野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2018年01月

今回は、前回に引き続き国際基督教大学(ICU)における闘いを掲載する。
週刊アンポNo11に掲載されたアメリカからの留学生の闘いである。前回のブログ(No482)を読んだ上で読むと、背景がよく分かると思う。

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【自由な個人以上のもの ICU留学生はたたかう 週刊アンポNo11 1970.4.6】
<大学側のたずなを切って>
 わたしたち、キャサリン・ホリコシ、サンドラ・シャー、フィリス・オガタの3人は、1969年の春、ICU(国際キリスト教大学)に入学を許可され、カリフォルニア大学からの交換留学生として、1969年8月29日に日本に来た。10月にICUの寮に入り、11月に退学処分を受け、1970年2月17日には、2月23日までに寮を出るようにとの通告を受けた。権力にそむくことに恐怖を感じながらも、わたしたちは通告に従うのを拒否することを決定した。この決定の原因になった一連のできごとは、1969年9月に始まった。
 カリフォルニア大学からの留学生は、8月の末に日本に着いたが、3週間の間旅行をしていてICUにはいなかった。9月に東京に帰ってきた時、下宿より寮に入りたいという人がいたのに、わたしたち留学生は全員、下宿に住むように言われた。ICUの教授会が内部であまりに分裂していて、1969年の春に教授会の執行部によって全共闘に出された確認書を、教授会全体としては、認めることができないという状態だったからだ。教授会が確認書についてあいまいな態度を取りつづけるかぎり、全共闘は授業を行わせないことにしていた。ICUの学生は、わたしたちに不信感を持っていたにちがいない。彼らは最初、わたしたちを寮に受け入れるのをためらった。この不信感は理解できたし、わたしたちの中では彼らの三項目要求の運動に強い共感を感じている人もいたが、それにもかかわらず、わたしたちがICUに現れたことは、紛争が解決されないうちに、学生の抗議に反して、執行部がまもなく授業を再開するつもりであるというしるしだった。執行部がわたしたち留学生をICUの学生に対して使うかもしれないと感じて、わたしたちのうちある者は留学生の指導教授であるハンス・バーワルド教授に、ICUの学生の運動を支持し、“不正な授業再開”のための執行部の道具にはなりたくないというわたしたちの欲求をはっきりと伝えた。
 非常に用心深く、また三項目要求の運動についてできるだけ知識を与えたあとで、3つの寮がわたしたちを受け入れ、10月に3人の留学生が寮に移った。

<バックに黒い影が>
10月20日に主な教育区域を囲む波型の金属のへいの建設が始まり、機動隊が呼ばれた。バーワルド教授は、わたしたちに登録用紙を配った。恐れていたことが現実に起こった。“不正な授業再開”が行われ、わたしたちは協力しなければならないだろう。バーワルド教授が他のどんな選択をすることも認めていないのだから。
 10月24日、執行部は9月に入学した学生全員のためのオリエンテーションを開いた。このオリエンテーションで、授業が紛争についての討議には使われないことが明らかになり、22名の留学生のうち15名が執行部を非難する請願書にサインして、現在ICUの事務取扱である三宅教授にこれを手渡した。登録の最終期限は11月1日だった。9名の留学生が登録を拒否した。
 その次の日、バーワルド教授は、登録するようにという彼の命令に従わないなら、契約不履行の法律が適用される可能性があるといって、わたしたち9名をおどかした。このため3名が登録した。バーワルド教授は三宅教授に請願書のことで謝罪し、留学生の登録の最終期限を独断的に3日間くりあげた。教授の言い分は、カリフォルニア大学からの留学生がICUで問題を起こさないことをはっきりさせるのが自分の責任だ、というものだった。執行部への完全な協力方針をとって、バーワルド教授は、中立であると主張した。しかし教授と討論していくうちに、このことは中立の問題ではなくて、さらに上の権力に従っているだけなのだということが明らかになってきた。この時わたしたちはバーワルド教授は、窮地におちいっているわたしたちを助けてはくれないだろうし、わたしたちを彼の命令に従わせるためならどんなことでもするだろう、ということを知った。
 10月27日は授業再開の最初の日で、機動隊はデモをする学生たちを乱暴に鎮圧した。機動隊は何の武装もしていない学生たちに対して、ジュラルミンの楯と警棒を使った。多くの学生が負傷し、一人の少女は頭をひどく打たれて局部麻ひをおこし、広範囲にわたる病院の治療を必要とした。機動隊がICUの紛争についてまったく何も知らないのに、学生を敵にして戦うというのは信じがたいことだった。ICUは大学どころではなくて、ファシスト帝国だった。

<登録を拒否>
 10月28日に、登録を拒否するわたしたち5人の留学生は。プラカードをもったおだやかなデモをした。法律が適用されるというおどかしで登録してしまった、留学生のベン・ボーティンが参加した。わたしたちはへいの検問所の前でデモをし、執行部に抗議した。このデモのため、わたしたち6人全員は、11月1日、正式に交換留学生の資格をとり消された。
 法律が適用されるかもしれないというおどかしを受けて、ワレン・デヴィスは10月28日に登録しデモに参加しない決心をした。しかし彼は、抗議する学生たちを鎮圧することによってしか正常な教育活動を続けられないなら、その教育活動に協力することはできないことを知った。
 象徴的なことに、へいは大学内の分裂を保つのに役立っていた。へいの内側には、偽りのおだやかで正常な環境を。外側には迫害を。この分裂は耐えがたく、次の日、ワレンは登録をとり消した。彼はすぐ、交換留学生の資格をとり消された。
 三宅執行部の学生の攻撃の道具となることを拒否した留学生は全員で6人だったが、わたしたちは、わたしたち以外の留学生で、わたしたちのしていることを正しいと信じているけれど、その確信を主張することのできない人たち(バーワルド教授のおどかしはあまりに手きびしかったのだ)から支持を得ていた。
 11月の間中、三宅施行部は学生への圧迫をエスカレートさせ、多くの学生がとるにたりない嫌疑で逮捕され、負傷した人もいた。わたしたちが執行部を公然と批判し、またその不条理な授業への登録を拒否した結果、ICUはわたしたちをICUの学生とは認めないとした。わたしたちは学生ヴィザで日本に来ているので、出入国管理事務所はICUに私たちの立場についての説明を求めた。ICUは、留学生たちがヴィザをとる前に、ICUは入学を許可しなければならなかったのだから、彼らは法律的にはICUの学生と認められているが、授業に登録しないのだから、もはやICUの学生ではない、と回答した。出入国管理事務所に隠されたのは、わたしたちが登録を拒否した理由だった。ICUはその回答に、まるでわたしたち6名が勉強したくなくて登録を拒否したかのような感じを持たせた。やはり出入国管理事務所に隠されたことは、登録を拒否したICUの1年生たちは退学処分を受けていない、ということだった。ICUにおいてインターナショナリズムは、もしかつて存在したのなら、今は死んでしまったことが明らかになった。

<暴露されたからくり>
日本とカリフォルニアでわたしたちへの支持があったため、カリフォルニア大学のいろいろなグループが交換留学生の資格取り消し処分のことで、交換留学性制度の責任者であるウィイリアム・アラウェイ教授に働きかけた。わたしたちは日本および合衆国憲法によって保護されている自由を行使したため処分され、無権利状態で、弁論するどんな機会も与えられずに、一人の人間によって判断を下されたのだ。権力の乱用を批判されて、アラウェイ教授はICUの状態を“再評価”するため、12月に日本に来た。最初の決定を下した同じ人に訴えなければならないというのはまちがいだ、と考えながら、わたしたちは教授に処分について考え直してくれるよう訴えた。日本にいる間に、教授は処分を取り消すと発表した。
 ベン・ボーティンは処分を取り消された。しかし教授の発表は全くのうそだということがわかった。彼以外の6人は資格を取り消されたままだったのだ。教授はわたしたちに条件付きの処分取消しを提案した。それによるとわたしたちは、不条理な授業をボイコットするストライキを中断しなければならなかった。ストライキをする理由も、このストライキを支持するという留学生の権利の重要性も理解しなかった。アラウェイ教授は決心を変えず、たとえ三宅執行部が学生に対して罪を犯したとしても、カリフォルニア大学交換留学生は、その執行部に協力するというバーワルド教授の決定を支持した。
 わたしたち6人はこうした状態で処分取り消しを受けることを拒否した。カリフォルニア大学とICUは共謀して、学生たちに無理やり授業を正当なものと認めさせようとした。
 ストライキを支持することに確信を持っていたため、登録を拒否する留学生の一人であるトム・ブラムは徴兵に関する彼の立場に不安を抱き始めた。学生という立場になかったら、徴兵を免れることはないのだ。学生の立場を守るため、彼は12月にバークレイの大学に戻った。 
 寮を立ち退くようにというおどかしがひどくなるにつれて、ICUの状態は耐えがたいとして、ワレンは12月に寮を出た。

<進め!かぎりなく>
 執行部は学生に対する攻撃をエスカレートさせて、1月27日までに休学届を出さないなら退学させるとおどかした。
 執行部の力は学生の抵抗する力より強くて、1月27日に学生たちは休学届を提出し、登録に対するストライキは解除された。わたしたちも休学届を提出しようとしたが、執行部はわたしたちを退学させるか、少なくとも日本人の学生と引き離したいと願っていて、これを受け取らなかった。
 ふたたび働きかけがあったため、アラウェイ教授は2月17日に、ICUはわたしたちを学生として受け入れるべきであり、カリフォルニア大学もわたしたちを交換留学生として受け入れるという手紙を送った。2月18日、ICUのドナルド・ワース教授はわたしたちに個人面接を行った。予想していたように、わたしたちが新たに留学生として入学するなら、復学を許可すると言われた。この方法でICUはわたしたちが10月からICUの学生だったことを隠すつもりだったのだ。ICUはまた、寮から出ることと、再入学誓約書にサインすることを要求した。
 このすべての手続きをすませる最終期限は2月23日だった。5日間しかなかったのだ。ICUはわたしたちが自発的に復学を拒否しているかのように見せかけながら、わたしたちを復学させまいと一生懸命だった。そして、わたしたちが条件付きの復学を受け入れた場合には、わたしたちの行動を完全に制限するにちがいなかった。
 この状態は受け入れられないものだった。彼らに従うことは、私たちの自由を放棄し、執行部により行動を制限されることだった。執行部は全能者となるだろう。批判を受け入れることさえしないのだから。
 登録を拒否する留学生の一人であるカティー・クラークは、ICUの状態に絶望し、最初に三宅執行部とバーワルド教授の決定に抵抗する必要があると感じ、ますます、彼女と対立している人たちは人間的でないという感じを抱き始めた。紛争がすぐに解決するというきざしはまるで無く、カティーは2月、ICUを退学することにした。
 その代わりに、わたしたキャッシーとサンディーとフィリスの3人は、寮を立ち退くようにとの通告に従うことを拒否するため、ICUに残された。わたしたち3人がまだICUに残っているのを不思議がる人がいるかもしれない。わたしたちが残っているのは、わたしたちが今持っている自由とは何なのかを理解したためだ。わたしたちは誰も暴虐に対して闘おうとして日本に来たわけではないけれど、自由のために闘ったから、わたしたちは今自由を持っているのだということを理解した。誰もわたしたちのために自由を獲得してくれることはできない。わたしたち自身で勝ちとらなければならない。そして不正な権力への協力に反対する時はいつも、わたしたちは自由な個人以上のものとなる。不正な規則に従うことは少しもりっぱなことではないからだ。
(終)

【本の紹介】
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・山本義隆『近代日本150年――科学技術総力戦体制の破綻』
科学技術振興・信仰に基づく軍事、経済大国化を問う。西洋近代科学史の名著から全共闘運動、福島の事故をめぐる著作までを結ぶ著者初の新書。
黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる日本の近代化は、以後、国主導の科学技術振興・信仰による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と、国民一丸となった総力戦体制として150年間続いた。明治100年の全共闘運動、「科学の体制化」による大国化の破綻としての福島の事故を経たいま、日本近代化の再考を迫る。

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月9日(金)に更新予定です。

2018年最初のブログは、久しぶりに「全国学園闘争の記録」シリーズを掲載する。
今回は国際基督教大学。ICUと言った方が馴染みがあるかもしれない。
1969年当初、同大の自治会は全学部が革マル系であった。そんなこともあり、当時、集会やテデモで「国際基督教大学」の旗やヘルメットを見たことがない。
当時の新聞を見ても、同大の闘争に関する記事はほとんど見当たらない。唯一見つけたのが、この写真である。

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週刊アンポNo4に、国際基督教大学の闘争の記事が掲載されているので、それを見てみよう。闘争というより、機動隊の暴力に対する告発記事になっている。

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【「大学公認の警察暴力 国際基督教大学の場合  週刊アンポNo4 1969.12.29】
ICU(国際キリスト教大学)は学生総数1,100人、東京の西の郊外にあって、36万坪の広大なキャンパスは文字通りの武蔵野風景を誇っている。ここで警察機動隊により、どんな暴行が学生たちに加えられたかを語る前に、ICU闘争の経過を簡単に述べよう。

<「無方針の方針」が強行された>
 話は2年前にさかのぼる。大学側は入試制度の改訂を行おうとした。能力開発研究のテスト導入と受験料の値上げである。これに反対する学生達の闘争は大学側のガードマン導入により圧殺され、多数の学生が負傷し、63名の学生が処分された(いわゆる能研闘争)。それ以来、大学は学生諸活動の見張り役としてガードマンを常駐させたのである。
 今年の2月27日、学生らちは全学共闘会議を結成して3項目の要求を大学側につきつけた。①ガードマン体制を撤廃せよ ②教授会議事録を公開せよ ③能研闘争での処分を撤回せよ。3月13日の学生総会で3項目要求は支持され、全共闘は学生会の代表兼・総会開催権・大衆団交権のすべてを獲得した。それ以降、2回の全学討論集会、5回の大衆団交がもたれた、久武雅夫学長。武田清子学部長は2度目の団交の直後、辞職してしまった(3月30日)。大衆団交は非人道的であり、思想のせん滅戦だからイヤだというのがその理由である。教授会は代理を立てて大衆団交を継続して7枚の確認書を交わし、学生の勝利として一応の終わりをむかえたかにみえた。5月2日の新学期から授業を進めながら確認書の実質化をはかるはずだった。ところが、5月1日、大学側は「新学期に際して責任のとれる執行部が不在のため」を理由に突如「授業再開無期延期」を決めた。
 湯浅八郎理事長を中心にした大学側は既に「無方針の方針」を決めていた。即ち、一切の話し合いを拒否して全共闘を孤立させる。進級・卒業・就職といった強制力がはらたくぎりぎりの「タイム・リミット」まで学生を“野ざらし”にする。その時点がきたら授業再開を強行し、確認書は黙殺する。これが方針だ。
 8月25日の学生総会では「確認書の実質化を明言しない形でのいかなる授業再開にも反対する」ことが決議された。
 10月19日の学生総会でも、新しく就任した三宅執行部拒否、大衆団交要求の動議が可決された。そして、その翌日の10月20日、その決議をあざ笑うように三宅彰学長事務取扱は機動隊を呼んだ。彼の言葉によれば「あくまでも自由な教育と学問の場としてのICUを守る」ために「すぐに授業を再開し、教育機関として社会に負っている責任を果たすべく決意した」のである。(10月14日付の文章『学生諸君に訴える』による。)
 いま、本館・図書館・教会堂など大学側が「教育区域」と呼ぶ一群の建物は、3メートル程の高さの鉄板でグルリと囲われている。大学当局の方針を承認した学生たちが入構証をもち検問所をくぐってヘイの中に入り、教室では教師たちが授業という名の「業務」をフルスピードで続けている。ヘイの外には、このなし崩しの授業再開に抗議して登録を拒否している学生およそ200人ががんばっている。登録をせず休学届を出さないからという理由で、大学は1月27日に彼らを自動的に除籍するという。
 大衆団交は非人道的な思想のせん滅戦だといわれている。だが、機動隊という名の黒い群れを呼びこんで、学生に犬のようにけしかけ、思想と人間、まるごとのせん滅が行われた次のような事態は、どのように「人道的」だというのか。

<「理性と学問の府」はこうして守られた>
 (10月22日)
 20日の機動隊導入に抗議して約150人の学生(うち半数以上が女子)は学内デモをしていたところ、待機していた機動隊(七機)はこれを人目にふれぬ雑木林の中へ「排除」し、そこで殴る、蹴る、あげくの果てに警棒を抜いて頭を打ちすえるなど権力公認の暴行をつづける。4名が病院に運ばれる。
 S君の証言「林の中で機動隊1名がデモ指揮者の顔面を殴った(前歯欠損)。私は女子寮の方に逃げ。玄関前で楯をもった隊員を指さして抗議したところ、その横にいた指揮者が指揮棒を横に振り私のこめかみを打った。一瞬気を失い、寮内に運ばれ、救急車で病院に運ばれた。」
(10月26日)
約150名でデモをしているところを機動隊が襲う。突然パトカーが構内に入ってきたので、学生の一人がこれを追い、立ちふさがろうとしたところ、逮捕、連行される。別な学生が「彼は何もしていない」と抗議したところ、私服刑事は「みせしめだ」と答える。
(10月27日)
朝8時ごろから検問所近くに全共闘の学生が集まり、来校した学生に授業を拒否するよう説得していた。8時半ごろ。全共闘学生およそ150名はその場に座りこみ、同数のシンパが周りで見守っていた。これに対して三宅学長事務取扱はヘイの中の台上から、そして奥津学長補佐は機動隊の陣頭に立って退去を命じた。彼らが「お願いします」と言って警察指揮官に頭をさげると、機動隊(七機)と三鷹署員、約100名による「規制」が始まった。それは女子学生へのほしいまままのワイセツ行為であり男子学生への暴行だった。学生たちはつきとばされ押されながら第二男子寮近くを歩いていた。この時、4年生の新崎映子さん(22)は、一機動隊員がななめ後ろからふりおろしたジュラルミンの大楯で後頭部を強打されたのである。
 彼女のその後の経過についてはあとで詳しく述べるが、新崎さんの場合のように機動隊の大楯が、頭や首筋をなぐりつける「凶器」に使わている証拠写真2枚を掲げる。これは11月21日昼、場所は同じICUで写され。大楯で打たれてている学生はO君である。①の写真で機動隊員はO君をねらって楯を高くふり上げようとしている。O君は無防備であり、頭を低くして全く無抵抗の姿勢をとっている。

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その直後、②の写真で、この機動隊員は楯のへりで強くO君の後頭部を打ちすえている。

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 O君の証言「午前12時20分よりの食堂前での集会の後、デモに移った。検問所前で10数人の機動隊員の方向へ進んだ。僕は前から三列目の左側に位置していたが、そこへデモ指揮者が入ったので僕は四列目に移った。その直後、左側から楯で押され、2.3発なぐられた後、楯の面で2.3度頭を打たれ、さらにふり上げられた楯の角で左後頭部を打たれた。一瞬意識を失ったようで、片手を頭に当てたまま、となりのK君と列外に倒れ、救対の人に病院へ運ばれた。後頭部の傷口から血が吹き出していて五針ぬった。相手の機動隊員は左側の最後尾にいたものと思われるが顔までは覚えていない」。―この機動隊員は逮捕され裁かれていないのか。
(10月28日)
朝8時頃より学生は座り込みを始める。機動隊の「排除」にあい2名が「威力業務妨害」で逮捕される。抗議の演説を始めた全共闘議長は機動隊員にとり囲まれて、これも逮捕される。昼から「不当逮捕抗議集会」とデモが行われたが、機動隊はこれを襲い、さらに5名を逮捕、連行する。この日は一般学生や教師など目撃者が少なかったせいもあり、機動隊員の暴行は熾烈を極めた。
 Th君の証言「デモの後尾にいた。前列の方で激しい暴行を目撃したので、“機動隊、何をするのか、やめろ”と叫んだ。その直後、左肩を殴られふり向いた瞬間、機動隊員のこぶしが私の鼻の中央部にまともに当たった。反撃すれば“公務執行妨害”で検挙されると思い、にらみつけていると、指揮棒でみけんを突かれた。その後、鈍痛や鼻血があり、鼻の骨が折れていると知らされた。」
 機動隊員による暴行はこの後も連日続いた。ここに掲げた表は事実のほんの一部にすぎず、全共闘学生のほぼ全員が暴行を受け、殴られ蹴られるのは「いつものこと」と彼らは言う。

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 かって「大学自治」とは、学問・思想の自由を国家権力から守るものといわれた。ところがICUでは、大学当局と警察の結託により、まったく逆に、市民の目から「警察暴力の自由」を守る方向に利用されている。アカデミズムを囲んでいたはずの美しい森は、今、警察暴力を包み隠している。
 さて、新崎映子さんはその後どうしたか。

<権力の犯罪を権力に訴えるジレンマ>
 機動隊員の大楯の一撃でこん倒した新崎さんは、ただちに救急車で三鷹中央病院に運ばれた。ここは、救急指定病院なので闘争で負傷した学生が多く送り込まれ、そのためか大学と連絡が緊密だといわれる。彼女は、吐き気、左半身のじびれを訴えたが、なぜか病院は「医学上何の異常も認められぬ」と診察し、「本人の希望によって入院させている」と大学に報告した。
 めまい、吐き気のおさまらぬ彼女はついに31日、当人の意思で順天堂病院内科に入院、
11月2日危険な状態に陥り、脳神経外科に移された。彼女を診察したO医師は「一口では言い尽くせない。めまい等の運動失調、吐き気、左半身マヒ、眼痛など『脳かん部を中心とする多彩な症状』という危険なものでした」と語る。診断書には「ワレンベルク氏症候群」で「今後も引き続き長期にわたる入院加療を要する」と記されている。「半年、1年の単位になるでしょう。後遺症についてはまだ何ともいえない。若さによる回復力に期待しています」(O医師談)。
 症状悪化に驚いた級友は、看護を続けつつ、加害者の機動隊(=東京都)と大学当局を、賠償金請求と特別公務員暴行陵虐罪で告発する準備を始めた。
刑法第195条 特別公務員の暴行陵虐
 裁判、検察、警察の職務を行い又は之を補助する者其の職務を行うに当たり、刑事被告其他の者に対し暴行又は陵虐の行為を為したるときは七年以下の懲役又は禁固に処す
 まず殴った隊員の名がわかれば訴訟は大いに有利だが、厳しい「襲撃」の最中に顔を覚えている学友はいなかった。
 さらに、順天堂病院では、現在の彼女の重い症状が機動隊員によるという確実な証明はできなという。負傷直後の状態を診察していないし、三鷹中央病院の診断書には何も「自覚症状」が記されていないからだ。当人は最初から異常を訴えており、だからこそ再入院したのだが、その事実は1枚の診断書で否定される。
 O医師は続ける「この症状は『頸椎動脈循環不全』(その結果、小脳に血液が通わなくなる)で引き起こされる。その原因にはさまざまあるが、外からのケガが直接原因になった症例はない。だから機動隊に殴られたとしても、せいぜいそれが誘因になったとしかいえない。彼女の体質からこうなったのかもしれない。」 
 だが編集部とともに会見に立合った東大青医連の脳神経専門のM氏は言う「後頭部に大楯による強打のような垂直な激しい力が加わること自体、異常なケースなのだから、症例がないのは当然なのだ。経過からみて、警官の暴行によって起こったと想定するのが自然だと思う。」
 沖縄で学校の先生をしている映子さんの父親は、事件後上京してきた。大学当局は最初、当日の暴行現場に三宅学長代理、奥津学長補佐がいたにもかかわらず、「報告を受けていない」と突っぱね、さらに「ころんで頭を打ったという」などと事実自体を否定しようとし、その転倒説を順天堂病院を始め大学内外に流布した。そして12月2日、「法律的には、大学には何の責任もない。ただ保護者が治療費を支払えないのなら、一部支払ってもよいがそれには限度がある」というとぼけた回答を寄せた。父親は納得せぬまま、12月6日、ビザの関係で沖縄へ帰った。
彼女の兄は「いろいろ言いたいこと、中には腹にすえかねることもある。しかし今は、とにかく治療第一と考え、本人と訴訟の話はしていない。最終的には本人の意思に任せる」と語る。長い裁判(22才の彼女には、就職・結婚など大事な時間)が本当に彼女のためになるのかという家族としての心配、さらに機動隊の暴行を法廷で立証しても、勝てるとは限らない、相手は国家権力なのだから、という深い疑惑を秘めた言葉だった。
 訴訟準備委員会は最終的に彼女の承認を得るために症状の回復を待っている。幸い病状は少し上向きで、どうにかベットに起き上れるようになった。しかし法廷闘争の見通しは決して明るくない。弾圧によりICU闘争自体が困難な局面を迎えている中で、大学当局は居直り、警察は妨害し続けるだろう。
 その後も、ふえる負傷者の救対に追われつつ、準備を進める学生たちをいらだたせるのは、「警察の犯罪を、警察・検察・裁判に訴えるしかない」状況だ。機動隊によって暴行を受けると、警察差し回しの救急車で警察の指定病院に運ばれ治療され、生活と闘争の場であるキャンパスに戻ってくると、また暴行が始まる。どんな真実も、法律上立証できなくては認められないし、その捜査は警察自身が行う。国家暴力の体系が巧妙に仕組まれ、システム化されているのだ。
 それにもかかわらず、いやそれだからこそ、われわれはあらゆる形での他の人々への訴えをやめてはならない。国家お墨付きの「法的事実」に、われわれの「実体的真実」をぶつけ、権力の犯罪を裁くのだ。ICUの学生たちの訴訟もそこに意義がある。

【声明】
 10月27日、東京三鷹市の国際基督教大学構内において、一女学生が歩行中、機動隊員によって楯で後頭部を殴打される事件が発生した。我々はこの事件を重視し、現在学校当局と機動隊(=東京都)を告訴する準備を進めている。
 大学は、一部反動派によって一方的に5月段階で授業再開が中止されたまま実質的な休校状態が10月27日迄維持されていた。即ち、彼らは、学生を「タイム・リミット」に追いつめる事によって、全学共闘会議の提起した大学(=社会)の存立基盤を問う問題に対して回答する事を回避したのである。10月27日の授業再開はかかる背景の中で、機動隊常駐、検問所体制という弾圧体制のもとで強行された。当局の指示のもとに機動隊は、一握りの「受講者」のために「阻止線」を拡大し、我々の集会すら暴力的に解散させようとした。そして遂に、無抵抗の女子学生に、上記の如き重症を負わせるという結果を生じさせた。
 この「事件」は、既に商業新聞によって報道されている。だが事態の本質は「傍観者が巻き添えをくった」などというものではない。
 大学当局はこの事件に対し、極めて卑劣な対応をとり続け、虚偽の「報告」を学内に流したあと、医学上の調査結果を恣意的に抽出した文章を作成するなどしている。
 我々の「訴訟準備」は、かかる当局そして機動隊=国家権力の「病理構造」を弾劾するのみならず、「資本制大学止揚」として位置づけられた全共闘の闘いの正当性に立脚するものであり、かかる闘いの一環である。「訴訟」はブルジョア法の枠内における闘いでしかないが、ブルジョア的諸権利すら完全に剥奪された現在にあっては、かかる闘いも我々は同時に推進しなければならない。
機動隊による暴行傷害はこれに留まらず、入院加療を要した者だけで20数名に上る。全国の闘う学生・労働者・市民に連帯を訴えたい。
国際基督教大学全共闘・訴訟準備委員会
(終)

【お知らせ】
次回は1月26日(金)に更新予定です。 

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