野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2018年04月

2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、
私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。
今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。
※ ブログの字数制限2万字を超えるため、昨日と今日の2回に分けて掲載しています。

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【「塩見孝也お別れ会」後編】
村田(司会)
「若い人はご存じないかもしれませんが、昔、三派全学連というのがありました。このネーミングは革マル派なんです。三派の寄せ集まりで、三派一緒にやってもいずれ分裂するだろうということを揶揄するために三派全学連という名前を付けたんです。これが学生運動の高揚期と重なりまして、新聞にも三派全学連が堂々と載るようになったんです。10・8から王子、成田闘争と学生運動の発展期にありましたので、三派全学連という名前が市民権をもつようになった。だから揶揄されている我々の方も、三派全学連は野暮と思っていたのがかっこいい響きになってきたので、我々も三派全学連を使うようになってきた。これから何人かの方は、その当時の三派全学連のリーダーの皆さんにご発言をお願いしたいと思います。
最初に三派全学連時代の東京都学連委員長の三島浩司さん、旧名山本浩司さんです。」

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三島浩司(元東京都学連委員長)
「今、司会の方が仰いましたけれども、私たちの時代はいわゆる三派の時代。私が塩見孝也さんと初めて会ったのは、おそらく1963年の春だったと思います。1963年の春は、全国自治会代表者会議が京都でありました。場所は京都先斗町の芸者さんとか舞子さんがお稽古するところです。彼と知り合ったのはその頃で、彼は本能寺のあたりの下宿に住んでいました。それからしばらくして、個人的にも親しく付き合いまして、京都に行った時は彼のところに泊めてもらいました。
連合会館のすぐ近くに全電通会館がありまして、65年の7月に都学連の再建大会がありました。その都学連再建大会以降、彼はしばしば東京に出てきている。それから1年くらいで常駐するようになったと思います。
彼らしい面白いエピソードがあります。白川さんの話でロマンチストという話がありましたが、彼が東京に出てきて、何人かと一緒に新宿の飲み屋で飲んでいて、彼は何を思ったのか、店の若い仲居さんに『私は京都から出てきた塩見孝也と申します。全学連再建のために東京に出てまいりました。付き合ってください』(笑)無理だと思いますけれども、そういうことを言った。彼とはそういう風な付き合いで、よく飲んだ。その後、あまり付き合いはなかったんですが、72年の連合赤軍事件の前に彼は逮捕されて、連合赤軍事件でかなり参っているのではないかと思い、当時の東京拘置所に会いに行った。事実、かなり落ち込んでいて、第一声は『すべて俺の責任だ』と言っていました。塩見に『全部自分の責任だというのは、ある種ごう慢じゃないか。お前がそんなことをできるわけがない』と言った。
塩見は新潟刑務所にいて、府中刑務所に移されて、出たときに府中での出獄の歓迎会で20年ぶりに会った。その後、彼と平壌に行ったりした。彼とは大勢で一緒に飲んでいたが、二人だけでじっくり飲んだ経験はないような気がします。
陶淵明に『長い年月を経ってみれば、栄誉や知力は何でもない。ただ、この世を去るにあたって残念なことがあるとしたら、もうちょっとだけ酒を飲みたかった』という意味の詩があります。
やがて私も行くと思いますので、今度はゆっくり彼と飲んでみたいと思います。」

村田(司会)
「次の発言者として、秋山勝行さん又は吉羽忠さんと書いてありますが、江戸川区の前進社あてにご案内の親書を出しましたが、返事がきませんでした。今日はお見えになっていませんので、残念ながら発言はないということになります。
ブントの当時の書記長だった渥美さんにご挨拶をお願いします。」

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渥美文夫(元ブント書記長)
「塩見とは長い付き合いがあったわけですが、塩見孝也でまず思い出されるのは、第二次共産主義者同盟結成のために共に頑張ったことが思い出される次第です。
しかし、1969 年7月、塩見孝也が前段階武装蜂起を主張しました。私はそれは時期尚早である、そこまで情勢は煮詰まっていないと考え、塩見孝也と別れた。連合赤軍事件は、森あるいは永田の指導者としての問題があると思いますが、私は、連合赤軍事件というのは、まさに塩見が唱えた前段階武装蜂起という政治路線が具体的に破綻していくプロセスそのもの、政治路線的な事件として我々は捉えなくてはいけないいと考えます。
塩見と話をしても、最後までそれは受け付けませんでしたが、私はそのように思っています。
1970 年以降、我々の運動は後退を強いられてきました。その中で大きな要因として、連合赤軍事件と内ゲバが指摘されてきました。私は確かにそれは大きな要因であったと思っています。しかし、我々左翼の後退というのは、日本的な現象というよりも、むしろ世界的に我々左翼、共産主義の運動が後退を余儀なくされている、これは事実だと思います。その原因は何であるか考えた場合に、その一番大きな要因は、ソ連の崩壊と中国の変質、これが非常に大きな要因として我々に突き付けられていると思います。実際に今のロシア、中国、これは開発独裁というか国家資本主義です。そういう現実を突きつけられる中で、私たちはそれをどうとらえ返すのか。確かに我々はソ連共産党の官僚化、腐敗を指摘し彼らは世界革命の立場を捨てて、各国の革命運動を自国防衛のための道具にする、そういうことを我々は厳しく批判してきました。しかし、ソ連崩壊 中国の変質、そういうことは、我々にさらに厳しい課題を突き付けている。
今年はロシア革命100 年、中国革命70 年、ここで示されてきたことに対して、裏切りである、腐敗であるということだけでは済まない。70年100年というのは一つの歴史の重みだと思います。ロシア革命の100年、中国革命の70年を考えると、いったいプロレタリア独裁と一党独裁はどう違うのか。結局のところ一党独裁でしかない。これを我々はどう総括するのか。我々はブルジョア民主主義ということで、いつもこれを見下してきました。しかし、実際のプロレタリア民主主義とは何だったのか、ということが問われている。それに対して、我々は、今や明確な我々が考える政治システムを提起しえない。ただソ連共産党の腐敗、中国共産党の腐敗というだけでは、不十分である。さらには、中央集権的な国有化経済というものが、実際には経済合理性を差別化していった、これも事実として我々に突き付けられた。あるいはスターリンのコルホーズ政策、あるいは毛沢東の人民公社方式を我々が批判するとするならば、我々はどういう農業政策を持っているのか、そういう我々が考える政治システム、我々が考える政治経済政策について、我々がより立ち入って、我々の考えを鮮明にさせていく、そのことを抜きにしては我々は進むことはできない、そういうことを私は突き付けられてきたと思っています。
今、搾取と抑圧、支配と差別に反対する戦いは全世界いたるところで展開されています。。しかしながら、それらの運動と共産主義とは乖離した状況にある。共産主義思想は何らヘゲモニーを持っていない。そういう中で、我々の道はロシア革命100年、中国革命70年の歴史総括を内包したものとして提起されなればならない、我々は圧倒的に立ち遅れている。我々は急がなければいけない。
以上、塩見孝也お別れ会の言葉とさせていただきます。」

村田(司会)
「次から元赤軍派関係の方の発言をお願いいたします。高原浩之さん。」

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高原浩之(元赤軍派)
「私は、第二次ブンドと赤軍派を通じて、塩見孝也とずっと政治行動を共にしてまいりました。そういう意味で、その間の政治的責任を共有するという立場で、少し思いを述べさせていただきたいと思います。
 まず、赤軍派についてどのように思うのか、ということですけれども、赤軍派が70年闘争を飛躍的に発展させたいという思いから結成されたことは間違いありません。しかし、現実に起きたことは何かというと、第1に7・6事件で第二次ブンドを崩壊させた。第2に起きたのは何かというと、連合赤軍事件。この事件は人民の闘争に壊滅的な損害をもたらしたことは間違いないと思います。なぜ起きたのか?赤軍派は実際に武装闘争に着手する前に、大菩薩峠で多くが逮捕されて基本的にはそこで挫折しました。にもかかわらず、人民に依拠しない、革命の原動力の点では根本的に誤っていた革命戦争路線を引きずった結果というのが連合赤軍事件であったと私は思っている。その赤軍派の路線が破綻したときに、いったい何で組織が維持されたのか。リンチでしょう。このことによって組織を維持する。それは革命運動の中にずっと蝕んできていた悪い『体質』が、いわばそこの路線の全面的な破綻の中で噴出してきたと考えざるをえないと思います。事件の後、当然、人民に依拠する、そういう路線に転換することを我々は問われました。実際、自己批判と総括を行って、赤軍派という組織はなくなりましたが、関係者はそのような路線に転換していったと思います。
しかし、連合赤軍事件というのは、もっともっと悲惨であると考えています。『時代』だとか『夢』だとか、そういう言葉で赤軍派の指導路線の責任をあいまいにしたり、あるいは赤軍派を美化するのは止めていただきたい。赤軍派の指導路線に問題があったわけですから、赤軍派の指導部は、当然、根本な誤りは路線にあったと認めなくてはならない。その上で、連合赤軍事件で殺された同志に対して謝罪する。また、さらに連合赤軍事件で生き残った人たちも、極めて不本意な形で他人を殺している、人生を破滅させている、そのことに対しても赤軍派の指導部は謝罪しなければいけない。あるいは、さらに、赤軍派関係者の中にも、多くの人が人生を狂わされている。そういう関係者全員に対して謝まらなければいけない。そういう意味で、この『会』は赤軍派の問題に関して決着をつける、けじめをつける、そういう『会』になるべきであると私は思っています。そういう意図で発言しています。ここに塩見孝也の写真が飾ってありますが、同時に連合赤軍事件で殺された山田孝とか遠山美枝子とかの写真も飾るべきでしょう。あるいは、事件の責任をとって自殺した森恒夫の写真も飾るべきでしょう。そういう意味で赤軍派に結末をつけるのがこの『会』だと思っています。私にとって赤軍派は、今、後悔とそして贖罪以外の何物でもないと思っている。
次に私が申し上げたいのは、赤軍派を生み出した第二次ブントと塩見孝也についてどう思っているかということですが、昨年は羽田闘争50年でしたが、70年において、新左翼は、三派全学連とか全共闘運動あるいは反戦青年委員会を通じて学生大衆と結合し、一部の青年労働者と結合し、数としては社共・総評ブロックより少数ではあったかもしれませんが、明らかに70年闘争全体をけん引していた。そういう中で第二次ブンドも、それなりの役割を果たしましたし、塩見も第二次ブンドの有力な指導者であったと思っている。
この70年闘争は21世紀の現在でも非常に大きな意義がある。例えば新左翼の代名詞はいわば実力闘争ですけれども、これが大衆を捉えましたけれども、それは日帝打倒、プロ独、社会主義革命という新左翼の政治路線を抜きには考えられないものです。この実力闘争の思想というものが、直接民主主義ですけれども、現在的には『自己決定権』とか言われるものであって、それは、今後、コンミューン・ソヴィエトとつながっていく、そのようなものだろうと思っています。また、70年闘争はベトナムと中国、民族解放闘争と文化大革命に対する共感と連帯と支持とを大きな力として、世界的な闘争で『68年革命』といわれましたけれども、そういう闘争として日本の人民運動の中にアジアと連帯するという思想と体質を根付かせたと思っています。このアジアと連帯するという体質も、70年闘争以降、ずっと日本の人民闘争に根付いてきている体質だと思っています。
それから考えると、塩見の『過渡期世界論』は帝国主義から社会主義への過渡期である。そこにおいては3ブロックの階級闘争が結合するといわれましたけれど、何よりも、ロシア革命以降、民族解放闘争・社会主義革命の発展は、アジアにおいてなされていく。そのアジアの革命と日本の社会主義革命は結合する、というところに根幹があったと思いますけれども、こういう時代認識は現在も引き継がれていると思っています。
以上の点で、私は赤軍派の罪は大きい、後悔と贖罪であるというと同時に、第二次ブントが存在した意義、そこで塩見が果たした役割というものを、やはり高く評価しなければならないと思っています。

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我々70年闘争の世代が、最後に何を残していかなければいけないのか。
2015年の反安保法闘争を頂点として、人民闘争が発展に向かっていますけれども、その人民闘争というのは、一つ一つの課題、例えば民族・女性・部落などの差別問題が大きいだろう。あるいは労働者階級の『下層』という問題がとても大きいと思う。私は直接大衆運動には関与しませんけれども、その運動を見ると、新左翼がその運動の中で良い体質、一言でいえば実力闘争、自己決定権という体質は堅持しながらも、小ブルジョア急進主義という悪い体質を払しょくし、清算し、人民大衆と結合していたことの結果として。現在の人民闘争はあると思います。その一つ一つの努力は偉大なものであると表現すべきだと思っています。私は70年闘争の世代なので全共闘運動は見ていますけれども、今の人民闘争の5年10年20年をかけた先には、おそらくあの全共闘運動が全人民化し、全社会化するというものが展望できるのではないか。それを一言でいえば人民民主主義といってもいいかもしれないし、革命的民主主義といってもいいかもしれない。そういう運動が目の前にある。あるいはアジアとの連帯について、残念ながら中国はすでに帝国主義になっておりますけれども、日本と中国の2つの帝国主義に反対し、2つの覇権主義に反対する、そういう中で朝鮮、韓国、台湾とか香港とかアジアの民族と国家の独立とか自己決定権を守るとか、そういう闘争を支持する中に、中国とか朝鮮、韓国、日本人民が結合していくという方向も強まっていくと思います。
ロシア革命から100年、いろんなことがありました。私はソ連の崩壊は帝国主義の崩壊だから大変よろしいことであると思っています。しかし、文化大革命が破綻した後の中国の変質、民族解放闘争に勝利した後のベトナムの変質、そして今ある朝鮮の信じられないような現実、これは極めて深刻なことであって、やはりマルクス・レーニン主義そのものを対象にした総括が必要である。そのことによって共産主義の理論を再構築していかなければならない。少なくとも、こういうことが起こったのは、我々の時代ですので、我々の世代の大きな責務として、それを総括するために一歩でも二歩でも踏み出していくのが我々の責務ではないかと思っています。
最後にもう一言申し上げたい。人民闘争の発展のためには、70年闘争の正と負の経験、とりわけ三派全学連は塩見が担ったんでしょうけれども、その後の八派共闘というのは、ブントを代表して出ていた立場でしたので、人民闘争の発展のためには、やはり革命党派の共同と統一が必要だと思っています。ただ、残念ながら新左翼と言われた我々の世代はそれには完全に失敗した。新左翼の党派的な崩壊が進行した。そしてよくよく総括すれば、『内ゲバ』と『リンチ』という最悪の体質も持っていた。こういう我々の世代の苦い教訓があるわけですけれども、今の運動を担ってくる現在そして新しい世代の人には、是非、我々の苦い経験を教訓として、是非とも闘争の発展に成功していただきたいと思っています。」

村田(司会)
「50年前の高原君の演説を聞いたような感じがしております。ありがとうございました。同じく元赤軍派の松平直彦君。」

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松平直彦(元赤軍派)
「この会は呼びかけ文にもありましたが、塩見さんとの付き合いの長短を問わず、塩見さんに対する評価の違いを問わず集まっていただいたということなので、高原さんの提起は友情の一つの意見として、真剣な提起ですので、それぞれの人に受け止めていただきたいとは思います。
ここに参集された人は、どういう気持ちで、どういう考えで集まってこられたのかはそれぞれだろうと思いますが、私は区切りを付けたいということです。それは塩見さんとの関係に区切りを付けたいのと、この半世紀の後退戦に区切りをつけたい、こういう気持ちで、この会の準備に関わってきました。この会を準備する過程は結構大変だった。普通のお別れ会であれば、論議する必要もないし、懐かしんで集まってくれればいいし、同窓会になってくれればいいが、みんな断る、来たがらないということがあった。とりわけ第二次ブントの人たちは『絶対に行かない。行く気持ちになれない』というのを説得して集まっていただいた。この後、『よど号』の小西さんと重信さんのメッセージがありますが、小西は『非常に困っている。どう語っていいか分からない。本当は書きたくない』と。これは山中さんが向こうに行って、その時に説得して書いてもらったということです。重信さんも『こういう会はやるべきではない』と言っていたわけですけれども、メッセージを寄こしていただきました。そういうことに象徴されるように、非常に塩見さんに対する評価もさまざまで、否定する人たちも多い。そういう中で、これだけの人が集まってお別れ会に臨んでくれたということは、非常に良かったと思っています。
私の塩見さんとの付き合いは、67年から69年です。路線以上の関係はなかった。67年の暮れに、早稲田の近くのアジトで会った。その当時私はまだ一年生で、塩見さんが早大支部の先輩たちと話しているのを聞いていただけだった。塩見さんと直接話をしたのは、69年11月の『大菩薩』の直前頃にホテルの一室に呼ばれ、首相官邸占拠の作戦を提示され、引き受けた。そして『大菩薩』に行って捕まった。その2回くらいしか記憶していない。
その後、71年のM作戦あたりまでで赤軍派は破産した。ハイジャク、重信さんがパレスチナに行くということはありましたが、現実に国内で何もできていない状況で、破産を総括する必要があるだろということで、私自身は転回して論争に入っていく、そういう時に 連合赤軍事件が表面化してきた。私にとっては、連合赤軍事件は一つの路線的破産の大きな側面ということで、冷静に静かに受け止めて、次にどうするかを考えるテコになっていった事件でした。
出てから塩見さんと論争になっていくわけですが、彼は連合赤軍事件というのは、革命戦争路線は正しかった、しかし指導者の森が悪かったということで、前段階武装蜂起の路線と密接に結びついた同志間の関係の問題であったわけで、その辺を切り離して、自己保身を図っていくという方向に入っていった。71年72年以降はそういう関係でずっと対立していた。ですから、塩見さんの生前葬の時は関与しなかった。生前葬に関与していたらこういう会をやろうと思わなかったと思います。
ある意味、大きな区切りに来ている。朝鮮で南北対話が作られて、何とか今、日米合同演習から第二次朝鮮戦争という危険が強まっている中で、実際に戦争になれば南北朝鮮、日本を含めて数百万が死ぬような戦争になっていくことが予想される中で、どうそれを押しとどめて我々の時代を切り開いていくのか、そういう重大な局面に来ていると思うし、資本主義が終焉の時代に入っている。同時に金融バブルが崩壊するかという局面にもなっている。そういう中で、日本の社会は欧米の社会と同じように人々の関係がズタズタになっている。新しい社会の構想を持った運動が、今、問われているのではないか。戦争の問題と社会変革の問題が煮詰まって眼前に迫って来ている。そういう大事な局面の中で、いつまでも総括問題にこだわっていいのか、ということです。いろいろな総括があっていいと思う。それぞれの総括をこれからの闘いの中に生かしていって欲しいと思います。
その中で共同しながら、今のトランプ・安倍の反動を跳ね返して新しい時代を切り開いていこうではないか、というのが私の考えです。」

椎野(司会)
「残念ながらここに来られないお二人のメッセージを代読させていただきます。最初は1970年に『よど号』をハイジャックして平壌の彼方に飛び立ってしまて以来、ずっとそこで暮らしている小西さんからのメッセージを、2月に平壌で小西さんに会ってきたばかりの救援連絡センターの山中事務局長が代読いたします。」

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山中幸男(救援連絡センター事務局長)
「『平壌で向こうに監禁されているのではないか』という昔の赤軍派の人がいたようですが、必ずしもそうではなくて、私は2月23日に朝鮮に行きまして、27日に帰ってきました。本当は書いてもらったものを持って帰るつもりだったんですが、なかなか書けなくて、昨日やっとメールで届いたものです。代読させていただきます。」
<メッセージ 「塩見孝也への追悼文」>
 塩見さん、このように貴方の追悼文を書くようになるとは思っていませんでした。
貴方に対する怒りだとか断罪だとか、そういったものを言うよりも、何か住む世界が違ってしまったという感じだったのです。
だから、今、こうして追悼の文を書きながらも、後が続きません。
人間にとって、住む世界が同じだということは、やはり大切なことですね。
50年前、住む世界が同じだったあの頃、わずか半年余りの時でしたが、われわれの命はかなり鮮烈に結びついていました。先行き不透明の中、なんとか出路を切り開いて行かなければという思いは。皆一つだったのではないかと思います。
憶えていますか、あの時、塩見さんにした「世界革命戦争の未来のあり方」についての私の質問への答えは、「そんなこと分かるか!」でした。
それで妙に納得したのを憶えています。混迷に近い状況をもう一つ分からないままに切り開く、それがわれわれが共有した世界における一つの合意点だったのではないでしょうか。田宮さんは、「塩見には無茶ができる。それがいいところだ」とよく言っていたものです。
今、世界を覆った混迷の露はかなり晴れてきているように思えます。この世界をともにして、もう一度一緒に闘ってみたかった。この追悼文を書きながら、浮かんでくるのはその思いです。
しかし、塩見さん、貴方はもうこの世にはいません。願わくば、向こうでの再会を果たし、もう一度同じ世界の下、ともに闘うことができる日が来ることを。合掌。
2018年3月4日ピョンヤンかりの会 小西隆裕

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山中幸男(救援連絡センター)事務局長
「日付は私の判断で今日付けにして紹介させていただきました。
私は1989年の塩見さんの出所の時に行ったんですが、彼が入っていた期間は19年9ケ月。『よど豪』事件の前の1970年3月にすでに逮捕されていた。前の年69年11月の『大菩薩』事件の一斉逮捕、それから凶器準備結集罪、破壊活動防止法が塩見さんに対して発動された。皆さん、考えてみてください、今、『よど号』事件に関しては実際に行っていない方が共謀共同正犯という形で起訴され、裁判を行っていたわけです。最近話題になっている共謀罪は、『よど号』事件の共謀共同正犯というよりは、何も事件が起こる前の共謀罪で、同じ共謀といっても質が違います。考えてみれば、80年代末から90年代にかけて旧ソ連邦が解体して、その後、朝鮮にいた『よど号』の人たちは、88年に柴田さんという実行メンバーが日本国内で逮捕されて、その後裁判、下獄、出所を繰り返してきたわけです。塩見さんはその間ずっといたわけですが、89年の年末に出所して、90年から朝鮮に行くようになりました。その後、今日に至るまで30年、(逮捕から)かれこれ50年になろうとするのが年月の月日です。
私の関わっている救援連絡センターも来年で50年目です。今日の会の呼びかけ人にもなっている情況出版の大下さんが1月に亡くなられて、私どもの代表弁護士を務めていた方の奥さんが1月に亡くなられて、葬式、葬式で、今日は偲ぶ会で、いったい救援というのは葬儀屋の代わりかという感じで、腐ってばかりもいられませんが、そんな状況です。
先月、朝鮮に行く前に高沢晧司さん(ジャーナリスト)を探し当てて会ってきました。生きていましたが、実際は再起不能の状態で多少会話をしてきました。なぜ高沢のことをあえて紹介するかというと、高沢さんから『山中は赤軍派とは何の関係もないのによくそこまで付き合ってきたが、それはなぜなんだ』とよく言われました。『よど号』事件だけではありませんが、新左翼の活動家の人たちは志はあるんですが、志に留まらずについ難局に直面する。そういうのを政治的遭難と私は表現させていただきました。政治的遭難者をのまま放置しておけばそれでいいんですが、我々の世代の責任として政治的遭難者を助ける、それが『救援』だと思います。救援連絡センターで、こういう考え方は私で終りかもしれませんが、若い方がもしいましたら、志を継ぐような方が是非とも出て欲しいと一言いわせて終りたいと思います。」

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椎野(司会)
「それでは最後になりました、日本赤軍の重信さんは、権力によって懲役20年という判決を受けて昭島の医療刑務所で過ごされています。メッセージを代読しますのは、頭脳警察のパンタさんです。パンタさんは、ある日、重信さんの裁判の傍聴に行って 面白いと思って通っている間に重信メイさんとも交流が出来て、重信房子作詞、パンタ作曲の『オリーブの樹の下で』というアルバムを出しました。そういう関係で来てもらいました。」

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パンタ(頭脳警察)
「50年が経って訃報が続き、毎日が命日となっていますけれども、来年、頭脳警察も何度かの分派を繰り返しながら結成50周年を迎えます(拍手)。70年72年当時、『世界革命戦争宣言』という歌を歌って、これをあわよくばヒットさせて、紅白歌合戦で紅組で歌わせてもらおうと思ったんですけれども、見事発売禁止にされました。
重信房子さんと、『オリーブの樹の下で』というアルバムを作らせてもらった関係で、今日は彼女のメッセージを代読させていただきます。

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<メッセージ「塩見孝也さんのお別れ会に」>
 塩見孝也さんのお別れ会に集まられたみな様と共に塩見孝也さん、そしてこの会の呼びかけ人でもある大下敦史さんの逝去に、ここに哀悼を捧げます。
 大下さんについては、60年代の闘いの当時は存じ上げませんでしたが、私が逮捕されて以降、情況誌・パレスチナ連帯などで交流しました。塩見さんとは、短い期間でしたが同志として塩見さんのリーダーシップの下で活動を共にしました。
 塩見さんに初めてお会いしたのは、確か千葉で行われた初の69年赤軍フラクの会議の時です。あれは5月だったのでしょうか6月だったのでしょうか。
 この会議のために、「現代革命Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」という、のちにパンフ№4へと再編される印刷物を明大の仲間とスッティングを頼まれて藤本敏夫さんらと、それを携えて遅れて会議に到着したのを覚えています。
その会議で文字通り口角泡を飛ばして熱烈にアジっていた人が、このフラクのリーダーの塩見さんだと知りました。
 チェ・ゲバラは「我々を夢想家と呼ぶなら、何度でもイエスと答えよう」と語ったと言われていますが、塩見さんは、まさに夢想において夢の力を発揮した人です。そしてまた当時のブント、そしてのちに赤軍派をはじめとして分裂していく人々も又夢想し、そのために実存を捧げて闘う人々でした。私も又、そのひとりでした。
 ロシア革命によって、以降労働者階級は世界性、普遍性をもち、本質的には資本家階級を逆制約する位置に転位し、人類史を切り拓く主体になったという大きな視野の中に、当時のチェ・ゲバラの「2つ、3つ、さらに多くのベトナムを!それが合言葉だ」という声が重なって私をかきたてたのです。
 塩見さんをはじめ、みんなのその頃の志を尊い誇りとして、今も熱く思い返します。
 塩見さんは、先駆的ひらめきと、大きなイメージによって、一時は、ブントの68年「8・3論文」などで牽引しましたが、しかし、レーニンやカストロ、チェ・ゲバラのような現実と社会、人民を知る、知ろうとする革命家ではありませんでした。塩見さんに限らず、ブントの人々の多くも、私もまたそうでした。
 それは、「現実を変える」という闘いにおいて、革命家としての真価が問われたからです。
私たちは十分に社会を知らず、人民に学ばず、知らず、常識すら理解していない若者たちであった為に、私たちは、敗れるべくして敗れたのだと思い至ります。
 塩見さんとは、あの初対面以降、翌年の70年3月、彼が逮捕されるまでの10ヶ月に満たないつきあいでした。
当初は「7人PB」と呼ばれる赤軍派の指導部を形成する者たちが居て、塩見さんと直接会うのは、会議くらいでしたが、藤本さんは去り、堂山さんが逮捕され、高原さんや田宮さんらも東京を離れたりして、連赤事件で殺された山田孝さんと私が一時書記局的に塩見さんと行動を共にすることになりました。正直なところ、塩見さんには、あきれかえる日々が続きました。
 僭越を承知で言わせて頂きますが、塩見さんは、あまりに自己中心的で自らを対象化しえない分、他者への配慮の無い無神経な行動、非常識が自覚できないことが多々発生しました。
 今なら笑って話せることもありますが、私は当時は許し難い思いで批判ばかりしたかもしれません。追悼のお別れ会にはそんな時代のエピソードを笑って送ってあげたいとも思います。
 ある日のことです。山田さんが青い顔をしてとんできて、「塩見が戻らん。捕まったかもしれん!」というので2人で対策を練り、ラジオ報道を気にしつつ、遠くにいた田宮さんに連絡したり、山田さんは、あれこれ悔いて食事も出来ません。
ところが塩見さんは、夜更け過ぎて「やー、すまん、すまん。ハラ減ったなあ」と元気に戻ってきました。
みなが心配したと、山田さんが問い糾すと、自制の効かないいつもの塩見さんの悪い癖が出て、当時一時熱中していたパチンコで有り金全部を使ってしまい、タバコのハイライトの景品を幾つか稼いだ時には、すでに終電を過ぎタクシー代も無いのに気付いたそうです。そこからが塩見さんらしいのですが、歩いて帰るという考えが浮かばなかったそうで、タバコの自動販売機の横に立って買いに来る人を待ち、やっとタクシー代を調達して帰宅したという訳です。
「あなたが赤軍派のリーダーと知ってたら、私は赤軍派に来なかったと思うわ」と、この時は批判したものです。
 塩見さんは、強烈な野心というか大志の割に計算のない無私な人ですが、自己中心的な考えの自制がない分、数々の問題行動も起して来ました。「7・6事件」はその最たるものの一つです。
 当日を知る者の一人として、塩見指導の疑念にもとづく強引な行動が「7・6事件」を引き起こし、ブントの分裂から崩壊へと、更には、連合赤軍事件への道を開いてしまったことを批判すると共に、それに与した一人として私は自己批判致します。
 最後に塩見さんと会ったのは、2010年私の最高裁判決が出る前の東京拘置所です。
7年の接見禁止が解けた後、塩見さんは、それまでにも面会に来ては励まして下さいました。
あの最後の時「結局何年や?20年の刑期か…。きついなあ。15年なら待てるけど20年はしんどい。無理かもしれんなあ…。今、ワシも、若者たちに結構もててるから一緒にやろうと思ってたんや。その5年はきついなあ」と、いつになく深刻そうに語っていました。
 「15年なら」と言っていた通り、20年を待たずに先に逝かれました。再会し、変革の志を熱く語っていた塩見さん。自分の志は、アラブで継続されたと主張していた塩見さん、昔と違って自分は、社会もわかっていると主張していた塩見さん。
 私にとっては、昔と変わらない塩見さんでしたが、赤軍派の過ちを前向きな力に育てたいという点で共に在りました。
当時の時代の情景を辿りつつ、現在の日本を直視する時、今も続く官僚・自民党支配は、当時の私たちの闘い方の過ちにも、その責任の一端があることを自覚せざるをえないこの頃です。
塩見さん、大下さんの追悼と共に、その思いを強くしています。 
2月18日 記 重信 房子

村田(司会)
「この小冊子にも書いてありますが情況出版の大下敦史君。塩見さんは昨年の11月14日に亡くなっていますが、その頃、大下君はまだ生きていたんです。この塩見お別れ会をやるに際して実行委員会を作りまして会議を積み重ね、その中でお別れ会に対する否定的な意見も出ました。大下君は残念ながらこの会に出席する前に、今年の1月2日に亡くなりました。ここに文章がありますので、彼が挨拶したものと思って是非読んでいただければと思います。」

<「私の思い」 大下敦史(情況出版)>
私は今、狭山市の病院にいます。塩見さんの「お別れ会」の準備のために、皆さんが、私の病室に集まっています。
話を聞きとることはできますが、ペンをとる力はありません。
「塩見さんを賛美するようなセレモニーには一切反対」という、強硬な意見も聞こえます。
厳しい意見は、赤軍派やブントで一緒に行動した、かっての仲間の間で多いようです。自分の誤りや、謝罪について、“肝心なこと”を言い残さずに、逝ってしまったことに対する失望感だと思います。
反対に塩見支持者(ファン)の間では、心のおもむくままに「革命バカ」で一生を押し通したことが、魅力的なのかも知れません。
反対意見がどんなに強かろうとも、いやそうであればこそ、「お別れ会」は実行しなければなりません。塩見さんのためというよりも、自分のために、同じ時代を闘った我々自身のためです。
「お別れ会」イコール肯定・賛美というわけではありません。賛美しない「お別れ会」もあるはずです。塩見さんがやり残したもの、それは何か。なぜできなかったのか。議論しなければなりません。
評価は、個人によって異なります。塩見さんとの距離を測りながら、自分の立ち位置を確かめる。そこからまず始めることです。 万人が納得するような、根本的な総括や、革命的な未来の構想が簡単に出てくると考えない方が賢明だと思います。出口の方向や、筋道、その初歩的なヒントだけでも意味があります。
我々がやってきた記録を正確に残すだけでも、正負両面でかなり重たい教訓になるはずです。我々の多くは高齢者で、訃報が珍しくない昨今です。寿命に追い立てられて、時間切れになるかも知れません。
ないものねだりではなく、実現可能な範囲で、何を残すことができるのか真摯に考えたいと思います。
この「お別れ会」が、その出発点になることを願っています。

※ 「お別れ会」参加者には、鹿砦社の松岡社長より、塩見孝也頂著「革命バカ一代 駐車場日記」100冊が無料で配布されました。

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<塩見孝也略歴>

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(終)

【お知らせ】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2-5-5
参加費4千円

【お知らせ2】
ブログは隔週で更新しています。
GWはお休みします。
次回は5月11日(金)に更新予定です。

2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、
私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。
今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。
※ ブログの字数制限2万字を超えるため、今日と明日の2回に分けて掲載します。

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【「塩見孝也お別れ会」前編】
  「塩見孝也お別れ会」ならびに「時代を語る会」への案内状
 塩見孝也さんが、2017年11月14日に心不全で亡くなりました。享年76歳でした。塩見さんは1962年京大(文学部)に入学、京大、京都府学連で活躍しその後、三派全学連と第二次ブント結成に中心的役割を担いました。そして、全共闘運動、70年安保闘争の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成、議長として「大菩薩」「よど号」を主導し逮捕、破防法も適用されて18年間にわたる獄中生活を送りました。出獄後は「9条改憲阻止の会」の運動に参加するなどして、多くの方と交流しました。また文筆活動を通して「革命の夢」を語り続け一生を終えました。
 塩見さんといえば、やはり「赤軍派」問題です。1969年に「前段階武装蜂起」を主張して無謀な局面突破を追求し、7/6事件で第二次ブンドを崩壊させ、後の連合赤軍事件への道を開いた事実を避けて通ることはできません。それらは日本の地において、20世紀の革命運動の終わりを開く端緒となりました。赤軍派を胚胎した第二次ブントの路線的根拠が問われた所以でもあります。そうした事々をも含めて想い致しつつ、塩見さんのお別れ会を開催したいと思います。
 第一部は「塩見孝也お別れ会」、第二部は「時代を語る会」とします。彼との交流の濃淡を問わず、彼への評価の違いも問わず、多くの方々の参加を呼びかけます。

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椎野礼仁(司会)
「皆さま、今日は塩見孝也お別れ会及び時代を語る会にお越しいただきありがとうございました。一部は発言者が決まっておりますが、俺にも喋らせろという方は二部の方でぞんぶんに語っていただければいいと思います。
私は椎野礼仁と申します。塩見さんの追悼記事が朝日新聞と毎日新聞に出ましたが、朝日新聞は、そこにいらっしゃいます樋口さんがなかなか素敵な文章を書いておりますが、毎日新聞の追悼文は、私が実は書いております。
私は社学同の戦旗派の方にいた人間ですので、直接関係ないんですが、塩見さんの本の出版と、塩見さんが市議選に出た時に運動員の一人として応援しまして、晩年、ちょっと縁ができましたの、その関係で司会を仰せつかりました。
メイン司会の村田さんを紹介します。」

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村田能則(メイン司会)
「塩見孝也さんとは55年くらいの前から付き合いです。途中、彼が刑務所に入って20年くらい付き合いが途絶えたんですけれでも、私は赤軍派ではなかったんですけれども、ブントの関係で、学生時代と刑務所から出てきてからの付き合いが何度かあります。意見が違ったりしていますけれども、喧嘩をする時もあれば仲良く酒を飲む時もあるという関係でした。
今日は椎野さんと2人で進行をさせいただきます。よろしくお願いします。」

椎野(司会)
「それでは実行委員長から開会の挨拶をいただきます。」

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新開純也(実行委員長:京大友人)
「今日はお別れ会に参加していただき有難うございます。実行委員会を代表して、塩見孝也の大学と、共産主義者同盟ブントのいささかの先輩として、僭越ではありますが、ご挨拶をさせていただきます。
塩見孝也は、昨年11月14日に心臓疾患で亡くなりました。享年76歳でした。
塩見は1962年に京大に入学しました。たいへん目立つ男で、当時、大管法(大学管理法)反対闘争を闘い、その過程で社学同に入りました。そういう過程の中で、60年代中盤から上京し、三派全学連、第二次ブント再建の中心の役割を担って活躍しました。
70年安保の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成し、過渡期世界論を路線化して武装闘争を提起した。このことについては、皆さんのいろいろな思い、賛否はあるかと思いますが、武装闘争を初めて路線化したのは彼でありました。70年に逮捕され、よど号ハイジャックの共同正犯として約20年間獄中にありました。出てきてから北朝鮮に行って田宮らと交流し、近年は9条改憲阻止の会に参加、また、2011年の福島第一原発事故以降は、経産省前テント村にも参加して活躍した。獄中20年を含めて、闘い続けた一生だった。
その中で、彼は赤軍派リーダーでありましたから、獄中を含めてそれにこだわり続けた一生だったとも思います。

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彼は、赤軍派から出た3つの流れ、一つはよど号ハイジャック、二つ目は連合赤軍に至る過程、三つ目は日本赤軍への流れ、こういう三つの流れについて、後の二つについては、彼は獄中にいて直接タッチしていません。しかし、彼はそういうことに対して責任にこだわり、総括をすることを一生の課題にしたのではないかと思う。
彼は自分の生をストレートに表現した男ではなかったかと思う。そのことは、しばしば多くの誤解を生み、迷惑を被った人が多くいると思います。(笑)お別れ会には行かないという人が結構いるのも事実です。
しかしながら、彼は自分自身のキャラクターを自分の生身の言葉で表現しようとした一生であったと思っています。文字通り『わがままに生きた男』ではなかったか。そういう意味では幸せな人生を送ったのではないかと私は思っている。
今日は塩見孝也を偲び、その時代を語るとともに、現在、大きな転換点にあります世界と日本の今後の行方を含めて、大いに偲びつつ語っていただければ、実行委員会としては非常にうれしく思います。今日はご参加ありがとうございます。」

椎野(司会)
「塩見さんの奥様はいらっしゃいませんが、親しい方が手紙をいただいていて、それをご紹介するということで、ご了承を得ております。」

塩見一子さん手紙紹介(代読:長船青治)
<塩見一子さんの手紙 >
御挨拶 前略 ご容赦ください。
塩見孝也は、2017年11月14日20時15分旅立ちました。直接の死因は虚血性心不全。亨年76年と半年。
生前の御好意感謝致します。私が死者に代わって感謝とはおかしなことです。が、「ありがとう」「ごめん」が言えなかった人なので・・・。
2015年、家族の猛反対を押し切って、市議選に立候補以来、体調を崩し、入退院を繰り返してきました。
今年は、4月3日から15日迄「多摩北部医療センター」に入院。8月下旬から9月一杯「順洋会武蔵野総合クリニック」に入院。退院しても前のように元気をとり戻すことはありませんでした。     
「入院しても、もう元には戻らんのだな」と自問自答することも多くなりました。11月14日、武蔵野クリニックで診療拒否。両病院共にトラブルの連続でした。
ケアマネジャー、清瀬市の社協に相談。具合が悪くなったら救急車を呼んで、病院を決めてもらうという方針にしました。
玄関に座り込んだままの彼に「救急車呼ぼうか?」「いや、呼ばんでいい」 台所仕事をしながら会話をしていました。言葉が途切れたので、見ると動きません。それが、20時15分でした。 救急車で心臓マッサージをしながら昭和病院に運ばれました。心臓は動きだすことはありませんでした。
「午後9時53分死亡を確認致しました。でも動かなくなったとき心臓は止まったんだと思いました」
スタッフ全員、直立不動で背筋を伸ばし、深々とおじぎをしました。死者への敬意と受け取りました。私も同様に、おじぎを返しました。感謝をこめて。
眠るような安らかな死に顔でした。3年の内に、沖縄の海に散骨するつもりでおります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お世話になりました。
塩見は何の挨拶もせず、逝ってしまいました。
故人に代わって最後の一日の様子を中心に語らせて頂きました。
本日は、ありがとうございました。
いずれ散骨の日の費用に使わせて頂きます。
塩見に対する評価(悪評)は多々あります。
しかし、個は類に規定され、時代の子でもあります。
彼をつくり出したのは同時代を生きた我々ひとりひとり。
時代を総括して、新しい時代を切り開いていく力にしていく必要はあるでしょう。
私たちとって、自分の人生に向き合うということは、塩見孝也の生涯に向き合うということでもあります。生命のある限り逃げることはありません。
合掌
12月26日  塩見一子

椎野(姉妹)
「黙祷を捧げたいとと思います、皆さまご起立をお願いいたします。」
●黙祷
「同志は倒れぬ」の曲が流れる中、全員で黙とう。

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椎野(司会)
「献花をお願いいたします。」
●献花
「同志は倒れぬ」「ワルシャワ労働歌」などの曲が流れる中、全員で献花。

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椎野(司会)
「参加者の方々から一言づつお言葉をいただきます。渕上さんお願いします。」

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渕上太郎(経産省前テント広場代表)
「塩見さんとはそんなに長い付き合いではない。彼は元赤軍派議長という肩書ですが、72年に浅間山荘の事件があり、彼の政治的な考え方等々について、政治の世界でセンセーショナルに報じられてきたし、彼自身もそうした問題についての一般的な考察を巡って苦労されたのかなと思っています。私も同時代で生きているわけですから、そういう点では共通の問題もあったんだろうと思っています。総括というのはなかなか難しい問題なので、この場でああだこうだ言うつもりはありません。ただ、人間としての塩見孝也について少し申し上げておきたいと思います。
塩見さんとは9条改憲阻止の会が出きてからの付き合いです。しばらく経ってから、会議が終わった後に、彼が『渕上、ちょっと話がある』ということで何のことかと思っていたら、『俺の方が一つ年上なのに会議で塩見と呼び捨てにされた。けしからん』と言われた。(笑)『もしそうだったとすれば悪かった』と謝って終わった。その後いろいろあったわけですが、ある日突然『30万円貸せ』と言われた。『返すのか』と聞いたら『はい』と言うので貸したが、その後お金の話は一切ない。それはそれで仕方ない、そんなこともあるだろうと思っている。
70にもなろうとする男が、呼び捨てにしたと怒って一席設けるわけです。ほとんど学生時代から成長していない。(笑)成長すればいいというものではないわけですが、革命運動などと言う限り、少しずつ成長していかないとなかなかうまくいかない部分があるはずです。そういう点が全く見られなかったので、おもしろい男だと思っていた。
その後、改憲阻止の会が沖縄闘争に取り組んだことがあって、ユニークな沖縄闘争をやりたいと考えて、その金集めの出し物として塩見孝也さんの『生前葬』をやった。その時に、彼から重要な抵抗はほとんどありませんでした。しかし、本音はたぶん『何で俺なんだ。俺はもうお終いということか』という思いもあったはずだか、直接俺には言わなかった。
生前葬に賛同していただいて、おかげで。かなりの金額を沖縄にカンパできた。
9条改憲阻止の会でそういうことをやってしまったものですから、本当に死んだらどうしよう思いましたが、これは普通の方が普通に亡くなっていく対応しかないわけであります。
亡くなってからしみじみ思うわけですが、彼があの世で、まったく違った分野で頑張っていこうということであればいいなと思っている。違った分野で違った経験をして、もう1回転じて、彼の希望していた『革命家』の道を成就することができるのではないかと思ったりするところであります。
彼は『学生運動革命家』として一生を終えた。これはこれで大変幸せな一生ではなかったのかと思っています。楽しい人生を送っていただいて、私も塩見さんの人柄に触れることができて、それはそれで良かったと思っています。」

椎野(司会)
「9条改憲阻止の会の三上治さんにご挨拶いただきます。」

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三上治(9条改憲阻止の会)
「塩見とは長い付き合いで、塩見のことはいろんな話があって、どういう風にお別れするかと思っていて、自分の中でいい言葉がないというか、もっと時間をかけて、いろんな形でやらなければいけないと思っています。
1969年から70年にかけて、いわゆる赤軍派が登場した時、僕はブントの右派といわれた、後に叛旗派となるグループの先頭で、塩見とは一番激しく対立していた時代がありました。それは、あの時代に武装闘争をやることが正しいのかどうか、基本的に僕は反対の考え方をとっていて、一番激しく対立した時期があります。その時代の後も、ずっといろんな形で総括し、話し合ってきました。
その後、9条改憲阻止の会で一緒になり、活動してきました。議論もし論争もしました。60年代の話になると、2人で激烈な喧嘩になり、収拾がつかなくなり、周りがハラハラすることもありました。でも、お互いにその問題について決着つかなくとも、何らかの形で考えていかなければいけないということに関しては塩見と共通の考えを持って、お互いの意見を聞こう理解しようとしていました。
9条改憲阻止の会が経産省前にテントを作り、初期は塩見も来ていた。その後、清瀬市会議員の選挙があり、選挙の後、清瀬まで塩見に会いにいきました。彼も前から心臓を患っていて、お互いに身体には気を付けようという話になりました。
塩見自体が、本当の意味で自分の心の底を、あの当時どうだったかということを本当の意味で語ったのか、語らなかったのか。たぶん語りたかったけれど語れなかったのか、あるいは言葉にしたかったけれど、まだ言葉にならなかったのか、それは塩見の問題ではなくて、また俺の問題でもあるんだろう。
塩見とお別れするのは、塩見の本音を自分自身で本当に理解できた時だろうし、それまでは塩見さんの存在は僕の中ではずっと続いていくだろう。それは、あの時代を共に闘った、その時代の問題でもあるのだろうと考えて、しばらくは、お別れしたいけれど、お別れするためにはまだまだ時間がかかる。まだしばらくは、お別れという言葉を留保させていただきます。」

椎野(司会)
「続いて、塩見さんと北朝鮮とかイラクに一緒に行ったり、市議選の時には応援に来ていただいた作家の雨宮処凛さん、お願いします。」

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雨宮処凛(作家)
「皆さん60年代くらいからの付き合いがある方も多いと思うんですけれども、私はちょうど20年前、塩見さんのイベント、確か『赤軍派対ダメ連』、ダメ連という若者のムーブメントと赤軍派議長が語るみたいなイベントに行ったのが、1998年、私が23歳くらいの時だったと思うんですけれども、塩見さんが初対面のただの客の私に、いきなり『北朝鮮に行こう』と言ってきて、それが最初の会話で、私も元赤軍派議長にいきなり北朝鮮旅行に誘われて、断ったら殺されるんじゃないかと思って(笑)、しょうがないから二つ返事で行きますと言って行ったのが初めての海外旅行で、99年に北朝鮮に行った。何で北朝鮮に行くのか全然説明がなくて、とりあえず平壌に行けば何とか活動するだろうみたいな感じで、いきなりよど号グループの宿舎にぶち込まれて、子どもが同世代だったので、子どもたちと仲良くなって、それで5回北朝鮮に行って、よど号の子どもが日本に帰ってくる時に、私は平壌まで迎えに行って一緒に帰ってきて、そんなことしていたから、日朝会談があった直後に家にガサ入れが入って、本当に塩見さんと付き合っていると、いきなりいろんなことに巻き込まれて人生がおかしな方向になるという、それを実践している一人です。皆さんもいろいろ迷惑を被っていると思いますけれども(笑)、私にはこの20年でこのような実害というか、そのようなことがありましたけれど、塩見さんに強引に巻き込まれたお陰で、人生がとっても面白くなったということがあります。

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あと、晩年の塩見さんのことで、皆さん知らない方もいるかもしれないですけれども、この10年15年くらい、塩見さんの周りに生きづらさを抱える若い人たちがすごく集まってきて、私のイベントにも塩見さんに来てもらっていたんですけれども、2010年にここで塩見さんの生前葬をした時は、元引きこもりの若い人が『俺は駐車場管理人』という自作のヒップホップを歌ったことがあって、その彼は塩見さんのことが大好きで、他にも引きこもりとかニートとかいじめられていたとか不登校だったとか、社会的に排除されたような若い人が、塩見さんの周りにすごい集まっていて、塩見さん塩見さんとなついていたんですね。何でかというと、その人たちのいろんな悩みを普通の大人に相談すると『自己責任だ』そんなことを言われるけど、塩見さんに相談すると全部資本主義が悪いんだ(笑)
それは全部資本主義の問題だ、世界同時革命しかないと言う感じで、普通の大人が言うのとは全く違うことで、元赤軍派議長にお前は悪くない、お前の生きづらさの原因は資本主義だと断言される。そういう形で塩見さんと関わった若者たちが、塩見さんが意図しない形ですごい勇気づけられて、元気になっていくということがたくさん起こっていたんですね。本人は気付いていなかったけど、すごいたくさんの人を救っていた。
自己責任をいわれて分断されて孤立化させられていく中で自殺に追い込まれていくという中での苦しさに対して言ってくれたので、塩見さんがどこまで若者たちの思いを理解していたかわからないですが、そういう形で救っていたというのはすごい大きなことです。
私は20年前は右翼団体にいて、塩見さんにやめろ辞めろと言われていて、12年間から貧困問題と労働問題を始めたら、全部自分の手柄だと思ったらしくて、それからしょっちゅう電話が掛かってきて、明らかにこっちの運動を乗っ取って世界同時革命をやろうというのがバレバレなんです(笑)。
10年前にシルバー人材で仕事をしてからすごく変わって、シルバー人材センターユニオンを作りたいと相談に来たことがある。結局、シルバー人材ユニオンから世界同時革命をしたいということをまだ言っていて、とても感動したことがあって、本当に好き勝手に生きてきた人だったなと思います。
私にとっての塩見さんは『世界同時革命おじさん』でした。」

椎野(司会)
「この方も塩見さんと交差した方で、塩見さんが左から右へ、鈴木さんが右から左へ行くような交差がずいぶんあった鈴木邦男さんから一言いただきたいと思います。」

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鈴木邦男(元「一水会」最高顧問)
「鈴木邦男です。今、司会者が交差と言いましたけれど、そういう点もあったのかなと。僕がかって右の運動を40年間やっていて、今は左翼だといわれますけれども、塩見さんの名前は昔から知っていましたし、本も読んでいました。ただ、皆さんと違って同志ではなかったので刑務所に迎えに行くこともできなかった。
出てきてから、運命的な討論会がありました。予備校の河合塾で『左翼激突討論会』というのがありまして、塩見さんと私がやりました。名古屋でやって、大阪でやって、東京でやって、全国でやりまして、塩見孝也というのはものすごい人だと思ったんですけれども、でも、結構脇が甘くて人間的なんですね(笑)。そういう意味で非常に面白い人ですね。
塩見さんが左翼のアホどもに利用されるのが嫌で、一度塩見さんにこう言ったことがあったんですが、『塩見さん、そろそろ革命家としてきちんとこの国の将来を考える本を作りましょうよ。憲法9条の改憲阻止の会なんかやっているんじゃない』すみません、関係者がいっぱいいるのに(笑)『それよりも憲法そのものが日本にはいらないんじゃないか。天皇制もいらない。そういうことをきちんと言ったらどうですか』と言った。かって、社会主義協会の人がこんなことを言ったことを覚えている。社会主義協会の代表だった人は『日本には自衛隊なんかいらない。自衛隊を赤軍にしろ。ワルシャワ条約機構に加盟しろ』と言っていた。敵ながらあっぱれなことを言うなと思った。塩見さんにもそういう存在になって欲しいと思ったんですね。塩見さんにも『天皇制はいらないでしょう。大統領制にしましよう。自衛隊はいらないでしょう』という話をしたんです。塩見さんは『そうだな』と。『じゃあ憲法9条の問題をやっているところじゃないでしょう、天皇制はいらない、大統領制にする、最初の大統領は塩見さんですね』と聞いたら、塩見さんは謙虚なんです。『俺はダメだ。中核派の親分、本多さん』。『その次は塩見さんですね』と聞いたら答えない。
冗談半分なんだから大風呂敷を広げればいのに、正直で言わない。
雨宮さんが言っていましたが、若い人の話を聞いたと。塩見さんはキチンと聞くんですね。『君はなかなか革命的だ』とほめる。ほめる言葉の最大の表現が『革命的』ですからね(笑)。それで、『今の若者は大したものだ、しっかりしている』。どこがしっかりしているのか、こいつらは、と僕は思いました。他人に対して甘いんじゃないかと思いました。
あれだけのことをやった日本のレーニンといわれた塩見さんだから、もっと大きく構えていればいいと思うんです。
連合赤軍の人たちが塩見さんの責任を言うと、これこれと細かく例証を上げるんですね。そんなことよりも全部自分が作ったんだ、俺のせいだ、成功も失敗も全部俺のものだと言ったらいいと思うんです。でも、そういう風に言えなかった。きっと人間が真面目なんですね。そういう意味で残念だったと思うし、そういった形で塩見さんをもっと大きくすることができなかった我々傍にいた人間の失敗だと思います。
塩見さんを送るということですが、送りたくないですね。阻止したい、奪還したいという感じですね。肉体は奪還できなくても、魂は、また、革命の志は奪還したいと思っています。塩見さんが出来なかったことを、我々がみんなが何とかしてやっていきたいと思っています。」

椎野(司会)
「続いてトークライブ酒場を経営している平野悠さんにお言葉をいただきます。」

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平野 悠(ロフト+1経営)
「僕はロフト+1というトークライブハウスを経営していまして、その中でいろんな論争があったり乱闘があったりしました。僕は青春時代は、ブントが初めて作った労働戦線で懸命に労働運動をやっていました。でも2年間一生懸命やったことが、あの連合赤軍事件で悲惨な目に遭って仕事を辞めました。僕は学生時代も労働戦線の時代も塩見と全く接点がなかったです。
85年に酒場、トークライブハウスを作った極端なきっかけは、中核と革マルを同じステージに上げて喋らせたいというのがずっと僕のテーマにあったんですけれども、結局、僕のところに出たのはブント系しかなかった。98年に塩見さんと会いましたが、塩見さんは全く孤立無援でしたね。20年間の獄中生活の中で、彼はいろんなことを思ったに違いない。出たらもう1回組織を作って世界革命をやるということはなかった。塩見さんが出てきて何かをしたいという土壌が一つもなかった。
それで僕は塩見さんを立てるしかないと、塩見さんを呼んだいろんなイベントをやりました。15年前に塩見のイベントをやった時に、塩見さんの事務所にFAXが入って『塩見を殺す』。普通の人だったら面白がって、右翼こいこいとなるが、塩見さんは異常反応しまして、防衛隊を作ってどうのこうの、そこまではいいんですが、店の入口で一人一人チェックして写真まで撮って、新宿署の公安もいるというムチャクチャなことをやった。ふざけるな、俺のところは絶対警察なんて入れないと一時絶縁した。
だけど塩見さんはいい人なんだな。塩見さんとは北朝鮮に行き、イラクに行き、原発の時は福島まで行って一緒にデモをしたり、いろんなことをしました。
最後の塩見さんとの決別の場所は、塩見さんから電話がかかってきて『俺は選挙に出る』たぶん、裏ではお金出せというだけの話だったと思うんですけれども、塩見さんに言われちゃったらしょうがないんで、僕と鈴木邦男と雨宮処凛と選挙の応援演説に行った。選挙日の前日には、皆で町をゲバラの旗を持って、赤軍派だと、世界革命の旗を持って町中行進したんですよ。これはひんしゅくもので、町はドンビキ。選挙演説の時は買い物かごを持ったおばさんに対して世界革命をやる訳ですよ(笑)。本人は受かるつもりだったらしいが。僕は間違いなく受からないと思った。でも300票くらい取ったんだよね。20年間牢獄にいたせいなんでしょうが、午前中に演説して午後には家に昼寝に行ってしまう。そんなこともありました。
でも塩見さんはいい人です。塩見さんは大衆運動にとにかく入り込みたい、自分で何かやりたいといった時に、僕の店は若者もいたし、彼は僕の店で開いた学習会にも入り込んできて、『賃労働と資本』の学習会をやったんですけれども、全部パクるんですけれど、組織者としてはうまくいかなかった。
塩見さんは最後の最後まで世界革命を忘れていなかった、という無茶苦茶偉大な人です。」

椎野(司会)
「平野さんが紹介していた選挙演説の時に、塩見さんは獄中20年と言っていた。それは隣の西東京市で、自分は大菩薩で捕まった赤軍派であるということを隠さずにトップ当選をしている市議会議員の選挙参謀がそういう戦術を打ち出した。(選挙参謀は)『塩見さん、他の人と同じことをやってもダメだ。1人対他の候補22人という構造を作り出せばそこに勝機があるかもしれない。そこにしか勝機がない』ということを仰って、それを採用して、23人中22位、319票で落選しました。ただ供託金は取り戻しました。」

村田(司会)
「これから学生運動の時代に活動家だった方が発言します。最初は白川真澄さん、お願いします。」

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白川真澄(京大大学時代の友人)
「私が大学に入学したのは1961年、安保闘争の次の年です。彼が入学したのは1962年に文学部に入学した。教養部のブンドの新しいリーダーとして活動するようになった。当時の京大ブンド、関西ブントは、渥美さんとか新開さんとか、きらびやかなスター軍団ぞろいで『巨人』のようなものです。私は共産党に入党したわけですが、共産党は人材もない戦闘力もない、当時の広島カープのような『貧乏球団』に入ったという印象だった。この『貧乏球団』をブントに並ぶ強い『球団』にしなくてはいけないということで、私が大衆運動の前面に出まして、塩見君とライバルとしてやりあったということであります。
当時の京大ブントの新開さんたちとよく論争しましたが、かなり生産的な論争ができたと思っています。だけど、塩見とは生産的な論争をした記憶が全くない(笑)。新開さんとはグラムシとかローザを読んで、それをベースにして論争するわけですが、塩見は読んだことがないんじゃないか。あいつのレーニン理解は何なんだろうと思っていて、結局塩見とは腕ずくでやり合うことが多くて、論争にならなかったというのが私の印象です。彼は『日本のレーニン』と呼ばれたそうだが、誰が言ったのだろうか(笑)。自分で言ったのではないか、とさえ思う。
私たちにとっての華というのは、68 年から70 年にかけての闘争ということになって、同じように体験したわけですが、私は共産党から当然のように除名されまして、共産主義労働者党という党派を結成しました。これは『遅れてきた新左翼』ということで、中核の諸君とかブントの諸君が先行していましたから、何とか追いつけ追い越せということで、私たちも反政府実力闘争を展開してかなりの犠牲者を出しながら実力闘争を展開しました。ただその中で、いろいろな要素があって、政府を実力で倒すという闘争と同時に、全共闘運動に見られるように自分たちに決定権を取り戻す、つまり自治の革命とか、あるいはフランス5月革命に見られる自主管理の闘い、そういう新しい要素が芽生えていたのではないか、今も当時もそう考えていました。私たちは政治革命だけではなくて、社会革命もということで『政治=社会同時革命』といういい方をして、68年69年の闘いに行こうと考えていたわけです。
ある時、69年ですが、上京していた塩見とばったり出会った。私は共労党の専従で上京していた。その時、塩見に『塩見、暴力だけでは世の中は変わらないぞ』と言った。それ対して、塩見は『何言ってるんだ、暴力で変わるんだよ、暴力で』と言った。その後、交わることはなくて逮捕されて、長い獄中生活を送るわけです。出てきたときに出迎えに行って付き合いが復活するわけです。
私は68年69年というのは、世界革命ということでいうと、国家権力を獲る革命あるいは政府権力の奪取を優先する革命から、自治の革命に革命というものが大きく転換する歴史的な転換点だったと、私は総括している。
このことは、国家権力を獲る革命、あるいは政治権力を奪取することを優先する革命は、革命的な暴力を伴います。革命的な暴力というものは、当時の新左翼の共通の考えであったわけです。『革命的暴力』をどうするかという問題があって、やっぱり塩見君はぎりぎり武装闘争を追求した。68年から70年にかけて東京でやった反政府実力闘争は敗北した。敗北をはっきろ認めなければいけない。私たちは、三里塚闘争の中で、もう1回実力闘争を復権するという道を選んだ。
ちょうど今年が管制塔占拠の40周年になるわけで、生活空間に根差した人々の抵抗の暴力は強いということを非常に実感しました。と同時に、世界的に行われた民族解放の武装闘争、第三世界の武装闘争、ベトナムやパレスチナの解放闘争、そういうものに世界革命のリアリティを求めたわけです。だけれども、それが80年90年代に挫折をしたということをどう考えるか、という問題があります。私は、暴力の問題は、人々の生活空間に根差した『抵抗の暴力』は強い、これは生きるというのが私の一つの考えで、その点、塩見がどう考えたのか、彼が生きていたら論争したかった。
普通、偲ぶ会というのは、良いところを挙げて、最後にちょっとけなすということがあるけれども、何が良いところかよくわからない。
最後に一つ申し上げます。塩見はリアリスとしての革命家としてはダメだ。だけれども、間違いなく革命の夢を追い求めたロマンティストであったことは間違いない。リアリストであるためには、冷たい計算をして闘いを勝利に導くためには、その原点は熱い心を持ったロマンチストでなければいけないと思います。その点で、ロマンチストでありたい、あろうという塩見とどこかで一致するのではないかと考えているところです。」

村田(司会)
「白川さんのお話の中で、誰が塩見を『日本のレーニン』と最初に言い出したかということですが、私の記憶では、たぶん藤本敏夫が、新聞記者相手に関西弁で『レーニンみたいな男やな』と言ったと記憶している。次に朝日健太郎さんお願いします。」

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朝日健太郎(先駆社代表)
「私は1944年生まれです、塩見さんよりちょっと下ですが、同時代を生きてきた一人です。私はフロント派といわれていた政治グループの責任者でもあります。
彼の特徴点は世界同時革命、武装闘争ということでありますけれども、その視点からいいますと、私は終生一貫して反対し続けてきた右翼日和見主義の代表のような立場であります。塩見さんとは、実はほとんど接点がありません。3・11以降、立ち話をする機会はありました。
塩見さんは第二次ブントの中心的な方ですが、第一次ブントで世の中を騒がせている人は西部邁です。この人物はどういうわけかメディアでは賛美されている。60年安保のブントの人たちの一群は、皆さんご存知のように保守派に行きました。それは、国家をどうするかということで中曽根など保守派に近づいたと思います。西部はそこに行けなかった。彼は共産主義は嫌い、これは反スタですね。もう一つは親米保守は嫌い。これは私の理解ですが、60年論争の時に最大の論争点は自立従属論争というのがあった。ブントは私たちと同じように自立派、日本帝国主義復活と闘うにはどうするのかというのがテーマであったわけですから、アメリカと手を組んでやろうという気はさらさらなかったし、ましてや、従属的な発想は全くなかったですね。ですから西部は親米保守が嫌いだった。保守派に行ったにもかかわらず、彼の考えは合理主義です。力で振り負かすというのは彼には合わない。そうすると、最後は行く場所がなくなったのではないか。私は安倍晋三は対米従属を賛美しているとは思いません。彼は明らかに日本の自主独立をどうするかということを保守の側から考えている一人です。彼は最終的には憲法だけではなくて、核武装もそうだし、天皇元首化もそうだし、日本の復古的なものをもういっぺんやろうという発想に近い方である。西部は行く場所がなくて死んだと私は思っている。
塩見孝也の長い人生を見て、ブントの中で保守に行かなかった代表者の一人だと思う。それは保守に行かなかったけれども、革命をどうするかということを終始考えていたことは間違いない。
私は世界革命戦争と市議会議員選挙がどうして結びつくのかということを彼に聞くこともなかったし、私の理解を超えた発想であります。
彼はいろんな評価はありますけれども、彼のフェイスブックを読んだ友人によりますと、そこに革命家と書いてあるという。そうか、彼は革命家として終生闘ったんだ、その中身はともかくかくとして、その志は私は最後に称えたいと思います。」

(明日のブログ後編に続く)

【お知らせ】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2-5-5
参加費4千円

 今年は激動と変革の時代、1968年から50年目の年である。50周年を記念して集会や本の出版が企画されているが、もう一つ、1978年の成田空港管制塔占拠から40周年の年でもある。3月25日には、「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを! 3・25」が御茶ノ水の連合会館で開催され、200名を超える参加者があった。
 この管制塔占拠闘争に関わったH氏が、フェイスブックで『開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント』と題した連載を掲載していたが、この連載記事を私のブログに転載させていただくことになった。今まで、管制塔占拠の前哨戦について2回掲載してきたが、今回は最終回の管制塔占拠闘争を掲載する。(転載にあたっては、H氏の了解を得ています。写真はブログ管理者の独断で選んだものを掲載しています。)
※ 3万字を超える長い原稿なので、ブログの字数制限を超えるため、昨日と今日の2回に分けて掲載しています。

開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント】その3後編

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★管制塔占拠闘争(13)
太田はその「お椀」、パラボラアンテナの裏側に回り込み、14階外壁に取り付けてある鉄骨に足をかけました。彼のクライミングが始まり、パラボラアンテナのてっぺんに立ち上がりました。ここから16階管制室下部を巻いていた幅60センチメートルのキャットウォークに乗り移ったのでした。
この時、太田は中の人、管制官と目を合わせています。屋根のハッチから脱出しようとする管制官の最後の一人が脚立に乗っていたのです。彼は屋根に出て、脚立を引き上げていきました。彼らはよく自分の職場を守ろうとしました。15階扉に向けてできる限りのものを放り込んでバリケードにしていたのです。
管制室では、下から吹き上げてきたおそらくペンキに燃え移った火炎瓶の黒煙が流れ込み、管制官たちは避難しようとしていたでした。しかし、15階扉からではなく、中空のガラスの外から赤いヘルメットの男が覗き込んできたのでした。
それは太田が、管制室への道を見出した瞬間でもありました。
管制室は五角形の枠にガラスが2重に張り巡らせて360度で空港内を見渡せるようになっていました。そのたぶん西側のパラボラアンテナ上部のキャットウォークに太田が現れ、やがて手にしたバールをガラスに打ち込み始めたのでした。
太田ははじめパラボラアンテナ上のガラスにバールを打ち付けました。ぼよよよーん、とガラスはたわみ、うまくガラスに入らなかったそうです。次は五角形の一つのカド部分に打ち付けます。食い込む手応えがありました。「ここがいける!」と思ったそうです。
そこを割りにかかりますが、実はその下には14階ベランダ扉を尻と背中で押さえ、足を突っ張っている者たちがいました。扉の向こうから、これもまた私達がついさっきまでやっていたようにハンマー状の物らしいものでぶっ叩く衝撃が伝わってきていました。
落ちてくるガラスに注意の声を上げると、太田は管理棟玄関側に移って、またガラスに挑み始めたのでした。
狙うはもちろん角スミ。今度はキャットウォーク(パイプが何本か並んでいる構造)の隙間から60メートル下が透けて見える場所です。足を滑らせれば、命がなくなるところで、彼は両手にバールを持ち、ガラスのヘリに突っ込んでいったのでした。
小さな穴ができ、太田は馬手で棧の手がかりを掴んで身体をぶら下げ、弓手のバールを打ち付けて穴を広げていったのでした。
恐ろしい男です。塔上の美少年です。熊本生まれです。
「いやぁ、高所恐怖症なんだけど、あんときは怖いと思わなかったんだよね。ははは……」と本人は言うのでありますが。
どうやらこの時間あたりか、それより少し前らしいのですが、逆側のベランダに機動隊が一度、姿を現しています。逆側のやはりパラボラアンテナを備えるベランダにも占拠メンバーがいるのではないかとやってきたようなのです。
そちら側にどうやって行けるのか、私には確たることはいえません。たぶん14階のどこかの部屋を通って行った向こうに、同じような出口があったのだと思います。
さて、管制塔の五角形構造を思い出していただきたい。逆側のガラスが割りにかかられていても、機動隊がいた場からはそれが全くわからないのです。
一方、8ゲートからやってくる大部隊は奇妙な動きを見せていました。
しずしずの進撃は相変わらずで、いくつものバリケードをラッセル車(トラックに鉄板が取り付けてある)を先頭で打ち払い、横の機動隊宿舎に火炎瓶を思いつきのように放り投げていました。上から見るにはまことに落ち着き払いすぎのように、休んだりちょっと進んだり、よう分からん(笑)。
そして、キャットウォークから太田が前田に声をかけます。
「あのう、ここから入れますよ」。

★管制塔占拠闘争(14)
太田の「ここから入れますよ」の声に、前田は目の色を変えてパラボラアンテナを登り始めます。ガラスの穴は人が一人ずつ這いずりこむのにもう十分な大きさになっていました。けれども、そこに入るには胸まである16階の外壁を乗り越えなければならず、しかも、壁はちょうど登山でいうオーバーハング状。前田たちは、一瞬宙にのけぞるようにしてから穴に潜り込まなければなりませんでした。
管制塔の屋根には、ハッチをあけて逃れた管制官が腹ばいになり、下の赤ヘルたちを覗き込んでおりました。彼らはまもなくやってくるヘリコプターによって吊り下げられるようにして救助されていきます。恐ろしかったと思います。
管制塔占拠組には「人質を取ってはならない」「民間人に怪我を負わせてはならない」という掟が課せられていました。彼らが管制室から私達との直の接触なしに、去ってくれる状況になったことは本当に天の助けでありました。
思い返せば、ここがいちばん難しく危機的な事態を招きかねない状態だったのです。混乱の中でどんな突発的なできごとが起こってもおかしくなかったのですから。高いところでのやりとり、万一のことが起こらないように、冷静さが求められていました。ドガチャガのさ中でも、占拠組の誰もがそこだけは果たすことができたとは言えます。
管制官たちに恐怖心を覚えさせたことにはまことに申し訳ないと思います。しかし、こうでもしなければ、無理やりな開港を阻止することはできないんだもん。
パラボラを鉄パイプで叩いていた小泉に、中路が「ここをやればいいだよ!」といいざま、持っていたハンマーでパラボラから14階の中に入っている細い管を叩いて落としました。バカバカしいほど手応えもなく、それは落ちたようです。
マイクロ通信室につながる導波管が断たれたされたのでした。自分でハンマーで壊したマイクロ通信室の機器に続いて、中路の仕事は丁寧すぎるのでありました。
中路が使ったハンマーを前田がパラボラアンテナの上から求めました。途中まで上って中路がそれを渡して、そのまま上へ向かおうとしました。
前田は非情なやつです。中路のヘルメットを踏んづけて(比喩だよ)、「下を守れ!」と厳命したのでした。
プロ青の太田が開いたルートを通って、前田に戦旗派の現場リーダーだった水野が最上階へ続きました。ブントの看板しょってます。頼光に従う金太郎さんごときの児島はこのときは少し遅れたようです。さきに大ハンマーだけが上に行っていたようなのです。
前夜、元気よすぎるインターのメンバー(切込み隊、遊撃隊の隊長2人もいなくなっていたのです)が排水溝に入れなかったために、多くの任務を代わりに果たすことになった藤田が上がりました。そして、いまも前田が「いつの間にか入り込んでしまった」という中川が地下足袋のアドバンテージによって、するすると上っていってしまったのでした。
そのあとに平田が続こうとするのに、中路と小泉が腕をとって「待て待て」と引き戻します。前田の話によれば小泉だけは「俺たちは、ここで機動隊を止める。思う存分、上でやってくれ」とりっぱに答えたそうです。
最後に上っていったプロ青の中川は止められなくても、同じ党派の仲間なら止める。この微妙さがまだ初対面のような管制塔占拠組の関係が分かります。
こうして14階ベランダに残ることになったのは、インターの中路、小泉、平田、そして戦旗の若武者・山下でした。身体をくっつけて押さえ込んでいる扉は、ガンガンくる打撃の衝撃に代わって、やがてエンジンカッターの音と振動が伝わってくるようになりました。たぶん、ハンマーで殴りつけているうちに鍵がかかってしまったのだろうと思います。
2本の大ハンマーによって、管制室の機器はまたたく間にガラクタになってしまいました。わずか10分ほどのことでした。壊したあとはすることもないし、群がってきたヘリに向かってミスターX(大物らしいと産経新聞でWanted)は∨サインあげて喜んでるし、破壊を免れたクリーム色の電話にかかってくれば「ただいま、占拠中!」と宣言するし、まもなく選抜野球中継を中断して始まった中継(ヘリが映していたのです)にその気になって、ハンマーを振るうシルエットに面白がっているし、しょうがない奴らです。
管制室にかかってきた電話の一つはなかば涙声だったそうです。
「そこにあるのは大事な機械なんです。壊すのをやめてください……」。おそらく下の管理棟のどこかの階からだったでしょう。
答えの代わりは、破られた窓から春の風に乗ってどこまでも飛んでいく白い書類の群舞でした。

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★管制塔占拠闘争(15)
占拠部隊が管制塔をよじ登り、管制室で「はつりだ、ワッショイ!」になっていくさまを現認したのは、横堀要塞に立てこもっていた仲間や周辺の小屋の人々、8ゲート前の赤い大隊でした。要塞では双眼鏡の中で繰り広げられていくスペクタルを機動隊に向かってマイクで実況中継をしていたといいます。一緒に立てこもっていた反対同盟の石井武さんに至っては、屋上の管制官がヘリに吊るされて去っていくのを、占拠部隊が撤収していくものと思い「やろうら、えらい計画やったもんだ!」と感心していたそうです。
8ゲート部隊はさらにおかしなことになっていきました。
14階ベランダ組は管理棟屋上の機動隊の「降りてこい!」に「降りるために上ったんじゃねぇ」や「降ろしてみろよ」なんて言いあいながら、8ゲート部隊に手を振っていました。
実のところ、俺たちがもう仕事をすましてしまったのだから、わざわざ入ってくることはない、と内心では思っていました。しかし、手を振って彼らのやる気にまた火を着け、突入をさそってしまっているのも、その自分たちなのでした。8ゲート部隊の指揮者は、現場の突き上げと無線で行なっている和多田たちとのやりとりの板挟みになっていたのです。
ここからは、いささか長いですが、この8ゲートを前にした部隊の指揮者たちの話を写します。それにしても指揮者は辛うございます(笑)。
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大森●管制塔に向って「やったー! よくやったぞー!」って、みんなが手をふっていた。
吉鶴●僕は管制塔部隊の作戦内容を知っていたから、「ああ、成功したんだ!」って、すぐにわかったけど、8ゲート部隊の圧倒的多数は、なぜ管制塔に赤旗が翻っているのかがわからない。僕は(前夜、管制塔に向かうマンホール入りに)失敗したメンバーとして、手をふりながら管制塔のちかくまで行こうとしたわけ。
大森●僕なんか、「先を越された」と、警察よりもショックを受けたりしてね(笑)。
大門●8ゲートまで行くしかないと思ったのは、われわれのスローガンが「包囲、突入、占拠」だったからです。8ゲートは占拠部隊ではないにしても、突入部隊だと本人たちは自覚していた。そして、さまざまな訓練を積んできた最精鋭だという自負もある。インターの場合、300人と数は多いが、2年間にわたって毎週、機動隊とぶつかってきた部隊だった。
佐々木●この300名は基本的に中隊、小隊として編成されていた。1小隊が10人程度で、5小隊で中隊となる。実際の戦闘ではあまり役に立たなかったけれども、一応はそのように編成されていたわけです。実戦では、小隊長が「突っこめ」という前に突っこんでしまったり、小隊長が1人で突っこんでいったり、バラバラですけどね(笑)。しかし、そのように編成されているのは、全員がコマンドとして自覚しているからです。
大館●希一さんか私だったのかは忘れたけど、プロ青、戦旗派の諸君といっしょにその場でアジったわけです。「管制塔に突入したのはわれわれの部隊である。今後も闘争が続くのだから、機動隊と白兵戦にならなくても、この場から引き返せ」と。本部からの無線指令で、そのようなアジテーションをしたと思うんです。それが、あとから、ものすごい批判をあびることになった(笑)。
佐々木●トラックの荷台のうしろに立って、そのアジテーションをしたのは僕なんだよ。部隊は、これからどうしたらいいかわからなくて、茫然自失状態。行く気満々の連中だから、「帰るぞ」と言ったって聞く耳を持つはずがない。そこで、言葉を選んで「帰る」とは言わずに、方針提起をした。そうしたら僕のうしろで大館が「行くんだね、行っていいんだね」と無線連絡をしている。
大森●「行く」と決めるまで、5分ぐらいかかって、すでに3分の2くらいは引きはじめていたときだった。先鋒隊は「今日はパクられる」という覚悟をしていたから、「引くのかよー」と野次を飛ばしたわけ。ここまではわれわれの行動指導部がついていたから、「野次るな」と止められた。
大館●インターの内部からは、吉鶴君など管制塔に入れなかった人たち、それから小隊長、中隊長を含めて、「大館よ、ここまで来て、なんで帰るんだ!」と言いつづける。私は私で「これまで訓練を続けてきた2年間が、このままでは吹っ飛んでしまう」と感じて、本部に「行かせてくれ。このままでは現場がもたない」と連絡した。結論が出るまで5分間ぐらいかかったと思いますよ。その間ずうっと、希一さんがアジっていた。
大門●そのとき、私はもちろん「行くな」という指示を出していたのだけれど、「誰が行きたいと言っているのか」と大館君に聞いたら、「吉鶴たちだ」と言う。「車で突入する」という連中もいた。「最後は、収まらないから行かせるしかないか」と悩んでいたら、本部の誰かが「行くと全滅するぞ」と言ったが、「どこかで引かせるから」とゴーサインを出した。
大館●突っこんでいいという指令が出たときは、本当にうれしかった。自分たちは部隊を預かっているので、突っこまなかったら、どうなるのだろうと感じていたから……。
佐々木●「これで、プレッシャーから解放された」という感覚は非常に強かった。ただし、それまで撤収のアジテーションしていた僕は大変だったけど(笑)。「管制塔に突入した同志を迎えに行くぞー!」って、突然、アジの調子を変えたわけだから。
吉鶴●「本部から突入の指令が出た!」と誰かが言ったのを覚えてる。
佐々木●トラック周辺に詰め寄っている連中が、大声で「オー!」って、叫んだからね。
高橋●でも、決断までの5分間というのは、けっこう長く感じたなぁ。もう赤旗が揚がっているので、本部に「どうするか」と聞こうとしたが、無線機の周波数がなかなか合わない。「管制塔が見えた。もう目的は達成した」とアジテーションをしているのに、中隊長の中には、そのような意志統一をしていない人もいて、「同志諸君、管制塔にはすでに突入した同志がいる。われわれが行かなくて、どうするのか」とアジっている(笑)。そうこうしているうちに、行くことになった。本人たちはコマンドのつもりだが、部隊の性格は大衆部隊で、とにかく機動隊とぶつかるという気持ちが強い。だから、隊長までは全体の陣形を心得ているが、それ以外の部分は前夜も当日の朝も、「武器がなくなるまで撤退しない。われわれが撤退するのは武器を全部使い切ったときだ」と、口々に決意表明しているわけです。電気銃だとか、新兵器もいろいろ準備していたので、「まだ何も使っていないじゃないか」ということになる。(『1978・3・26 NARITA』より)。
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管制塔の上から見ていて、奇妙な動きをしていると感じたのは、こういうことだったのです。高いところから「来なくていい、来て欲しい気もする……」と、こちらも妙な気分なのです。さぁ、♪入るの、退くの、どうするの? はやく精神決めなさい、決めたら瓶持って走りなさい……、昔ながらのけしからん替え歌の、そのまた替え歌が心のうちで響くのでありました。
そして、一度、後ろに退いたようにみえた赤い隊列は、次の瞬間、怒涛のように押しかけてきました。あのラッセル車仕様トラックには、前夜、排水溝に入れなかった仲間が乗り込んでいることを、私達は知る由もありませんでした。

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★管制塔占拠闘争(16)
三里塚第一公園では反対同盟主催の数千人がつどう集会が行われていました。
「いま、管制塔が占拠されています」と開始まもなく司会が伝えたようです。静かな声だったそうです。
集会場は大歓声が上がりました。参加者に聞いた所によれば、「真ん中が凹んだ」とその時の印象を語りました。真ん中には、いつものように白ヘル、青ヘルの党派の大部隊が陣取っていたのです。真ん中が凹み、それを取り巻く人々が躍り上がって歓喜するという図だったようです。
反対同盟の青年行動隊は、この党派の大部隊を空港に向けようとしたようです。第3ゲートまですぐです。すでに管制塔が占拠され、管理棟にある警備本部は解体し、ただヘリコプターから、下の機動隊に声が飛ぶだけという警備の大混乱に乗じて、空港内に向かうことはそれほど困難ではないことは、少し経験を積んだ活動家であれば、すぐに分かることです。残念ながら、そこにいた党派部隊はまるで準備ができていなかったのです。
ブツの準備ではありません。やる気の準備です。
管制塔の上から、4000メートル滑走路に座り込んで行う大集会を見てみたかったです。管制塔占拠闘争がより大衆性をもったものに表現できていれば、その後の空港反対運動もまた違ったものになったでしょう。
東峰や横堀の反対同盟の人は、自宅方向へとって返した人が多かったようです。
「戦場はうちの方だ。ここじゃない」と、そのとき思ったと語ってくれた人がいました。この言葉もなかなかに味わい深い。空港内に突入したとすれば、そっちの方向からだ、と感じ取っているのです。彼女は、帰ってくる8ゲート部隊をその後、自宅近くで迎えることになります。
さて、8ゲート。ここでは本部指揮者からのお許しを得て、部隊を突入させます。上から見ていると、トラックがゆっくりと跨線橋(東関東自動車道)の下をくぐり抜けてくるのが見えました。続く赤い大部隊は空港内の最初の交差点で機動隊残存部隊といったん対峙し、それから管制塔方向に一気に進み、機動隊との乱戦になりました。
火炎瓶が乱れ飛び、管制塔の上までパイプが盾にぶつかる音、機動隊がコンクリートを盾で打つ、乾いた軽い音……。何度も何度も、倒れて逮捕された仲間を奪い返し、また、闘いは続けられていました。
胸を打たれるような光景でした。なぜか自分がこの高い所にいるのが場違いのような、下でともに肉弾戦をやらないことが申し訳ないような……、これもまたおかしな気分なのです。
前田が14階ベランダに降りてきて「上はもう全部、潰した。開港はできないよ」と伝えて、眼下の管制塔直下まできた仲間の乱戦を見入っておりました。彼の片手は、ガラスで切ってゼッケンで縛ってあったのを、求められて平田が縛り直した記憶があります。
「(機動隊が)きたら、こいつでゴチン、とな」。相変わらず、ここを死守せよと言うのでありました。この14階では、いま抑えている扉がエンジンカッターで切り取られたときに、外と内からこの扉を巡る攻防になりそうでした。
例のトラックは管理棟の玄関の鉄扉に突撃したようです。警官隊が横隊をつくり、一斉射撃をしたのは、この直前だと思います。私達の進路を確保してくれた9ゲートのトラックもパトカーを追尾することで空港内に入ってきたのでしたが、射撃されるの感じてドライバーたちは首をすくめつつ突入してきたといいます。
この日は、本当によく銃で撃たれています。なのに、どいつもこいつも命知らずになっていたのでした。
ひとりひとりの「兵隊さんたち」は、本気で私達管制塔組を連れて帰ろうと思っていたのでしょう。
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吉鶴●僕なんか、「死んでもいい」と思っていた。
大森●整理していうと、全員が整列して「行くぞー!」と喚声をあげ、トラックが先発した。そのあとを部隊が進むが、機動隊はまだ出てこない。東関東自動車道のガード下をくぐると、その先に機動隊がちらちらと見え出した。インターの方が部隊も大きいし、経験もあったのだが、そのとき、インターと先鋒隊との間で話し合いがおこなわれた。「俺たちが先に突っこむ」と言ったら、インターが「どうぞ」と言ったような記憶がある(笑)。
それで突っこんだのだけど、ガードの坂道を上がったところがT字路になっていて、左側に放水車と機動隊の部隊がいた。こちらは火炎瓶を投げ、警察は放水する。そのように一進一退を繰りかえしていたら、機動隊が放水車を先頭にして、われわれに向かってきた。そして、インター、戦旗が合流して、全体でワーッと喚声を上げ、押しかえしたら機動隊が引きはじめた。分離帯の道路がある場所までは、こちらが攻める一方で、分離帯まで来て対峙関係に入った。
佐々木●躍り上がって、真上から鉄パイプで機動隊に立ち向かっている写真があるね。
大森●ああ! この写真がそのときのものだ。分離帯の右側がインター、左側が先鋒隊。戦旗派はうしろでジグザグデモをやっていた。「おいおい、今日はちがうんじゃないの」って言ったけど。そのあとはどんどん前に進めた。そのときの写真もあって、なぜかインターの隊列に1人だけで混じって僕が写ってるのがある(笑)。その日、戻ってきて、夜になって熱田さんの家に行ったら、インター現闘のT君が「テレビにばっちり映っていたよ」と言われたが、それがこの場面。
大館●見る人が見れば、誰かを判別できるような鮮明さでテレビに映っていたらしい。
大森●このとき、インターが持っていたパイプは比較的軽いもので、それに比べると、先鋒隊のパイプは重かった。1回振り下ろすと、2回目は重くて腕が動かない(笑)。
高橋●あそこの場面はこちら側の完全制圧で、指揮をするなどという局面ではなかった。みんな、それぞれの判断で、楽しそうにやってるなというかんじで。僕は交差点に立って「やってる、やってる」と眺めていた(笑)。
大館●私の場合、見えたわけではないが、ピストルの音には驚かされた。
吉鶴●僕たちは、警備本部の建物に突っこんだでしょ。運転手の指示は、「突っこんだら荷台に火をつけて逃げろ」というものだった。運転席からうしろを振りかえると、指示どおり火をつけている。そこで残りの部隊に火炎瓶と鉄パイプを渡して、前に進むよう指示し、僕は最後にトラックを離れた。警備本部のある管理ビルからは、パンパンとピストルの弾が飛んでくる。僕はピストルを構えている警官から一番近い位置にいたから、何人かに狙われているのがわかった。
大森●どのくらいの距離だった?
吉鶴●20メートルくらいだったかな。警官はわれわれのいる方には出てこられない。柵の向こう側からピストルを発射していた。
佐々木●「あの銃口は俺を狙っている」というのが実感としてわかるんだよね。
吉鶴●狙っている警官に火炎瓶を投げたら、撃ち殺されるというかんじはあったね。僕は管理ビルから撤退する最後尾で、走って逃げたとき、福岡県警の3人組にタックルされて逮捕された。その時点で、8ゲート部隊の戦端は開始されたばかりだった。僕を逮捕した福岡県警は、あろうことか、われわれの部隊と機動隊の間に、弾除けとして僕を連れて行った。たしかに「死んでもいい」と覚悟していたけど、味方にやられるのはイヤだなぁと思った(笑)。
大森●警官隊のピストル発射は、写真などで見ると片手撃ちだけど、僕の記憶では両手撃ちだった。ちょっと膠着状態になったあと、楯の前に出てきて、横一列の両手撃ち。でも、撃ちながら震えているのがよくわかった。一瞬、どうしようかと思ったが、意外と冷静だったな。
吉鶴●あのとき、プロ青でピストルの弾があたった人はいなかったのですか。
大森●下のコンクリートにあたった跳弾で、足を負傷したメンバーはいたね。
吉鶴●バイクヘルにあたったり、着ていたヤッケに貫通した痕が残っていた人もいたみたい。
大森●前年の5・8で東山君がやられたときもそうだが、先鋒隊には「お約束」があった。誰かが前に出て両手を広げ、「撃てるものなら撃ってみろ」というパフォーマンスです。5・8のときには、まだバイクヘルを使用していなかったため、催涙弾の直撃で耳が切れたメンバーもいた。そこで僕も、3・26では「撃ってみろ」と前に出たら、最初は上向きに撃っていたのが水平撃ちになり、本当にピストルの弾が自分をめがけて飛んできた(笑)。
大館●ピストルを撃たれても誰もビビらなかったのが不思議だね。
佐々木●17~18発撃ったというのを聞いたことがある。
大門●放送局がテープを聞きなおして、何発発射したと教えてくれたね。
前田●「あのとき、ピストルにあたって死ぬやつがいなくて本当によかった」と後藤田正晴が述懐したということを、ある新聞記者から聞いたけど、「1人でも殺したら負けだぞ」というのが事前に後藤田が警備本部に指示した内容だったそうです。(『1978・3・26 NARITA』より)
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空港内の8ゲート部隊は、30分ほどしてから撤収にかかりました。まだ機動隊とケンカしたがってなかなか退こうとしないメンバーを抱えて、まとめることに苦労したといいます。体力を使い果たした仲間が隊列から遅れ、数人が逮捕されていきました。
8ゲート部隊にとっては、いちばん難しい局面だと思ったのですが、上から見ている様子では、かなりうまくいったように見えました。
何しろ、ここでも機動隊の指揮命令系統がガタガタ、数も足りていなかったのだと思います。赤い塊が小走りに去っていくのを私達は見送りました。「パクられるな!」と念じつつ。
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大門●機動隊が退路である丹波山に集まりだした。攻めてくる可能性があると思うから、こちらも構えながら撤退する。実際には、8ゲート突入部隊の被害はそれほど多くはない。ところが、千葉県警を中心とする横堀要塞方面の機動隊は無傷であり、陽動作戦で退路を守っていた部隊は弱かったから、ここで多くの逮捕者が出てしまった。
大館●警備本部がズタズタになっていることなど、現場は知りようがなかった。ヘリコプターで追跡されていて、われわれは絶対に機動隊に囲まれていると思っていたから、走って一目散に逃げるのではなく、構えつつ撤退というかんじ。撤退するときの機動隊の動きも遅かった。
大森●部隊に襲いかかって逮捕するのではなくて、空港の外に押し出すという動きだった。
大門●警察無線は入らず、頼りは部隊の無線だけなのだけど、その部隊がまとまっていない。退路の途中にいくつか砂利山があり、そこにさしかかると、的確に情報を伝えてきたホテル最上階のメンバーや横堀要塞からも見えなくなる。また、無線でつながっている部隊は、全体が見えないから自分たちのことだけを伝えてくる。そうすると頼りになるのはテレビだけという状況になった。
高橋●大館君が言うように、包囲されていると思っていたから、じりじりと撤退していった。だから、とても長く感じられたな。(『1978.3.26NARITA』より)
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おそらく15分位はたってからだと思います。10数台のかまぼこ(機動隊バス)が整列し、サイレントともに赤い塊を追っていきました。ここでも数を用意していなかった機動隊は、体制を整えるのが遅れ、8ゲート部隊を空港からなるだけ遠くへ追い出していく、という方針だったようにみえます。
この原稿を書いている時、昔の仲間がおしえてくれました。空港内の戦闘で逮捕される仲間はある程度、覚悟のうえです。彼らが戻ってくる退路を確保し続けた仲間にも逮捕者を出していました。
『松翁交差点から東峰方面に位置した第三大隊、そして予備部隊のはずの第四大隊、そこに含まれた看護小隊の女性たちから多くの逮捕者を出したと記憶しています。』
彼女たちの献身的な行動を忘れるわけにはいきません。そういえば、のちに東京拘置所で手紙でやりとりをした女性たちに「横堀退却被告グループ」から「横堀凱旋被告グループ」と名称を変更した人たちがいたはず。このグループだったのでしょうか。
多くの逮捕者を出した反省から、5月の開港阻止闘争のときには、看護隊は屈強な男たちで編成されることになったとも聞きました。その後の彼女たちの生き方を左右したのですから、けっして小さくない失敗でした。
さて、この日のことをある雑誌で回想した機動隊員が、8ゲート部隊について語ったことがありました。
「向かってくる連中の目がキラキラと輝いて、どうしてこいつらは、こんなに懸命にできるのだろうかと思ってしまった」と。
8ゲート部隊を見送った管制塔組の闘いは、いま少し続くことになります。
中川は管制室から見た光景を語ります。
「労農合宿所の屋根の上ではこちらの方を双眼鏡で見ながら手を振っている仲間の姿、プロ青小屋の横ではマル機の報復襲撃に備えた鉄パイプ部隊、第一公園を出発したデモ部隊だろうか?フェンスの土手から上がる煙……。」
あくまで青く晴れ上がった空のもと、高いところでは春の風が少し冷たくなってきていました。

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★管制塔占拠闘争(17)
8ゲート部隊は去っていきました。16階管制室では壊す機器がもう何も残っていませんでした。壊した機器類は15階扉に向かって転がし落とします。机や椅子、しまいには冷蔵庫まで。階段通路が埋め尽くされるまでそう時間はかかりませんでした。ガラスにてんでにスローガンを書いたり、紙で作ったツチカマを貼り付けたりしていました。
「あとは逮捕されるだけだなぁ」。太田が外を見ながら気の抜けたセリフを吐きました。伸びやかに広がるうららかな北総台地に、ところどころ闘いの煙が上っていました。東には赤旗を身にまとった横堀要塞、西には滑走路を挟んで三里塚公園。何かもう静かにのどかに存在するようです。
太田達の「平和」はもちろん長くは続きませんでした。機動隊が15階の扉を開けて突入の構えを見せるようになります。
カケヤでそのバリケードを崩しにかかったところに、児島と水野が消火栓からホースを引きずり出して水をかけました。「ガソリンだぁ」の声とともに、機動隊は音を立てて後退。また、恐る恐る階段を上ってくるのに、水野が手にした消化器で消火剤を噴霧する。
階段の上と下で対峙しているうちに、東側のベランダに機動隊が姿をみせます。ガラス越しのにらみ合い。てんでに書かれていた落書きに前田がまた新しいものを加えます。「入ってきちゃ危ないよ」。
ガラスにガス銃で穴を開け、そこからガス弾を打ち込みました。拾って投げ返していましたが、次々にやってくる催涙ガスで6人は涙と鼻水まみれ。ガス銃と大鎚で開けられた穴から突入してきた機動隊員に、6人は肩を組んでインタナショナルを歌いながら逮捕されました。感情を表に出すことのない児島が、生まれて初めて感極まってとめどなく涙を流したといいます。
14階ベランダ組は、頭上からガラス片が落ちてくるまで、16階が制圧されたことに気づきませんでした。「こっちのガラスを割るんじゃないよ!」と、見上げた先に機動隊員が顔をのぞかせていました。「あら、ま」という感じです。
この機動隊指揮者は、キャットウォークを回り込んでくる機動隊員に向かって、「そこにいられなくしなきゃダメだ。水をかけろ!」と喚くのです。でも、上が制圧されたのなら、別にここで頑張る必要もない。
「インターうたうか」と平田は仲間に声をかけ、押さえていた扉を離れて仲間と密集します。当時の「お約束」だったのでしょうか。上も下も同じことをやっていたのです。密集するのは、たぶん暴行に耐えるためでもあっただしょう。でも、たしかに組む前に4人とも笑い合っていた記憶があります。やることはやった。これから耐える時間のはじまりなのです。
上からと扉を開いて出てくる機動隊員にほとんど同時に組み付かれ、多少の打撃、引き剥がしにあって、逮捕時間を確認する声とともに14階組の闘いはあっけなく終了しました。平田の後ろ手錠と、唇にケガを負わせたあの指揮者が気に入りませんが。いや、いま思えば彼が逮捕時刻を確認しているとすると、殴りつけてきた機動隊員は別人ということになるでしょうか。40年もたったことだし、恩讐を越えて裁判以来の再会と交歓などできればいいと存じます。第7機動隊たぶん小隊長のMさん。嫌味でなくそう思います。
Mさんは、地上まで連行しながら「何がいやだって、瓶がガシャッと割れる音がいちばん嫌だ」や「もたもたしてっから、入られちゃうんだ」のまことに俗な、しかし人の悪くないセリフを連発しておられました。
下には逮捕された仲間がずらりと列を作っていました。三脚ずつ置かれたパイプ椅子に両側を機動隊員に挟まれて座らされ、臨時の取調室に向かって少しずつ進むのでした。なぜかそこで弁当が出され、くだんのMさんは「俺たちより、いい弁当じゃねぇか」と覗き込むのでした。これも不思議です。きっとどこかの機動隊員用に準備されたのが、出されたのだと思うのです。こんなサービスがあるとは思いもよらず、遠慮なくいただいたのでしたが、バカやろ~、さっき切った唇が腫れるわ、血が流れるわ、食いづらいじゃないか。
取調室には仲間が溢れかえっていました。正面に前夜、排水溝入り口で別れてしまった仲間を見たときには、我知らず目を剥いていたと思います。この連載で何度も出てきている吉鶴君でした。前夜の恨みを晴らさんと、8ゲート部隊に合流してトラックに乗り込み、がんとして突入を主張してやまず、あげくに機動隊員によって、タマ(火炎瓶)よけにされたという男でした。
彼が管制塔部隊の遊撃リーダーだったはずで、ひょっとして、反対同盟旗とツチカマ旗を腹に巻いていたのじゃあるまいか。
まだ、おりました。九大のNくんもそこにいて、足を引きずりながら連行されてきました。彼は10数人分の鉄パイプを私と一緒に抱えて田んぼの畦に足を突っ込みながら運んだ仲間でした。引きずっていた足は銃弾によるものでした。そして、また『三里塚のイカロス』上映の初日に来てくれていた大貫くん。彼は私が所属していた切り込み隊のリーダーだったのです。そいつらが目の前に次々に現れました。なんと律儀な命知らずたち。いいやつらでした。
8ゲート組はケガ人多数。ぼろぼろになりながら、けれど、どいつもこいつも誇り高い顔をしておりました。新山たちの9ゲート組はそこにはたぶんいなかったと思います。新山くんにはあの私達の突入時に管理棟前ですれ違ったまま、会えなくなりました。
こうして1978年3月26日の空港内の闘いは終わりました。(横堀要塞の闘いはこれよりもう少し続きました)。この日から管制塔組は4年~11年の拘留と懲役の獄中ぐらしが始まりました。私の感覚ではそれはまた別の物語の始まりでした。
長期の獄ぐらしはみなさんに応援してもらったおかげで、本人たちはわりに幸せに過ごしたといえます。家族のほうが辛い年月だったというのが掛け値なしの事実です。
しかも、この日の闘いと長い拘留で、二人の仲間の命をなくしました。9ゲートで身を焼いた新山幸男は2ヶ月半後に辛い治療のうちに逝き、4年後には管制塔組の原勲が保釈直後の拘禁症の激発で自殺し、私達の人生の中にその命を生かすしかない存在になりました。ひょっとしたら、終わりがないのかもしれない過程を、管制塔メンバーは歩いているのかもしれません。それはそれぞれの生き方、構え方なので、あえてことあらためて言う必要もない話です。
平田個人は進むことの難しい道であっても、そして、ふりかえってもみても恥多き道でありましたが、足踏みしながらでも、相変わらず「来たる日」に向けて、生きるしかないと考えています。
*****************************
「池の柳が芽吹いた。今年は寒かったのに春はまたやってきた。
その足にもの言わせて走れと言って聞かせたのに、逃げる気のないおまえのこと、
かくなるうえは、立ったり、しゃがんだり、足踏みしたりして来たる日に備えよ。
                    母より」
**********************************
管制塔占拠から40年。せいいっぱいの虚勢をはって伝えてきたメッセージに、わたしはまだ応えられていません。このメッセージは、あの時代のまっとうな人々に共通する思いであったと思います。であれば、懐古談ではなく、通ってきた道を見直し、少しはましな「教訓」のようなものを汲み取る努力をしなければ、みなみなさまに申し訳がたちませぬ。それを見つけ出す契機は、きっとまだ多く埋もれたままなのです。
『開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント』はそんな大それた「見つけ出す契機」の役にはとても立ちそうもありません。それでも、試みの前提として、事実を確かめおく「実録」はあったほうがいい。ここに記録した人間や、組織のありようを、立ち戻ってもう一度、考えてみるときの参考にできますれば、という思いです。
その試みをこのページにこのまま続けて記していくかどうか、みなさんの意見を聞いて決めたいと存じます。
(終)

※ 管制塔占拠闘争を報じた第四インター機関紙「世界革命」号外(1978.3.27)をホームページにアップしました。
下記アドレスからご覧ください。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html

【お知らせ1】
●「三里塚のイカロス」アンコール上映!

第72回毎日映画コンクール ドキュメンタリー映画賞受賞
管制塔占拠から40周年を記念してアンコール上映決定!
4月14日(土)~4月27日(金)連日10:00より
「新宿 Ks cinema」
新宿駅東南口階段下る 甲州街道沿いドコモショップ左
www.ks-cinema.com

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【お知らせ2】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)午後
水道橋近辺で開催

【お知らせ3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は4月20日(金)に更新予定です。

 今年は激動と変革の時代、1968年から50年目の年である。50周年を記念して集会や本の出版が企画されているが、もう一つ、1978年の成田空港管制塔占拠から40周年の年でもある。3月25日には、「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを! 3・25」が御茶ノ水の連合会館で開催され、200名を超える参加者があった。
 この管制塔占拠闘争に関わったH氏が、フェイスブックで『開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント』と題した連載を掲載していたが、この連載記事を私のブログに転載させていただくことになった。今まで、管制塔占拠の前哨戦について2回掲載してきたが、今回は最終回の管制塔占拠闘争を掲載する。(転載にあたっては、H氏の了解を得ています。写真はブログ管理者の独断で選んだものを掲載しています。)
※ 3万字を超える長い原稿なので、ブログ掲載の制限のため、今日と明日の2回に分けて掲載します。

【開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント】その3 前編
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★管制塔占拠闘争(1)
 今回は、タイトルと少しずれますが、3.26管制塔占拠闘争のプロローグとして書きます。
 1978年2月6~7日横掘要塞戦は大変な反響を呼び起こしました。
 新聞は「まるで不死鳥」と見出しをつけて、鉄塔にしがみ付いて放水に耐える仲間の姿を大きく報じました。リアルタイムで放送したらしいTVの映像に釘付けになった人々も多かったようです。わが母も「4人を死なせなかった反対同盟の勇気に感銘を受けた」と後に語っておりました。
 現地の常駐者の一人もこう振り返っています。
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 (開港阻止闘争として3・26までの)闘いを全体的にとらえると、ここがクライマックスだったと思ってる。これ以上のことはできない。
 本当にいろいろ偶然が重なったんだけれども、本当に気持ちに訴える闘争っていうのは、俺自身、高校を卒業してから新左翼運動に入って、現闘をやめるまで、あれほど心に訴える闘争は見たことがない。みんなが泣く闘争だったな。
 俺らが無線で「元気だったら、手~ふれ~」っていうと、手ふるんだよ。そうすると、まだ大丈夫だとなって。周りでは、反対同盟のお母ちゃんらが、青年行動隊(青行)の幹部連中を囲んで、「もう降ろしてやれ、死ぬから、降ろせ」って、ワンワン泣いてるんだよ。で、「手~ふれ~」って言うと、手ふるから、まだ大丈夫だとなって、朝をむかえたわけ。
 4人はメシも食ってないし、一晩中、寝てない。機動隊が来るってわかってたから、徹夜で準備したので、たぶん寝ないでそのまま闘争に入ったと思うんだよね。朝になったら、ぽかぽか、気持ちいい朝になったんだよ。で、「元気だったら手~ふれ~」って。手ふったから、日中は大丈夫だ、みたいになってさ。日が昇ってくると、全国からちらほらと集まりはじめるんだよ。前田なんかも駆けつけるわけどさ。
みんなで、「がんばれ~、がんばれ~」って言うことしかできないけど。それしかできないけれども、放水をあびて凍ったつららを垂れさげて、4人が鉄塔にしがみついてるのを、ずうっと見てるわけだよ。それはね、同じものを共有していくんだよ、気持ちの部分で。
 そのときのおっかぁらがそうだけど、「かわいそうだから降ろせ」っていう気持ちが、今度は機動隊に向いていくんだよ。「おまえら、あれ見て、どう思うんだ。死んだらどうするんだ。まだ放水する気か!」って。で、「あいつらといっしょに闘わなきゃ」っていう気持ちが、現場にいたやつも、テレビを見たやつも、全体でつくられていくわけよ。 (『1978・3・26 NARITA』)
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 この7週間後に、第一期工区の完成のみで開港を強行しようとした空港は「包囲・突入・占拠」され、開港を阻止されることになります。つまりは、その先端で闘う者は、前年の1977年岩山大鉄塔決戦の準備として生まれ、この横掘部落での闘いで打ち固められたものでした。だから、その人々の集まりは別名を「横掘三派」と呼ばれもしたのでした。
「横堀」という地について考えてみることは、三里塚闘争とは何なのかを理解するのに意外に役に立つのではと思います。
 要塞が建設された横堀部落は、先に書いたように77年の(岩山)鉄塔決戦のあとから闘いの焦点として浮かび上がってきた地区でした。いやむしろ、反対派が意識的にそこを焦点化していったといってもいいのですが。
 成田空港建設反対運動は「三里塚闘争」と呼ばれてきました。「三里塚」とはもちろん地名です。成田市三里塚のことです。成田空港建設計画は、この地にあった「御料牧場」という天皇家の糧食をまかなう広大な土地を中心にして、新しい国際空港をつくろうとしたということです。
 空港建設に反対する運動について、あるいはそこに現実的にかかわっている地域全体を指すイメージとして「三里塚」と呼ばれてきたました。
「三里塚へ行く」といった場合に、実際にはそれぞれの支援者が向かう小屋がある地区を指し、成田市三里塚ではなく、山武郡芝山町朝倉や、辺田や、坂志岡etcというのも、だからごくありふれたことでした。
 しかし、各部落にはそれぞれの固有の成り立ちがあり、ものごとの考え方、運動の進め方、匂いや雰囲気の違いまであります。
 しかも、反対同盟はその違いを互いに認め尊重するという組織であったのです。私は、「左翼の組織より、よっぽど民主的だな」と思うことが何度もありました。
 反対運動が立ち上がってすぐ、住民たちの組織は、ごくごくおおざっぱに言えば、多くを空港敷地に取り上げられる成田市側と、主として騒音地区になる芝山町側の組織が合同して、三里塚芝山連合空港反対同盟になります。横堀は行政的な(?)地名でいえば、「山武郡芝山町香山新田」です。
 横堀は二期工事区を抱える芝山町の部落でした。ここからやはり二期工事区内にある成田市に属する木の根や、東峰、天神峰も、横掘にほとんど隣接する開拓者たちがつくりあげていった部落です。
 これもごくごくおおざっぱに言います。田んぼが古村、畑が開拓。
 横堀から南へ坂を下って降りていった先が辺田です。周りを田んぼに囲まれた古村でした。横堀の古老が、辺田のことを「本村」と呼ぶのを聞いて、何かに打たれたような気持ちになったことがありました。いい、悪いではなく、古村と新しい部落の関係が、どきりとする感じで迫ってきたのでした。
「開拓で入って食うや食わず苦労の末に、やっと人並みの暮らしができるようになったとたんに空港がやってきた」という人々の闘いが三里塚闘争と言われ、それはそれで間違いではないのですが、より正確にいえば八百年、千年の歴史をたどれる古い村(村落共同体)と、開拓の村が独特に結合した闘争であり続けました。敷地内開拓部落は古村に支えられて闘い続けてきたとも言えるのです。
 辺田の三ノ宮文男さんが代執行のあと、次々に青年行動隊員に弾圧が及んでいくさなかに自殺したときのこと。まだ行方がわからないまま、家族なのか友人なのかが、横堀のOさんを訪ねてきた話もまた、その古老に聞いたことがありました。
「息子が仲がよかっただから、来てないかって捜しに来たんだっぺよ」
 その仲のよかった友人は、東峰十字路事件(三人の警察官が反対派との衝突で死んだとされる事件)で、うそっぱちの調書を取られた人でした。この調書は、のちの裁判で最大の争点のひとつになり、Oさんがその調書を否定することで、裁判の展開は、事実上の勝利へ向かって、大きく流れが変わっていきました。
「三里塚闘争に連帯する会」などが、現地の結集・宿泊に利用した施設「労農合宿所」は、このOさんが横堀を去ったその宅地跡に開設されたものでした。
 横堀は、横堀要塞を建設することで、そんな人の命や三里塚闘争の歴史を結び合わせる地だったのです。
 ここで公団・機動隊と要塞を巡ってせめぎあうことで、その主力を担った「三里塚闘争に連帯する会」や、第四インター、プロ青、戦旗のブロックが固められ、「横堀赤ヘル三派」と呼ばれる管制塔占拠闘争の部隊が作られていったのでした。

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★管制塔占拠闘争(2)
1978年開港阻止決戦は、3月26日の現地集会から開港日となるはずの4月2日にかけての長期闘争として、多くの支援者には伝えられていました。むろん、1日目1発目で決めてしまうという計画を知っていたものもおりました。
機密保持はまぁ当然でありましょう。
三里塚闘争に連帯する会系の支援者の中で、党派部隊に属するものは、大方、前日の25日までには現地に入っていたはずです。地方にいる者は、24日に現地へ向けて出発する者が多かったのです。
24日、25日と見事な月夜でした。しかも24日はその月がきれいに欠けてしまう月食でした。「月夜に釜を抜かれる」というのはありますが、やってみせます! 月夜にカマトンカチ! この月食のひとときを利用して、要塞へ最後のブツが搬入されたのでした。
要塞は、例のごとく「航空法違反」物件になる可能性がありました。実に不思議に間抜けに、機動隊は「6mの要塞に3mの塔が立てば高さ制限の9mを越える。ゆえに3m以上の建設資材は運び込ませない」ということでした。
でもね、つなぎゃいいんです。そんなものは。
というわけで、鉄塔を立ち上げる資材は、検問を潜り抜けて数日間のうちに運び込まれて、準備は整っておりました。
一方で、支援者がやってくる横掘の労農合宿所には、とてつもない物資が送られてきていたそうです。衣類、バス、トラック、冷蔵庫、医療品etc 全国から来る物資が山積みに。
大方のメンバーは片道キップのつもりでしたから、身辺整理をして、近親者があとで読むことになる、お手紙なんぞを残して現地へと向かったのでありました。
管制塔へ向かうプロ青の中川のおっさんは「無事に帰ってきてね」というテーブルの上の妻の手紙に、特別任務につく自分のことを何も語らず、ぼろぼろ涙をこぼしながら「ただ人民のみが歴史を動かすのです」と返事の置手紙。かぁ、俺も泣けるぜ。
泣きたい人は、どうぞまた『三里塚のイカロス』を見てください。
同じく戦旗派の水野は、現地へ向かう車の中で、キャンディーズの最後の名曲「微笑返し」を「おしっこの仕返し、だって、わははは」と笑っていた。んなこと言ったって、自分がこれから長いところへの「お引越し」なんだよ。
さ、後楽園キャンディーズ解散の動員力と人気に負けてなるものか!
行くぞ、決戦の地、三里塚。
ヅカへ、ヅカへ、と草木もなびくよ~ あらあらあらさっと。

★管制塔占拠闘争(3)
1978年3月25日、三々五々、現地へやってきた支援者は、それぞれの団結小屋に入っていきました。インターは空港南側に位置する朝倉、プロ青、戦旗は横堀の小屋です。
まず、のんびりとした春の日でした。ぽかぽかしたいい陽気なのです。
朝倉小屋の草の上に多くの支援者が寝転んで草などはんでいるのでありました。
一方、横堀はまた空港反対派の挑発が始まろうとしていました。
午後1時、横堀要塞にまた鉄塔が立ち上げが開始され、夕方には完成してしまいます。
長さ3m鉄材の制限の陥穽におっこちた警備側には、頭に血が上った指揮官が出てきてくれたのでした。まことにありがたい話でした。
長い会議の末に「違法行為を看過すべきでない」という強硬論が「警備が空港と二分される。いまは要塞に手を出すべきでない」という冷静な判断を押し切ってしまったというのです。
インター朝倉では部隊編成が行われます。小隊、中隊、大隊。そして0部隊。
このゼロがなにしろ怪しいよ~。
たぶん、その部隊がいくつかに分けられて、特別任務隊になったのだと思います。
管制塔と9ゲートトラック突入部隊は、ここにいたわけです。
あららら、やばっ
前田が出てきちゃったもんね。
「みなさん、死んで頂きましょう、というやつです」と第一声を発しました。
(ばかやろ!)
その数15人。日が落ちてから朝倉団結小屋の一室で「共謀」が行われました。
このとき、初めて翌26日の全体計画が現場メンバーに明かされることになったのです。
空港に突入し、管制塔を占拠する戦術は、指導部のごく一部しか最後まで知らなかったはずです。現場に向かう「兵隊さん」で知っていたのは、この時の「共謀」のメンバーくらいではないでしょうか。
たとえば戦旗の3人は、横堀の熱田さん家のマデヤ(作業場兼ものおき小屋)の軒先で、前田から説明を受けるまで、内容をまったく知らされていなかったと記憶します。
地下足袋姿の私達は、首に安全靴をぶら下げ、許される範囲の「あらゆる武器」を抱え込んで、月光のもと熱田さん宅から畑の中を駆け抜け、田のあぜに伏せて、ようやく所定のマンホール突起口というやつに取り付いたのでした。
この時点でインター15、プロ青4、戦旗3、計22名。南ベトナム民族解放戦線、アメリカ大使館占拠部隊のアナロジーでありました。
夜陰に乗じて、(といっても月夜であったのですが)、空港内に通じる排水口に入り込もうという計画です。でも、そうはうまくいかんのです。
7ゲートを警備していた機動隊のサーチライトがくるくる回る合間を縫って、人とブツがマンホール内へ入っていきました。そのライトは、月夜に動く影を捉えて、ぴたりと突起口を照らして動かなくなることしばしばという状態に陥りました。
ついに機動隊がやってきて、半身を突起口に入れていたS君が追いつかれて逮捕、中に入っていたのが15人。後は一目散に遁走し、田んぼの水にどろどろになりながら、逃げのびたのでした。
これより管制塔組は、空港内の出口近くまで進み、真っ暗闇の中、入ってくるかもしれない機動隊を警戒しながら、翌日の突入時刻を待つことになりました。
正直言えば、この時間がいちばんきつい経験でした。
私(平田)は、「直ちに突入すべき」と隊長・前田に進言すべきかとも思いました。出口を機動隊が察知して押さえる前に、出て勝負すべきではないかと。
そう主張しなったのは私に勇気がなかったとも言えますが、前田の判断に従うのが最善だとも思ったのです。実際、彼の判断が正しかったのです。
前田は「撤退する道はない。予定通りの時刻に予定通りの場所から出て、管制塔を目指す」と、まったくブレがありませんでした。
連絡に使用するはずだった無線機をハンマーで破壊し、私たちは退路を絶ち、自らを闇の中の「突撃の意志の塊」に追い込んでおりました。
そのころ、外の無線は「予定通り決行!」と流しつづけていたそうです。

★管制塔占拠闘争(4)
3月26日朝、外はきれいに晴れ上がっていました。
管制塔占拠部隊はまだ排水溝の暗黒の中。部隊を組みなおします。
当初予定した22人が15人にメンバーが減っていました。確かこれを5人ずつの3グループに分けたはずです。
持ちこんだ武器は整理されました。とにかく身軽にして、一気にマンホールから飛び出して勝負できるならしようということでした。
入り口で忍び入るのを見られている以上、出口では機動隊が待ち構えている可能性が高いと考えたのです。
鉄パイプ、大ハンマー、そして触発性の火炎瓶。あとはすべてマンホールの中に置き去っていくか、排水溝の口から小見川へ捨て去ったはずです(置いていてもよさそうなもんですが、そうもいかないものもあったのです)。
午後1時が迫ってくる。「いくぞ!」の声の直前。まだ、党派が違う人間はよく知らない間柄ですから、それぞれの党派で声をかけていました。
プロ青が凄い。
「死んでもお互い、恨みっこなしだぜ」
津田のセリフであったそうです。津田は夜にひどく目が見えづらかったのだそうで、このマンホールに至る間に田んぼに落っこちて、おろおろするのを中川のおっさん達に「お前、帰れ!」「いや、連れていってくれ。頼むから」と、やってきていたのでした。
15人は一列になって、マンホール内の小さな鉤型の手かがりを伝って数メートルを登り、丸い、横に伸びる側溝に這いこみます。ここにきてようやく数時間ぶりにうすぼんやりとした明かりを見ることができました。
後ろからブツが送られ、それを出口になる集水口の向こうに伸びる側溝へ押し込み、最初に飛び出す先頭の藤田がその集水口の真下に位置しました。
時計を見て、飛び出す時間を量る。‥‥‥しかし、不思議なことがあります。このとき、二番目に位置した平田は、後方から前方へ頭上を通りすぎていく人の話し声を聞いているのですが、藤田にはその記憶がないといいます。
午後1時、藤田はバールで集水口の碁盤になった鉄の蓋を抉じ開けようとします。
うまくいきませんでした。やがて彼はヘルメットを脱ぐと、慎重にバランスをとっておでこと両腕で、立ち上がりざま一気に持ち上げたのでした。

★管制塔占拠闘争(5)
すぐさま飛び出した藤田は「牧歌的な状況」に驚いたと言います。空にはひばり、出口すぐそばにある信号機のカチカチという機械音を聞いていました。
二番目の平田はその声、音を聞いていません。本当に人間がある状況の中で、認識するもの記憶するものは、恐ろしく個人差があるようです。
飛び出す瞬間、集水口のふちで切り取られた四角い真っ青な空だけが見えました。ただ青い空にまるで逆さに飛び込むように、伸び上がって、私たちは地上に出たのでした。
5人が出てから、隊長の前田がブツを下から必死に上に持ち上げて、先の5人に手渡していました。
ブツのあとに、残りの10人のメンバーが次々に出てきました。時間との勝負でした。そこに制服の警察官5,6名が小走りにこちらへやってきたのです。
手を震わせながら、銃を構えて。
飛び出す直前に、頭上数十センチメートルをゆっくりと通過していった、話し声の男たちに違いありません。
先に出たものは、仲間が出てくるまで、警察官と5、6mの距離で対峙しながら、時間を稼いでいました。前田は排水溝から出てくる人数を数えていたといいます。
最後の中路はまだ体半分しか地上に出ていませんでした。
管制塔組は半円に囲む警官を一気に蹴散らして突っ走りました。と、いってもどの方向か事前にシュミレーションしていた前田以外、他のメンバーは全然分かりませんから、「こっちだ!」の声に従うほかになかったのです。
ただ、制服警官は、管制塔組が走り始めたとたんに「い、いかん!」と絶叫したのでした。
そう、俺たちが向かうのは管制塔。

★管制塔占拠闘争(6) 
制服警官は、疾走する管制塔組に「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」と並走しながら叫んでいました。むろん、拳銃はこちらに向けられたまま。
前田隊長が、片手に持つ火炎瓶の投擲フェイクを入れつつ、行儀の良くない殺伐としたご挨拶を脇にいる警官に送りつつ、先頭グループを引っ張っていました。
最後に排水口から出てきた中路は足が速かった。大ハンマーを提げると、あっという間に先頭グループに入っていました。
むろん、前田とともに千葉で活動してきた児島は、約束通り大ハンマーを掴んで、前田の側を離れませんでした。
他の連中が手にしていたのは、鉄パイプとバール、火炎瓶のセットということになります。
殿を受け持つ形になったのは、中川・原のプロ青同コンビでした。遅れるはず、中川は欲深く3本も火炎瓶を抱え込んでいたのです。
管制塔がそびえる管理棟敷地内に入ってすぐ、そこを他の地区と仕切る金網の扉を原が叩きつけるように締めたそうです。二人は自分たちが最後尾であることを自覚していたということになります。
こうして、追ってきた警察官を置き去りにした上に、入ってこようとしたところに、中川は2本も火炎瓶を投げつけて退かせています。
先頭はもう管制塔へとまっしぐら。
その行く手に黒煙が上がっていました。次の瞬間、地面に横たわる誰かに暴行を加えているかのようにみえたガードマンが、何かを放り出して、まさに脱兎のごとく全速力で逃だしました。
突っ走る15人の目の前に、異様なものがいきなり立ち上がりあがりました。消火液をかけられ真っ白になった人でした。
1時きっかりに、9ゲートから突入したトラック部隊のメンバーです。
トラックに積んであったガソリンに引火し、それが燃え移って全身を焼いた仲間です。
あとから思えば、警官が放り捨てたのが消火器だったのです。でも、その時点で、何が起こったのか、突っ走る管制塔組の誰も理解していなかったようです。
9ゲート部隊のメンバーも、管制塔組の後を追ってまた走り、管理棟の中で逮捕されたといいます。
管理棟1階に管制塔組が走りこんだとき、警備本部は解体したようです。9ゲートからトラック2台で突っ込こまれ、慌てふためいた警備本部がやや持ちなおして、ふと心理的な空白ができていたのではないかと思います。
そこへ2撃目が加えられることになったのです。
その瞬間に警備本部のえらいさんたちは、蜘蛛の子を散らすように現場から逃亡したのでした。管制塔組が突入した管理棟1階(ロビー)の真上、2階の空港署に警備本部が置かれていたからです。
1階ロビーで津田の両手をあげての「撃てるもんなら撃ってみろ!」の弁慶ごっこを先頭に5人が警察官と対峙して頑張る間に、10人がエレベータに乗りこみ、上へと向かいました。
こうして、管制塔占拠が開始されていったのでした。

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★管制塔占拠闘争(7)
私達が管制塔に突入する前日の3月25日夜、インター朝倉団結小屋の一室で管制塔攻略組15人に明かされたプランは、26日の午後1時を期して、私達排水口から管制塔を目指すもの、第9ゲートから2台のトラック部隊(8人)、そして8ゲートから入ってくる大部隊の3方向から闘いを行うというものでした。
9ゲート組と管制塔組の時間のズレはあったものの空港内で出会いました。火だるまになった9ゲートの仲間のおかげで、管理棟正面玄関のシャッターが開き、そこから管制塔占拠部隊は管理棟に突入したのでした。
警部本部にいた幹部たちは、自分たちが襲われると思ったようなのです。
むろん、私達にはそんなつもりはまるでなく、とにかく管理棟の上に立つ管制塔のてっぺん、管制室をただひたすら目指していました。
管理棟に走り込んだ時、エレベーターから血相を変えた男たちが次々に降りて、「避難」していきました。私はずっとそれらの人々を、新聞記者だと思ってきたのですが、ことによると、警部本部づきの偉いさんたちだったのかもしれません。
その男たちと入れ違いになるようにして、最初の5人がそのエレベーターに飛び乗りました。
これが管制室に入っていく任務を持っていた前田達の隊でした。ここには隊長のインター・前田、プロ青のリーダー・太田、戦旗派のリーダー・水野、前田の側を離れない大ハンマーをぶら下げた児島、藤田の5人でした。
こうしてみると、前夜、22人のメンバーが15人に減って、それでも3つの任務で隊を編成して、管制塔を落とすという編成とメンツは、結果として根本的には変わっていません。つまり警備を先端で破る役割、周囲を払い占拠組を守る遊撃隊、占拠するメンバーという分け方になっており、占拠する主力が真っ先に駆けていったところが違っていましたが、なかなかうまくいっているのです。なぜか、ひとりだけ勝手に管制室に入っていって、Vサインなど挙げていたおっさんがおりましたが。
ロビーに最後尾で走り込んだ中川は、阻止線の向こうのエレベーターが開いていることを認めて、「乗れ、乗れ!」と叫びます。前の阻止線をすり抜けて、そのエレベーターに走り込んだのでした。それに乗り込んだ誰もが、自分たちの背後の扉が開いていることに気がついていませんでした。
警察官が投げつけた消化器を阻止線の仲間が避けた。エレベーターに向かって床を滑ってくる。中に飛んでくると思った瞬間に扉はしまり、その衝撃を受けて2台目のエレベーターは上昇し始めたのでした。
1階ロビーのエレベーターの前に居座り、上に登っていく仲間を守り通した5人の仲間たちは本当に見事でした。
三里塚に来るのに「俺がやるしかないよなぁ」と特別任務を引き受けたというプロ青の原、現場で「撃てるものなら撃ってみろ!」と叫んだ津田、5.8闘争で放水車の上に立って旗を振っていたインターの高倉たちでした。
ロビーで発火した火炎瓶の炎と煙の中で、彼らは警備の暴行を存分に味わいました。押っ取り刀でやってきた警察官や機動隊に、火炎瓶で抵抗したあと、街路樹の添え木の丸太や消化器で殴られたり蹴られたり、拳銃で脅されながらも、登っていく占拠部隊を上に送ってくれたのでした。
逮捕される直前に彼らが交わした言葉は、
「上にあがったよな」「確かに行った。あとはやってくれるよ」だったそうです。

★管制塔占拠闘争(8)
管理棟を上っていく2台目のエレベーターに乗ったのは、インターの小泉、中路、平田、プロ青の中川、戦旗の山下でした。先に上がったエレベーターの5人と合わせて、10人が管制塔に登ることになったのでした。
管制塔は、7階建て管理棟(管理ビル)の上に聳えていました。そして、いま思うに、エレベーターは管理棟最上階までで、直通エレベーターはなく別のエレベーターに乗り換えなければ通信施設の部屋と管制室にはいけかったのだと思います。
みなさんが写真や映像できっと見たことがあるだろう赤旗の下がるベランダが14階です。このベランダの奥に、マイクロ通信施設がありました。そして、てっぺんが16階の管制室でした。
1階ロビーから14階と16階に至る道筋については、記憶をたどっても間違いない事実として、語れるほど判然としていないのです。ただ、管制塔占拠から9年後に、すでにシャバの人間になっていたものたちが集まって、何度も記憶をたどったり討論する場を持ちました。『管制塔、ただいま占拠中』(つげ書房刊、10年記念)出版を目的にしたものでした。というわけで、平田の記憶と『ただいま占拠中』を照らし合わせて、これから書いていきます。
事実として、先に上った5人を追い越して、後のエレベーターに乗った5人は14階に達しました。後発のエレベーター組は、うまくエレベーターを乗り換えたのでしょう。扉にいちばん近いところにいたわけではない平田が、14階には最初に到達しているのです。おそらく乗り換えるときに、先頭(扉際)に位置することになったのです。平田は、2度目にとまったエレベーターから先頭(だったと思う)で飛び出しました。ここが13階でした。今度は階段を目指しました。
途中のエレベーターホール脇で、職人さんスタイルの男の人が突っ立ってるのに出会いました。ここがたぶん13階エレベーターホールでした(『ただいま占拠中』では、エレベーターを乗り換えた7階と書いてあります)。
人間というのは本当に不思議です。彼は騒ぎもせず、ただ黙って壁のほうを見つめていました。「そこにいるのだけど、いない」という存在のしかたなのでした。中路には彼がキョトンとこちらを見る目が印象に残ったといいます。その背後を駆け抜けて、階段を全速力で上り始めました。
それより、数分前、前田たち5人が飛び出した階は7階だったのでしょうか。正面にオフィスらしきものがあり、開けっ放したドアの向こうでデスクから離れて、窓際に張り付いた人々を見ています。ちょうどエレベーターに向かおうとした女性二人が、絶叫して顔を覆い腰をかがめて部屋に戻ったといいます。
「俺は何か悪いことをしてるのか? 世間ではこういうのを犯罪と呼ぶんだ」と、あられもないことを思ったそうです。赤いヘルメットに手に手にハンマーや鉄パイプの連中が闖入してくれば、人々はそうなります。すみません、やまにやまれぬ犯罪です! 
ここから、彼らも階段を駆け上ってくることになります。
13階から14階、いや中二階構造の15階まで、平田たちは駆け上ります。平田は行く方向に塞がる扉、ノブを回しながら身体をぶつけていました。いくつかそうやって当たっていったのですが、ドアはまったく動きませんでした。
ただ、ひとつの部屋の扉を除いて……。

★管制塔占拠闘争(9)
どうやら15階入り口だったらしい扉はビクともせず、平田とその後ろの数人は短い階段を下に向かってとって返します。さぁ、ここらへんからドタバタ・てんやわんやの連続になるのです。
14階に駆け下りて、またしても扉にむなしい突撃を繰り返すことになりました。
でも、そこになぜかふわりと扉が開いている暗く小さな部屋を発見したのでした。
何だか大きな機械が天井近くまでしつらえてありました。むろん、それが何の機械かさっぱりわかりません。
部屋の入り口で半身ほど中川が平田より先にいたと思います。
中川は「ここは俺がやる!」と言うが早いか、なけなしの火炎瓶を放り込みます。火炎瓶は沈黙したままでした。
平田は火炎瓶を使用することに躊躇しました。ここが管制室でないことははっきりしている。下からは間もなく機動隊が上がってくる。瓶を持っていたかったのです。
いっさいお構いなしの中川は、左後ろにいた平田の手にある火炎瓶を奪い取るようにしてまた投げつけました。こたびはめでたく炎が上がり、煙がこの小部屋に充満しました。
何がめでたいものやら、ここに満ちた黒煙は14階廊下に湧き出し、てんやわんやの突入部隊を噎せさせたのでした。
さて、おそらくそれよりほんの数分前、この部屋で何が起きていたのか。
一緒に13階まで上がってきた中路は大ハンマーを抱えていて、少し遅れ気味でした。彼もいくつかの開かないドアにハンマーを叩きつけていました。ノブだけがグニャリと曲がったそうです。
そして、この扉、「マイクロ通信室」と書いてある部屋の前に立ったのでした。中路にとっては、この文字は馴染みがありました。三年間もマイクロウェーブ関係の仕事をしていたのです。ただ、上を先に目指したために平田たちがすり抜けていったこの部屋だけは、鍵がかかっていませんでした。
中路は部屋に入り、機械にハンマーを振るいました。機械がへこんでいく手応えを感じながら何度も何度もハンマーを打ち付けたといいます。
この時、この機械が作動していたのかどうか、中路は確認していません。このことが後の裁判で「航空危険罪」の大きな争点になるなんて、考えつくわけがありません。
それに中路は、「動いているって知ってたってよ、壊しに来てんだもんよ。やるに決まってんじゃねえか」と、またあの不気味な笑い声を法廷で漏らすのでありました。
中川の奮闘ぶりも、平田の慮りも、すでに中路がオシャカにした機器を相手にしていたわけで、あまり意味のあるものではなかったのです。
5人がてんでにてんやわんやのさなか、下から激しい勢いで足音が上ってきました。平田は階段の手すりに身を乗り出して階段下を覗き込みます。
(ばかやろ! 瓶がねぇよ。この階段でパイプ使って肉弾戦かよ……)。

★管制塔占拠闘争(10)
凄まじい勢いの足音は、やがて3つの真紅のヘルメットの頭頂部となって現れました。一度反転すれば、すぐに平田たちのいるところへ辿り着くことになります。前田と児島(純二)、そして水野でした。
平田は正直ほっとしたのですが、それでもそれを追って錣つき濃紺ヘルがやってくるかもしれない。そうなれば、どこかで機動隊を止める位置を確保して構えなければなりません。
打ち合わせをしたわけではありませんが、この前田たちを上に上げるために、どうするのかを、先に14階でジタバタしていた連中は思ったのに違いないのです。ひょっとしたら、同じように、3人に遅れていた太田、藤田は後方を確認しながら上がってきていたのかもしれません。
前田を先頭に上がってきた3人は、やはり15階扉へまっすぐに向かいました。扉の前で前田が叫びます。
「純ちゃん! ここ! ここ!」。
前田の脇にさぶらふ大鎚おのこ、児島は腰だめに大ハンマーを振り回しました。ガンガン何度も何度も。前田は叫ぶ「開けろ! 開けんか。汚えぞ!」
どうやら人が扉の向こうに人がいるらしいのでした。それにしても「汚い」とは(笑)、同意するにはわが立場からしても難しい。まぁ、お互い必死の場面です。お許しくださいませ。
このとき、16階管制室からこの15階扉に向かって椅子やデスクが投げ下ろされていました。
14階先行組が身体をぶつけても開けられなかった扉は、2度目のアタック、児島の大ハンマーをしても開けられませんでした。
「上に行けないのなら、どこかを確保して占拠だ」と声が上がり始めます。このときには遅れていた太田、藤田も合流していたと思います。
そしてまた、14階をてんでにてんやわんや、行きつ戻りつ、占拠できる場を探したのでした。
敵中に飛び込む強襲は、混乱に乗じる時間での勝負だということがよく分かります。アタックしながら、また逃げなければならないのです。前に進む道を切り開き、後ろから追ってくる者との間を取って、アタックするということになります。
しかし、管制塔の中ではおよそそんな余裕を作る闘いは無理でした。
もし、前夜、排水溝の中で廃棄してきたガスカッターをここに持ち込んでいたら、それに因われて15階扉前に釘付けになりかねず、管制塔アタックは成功しなかったのでは思うことがあります。
何しろ小泉が死ぬような思いをしながら、田んぼの畦道を背負って持ち込んだ30キロもあるボンベの付いたガスパーナーのカッターでした。そいつで15階扉の鍵を焼き切って侵入しようというのは土台、無理な話でした。準備したある他の武器とともに、このバスバーナーは占拠プランのお笑いというところだったでしょう。
「占拠、占拠!」の合言葉でうろうろ、機動隊の影がちらつきはじめ、焦りが募ってきた所に、小泉が叫びます。
「ここから、出られるぞぉ!」。
前田が15階から駆け下りながら指示しました。
「出ろ、出ろ!」
小泉が長身を折って外に出ました。残りが一気にその方向に向かいました。小さな鉄の扉の出入り口でした。
「マルキ」の声に児島に外から火炎瓶が渡され、放りますが不発。それでも後退した機動隊が上を伺いつつ上がって来ようとするとこに、中川がペンキ入りのバケツをそのまま投げ落としました。
殿の山下が、半身を外に出したまま、火炎瓶を渡されて階段下に向かって放る。一気に炎が燃え上がりました。扉を締めて、間一髪、全員外。
ペンキ入りのバケツは、あの13階で出会った「そこにいるようで、いない」の職人さんの道具だったのだと思います。
そこは14階のベランダでした。屈んで鉄の扉を出れば左に大きなパラボラアンテナが置かれ、下を見れば管理棟の屋上、そして、目を放てば青空と空港周辺をみはらかすバルコニー。その舞台に、赤いヘルメットの10人が姿を現しました。
……みせばやな 児島のかいなと鎚だもん 振りにしふって 魂はかわらず

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★管制塔占拠闘争(11)
身を屈めて潜ってきた扉には、鉄パイプでつっかえ棒がされました。14階内部に通じるこの扉が機動隊によってガンガン叩かれるようになるのには、少し時間がたってからでした。最後に投げたペンキに火炎瓶の火が移って、数階下から階段を噴き上がったのが効いたのだと思います。その前から機動隊は瓶を警戒して、上を伺いながら慎重に間を詰めようとしていました。
プロ青の太田と戦旗の水野が手すりにそれぞれ「先鋒隊」と「戦旗」と赤地に白く染め抜かれた旗を垂らしました。反対同盟にとっては、怨嗟の的だったシンボル管制塔に、反対派の旗が翻ったのでした。
口惜しいことに、そこに反対同盟の三輪旗を飾ることができませんでした。第四インターのツチカマ旗もです。そのわけはもう少し先で語ることにします。
ベランダから横堀要塞方向を眺めていた数人が「来た、来たぞ!」とざわめきました。ベランダに身を乗り出して右方向をみると、数百の赤いヘルメットの隊列がゆっくりと空港に向かって来るのでした。
この部隊は、午前10時に菱田小学校跡地で決起集会を行い、辺田、中谷津、一鍬田とおよそ10キロも延々と迂回して、空港第8ゲートにまっすぐに入ってくる道のある松翁交差点に姿を現したのです。管制塔占拠組がその姿を認めたのはこの時でした。
彼らは横堀要塞と山林を隔てた東側、つまり管制塔との間に横堀要塞を挟む道を通ってきたことになります。
横堀要塞は、2月に続いて再び鉄塔を立ち上げて戦闘に入っていました。
横っ腹に「いまぞ起て、減反に苦しむ百姓も、大義を樹てる春はきた」という反対同盟の横断幕と、幾多の赤旗で身を飾っていました。この挑発を警備側は見過ごすことができなかったのです。
さて、3月26日当日、この開港阻止決戦のプランナー和多田は、岩山部落の台地に建てられた小さな小屋におりました。インター系の学生共闘が鉄塔決戦に備えて作った小屋のはずです。他にやはり管制塔占拠の計画を知っていた指導メンバーがそこには詰めていたようです。
午前11時、某ホテルから和多田に連絡が入ります。屋上から空港内を偵察していたメンバーが「警備部隊が第3ゲートの方に動いていった。空港内はガラ空きである」というのものでした。第3ゲートは、反対同盟主催の集会が予定されている三里塚第一公園からまっすぐの直近のゲートです。公園には少なくとも数千人規模の参加者が集うはず。警備がそちらに差し向けられたのでした。
実は、その前日に新聞記者から、警備方針で警察内部に対立があるという情報がもたらされていたそうです。それを聞いて「もしかしたら」と思った和多田の見込みがまんまと当たったのでした。警備は精強の千葉県警機動隊を横堀要塞に差し向け、おまけに第一公園の集会・デモ警備に残りの部隊を投入したのでした。
和多田たちは、第8ゲートの部隊指揮者とは無線連絡を取っていましたが、管制塔攻略部隊とはまったくやりとりができない状態でした。
前夜、排水溝侵入時に機動隊に発見されたことがあって、排水溝内で無線機をハンマーで潰して無線を遮断していました。
「ヒラタよ。あの日の闘争はもう信じられないような偶然の重なりばっかりで、とんでもなくうまくいったのだから、あんまりカッコよく書くんじゃないよ」の和多田の言に従って書きます。
かっこ悪いことはこれからたくさん出てきますが、ここでは、あの無線機は地下に入ると通じなかったという話だけ記しておきます。それでも、和多田たちは「予定通り、決行」と流し続け、前田は地下排水溝でそれを聞き取らずに、やりとりの傍受を警戒して無線機を潰していたのです。管制塔に持ち込まなかったガスカッターとともに、ドジがいい結果を生んでいるのでした。
14階ベランダで、空港へ向かってくる赤い部隊を発見して、前田が騒ぎます。
その部隊に向かって、みんなでシュピレヒコォール!
「管制塔を占拠したぞぉ、開港を阻止するぞぉ!」。
振り向くや、「俺たちは、ここにカンパニアに来たんじゃないぞ。管制室に行くぞ! 方法を探せ、管制室に行くんだ」
ああ、そしてまた、このベランダでうろうろばたばたが始まったのでした。

★管制塔占拠闘争(12)
管制塔占拠組が、空港に向かってゆっくりと進んでくる隊列に向かって、シュピレヒコールをしているとき、当然、隊列の方も翻る2つの旗とその後ろでパイプを振っている人影を発見しました。
手すりをガンガン殴りながら、手を振る管制塔組に、ゆっくりと進んでくる隊列も、やがて猛烈に手やパイプを振って応えるようになりました。
けれど、インターの指揮者は、こんな会話をしたといいます。
「おい、俺らの旗がねぇじゃねえか? プロ青と戦旗が占拠したのか?」
「いいや、間違いなくあそこにいるのの半数は我が派だよ。また、旗を忘れたんだろうよ。ありそうなことじゃねぇか。日韓の時のことを思い出してみろよ」
数年前の日韓閣僚会議粉砕闘争ってやつです。
外務省に突入したはいいが、そこに立てるはずだった南ベトナム解放戦線旗やら槌鎌の素敵な「大漁旗」を、お忘れになったのです。
こたびは、前夜、排水溝侵入口に入り損なって、田んぼの泥まみれになりながら、小屋へと逃げ帰ったメンバーの腹に、反対同盟旗とインターの旗は巻かれていたのでした。
8ゲート部隊はずいぶん予定の時刻(午後1時)から遅れていました。他にも戦旗派にご事情があったようです。準備していたブツを、前日にすっかり機動隊にもって行かれてしまったのだそうです。後に名を挙げる「水野・山下精神」も、木材を鉄ブツに変える力があるはずもありません。
8ゲートの部隊の動きについて、『1978・3・26 NARITA』(ゆい書房 2008年刊)で語っているのは部隊を率いたインターの大隊長・中隊長。現場ではなく無線で指示を与えていた青年共闘(インター系)の大門、そして、今も称えられる勇士、プロ青の大森さんです。
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佐々木●8ゲートの部隊のなかで、「横堀要塞前から突撃開始して午後1時に8ゲートを突破」ということを知っていたのは、(無線で本部から指揮する)大門と連絡をとっていた大館だけ。だから、大館は焦るわけだよ。
大森●僕たちも急げ、急げと言われたが、時間を教えてもらっていない。現闘だから道は知っているから、これだけの大部隊が、あの細い道を簡単に通れるはずがないこともわかっている。戦旗派の武器が到着しなかったのは、前日に山をガサ入れされて鉄パイプを持っていかれてしまったので、やむをえず角材に変えた。これが部隊と武器とのドッキングが遅れ、角材という10年前のスタイルで戦旗派が登場した理由です。俺たちは前日の警察無線でそのことを知って、戦旗派は明日、どうするのだろうと心配していた。
大門●要塞に籠城していた現闘責任者は、午後1時に3方向から戦闘が始まることを知っていて、チャンスがあれば、できるだけ機動隊を要塞に引きつける作戦行動をとることになっていたのだが、「1時になっても8ゲートに部隊が到着しない。計画変更ですか」という連絡も入ったりした。
佐々木●けっきょく、30分くらい遅れたね。横堀要塞周辺の出発地点に30分遅れで到着したとき、管制塔付近から煙が上がっている。
大森●精華学園でいったん止まって、あの細い道を出た丹波山のところで部隊が勢ぞろいした。私の任務は「突っこむときに先頭にいればいい」ということで、第1中隊の第1小隊長。京都にいるAとIが、前年の5・8から交互に指揮をとっていたのですが、Aと僕と、インターからは3~4人が出てきて、「今日は頑張ろう」と丹波山で握手をしたのは覚えています。そのときの意思一致は、「今日は突っこむ」。先鋒隊で言われたのは「今日は引かない」ということだけです。陽動作戦がちょっとでも頭に入っていれば、考え方は変わっていたと思います。
佐々木●陽動作戦といっても、進んでいけばどこかで機動隊の阻止線とぶつかる。そのときは引かない。とことんやりぬく。しかし、それで空港のなかまで行きつけるという想定は、少なくとも僕の頭のなかには全然なかった。
大森●途中にバリケードがいくつもあるのは知っていたから、空港のなかまでいけるとは思っていなかったよね。
佐々木●8ゲートに至る途中で、機動隊と大乱戦になるはずだった。
大館●それをやらないかぎり、管制塔部隊は上までいけない。中隊長クラスまでは、みんな、そう考えていたと思う。
高橋●想定では、8ゲートのはるか手前で白兵戦になるはずだった。ところが行けども行けども白兵戦にならない。どんどん進めてしまう(笑)。
大森●空港を作るための砂利の山が、あちこちにいっぱいあって、そのあいだを行進していった。途中に開けたところもあるが、その場所にはバリケードもなければ機動隊もいない。 (『1978・3・26 NARITA』)
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先に書いたように警備側は精鋭を横堀要塞に送り、警視庁他の部隊を第3ゲート方面に向けてしまっていました。あとは空港内に制服警察官と多くない機動隊が置かれているだけの状態になっていたのです。
その状態で管制塔を占拠され、空港内に置かれた警備本部が解体してしまってからは、もう警備どころじゃなくなっていたのです。どこにどう部隊を配置するのか、どう動かすのか、機動隊の側はやりようがなく大混乱に陥っていたのでした。
8ゲートからの大部隊がしずしずと進んでくるなか、管制塔14階ベランダでは、前田の「管制室に行くぞ、方法を探せ!」の声が響いていました。
一人のメンバーが、ベランダに設えてある大きな「お椀」を見上げたのでした。

(明日の後編に続く)
※ 管制塔占拠闘争を報じた第四インター機関紙「世界革命」号外(1978.3.27)をホームページにアップしました。
下記アドレスからご覧ください。


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