野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2017年09月

「週刊アンポ」で読む1969-70年シリーズの10回目。
この「週刊アンポ」という雑誌は、1969年11月17日に第1号が発行され、以降、1970年6月上旬までに第15号まで発行された。編集・発行人は故小田実氏である。この雑誌には1969-70年という時代が凝縮されている。
1960年代後半から70年台前半まで、多くの大学で全国学園闘争が闘われた。その時期、大学だけでなく全国の高校でも卒業式闘争やバリケート封鎖・占拠の闘いが行われた。しかし、この高校生たちの闘いは大学闘争や70年安保闘争の報道の中に埋もれてしまい、「忘れられた闘争」となっている。
「週刊アンポ」には「高校生のひろば」というコーナーがあり、そこにこれらの高校生たちの闘いの記事を連載していた。
今回は、「週刊アンポ」第7号に掲載された私立城右高校闘争である。
(城右高等女学校は、1974年に文化女子大学附属杉並中学・高等学校に改称。現在は文化学園大学杉並中学・高等学校となっている.)

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【高校生のひろば 週刊アンポNo7  1970.2.9発行】
「学校はわれわれ自身が考える人間になることを恐れている」ことに気がついた生徒はどうしたか・・・どこにでもあるような私立の女の子ばかりの高校で聞いたはなし。
 新宿から中央線の電車に乗ると阿佐ヶ谷を過ぎたあたりの左側に面白い建物が見える。白い鉄筋のビルの上に、青い中国風の屋根が乗っている。ここが私立城右高校。夕方になると阿佐ヶ谷の駅前にはタテカンが立ち、署名やカンパを呼びかけるまわりには、いくつかの討論の輪ができている。学校帰りの生徒に話を聞いてみよう。
 事件の発端は去年の10月までさかのぼる。それまで毎週月曜日の朝15分間は全校生徒が揃って校長先生の話を聞く時間と決まっていた。その内容はマニキュアの話であったり、あるいは制服のネクタイの話、ガムの話etc。とにかくおもしろくない話。ついに10月9日、朝礼廃止が生徒総会の議題になった。そのあとの事実経過は、12月3日に矢沢洋子先生の出した資料から引用することにしよう。
『・・・土曜日に再び生徒総会を開くことを全会で確認し、そこにいた校長に「土曜日にそのための時間がほしい」と要求した。校長は「時間はやらない。やりたければ勝手に放課後にやりなさい。」とこたえ、それにつづいていろいろのべた。次に後藤先生が「生徒はこのような問題について、このようなかたちで話し合うことは土台むりなのだから、クラスで討論してその決議を生徒会の総務部会にもってくるようにすればよい」と言った。』

《矢沢先生の発言》
『私は校長が求めに応じて(生徒の時間要求について)発言するのはともかく、教師が生徒の自主討論に承認をうることなく勝手に発言すべきではない、ましてや何らかの結論を命令的におしつけるようなことはすべきでないと考えて、後藤先生の話の途中であったが「生徒総会はもう終わったのか?」と司会者にただした。校長は「黙れ、出てゆけ」と大声で私の発言を制した。しばらく後、後藤先生の発言が終ってから私は生徒総会の議長に発言を要求した。議長は「矢沢先生の発言を認めるかどうか」を総会にはかった結果、総会は全会一致で私の発言を承認した。
 私に発言の要点は①後藤先生のいまの発言が教師全体の統一見解であるかのように生徒にうけとられたくない。なぜなら少なくとも私は後藤先生とはちがった意見をもっているし、この問題についての教職員の「統一見解」というものもまだ職員会議で討論していないのだから、存在しない。②生徒の真剣な話し合いは認めるべきだし、生徒が話し合いが立派にできることが現に示された。③一人一人にとって大切なことがらについては、総務部会のような代表者だけの討論にまかせてしまうのではなく、自分自身が討論に参加し納得した上で行動すべきだ。納得しないまま行動するのはよくない。の諸点であった。
<10月11日(土)臨時生徒総会>
①朝礼の廃止。②毎週月曜日の朝礼の時間には「生徒集会」をやる。③次の月曜日にはフォークソングをやる。が決められた。
<11月26日(水)職員会議>
・・・授業中に専門の科目以外のことは話してもらいたくない(校長)ということであったが、学校での掃除やあいさつなどを考えれば「すべてが教育」なのだからそういうのはおかしいといったところ、校長は「とりけします」と述べた。
 その他、いくつかの問いとそれに対する応答などが交わされたあと、突然、ある教師から「矢沢先生が学校に対して反旗をひるがえしている」という発言があった・・・。』

《「ふみ絵」による解雇通知》
『<11月28日(金)職員会議>
 まず私が意見を延べた。その要点は①学校の見解=「教育方針」とちがう個人的意見を生徒にのべるべきではない、という批判に対して「教師と生徒の信頼関係は一定不変の考え方なりを上から下へとおしつけてしまっては生まれない。お互いが自分自身の考えをのべあってこそ信頼関係が成立する」②教師の間での意見の相違があっても、生徒はそれで「動揺して悪い方向へ行く」のではなく、自分自身で考え、批判力、判断力なりをやしない、進歩発展が望めるのだと思う。
 そして、①朝礼廃止という事件で考えなければならないことは、これまでの学校の教育方針であり「教育とは何か」ということが問われているのだ。
 こうした私の問題提起に対して後藤先生は「答えになっていない。一緒にやっていくつもりがあるのかないのかを聞いているのだ」といい、校長は「それで矢沢さんの考えはわかった」と、職員会議からの退場を命じた。
<12月1日(月)>
朝、生徒集会で「矢沢先生の処分問題についての学校の説明を要求する生徒集会を開かせよ」と決議。午後、職員会議。(矢沢先生にー編集部注)校長がいきなり6項目を出し、署名、捺印をせまる。「考える時間を与えてほしい」と主張したが、「あと10分」ということで10分後、「回答がないのは拒否とみなして免職」を宣言。即時退場を命令。
注:6項目の第3項「学校長の指示命令に従うこと」第6項「専任教師の生徒に対する指導上の協力を阻害するような言動をしないこと」ほかの項目も同じような内容。しかもその後に「右条項は(中略)守るということを誓うと同時に、その一部の違反があった場合、学校のいかなる処分にも服することを固く約束する」という文章がついていた。しかも、拒否とみなすとすぐさま「右昭和44年12月1日付をもって解職する」ということ以外には何も書いていない解職通知書を出されたのである。』(以上、「資料」より抜き書き)

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《生徒の自己主張、始まる》
 もちろん生徒はこうした解職処分に反発し、12月2日「説明会」でつぎつぎと疑問を提出し、学校側が説明会を打ち切ったあとでも、日が暮れるまで生徒集会を続け、矢沢先生を含めた三者会談を要求。学校側が拒否したため、翌日、矢沢先生と生徒の合同集会を持った。
 12月4日から、処分を認めない矢沢先生は毎日登校し、生徒は屋上で矢沢先生の授業を受けた。そこへ理事たちが来ると生徒は先生をとり囲んで離さなかった。
 処分理由を説明できない学校側は矢沢先生への個人的ひぼうと生徒へのおどかし(「退学」の連発)でおさえこもうとした。それを乗り越えたのは就労闘争と「二年有志」のビラ(大衆的ビラまきとクラスごとの教師追求)と比留間先生の処分反対声明だった。ビラをいくつか紹介することにしよう。
…………………………………………………………………………………..
12月7日 2の4有志
私たちは何も言わず何もせずにいることはできない
 (前略)しかし現実にはそのような教師が追い出されようとしている。と言うことは私たち生徒が学校の言うこと(統一見解だけ)をどんなことでも聞かなければばらないということになってくるのではないか。だが、なぜ学校側はわれわれに統一見解をおしつけてくるのか。それは、われわれ自身が考える人間になること、判断力のついた人間になることを恐れているからで、考えることのできない生徒を養成しようとしているからではないだろうか。(中略)
 校長先生の発言「学校のやり方について不満を言うものは、入学金を返すからやめろ!」「あなたがたには全部を知る権利はない」(6項目の要求について)相馬先生「生徒はほっておけば悪いことばかりする」「勉強できない生徒は信頼できない」則竹先生「先生と生徒との信頼なんてありえない。この学校は程度が低いから、体にたとえると弱いからだである。(強い学校とは有名校・名門校をさす)(中略)」
1.全教師が私たち、生徒の前で右のような発言をしたことおよび校長先生のウソを黙認したことについて、自己批判を要求する!
2.・・・矢沢先生の処分は認められない。処分の白紙撤回を要求する!
先生!教師である前に人間であってほしい。
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また、12月11日付の2年有志のビラでは『西田先生は(生徒を個人的に呼びつけておいて、最後には)「あなたはわかってくれるわね」とか「あなたを見そこなったわよ」と、なだめたりすかしたりしている』ことも書いてある。
 「ときがたてば自然におさまる」と考えていた学校側は生徒の意外な反発をみて「保護者会による収拾」を策動した。さっそく3年有志のビラがでた。
 『保護者会に生徒と矢沢先生を参加させ、自由に発言させることを要求する!
どういうつもりでこの保護者会を開くのか?保護者の意見をとり入れるつもりなのか?そうではない!もしとり入れるつもりがあるならばなぜ「白紙委任」なんてことを書くのか?暮れの忙しい時に家族の都合を考えずに一方的に出席しなかった場合、学校側を認めることになるということは不当である。なぜならばそこには父兄の意見というものが一切伝わらないからである。それでは学校の、保護者会を開く真の意図は何か?「保護者も納得した」という形式だけを作ってでたらめな処分を正当化しようとしているのだ!そうすることによって生徒を納得しないままだまらせておさえつけようとしているのだ!通知では学校側の一方的な話しか聞けないようなので、学校・矢沢先生・生徒・父兄の4者交えて話し合いをしなければならない。この4者のうち1者でも欠けた場合、話し合いをしても真実はわからない(後略)』
 そして3年の一部を除く全クラスが4者会談要求を決議。保護者会当日は「登校したら処分する」のおどかしを無視して三百名以上が登校(全生徒は五百人)し、門を突破した。会場では学校側が扉を閉じたが、父兄が内側から開き、生徒を導入した。
 父兄たちは、このように最初のうちは生徒に好意的で「4項目要求(処分保留・PTA設立・生徒不処分・紳士的話し合い)」を決めたりした。しかし学校側は処分保留を認めず、父兄の「話し合い路線」は失敗に終わった。

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《少数派に転落?》
 学校側は期末試験―冬休みに何とか逃げ込もうとした。しかし、1の2の担任である比留間先生が「期末試験強行反対」声明を発表、ほとんどのクラスが「試験延期要求」を決議した。試験第1日には250人の生徒がボイコット、3日目からは2人の生徒がハンストに突入した。門の脇には、その2人と支援のすわりこみをやる生徒のために、テントが立てられた。
 一部の生徒を相手に試験は強行され、最後まで試験をボイコットした生徒の二学期の成績評価はほとんどが「1」だったのである(比留間先生はクラス担当をはずされた)。
 学校側はさまざまなデマ(矢沢先生の夫は過激派のリーダであるなど)を流す一方、成績評価や処分で恫喝を加え、あるいは懐柔策を用い、まず父兄が手を引くことになり、生徒も一人一人切り崩されていった。
 しかし、一度目覚めた生徒たちは、少数派に転落しながらも根強い抵抗を続けている。まず始業式を粉砕、続いて7項目要求を打ち出した。そして今も授業をボイコットしてクラス討論を続けるクラスもある。いや決して“少数派に転落”などしてはいないのだ。
 1月23日、阿佐ヶ谷駅前で聞いた話・・・「問題が大きすぎるんです。きっと」「一生懸命やったんだけど」「あの頃は楽しかった」「以前も今も授業はちっともおもしろくない」
 女生徒たちは、口々にそう言った。学校を常時警備しているガードマンの事を持ち出すと、彼女たちの中の一人が「あれは暴力団と呼ぶの」と訂正してくれた。
 そこを通りかかった広瀬理事(矢沢先生のかわりに理科の授業を受け持っていて、女生徒たちの話によれば次期校長の有力候補)に記者が質問すると「関係ない」の一点ばり。
 登校時の就労闘争や、タテカンを守る杉並区労協の人たちとガードマンの小ぜり合い。毎日、それを見るのがつらいというのはすべての生徒に共通した気持ちだ。しかし、今も闘い続ける生徒の一人は、決して矢沢先生への同情から闘っているのではない、と強調して最後に「同情からこんなことがやれるものですか・・・」とつぶやいた。
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【城右学園闘争とは何か】
《教育=飼育秩序への叛乱》
 生徒とは学校の命令するところなら何でも従う存在であるーこれまで城右の教師たちはこう信じて疑わなかった。いや教師だけではない。生徒自身、自分たちは学校のいうことには従うべきだし従うほかないと、考えていた。それは何ら疑問をさしはさむ余地のない自明の理としてあった。
 どんなにつまらない授業でも、どんなにくだらない校長の説教でも、どんなに嫌悪すべき担任教師の皮肉たっぷりの「注意」でも、あいては「教師」だし自分たちは「生徒」だから、したがわなければならない、と考えてきた。
 それにたいして少しでも疑問をもったり反対したりすると、すぐに、「やるべきことをやってから文句をいいなさい」「試験もろくにできすによくそういうことがいえるものです」といわれる。そういわれると、生徒は、もともと「勉強」には自信がないからひとことも言えなくなってしまう。
 教師は逆に生徒の「勉強ができない」という負い目につけこんで、自分に従わせようとする。
 こうして、学校に行けば行くほど、授業をやればやるほど、試験をやればやるほど、生徒は劣等感を固定され、自己主張をわすれ、「上の人」のいうことにさからわぬ人間になっていく。すると学校は「うちの生徒はすなおでおとなしく、礼儀正しく、協調性があります」といって銀行、商事会社などの「一流大企業」にすいせんする(城右の生徒の9割は就職)。
 これは「教育」ではなくて「飼育」ではないのか。若者の可能性をひきだす、といったものではなく、可能性をおしころし、「自分はダメな人間だ。だから人のいうことをよくきいて<細く長く>(城右の校是)生きるのがいちばんいいんだ」と思いこむように飼いならすのが、「教育」の目的になっているのではないか。城右の生徒の「叛乱」は、こうした「飼育秩序」にたいする「叛乱」であり、告発であった。そして矢沢先生や比留間先生が「30対2」というかたちで教師集団の中で孤立するのをあえて辞さずに拒否したものは、こうした「飼育秩序」の加担者―生徒を飼いならす調教師―という存在に自らがなるのを拒否することであった。
 これは「教師は命令するもの」「生徒は従うもの」といったこれまでの教師と生徒の観念を根本的にひっくりかえす破天荒なできごとであった。教師を批判するなど思いもよらなかった生徒たちが、1年生でさえ校長にたいしてどなりつけ、紙くずをまるめてぶつけられるようになったこと、そうしたことをとおしてはじめて「自己」を主張することをおぼえたこと、これこそ城右の闘争の最大の成果であろう。
《管理社会=全飼育秩序への叛乱》
 ではこうした教育=飼育秩序への叛乱は何を意味するか。
 城右は私立学校であり、だからこそこういうでたらめな教員解雇が理事会の一存でできるという側面がある。しかし、私立校の存在それ自体が、じつは現在の日本の学校教育秩序の中で基本的役割を演じていることを知らねばならない。
 東京都だけにかぎってみても高校生徒数は、公立20万に対して私立30万であり、1960年以降の高校進学率上昇とベビーブームで急増した高校生の7割は私立校に吸収されている。
 ところで私立校というのは、ごく少数の有名受験校や有名大学附属校をのぞいては、好んで入学するところではない。公立校の入試の関門を突破できず、「仕方なく」はいるところであり、したがって大部分の私立校は「劣等生の収容所」という極印をおされている。
 私立校の大量存在の意義は、じつはほかならぬ「劣等感をうえつけられた生徒」が大量に資本家的支配階級から要請されているということなのだ。
 「劣等感」の由来する「成績」(とくに入試)とは、ものごとを要領よく形式的に頭につめこみ、〇×式の問題に手ぎわよく回答する反射神経的能力がいかに養われたかを測定したにすぎない。ところがそうした「特定の能力」によって生徒に序列をつけ、その序列づけに生徒自身をもあきらめさせること、これが小学校から大学までの日本の学校教育が果たしている役割である。こうした「序列づけ」が管理者―被管理者という工業社会の維持拡大に不可欠な階級社会の再生産のための要請であることはいうまでもなかろう。
 公立・私立、一流校・二流校・三流校、普通校、実業校といった区別それ自体がこうした「序列づけ」の機構であり、「劣等生の収容所」たる私立校の「教育」とは、入学時から生徒がもっている劣等感を固定化し「分」をわきまえさせることにあるのだ。
 城右の生徒の「叛乱」は、それゆえ、たとえ城右の生徒教師がそこまで自覚していないにせよ、事実上、人間に序列をつけ人間が人間を一方的に管理し支配するという現代社会全体の「飼育秩序」にたいする「叛乱」でもあるのだ。
(Y)
(終)

【お知らせ その1】
今年は1967年10月8日の第一次羽田闘争から50年目となります。10・8山﨑博昭プロジェクトでは50年目となる10月8日に、「50周年集会」を開催いたします。
メモリアルな集会ですので、多くの皆様の参加をお待ちしております。

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「10・8羽田闘争50周年―追悼山﨑博昭」
日 時:2017年10月8日(日) 16時20分~20時30分(予定)
                 (開場16:00)
会 場:主婦会館プラザエフ・9階「スズラン」(JR「四谷」駅徒歩1分)
参加費: 1,500円
●第一部 50周年を迎えてプロジェクト三事業の報告 16:20 ~ 17:20
●第二部 10・8羽田闘争と今             17:20 ~ 18:50
詩朗読   佐々木幹郎作「死者の鞭」          品川  徹
記念講演 「10・8と反原発の今をつなぐもの」     水戸喜世子
記念講演 「平和村からのメッセージ」  ベトナム平和村代表NHI(ニイ)
ベトナム政府からの挨拶(予定)      
●第三部 山﨑博昭に捧げる短歌絶叫コンサート    19:00 ~ 19:30
   福島泰樹(短歌絶叫)  永畑雅人(ピアノ)
●「記念パーティー」                19:45 ~ 20:25
 乾杯・私にとっての10・8を語る(発起人・参加者)
        
※ 集会に先立ち、弁天橋での献花・黙祷及び50周年忌法要を行います。
【弁天橋での献花・黙祷】(雨天決行)
●集合 10時20分 京浜急行空港線「天空橋」駅改札 
●10時30分~11時15分 弁天橋付近で発起人挨拶と献花・黙祷
【50周年忌法要】
●12時~ 福泉寺にて50周年忌法要 
境内に山﨑博昭の墓石・墓碑(反戦の碑)があります。

<問い合わせ> 「10・8山﨑博昭プロジェクト」事務局
(FAX)03-3573-7189 (メール)monument108@gmail.com

【お知らせ その2】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は10月13日(金)に更新予定です。
「10・8羽田闘争50周年集会」の速報を掲載予定です。

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差し入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
今回は「オリーブの樹」139号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「夜の谷を行く」(桐野夏生著・文芸春秋刊)】
 送って下さった「夜の谷を行く」(桐野夏生著)を一気に読みました。K弁護士が「実録あさま山荘というようなものよりそこそこ面白いものでした。」と述べていたそうです。
著者は私たちより若いけれど、全共闘時代の空気を体感し育った世代でしょうか。「連赤事件」に対する社会的埋葬の仕方に納得していない姿勢が、この小説に込められていると思います。
連合赤軍の京浜安保共闘系の女性たちが子ども連れで山に行き、又、妊婦である金子さんらが進んで山へ行ったこと、そこには新しい社会「皆で革命兵士を育てる」という無謀ながら夢の計画があったこと。そこに焦点を当てて、「暴力革命」の論理につぶされていった側面が浮かび上がっている物語です。その道を現在から過去へ、過去から過去を辿る中から、これからの希望の断片を見つけるように描かれています。
永田さんに対する中野判決。「あの女特有の嫉妬深さから大勢の同志を殺したなんて嘘っぱちです。本来は女たちが子供を産んで未来に繋げるために闘い、という崇高な理論だってあったのです。でもすべて、森が男の暴力革命に巻き込んでしまったんだと思っています。そしてその片棒を担いだのが永田」と、京浜安保系の生き残った女性に言わせています。
 物語は、森・永田が逮捕された後、脱走した架空の人物、西田啓子が迦葉停留所で逮捕され、分離公判で5年半の刑期を終えて、人に知られぬようひっそりと40年近くをすごしてきたのに、初老に近づき異変がはじまります。永田洋子の死、旧い元同志からの連絡、3・11大震災の日にあの時代以来初めて会った40年前の旧同志であり同棲していた男のホームレスに近い状態との再会など、忘れたい過去と向き合いたい過去のせめぎあいの中で、最後は脱走した山へと40年を経て訪れるところで話は終わります。
 この啓子の「忘れたい過去」が、じわじわと伏流として波打ち、最後は怒涛のように彼女の身の内を破って希望の片を手にしっかりと握るところがすばらしい実感、臨場感で描かれています。啓子は、金子さんに「子供だけは助けて。革命兵士として育ててほしい」と言われ、何も出来ず、指導部に阿ねてきた自分を隠し、その為に実は逮捕後に生まれ、すぐ里子に出した自分の過去を忘れようとしていたことが最後に明かされます。「金子さんをああして殺してしまったのに、あたしはのうのうと子供を産んだ。それが許せなかったから、忘れたいのです」と、最初に打ち明けた最後の物語のページ。打ち明けた相手は、里子に出した息子がルポライターとして導いてきた山の中。彼の告白で初めて母と認めた時のことばです。母が殺さず生んでくれたこと、命がすくわれたこと、「僕はお礼を言いますよ」の息子のことばが新しい始まりを予感するところで物語は終わります。
「連赤」の実際の経験者たちにも、ちがう可能性に思いをはせる機会として、又、もう一度新しい眼差しで当時をふりかえる機会になったら・・・と思いつつ読みました。
かつて私は永田さんの「十六の墓標」を読んだ時、彼女の「つもり」が繰り返しえんえんと語られ続けることに驚きました。「つもり」はそうだったかもしれないと思います。でも「つもり」と起こった事実、現実の落差こそ知りたかった・・・、現実の側から捉え語ってほしかったと、苦い思いが湧きました。そうか、みんな「つもり」は美しかったんだ。だれもがみな「つもり」、それを理想と呼ぶなら、その実現の虜になっていったのだ・・・。でも、でも遠山さん、山田さんが「つもり」のために殺されたのか・・・と、耐え難い思いに囚われずにはいられませんでした。
この小説の著者は「革命家」のモラルや「つもり」より、一般生活の感性で当時を描く分、「つもり」のない「俗物性」「身もふたもない」当時の同志関係を描いています。それは一面当たっている面もあるのかもしれません。「つまりはさ、私たちの誰も、あいつらに逆らえなくて、みんなで尻馬に乗っかって、仲間を見殺しにしたってことよね」と。
著者の本は初めて読んだので、どんな来歴の人か知りませんが、「つもり」かもしれない闘いの「正義」を共有していると思えるところが少し感じられました。いい小説だと思いました。(6月2日)

【本の紹介】
「夜の谷を行く」
著者:桐野夏生(小説家。1951年、金沢市生まれ。「柔らかな頬」(文春文庫)で直木賞を受賞。「東京島」(新潮文庫)で谷崎潤一郎賞を受賞。「OUT」(講談社文庫)で日本推理作家協会賞を受賞するなど受賞歴多数)           
定価:1,500円+税
発行:文芸春秋社
発売日:2017年03月31日

『連合赤軍がひき起こした「あさま山荘」事件から四十年余。
その直前、山岳地帯で行なわれた「総括」と称する内部メンバー同士での批判により、12名がリンチで死亡した。
西田啓子は「総括」から逃げ出してきた一人だった。
親戚からはつまはじきにされ、両親は早くに亡くなり、いまはスポーツジムに通いながら、一人で細々と暮している。かろうじて妹の和子と、その娘・佳絵と交流はあるが、佳絵には過去を告げていない。
そんな中、元連合赤軍のメンバー・熊谷千代治から突然連絡がくる。時を同じくして、元連合赤軍最高幹部の永田洋子死刑囚が死亡したとニュースが流れる。
過去と決別したはずだった啓子だが、佳絵の結婚を機に逮捕されたことを告げ、関係がぎくしゃくし始める。さらには、結婚式をする予定のサイパンに、過去に起こした罪で逮捕される可能性があり、行けないことが発覚する。過去の恋人・久間伸郎や、連合赤軍について調べているライター・古市洋造から連絡があり、敬子は過去と直面せずにはいられなくなる。
いま明かされる「山岳ベース」で起こった出来事。「総括」とは何だったのか。集った女たちが夢見たものとは――。啓子は何を思い、何と戦っていたのか。
桐野夏生が挑む、「連合赤軍」の真実。』
(「文芸春秋BOOK」ウェブサイトより転載)

【お知らせ その1】
今年は1967年10月8日の第一次羽田闘争から50年目となります。10・8山﨑博昭プロジェクトでは50年目となる10月8日に、「50周年集会」を開催いたします。
メモリアルな集会ですので、多くの皆様の参加をお待ちしております。

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「10・8羽田闘争50周年―追悼山﨑博昭」
日 時:2017年10月8日(日) 16時20分~20時(予定)
                 (開場16:00)
会 場:主婦会館プラザエフ・9階「スズラン」(JR「四谷」駅徒歩1分)
参加費: 1,500円
●第一部 50周年を迎えてプロジェクト三事業の報告 16:20 ~ 17:00
●第二部 10・8羽田闘争と今             17:00 ~ 18:30
詩朗読   佐々木幹郎作「死者の鞭」        品川  徹
記念講演 「10・8と反原発の今をつなぐもの」     水戸喜世子
記念講演 「平和村からのメッセージ」  ベトナム平和村代表NHI(ニイ)
ベトナム政府からの挨拶(予定)      
●第三部 山﨑博昭に捧げる短歌絶叫コンサート    18:45 ~ 19:15
   福島泰樹(短歌絶叫)  永畑雅人(ピアノ)
●「記念パーティー」                19:20 ~ 20:00
 乾杯・私にとっての10・8を語る(発起人・参加者) 
       
※ 集会に先立ち、弁天橋での献花・黙祷及び50周年忌法要を行います。
【弁天橋での献花・黙祷】(雨天決行)
●集合 10時20分 京浜急行空港線「天空橋」駅改札 
●10時30分~11時15分 弁天橋付近で発起人挨拶と献花・黙祷
【50周年忌法要】
●12時~ 福泉寺にて50周年忌法要 
境内に山﨑博昭の墓石・墓碑(反戦の碑)があります。
<問い合わせ> 「10・8山﨑博昭プロジェクト」事務局
(FAX)03-3573-7189 (メール)monument108@gmail.com

【お知らせ その2】
今年から、ブログ「野次馬雑記」は隔週(2週間に1回)の更新となりました。
次回は9月29日(金)に更新予定です。

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