野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2017年12月

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの八王子医療刑務所内での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」140号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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独居より 8月19日 ~ 11月8日
8月19日 久しぶりの晴れ間に蝉が鳴いてにぎやかな夏! と思ったら、夕方から大雨。今年は、もうクラッとする灼熱は味わえないままに秋に向かうのでしょうか。もう一回くらい「暑い!」とバテる程の夏が欲しい! (中略)

8月21日 連休全体が明けたようですが、まだ学校は夏休みです。7月に雨が降らなかった分、8月は梅雨じめり続き、今日も曇天です。
今日は午後CT検査。昼は延食です。今日は血圧が低く、98と57ですが元気。CT撮影も、主治医がCVポートから造影剤を投入します。すぐに終了。戻って、よく食べました。いつもはお腹がすかないうちに食事の時間になるのですが、今日は14時からだったので、しっかり食べました。(中略)

8月31日 あっという間に八月尽。今日は台風の影響で肌寒い日となりました。Yさんが送って下さった連赤関連の高原さんの文章、今日受け取りました。同時に受け取ったUクンが送ってくれたものと重なるものもありました。「赤軍派が残した3つの問題 連合赤軍とよど号ハイジャックと日本赤軍 人民闘争の中で対応を考えて下さい。2017年6月23日高原浩之」という文で各方面に配られているようです。
(1)が「連合赤軍45周年集会」批判。集会はなぜ殺された家族の感情を踏みにじるようなことをやるのか!と怒りの批判です。自分は赤軍派の7名の最高指導部の1人で、かつ殺された遠山美枝子の夫という二重の立場に立って文章を書いている、としています。集会には「路線の総括がない」と批判し、総括がない分センセーショナルに上辺だけ見てTVなどマスコミと同質であり、個人的資質論になるか、殺された者の家族の感情を踏みにじるしかない、と批判しています。
「この集会は、教訓は引き出すことが出来ないにもかかわらず、殺された者の家族の感情に何の配慮もせず、逆にそれを踏みにじっている。加えて、植垣など、生き残った(正確には他人を殺して自分が生き残った)連中に免罪符を与えている」と批判しています。高原さんが連赤の犠牲になった遺族の心情を代弁していることはとっても理解できます。遺族の方々への配慮に欠けた面も人選やテーマでもあったのかもしれません。
でも高原さんは「赤軍派の指導部の一人として」と「遠山さんの夫として」の二重の立場に立つとしつつ「家族としての立場」から「目には目を」の思想で告発批判しているように思えてなりません。「指導部の一員」の自己批判と責任の側からの思想的実践的立場が欠落しているように感じてしまいました。酷な要求かもしれませんが、指導部であった高原さんこそが煉獄の犠牲者家族の苦しみを越えて、植垣さんらと真正面から会い総括を求めてほしいと思います。そのこと抜きに「人民闘争の中での」総括は終わらないと思います。
「加害」の人々(この人々も十分苦しんで来たと思います)と犠牲者の家族は和解出来ないとしても、同じ運動でリーダーの一人だった高原さんこそ「加害」の人々の真摯な謝罪を橋渡しをしながら遺族をねぎらい教訓を整理していく責務があると思います。「加害」の人々もあなたが導いた人々なのです。赤軍派や狭い身内からではなく、人民的に見れば赤軍派も連赤も「党の役割」を果たさなかったことにおいて皆「加害」の位置にいるとも言えます。私含め「加害」よりも被った「被害」の側に身を置きがちです。
2000年に逮捕された後、接見禁止の解けた2008年からいろいろな人々に会えました。ある時面会した青砥さんから、赤軍派に彼が参加したきっかけが私だと知りました。初の赤軍派の政治集会に上京した青砥さんに会場の受付係の私が、赤軍派指導部に会うようにと引き合わしたとのことです。そうか……そのように私も人々の人生を転ずることをやってきたのだ……と改めて自覚しました。特に現思研の仲間たちには強くその責任を実感しています。遠山さんにもです。みな相互関係の中で過ちを再生産していました。「非加害」の側に身を置いては見えないものもあります。赤軍派も連合赤軍もまたそのような「被害」や「加害」不可分の中にあると思います。
高原さんの今回の批判が新しい何かを生み、共謀罪、安保法、改憲へと国家主義強権で進む日本の現実の流れに有効に抗する現在の実践に連なることを願っています。

9月4日 もうすっかり秋です。今日は房内検査で荷物整理(他の人より多い)を指示されました。資料や本など宅配で減らしているのですが根本的に改めねばなりません。(中略)

9月12日 今日はN和尚が法要面会に来てくれました。メイの友人のMちゃんも一緒に、兄の三回忌と彼岸、みんなの年中安泰や私の病気平癒も併せて祈念してもらいました。法華経を私も黙読しますが、なかなかお経についていくのが難しいです。でも、心地よい一時を与えてもらった感じです。感謝です。残った時間を、私に手紙や資料、書籍などを送ってくださる友人への感謝や話などで、あっという間の貴重な時間、「あと3分!」と、たちまち30分は終了。ありがとうございます。(中略)

9月14日 今日は、午前中の運動(ベランダ)の終わるころ、診察の呼び出し。汗がおさまらない中、汗を拭き拭き診察室へ。今日は胃カメラやCTの映像写真で説明してくださる予定です。ノートを房にとりに戻って診察室に入ると、CTフィルムに光を当てる台に乗せて、DRが熱心に注視しているところでした。CT写真を見る専門家が、肝臓に少し異変があると、主治医に伝えたとのこと。まだ小さい点のような黒いものがいくつか写っていることを示して、「あなたは肝炎を患ったことがないので、原発性の肝臓癌はありえないが、大腸・小腸からの転移はありうる。これが何か、専門家はまだ判断できないので経緯観察することになっている」と、おっしゃっていました。
CTに写るのは最低どの位の大きさか?と尋ねると、「5㎜位なのでしょう。5㎜以下はCTに写らないというので、5㎜位なのでしょう。何か癌でないものかもしれず、心配しても無意味なので気にしないように」とのこと。CTを頻繁にやって放射線を浴びるのは良くないので、3か月後くらいにまた、CTを撮ることになりました。「定期的にチェックしてもらっているので、異変も早く発見できて良かったと思う」と伝えて、CVポートのフラッシュをして診察を終えました。

9月22日 安倍首相と菅官房は露骨な解散方針。国民は怒らないのか? 北の脅威を利用して大勝狙い。でも保守乱立で浮動票が安倍に投じられるかは疑問です。それにしても米の戦争政策に舞い上がって、更なる圧力を求める安倍は国際社会で良識すらかなぐり捨てているよう。これも全部米トランプと国民向けの選挙対策でしょう。
米元大統領のジミー・カーターは 94年の戦争危機をトーンダウンさせ、北とも対話をさせた人物ですが、9月12日にトランプを批判しています。「米国は休戦協定を平和条約に格上げすべきで、そのためにトランプは金委員長と直接話し合うべきだ」と述べています。米が軍事合同演習を止めるところからアジアの緊張緩和がはじまるはずです。「核がある」という事実を確認しているのに米・日で「認めない」という方が危険です。北の核を認め、核管理体制を共同する方が戦略的選択肢でしょう。

9月28日 新聞を見ると「希望の党結党会見」綱領「寛容な改革保守」(27日夕刊)「民進の『希望』合流提案へ」「前原氏党公認出さず」(28日夕刊)と「希望」の改憲踏絵によって民進党をバラバラにさせる道へと小池、前原で話が進んだようです。
リベラルを排除し、安倍自民党と小池非自民党の両改憲勢力の政権を問う選挙とか。とりあえず安倍自民党と対決しつつ、公明党と連携して「希望」で政権狙いの小池流。でも自民より右も含めて「希望」に右潮流が続々参じています。政策で一致する野党勢力の育成に市民的リベラルの柱は今のところないようです。
共産党らを戦略的には支援しつつ当面「反『安倍自民』実現」が現実的なのか? 小池はもともとタカ派。流動はいいけれど民進は解体するし、その先が恐ろしい。もっとも自民の負けない小選挙区。しがらみ自民対公認欲しい雑多な「希望」という改憲勢力同士。「日本が変わる危険な選挙」となるのでしょうか。
 9月28日第二インティファーダから17年目。パレスチナではネタニヤフの強権益々アラブの混乱を望み、シリア内戦介入ばかりか昔からクルド支援。クルド独立支持はイスラエルばかりか米も本音は同じ。中東の戦乱は新たな火種を広げつつあります。一方ガザの「人道危機」は9月11日今年からハマースの新政治局長になったイスマイール・ハニヤがカイロでエジプト高官と討議し、その圧力かハマースの「ガザ行政委員会」解散に合意したとのこと。
17日ハマースが正式にガザ行政委を解散し総選挙に応じると表明。これに対してPFLPは歓迎を表明し、アッバース大統領府のイスラエルと一体のガザに対する措置停止を求めています。そして分裂を終わらせるためのPNC開催による政治プログラム合意の討議の続行を求めました。パレスチナに新しい動きは生まれるでしょうか?
様々に変化する世界を座して見つめるしかないのですが、心を鍛え判断を常に自己検証しながら72才の一歩を再び歩みはじめます。酉年のバースデー! みんなに感謝を伝えます。(中略)

9月30日 小池「希望」公認に「安保・憲法観の一致が条件」と表明。逆にこれでよかったのでしょう。民進党の水と油の改憲派とリベラル系が分かれて、市民の受け皿に「民進党」または新党で闘う条件がつくられるでしょう。でも、いつもリベラル派は戦略なしの後手後手。リーダーシップ不在です。共産党も実態にふさわしく名称変更し、国民の利益の側の受け皿を大きく育ててほしいものです。あっという間に九月尽です。

10月2日 ラジオのスポットニュースで、枝野らが「立憲民主党」を結成するとのこと。国民の大多数は、九条改憲を望んでいないので、それを実現する野党や市民の受け皿ができるならいいことです。(中略)

10月8日 今日は秋晴れ。今日までに「かつて10・8羽田闘争があった」を読み終えようと思いましたが、616頁もあってまだあと少し。大事な524頁からの「五〇年目の真相究明─山崎博昭君の死因をめぐって」の途中です。あの時の状況、精神、健全な世論と暴徒攻撃の警察、マスコミを思い返しながら読んでいます。

10月10日 今日衆院選公示。新聞休刊日でニュースも自由に聞けない房では気になります。「反安倍政権」で登場してはずの「希望」が、小池の「さらさらない」選別発言で流動。「立憲民主党」には「連合東京」まで支援を決めるほど追い風に。しかしマスコミ操作の自民党はこぞって小池個人や希望に批判を焦点化。そのお陰で安倍自民は漁夫の利の選挙になっています。どう考えたって「立憲民主」に刺客をたてる「希望」には希望がない。小池都知事選勝利も「風」もあったが「連合東京」や公明党の力が支えたのが大きかったのに。小池のあまりの政局作りや策略のあれこれも、実際に安保法制支持だし、鼻について国民も引いてしまっているのでは? それをマスコミが煽っている感じです。いつものように選挙でいじめられる役は、今回「希望」に向いて、「立憲民主党」への勢いには向いてないようです。何とか「立憲民主」「社民」「共産」が一議席でも多く!と。

10月13日 Mさんの便りで、10月5日の名古屋泉水国賠訴訟控訴審「ほぼ完全勝利でした。」と知り、嬉しくなりました。「面会・手紙という交通権は刑務所の受刑者の更生・社会復帰にとっていかに重要なものかということ、また外部の者にとっても受刑者との間でのコミュニケーションを通して人格の発展が図られる。この権利が剥奪されるようなことがあってはならない大切な事柄であるという、我々原告側の主張した趣旨が全面的に認められた画期的な判決でした。」とのこと、本当に良かった。苦労された弁護士に感謝し、泉水さん含め原告の方々に連帯!そして泉水さんの「与作」の歌をアラブで歌ったという松下竜一さんの本からのエピソードを泉水さんの人柄共々語っています。(中略)

10月24日 今日、全当選者の確定した新聞が届きました。3分の2以上の改憲派ばかり(当選者の8割超)投票率53.68と低い分、自民に有利だったようです。今回の選挙では、国民の声を反映したのは立憲民主党、という側面が次の可能性ですね。
自民党は、得票率比例区では33.3%ですから、全有権者の20%以下(17.5%)です。それが、全体を転換させる改憲に導こうと、再び政権を支配する日本です。東京ブロックでは、比例区の投票先は、自民30.42%、立憲23.58%、希望17.44%、公明10.81%、共産10.37%、維新3.32%、社民0.95%でした。共産、社民支持が「立憲」に流れたのです。
朝日新聞の試算では、小選挙区で、分裂野党の226区で与党が8割勝利していて、野党共闘が実現していたら、63小選挙区で逆転していたとのこと。単純にそう言い切れないとしても、互角に近い状態はつくられたでしょう。今回の選挙の教訓は、安倍政権に対して旗色を鮮明にして、かつ、保守層を含みうる国民的合意を示せば、政権交代に迫りうる、ということでしょう。
「国民的合意」は改憲に向かっていないのに(ことに9条)国会議員8割超が改憲の方向を向いていて、これから国の形を変えそうです。「天皇退位」「東京オリンピック」と、安倍政権の煽る「北朝鮮」と合わせて、大衆操作・国家主義が強まりそう。でも「立憲」が第一野党として、しっかり市民と連帯し、右に引っ張られずに野党共闘を作り出せれば、無党派層が支えるかもしれません。ニュースやTVのない獄で、新聞を読みつつ考えています。変化は流動をもたらすので良いことです。「自民」「希望」「維新」の似た者同士の路線にも、「情報公開」など違いもあるし、改憲以外で安倍政権を変える流れは作れないのか……と。「希望」も分裂や脱党もあるでしょうし。まずは「立憲」が数合わせより、市民・国民の投票の意図を汲んで今後進めば、5年10年後に期待できます。
パレスチナでは9月以来、ファタハとハマースの政治的和解が表明されています。12月1日にはガザ・西岸地区の統一政府が成立する予定で、話し合いを他の組織含めて行っています。しかし、米・イスラエルの介入と「オスロ合意」に縛られたパレスチナ自治政府の要求に、ハマースが「降伏」しない限り、実効性ある「統一政府」は難しい。その要は、ハマースの軍事部門の「解体」についてです。ハマースを含む反占領闘争(非武装も武装も)は、イスラエルの占領と表裏の関係にある分、イスラエルが武力と「封鎖」を解かない中で、ハマースが武装解除できるのか、疑問です。
常にイスラエルの介入で、パレスチナ内の対立は増幅させられてきたのですが、ネタニヤフは、すでにパレスチナ自治政府のファタハとハマースの統一政府が発足しても、和平交渉しない方針を決定しています。そして、ハマースの「イスラエルの国家承認、軍事部門の解体」などを主張しています。
「オスロ合意」では、イスラエルの承認・合意なしには、何事も成立しない構造がつくられており、自治政府が、イスラエルとの保安共同で「反テロ」の名で、反占領闘争を弾圧しつつ、もう一方の手で「統一政府」を目指しているのは二律背反です。その本質は、ハマースの武装解除を狙っているのが、米・イスラエル・パレスチナアッパース派らの思惑です。それを承知の上で、戦略的な前進のため、ハマースが「非武装」を受け入れるでしょうか。しかし、受け入れても、更に高いハードルを設定している米・イスラエルです。パレスチナの統一は「オスロ合意の脱却」以外、成立しません。
また、米・イスラエル・アッパース派の望む「統一」には、パレスチナの分裂しか成り立たないのが現状です。12月の統一政府発足を期待するパレスチナ人はほとんどですが、その実効性や持続可能性は、ほとんどのパレスチナ人は難しいと知っています。何故なら、パレスチナレベルの決定が生かされていないからです。
今日は久しぶりのグラウンド運動。もう桜の木が色づき落葉しています。それでも黄蝶、紋白蝶が舞い、タンポポが咲いている八王子です。気持ちの良い野外運動です。

10月31日 もう10月尽。屋外に出ると、厚い雲間に青空があり、曇ったかと思うと太陽が射し込む暖かい秋。もう桜の紅葉が塀際の並木を美しく変えています。
メルマガで10月14日のガーディアン紙」とのインタビューで元英首相のトニー・ブレアのこんな言葉を知りました。「ハマースをボイコットしたのは誤りだ。」「今考えれば、ハマースを対話の場に引き込み、彼らの態度を変える試みをすべきだった。イスラエルが強硬に反対していて、それは難しかった」などと述べています。外部のご都合主義の介入は、結局強硬なイスラエル政府の言いなりで、米国が後押しして「国際社会」の意見にさせてしまい、誤った道を作りました。
ファタハも自らの利益と外国援助金で成り立つ政府の現状維持で、現在に至る対立まで続きました。11月の統一のための全パレスチナ勢力の話し合いに注目したい。(中略)

11月7日 ロシア革命百年目です。革命をヒューマニズムの実現として世界の労働者たちは考え、西から東へと芸術家らも亡命していきました。労働者階級、自らを解放することによって、例外なく社会成員を解放する能力を持った階級としてヒューマニズムが描かれ、マルクスからレーニンへと。でもロシア革命によって、新しい世界が拓き、ロシアの地方性を「普遍性」として、それを教条したり押し付けたり。多くの過ちもあったけど、ロシア革命によって、資本主義も分配や社会福祉など成熟させざるを得なかったし、世界の抑圧された人々が結び合う力を育てたので、やっぱり偉大な現代史の出発点でしたね。
 今日は立冬。それなのに、タンポポや銀ヤンマが独り飛んでいました。暖かい小春日和のロシア革命記念日です。公正な富の分配、金銭に支配されない人間性の連帯、益々変革の必要を実感しつつ歩んでみました。 

11月8日 一転して小雨曇天の八王子。今日は17年目の逮捕記念日。様々の想いが胸をめぐります。あの人はどうしているだろう、まだ生きておられるか……と、当時の様々な国の友人たち含めて、断ち切れてしまった関係のその後を想像しています。お詫びと感謝しかありません。変革や闘った連帯の誇りに、反省すべき多くの事柄が軽々とならないよう心して進みます。これまでのみんなの支援・友情に感謝し、再会を誓って学び、心身鍛えねば!と強く希求する逮捕記念日です。いつもありがとうございます。(中略)

11月9日  今日、受け取った「支援連ニュース」にAさんの書いたとってもわかり易い、泉水さんの国賠訴訟の事が載っていました。「泉水博さんとの面会交通権裁判の控訴審、勝ったぞ! 被告・国側は上告せず」のタイトルです。
「2006年の監獄法廃止と、その後の『刑事被収容者処遇法』は、社会関係を遮断する監獄法の考え方を改め、広く外部交通が認められるようにすべき、と規定しているととらえ、外部交通を積極的に認め、交友関係の維持も、通常の交友関係であれば足り、その長短や濃淡は問わないとして、受刑者との面会それ自体が改善更正と社会復帰に資するものであるから、刑事施設の長の裁量の幅は、相当程度制限されるものと解され」と、判決で述べているとのことです。当然でまっとうな判決です。
施行の当初は法の精神に則って面会、私も可能で友人たちと会いました。ところが2011年秋から、八王子でも親族と、特別な理由、身元引受人以外、不可となりました。泉水さんの判決勝利によって、今後運用幅が広がるといいのですが…。
また、「日本赤軍云々」という国・被告の論理も、すでに解散しており、面会や文通があったとしても、他のメンバ-と意思を通じるとか、刑事施設の規律や秩序を害したり矯正処遇の実施に支障を生ずるおそれがあったとは認められない、との判決。これで、泉水さんを案じて面会してきた戸平さんもまた会えますね。親しかった間柄、友人として家族として、再び面会可能は嬉しいです。
この裁判を、無給で徹底して論理的に裁判所に訴え続けてくださった安田弁護士、山下弁護士には、心からお礼を申し上げます。Aさんから、どうか伝えてください。また、共に闘ってくださった皆さん、ありがとう! まだ、他の泉水さんの公判が続きますが、泉水さんも元気で闘いを選択したことで受けた嫌がらせなど、乗り越えて進むと確信しています。藤山雅行裁判長に、国は上告の論理なく諦め、勝利確定! ですって。うれしいですね。このニュース。

(終)

【お知らせ】
年末年始はブログとホームページの更新はお休みです。
次回は1月12日(金)に更新予定です。

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)を紹介しているが、この日誌の中では、差し入れされた本への感想(書評)も「読んだ本」というコーナーに掲載されている。
今回は「オリーブの樹」140号に掲載された本の感想(書評)を紹介する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「かつて10・8羽田闘争があった」(10・8山﨑博昭プロジェクト編・合同フォレスト発行)】
「かつて10・8羽田闘争があった」(10・8山崎博昭プロジェクト編・合同フォレスト刊)を読みました。
 この本は、50年前ベトナム侵略戦争に反対し、佐藤首相ベトナム訪問に反対し、立ち上がった若者たちが羽田空港周辺で闘い、その中で虐殺された故山﨑博昭君の追悼と、当時の闘いを明らかにし、歴史に刻むために編まれた書です。
 600ページ以上もあるこの本を10月6日に受け取り、10月9日まで一気に読みました。気持ちとしては一気ですが、物理的には徹夜で読むことができない獄で中断を余儀なくされつつ、一心に読みました。
初めに、博昭君の兄建夫さんが、弟がどんな子供だったのか、どんな家庭の中で育ったのかそして突然の死の衝撃を「あゝ弟よ君を泣く君死にたまふことなかれ」の題名の一文に想いを凝縮して記しています。この家族の思いを通して、当時の闘い、命知らずに使命感に燃えて立ち上がる若者たちと支えつつ案ずる家族の姿が痛いほどわかります。自分の周りの若者たち、ブントや赤軍派の友人たち、また、バーシム奥平、サラーハ安田、ユセフ檜森、ニザール丸岡らが、山﨑君の「死」と連動して浮かび、胸を熱くさせます。
この本はそのあと、第1部から第4部に分けて編まれ、第1部では、このプロジェクトに関わった方々中心に10・8から50年を経ての総括的な感慨が記されています。50年前救援に関わり、このプロジェクトに加わった水戸喜世子さんや山本義隆さんら大手前高校の同志、同期の方々の文です。どの方々も10・8闘争とそこでの山﨑君の「死」がそれ以降の運動の飛躍の出発点であり、またそれぞれの人生に大きな影響を与えずにはおかなかったことを深く語っています。10・8闘争が同世代の人々の結び目であり、それ故再び50年後に共通の思いを持ちえたことが伝わります。
第2部では、67年10月8日闘争に共に参加した山﨑君の学友や戦友たちによる、弁天橋やその付近での攻防を中心に編まれています。日本が再び侵略戦争の道に加担することを許してはならない! と、不退転の当時の騒然とした時代がよみがえります。ここでは、戦友、友人たちが山﨑君がどのような部署について闘ったのか具体的で詳細に語っています。私もこの本に一文を寄せましたが、私の文が記憶違いの不正確さがあると読みつつ思いました。一つは、10・8当日ブントや私たちは、鈴ヶ森ランプ出入り口から高速道路を駆け登ったのですが、私は「逆走した」と書きました。しかし、「出口」でなく「入り口」だったら、「逆走」ではないと。もう一つは、私は高速道路上で、機動隊の「ジェラルミンの盾と金属棒でデモ隊の頭を殴ったり蹴ったりしている」とん書いたのですが、まだジェラルミンの盾は無かったのか? 68年の記憶と混同してしまったのかもしれません。他の方々の具体的手記を読みつつ思いました。それに部隊「数百人」と書きましたが、情報誌では、この時のブント社学同らは、1,200人、1,000人と書いている人もいます。確かめずに書いたため、不確かだったと思います。
第3部は、「同時代を生きて、山﨑博昭君の意志を永遠に」と、様々な立場、年代の方々の視点からの文や10・8のこのプロジェクトに賛成した意志のコメントなど。折原浩論文も収められています。
第4部は、「歪められた真実」。これは圧倒的説得力があります。この第4部の真実から改めて逆に第2部の手記をじっくり詠み直した程です。(第1部にも当時の遺族を代表した小長井弁護士も記しています。)この第4部の「50年目の真相究明――山﨑招博君の死因をめぐって」がそれです。辻恵と10・8プロジェクト事務局が執筆し、調査で到達した地平、事実の再現に向けた詳細な聴き取りと図解説明によって正確に真実が明かされています。当時は、「山﨑は学生の運転した車に轢き殺された」とか「暴徒キャンペーン」が激しかったのを思い出します。検死前から「轢殺説」を流しながら、自供攻勢でも結局つじつまが合わせられず、犯人学生説は失敗だったことも記されています。
また、この文で初めに山﨑君を検死した牧田病院長の発表では、「直接の死因は頭骸底出血と頭骸骨折だがタイヤの跡は認められなかった」と述べたものが変更修正されたり、警察の国会答弁もつじつまが合わないなどを、この中で明らかにしています。
この警察のねつ造の記述との関連で、辻恵は60年安保闘争で殺された樺美智子さんに言及しています。2010年に樺さんの「死の真相」が明かされていたことをこの文で私は初めて知りました。「樺美智子さんの『死の真相』――60年安保の裏で」として、2010年12月公表された。筆者は丸屋博医師。60年6月16日に樺さんの遺体を司法解剖のため慶応大法医学解剖室で、中館教授執刀で行われ、その口述筆記したものを丸屋博が当時の解剖学の著名な権威、草野教授に鑑定してもらうために持参し、そこで死因の説明を受けた。丸屋は自ら樺さんの残されていた臓器を確かめた上で、「樺さんは腹部に(警棒状の)鈍器で強い衝撃を受け、外傷性膵頭部出血、さらに扼痕による窒息で死亡した」という結論をまとめたという。(実際、樺さんと一緒にいた女学生は命はとりとめたが、同様の重致傷で入院。)
検察に提出したこの「第一次鑑定書」を、検察は受け取りを拒絶して書き直しを迫った。それで、執刀医の中館教授は修正を加えて「第二次鑑定書」を作成したが、それでも検察は不都合で使わず、解剖に一部立ち会っただけの東大の上野教授によって別の鑑定書が作られた。そこで、「人なだれによる圧迫死、内臓臓器出血も窒息によるもの」と変更した。そして第二次鑑定書も闇に葬った。このように丸屋博医師によって50年を経て明らかにされた。
闘う側にいた私たちは、詳しい山﨑君の死因は知らずとも「権力の虐殺」であり、怒りと共に次の11月闘争に向かったのです。50年を経て、改めてその詳しい実証に当時のデモで、激しく対峙した権力の殺意をよみがえらせて、身震いしてしまいます。しかも巧妙に権力は真相を葬った。歴史に繰り返されている権力の姿を、反戦平和を求める市民運動の側から露にし、今現在の深まる「共謀罪」「安保法」」「改憲」に立ち向かう一つの力として、この本を多くの方々に読んでもらいたいと思いました。(10月13日)

【お知らせ】
ブログ「野次馬雑記は掲載から10年を迎えました。第1回は2007年12月2日です。当初はヤフーの「ジオログ」に掲載していましたが、「ジオログ」廃止にともない、現在の「ヤフーブログ」に移行しました。
「ジオログ」の時を含めて30万近い方にアクセスしていただきました。ありがとうございました。
もうすぐ掲載回数も500回を迎えます。いつまで続けられるかわかりませんが、もう少し頑張りたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。
次回は12月22日(金)に更新予定です。 

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