野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2017年01月

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの7回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第12号に掲載された都立青山高校闘争のその後である。前回のブログの続編として読んでいただきたい。

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【上昇志向を喪失した彼らはいま 週刊アンポNo12  1970.4.20発行】
昨年秋の全国高校学園闘争から7ケ月あまり、各校とも一応平穏に新学期をむかえた。
 昨年の闘争主体であった当時の3年生は、ほとんどが卒業してしまい、現在は各校とも新3年生を中心にして活動を行っている。
 昨秋の闘争の火付け役ともいうべき、東京青山高校でも、全共闘の大部分を占めていた3年生がほとんど卒業したため、現在は、新3年生を中心とした新生全共闘がいわゆるシコシコ型の闘争を行っている。
 しかし、現在の彼らには昨秋のようないきいきとした姿は見られない。顔を合わせるたびに、「疲れた、疲れた」を連発する彼ら、彼らにとって昨秋の闘争とはいったい何だったのだろうか。彼らはこれからどのように生きてゆくのか。
 「高校生のひろば」では、“上昇志向を喪失”したといわれる彼らのその後を、青山高校の場合をみながら、4-6月闘争を目前にひかえた今、あえて追ってみたい。

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「闘争?僕にとって闘争とは何だったんだろう。自己の確認だったのだろうか。」
 卒業していった全共闘のN君は闘争をふりかえってこう語っている。
「僕たちの闘いは原点を求めての闘いだったのかもしれない。」
一学友の処分問題に単を発した青山高校闘争の中で、“原点”を求めて闘っていた彼らに対して、当然多くの弾圧、障害がのしかかってきた。
 彼らの闘いは、処分撤回、教師弾劾などと同時に、いかに生きるかの闘いでもあった。彼らは全生徒に、全教師に、そして自分自身にその問いをつきつけた。 
 数ヵ月あまりにわたる闘争の中で彼らは多くのものを得、また多くのものを失った。
 「教師との断絶は前から感じていましたし、『教師なんてあんなものだ』と思っていましたが、闘争の過程で特に校長なんかとの断絶を感じました。それは、結局卒業するまでついてきちゃって、クラスの謝恩会にも全共闘メンバーだけ呼ばれませんでした。
 やはり、ちょっとさびしいですが友だちなんてあんなものかもしれませんね」と語るS君の表情は心なしかどこかさびしそうだった。
 「バリケードは一個の“理想社会”だったなんて思わないけれど・・・。3年間の高校生活の中でそれだけが頭に残っていることは確かだ。でも、僕の場合、それが単なる想い出としてしかないような気がして・・・。そりゃあ、たしかに楽しかったかもしれない。でも、今の僕にはむなしさばかりが残ってしまった。」
 こう語るY君は。今はずっと土方仕事をしているが、彼は仕事をやっている時が一番楽しいという。

<その後なにがどうかわったか>
 これら全共闘のメンバーたちは、現在はほとんどばらばらになっているが、ときどきふらりと学校を訪れる。そして、校内をちらっとのぞいては前のボーリング場へと消える。
 彼らのほとんどは現在働いている。
 職場は土方からトラック運転手、自動車セールスマン、雑誌記者まで多種多様だが、主に肉体労働者が多い。
 「何とか夢中になりたい。」と異口同音に語る彼らは闘争のことをあまり話したがらない。
 一般生徒、シンパ層は、闘争をどうみているのだろうか。
 シンパと自己規定するIさんは「全共闘の闘いを見て、あらためて自分自身を考えるようになった。私自身も途中から参加したが、それは自分に対する反撥からだと思う。」と言っている。
 青山高校は闘争によって何がかわったのだろうか。
 4月からまた新しい校長が赴任した。教師も、例年の倍以上いれかわっている。また、カリキュラム編成にも変更があり、選択科目の中に独語、仏語、中国語(うち中国語と独語は希望者が少ないためとりやめになった)が新しく加わった。
 しかし、本質的には何も変わっていない。
 それよりも、新二、三年生の中で転校していく生徒が例年にくらべて非常に多いことに注目したい。
 その中のひとりS君は転校の理由を次のように語っている。
 「闘争の中で、いろいろ考えなければならないと思った。1年間ゆっくり考えたい。」
 転校生徒の大部分はたしかに、「青山では勉強できない。」という理由かもしれない。しかし、それらの中に多くのシンパ層がいることも事実である。
 これは何を意味しているのだろうか。
 彼らにできる唯一のプロテストなのかもしれない。

 <彼らはこれから>
 卒業していった全共闘メンバーはこれからどう生きてゆくのだろうか。
 T君はこう語る。
 「なるようになるだろう。その場、その場で思ったとおりに生きてゆく。赤軍のハイジャックにしても、なりゆきでそうなっていたら一緒にやっていたかもしれない。主体性なんかないと思う。すべて状況が設定されて、その中で人間はその状況にあった過去のデータのもとに生きてゆくのだと思う。」
 またN君も「闘争をへて未来への展望がなくなったのは事実だ。これからは、できる限り平凡に、めだたないように生きてゆきたい。僕たちの闘争は正しかったとは信じているけど。」と語っている。
 青高闘争は、いろいろなものを奪い去り、いろいろなものを残した。
 それをどういかすかは、闘争を体験したひとりひとりに課せられた今後の課題だろう。青高闘争とは何であったのか。その問いに対する答えは、何年かのちにでてくるものかもしれない。
 全精力をだしきってしまった彼らは、今年も“何かに夢中になろうとして”どこかをさまよっているのかもしれない。

【高校生戦線 70】
●3月21、22日、全国反帝高評結成大会が東京で開かれ、全国から400名あまりの高校生が集まった。
 大会では、68年9月市岡高校始業式粉砕闘争以後の、昨年秋の全国高校闘争、北高処分粉砕闘争などの総括を中心とした基調報告が行われ、全国中央執行委員会が確立された。
 また、4月―6月闘争を圧倒的に闘うことを確認して2日間の大会を終えた。
●3月25、26日、反戦高協全国大会が、32都道府県、1,600名の高校生を集めて東京の法政大学で開かれた。
 大会では、70年代闘争における高校生の任務、特に労働者、学生、高校生を3本の柱として、高校生の闘いを位置づけることなどを確認した
 また、4・28沖縄奪還デーを全国高校一斉ゼネストで闘うことを圧倒的に確認し、新議長に木村君(青山高)、副議長に太田君(泉尾高)を選出して大会を終えた。
●3月27、28日、全闘高連活動者会議が、全国から30名あまりの代表者が集まって、大阪で行われた。
 会議では、秋期決戦の総括と4-6月闘争の方針などが話し合われ、特に反帝高校戦線の組織化を進めてゆくことを確認した。
●3月30日、反戦高連全国大会が東京麻布公会堂で、24都道府県、100校、約700名の高校生が集まって開かれた。
 大会では、69年闘争の総括、70年闘争の展望などが討議され、反戦高協などプチブル急進主義者の破産に対する明確な対決、4・28沖縄デー拠点高ストライキなどを確認し、新議長に大高君(戸山高)を選出した。
●昨年秋、全校投票によって1ケ月の全学ストライキを貫徹した、大阪府東淀川高校では、3月の卒業式闘争を100名のボイコットで、演壇占拠などでかちとり、現在また4月以降の闘争をめざして学内闘争を闘っている。
 その他、市岡高、高津高、住吉高、春日丘高、清水谷高、夕陽ケ丘高、茨木高、阪南高、池田高などでも卒業式闘争を闘い抜き、全大阪高共闘を中心として。4・28をめざし、現在各校で学内闘争を闘っている。
(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は2月3日(金)に更新予定です。

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの6回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、19691117日に第1号が発行され、以降、19706月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第4号に掲載された都立青山高校闘争特集である。この特集には4名の青高生からの報告が掲載されている。
 
この記事の冒頭に1枚の写真がある。1969年10月10日、バリケード封鎖中の都立青山高校の建物の上で旗を振る全共闘のメンバーの写真である。この日は明治公園でベ平連、全国全共闘、反戦青年委員会主催の「ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止」大集会があり、デモ隊が青山通りに出る手前で青山高校の前を通った。その時の写真である。私もデモの隊列の中から彼らに手を振ったことを鮮明に覚えている。

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【特集 都立青山高校闘争の記録 週刊アンポNo4  1969.12.29発行】

 終わりなき戦いのためにー

 「9月14日、15日の機動隊導入に至るまでの戦いの経緯は『青高闘争―中間総括―(全共闘発行)』を見てもらいたいが、この掛西処分撤回闘争から機動隊導入までの過程でわれわれがおさえておかなければならない点は、やはり学校側の全闘委に対しての無対応さであろう(全闘委の闘いと全共闘結成まではベ平連ニュース10月号参照)。ただ単に。『全闘委は政治活動をする団体であり、学校としては認めていない』という理由のみで、全闘委の存在理由そのものを真に問い資すこともせず、大衆団交にも『つるしあげの場であるから』と一方的にきめつけて応じようともしなかった。そして全闘委の出した(掛西闘争、言論集会の規制、文部省手引書に関する)5項目質問に対しても『全闘委は非合法団体であるが全生徒の関心事でもあるので・・・』と放送を使って回答にもならないあいまいな回答、最後には『とにかくルールを守れ!』で終わる一方的通告をもって、明確な回答を拒否してきた。
 全闘委が6項目要求(大衆団交の場で前の5項目の回答と処分しないことの確約せよ)をもって校長に直接回答を求め校長室に入っても(9月12日、いわゆる校長室占拠の状態)校長はなかなかあらわれず、ほかの教師も『不法占拠だから出ろ』などと全く実質的内容を伴わない説得、あるいは話し合いを持ちかけてきた。さらに、自らが論理的に破産すると一方的に話し合いなるものを打ち切り、排除あるいは封鎖を解除するため機動隊を導入したのである(9月14日)。1名が不退去罪で逮捕された。これら一連の措置、話し合いを自ら拒否し暴力をもって、それも国家権力の暴力機構、機動隊を使っての生徒排除、封鎖解除は、教師自らの教育者としての立場の一切の放棄であり、そしてこの国家権力と学校との結びつきが今度の問題の本質を明らかにしていくものであることを忘れてはいけない。
<決定的な教師への不信>
 その翌日の15日、約500名の青高生が明治公園に集まり、機動隊導入の抗議と学校側の説明を求めるため、学校に向かった。校門前での『なぜ、機動隊を入れたのか』『なぜ、ロックアウトをして文化祭を中止したのか』『どうして自分の学校に入れないのか』という生徒の涙ながらの訴えに対し、学校側・教頭は、『説明は明日、青年館でやるからきょうは帰ってくれ』というだけで、あとはどの教師も沈黙を守るだけだった。そして午後2時頃生徒の手で校門がおしあけられると、再び学校は機動隊を要請し一般の生徒までも暴力的に排除した(学校側に言わせると誘導したということであるが、武装した機動隊によってなぐるけるの暴行を多くの生徒が受けたのは、厳然たる事実である)。ここにおいて集まった生徒の教師への不信は決定的なものとなり今まで多くの生徒の持っていた先生への幻想は完全に打ち破られた。翌16日に学校の予定していた全学説明会は『青年館がことわってきた』という理由で中止。各学年各クラスごとにバラバラにされて駒沢公園、新宿御苑などで分割HRなるものが開かれた(この時の各HRの開催場所の一覧表を警備の警官が持っていたという事実がある)。そして実情を知らない1,2年のHRなどでは教師が全闘委のデマ宣伝をするなど破廉恥な行為まで出て、学校側の実体をさらけだした。
<全共闘 結成される>
 そのあと明治公園において、われわれの手による集会がもたれようとしたが、『昨日のような事態をおこしたくない』という吉見教務主任の特別のはからいで校内中庭で集会がもたれることになり、実質的にその時からロックアウトは解除になった。そして、翌日からは全学集会あるいは縦割りHRがもたれ、学校側のあいまい性など、また問題解決への道などが追及された。そのような闘争の大衆的拡大の中で『機動隊導入自己批判・ロックアウト自己批判・一方的文化祭中止自己批判』の3項目要求をかかげ青山高校全学共闘会議が結成され全闘委は発展解消し青高生の闘う部分が結集した。また一方では『4項目要求(3項目の自己批判要求と非処分要求)を認めない限り授業再開を拒否する』という署名が200名集まったり、同じく4項目の要求をかかげ3年生の有志5人が150時間にも及ぶハンガーストライキを行った。これに対しても学校側は『彼らはどうせ何か食べているんだ』などどデマ宣伝をし、さらにはドクターストップがかかっているのに『面子があるから・・・』などと救急車を呼ぶことをしぶった。
<授業再開を阻止>
 全学集会において学校側は常にあいまいな回答をもってし、要求の回答というような形で出した『反省と決意』(べ平連ニュース10月号に全文を掲載)なる文章も『機動隊導入はあの時点でやむをえざる措置で誤ってはいなかった。そして今後不法行為をしないことを確約すれば処分はしない』つまり、今後あのようなことをしたら処分するぞ、学校は正しいんだという居直りでしかなかった。学校側が問題の本質が何であるかもはっきりさせないまま、なしくずし的に授業を再開させようとした9月29日、全共闘は3年全クラスバリケード封鎖に突入し、授業再開策動を阻止した。そしてバリケードの中ではわれわれ自身の手による文化の創造の場=自主講座を貫徹することになった(「圧殺の森」などの上映、折原浩氏らの講演、討論会のほかクラス別に歴史などの学習会があった)。その後、有志連合の提案による大衆折衝(全共闘対学校側・教師の討論を一般の生徒が聞き発言する)に臨むことによって問題の本質にふれていこうとした。
<機動隊に徹底抗戦>
 この時期になると、この問題が自己批判をすればすむ問題ではなく、今まで自らすごしてきた日常への問い返しであり、そして教育全体の問題であることを多くの生徒は感じていた。10月9日、学校は一方的に話し合いを中止した。大衆折衝継続か否かを問う生徒投票は411票対403票で打ち切りが多かったが、その後の自治会で大衆交渉という形で話し合いを続けることを決議した。しかし学校側は大衆折衝打ち切りの411票をたてに自治会の正式決定である大衆交渉までもけり、タイムリミットなどを打ち出すことにより授業を再開しようとした(10月13日)。全共闘は全学バリケードによってこれを阻止しようとしたが、教師、秩序派の生徒の暴力的妨害にあい、翌日からクラス闘争委員会によって散発的に教室バリケードが行われた(この頃、少ないところでは2,3人の生徒を相手に授業をやったクラスもあった)。教師はわれわれをなぐったり、床にたたきつけるなど暴力的に立ちむかいあるいは一部の生徒を扇動し内ゲバ的な状態までつくり出すなどの行為に出てきた。われわれはこの中でクラスストライキなどをかちとり、われわれの闘いを明確に全社会的なものとして位置づけることによって、10・10反安保集会に参加した。
 10月21日早朝、われわれが予想した通り、機動隊が導入された。バリケード内に残った学友が投石・火炎ビンで抵抗したが400人近い機動隊と10数台の装甲車、放水車そして催涙弾によってバリケードは解除され、中に残った4人は全員逮捕された。さらに学校の外でこれに抗議してデモをした学友のうち5人が公務執行妨害で逮捕された。学校はただちにロックアウトされた。
 その後、午後1時頃から約60人の学友が校門の前に集まり、機動隊導入に抗議、青高奪還をうったえてデモをし、数度校門にぶつかり、もろくも校門が開いたので学内で抗議のデモ・集会を行った。これに対して4度目の機動隊出動がなされ、7人の学友が逮捕された。この際、教師は生徒が学内に入ろうとするのをとめようともせず、機動隊がくるやいなや『あいつも学校に入った』と生徒を指名して逮捕させた。そして実際に学内に入っていない学友に対してさえ、建造物不法侵入で逮捕させた。
<さらに闘いをいどむ>
 すぐさま学校側は、われわれが実質的に学校へ近寄れない状況の中で、確約書をもって脅迫をしてきた。その内容は今までのわれわれの行動が一切まちがっていたことを認め、今後不法占拠・学内デモ・授業妨害・ルール違反などをしない、そしてもし確約に違反したらどんな処分もかまわない、というようなものだった。30日には退学1名と、あと17名が停学3日から無期という処分を出した。また一方では全校生徒に入構証(写真)をわたし、これを持っていない者は学内に立ち入れず、学内で何かルール違反、授業妨害をすればそれを取りあげるという措置を出してきた(もちろん全共闘の多くー約50名には発行されていない)。そして学校側に言わせれば確約書を出す余地を与えたのが譲歩であり、これが教育的配慮なのである(確約書を出しても入構証が発行されていない人も多いー確約書は保護者、保証人の連署になっているが、子供が同意していないとの理由で発行しない)。要するに徹底的にわれわれの闘いを圧殺しようとしてきた。父兄も確約書が出されると例の通り、とにかく卒業という方向で生徒に無断で確約書を出すなどしてわれわれに敵対してきた。現に、10・21の不法侵入で6名の学友に逮捕令状が出され、3名がつかまってしまった。そして13名の学友は不当にも拘留期限が延長され、(延長の根拠はまったくはっきりしない)いまだ獄中にある(11月中旬現在)。
われわれの闘いは苦しい。だがわれわれは闘っていかねばならない。闘争の放棄は日常性への回帰であり、人間であることの放棄であるからだ。学内と学外を分断された中で、われわれは自らの自覚をもって多くの生徒の中に浸透していく闘いを組み、明確にあらわれた学校の欺瞞性に対し闘いをいどんでいかなければならない。」
(岩本真理)

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一人一人の生き方の中で

 「今、僕らにとって必要なものは、3ケ月以上に及ぶ青高闘争の総括でも敗北の手記でもない。それは僕らが個々の実力闘争の中で、考え、悩み、そして苦しみながらも自己に課してきた『自分はどう生きるのか?人間的に生きるとはどういうことなのか?』といったトータルな命題から必然的に発するであろう自分自身の『闘争宣言』なのだ。
 10・21の徹底抗戦以来、学内外暴力が一体となった全共闘弾圧―いわゆる正常化―の中で僕らの運動体は一定程度、後退を見せていった。学内の集会はすべて指導課の許可を必要とし、破った者は学園から放逐し、何かをおこそうとすればすぐに機動隊がやってくるといった、徹底した弾圧の中で、僕らの心の中には敗北感が日ましに強くなっていった。
 しかし、闘いは終わらない。なぜなら僕らは少なくとも僕は、自分のために戦ってきたのだ。人のためなどとは決して言うまい。僕のやってきた数々の行為はすべて自分のためなのだ。だからこそ、僕はあれだけラディカルな行動がとれたし、その後にあった弾圧の中でも耐えられたのだと思う。教師を追求する時、そのほこ先は必然的に僕自身にも向けられていった。僕らが追及した問題は一部の意識した部分のものではない。現代という時代に生きるすべてのひとびとの問題なのだ。
 これから僕らは闘争の中で追求した命題故に、いろいろな道を歩んで行くだろう。しかし僕らは決して青高闘争を忘れない。僕らはこれからの青高闘争を一人一人の生き方の中で示していくだろう。僕ら一人一人の命が続く限り、青高闘争は不滅なのだ。」
(3年 N)
 
燃え広がる「神宮の炎」

「10・21の午前、ロックアウト状態の学校正門前に結集したわれわれは、デモ隊列をつくり正門を打ち破って校内に突入し、校長室前において抗議集会をかちとった。しかし、学校の要請でやってきた機動隊は全員逮捕のかまえ。われわれはいち早く外へ逃げ出したものの、逃げるわれわれを教師は追いかけ、警察と一体となって5名もの教え子を逮捕したのであった。
 それから1週間、学校当局の出した活動報告書にもとづいて6名に逮捕令状が出され、3名が逮捕されたが私をはじめとする3名は現在潜伏し新たな闘争を組むべく徹底的に闘う決意を固めている。
 たとえ、有刺鉄線がはりめぐらされようと、牢獄につながれようと、資本主義体制が変革される日まで圧殺されることはないだろう。なぜならわれわれの闘いは歴史の中にその力強い息吹があるからである。その歴史とは、今の文部省検定の教科書にあるような“歴史”ではなく、われわれ自身が作り上げていく人民の歴史にほかならない。
10・21以降の青山高校では文部省―都教委―学校という露骨な権力機構により、まわり中有刺鉄線や高い鉄板が打ち立てられ、検問所にいる暴力団のごときガードマンによって生徒は一人一人、入構証をチェックされていた。毎月、毎日の授業は以前と変わらぬ無対応ぶりで、その中に、われわれの向学心を満足させるものは、何一つない。教育の場としては考えられないようなアウシュビッツ化した強権力的弾圧体制の中に機械的に行われている授業を、学校当局は“正常化”と発表した。たとえば『入構証に対する批判はしてはいけない。なぜなら、諸君は入構証を使って学校に入っているではないか』というような、まったく論理的に破産していることを平然と恥ずかしげもなく発言した。
 11月28日、あの鈍く光っていた高塀が強風によって倒れ一人の学友が重症を負う事件が起こった。われわれは、彼一人の事故が単なる偶発的事故ではなく、1,200名の生徒一人一人に対する『人間性の抑圧』を如実に普遍化しているものとしてとらえ、必然的事件として学校側の責任を追及した。高塀、有刺鉄線は数百名の学友の手によって打ち倒され、入構証はその場で焼かれていった。
 実質的にその時より入構証=検問制は撤廃され、高塀、有刺鉄線はあとかたもなく消えた。翌日、われわれは断固として授業ボイコット、集会を貫徹した。それ以降、生徒会などの合法機関と非合法活動を有機的に結合しながら、生徒心得11項(掲示、出版、放送、集会)の完全自由を追求しつつ、冬の闘いへと闘争を飛躍させている。
 ますます激烈化する日本階級闘争の一翼として高校生運動の発展する現在、権力は青高全共闘を圧殺することによって運動総体を圧殺しようと考えていた。しかし、青高全共闘が物理的に敗退したところで、権力の破産した論理を越えた。われわれの思想性は青山により強固な全共闘を作り出し、全国の高校に次々と、『神宮の炎』(青山高校は明治神宮の神宮前一丁目にあり「神宮の炎」は青高全共闘の機関紙の名前である)は燃え広がっている。今や教育体制総体、さらには全世界の階級情勢が激動している。それを世界資本主義体制の危機的情況として明確に把握するならば、この体制解体の運動はさらなる発展をとげるだろう。われわれはそれを確信し全国450万高校生と連帯して断固として闘い抜くことを宣言する。」
(3年 太田真紀)

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獄中からの便り

「11月1日午前7時、僕は寝覚めを襲われた。逮捕令状の犯罪事実は『建造物不法侵入』証人は教師だった。僕は留置所にぶちこまれた。『異常だ!』。うすっぺらなゴザ1枚とちり紙1枚のほかはなにもないこの1畳足らずの区域から一歩足りとも出ることができない。あらゆる自由を奪われ、体中に鍵がかけられてしまったようだ。常識のなかに埋もれ、マスコミ的自明性のみを自らの存立基盤としていた教師を告発し、その様な生き方を拒否することを決意したわれわれの行動に、こんなにもひどい制裁が加わったことの異常性に、僕は驚いた。しかし、よく考えてみるとそんなことに驚いていてはいけないということに気付く。このような力による弾圧があったときの“異常”ではなくて、そのような“異常”をたえず陰に秘めて、虚偽の繁栄と安定を誇る日常こそ、驚かなければならない。目前の小さな目的に全てを押し縮めることによって体制に包摂されていってしまう、あの日常の授業―その中にこの自分も何の疑問もなくいたことに、秘かな恐れを感じる。僕はここに至って、一つの無謀な二者択一をせまられた。すなわち、『僕が異常か、それとも日常が異常なのか』ということ。
 われわれは、日常の外被をこの2ケ月間あばいてきた。あらゆる人間がその存立基盤=社会全体との関係を無意識的に肯定し(紛争が起こると意識的になる)それを前提として生活している。その時、社会全体との関係とは、各個人が『自由』に選びとったもので、一見、全く小さな個人的な問題として現れてくる。しかし、社会全体の諸矛盾は社会全体の諸関係によりひき起こされるので、ある特定の人間や“個別の制度”を改めれば解決されるのでは決してない。そこである職能に従事する人間がその職能の矛盾を発見したとき、その大きな問題の前に思わずボーゼンとしてしまう。従って多くの人間は、その困難な課題と存立基盤を肯定したときの“安楽な生活”とをてんびんにかけて、無意識的に後者を選んでしまうのだ。
 しかし、僕はどんなに苦しくとも、前者をとることを決意した。その決意はバリケードが撤去されようと、逮捕されようとかわらない。むしろ、僕は監獄へ放りこまれた現在、この日常をこの監獄の重みをもって語ることを覚えた。あの楽し気な笑い声の聞こえる教室は監獄だ。『教育者』という高貴な名称をもった教師は看守だ。そして、社会のさまざまな監獄へ、生徒を囚人としてふりわけるのだ。」
(荒厳創)
 
以上、「週刊アンポNo4」に掲載された記事である。
記事の冒頭に「9月14日、15日の機動隊導入に至るまでの戦いの経緯は『青高闘争―中間総括―(全共闘発行)』を見てもらいたいが、この掛西処分撤回闘争から機動隊導入までの過程でわれわれがおさえておかなければならない点は、やはり学校側の全闘委に対しての無対応さであろう(全闘委の闘いと全共闘結成まではベ平連ニュース10月号参照)。」という文章がある。
闘争の経緯を知るために、2012年に発行された「高校紛争1969-70 闘争の歴史と証言」(中央新書:小林哲夫著)から関連の部分を引用する。

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「機動隊導入から9ケ月ほど前の1969年1月26日、『青高反戦会議』の結成を伝えるビラが撒かれた。青高反戦会議は、中核派系の高校生組織『反戦高協』とつながりがあった。
ビラでは2月11日、建国記念の日に開催する紀元節復活反対高校生統一集会への参加を呼びかけている。実際に当日の集会、デモでは、青山高校の生徒一人が逮捕された。(中略)
さて、年度が変わり、4月1日に入学式に合わせて青高反戦会議は反戦集会を開いた。2月12日には、90人が実力テストをボイコットする。26日に、中核派幹部北小路敏の講演を校内で無断開催。28日、反戦高協の他高生130人が校内に入り、無断で集会を行う。
8月31日、静岡県立掛川西高校での生徒退学処分に反対する抗議行動に、青山高校の生徒8人が参加する。掛川西高校は、6月に伊豆で行われたアスパック会議(アジア・太平洋協議会首脳閣僚会議)反対闘争に参加した生徒に退学処分を科しており、この処分をめぐって同校は紛争の最中だった。このとき、青山高校の2年生Sがロックアウト中の掛川西高校に突入し、3階の教室の窓から反戦高協の旗を振り、不法侵入で逮捕される。
 Sの逮捕を知った青山高校からは、教頭とSの母親、そして担当教諭の長坂が掛川西高校、掛川署を訪問した。(中略)9月2日、青高反戦会議は、全学闘争委員会(全闘委)を結成する。全闘委は、『教頭らはなぜ掛川西高校へ出かけたのか』などのついて公開質問を行った。学校は、『全闘委は学校が正式に認めた団体ではない』として回答に応じなかった。」
というのが経緯である。
 
都立青山高校闘争の「その後」については、週刊アンポNO12に記事が掲載されているので、次回、その記事を掲載する予定である。
 
ブログ記事に関連して、ホームページに都立青山高校闘争のアジビラを掲載した。
 
明大全共闘・学館闘争・文連
 

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