野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2016年08月

昨年5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的に掲載することにした。
今回は「週刊アンポ」第7号に掲載された「市民運動入門」第9回を掲載する。

この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。

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【市民運動入門 第9回 ビラ配りについての三つの立場 吉川勇一】(週刊アンポNo9  1970.3.9発行)
 最近よく街頭でビラ配りをしたいのだがどうしたらいいかという問い合わせの電話を受ける。とくに警察や法律との関係のことを聞かれる。これが一言で答えられないから困ってしまう。そこで三つの立場からこの問題を考えてみよう。①警察の立場②裁判所の立場③市民の立場の三つである。

 ① 警察の立場
 警察の立場からすると路上のビラ配りに関係する法律はさしあたり道路交通法第77条1項とそれにもとづく各都道府県のきめた条例や規則ということになろう。たとえば東京でいえば「交通ひんぱんな道路において、寄付を募集し、若しくは署名を求め、または物を販売若しくは交付すること」は署長の許可がいるとしてある(都道路交通規則第14条第8号)。そしてビラ配りはこの「物を交付すること」に該当するのだというわけだ。だから警察に聞けば無許可のビラまきはまったくの違法行為でケシカランことで、逮捕、処罰の対象である、という答えがかえってくる。
 では許可を受ければいいのか。そうは簡単にいかないのだ。何のビラか?今もってきたか?ビラの内容の許可を受けるわけでもないのに、まずまこうとするビラを出さないと、届を受付けさえしようとしない。内容が反戦だの反安保だの、ましてや警察の弾圧非難のビラなんかだと、トタンに彼らの態度は固くなる。親のカタキにあったような顔付をする。そして場所が問題になる。まずこれで話はつかない。こっちのまきたい所はすべて「交通ひんぱんな場所で一般交通に著しい影響を与える」からという理由でダメダといわれる。人通りのまったくない裏通りや街はずれなら許可される。しかしそれでは元来ビラまきの意味がなくなる。こっちは多勢の人にまきたいのだから。
 結局、どうしようもないから、許可なんか受けないでビラをまく。警官がでてくる。追いちらされたり、ビラを没収されたり、交番へ連行されたり、中には留置場へ放りこまれたり・・・。
 つまり、どうしたらよいか、と聞かれても、警察の立場からするかぎり、どうしようもないのである。つまりビラまきはやるべきではないし、やらないのが一番いいという答えになる。これが警察の立場。

 ② 裁判所の立場
 裁判所の立場からすれば、さしあたって判例が問題になるだろう。ビラまき事件の判例としては、有名な『有楽町駅ビラ配り事件』がある。1962年5月4日の朝、3人の労働者が東京の国電有楽町駅前の路上で核実験反対などのビラを警察の許可を受けずに配った。そして逮捕された。道路交通法違反で起訴された事件である。
 これに対し、東京地方裁判所は1965年1月23日、無罪の判決を下し、これを不服とした検事側の控訴による第二審でも、東京高裁は翌66年1月28日、一審判決を支持して、ここに無罪が確定した。
 この判決を詳しく紹介するには紙面が足らないが、要するに「一人または少人数のものが、人の通行の状況に応じ、その妨害を避けるためいつでも移動しうる状態において、通行人に印刷物を交付する行為のようなものは、その態様方法において社会通念上一般に一般交通に著しい影響を及ぼす行為類型に該当するものとはいい難いところである」というわけで、つまり少人数で交通の邪魔をひどくしないなら、無許可でビラをまいても一向にかまわないという判決なのだ。
 さて警察もこの判例は知っている筈なのだが、実際には尊重しない。ビラ配りをやると一人であれ、二人であれ、すぐ文句をつけてくる。法律と裁判所の決定をいちばん守らないのは警察だ。

 ③ 市民の立場
 さて最後にわれわれ市民の立場だ。われわれにとって、さし当たっていちばん関連する法律は何か。憲法第21条と第11条だろう。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現」行為は、憲法が国民に保障する基本的人権であり、侵すことのできない永久の権利なのである。土台、許可制なんてことが憲法違反なのである。
 2月7日の北爆5周年デモの時、出てきた機動隊に向かって、デモの責任者の福富節男さんは、スピーカーから大声でどなった。「警官の諸君、デモの邪魔をするのはやめなさい!私たちは今、とっても大切なことをやっているのです。」そうなのだ。デモも、ビラまきも、それは、とっても大切なことなのだ。正しいことをやっているのだという確信をもってビラまきをすることが、そしてそれは市民の侵すことのできない権利なのだということが、私たちにとってのすべてなのだろう。
(終)

【お知らせ】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、2017年1月にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争の記録」展を開催するため、クラウドファンディングを始めました。

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今まで、プロジェクトの事業を進めるために、賛同人を募集し、賛同人の方からは賛同金をいただいていますが、この賛同金は、趣意書に書いてあるモニュメントの建立と記念誌発行のためのものであり、新たな企画であるベトナム戦争証跡博物館における展示の費用は含まれていません。
このベトナム戦争証跡博物館での展示にあたっては、資料の翻訳、資料のベトナムへの輸送、展示準備のためのプロジェクト代表者等のベトナムへの渡航費用など、かなりの費用が見込まれます。
そのため、今回、ベトナム戦争証跡博物館での展示のためのクラウドファンディングを始めたものです。
 クラウドファンディングの詳細は下記のアドレスからご覧いただくとともに、是非とも多くの方のご協力をお願いいたします。

【クラウドファンディングのページへGO!!】

ご協力をいただいた方には、お礼として、発起人である山本義隆氏の著書「私の1960年代」(要望に応じて自筆サイン入りも可)などを用意しています。

8月11日(祝)、ドキュメンタリー映画「三里塚に生きる」の代島治彦監督が製作中の新作映画「三里塚のイカロス」ダイジェスト版無料上映会があるということで、参加してきた。
このイベントは、前日の8月10日に毎日新聞と朝日新聞にも記事が掲載されたのでご存知の方もいると思う。
当日のプログラムは以下のとおり。

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長編ドキュメンタリー映画「三里塚のイカロス」製作費支援
◉クラウドファンディング後半戦キックオフ・イベントのご案内
『三里塚に生きる』全編+新作『三里塚のイカロス』ダイジェスト版上映会 and トークショー(入場無料)
日時:8月11日(木・祝日【山の日】)13:10開場/13:30開映
   13:30から『三里塚に生きる』上映 
   16:00から『三里塚のイカロス』ダイジェスト版上映
   ★上映後にトークショー
   「シニア左翼とSEALDs、それぞれのレジスタンス」
出演:小林哲夫
   (朝日新書『シニア左翼とは何か』著者)
   西原孝至
   (映画『わたしの自由について〜SEALDs2015〜』監督)
   代島治彦
   (『三里塚に生きる』『三里塚のイカロス』監督)
会場:日比谷図書文化館コンベンションホール
   千代田区日比谷公園1番4号

今回のイベントは、代島監督の新作映画「三里塚のイカロス」の製作費支援のためのイベントである。現在、クラウドファンデで製作費を集めているが、まだ目標額には届いていない。そのため、支援を加速・拡大することを目的に企画されたとのこと。
代島監督には昨年の8月に明大土曜会に来ていただき、「三里塚に生きる」の上映ととともにお話しを伺った。そんなこともあり、私も上映会前に少額ではあるが寄付させていただいた。
クラウドファンディングで寄付をするのは初めてだったが、思ったより簡単にできた。メールアドレスなどを登録し、その後、寄付金額を選び、支払い方法を決める。クレジットカード払いや銀行口座振り込みが一般的であるが、「三里塚のイカロス」の場合はコンビニ払いもあったので、それを選択してみた。
住所や名前など必要事項を入力し、払い込み先コンビニを指定する。すると企業コードと注文番号がメールで送られてくる。最寄りのコンビニに行って専用の端末に企業コードと注文番号を入力すると、レシートが出てくるので、それと寄付金をレジに持っていくと受領書がもらえる。手続きはこれで完了。手数料も取られないのでなかなか便利。

さて、上映会当日は開場時間ちょっと前に日比谷公園に着いた。日比谷図書館を目指して歩いていくと、図書館前の樹の下に人が集まっている。新聞の効果で入場者が並んでいるのかなと思ったら、みなさんスマホを片手にじっと立っている。これは「ポケモンGO」をやっている人たちでした。

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旧都立日比谷図書館。今は千代田区立日比谷図書文化館という名前になっている。


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会場はこの日比谷図書文化館地下のコンベンションホールである。
こじんまりとしたいい会場である。


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会場に入って代島監督にあいさつ。会場の中でトークショーに出る小林哲夫さんを発見して映画が始まるまでしばし雑談。
この会場は定員200名であるが、参加者は50名程度だろうか。お盆の前の休日ということもあり、思ったより参加者は少ない。
映画「三里塚に生きる」の上映の前に代島監督の舞台あいさつがあった。


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映画「三里塚に生きる」は、1年前の明大土曜会で上映したので1回見ているが、その時はビールを飲みながらの鑑賞ということで、じっくりとは観ていない。今回はじっくりと観ることにしよう。


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冒頭、明大生田出身の山﨑さんが出てくる。今も変わらず闘争を続けていることを問われ
「要するに問題は何も解決していないということですね。世の中が変われば、要するに差別とか抑圧とかがなくなれば、当然私も変わるだろうけれども、今の世の中、40年前の学生の頃とね、本質的には何も変わっていないんじゃないかと、だったら私の方でも変わる理由はないということですね。」
と答える。
なるほど・・・。
そんな感じで2時間20分、再鑑賞した。

休憩時間終了後、いよいよ「三里塚のイカロス」ダイジェスト版上映が始まった。冒頭の音楽はフリージャズ。音楽担当は大友良英さん。サックスは坂田明さん、ドラマーは山崎比呂志さん。2人は1971年の三里塚幻野祭にも出演していたらしい。
党派間の内ゲバの話や、管制塔占拠の話が出てくる。顔見知りの人も出てくる。
ダイジェスト版なので上映は10分で終了。来春の公開時には「三里塚に生きる」と同じ程度の長さの映画になるとのこと。
代島監督は、昨年8月の明大土曜会で、この新作映画のことを語ってる。少し長い語りだが、新作の製作意図がよく分かるので見てみよう。

【野次馬雑記No398 映画「三里塚に生きる」を語る 代島監督ロング・トーク より抜粋】
『5.再び三里塚の映画を撮ろうと思った
僕はこの映画を作る時に、三里塚の現地で取材をしたり撮影をしたりしている時に。結構心はしんどかったんです。というのは、ほとんど明るい話ではないじゃないですか。人間がグチャグチャグチャってなっている中をもう一度踏み込んで行く、傷口を無理やり開ける訳ではないんですけれども、人の傷ついたことばかり聞いている訳ですし、結構しんどくて、この1本まとめたらもう三里塚には近づかないのかなと思っていたんですけれども、終わってみたら、柳川さんとか小泉さんとか、ここに出てくる人たちと心が親しくなったんです。あとは、行けるところは全部、上映会場に行って話をするんですけれども、あの時代、これだけ多くの人が三里塚に行ったり関わったり関心を持っていたのかということに改めて驚くんです。
大阪とか京都に行った時も、同志社とか京大とか立命館の人とか、みんな京都シネマということろに映画を観に来てくれて、終わった後、話をしていたら、第一次強制代執行の時にバスツアーみたいにして行ったとか、そういう人が結構いて、女性も多くて、あと、この間、管制塔を占拠したグループの花見に出たんですけれども、その人たちはその人たちで何か持っているとか、いろいろ垣間見ることがあって、支援者、当時そこに入った若い人たちですよね、そういう人たちの三里塚を舞台にした映画ができるかなと思い始めて、今、そのことをいろんな人に会って話を聞いています。

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(写真「三里塚花子の恋」)
まだカメラを回していないし、自分の中でシナリオ、構想ができない。一応、始めようと思ってチラシは作ったんです。『三里塚花子の恋』(仮題)といって、三里塚に行った女性たちということの象徴的なタイトルですが 恋というのは闘争だけじゃなくて、みんなには日常もあっただろう。日常が楽しかったからみんなが行ったんじゃないか。団結小屋なんて、いろいろあったけど、とってもユートピアだったんじゃないか。若い人が何故あの時、三里塚の団結小屋を目指して行ったのか。ある人から言わせると、67年68年69年70年代前半、大学のバリケードの中がある意味、ユートピアだったというか、皆が何かを賭ける場所だった。ところが、それがどんどん潰されていく訳です。
ユートピアは例えですが、そういうものがあって、それがある意味そっくりそのままじゃないけれども、三里塚の団結小屋が一番多かった時期には18くらいありましたよね。セクトの人たちやノンセクトの人たち、いろんな人たちがいましたよね。そういう場所だったんじゃないか。それがたぶん1978年の開港阻止闘争くらいまでは、いろいろゴチャゴチャありながら続いていたんじゃないか、という感じがするんです。
反対同盟が1973年の3月に分裂します。それで中核派が三里塚基軸を打ち出してもう一度巻き返しを図ってテロルとかあります。そこでまた闘いの局面が変わっていって、85年87年の東峰十字路の裁判の執行猶予が出ます。85年も中核派が仕掛けた3・20三里塚交差点の闘争とか、無意味な闘争をやっているんですけれども、そういうところまで引きずっている。その辺の事は、この映画ではスッポリと抜け落ちているんです。それを管制塔占拠の人たちから指摘されたんです。「俺たちがいないじゃないか」と言われても、そういう文脈じゃなかった
確かに三里塚には違う文脈もあるんです。だから、この映画の英語のタイトルは「The Weges of Resistance Narita Stories」ですけれども、抵抗の代償、抵抗した結果受けた代償ということなんです、海外の人は三里塚の地域闘争なんて知らないんです。この間、ニューヨークで上映しましたけれども、ニューヨークでも非常に関心が高くて、映画のレビューもよかったんですけれども、その人たちは抵抗の物語として観るんです。日本の若者もこんな抵抗をして、こんな時代があったのか。日本ってそんな風に見られないですね。レジスタンスなんてないんじゃないか。要するに同化圧力が強いから、常に国民総動員で高度成長でもみんなでがんばるという国だと思われているんです。そういうところでは、すごく新鮮に見られるところがあります。
それで、もう一つの三里塚の文脈としては、農民じゃなくて、当時若者、今はおじいちゃんおばあちゃん、そういう文脈もあるんじゃなないかと思っています。ただ、僕は知らないですから、この前も加瀬勉さんの家に行って5時間くらい喋ってきましたけれども、やっぱり聞かないと分からないです。加瀬さんは加瀬さんの闘争に対する解釈があるんです。加瀬勉の自分なりの冨里から三里塚に移ってきてこうなったという解釈があるんです。それで、加瀬さんが言っていた言葉で僕がジーンときたのは、加瀬さんはボロボロなんです。俺が運動やったために両親が貧乏だった、家も直せなかった、農機具を入れている小屋もつぎはぎだらけ、加瀬さんは自分の代でお終いだと言っている。
この間、島寛征さんに聞いたら、自分たちがやった闘いは自分たちの代で終わらせるくらいの覚悟を決めてやらなと、次の世代の負担になる、ちゃんと継げない。だから俺たちの代で1回終わらせなければいけないんだ。次の代は次の代で始めればいいんだ。だから、前のそういうしがらみとか、決着がつかないことを次の世代までタスキ渡しする必要はない、気持ちだけでいいんだと。、だから、そういうことを聞いていると、モヤモヤしたものがそこいら中にまだあるんです。
管制塔占拠に関わったある人が、今言っていた「七人の侍」、「俺たちは侍だったんだ」という言い方をするんです。「七人の侍」の一番最後に、侍のまとめ役だった志村喬が「勝ったのは俺たちじゃない。百姓だ。」と言うんです。「俺たちはこの地上を舞っている風のようなものだ。土に生きている百姓が勝ったんだ。」と言って映画が終わるんです。ただ、そんなかっこいいものでもないんじゃないかと思うんです。
かっこいいものじゃないんだけれども、絶対にそこには何か大事なものがあって、大事なものを今でも見えなくしている何かモヤモヤしたベールがあるんです。それをやってみたい。加瀬さんと話てみても、誰と話していても、その人のフィルターがかかるんです。この映画もそうですけれども、その人の記憶は、それぞれの思いがかかったものしか言えないじゃないですか。それを10人20人組み合わせた時に、もしかしたらフィルターとフィルターが重なって、あるフィルターが5枚くらいかかったら、そこでスーッと透明になるかもしれないです。そこで、何か事実が浮かび上がるかもしれない。
だから、スーッと最後透明になる瞬間が出てきたら映画になると思うんです。ただ、その透明になる瞬間がまだ見えない。透明になった先に見えているのものは一体何なのかということが、まだ分からないです。「三里塚に生きる」を編集している時も、そういう感じがあったんです。一体、この皆が言いたくない事って何だろう、言いたくない事の先には何があるんだろうと思った時に、三ノ宮文男の遺書だったり、いろいろなものがありますよね。そういうものに行くんですけれども、言いたくないと言われた時に、これは映画にならないかなと思ったんですけれども、皆がそうなっていった時に、これは映画になるかなと思ったんです。そういう中で椿たかさんとか、おっかあたちは結構積極的に喋ったり、あとは三ノ宮文男のかあちゃん(静枝)ですね、かあちゃんがこういう喋りをしたのは、皆初めて聞いているんです。今までは絶対、文男のことは口に出さなかった。ところがこうやって喋った。そういうのが重なっていくうちに、もう40数年前の事ですよね、彼らの気持ちが透明になって見えてくるという感じなんです。
ですから、次回の「三里塚花子の恋」仮題)は侍の方の気持ちをやってみたいと思っていて、侍の中には女性もいるだろうし、三里塚の百姓と結婚して向こうに住んでいる人もいますよね。20数組結婚して、そのうち13組くらい離婚している。この映画の中で柳川さんがシンポジウムの時に言っているですけれども、「1人自殺した。昨日葬式があった。」
それがプロ青(プロレタリア青年同盟)の人で、彼女は移転を苦に自殺してしまうんですけれども、活動家で入った人たちは純粋じゃないですか、やっぱり気持ちがあるから。そういう決断を迫られた時に悩むんです。そういう人に何人も出会ったんです。

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(写真 代島治彦監督)
純粋じゃ生きていけませんよね、不純さも含めないと。そいうことを含めて出てくると思うんです。例えば、今回取り上げなかった青年行動隊の人がいます。その人の奥さんは、三里塚で始めて農家の人と結婚した中核の人なんです。その人も移転する時には1回離婚しているんですね。また戻って結婚していますが、そういうことが事実として今もあるんですね。そういうことを2~3ケ月前からこねくりまわしながら人と会っていまして、最近、中核派の人の本で「革共同政治局の敗北」という本が出ましたよね。水谷さんと岸さんが書いた本ですが、あれを読んだんですが、あの中でも三里塚は利用主義だったという自分たちの総括が出てくるんですね。特に第四インターへのテロを含めて総括しているんだけれども、その具体的なものは出て来ないです。岸さんが「悪かった」と一言書いているだけなんです。そういうことが出てくる時なんですね。』

ダイジェスト版上映後、トークショーが始まった。「シニア左翼とSEALDs、それぞれのレジスタンス」というタイトルで、代島監督と小林哲夫さん、西原孝至さんのトークがあった。この様子は、後日、ブログに掲載予定である。


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◉新作『三里塚のイカロス』製作費支援をお願いするクラウドファンディングをMotionGalleryにて開催中!


【お知らせ】
10・8山﨑博昭プロジェクトでは、2017年1月にベトナム・ホーチミン市のベトナム戦争証跡博物館で「日本のベトナム反戦闘争の記録」展を開催するため、クラウドファンディングを始めました。
今まで、プロジェクトの事業を進めるために、賛同人を募集し、賛同人の方からは賛同金をいただいていますが、この賛同金は、趣意書に書いてあるモニュメントの建立と記念誌発行のためのものであり、新たな企画であるベトナム戦争証跡博物館における展示の費用は含まれていません。
このベトナム戦争証跡博物館での展示にあたっては、資料の翻訳、資料のベトナムへの輸送、展示準備のためのプロジェクト代表者等のベトナムへの渡航費用など、かなりの費用が見込まれます。
そのため、今回、ベトナム戦争証跡博物館での展示のためのクラウドファンディングを始めたものです。
 クラウドファンディングの詳細は下記のアドレスからご覧いただくとともに、是非とも多くの方のご協力をお願いいたします。

【クラウドファンディングのページへGO!!】


ご協力をいただいた方には、お礼として、発起人である山本義隆氏の著書「私の1960年代」(要望に応じて自筆サイン入りも可)などを用意しています。


1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問に抗議する第一次羽田闘争において、羽田・弁天橋で1人の学生が亡くなった。京大生山﨑博昭君。享年18歳。
この事件は「10・8ショック」と呼ばれ、社会に大きな衝撃を与えた。来年2017年には、この山﨑君の死から50年となる。
この没後50年を前に、「10・8山﨑博昭プロジェクト」が起ち上がった。プロジェクトでは、いまも、これからも私たちが戦争に反対し続けるという意思表示として、山﨑君の没後50年となる2017年に
1.山﨑博昭を追悼するためのモニュメントの建立
2.この50年を振り返る記念誌の発行
を企画し、その実現に向けた取組を進めている。

プロジェクトでは、この2つの目的のほかに、2017年1月にベトナムのホーチミン市にあるベトナム戦争証跡博物館での「日本のベトナム反戦闘争の記録」展の開催に向けて、資料の翻訳など準備作業を行っている。
 その経緯を「10.8山﨑博昭プロジェクト」ニュースNo1から見てみよう。

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(博物館パンフレット)

【2015年8月18日/ベトナム・ホーチミン市「戦争証跡博物館」を訪問。1960年代から70年代の日本の反戦運動の歴史を記録する展示企画が決定!】(プロジェクト・ニュースNo1より)

『戦争に反対するために立ち上がった「10・8山﨑博昭プロジェクト」の活動は、山﨑博昭の没後50周年となる2017年に、
(1)羽田・弁天橋の近くに、山﨑博昭を追悼するためのモニュメントの建立
(2)山﨑博昭の死因を究明し、この50年をふり返る記念誌の刊行
のふたつを目的として出発しました。その他に、当初から進行していた企画があります。1967年10月8日の第一次羽田闘争は、ベトナム戦争に反対する学生と青年労働者による闘いでした。その闘いについてベトナムの国民に歴史的な情報を伝え、未来につながる国際的な反戦運動の礎にしたい、という願いがありました。つまり、
(3)ベトナム・ホーチミン市(旧サイゴン市)の「戦争証跡博物館」に、山﨑博昭の遺影とともに第一次羽田闘争の記録を展示する、というのが、3つ目の目的でした。
 このため、在日ベトナム大使館の協力を得て、本年8月18日、発起人の辻恵、佐々木幹郎の二人が「戦争証跡博物館」を訪問。HUYNH HGOC NAN館長と面談し、わたしたちの希望を伝えました。館長は女性です。彼女は、自分を含めてベトナム国民は第一次羽田闘争の激しい闘いを誰も知らなかった。闘争の50年後にこのようなプロジェクトが山﨑博昭の友人たちを中心に進んでいることに感動する。ぜひ、ベトナムの若者たちにこのことを伝えたい、と言われました。その上で、わたしたちの提案を上回る、以下に示すような好意的な逆提案をいただきました。

*2017年1月~3月、「戦争証跡博物館」特別企画室で10・8第一次羽田闘争を中心に、日本の1960年代~70年代の反戦闘争の歴史を総括し、資料や写真などの記録を展示*

HUYNH HGOC NAN館長の提案の要旨は以下の通りです。
(1)地球の平和のために身を犠牲にして戦った山﨑博昭という日本の若者の存在について、ベトナムはもちろん、当博物館を訪れる外国人を含めた今の若者にぜひ理解してほしいので、特別企画展を開催したい。
(2)米軍に基地を提供していた日本で、日本全国にわたって反戦闘争が展開された事実を知らなかったし、日本国民の多くがベトナム戦争に反対した姿を資料として展示することは、ベトナムと日本の両国民の友好関係を築くために意義が大きい。
(3)1967年10月8日の第一次羽田闘争を中心として、1960年代から70年代にかけての日本のすべての反戦運動の歴史を具体的な資料によって紹介する展示会にしたい。
(4)当博物館の来場者は年間70万人。そのうちの70%は外国人。ベトナムで最大の入館者数を誇っている。
(5)博物館1階にある特別企画室では、毎年1月9日(1950年に抗仏戦争で虐殺された女子学生TRAN VAN ONの記念日)から、3月26日(ベトナム青年団設立日)までの期間、ベトナムの若者に向けた特別企画展を開催している。各大学・高校の学生たちに参加を呼び掛け、ピーク時には一日3000人が参加することもある。2013年の企画展では「戦火をくぐり抜けたアオザイ展」を開催した。
(6)当博物館での特別企画展が終了した後、ベトナム全国の大学を巡回する移動展示会を開催したい。そのとき日本のベトナム反戦闘争に参加した人たちと、ベトナムの若者との間でのトーク・セッションも企画したい。移動展示会では、年間20~30万人の観客数を見込むことが出来る。
(7)当博物館での3カ月の特別企画展と全国を巡回する移動展示会を終えた後、ベトナム国民の反応を確かめて、当博物館で永久展示する資料を選びたい。
(8)当博物館での特別企画展の期日として、2017年1月~3月を希望する。移動展示会を4月から始めれば、日本で開催される2017年10月の「10・8山﨑博昭プロジェクト」の50周年記念イベントにつなげることができるだろう。

 以上の提案を受け、今度はわたしたちが感動しました。ホーチミン市「戦争証跡博物館」館長からの提案によって、「10・8山﨑博昭プロジェクト」の目的と使命が鮮明になったと言えます。わたしたちはこの提案に全力で応えることにしました。

*今回の提案の受け止め及び今後の取組について*
(1)1960年代を中心とする日本の反戦闘争・反政府闘争に対する総括の場が、「戦争証跡博物館」での企画・展示という形で与えられたことの意義は大きい。
(2)必要な作業
◎1960年代を中心とする日本の反戦闘争・反政府闘争の実際のトータルな再現。
◎ベトナム反戦を軸に、全国の学園・職場・街頭での闘争と、学生・労働者・市民の運動の実態の掌握(旗・ビラ・ゼッケン・新聞・雑誌等印刷物などの資料、記録映画・ドキュメント映像と写真、論文・手記・評論・学術研究書等の収集)。
◎翻訳体制の整備(ベトナム語、英語の翻訳は不可欠)。
(3)実行体制
◎2015年末に、企画実行チームの設立と「60年代研究会(仮称)」を発足させる予定。』

 このベトナム展示の前に、日本版として、6月に東京・文京区のギャラリーTENで「ベトナム反戦闘争とその時代─10・8山﨑博昭追悼」展を開催した。また、10月には京都精華大学で、より規模を拡大した京都展示会を行う予定である。

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今まで、プロジェクトの事業を進めるために、賛同人を募集し、賛同人の方からは賛同金をいただいているが、この賛同金は、趣意書に書いてあるモニュメントの建立と記念誌発行のためのものである。新たな企画であるベトナム戦争証跡博物館における展示の費用は含まれていない。
このベトナム戦争証跡博物館の展示にあたっては、資料の翻訳、資料のベトナムへの輸送、展示準備のためのプロジェクト代表者等のベトナムへの渡航費用など、かなりの費用が見込まれる。そのため、今回、ベトナム戦争証跡博物館展示のためのクラウドファンディングを始動させたものである。
 クラウドファンディングの詳細は下記のアドレスからご覧いただくとともに、是非とも多くの方のご協力をお願いしたい。

【クラウドファンディングのページへGO!!】


ご協力をいただいた方には、お礼として、発起人である山本義隆氏の著書「私の1960年代」(要望に応じて自筆サイン入りも可)などを用意している。


(終)


昨年5月28日、「ベ平連」の元事務局長、吉川勇一氏が逝去された。No390で吉川氏を追悼して、「週刊アンポ」第1号に掲載された「市民運動入門」という吉川氏の記事を掲載したが、この記事は連載記事なので、吉川氏の追悼特集シリーズとして、定期的に掲載することにした。
今回は「週刊アンポ」第8号に掲載された「市民運動入門」第8回を掲載する。

この「週刊アンポ」は、「ベ平連」の小田実氏が編集人となって、1969年11月に発行された。1969年11月17日に第1号発行(1969年6月15日発行の0号というのがあった)。以降、1970年6月上旬の第15号まで発行されている。

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【市民運動入門 第8回 個人の自発性と個人主義 吉川勇一】
   ベ平連はよく個人原理ということをいう。市民運動一般がそれを重視する。私はそれを自主性、自発性のことだと理解していた。
 このことはイデオロギーとしての個人主義ではないし、またもちろん、自分勝手、他人のことは一切知らずという無責任な態度のことでもない。ありとあらゆる機会にいったり書いたりしているのだが、ベ平連にしても、いわゆる市民運動にしても、異なる思想や立場をもつ人びととの共同の行動の場なのであるから、そこに一定の世界観・社会観を求めてはならないのであるし、あるはずがないのである。
 それなのに、市民運動を「市民主義」などとまず規定し、「積極的な世界観・社会観をその基礎にもっていさえしない」といって批判したり、さらにそれでも何かあるのではないかと探しまわったすえ、「個人主義(およびその現代的ヴァリアントとしての主我主義)こそが市民主義のイデオロギーの基礎に横たわていると言える」などと断定してそれを非難している人が相変わらずいる。(半田秀男論文・芝田進牛編著「現代日本のラディカリズム」所収)
 市民運動を「市民主義」「個人主義」にもとづくものと規定し、「人間の社会的闘争を階級闘争として見、階級闘争を創造的なー歴史を発展させるーものとして見る見方への道は閉ざされて」いる(同書225ページ)というにいたっては現実の運動とまったくかけはなれている。反戦市民運動がたどってきた軌跡をみてみればその中の一人ひとりにとって、自主的・自発的に現実の社会に存するさまざまな問題にとり組み、行動をおこすことによって、個々の問題をつないでいる諸関係を認識し、さらに全体的な構造、階級関係の把握にいたる過程でそれはあったし、あることは明らかあろう。
 ただ、市民運動は大衆運動であり、決してある特定のイデオロギーや階級意識を参加者に前提として要求したり、あるいは注入することをあらかじめ意図するものではない。こんなことはまったくの自明のことであり、今さらいうのは恥ずかしくなるくらいだ。

<組織者としての責任>
 個人の自主性、自発性ということが個人主義や自分勝手ということではない以上、運動の中での他の人びととの関係が当然考慮され、自分の行動の選択がそれとの関連で律せられてくるということである。
 行動がある。集会でも、デモでも、ビラまきでもいい、自分一人だけでゆくのではなく、人をさそう。さそえば、そこでは自分と、自分がさそった相手との関係が生じ、それが自分の行動に影響を与えるはずである。単に一人で個人的に参加した場合とは違った新しい状況が生まれているのだ。自分以外の人を行動にさそうということは、組織者になるということだともいえる。
 十年前の60年安保闘争の中で、このことはすでに指摘されている。
 市民デモに対する右翼の攻撃があったことと関連して、荒瀬豊氏はこう書いている。
 「抗議行動が、直接的暴力にさらされる恐れがないほどに市民のがわが局面の主導権を握っているときには、それがあらゆる市民を結集するゆとりのある示威集団となることは当然でもあり、またのぞましい。しかし権力のがわからの無制限の反撃が予想されるときには、抗議行動の成員は戦闘にたえられぬ人に危害がおよぶことを、最初から避けていなければならない。市民の行動を組織し、ひろげ、ふかめようとするものには、つねにきびしい状況判断が要求される。鶴見和子は、この1ケ月のあいだ『声なき声の会』のある父親がとった行動を紹介している。彼は、6月4日までのデモのときには、子どもをつれて抗議に参加していた。しかし、6月11日以降は、局面の緊張を考慮して子どもを連れないでデモに行っている。(「子どもとアンポ」『作文と教育』8月号)この父親の行動をささえているものは、自分が連れてくる立場にある子どもに対する責任である。そこにはすでに、すべての組織者に要求される義務が、きびしく問いつめられ、実行されている。参加者が同時に指導者としての義務を感じ、指導者なき集団にやがて到達する芽が、ここにはあった。」(日高六郎編「1960年5月19日」岩波新書)
 自主的に、自発的に行動に参加するということは、決して自分一人の個人的満足のためではないのだから、他の人びとを誘って一人でも多くその行動に加わるよう求めるのは当然であって、そしてそのことは「組織者としての義務」の自覚にみちびくのであり、それが、前回に書いたような「6・15方式」を成立させる基礎にあるのである。
(つづく)

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