野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2017年07月

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの9回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、前回に引き続き都立立川高校闘争の記事を掲載する。「週刊アンポ」第8号に掲載された記事である。

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【高校生のひろば 週刊アンポNo8  1970.2.23発行】
―あなたがたが処分闘争を貫徹されることを希みます。自分はなにもしないくせにと思うでしょう?私もそう思います。理解してくれとはいいません。ただ許してほしい。(往復書簡より)―

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 都立立川高校の生徒たちにとって1970年の夜明けは、悪夢とともに始まった。12月31日、4名の退学処分(大晦日の深夜、処分通告の呼び出し電話!)。24名無期停学恫喝―確約書」処分。
 右に引用したのは“ノンポリ”生徒から、退学処分を受けた一人、古川杏子さんへ宛てた手紙の一節だ。次ページに、その全文と、古川さんから彼女へ宛てた返事を掲載した。
 昨年の10・21から11・25までの立川高校闘争の経過は「週刊アンポ」第3号“高校生のひろば”を読んでいただきたい。その後まず生徒会長が辞職した。(どの高校でも、生徒有志が質問状なり要求なりを出した時、学校側は「非合法団体だから」という理由で取り合わない。そのホンネは、立川高校では生徒会での大衆的な支持があったにもかかわらず。「執行部は一部の生徒の代弁者になっている」という理由でつき離された)さらに中央委員会は議長をリコール、自ら解体を決議した。そして収拾策としての会長選挙は大衆的な阻止行動で1日延期され、結局全校生徒の4分の1そこそこの投票率で強行された。
 学校当局は最後の切り札として処分を持ち出したのだ。しかし、冬休み明け1月8日から再び闘いは始まった。連日の校門前ビラまき、それを阻止しようとする教師たち。私服刑事たち。(腕をねじる、地面や壁にたたきつけるーヘルメットは必需品―なぐる、ける、服を破る)ことはもとより、門の内側にはテレビカメラがすえられ、校長室、教頭室、職員室に受像機があるという。(しかも「朝日新聞」の記者が取材に来ると、その日に限って妨害はなかった。下の写真は1月19日、校門前。中央が古川さん。手、顔をつかんでいるのは、立川高校の教師たち。

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<第一の手紙  真実の無意味さ>
 古川さん、お元気ですかーこんな空々しいことは書きたくないけれど、悲しいかな私にはこの際、他に適切な言葉が思い浮かばないのです。それに実際お元気かどうか心配なのです。
今週の月曜日から一度もあなたの姿をみないし、他の人たちも門前でみかけないようだから。
 あんずちゃんーあなたはこう呼ばれてだれからも親しまれていた。今だって、あなたのことを話すとき白々しくも古川さんという人は滅多にいません。私は貴女と直接、あまりおつきあいしたことがありませんが、でも1、2年同じクラスで時々お話しをしましたね。私にとってあなたはしっかりしていて、その考え方には、とてもついていけないような気がしていました。仲よくお話しもした代わりにずい分貧弱で(私がですよ)力量の不均衡な論争もしました。私はそのたびに、自分の不勉強を自覚させられましたが。
 10月21日の反戦デーには私は参加しませんでした。理由は、反戦の何たるかを考えず、安易に戦争反対を叫んで、しかも反戦と授業放棄との関係や、反戦デーをきっかけにして展開されるべき運動についての何らの見解ももちあわさない人が大半だったからです。(私がそう思った人の多くは後の民青の主力にさえなりました)また、21日以降のバリケードストライキにも反対でした。主旨がよくわからなかったし「解放バリ」という閉鎖状態の矛盾を感じたからです。でも、24日にバリの中からやってきたあなたと一寸お話しをして、私は少なくとも貴女方の主張のごく皮相な面を理解できたと思いました。そして、それまでもっていた自分の中の矛盾、今までの秩序を肯定すべきだという義務感と、全ての抑圧を排撃すべきだという権利意識の萌芽を整理し、家族や教師や目上の組織全てに対する義務を廃する方向にすすむという決心をすることができました。あのころから私は、今までの教師に対する「(できない)模範生」のからをつきやぶり、親に対する「家の子らしいいい子」のわくを脱しようと試みはじめましたので、双方に急に反抗的になったとみられたらしく、教師からは生まれてはじめていやらしい皮肉を浴びせられ、家でも父にやんわりと、社会主義のおそろしさについて説教されました。でも、自分で考えて自分で決意した生き方だと思うと、そんな大人のイヤミなどは平気でした。大杉栄にひかれ社会主義をもっと勉強する必要があると痛感したのも、そのころです。
 でも、私は結局そこまででした。私は何も行動することができなかった。それどころか目前にせまる受験におののき、授業再開の現実の必要性と、真実の無意味さのジレンマに悩むばかりで、厳然たる現実の前に私の決心も怪しくなるのでした。そんな私にも警察官導入とロックアウトはショックでした。家でいくらはなしてみても「警察はあなた方を守ってくれるのよ(共に闘い、共に進むべき友からわれわれを守ってくれるとは、有難い保護だ)」
というごく常識的且つ、消極的な誤解の中で話は終始してしまうし、一人で考えても、友人と話しても何の解決も得られないばかりか、授業再開必至という冷たい壁がすでに私を思考から隔絶してしまっている。今さらどうしようもない、という気持ちで私は結局、上辺はもとの「模範生」「いい子」にもどり、内職しながらも授業に顔を出したり、父と大学の相談をしたりすることを余儀なくされてしまったのです。
 私があの闘争の中でたとえ何らかの行動を起こしたとしても、それが余程のことでない限り、処分の対象にはなり得なかったでしょう。私の経歴がきれいすぎるからです。それにしてもあの処分!
 私はお正月の7日間を暗い、憤った気持ちですごしました。元日に新聞で処分を知った気持ちはなんともいえません。処分そのものへの怒りと不安とが、私にお正月気分も感じさせず、勉強に手をつけさせませんでした。
 そして8日の門前の闘争と教師の冷たい眼差し。私はそこにはじめて、教師の本当の姿、仮面をはいだ赤裸な姿をみたような気がしました。それなのにあなた方の闘争に対して、なんの態度も示さず、単に教師から顔をそむけてとおることが精一杯の抗議であることの辛さ。私は今まで、信じたい信じたいと念じてきた教師とあなた方のあの闘争に何度、口惜しさ、情けなさの涙を流したかしれません。
 毎日を、受験勉強に淡々としている今、私は完全なる敗北者以外の何物でもありません。大学に入っても闘争は私から縁どおいものであるでしょう。自分のいくじのなさが今からおしはかれるのです。
 でも、私のように自分ではなにもできないおくびょうものでありながら、あなた方の闘争を自分たちの闘争にしてゆきたくて声なき声援を送っているものも多いのです。私はあなた方が処分闘争を貫徹されることを希みます。自分はなんにもしないくせに、と思うでしょう?私もそう思います。理解してくれとはいいません!ただ許してほしい。この体制が私のような人間を多く育成していることを考えて。
 友人のMさん二人がこんなことをいいました。「何らの前提もなく、相手の人格や思想に対する認識もなしにお元気で、などというのは無責任で、おかしい」「敵に対してその健康を祈るのはおかしい。教師がバリの中の人の“健康を慮って”説得するというのは欺瞞である」。この人たちと同じ立場から私は貴女に心から言います。 
「健康に気をつけて」と。「健康に気をつけて、決して敗北者とならず、挫折せずに闘ってゆかれることを祈っています」と。
1月31日
立川高校の一盟友より

<第二の手紙  明日はない>
 手紙、ほんとうにありがとう。夜寝れないことを除いて、たいそう元気でいます。
 10月にはあんなにきらきら明るい微笑みと躍動する肢体と諂いの意志が重なりあって「生活」をつくり、進歩と増殖と蓄積の巨大な貧しさでぬり固められた日常性の蔓延る、そのシルクスクリーンを、べったり闇に塗りつぶすんだ!と駆けだしたのに、あなたの手紙を、読んだら、まるで権力を睨めつけつつも、踏みにじる側と踏みにじられる側との、相互了解性があるようで、あたしたち、90日たっても、やるせないほど脆弱いのだと思った。
 70年に入って、少年係から公安へ、私服2名から16名へ、制服20名から60名へという官憲による立川警備体制の強化の中で、更に高揚する緊張関係の創出において(それも「生徒会」などという、居直りの安住地帯を破壊した地平でーそれはまた、一切の何々主義者の大衆操作の場をも奪いとる、自立の拠点でもある)どこまでやれるか、という信じられないような賭けとして、処分闘争は始まったのでした。そして、立高襲撃闘争は、根源的な混乱状況の創造を、最も厳しい弾圧化で実現する、極めて、ラディカルな性質を、あなたにもみせつけたにちがいない。魂の痙攣で闘争があるのでない限り、この賭けは、「絶対処分させない」ところから複び永久律動の輪を広げてゆくでしょうし、あたしたちみんな極左冒険主義者で挑発者で犯罪者で、最後まで憎まれ役でありたい。とはいっても市民社会秩序での遠近法で区切られた時間間隔の渦中では、「革命的前衛」が「展望」を語る時さえ、それらの威厳に溢れた言葉の端にぶるさがってしまう市民社会への幻想は、どうしたってあるのだ。
 1月31日の大量処分、立高アウシュビッツ粉砕の街頭デモで、2人の仲間を官憲の手にわたしてしまって、あとの集会で多くの人たちが「彼らへの真の連帯は、われわれの闘争そのものだ」といっていたけれど、あたしってば、やっぱりそうしてみんな立川署取り囲み、奪還闘争を組織しようとしないのかと思ったんだ。でも、それだって思うだけ。そうして「蜂起の日まで」という発想の杣(そま)に住む魔物は、一方では「今はその時でない」と<今日>賭けに全額をはたくことにおびえ、一方では、「耐えてゆく」思想性と綱領の獲得に溺れてゆく。こうして現在を明日に売りわたす時、全生活の中で失われる、とりかえしのつかないものは何か。類型は。権力の側の終身刑の鉄則だ。生かさず殺さずうまくやってきた奴ら、「明日という字は明るい日と書くのね」という残酷このうえない歌に「俺たちに明日はない」と叩きつける、そんなこと第3世界でしかできないとうのも実はデマなので、結局何に敗けるったって、こんなに凄まじく暖かい化物やられるほどみじめなことはない。あたしはといえば、スターリニストふぜいに首切られて、殴られ蹴られ、体育科教師どもからは「お前なんか女じゃない」と罵倒され(あいつらは女を知らない。女というのは、もっと強いものだ)それでも極左の方針だし続けられるだけの生活感覚と技術と肉体をもっているわけではなかった。切断された首が視た世界の視野は気の遠くなるほどでかくて、自己否定なんて言うと、自分でうそいってるんじゃないかハラハラ涙が止まらなかった。でも、云々の覚悟がなければ闘えない、とか、云々の立場でなければ闘えない筈だ、とか、「語る言葉がない(ある)」の一切合財、いつだって抑圧者の側の「闘わせない」論理でしかなかったじゃないか。あたしたち、市民社会の甘い汁を吸っているどの瞬間からだってニタッと笑って、ひっそり立ちあがってゆく。
 凍てついた路上で、軍手をはめた番犬たちと、あたしたちと、鉄格子の陰に潜んだ私服との乱れた境界に、「通りがかりの者ですけれど」とかウソついて侵入してきて、したり顔で「先生の言うことを聞きなさい」「静かに勉強しなさい」「なんです、その乱暴な言葉は」とか、ヘドのでるような御託ざっくざっく並べたて、あたしたちの引き裂かれた衣服は視ないことにしていた母親たちーあなか方が間違っている。あたしたちの一人が「平和なんて欺瞞だ」と叫んだ時、ズラッと並んで一斉に、ウキウキと狂信的なまでに笑った母親たちのあわさった歯と歯の間で噛み殺されてゆく叛逆の嬰児は、「母」の大古墳をつくるだけの量になるだろう。ともかく、「生活」の陰に隠れようとしたって誰も隠れられる生活なんて持ってやしないのに、持ったことにしている自己操作で街は一杯だ。
 あたしたち、敵とか味方とか、状況においての一回性ぬきで規定するのやめよう。語っている肉体が忘れ去られれば、言葉は現実感覚でのワン・クッションになり下がる。沈黙がじっと危機的様相をおびて立ちすくんでいるのなら、あたしたち、再び街で出会うことによって、これらの言葉は、かき消されなければならない。あなたの、そしてあたしの肉体のつき刺さった「闘えない」部分の咎科の痛みは、じゅくじゅくとあたしたちを苦しめるだろうけれど、いまのところ痛みを全身にひろげていく以外、まともに他人の顔みて生きてゆく方法はないように思えます。
 あとになりましたが、まったく無断で、あなたの手紙を公開してしまってごめんなさい。どうしても、誰があなたの手紙を受けとったか知らせたくて、この雑誌にお願いして載せてもらいました。あなたの顔をあたしが知らないのは、あたしの恥です。では、お元気で。
2月5日
あんず

以上、「週刊アンポ」第8号に掲載された都立立川高校闘争の記事である。
この古川杏子さんのその後が、「高校紛争 1969-1970」(中公新書2012年 小林哲夫著)に載っているので引用する。

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【「高校紛争 1969-1970」 舞踏家 古川あんず】(引用)
 横山淳が都立立川高校を退学処分となったのは、同校の封鎖に関わったからである。1969年11月のことだ。このとき、4人が退学処分を受けたが、この中に古川杏子(きょうこ)がいた。のちに、古川あんずという名で世界的に知られる舞踏家となる。
 67年、高校1年の古川はブントの「社学同高校生委員会」結成大会に最年少で参加しており、感性豊かな早熟少女として、高校生活動家のあいだでは有名だった。
 1969年10月。立川高校(立校)の文化祭で演劇部、社研部、サッカー部、剣道部の有志が唐十郎の戯曲『由比正雪』を演じていた。客席には唐が主宰する状況劇場の麿赤兒、四谷シモン、李礼仙の姿があった。社研部の古川あんずが状況劇場に電話をかけて『由比正雪』を演じる許可を求めたことから、所属の看板役者が観に来てくれたのである。
 69年の文化祭から1週間後の10月22日、古川たち生徒十数名が校舎の一部を封鎖した。シャッターの内側にはロッカーを並べ鉄線で縛った。スローガンは「反戦、反安保、教育秩序に総叛乱を」だった。26日に封鎖を解除する。
 11月15日、生徒有志が成績評価、処分制度、生徒心得などの撤廃を訴え大衆団交を要求、再び封鎖する。翌日、学校は警察官を導入し封鎖生徒を排除した。
 12月31日、学校は中心メンバーの古川、秋山たち4人を退学処分にした。古川たちは、年が明けて処分撤回闘争を行い、学校内に突入しようとした。古川は教師数人に両手両足を抱えられた状態で、腕をねじられ、顔をつかまれて、排除される。
 70年9月、封鎖、退学になった生徒が中心となって『立高新聞』を作る。2~4面は古川の論文が掲載されている。大量処分が理不尽であることを次のように喝破する。
 「思想を処分するのではなく行動を処分したのだとやつらが『社会的責任』という市民社会のよりよき番犬の標語をうたいあげる時、思想はマスターペイションとしての過去の『学問』のしかばねに転落せしめられ、その『学問の自律』論が『処分』する側の主体の自己切開をもはぐらかす役わりを果たしてきた」
 退学処分を受けた原田武久は古川をこう振り返る。
「-妥協を許さない厳しさを持っていましたが、凜々しくきれいな女性であり、だれからも好かれていました。とくに女子に人気がありました。彼女が書いた文章は絢爛たる筆致で今なお輝きを失っていません。」
 その後、古川は定時制高校に編入して、桐朋学園大学音楽学部作曲科に入学する。舞踏集団の大駱駝艦に入ったのは20歳のころだ。
 2001年10月、古川はドイツ、ベルリンで亡くなった。舌癌だった。享年49歳。
 翌11月にお別れ会が行われた。何度も共演したジャズの山下洋輔、舞台女優として活躍した大駱駝艦の恩師である麿赤兒が並ぶ。麿はあんずの遺影にこう語りかけた。「天使の羽は腕力があまりに強すぎて、あまりに遠くへ飛翔してしまった」(「朝日新聞」2001年11月19日)。「あんず」は天使のフランス語(“Ange”発音はアンジュ)にちなんで名付けられた。

(終)

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は8月4日(金)に更新予定です。

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの8回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第3号に掲載された都立立川高校闘争である。この号では教師から見た闘争が書かれているが、第8号にも処分された生徒の手紙が掲載されている。今回と次回の2回にわたり、都立立川高校闘争の記事を掲載する。

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【一教師のみたバリケード闘争 週刊アンポNo3  1969.12.15発行】
都立立川高校 浅野虎彦
10・21は本校でも集会が玄関前の広場で朝から持たれ、熱心な生徒諸君が討論をかわしていた。しかし、いわゆる受験体制中のノンポリが多いため、参加者は少なかった。論理で立ち向かえない教師たちはそれを利用して、全生徒から彼らを浮き上がらすような宣伝をした。
 過去何年かにわたる学校側の非教育的な環境は、生徒諸君が安保・沖縄問題などを真剣に考えることを妨げてきていたが、そうした環境のために集会に参加しようとしない生徒の関心を喚起する目的で、一部の熱心な生徒のグループはついに同日夜中、教師警備の虚をついて教員室1、教室8を封鎖してたてこもった。
ただちに緊急職員会議が開かれた。すると、真っ先に一部の教師集団が(右翼でない)発言し、生徒諸君を暴力学生ときめつけ、犯罪者であるという前提で審議することを提案した。これに対し、右翼系の教師たちも異議なくこれに同調した。またその他の教師連中も身の安全を計るために完全に沈黙し、職員会議は両者の思うように動かされていった。
時日が経過した10月25日、私はこれ以上封鎖を続けることは不利であると判断した。そこで私は連絡をとってバリケードの中の生徒の代表者と会った。私はこの自分の判断を中の人に伝え、彼らがそれについて充分討論し、もし同様な結論に達したならば戦術を転換しなさい、と話した。彼らは結局私の意見と一致したようで、翌26日未明、彼らはバリケードをといた。
これにはバリ中の生徒の父兄までが、教師の暴力的妨害を排除して彼らの封鎖解除を手伝った。彼らは整然として校外へ立ち去ったのである。
そのバリケード封鎖の跡は完全に元の形にもどされており、いやむしろ前よりもきれいに掃除され、もちろん器物の破壊などは一点もなかった。
解除後、教師たちは中に入って破壊の跡の証拠写真を撮ろうと、カメラを持って血眼に走りまわったが、その目的はまったく果たすことができなかった。このことはさらにこれらの教師をいらだたせ、自ら無謀な行動に走り、新聞紙上で笑われるようにまでなった(後述)。
彼らは、このような解除はおとなの指導がその裏にあるに違いなく、非常に長期間に亘って計画されたものであると、さかんに力説した。翌日、会議の席である印刷物が職員に配布された。おそらく連日、宿泊警戒していた教師の中の特定集団が書いたものであることは、以下の文章をお読みになればわかって下さると思う。
『事態の性質について
 69年10月から11月にかけての情勢の中での一連の動きの一環としての政治問題であって単なる学内問題、教育問題ではない。その動きは民主的な組織及び個人に対して分裂と混乱をもたらし、退廃とあきらめにもちこみ、ファシズム的な体制への移行の条件をつくりだすものである。これ故に極左をよそおいながら容易に右翼的諸団体やアナーキズム、ニヒリズムとも、あるいは単なる精神の荒廃(非行的な)とも結びつきうるものであることは、今われわれが目前にしているところである。
 こうした動きはすでに大学では展開されてきたが、大学立法等によって大学を拠点とできなくなった現時点では、高校にまでおりてきて、生徒の歪みや弱さを拡大しながら利用して全国的に高校教育と高校生を荒廃させようとしている。
 従って全高校が狙われているのであるが、とりわけ立高は日比谷、青山、都立大附属等とともに現在の立高の廃校にまで至りうる徹底的な攻撃の目標高の一つである可能性は充分にある。この攻撃に対する闘いは心情だけではない展望をもった統一と団結以外にはない。(中略)われわれはこの情勢の中では教師と生徒の、生徒間の、教師間の団結を強め、はげまし合いながらも、われわれの分裂をきたすようなまた、バリストグループを援助するような部分についてはきびしい批判をもってのぞむのは当然であり、生徒、父母であってもあいまいな部分に対してはきびしい警戒をゆるめるわけにはいかない。』
 以上のような文章が高校教師の間でなんの異議もなく承認され、教師間の共通意志として確認されたというような、そんな職員会議がほかにあっただろうか。

<学校教師の背信行為>
 バリがとかれてから、これらの教師グループは、生徒の中の民青系グループを使って。彼らの方針にそったいわゆる学校民主化案を次々と代弁させ、しかも時々その代弁者を交代させてその陰謀を隠すというような工作も忘れなかった。その結果、ついに彼らの策動は成功し、授業再開へのホームルームが始められるようになった。
 しかし、バリストの諸君は教育の前提となる処分制度、単位、成績表、検閲制度、出席率の撤廃を要求する公開質問状を、百余名の生徒の署名をそえて学校側に示し、その回答をせまった。だが、学校は「君たちとは住んでいる世界が違うから話し合えない」という暴言まではき回答を待つ生徒を残し、夜中12時過ぎ学校を出て行った。
 翌16日も午前中は同様な対立が続いた。午後になると校内にいた教師は、生徒の「話し合おう」という叫びをきかずに帰っていった。ところが、そのあとどこかわからない所で何かを決めた教師たちは、夕刻になって再び隊列を組んで校門に入り、「不退去罪になるぞ」とおどしつつ生徒の引き抜きにかかった。
 事態の重大さを感じたある生徒が、電話で私に急を告げてきた。私がかけつけた時には、何ら険悪な空気はなかったものの、対立はまだ続いていた。私は両者の意見を聞いたうえで、生徒から出されている校長への質問書を学校側が受け取り、生徒集会でそれに回答するよう要求したが、校長は頑としてそれを拒否し、あまつさえ早く帰らないと警官を導入すると恫喝し始めた。私は繰り返し事態の重大さを校長に説き、質問書の受理をせまったのだが、ついに11時校長は「警察の方、私は立川高校の校長です。入ってください」と要請した。こうして警官隊の実力行使が行われ、生徒諸君は校外に押し出されたのである。

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 このことについて言えば、学校は前々から警官は入れないと誓言していたのだし、また組合の校内委員の教師たちも組合は絶対に警官導入に反対するという印刷物を生徒に配っていたのである。だから、この警官導入は絶対に許せない学校教師の生徒諸君に対する背信行為である。

<生徒を車輪にかけて>
 このことで再び事態は悪化した。それにろうばいした教師たちは、警官を入れたのは止むを得なかったという、生徒を対象にした説明会を11月20日、雨の降る中で所もあろうに多摩川畔の空地で開催した。そこで彼らは一方的に学校の意見を押しつけ、生徒の中の質問のあるものには紙片に要旨を書かせて内容を制限し、時間も一人2分に限るという強い姿勢で臨んだ。午後4時となるや、約束の時間がきたと称して教師たちは用意されたマイクロバスに乗り、もっと話そうとバスのまわりをとり囲む生徒を、まさに車輪にかけるようにグイグイ車を動かさせ、居合わせた母親たちの、危ないからやめて下さいと叫ぶ声も聞こえぬふりをして去って行ったのであった。
 このことはさすがに各新聞社も重視した。今まで消極的であった社をふくめて、各紙の都下版はこの事件を大きく取り上げ、学校の卑劣さを市民に初めて明らかにしたのである。あわてた学校は、この記事は事実をまげて報道しているという印刷物をつくり、全父母に速達で郵送したが、これこそ恥のうわぬりをする以外の何物でもなかった。
 以上のように立川高校では、都立の各校に起こっているバリストの中でも全く並はずれて異常な紛争状態を、教師自らが作り出しているのであり、その対策も非常識なやり方を続けて、事態はますます困難になっているのである。
 きょう(11・25)も組合では本部委員会を開いたが、学校管理職が父母たちに配布した印刷物の写しまでが、日頃「赤旗」の購読を勧めて歩く本部委員によって、臆面もなく委員会の席上で配られた。
 このような矛盾を平気でやる教師から授業を受けている生徒が、変革をせまるのは当然のことだろう。このような教師が生徒を説得し、学校を正常化しますから御協力を、と呼びかけるそのごまかしに、世の中の父母はぜひとも気がついてほしい、と私は訴えたいのである。

※ 次回も「週刊アンポ」第8号の「高校生のひろば」に掲載された都立立川高校の記事を掲載します。

【お知らせ】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は7月21日(金)に更新予定です。

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