへきた。握手。3人はこもごもに語った。「放送つづけておくれよ」「いいぞいいぞ」「われわれは闘うぞ」。
どうも手に負えないと判断したMPが上官をつれてきた。1人を連れ去ろうとする。われわれは「釈放しろ」と抗議したが(これで4度目だ、こういう情景は)残った2人は病舎の戸口で抗議の座り込みをおこなった。こうした強い抗議の直接行動は朝霞でははじめてのことである。

<反戦MP出現>
 ビラを“ゴミ”と考える兵士は他にもいて、ごていねいに拾い集め、きれいに燃やされるということもあったが、妙な効果もあった。われわれが“反戦MP”とあだ名を付けたMP氏は職務上ビラを拾うふりをしながら近づいてきて、話をしたがるのだ。(彼と半年ほどまえ、町で会ったことがあるけれど「君たちのいうことに賛成だ」というMPなのだ)「このまえつかまった兵士はどんな罰をうけたか」「いや別に罰はうけなかったよ」とか、「ここの営倉にはいま何人入っているのか」「ここには営倉はないよ」などというやりとりができたのである(3月22日)。彼はある国からの移民であることも語り、われわれはその国の言葉で、その国の“人民万歳”と叫んだ。
 ビラ爆弾は3月8日から始めた。朝霞警察署員がきて、こういった。「あんたたちには表現の自由があるんだからさ、何をいおうと何時間やろうと、こっちは文句はいわないよ。でもさ、ものを投げるのだけはやめにしてくんないか。憲兵隊がうるさいのよ。誤解されてさ、ゴタゴタがおきるとお互い迷惑だからさ。そこんとこわかって下さいよ」ビラはものではないというのがわれわれの理解である。また、よしんば”ゴミ“であっても、それこそ”ゴミは天下のまわりもの“である。百歩ゆずって考えても、おいてあったビラ、こちらの頭上にあったビラを”カミカゼ“が吹いて、米兵のもとに運んでくれたこともある。その風については”当局は一切関知しない“
 朝霞でも米兵内部にグループ単位の亀裂が深まっている。そしてその一方はわれわれと結びついている。
(清水知久)(注:当時日本女子大助教授)

(終)

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