野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2016年06月

私も関わっている「10・8山﨑博昭プロジェクト」では、6月7日(火)から12日(日)まで、文京区・根津のギャラリーTEN(テン)で「ベトナム反戦闘争とその時代―10・8山﨑博昭追悼」展を開催した。
今回は、その展示会の様子などをドキュメント風に、写真を中心に掲載する。

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(チラシ写真)
この展示会についてはNo432でも書いているが、再度、企画趣旨など掲載する。

◎山本義隆監修「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山﨑博昭追悼」展◎
【企画趣旨】
 ベトナム戦争は戦争布告がないまま始まり、1975年に終結しました。この戦争をめぐって世界各国で反戦運動が拡がりました。本展は、当時の日本でのベトナム反戦闘争の軌跡を写真と資料で紹介し、現在から未来へつなげようとする試みです。
 1965年、米軍による北ベトナムへの空爆開始と南ベトナムへの上陸とともに、ベトナム戦争は本格化しました。ほぼ同時に日本では、ベ平連、三派全学連、反戦青年委員会、高校生運動が誕生し、反戦闘争が活発化しました。翌1966年には、立川基地拡張に反対して、砂川町の農民と全学連・反戦青年委員会の共闘が形成され、農民と学生と労働者との共闘体制は、その後の三里塚闘争にも引き継がれていきます。
 ベトナムでの米軍の軍事行動のエスカレーションに応じて、米軍の後方基地としての日本の役割は飛躍的に増大。それに並行して、反戦闘争は日本の戦争加担という事実と向きあっていくことになります。とりわけ、ベトナム戦争への加害者であることの自覚を日本人にうながしたのが、1967年10月8日の佐藤栄作首相の南ベトナムへの訪問強行でした。サイゴンの米国傀儡政権への政治的な梃子入れを目的としたこの訪問を阻止するために、学生・労働者は羽田で闘い、この闘いへの凶暴な弾圧のなかで、京大生・山﨑博昭君(18歳)が死亡しました。
 以後、日本の反戦闘争は激しさを増し、なかでもジャテックの活動は、米軍基地からの反戦米兵の脱走支援、さらには基地内での叛乱をうながす運動へ発展していきます。その後、日本国内のほぼすべての米軍主要基地において、反戦地下新聞が発行されるようになり、無許可離隊や命令拒否が続発するという事態が生まれます。それが世界最強を誇る合衆国の軍隊を内部から弱体化させ、1975年のサイゴン陥落、ベトナム戦争の終結に向かう遠因となったのでした。
 この1960年代半ばから10年近くの日本のベトナム反戦闘争は、学生・労働者・農民、そしてサラリーマンから主婦にいたるまで、広範な人々により、重層的な構造と広域的な拡がりをもって闘われました。また自衛隊内部からも反戦の声があげられました。
 本展「ベトナム反戦闘争とその時代」は、山﨑博昭君追悼とともに、かつての時代の一端を残存資料によって再現しようとするものですが、それはたんなる追憶にとどまらず、その時代の経験を後続の世代に継承させたいと願っての企画です。
                   (展示監修・山本義隆)
*展示内容*
砂川基地拡張反対闘争の記録写真と資料/ベ平連とジャテックの活動記録/日本各地の米軍基地内での反戦地下新聞・機関誌/各地の市民運動の記録/第一次羽田闘争(1967年10月8日)の連続記録写真(撮影・北井一夫)/王子野戦病院反対闘争・佐世保闘争・三里塚闘争の記録写真/ポスター(粟津潔、他)、関連書籍、雑誌、新聞、写真集etc.

展示会の様子をドキュメント風に写真で追ってみる。

5月31日(火)
台東区・入谷の法昌寺で展示資料のセレクトを行う。
法昌寺は、山﨑プロジュクトの発起人でもある歌人の福島泰樹氏が住職を務めるお寺である。境内には、元プロボクサーでコメディアンの故「たこ八郎」を祀った「たこ地蔵」があることで有名である。

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(法昌寺写真)

展示資料を広げてセレクトするにはある程度の広さが必要ということで、この法昌寺の本堂をお借りすることになった。本堂は宗教行事を行う重要な場所なので、本堂を汚さないためにブルーシートを敷いて作業を行った。ブルーシートは福島氏の弟子のN氏が用意。
展示のジャンルごとに資料を並べ、展示スペースを考えながら資料の配置を決めていく。配置が決まったものは写真に撮り、ギャラリーでの展示のベースとする。最終的に資料は全部展示することになった。

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(ブルーシートに並べた資料)


6月6日(月)
ギャラリーへの搬入日。
入谷の法昌寺から車で展示資料を運ぶ。ギャラリ-に到着したのは午後3時頃。5月31日に撮った展示資料の配置の写真を基に、展示資料を養生用テープで壁に貼り付けていく。大きい資料は押しピンで留めていく。写真家の北井一夫氏も展示準備に加わった。
作業中、通りかかった外国人のカップルがギャラリー内に入ってきて、熱心に資料を見ていた。

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(搬入写真)

作業は午後6時前には終了。大阪から応援にやってきた道浦母都子さんが買ってきた大阪土産の「豚まん」など食べながら缶ビールで乾杯。「展示会が成功しますように!」
その後、近くの居酒屋へ。

6月7日(火)
いよいよギャラリーオープンの日である。
開場時間より30分ほど早めにギャラリーに到着すると、ギャラリー内は昨日の面影がない。養生用テープで留めていた資料が全部はがれ落ちてしまったのだ!オープンというのに、再度、展示資料を貼り付けなければならない。それも押しピンで・・・。
早めに来ていた発起人が、東急ハンズに買い出しに行っている事務局のM氏に連絡を取り、押しピンを大量に買うように指示。とりあえず、ピンで留めるまでの仮留めということで資料を貼り付けていくが、展示資料の配置の写真はいらないと思って持ってきていなかったので、記憶を頼りにやるしかない。う~ん、こうだったかなという感じで何とか貼り付けていく。
オープン時間になると来場者がやってきた。事情を説明して少し待ってもらう。オープンから1時間後くらいには、何とか昨日の状況に戻すことができた。
初めてのことなので、こんな想定外?のことも起きる。
来場者の予想は全くできなかったけれど、来場者は途切れることなくやってきた。上々の滑り出しである。


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(ギャラリー内の様子)

オープンの日の夕方からはオープニングパーティーを開催し、約50人が参加した。以下、このオープニング・パーティーでの写真を掲載する。


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司会:佐々木幹郎(発起人)


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挨拶:山本義隆(発起人)


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挨拶:福井紳一(60年代研究会)


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乾杯:山﨑建夫(発起人)


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ギャラリー内は人でいっぱいなので、ギャラリーの前の路上にテーブルとイスを出して、外でも懇談。



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(北井一夫さんが自分の写真の前で記念撮影)。


オープニングパーティーは午後5時から始まり午後7時には終了した。その後、近くの居酒屋に席を移して二次会に突入。約30人が参加した。
二次会では参加者一人ひとりから発言していただいた。
以下、二次会の写真を掲載する。


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発言:福島泰樹(発起人)


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発言:鈴木邦男(一水会顧問)


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二次会司会:辻 恵(発起人)


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挨拶の後、辻氏の先導により「ワルシャワ労働歌」と「インターナショナル」の斉唱を行った。


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シメの挨拶は山本義隆氏。


6月9日(木)

予想より展示を見に来ていただいた方が多いので、芳名帳の記帳欄が足りなくなった。この日は新しい芳名帳を買って持って行った。
ギャラリ-内では、毎日、夕方から映像を上演することになっていたが、オープンしている間は常に映像を流すことにした。映像を流すことにより、会場の雰囲気が「ベトナム反戦闘争の時代」になっていくような感じである。流す映像は反戦米兵の映像や「怒りをうたえ」「現認報告書」などである。


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(ギャラリ-内での映像の上映)


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(ギャラリーの様子)

展示資料を見てすぐに出て行く人は少なく、皆さん丁寧に展示を見ているという印象だった。


6月12日(日)
いよいよ最終日。
天気もいい。
前日の講演会で「市民が戦争と闘った時代」というタイトルで講演していただいた和田春樹氏もギャラリーに顔を出した。和田氏にはその場でプロジェクトの賛同人になっていただいた。本にサインを求めるスタッフもいた。

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(和田春樹氏が来場。)



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(混み合うギャラリー)

ギャラリー内では上映される映像に見入る人が多かった。特に「怒りをうたえ」の上映の時は、来場者が全員スクリーンを見ているので、ちょっと中に入りづらいような雰囲気もあった。

ギャラリ-の外でも、発起人やスタッフと話しをする人が見られた。

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(ギャラリーの外での懇談)

展示は午後6時で終了。ギャラリー内にはまだ来場者数人が残っていたが、閉館する旨説明してお帰りいただいた。
展示資料の撤去は、設営の時に比べれば時間がかからない。壁から資料を外し、展示テーマごとに袋に入れていく。

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撤去作業終了後、今回の展示に全面的に協力していただいた「60年代研究会」のメンバーと山本義隆氏がギャラリー前で記念撮影。
皆さんホッとした表情である。

展示期間中(6月7日~12日)の延べ来場者数は554名(記帳者のみ)である。これは記帳者の数なので、実際には600名近い方が来場したと思われる。
今回の展示会は、事前に朝日新聞や東京新聞に記事が掲載されたこともあり、来場者が予想以上に多かった。アンケートを見ても、新聞を見て来ていただいた方が4割もあった。改めてマスメディアの力を実感した。
来場者の内訳をみると年配者だけでなく若者も多かった。これは「60年代研究会」のメンバーである駿台予備校の講師の方々が学生に積極的に働きかけていただいた結果であると思う。
また、外国人の方も数は少ないが来場した。その中にはベトナム人留学生もいた。あるベトナム人留学生は、初日に来て、最終日にも友人を連れてやってきた。
たまたま立ち寄ったという近所の人もいた。
来場者と話す機会も多かった。韓国の学生運動を研究している女性は「夥しい政治的死を通して民主化を勝ち取った韓国との違いは何か」という関心を持って来場したとのこと、地元で小さなデモをやっているという女性は、大泉市民の集いの活動に非常に興味を持ったとのこと。
また、たまたま立ち寄った近所の学生は「最近の若者はみんなシールズみたいな考えだと思われるが、そうではない。反戦に対する思いを言葉、行動で形にするのは重要なこと。山﨑さんの意志を少しでも継承できたら。」と話していた。
この展示会がいろいろな方の思いが集まり、共有する場になったのではないかと思う。

東京での展示会は終わったが、今秋10月19日(水)から10月24日(月)まで、京都精華大学のギャラリーフロールで関西での展示会を行う予定である。会場が倍くらいの広さがあるので、東京展示会より更に拡充した内容になると思う。期待していただきたい。
また、10月21日(金)には、同大で山本義隆氏の講演会も予定している。
関西在住の方には、この機会に是非とも会場に足を運んでいただきたいと思う。

(終)

私も関わっている「10・8山﨑博昭プロジェクト」では、6月7日(火)から12日(日)まで、文京区・根津のギャラリーTEN(テン)で「ベトナム反戦闘争とその時代―10・8山﨑博昭追悼」展を開催している。
今回は、その展示会の様子など途中経過を、写真を中心に掲載する。

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(チラシ写真)
この展示会についてはNo429でも書いているが、再度、企画趣旨など掲載する。

◎山本義隆監修「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山﨑博昭追悼」展◎

期日:2016年6月7日(火)~12日(日) 11:00~19:00(土日は18:00まで)
会場:ギャラリーTEN (東京都台東区谷中2-4-2  電話03- 3821-1490)
主催:10・8山﨑博昭プロジェクト/協力:60年代研究会(代表・山本義隆)
入場無料

【企画趣旨】
 ベトナム戦争は戦争布告がないまま始まり、1975年に終結しました。この戦争をめぐって世界各国で反戦運動が拡がりました。本展は、当時の日本でのベトナム反戦闘争の軌跡を写真と資料で紹介し、現在から未来へつなげようとする試みです。
 1965年、米軍による北ベトナムへの空爆開始と南ベトナムへの上陸とともに、ベトナム戦争は本格化しました。ほぼ同時に日本では、ベ平連、三派全学連、反戦青年委員会、高校生運動が誕生し、反戦闘争が活発化しました。翌1966年には、立川基地拡張に反対して、砂川町の農民と全学連・反戦青年委員会の共闘が形成され、農民と学生と労働者との共闘体制は、その後の三里塚闘争にも引き継がれていきます。
 ベトナムでの米軍の軍事行動のエスカレーションに応じて、米軍の後方基地としての日本の役割は飛躍的に増大。それに並行して、反戦闘争は日本の戦争加担という事実と向きあっていくことになります。とりわけ、ベトナム戦争への加害者であることの自覚を日本人にうながしたのが、1967年10月8日の佐藤栄作首相の南ベトナムへの訪問強行でした。サイゴンの米国傀儡政権への政治的な梃子入れを目的としたこの訪問を阻止するために、学生・労働者は羽田で闘い、この闘いへの凶暴な弾圧のなかで、京大生・山﨑博昭君(18歳)が死亡しました。
 以後、日本の反戦闘争は激しさを増し、なかでもジャテックの活動は、米軍基地からの反戦米兵の脱走支援、さらには基地内での叛乱をうながす運動へ発展していきます。その後、日本国内のほぼすべての米軍主要基地において、反戦地下新聞が発行されるようになり、無許可離隊や命令拒否が続発するという事態が生まれます。それが世界最強を誇る合衆国の軍隊を内部から弱体化させ、1975年のサイゴン陥落、ベトナム戦争の終結に向かう遠因となったのでした。
 この1960年代半ばから10年近くの日本のベトナム反戦闘争は、学生・労働者・農民、そしてサラリーマンから主婦にいたるまで、広範な人々により、重層的な構造と広域的な拡がりをもって闘われました。また自衛隊内部からも反戦の声があげられました。
 本展「ベトナム反戦闘争とその時代」は、山﨑博昭君追悼とともに、かつての時代の一端を残存資料によって再現しようとするものですが、それはたんなる追憶にとどまらず、その時代の経験を後続の世代に継承させたいと願っての企画です                                                                               (展示監修・山本義隆)
*展示内容*
砂川基地拡張反対闘争の記録写真と資料/ベ平連とジャテックの活動記録/日本各地の米軍基地内での反戦地下新聞・機関誌/各地の市民運動の記録/第一次羽田闘争(1967年10月8日)の連続記録写真(撮影・北井一夫)/王子野戦病院反対闘争・佐世保闘争・三里塚闘争の記録写真/ポスター(粟津潔、他)、関連書籍、雑誌、新聞、写真集etc.

今回の「ベトナム反戦闘争とその時代―10・8山﨑博昭追悼」展の目玉は、次の二つである。
一つは、写真家北井一夫氏の未公開写真の展示である。北井氏は、1967年10月8日の第一次羽田闘争の写真を撮っている。今回、第一次羽田闘争の記録写真のフィルム50数本の内、約半数のネガフィルムをベタ焼にしてギャラリーに展示している。40数年の時を経て、初めて公開される写真である。
二つは、ベ平連関係で、米軍基地内の反戦地下新聞の原本展示である。今まで殆ど知られていなかった、米軍内の反戦活動の貴重な記録である。
もちろんこれ以外にも、当時のベトナム反戦闘争に関わる多くの資料を展示している。また、展示期間中(土日を除く)、ギャラリー内で反戦米兵の映像の上映などを行っている。
展示期間中は、何人かの発起人はギャラリーに来ているので、そこで話をすることもできる。
ギャラリ-内にテーブルとイスを用意しているので、いろいろな思いを語り合うこともできる。
なお、ギャラリーは参加無料であるが、お気持ちのある方はカンパをお願いしたいと思う。

また、6月11日(土)には、ギャラリー展示と連動した企画として、ギャラリ-の近くの「文京区不忍通りふれあい館」で和田春樹氏の講演もある。こちらにも是非参加をお願いしたい。
この展示は「ベトナム反戦闘争の時代」を展示で振り返るものではあるが、決して思い出に浸るようなものではない。
過去の「戦争と闘った時代」の資料展示を通じて、「あの時代」の思いを現在、未来に生かしていくための展示である。
多くの方の参加を期待している。

(ギャラリー内の展示の一部を紹介)

ギャラリーTENの看板

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今回の展示の目玉の一つ。
1967年10月8日羽田闘争の連続写真。
法政大学出撃から弁天橋での戦いまで。(天眼鏡を用意しています。)


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左側「沖縄全軍労の闘争」。
右側「ベ平連の運動・6月行動」



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反戦米兵の映像。


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今回の展示の目玉の二つ目。
写真左側「米軍基地内の反戦地下新聞」
写真右側「自衛隊内の反戦活動」



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「週刊アンポ」原本展示


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ワシントン・ポスト意見広告カンパ袋(原本)
(展示への協力者から預かったもの)



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なお、6月3日の朝日新聞東京版夕刊に10・8山崎博昭プロジェクトの記事が掲載された。翌日には朝日新聞大阪版にも記事が掲載された。

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(朝日新聞東京版夕刊記事2016.6.3)

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(朝日新聞大阪版記事2016.6.4)

【お知らせ】
◎10・8山﨑博昭プロジェクト第4回東京講演会◎
戦争に反対する講演と音楽の夕べ
日時:2016年6月11日(土)  18:30開場、19:00開演
会場:文京区不忍通りふれあい館(東京都文京区根津2-20-7)
    第1部/講演:「市民が戦争と闘った時代」
  講師:和田春樹(元大泉市民の集い代表。歴史家。東京大学名誉教授)
 第2部/音楽ライブ「明日」
  出演:詩と音楽のコラボレーション集団VOICE SPACE
   小林沙羅(ソプラノ)、小田朋美(ピアノ・ボーカル)、豊田耕三(アイリッシュ・フルート)、関口将史(チェロ)
(注:東京芸術大学音楽学部の学生、院生、卒業生を中心とした現代詩を研究する音楽グループ。2004年に発足。)
参加費:¥1000 
主催:10・8山﨑博昭プロジェクト
お問い合わせ・予約:E-mail: monument108@gmail.com

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