野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2017年05月

2009年5月に連載を始めた明大全共闘クロニクル(年代記)も、いよいよ終わりに近づいてきた(No327の続きです)。前回の掲載からしばらく時間が空いたが、今回は1970年6月、70年安保闘争の月である。
明治大学新聞に70年6月15日に向けた各党派の方針が載っているので見てみよう。

【「安保の6月」スタート 方針まちまちの学生戦線 明治大学新聞1970.6.4】
『1970年の6月がスタートした。60年から、めぐりめぐって10年。「日韓」があった。そして67年第一次羽田闘争があった。佐世保、三里塚、王子、10・21新宿―諸々の闘い。東大闘争、日大闘争、大学立法粉砕に決起した全国学園闘争。だが、その後、相次ぐ機動隊導入、ロック・アウト。拠点を奪われた中での“11月決戦”。打撃。“勝利”と“敗北”の総括。そのいずれをも“冬”がおおった。立ち直りのきざしをみせた4・28ではあったが・・・。そして今、6月を十たび迎えた。

<武闘かカンパニアか>
実質的な“安保決戦”といわれた昨年の11月「佐藤訪米阻止闘争」。その打撃からまだ完全な立ち上がりをみせない反日共系各派は、足並みが揃っていない。
 昨年の「6・15統一集会」は六者共闘(革共同・共産同・社労党・第四インター・ML・解放)が実現。ゲバ抜き大衆闘争を展開し、三万人以上の大結集をみたが、今年の6月は“武闘組”と“カンパニア組”真っ二つに割れている。それぞれ両者の極を行くML派と中核派の中傷合戦が展開されている。5月中に行われた集会でも、たびたび内ゲバを演じてみせてきたのもこのゆえんによる。6月14日代々木公園での「労学市民大集会」が今年の唯一の統一集会である。中核派はこの集会を「社共を上回る多数派に転化する場」として設定。“ハネ上がり”は弾圧する方針だ。これに対しMLは「カンパニアの中核は十年前のブント以下だ」として真っ向から衝突する。その上、MLはこの日、政府中枢に向けて“出撃”を決めているため、内ゲバの懸念は拭い切れない。
 この14日の直前に各セクトはそれぞれ政治集会を開催し、意志一致を図る。そして、一つのヤマ場15日の行動は各派まちまち。中核が日比谷公園で「6・15記念集会」。ブントが「反帝戦線大集会」。反帝学評がこの日国会・首相官邸に向かう。
 もう一つの頂点は、自然承認日の23日午前零時。各派は政治ストを予定しているだけ。頂点というよりも、70年6月安保闘争の最終日という感が強い。
 各派の行動をその機関誌でみてみると、これまで街頭ゲバルト闘争の先頭に立ってきた中核派は“穏健な”見出しで「6月安保決戦の爆発的高揚を」(「前進」6月1日付)と掲げてある。それ以上に「6・12革共同大集会」が目立つ。その理由は「(6月安保決戦の)勝敗のカギは、6・12革共同大集会の圧倒的成功のいかんにかっている」からである。「6・15十周年記念」には日比谷野外音楽堂で大集会を持つが、呼びかけ文句は「音楽堂をうめ尽くせ」のみである。過激な行動を戒めて6月はカンパニア闘争で迎える方針である。6・15のほか行動スケジュールは、6・11に「二週間のゼネストに突入」する。14日には全国反戦、全国全共闘主催の「労学市民総決起集会」が代々木公園で開かれる予定。そして当日から23日まで、波状闘争を組む中で、21日から3日間、安保粉砕総力戦を展開する。
 「6月決戦へ人民の総武装を」(「赤光」6月2日付)、「機動隊殲滅―首都制圧」(同6月6日付)など、激しい口調はML派。6月決戦における最過激行動を起こすと思われるのは同派であり、「6・14から10日間の死闘」と命名している。14日には代々木公園で大集会を持つが、この集会を「武装出撃拠点に」として位置づけ、大きなスペースをさいて代々木公園周辺の地図まで掲載している。その決意を「14日をカンパニアで流すことは、6月決戦を敗北に導くことにつながる」としており、昨年の11月決戦時と同じく「機動隊殲滅」を「具体的な任務」だと叫んでいる。この「機動隊殲滅」の字句が見られるのは、ML派だけであり、機動隊との衝突がかなりの規模で起こることは間違いないだろう。
(後略)』

当時の各党派機関誌があるので、いくつか写真を掲載する。

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(赤光)

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(前進)

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(先駆)

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(解放)

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(戦旗)

70年4月以降、明大全共闘は、全共闘の主導権をめぐるML派とブント、反帝学評との争いにより、実質的に解体状態であった。
そのような状況の中、6月12日の夜に14日の大統一行動を控え、ML派が反帝学評にゲバルトをかけ、10数名の重軽傷者を出した。13日の和泉校舎では反帝学評とブントがピケを張りML派を阻止した。正門前には機動隊が配置され、12時からついにロックアウトになった。
この12日夜のML派による襲撃事件の詳細が明治大学新聞に掲載されている。

【真の学苑会とは ML・反帝学評襲撃 セクト発想を排し大衆的に 明治大学新聞1970.7.2】
『事件の経過を追ってみると、学苑会学生大会の前日の10日、ML派執行部は、①今年度の予算は二部文自治会、および二部政経自治会へは分配しない(約70万円の借金のためという理由)②反帝学評系を中執委員に加えない、旨を二部文学部自治会へ申し渡した。これがその発端である、
これに対し、反帝学評系は学苑会大会当日の午後5時半、問題の「対案議案書」を中執に提出した。大会が始まる直前の午後6時54分、ML派は「人事案」がもられていない旨を発したが、その場で両派折衝した結果、大会途中に提出してよい事を確認した。
大会が開始され、議事に入ろうとした時、議長の桜田健君(Ⅱ文四年)が「大会開始前に“対案議案書”が提出されているはずであるから、まずその事案を報告してもらいたい」旨を発言した。その後は次のとおりである。
資格審査委員長が対案に関する経過報告、および「人事案が出されていないので受理しない」と発言。
会場から「人事案については大会途中に提出してよいと言ったではないか」の声。
15分休憩。
桜田議長降壇。
本間中執副委員長「人事案が欠けているので、対案として認められない」ことを表明。
議事進行。経過報告。総括。
一代議員が対案書に対するその後の取り扱いについて質問。
中島資格審査委員長が答弁。
「審査委員6名中、受理3名、受理しない3名のため、委員会で断は下せない」
9時半、二度目の休憩。
再開、9時50分。採決に決まり、議場を閉場。
採決の結果は受理64名、受理しない14名で、対案書を取り上げることに決定。
以上が大会のあらましの経緯である。
そして翌12日、ML派の襲撃模様は次の通り。
午後6時ごろ、Ⅱ文自、Ⅱ文闘、Ⅱ部文芸1年、Ⅱ部仏文1年およびⅡ法闘の約20人の学生が、五号館地下二階の学生控室で、当日の継続大会に向け参加態度を協議していた。そこへ、ヘルメット、竹ザオ、角材、チェーン、コーラビンで武装した他大学生を含む約30人のML派学生がなぐり込んだ。その場に居合わせた学生の話によると、Ⅱ文自治会執行部、対案書を提出した者は、特にネラわれたふしがあるという。その結果、内臓破裂のおそれがある者を含む重軽傷者十数人を出し救急車で近くの病院に運び込まれた。

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6月12日の反帝学評に対する「ML派襲撃事件」はショッキングだった。最近、本学で発生した内ゲバの中でも特筆すべきものである。学費闘争時の昭和41年12月、ML派は民青系から学苑会中執をとって代わった。以来、反日共系と民青系との攻防はいくたびかくり返されてきたが、この事件は、はじめて学苑会中執をめぐる反日共系同士の抗争である。
ML派が握る学苑会といっても、実はML派が学苑会中執の委員をすべて独占している訳ではない。「反民青」で一致しているML派、反帝学評(Ⅱ文自)、反帝戦線(Ⅱ政経自)が統一し、それぞれポストを分け合ってきた“仲間”である。ただ、中執委員長はその中でも“力”のあるML派から輩出してきた。
今回の事態は、反帝学評が提出した“対案書”の問題がML派にとって不利な展望をみせたからであると、一般的には推測されている。反帝学評がなぜ、対案書を提出したのか。それは別述の通り、予算配分問題と中執人事が原因であろう。しかし、なぜ、ML派が突然中執委員を独占しようとしたのか。その真意は定かではない。中執委員独占とはもちろん学苑会完全支配を意味する。
襲撃事件の余波は、今のところML派にとって、“悪しき状況”が続いている。五号館で暴行を受けた中にはノンセクトの学生もいたことから、反帝学評を中心に「反ML」で固まっている。
ML派が襲撃事件に関する見解を出しているので、みてみよう。
「ML派に対する疑問に答える」-学生大会流会の原因と批判的克服のためにーというビラである。
まず最初に「大会開催不能に至らしめたことを素直におわびします」と謝罪している。「対案書」については次のようにいっている。「“対案”なるものは執行部の提起してきた運動を全面的に否定したときに初めて出されるものである。だから彼ら(反帝学評)が対案書を提出したことは、彼ら自身も参加している中執、自らも展開してきた運動をも否定している。また、全二部共闘に対する全面的敵対行為として、このこと(対案書提出)をとらえたが故に、翌12日われわれのゲバルト行使があったのである。」と、対案書提出敵対論をとっている。また、対案書の内容についても「たとえるならば民青の運動の現実的展開が全面的反革命として登場した時、討論以前に暴力的敵対が不可避とされたように、学苑会中執および二部共闘の一切の運動に対する全面対決としてあった」としている。
対案書が本来執行部に対する全面的敵対行為としてあるものであるというが、例えばML派の出してきた予算、中執の独占問題は、反帝学評にしてみれば、同じように全面的敵対行為としてうつったことだろう。対案書はすべて敵対行為であると判断し、切り捨てようとする行為は、二部全学生を代表しその運動を領導すべき学苑会執行としては早計すぎた感がある。
ML派が中執人事をうむをいわせず独占しようとしたこと、その故の全面敵対と全面敵対―おそろしくセクト主義的発想であるとみられても仕方がない。そしてつまるところ止揚していくための党派闘争ではなく、主導権を握るための派閥抗争である。しかし、そこには学生大衆の黙殺がある。学苑会とは学生を土台にしてはじめて成立つものであって、決してセクトの主導権争いの場ではないはずである。
一方、反帝学評は翌12日、ただちに全学連(石橋興一委員長)の「緊急声明」「大衆運動の敵対者MLを放逐せよ!」を発した。
「ML派に対し、階級闘争の道義性に基づいて自己批判を要求する。応じない場合は断固たる措置をとると同時に、全国全共闘からそして階級闘争の全戦線から放逐するであろう」と激しく自己批判を迫り、さらに「党派としての明確な自己批判と治療費その他全額支払いがなされない限り、共闘することはありえない」とし、「ML同盟と学生解放戦線に対しての自己批判要求を緊急に声明しその活動を開始する」と結んでいる。
このことは今度の襲撃事件が明大学苑会内部だけに留まらず、全国的な反帝学評対MLの抗争に発展していく可能性を秘めている。
これらの問題は、表面的には当然学苑会の主導権をめぐる争い、現在の状況を踏まえればつまり反帝学評が学苑会をトレるか、トレないかに絞られてくると思うが、それに向けて、再びゲバルト行使の危険もある。問題はそれだけに終始してよい性質の問題ではないのではないか。いかにして、それを運動発展のバネにするのか。昨年6月、バリストに突入してから、本学の本質的な問題は果たして好転したか?否である。学苑会とは全学生を領導するものである。故に、本学の問題と取り組み、個別学園闘争を徹底的に闘う中から運動を創り上げるものが真の学苑会というものであろう。』

この内ゲバの翌日、13日には日大全共闘を中心とした集会が開かれた。この集会の記事が朝日新聞に掲載されている。

【日大集会に千五百人 朝日新聞 1970.6.14】
『日大全共闘などノンセクトの学生を中心とした「安保フンサイ、アウシュビッツ解体連帯集会」が13日午後、東京・文京区後楽園の礫川公園で開かれた。同大はじめ法大、東大、明大などの学生約千五百人(警視庁調べ)が参加。はじめに大学ごとに集会を開き、日大の集会では秋田明大日大全共闘議長が「日大における古田体制による弾圧のようなアウシュビッツ化は全国の学園でも見られる。一人一人が自立した闘いを展開しよう」と呼びかけた。その後、全体集会が開かれ、各大学の代表があいさつした。
午後6時半からデモにうつり、淡路公園まで約2キロを行進した。途中、デモ隊から噴霧式殺虫剤のカンが10個近く投げられたが、大きな混乱はなく、同8時すぎに解散した。この間、機動隊との小ぜり合いで3人が公務執行妨害現行犯で逮捕された。』

この集会には私は参加していないが、明大新聞のY記者が参加し、記事を書いている。参加者の視点からの記事である。

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【ノンセクト独自に集会 日大全共闘ら二千人 明治大学新聞1970.6.18】
『「反安保6・14新左翼共同行動」を前にした13日、「日大アウシュビッツ体制粉砕・反安保」集会が礫川公園で4時頃から行われた。この日の集会は日大全共闘を始めとする、ノンセクト独自の集会としてもたれた。若干のセクトのヘルは見えながらも、完全なノンセクトのみの集会であり、こうしたノンセクト独自の集会ははじめてであった。
各大学代表のアジテーションは「これまでのセクトの囲い込みによる全共闘運動、そして個別闘争をおろそかにし、政治闘争至上主義的に闘いを進めるセクトの闘争」を批判し、「ノンセクトによる、独自の自立した運動を、個別闘争を徹底的に闘う中から、「安保体制」権力総体に向けた闘争を展開しよう」という発言に貫かれていた。結集した約三千人の学生は。いつものようなヤジもなく聞きいっていた。
集会を終えたデモ隊は、道路いっぱいにジグザグデモを繰り返し、後楽園を過ぎる頃、先頭を行く日大全共闘は大隊列を組み、一歩一歩大地を踏みつけるように進んだ。めずらしくも機動隊の規制もなく進んだデモ隊に、中央線水道橋駅の架橋を抜ける頃、機動隊がおどりかかり、隊列を縮めようとする。しかしガッチリと組まれた隊列は容易に崩れない。それでも日大経済学部校舎前を通る頃、機動隊の必死の攻撃に隊列は崩された。押し付ける機動隊、ガードレールから転がり出るデモ隊、それでも隊列を組み直し、最先頭が機動隊の大楯にヘルメットをつけると、歩道を埋めた学生がいっきに歩道から飛び出し、デモの隊列を横から押す。今までに見られなかった、歩道の援護部隊とデモ隊の一体となった戦闘的なデモが展開された。また途中、どこから投げつけたのだろうか、バクチクの音とともに煙がたち、バルサンの臭いが漂い、解散地点の淡路公園まで数発が機動隊に投げこまれた。
最近の集会にみられるノンセクトの“量”の拡大には目をみはるものがある。しかし、現在的にはまだ多くが単なるノンセクトの位置にしかとどまりえず、独自に、主体的に運動を展開することは少なかった。そうした時、はじめてノンセクト独自の集会をもったことは、ノンセクト運動として主体的な自立した運動を展開していくであろうことを予感させた。』

6月も前半が終り、いよいよ後半6月14日、15日へと突入していく。

(次回へ続く)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は6月9日(金)に更新予定です。

以前、重信房子さんを支える会(関西)が発行していた「さわさわ」という冊子があった。この冊子に、重信さんが「はたちの時代」という文章を寄稿し、連載していた。「はたちの時代」は、重信さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章であるが、「さわさわ」の休刊にともない、連載も中断されていた。
この度、「さわさわ」に掲載された部分と、未発表の部分を含めて、「1960年代と私」というタイトルで私のブログで公開することになった。
目次を付けたが、文章量が多いので、第一部の各章ごとに公開してきた。今回は、第一部第七章である。第一部は今回で終了となる。
なお、今回掲載の第七章は未発表のものである。

【1960年代と私*目次   重信房子】
第一部 はたちの時代
第1章 「はたちの時代」の前史として (2015.7.31掲載済)
1 私のうまれてきた時代
2 就職するということ 1964年 18歳
3 新入社員大学をめざす
第2章 1965年大学入学(19歳) (2015.10.23掲載済)
1 1965年という時代
2 大学入学
3 65年 御茶ノ水
第3章 大学時代─65年(19~20歳)(2016.1.22掲載済)
1 大学生活
2 雄弁部
3 婚約
4 デモ
5 はじめての学生大会
第4章 明大学費値上げ反対闘争(2016.5.27掲載済)
1 当時の環境
2 66年 学費値上げの情報
3 66年「7・2協定」
4 学費値上げ反対闘争に向けた準備
第5章 値上げ反対!ストライキへ(2016.9.23掲載済)
1 スト権確立・バリケード──昼間部の闘い──
2 二部(夜間部)秋の闘いへ
3 学生大会に向けて対策準備
4 学費闘争方針をめぐる学生大会
5 日共執行部否決 対案採択
第6章 大学当局との対決へ(2017.2.17掲載済)
1 バリケードの中の闘い
2 大学当局との闘い
3 学費値上げ正式決定
4 裏工作
5 対立から妥協への模索
6 最後の交渉─機動隊導入
第7章 不本意な幕切れを乗り越えて(今回掲載)
1 覚書 2・2協定
2 覚書をめぐる学生たちの動き
(以降、第2部、第3部執筆予定。)

【1960年代と私 第一部第七章】
七 不本意な幕切れを乗り越えて 1967年
1) 覚書2・2協定
昼間部の全学闘大内指導部は、機動隊の出動を大学が要請したことで、これまで話し合った妥結に沿った収拾しかないないと判断したようでした。一方で、宮崎学生部長も打開を目指していました。機動隊導入後、全学闘も二部共闘会議も学生が消えた、と宮崎学生部長は書いています。「逮捕を恐れたのか、体育会の暴力か分からないが、バリケードが撤去され、昼・夜の闘争機関に解散命令を発しても、中執は学生会・学苑会としてある。学生たちが理事会案をのまなかったから値上げするのは公正とはいえない。」このままではまずいと判断し、学生部は理事会の同意を得て31日正門に学生部長名で以下の告示をしたとのことです。
「学費問題については、今後も理事会が誠実かつ謙虚な態度で学生諸君の代表と正常な方式に従って話し合い(具体的には1月28日の提案に基づき)最終的妥結をはかり、学園を正常に復することを望む。学生部長は、学生諸君の希望があれば、それを推進する用意がある。 1月30日 明治大学学生部長」と、示しました。当時、活動家と見ると、リンチや拉致されるために駿河台の校合に多くの人が近づけなかったのです。それを宮崎先生は当局側として、体育会と協力しあっており理解していません。
その後、大内委員長から、連絡があり、宮崎学生部長と大内さんは話し合いをしていました。大内委員長の話によると、学内の闘争委員の大旨は同意に至りつつ、最後まで反対という学生もあり、上部組織や応援部隊が強く反対で、公開の話し合いの場で妥結するという了解に至り得なかったと説明したようです。それを受けて、学生部長は理事会に対して、1月28日の妥結の方向を今後も維持してほしいこと、又、学生の要請に理事会を代表し交渉を担当する人を選出してほしいと申し入れています。そして、同日、武田総長が理事会代表に指名されました。
こうして1月31日、午後7時頃、大内学生会中央執行委員長より、学生部長を通して、申し入れ文書が理事長宛に提起されました。
「大学院の徹夜の交渉で、理事会側が示された内容は、不十分としつつも、われわれの主張をおおむね諒解されていると判断します。よって、これまでの両者の努力を水泡に帰さない為にも、一刻も早く紛争を集約し、問題の具体的な解決のために学生会中央執行委員会と理事会の間で提示された最終案で妥結をはかりたいと考えます。理事会におかれましても充分われわれの意を汲まれて善処されんことを期待します。
調印の場所・日時については、学生部長を通じてお知らせ願いたい。昭和42年1月31日 明治大学学生会中央執行委員会 委員長大内義男」
今度は、理事会側が強気で上記の最終案というのが「学費改訂による値上げについては9月末までの延納をみとめるものとする」という大学院での徹夜のやりとりの最終案でなく理事会側原案での妥結を主張し、やりとりがあったようです。しかし、とにかく、2月1日、生田校舎で調印すると学生会が知らせてきたので、当局側は待機しました。しかし学生側からは連絡が切れてしまいました。
宮崎学生部長と武田総長は、「今度もダメか」と諦めていたところに、2月2日午前1時35分学生側から「これから覚え書きに調印したいと思いますので、銀座の東急ホテルに来てください」と、昇龍館に電話が入ったとのことです。ここで最後の交渉と合意に至りました。
法人側からは理事会代表者として武田総長、介添役として小出学長、学生側は大内義男委員長、川口忠士書記局員、介添役として斎藤克彦全学連委員長、仲介した学生部としては、学生部長の宮崎先生と中村雄二郎(法学部)・吉田忠雄(政経)教授が同席しました。   
2月2日付覚書に午前4時に署名を終えて、その同じ場所で記者会見を行なって公表しました。

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(写真 覚書2・2協定)

2月9日付明治大学新聞で大内委員長は次のように述べています。
「覚え書きは休戦協定だ。学費闘争は、2月2日の学生会中執と理事会との覚え書きの交換をもって終息したのではない。覚え書き交換は、その内容が示す如く、たんに一時的休戦協定を意味するにすぎない。したがって、二部共闘会議や無責任な『外人部隊』が言う如き、敗北宣言協定ではないことは、あきらかである。ましてや、休戦協定は、私個人と、理事会とのボス交渉によって結ばれた訳でもなく、更に両者との間で、金銭的取引があった如き事実は、一片たりともない。調印は、言うまでもなく、大衆組織の民主的ルールを踏まえ、各地区闘、全学闘書記局、学生会中執の各構成員の了解のもとになされたものである。ただ、本来全学生の了承の下になされるべきであったという点において、不本意な形で、不十分なままになされたということは、素直に全学闘の責任と言わねばならない。そのために止むなく学生大会での最終承認という形式をとらざるをえなかった。休戦協定を結ばざるをえなかった理由は、大学当局との力関係に専らある。28日団交以後、当局は国家権力を背景として、29日には和泉・生田のバリケード撤去を強行し更には30日こは、体育会一部右翼分子による白昼テロ、バリケード撤去という前代未聞の行為によって、更に全学闘の解散命令によって自ら自治破壊の道を選ぶことを通じてわれわれに対する弾圧を仕掛けてきた。このなかで全学闘は、学生諸君の前に登場することすら困難な状況に陥り、そのまま事態が続くかぎり、明大の全体的反動の嵐が今後長期に吹きすさび、われわれの社会的発言と行動に大きな規制が加わるばかりか、全国の学園弾圧の典型を残し、全国学生運動の後退も余儀なくされると判断したのである。したがって、休戦協定を結び再度学園を、われわれの手に回復し、長期的闘いの基盤を形成する組織活動の保障を確保し、4月以降、覚書にのっとり闘いを、白紙撤回から値上げ阻止(全学返還要求)、在るべき教育の確立という点において進めるよう結論をくだした。」と述べています。
当時を語る中で、「斉藤さんはもう方針が出せず大内が決めた」又、大内さんは、先輩の生協の篠田邦男のところに一週間泊っていて「一人で泥をかぶるつもりで決め、あとは消えろ。残った人間が、あとはすべてやる」と言われて自分で決めたと回想しているそうです。そんな風に、覚え書き(2・2協定)は結ばれました。今からみると、この協定が、大内さんの言うように当時の条件、力関係からすると、とられるべき次善の収拾措置の方向であったのです。もちろん、「休戦協定」が「全学返還要求」に転換するなどと甘く考えることはできません。
ところが、大内さんらは機動隊導入後、″外人部隊″党派、二部共闘会議に対しては、見切りをつけて独断専行しました。公然と白昼、事態を示すべきでした。又、もしこの覚書の署名が公然と大学内で行なわれていたら、学生や党派の反応も違っていたはずです。これまで公然と交渉してきたことの延長:に「合意」はあったからです、右翼体育会の暴力は、激しいもので危険もあったでしょう。又、中核やML、ブントでさえ妥結を認め難かったでしょう。しかし、初めに自ら掲げたように「総学生の意思」学生大会に返して、妥結の内容を、確認すれば、正当な闘い足り得たのです。中核やML派が反対しても。
当時、明大闘争は、全学連再建のヘゲモニーあらそいと重なりました。党派の「革命の拠点」という位置づけによると、より非妥協的に闘うことが問われていました。学園闘争はあくまでも改良の闘いです。そこでは本学当局との妥協によって、総学生のよりよい自治をつくること、その中で革命へ参加する人材や層も築かれるでしょう。しかし、「徹底抗戦」だけ先細りであり、個別の敗北をつくります。個別の敗北はまた、全学連の損失です。この明大の「妥結」の仕方は、改良と革命の混乱、以降の学生運動で「妥協」を許さない悪しき党派政治が凌駕するさきがけとなってしまいました。

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(写真 全学闘アジビラ)

2) 覚え書き(2・2協定)をめぐる学生たちの動き
2、2協定をめぐる動きは、私が社学同に参加していくきっかけをつくったものだったと、今からとらえることが出来ます。 当時、どの当事者もバリケードの始まりには、当局の「白紙撤回」を正義の実現として考えていました。何千という学生たちが集まり、二部でも働きながら活動する夜間大学の厳しい条件に加えて、当局の休講措置の中で多くの学生が通学していました。働いた後の生きがいに、大学で学んだりサークル活動したり、自主管理プログラムに参加することも喜びだったからです。 それが、12月15目に正式に値上げが表明されました。冬休みに入り、新年明けと、寒さと、年末年始の休み、見通しの欠如で、人の参加も欠けてきました。
私の方は執行部として学苑会側の役割を忙しく担っていました。先に述べたように、外部のML派が党派的に動き出していました。自主管理で成功してきたと、横国大のMが明治に常駐しはじめた頃です。 中国と日共の対立の中で、日中友好善隣会館へML派が応援に行き、急速に毛沢東路線に近づき、私は彼らと距離をもっていました。そして、ML派から「君の意見は社学同の意見」と言われて、何が共通点かはわからないものの、私は昼間部学生会の人たちとも話す機会が増えました。又、新年になると団交のたぴに右派体育会が、活動家を見つけるとラチして、小川町校舎に連れ込んで、リンチする事件が頻発しました。執行部メンバーは、1月の団交を経て学館を拠点としつつ、集団行動をとって自衛するようになりました。また、機動隊導入に備えて、社学同は中大の学館を拠点に、ML系や二部の人たちは法政大を拠点に、準備しながら態勢をとっていました。まだ二部は学館と11号教室を、バリケード闘争の砦として闘っていました。 その中で1月20日・25日の団交の暴力事件があり、私は学園祭の駿台実行委員会で共同してきた応援団の団長らと体育会暴力に歯止めをかける交渉に走りまわっていました。又、島岡野球部監督の指揮下で、あちこちで暴力が、一触即発で、機動隊が正門に待機する事態が続づきました。学校がゴーサインを出さない為に校内に入れず、警備と称して機動隊は待機しています。白色テロは機動隊の目の前で、体育会系の学生に中執メンバーがラチされて、小川町校舎の柔道部の道場に連れ込まれるなど、1月下旬はひどいものでした。私自身も捕まりましたが丁度、小学校の友人が体育会にいて、助けてくれたことがあります。こうした中で学生会大内・宮崎学生部長の裏交渉が続いていたことは、まったく知りませんでした。ことに、二部は「白紙撤回」路線にあり強硬で、相談してもラチがあかないと判断して排除して裏交渉していたのでしょう。こうして、1月29日に記念館での暴力事件があって、大学院での缶詰団交、つるしあげになっていきました。 応援団の友人が、機動隊が入るので大学に近づくなと、連絡をしてきた頃です。私は、学館で活動したり記念館の方の数百の貸布団の返却を応援団の協力を得て処理して布団屋のトラックに返却するなど、様々な後始末に追われていました。すでに1月30日の機動隊導入、大学のロックアウトで、二部は法政、昼間部は中大や明大和泉校舎に移って、拠点にして、活動していました。
2月1日のことです。学館の学苑会室から対面にある学生会室に行って話していた時だったと思います。斎藤さんが、菅谷さん、鬼塚さんかも知れません。「今日とても大切なことを決めたいので、二部の代表も居ないのでぜひ参加してくれないか。社学同の人たちの集まる会議だけど」と誘われました。私は、社学同でもないし党派的な活動はしないと、応えました。「どうしても明治の学生運動の今後にとって、大切なことであり、今日だけ秘密を守ってくれればいいから。二部の考えも反映したい」と説得されました。頼られると弱い私です。切羽詰まった言い方が気になって、「二部を代表することは出来ない。ただ個人として参加し自分の意見を言うだけ」という条件で、中大の学生会館で開かれた明大の社学同の会議に参加しました。 その時、なぜ呼ばれ、そして私がなぜ参加してしまったのだろうと、何度か考えることがありました。会場には、やっぱり、という顔見知りばかりがいました。毎日協力したり、助けあったり言い争ってきた人ぴとです。そこで、斎藤克彦さんらが、みんなを説得するように語っていました。現在の力関係から、まず、1月28日の理事会修正案で合意して、そこから、自治を守り、次の闘いへとおしすすめたいということでした。「中核派などが無責任に革命の拠点化を煽っている」斎藤さんらは「改良と革命」について熱心に語っていました。階級闘争は勝つまで負ける、次に、如何に勝つように負けるかということ、その闘いとして今の条件と力関係の中でーつの妥協を作りあげよう。その中身が、今の自治よりも前進した内容であるならば、よしとしよう。それは改良なしには実現出来ないし、改良は、また革命組織の戦略なしには、ただの改良になってしまう。今、明治の攻防で一定の改良を実現し、今日の政治闘争への条件をつくる、というような主張だったと思います。 意見を求められて、和泉校舎の闘争委員長だった小森さんや斎藤克彦の弟たちが、即座に反対意見を提起しました。自分たちの学生大会で確立したスト権の解除は、学生大会で行なうべきで、党派的に決定する手続きでは決定的に不十分だ、というようなことを言いました。「学生が納得しなし」と。先細りは眼に見えていました。「改良と革命」の話は分かるけれど、学生大会で決定したことを、困難でも、もう一度、学生大会を開いて決め直すべきだという意見に私も賛成でした。そうしなければ党派の身勝手にすぎないのではないか、そんな風に考えていました。 社学同会議で下部の社学同メンバーは、学対の指導的な人ぴとに対して、民主主義を提起したのです。斎藤さんらブントの上の人びとが考えたよりも、学生社学同の人ぴとの反対は圧倒的に強いものでした。討議はまとまらず、ついに斎藤さんは「決着がつかないな。継続討議にしよう」と決めました。すでに夜0:00をまわっており、斎藤さんらは討議の打ち切りを提案し、翌日の継続討議が確認されました。会議打ち切りの後、私は夜遅い中、ひとり学館を出て、仲間のいる法政に向かおうと学館の外で、タクシーを拾おうとしていました。そこに、斎藤さんと数人が出て来て、やはりタクシーを停めるのに遭遇し、あいさつを交わしました。法政に戻って、何か活動をしていて明け方に休んだので、ウトウトしていたのか、もう起きて作業をしていたのか。「おい見ろよ!お前知っていたんだろ!見てみろよ!」と中核派とML派の人に新聞を投げつけられてびっくりしました。一面に「明大紛争急転解決。暁の妥結。理事会と学生調印」の記事が目に飛び込んできました。ああ、そうか。継続討議を無視して、あれからタクシーに乗って斎藤さんらは調印に行ったのだ。そうか、彼らは順序が逆だったんだ。理事会と大内さんたちの合意があり、それから社学同の下部への説得をする、そういう順序が決まっていたのか・・。無数の学友が逮捕やリンチに立ち向かいながら闘ってきたことの意味をどう考えるのか!という怒りが一瞬よぎりました。でも「1日だけの秘密でいいから」と言われていたのに「知らない!」と開き直って新聞をじっとみつめました。ただ、悔しくて吃驚しました。継続討議はどうしたのか?!和泉校舎の社学同の人びとの提起した民主主義の方法としての学生大会による解決は、無視されたことが分かりました。明大の学費闘争をどのように全国的な自治会運動の今後に結び付けていくのか?という点においてスマートな集約を保持していたい、そして全学連のへゲモ二-を社学同が引き続いて主導したい、そんな想いが明大のブントの指導部にあったのでしょう。ヘゲモニーや中核派との競合に眼を奪われていたのかもしれません。

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(写真 社学同ビラ)

この調印は2月2日の明け方に合意されたことから、「2.2協定」と呼ばれました。これが反ブント、社学同つぷしの明白な論理となって全学連内の矛盾を一気に爆発させたようでした。もともと、三派全学連自身が左翼反対派的な思考方法に立ったものでした。他者を批判することによって、自己を肯定し正当化する論理方法だったからです。全学連の党派闘争もあり、中核派は、直ちに責任追及と自己批判要求で、明大学館に押し寄せてきました。ブントと判ると殴られ、自己批判を書かせ学生会自治会室には「剽窃屋斎藤粉砕!」などスプレーで落書きしていきます。調印に署名立合したという当時の斎藤・大内さんらは消えてしまいました。身の危険を感じたと思います。右翼、権力に加えて、中核派の暴力とリンチが社学同に襲いかかりました。/ブントも他党派に自己批判しつつ「斎藤らを許さん!」と早大社学同などは、斎藤さんを探しまわっていました。 2月2日のあとも2月1日に中大の社学同会議で妥結に反対していた斎藤さんの弟や米山さんらが、学生会中執の部屋に留まっていました。殴られてもスプレーの落書きをベンジンで、又、消しながら毎日繰り返して居続けました。ML派の畠山さんは、「何かあったらオレを呼べと!」と助けてくれたことがありました。学苑会の対面の学生会に中核派がリンチに現れると、畠山さんを呼んで仲裁してもらったこともありました。殴られても、殴られても「学生に責任をとならけれぱならない」と居つづける数少ない明大社学同の人に同情し連帯して私も、対面の学生会の方に行って作業をしていました。こんな風に思いがけない展開になってしまったのです。 それでも、二部としては白紙撤回を求め、入学試験阻止闘争方針を決めて抗議を続けました。後に知ったことですが、神田署から学長と学生部長に「被害届」を出すように求められたようです。理事救出の警察出動した件で、被害者からの届出が必要ということらしい。「学生部長は学生を守る立場にある。その者が処罰を求めるような届けを出すことはありえない」と拒否しました。後に、学長が被害届を出したと聞いて2月8日、宮崎学生部長は辞表を提出し、3月一杯で学生部長を辞めています。又、私は早大や明大 の社学同の友人たちから、明大社学同を立て直したい、社学同として加わって欲しいと誘われて社学同への加盟を決めました。21才の春のことです。これから、新入生を新しく迎える準備の頃です。 明大学費闘争は、私の20歳から21歳の、変革のエネルギーを注ぎ、献身 し尽力した生き方でした。過ちをふくめて私を、私たらしめた誇りある日々として、私の生に刻まれています。

(第一部終了)

※ 第二部以降は今後執筆予定です。掲載時期は未定です。

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