野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2016年07月

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの4回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、前回に引き続き「週刊アンポ」第1号に掲載された「高校学園祭の本質をつく」(神奈川県立平塚江南高校、都立大付属高校、都立駒場高校)を掲載する。


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【高校学園祭の本質をつく その主人公たちの主張と全国高校学園祭の実態アンケート 週刊アンポNo1 1969.1.17発行】
  高校問題、いまや大学問題以上に大きな問題となりつつある。だがその報道はヘルメット、バリケード、封鎖、さらには火炎ビンと、現象面だけが追われ、その背後にある問題点や、高校生の考え方、主張はほとんど問題にされない。
 「紛争」がおこるとマスコミにはのるが、その「紛争」がなぜおこったのか、高校生がなぜ激しい形の闘争に訴えざるをえなかったのか、その原因や経過は闇に葬られる。
 たとえば文部省のモデル高校とされている神奈川県立平塚江南高校の場合を見てみよう。「紛争」は今年の三月、文化祭の内容をめぐっておこった。

<戦後の沖縄はご法度>
 ―各研究会は4月に入って、校長との対談(通告)を行い、その場で沖縄研究会は「戦前の沖縄は発表してよいが戦後の沖縄はいけない。B52の写真は貼ってはいけない。」という通告を受け、また安保研究会は「安保問題を研究することそれ自体いけない」という通告を受けた。学校側はその後各研究会の個人攻撃を始めた。
 -攻撃は家庭への直接電話、名目を変えての父兄の呼び出しと多彩(?)をきわめ、研究会のメンバー(総員23名)は半数以上に減っていく。第2回目の校長対談(通告)がその後行われた際、「沖縄については観光と風土ならよい。安保研は認めない」といった発言が出るにいたって今回の問題は爆発し・・・(以上「ベ平連ニュース」9月号)
 こうして江南高の闘争は始まってゆく。戦後の沖縄を観光と風土とだけで研究させようとする文部省モデル指定高。常識ある高校生がそれに反発するのはまったく当然であり、こうしたことが許されている高校のあり方自体に問題の焦点がさらに向けられてゆくのもまた当然といえよう。
 いや、最近、新聞ダネとなっている「紛争高」とは、抑圧に対して抗議する余地が与えられているところだ、という見方もできよう。「紛争」のおこっていない高校のほとんどは、問題意識の萌芽も巧妙に摘みとられているともいえるのだ。

<闘争の契機としての学園祭>
 今号では、こうした高校問題の激発の契機となる学園祭、文化祭に焦点を合わせた。さきの江南高校の例のように、学園祭における高校生の研究発表や主張に対する制限、圧迫さらには弾圧が、高校生たちの強い抵抗や反撃の契機をつくり出しているからであり、それを通じても今の高校がもっている問題点の一端を明らかにしうるだろうからである。
 文部省のモデル高に対し、高校生はどんな文化祭、どんな学校を理想として追求しているのか、この秋、学園祭をもった高校の中から、その主人公である高校生自身にそれを語ってもらおう。また別掲のアンケートは、高校生がそれぞれの学園祭をどう見るかを明らかにしている。
(注:アンケートは省略)

【マヌーバーとしての自主管理 都立大附属高校闘争委員会】
われわれの高校の文化祭=記念祭は、今までもその運営方法、内容等で他校の文化祭とはかなり違ったものだった。というのは、各高の文化祭で去年あたりから問題になってきた文化祭の生徒による自主管理が、完全とはいえないまでもある程度行われてきたからだ。
 (違った見方をすれば、学校当局がそういうことを保障してくれていたとも言える)例えば、展示、劇の題材、内容については全く自由であったし、教師は学校管理者立場からの干渉は行わなかった。また、予算、会計等の事務的な準備、仕事、全体の行事(歌声、ファイヤー等)は、生徒の選挙によって選ばれた記念祭執行委員長とその執行部、あるいは展示、劇等を行うクラス、サークル等の代表者によって構成される代表者会議に任されていた。代表者会議によって、記念祭3日間の生徒の下校時刻等が決定され、それらについて全生徒を代表した執行部が教師と折衝を行っていた。展示の内容としては、かなりの部分で安保、沖縄問題等、政治的社会的問題がとりあげられてきた。だからすべてが生徒の自主管理とは言えないにしても、われわれの記念祭は、昨年まではある程度の自主管理が保障されていたのだ。つまり進歩的な教師は生徒を信頼して記念祭の運営をまかせ、生徒の自主性を尊重していくこととされ、また、生徒にとっては自由と自治ということで、生徒=高校生のまさに人間的な権利という部分で評価し、かつ正当なこととし、政治的、社会的な部分の問題をも考え、行動していくということだった。

<「民主的」の意味するもの>
 これは一見正しく、教師も生徒もこの学校自体も実に民主的、進歩的のように見られるのではあるが、そこからごく自然に発生してくること、それが問題なのであった。すなわち、ある程度の自主管理を保障するという、ぬるま湯的情況がそれなのである。
 つまり、記念祭を行っていく過程の中で、自主管理がある程度できる、自由に題材を選んで研究できるということで安心し、満足してしまうのである。この危険性は、満足感の中で多くの一般生徒を無気力化し発展性をなくさせる。たとえば、文化祭闘争はもとより、政治的スローガンをかかげる闘争が一切黙殺されていくようになる恐れがあるのである。
 学校当局がある程度の自主管理を認めるということは、実は汚いマヌーバーなのである。つまり、生徒に学校当局がある程度の自由を認めておけば、生徒の中にいくら有力な指導者があらわれて完全自主管理要求や、教師の管理者的立場を糾弾しようとやっきになっても、生徒はついてゆかないだろうという思惑があるのである。このやりかたは、記念祭の自主管理という問題だけではなく、われわれの高校においては多くの面にみられたのである。
 しかし、今年は、記念祭直前にわれわれ附闘委で現体制内の学校存在そのものを問題にして“バリ封”を行ったことによって、学校存在そのものの中での行事として行われようとした記念祭の性格が鮮明に浮き彫りになったのであった。

<自主管理にさらに造反>
今年の記念祭においては、まず記念祭執行部は徹底した自由参加を提起した。つまり、多数決によって参加形態を決める“クラス参加”というものを一切排除し、学年、クラス、クラブを越えて、各個人が自発的な記念祭に対する参加形態を考えだし、一致したものどうし結合していく形にしたいと提起したのである。それによって執行部がトータルな管理をするというのではなく、そのサークル、グループが記念祭において、自分たちの研究行動等を管理するということが同時に提起されたのであった。つまり自主管理といいながら、執行部の管理のもと安心して記念祭を行ってきたサークル自身が実にその名通りの自主管理を提起したのであった。
 これと並行し、附属高闘争委員会のメンバーは、現在の高校のあり方、教師の立場の持つ欺瞞性に大きな疑問を投げかけバリケードストライキに入った。そして、そいういった闘争を通じた記念祭の本質をも問われてきたのである。それで、記念祭実行委員長は「究極的にいって記念祭はやはり学校行事となっているのであり、そういった認識の下でこれまた定例行事である生徒大会で学校当局や自治会によって委員長に選ばれたこと自体が徹底的な自己批判にあたいする」とし、委員長を辞任したのである。それと同時に彼は新しく一人の人間として先進的に記念祭を創り上げていく試みを行おうとしたのだ。
 しかし、記念祭は結果的に準備不足などが重なり、展示を中止したり、延期を要求するサークルが続出した。が、ともかく記念祭は挙行された。しかし、内容的に2、3年生の参加が少なくて1年生が圧倒的に多く、さらには内容も喫茶店とか金魚すくいなどが多く、3年生の一部には記念祭を秋祭りにせよとの声まで出る始末であった。実際に今年の記念祭はついに秋祭り化してしまった。

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【学園祭は誰のものか 都立駒場高校ベ平連】
 ぼくらは高校にはいってから今年で学園祭を2回経験したわけである。この紙面をかりてその総括とこれからの展望を行い、学園祭の本質的な価値をぼくら自身で確認してみたい。まず、総括の上で明確に言えることは、「何の目的で学園祭を行うのか?」「学園祭とは何なのか?」「誰のための学園祭なのか?」という根本的な自分自身への問いかけが声を大にして行われずに、今考えればまったくナンセンスなことであるけれども、主体性のない学園祭を続けてきたことである。つまり、この十何年来学校の行事スケジュールのひとつとして存在し、やって楽しい、見て楽しい、学園祭が終われば空虚感だけしか残らず、他には何もないという単なるお祭りでしかあり得なかったことだ。そして、もっと集約的にいえば、それは学校生活の日常性の象徴としてしか現れてこなかったことだ。それゆえに「クラスの親睦」ということばなどでごまかしてしまう。なにも学園祭を「クラスの親睦」のための最頂点におくことはないし、そういった限られた位置におかせる現在の高校教育機構にも問題がある。事実、今年出されたわが校の学園祭の目的と呼べるものであった「クラスの親睦」も、前述した通りの確固たる目的ではなかったために、漠然とした義務感と、お祭りごとなら何でも結構という気持ちとでやっと活動を始め、小器用に形だけは整えたが、結局一部の人間の親睦になってしまったのである。
 また、学園祭が日常性の象徴であることの大きな理由には、校内で行われる学園祭が自分の学校以外の社会とは何の関連もない、ということがある。青山高校のように自分の学校に問題が起こらない限りは、ベトナム戦争が起こっていても、自衛隊が治安訓練を行っていても、学園祭は行われるのである。はたしてこのように高校を社会から切り離し、一時の平和気分につかっているだけでいいのだろうか?大学の受験制度の中にあって、その気分転換のためのひとつの享楽でしかないものとして学園祭を形骸化してしまっていいはずは絶対にない。そこでぼくらは今年の9月21日の日曜日、「考える学園祭」として問題提起の形で“ベトナム反戦、沖縄闘争勝利、安保粉砕”を問題事項に取り上げ、外部からはフォークゲリラを招いて学園祭中の中庭において集会を持った。既成の学園祭に対する告発というだけでこの集会を持ったわけではないのだが、結果として決してこの集会は満足しえるものではなかった。政治的な目的も、同じ日に同じ場所で集会を開いていた全共闘準備委員会(その目的は青山高校連帯集会であった)と同様に充分に果たされたとは言えなかった。なぜならば、残念なことに一般生徒の意識の高揚がその段階まで達していなかったからである。
 さて、最後には展望として、これからの学園祭というものを考えていかなければならない。今まであげてきた問題点を克服するものは究極的には各自の主体性である。大学はマンモス化されて個々の学生の立場が反映されないのに対し、高校こそはそれが十分発揮される場所であるいという事実があり、それにぼくら自身の自発性をプラスして、行動を起こしていかなければならない。


以上、「週刊アンポNo2」に掲載された記事である。
この3つの高校の闘争はその後どうなったのか?
2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から引用する。

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<神奈川県立平塚江南高校>
『1969年6月、神奈川県立平塚江南高校で2人の活動家が「江南反動体制についての、校長の全面自己批判要求」を求めてハンストなどを行った。彼らが沖縄問題を研究しようとした際、学校側から「戦前の沖縄は発表してもよいが、戦後の沖縄発表は許さない。B52の写真も発表してはならない」「安保問題を研究すること、そのもの自体、いけない」と言われたことへの抗議だった。ビラで校長を批判している。
「この時から学校側の個人攻撃が始まった。各研究会の個人に対し、校長から家庭への直接電話、名目を変えての父兄の呼び出し等々というやり方でそれは行われた」(「高校生は反逆する」三一書房、1969年)
 11月13日、2人は用務員室に入り、宿直代行員を縛って監禁したあと、屋上に立てこもり校内民主化を訴えた。警察が待機していたが、学校側は2人を説得して屋上から連れ出した。その後、校庭で2人を交えて、生徒400人で集会を行っている。
 2日後、学校はこの2人に退学処分を科した。封鎖を行った公立高校にあって、短い期間でこれほど厳しい処分を科したケースはめずらしい。「封鎖事件の経緯について」で校長はその理由をこう記している。
 「職員会議の席上、職員の発言の中に『生徒はノイローゼになりつつある』との意見もあり、その時私は即座に意を決した。このような状態はまさに県下某高校におこったような不幸な事件―それは生徒の生命に関わる重大事態であるーをまきおこす雰囲気にはなはだ似通ってきていると判断した。私としてはこのような事態を放置しておくことはできない』(「神奈川県立平塚江南高等学校 創立50周年記念誌」1973年)』

<都立大附属高校>
『都立大附属高校は69年3月、9月、70年6月、10月の4回にわたる封鎖、72年の授業妨害など、紛争は長期化した。にもかかわらず、機動隊の導入は一度もない。封鎖に関連した厳しい処分もなかった。これは、教師のあいだで一致した考えがあったためだった。
69年9月、学校は生徒にこう話している
「機動隊を要請することはない。要請がなくとも機動隊が入る事態を何とかして防ぎたい」「処分権は教師のみにあるとする一方的な処分を自明のものとして認めることは教育上、多分に問題がある。」「青山高校の事態を見て、われわれ自身の問題として反省すべき多くの点があることを認める」
 文部省の手引書、つまり高校生の政治活動禁止に対しても「何ら法的拘束力はない。これに拘束される意思はない」』

<都立駒場高校>
『1969年11月18~22日、東京都立駒場高校では全共闘準備委員会(全共闘(準))が「安保粉砕」「沖縄闘争勝利」「佐藤訪米実力阻止」などを訴えて、校舎を封鎖した。学校問題はなに一つ要求されなかった。政治闘争である。メンバーは約15人。全員が同高の生徒で、女子が2~3人含まれていた。
 全共闘(準)は、前日に近くの大学に泊まって、午前4時に学校に向けて出発した。事前に
「レポ」と呼ばれる情報係が水泳部部室に泊まり込んで、教師の見回り、機動隊の同行を探ったところ、教師が泊まり込んでいるだけとわかり、この日の封鎖を決行する。
 全共闘(準)はヘルメットをかぶり、手には角材を持って、学校正面の塀を一列に進んだ。1階生徒ホールに通じる1号館のドアのガラスを角材で割って、鍵を開けて入ると教師数人が出てきた。学校史で全共闘(準)が証言している。
 「女子1人が教頭にはがいじめにされる。角材を振り上げて『離せ』と恫喝、女子をふりほどいてすぐに二階に上がり、二階に通じる全ての階段を、教室の机とイスを持ち出して、階下に投げて封鎖した。・・・夜、女子は山岳部の寝袋で寝た。男子は渡り廊下にあった社研の机の上で交代で寝る。食糧は渡り廊下から縄はしごをたらしてシンパにあげてもらう」(「慕いて集える 東京都立駒場高等学校百周年記念誌」2003年)
 全共闘(準)は機動隊が入るという噂を聞き、理科室で火炎ビンを大量に作った。しかし22日、全共闘(準)は封鎖を解除する。勝ち負けをつけるならば、負けである。一高校が封鎖したところで政治が変わるわけじゃない。となれば、なぜ封鎖したか。
 これは一部の党派や無党派活動家の考え方だが、封鎖はなにか要求を掲げて、それを勝ちとるために行われたとはかぎらない。封鎖そのものを成就させて、高校生が政治スローガンを訴え、学校に突入できたことに意味がある。つまり、封鎖失敗が「負け」であり、封鎖成功が「勝ち」である。』

※  都立大附属高校闘争委員会の72年のビラをホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」で公開しています。

(終

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの3回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第2号に掲載された「バリケードの意味するもの」(都立日比谷高校)を掲載する。


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【「バリケードの意味するもの 日比谷高校 三年Y」週刊アンポNo2 1969.12.1発行】
「ガツン」鈍い音がして、バラ色の血が少女の頬をおおった。私のすぐそばをあの顔が、白眼をむいて引きずられて行った。そして私の眼の前をふさいだジュラルミンの盾のむこう側には、われわれが豚のような顔をした警察官たちに蹴られ殴られているのを、震えながら見物している教師たちの赤い眼があった。10月28日、われわれはそこに、自から教育者であることを放棄した教師の姿を見た。

<立ち上がった一般生徒>
戦後民主主義の美名と欺瞞の上にぬくぬくと安住してきた現教育体制が黄昏をむかえ、その中にあった矛盾が、もはやそれを内包できないところまでふくれあがり、教育自身が自己崩壊をとげようとしている現在、教師たちは「真の教育者であろうと欲すれば、教師であることをやめなければならない」という奇妙なパラドックスに直面せざるを得ない。そして日比谷高校の教師たちは、教師であることを続けるために、あえて教育者であることを放棄した。彼らは自分たちの教え子を、自らの手で官憲に売りわたした。「学校の設備を守る」という大義名分のもとに。その時校門の鉄条網を突破して座り込んだ二百名の学友たちは、けっして学校側のいう「活動家」や「過激な生徒たち」ではなく彼らの言葉を借りれば、真に「一般生徒」たちであった。その中には、全闘連による校舎などの封鎖を率先して批判していた人々の姿さえ見出すことができた。それほどこの警官導入、およびロックアウトの処置は、生徒たちにとってショックであり、学校管理者―教師との決別であった。この時、日比谷高校における闘争は、初めて全生徒のものとなった。過去1ケ月に渡ってくり広げられてきた闘争の間、学校側は問題の根本的解決には何ら目をむけようとせず、ひらすら問題の現象的平常化をあせった。そして生徒の提起した問題にいっさい誠意ある回答をしようとせず、彼ら自身のそのような態度が、ひいては封鎖や授業ボイコットを招いたことを自己批判さえしない。彼らの眼には、あのバリケードは単なる不法占拠された空間にすぎず、うずたかい椅子や机の集積としか映らない。彼らはそこに込められたわれわれの要求や、バリケードの重みを見ようともしない。そしてさらに今、彼らは高くはりめぐらされたロックアウトの壁の内側で、個々の活動家生徒の行った「不法」な行為に対しての処分を検討している。教師とはもはや、我々の管理者として、否、国家に代わってわれわれを管理しようとしている「管理人」としてわれわれの上にのしかかかっている。われわれにとっては彼らが国家である。われわれはそれを10月28日の警官隊導入の時にはっきりと確認した。警官隊の人垣に守られてコソコソとこちらをうかがい、そこに座り込んでいたわれわれを、うさんくさげにながめている彼らを見た時、私は青黒い、イボイボや巨大な突起を持った「国家」という剣竜のぶ厚い表皮を感じた。

<「過渡期」三項目要求>
日比谷高校における闘争は、9月の下旬に全学闘争連合(社研、雑誌部員などを中心としたノンセクト連合)の提起した「過渡期三項目要求」に端を発している。これは「過渡期」という言葉がつけ加えられていることからもわかるように、それ自身として自己完結しないいわゆる要求闘争と次元を異にするものである。三項目とは、「1.3・15警官導入自己批判及び今後一切の警察力を導入しない事の確約。2.文部省指導手引書の拒否。3.都教育庁処分基準案の拒否と一切の処分を行わない事の確約。」である。
 われわれにとって闘争とは、単なる功利的要求でなく、受験という日常性からの脱却であり、自己に対する存在論的問いかけであり、実存的投企であった。われわれの闘争は、近頃ジャーナリズムが面白半分に「灰スクール」などと取沙汰している「われわれの高校生活の虚しさ」から始まっており、また、われわれにとって運動とは、その虚しさの表現以外の何物でもなかった。(そして今、われわれはその虚しさの中に帰って行こうとしている・・・)

<放火という中傷>
 過渡期三項目要求はわれわれにとって一つの闘う砦であった。われわれはわれわれの集会における三項目の討論に、職員会議の参加の要請をくりかえし、そのつど拒否され続けた。しかし一般生徒の三項目要求に対する関心はしだいに高まり、われわれはついに10月6日に、大衆会見を開く確約を学校当局から取ることができた。ところが、学校当局は当の10月6日に卑劣な居直りを行った。大衆会見はいつのまにか学校側主催による「説明会」にすりかえられていたのだ。これは一部活動家学生と一般学生の分割を目的とした。運動を圧殺せんがための学校当局の陰謀以外の何物でもなかった。われわれは「説明会」をボイコットし、再度学校当局に要請したが、回答は拒絶であった。そして彼らはわれわれを、ふだんの授業という日常性の中に引きもどそうとした。このような状況のもとに、全闘連および有志生徒によって日比谷高校の卒業記念館「如蘭会館」及び校門の封鎖が行われた。そして10月12日には八百人の一般生徒諸君によって授業のボイコットが決議され、全職員出席のもとに初の大衆会見が行われたのである。この席上、清水正男校長は全くの人形的支配者であることを、自ら暴露してしまっている。校長は生徒の質問に全く答えられず、学内の状況を全く把握していないことを示したのみか、不法占拠されている講堂において、授業をボイコットして集会を開いている八百人の生徒たちにむかって何を勘違いしたか「このような先生と生徒との話し合いの機会は、私も前々から願っていたもので、それがこのように実現したことは、誠に喜ばしいことと思います。」とやったのである。この校長の発言は、まったくの無知と状況の曲解からきたものか、われわれに対する皮肉を込めた、徹底的な居直りであったかは、諸説乱れとんでいる。ともかくこの大衆会見によって、一般生徒の間に教師に対する不信の声が高まってきたことは事実である。
 また、同時にいわゆる「活動家学生」に対する、学校当局の卑劣な個別的恫喝がひんぱんになってくる。ハンストに参加している生徒や、積極的に教師批判を行っている生徒の両親に対して、学校当局より、担任を通じて「このままでは退学の恐れがある」などとほのめかした文章や電話が行われ、問題児の家庭を訪問して歩く教師がふえている。これは親の心配を逆手に取った教師の破廉恥な闘争圧殺に他ならない。このような学校当局の卑劣な妨害工作はついに如蘭会館放火中傷事件にまで発展する。これは10月24日付の毎日新聞の社会面に、トップ記事として「日比谷高校でナゾのボヤ」と称して掲載された記事の件である。事件の真相は学校当局がバリケード内の水道電気を全て切っていたため、泊まりこみの生徒がつけていたローソクが引火したのであるが、学校当局は「封鎖生徒が腹いせに焼いた疑いがある」と発表、漱石や尾崎紅葉の自筆の原稿などが焼失したとして、世論の反発を買うようにしむけたのである。この原稿は、数日後に、ぬけぬけと「校長室の保管されていたことがわかった」などと発表されているが、この中傷は、学校当局の陰謀であることは既に明白である。

<彼らに怒りと憎しみを>
10月22日、学校当局は大衆会見において一方的に授業再開の発表を行った。その日の午後、6つのクラスにおいて封鎖決議が採択され、全学バリケード封鎖が行われている。ここではっきりと確認しておかなくてはならないのは、この教室の封鎖が、如蘭会館封鎖のように全闘連などの一部活動家によって行われたのではなく、各ホームルームの決議によって、いわば内側から封鎖されたことであり、これが日比谷高校における闘争の性質を表しているといえよう。全闘連はその過渡的な存在の役割は終わったとして自主的に組織を解体し、各ホームルームにおけるクラス闘争委員会および各学年共闘と合流して、真に全学的な闘争を展開しようとしていた。そしてこのように教師が、まったく管理者的な対応しかできなくなってしまった状況において、彼らについに国家という自らの本性を暴露したのであった。日比谷高校において彼らの行ってきた行動は、まさに都教育庁の役割を、そのままなぞったものであった。彼らは通達どおりに官憲を導入し、ロックアウトでわれわれ生徒たちをしめだし、そして現に今、トタンの城の中でわれわれの処分を検討しているのだ。われわれはあの28日、彼らに感じた怒りと憎しみを忘れてはならない。いやあの怒りをこそ、われわれの糧としてゆかねばならない。11月3日、日比谷高校生三百人は警官導入、ロックアウト反対を叫んでデモンストレーションを行った。われわれは闘う。われわれは負けてはならない。今後おそらくやってくるだろう処分、確約書、通行書路線およびすべての当局による規制を認めてはならない。15日現在、学校は木材とトタンのロックアウトによって鎖されたままである。われわれはそれを見る。そしてわれわれは知る。

【編集部より】
「高校生のひろば」は、連載です。あらゆる高校生の生の声を載せたいと考えています。「週刊アンポ」編集部高校生係あてに原稿を送ってください。
次号には青山高、葛西工高、広島の修道高などのアピ-ルが載る予定です。


以上、「週刊アンポNo2」に掲載された記事である。
日比谷高校の闘争はその後どうなったのか?
2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から引用する。

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『69年10月8日、全闘連は校内の如蘭会館(同窓会館)を封鎖する。69年3月の卒業式への警察官導入の自己批判、文部省手引書の拒否などを訴えた。17日、教師によって解除。しかし22日に再封鎖する。日比谷高校は23日から休校となった。
10月28日、機動隊が導入され、立てこもっていた全闘連を排除した。このとき、抵抗した生徒2人が逮捕された。校内立ち入り禁止としたが、生徒百十数人が校門を突破して座り込んだ。再び機動隊が生徒を次々とごぼう抜きして排除する。生徒1人、卒業生2人が逮捕された。その様子をじっと見ているだけの教師たちがいる。生徒の多くは「教師が生徒を警察に売っている」と受け止めた。この日、校門には次の掲示があった。
1.日比谷高校職員以外の一切の者の立入りを禁止します。
2.右に違反すると逮捕されます。 学校長
数日後、学校は校門周辺を鉄板で高塀化するとともに、ガードマン6人を雇って警備にあたらせる。また、生徒は入構証の携帯を義務付けられ、クラブ活動は当分なし、ホームルームも行わない。無許可の集会、掲示、ビラ配布は一切禁止。生徒が集まって話し合うことにも神経をとがらせていた。全闘連はビラで「日比谷アウシュビッツ」と糾弾する。
11月3日、27日と、千代田区清水谷公園でそれぞれ生徒約400人が、学校に対して抗議集会、デモを行う。
11月21日、学校は無期停学6人、停学10日16人、訓告10人、訓戒16人の処分を発表した。』

※この「高校生のひろば」の掲載にあたって、ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」にも、高校闘争のビラをアップしました。(このビラのコピーはK氏から提供していただきました。)今後、「高校生のひろば」のブログ掲載に併せて、ビラをアップしていく予定です。

【お知らせ】
来週は夏休みです。ブログとホームページの更新はお休みです。
次回は7月22日(金)の予定です。

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