野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2018年05月

今年は激動年1968年から50年目となる。50年の節目ということで、さまざまなイベントや出版が企画されているが、もう一つ、三里塚(成田空港)管制塔占拠闘争から40年目の年でもある。
3月25日、御茶ノ水の連合会館で三里塚芝山連合空港反対同盟(柳川秀夫代表世話人) と元管制塔被告団主催にとる「三里塚管制塔占拠闘争40年 新たな世直しを!3・25集会」が開催されたので行ってきた。
今回はこの集会の概要を掲載する。

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(パンフ写真)
<プログラム>
1)第1部  映画「三里塚のイカロス」上映
 終了後発言 代島監督
2)第2部  集会  
 主催者あいさつ  三里塚反対同盟 柳川秀夫さん 
    、     管制塔被告団 平田誠剛さん
発言 清井礼司 弁護士
発言 平野嫡識さん
メッセージ 加瀬勉さん(ビデオ)
映像 2017木の根幻野祭
発言 大森武徳さん(ビデオ)
石井紀子さんメッセージ(代読)
現地報告(資料説明)山崎宏さん
発言 鎌田慧さん
発言 反空連 渡濃充春さん
   福島 中路さん
      羽田
出席被告紹介 和多田、前田、平田、中路、中川、高倉、太田、児島、藤田、石山、山下、若林、佐藤さん              `
3)懇親会 

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<チラシ掲載のメッセージ>
【空港突入40年の集いにむけて】
三里塚芝山連合空港反対同盟代表世話人 柳川秀夫

世直しの旗が翻ったのは駒井野の強制代執行であった。まさに戦争状態でむかえた代執行。世直しの闘いを宣言することで百姓も誇りを持って闘うことができた。
百姓は畑に種をまくと、訪れる豊かな稔りを迎えるために手入れを惜しまず汗を流す。山の木の手入れ等、何十年も次の世代の為続ける。
闘いも途中で決してあきらめず根気よく闘い続けてきた。作物を育てるのと似たようなものだ。
新しい年を迎える度、又今年も頑張れば来年は勝てると年寄りが話し会っていたのを今も覚えている。作物も今年だめでも来年があるように。
しかし、百姓では出来ないこともあった。今日ではボランティアとかになってしまったが、多くの人達の助けが求められた強行開港阻止という難題。それは果断に生命、人生を代価に3月26日に行われた。
重くて背負いきれない程の快挙であり、大義の春であった,
40年目に何を思えば良いのか,三里塚では世直しはいくさと密接でもあったが。時が移り世の中の在り方を見直すことへと重みが増している。
今あの日に帰って夢は色褪せてないか。さらに輝いているか確かめるのも大切なのかも。世直しの新たな旗が翻るために。 (2017.11.7)

「3・26」の闘いを継承し、新たな世直しへ
元管制塔被告団 中川憲一

1978年3月、時の福田赳夫自民党政権は成田開港を国家の威信をかけた最重要課題と位置づけ、力ずくで3・30開港を図ってきました。1966年閣議決定から、機動隊の暴力を前面に出した国家の土地取り上げと闘ってきた三里塚の農民と支援は、この非道に真っ向から立ち向かいました。
1年を超えた開港阻止決戦の正念場となった3月26日。「空港包囲・突入・占拠」を掲げて菱田小跡に結集した三里塚闘争に連帯する会、労調委などの仲間は、横堀要塞の闘いと連動して空港へ突入。
前日25日夜から下水溝に進入していた私たち管制塔部隊は、26日午後1時、9ゲート・8ゲートからの空港突入に呼応して、マンホールから飛び出して管制塔に駆け上がり、管制室を占拠しました。
時の政権の道理を無視した3・30開港を人民のパワーが阻止したのです。この闘いは、60年代の反戦・全共闘の闘いから70年代連赤・内ゲバという後退とは違う闘いのあり方を示しました。管制塔の闘いは海外の運動にもインパクトを与えたと聞いています。
その後も2005年には皆さんの協力による一億円カンパ運動によって、管制塔被告は政府による賠償強制執行をはね返すことができました。
いま法も道理も無視した安倍政治が憲法改悪を目指し、沖縄では基地建設反対の闘いが続いています。成田空港でも住民を無視した夜間発着時間拡大、第三滑走路の計画が出されています。
このような中で迎える管制塔占拠闘争40年。40年集会を開催したいと思います。
「3・26」40年にあたり、民衆の闘いの歴史を貶め消そうとする体制に対抗して「3・26」を語り継ぐととともに、40年前の闘いをもう一度見直し、その原点を再発見・再定立していきたい。この集会が旧交を温めると共に、78年を知らない人々と共に、その今日的意味を考えるきっかけになれば幸いです。
全国の皆さんの集会への参加と賛同を呼びかけます。

【日本人民の希望と未来の赤旗】
三里塚大地共有委員会代表 加瀬勉

開港阻止決戦・空港包囲・突入・占拠。三里塚空港にディエンビエンフーの戦いを。空港を包囲し突入し、亀井・三井警備局長率いる警視庁精鋭部隊を粉砕し、管制塔に突入占拠し赤旗を翻した。開港を阻止し、ディエンビエンフーの戦いを三里塚闘争で実現させたのである。三里塚で「警視庁敗れたり」と秦野警視総監に言わしめたのである。
管制塔戦士たちが打ち振る赤旗の血潮の燃え滾る鮮やかさは我々の前途を指し示すものであったが、また権力の容赦ない弾圧でもあった。新山君が原君が犠牲になって斃れていった。囚われた管制塔戦士達は冷たい鉄格子、獄中の深い闇、家族の苦難の生活。10年余の歳月。三里塚闘争のさらなる前進と勝利を、日本の夜明けを信じて戦い抜いた。俺たちは万難を排して獄中にいる管制塔戦士に連帯したのか。したと言い切れるのか。問い続ける40年であった。
その問いに一人一人が答える時代が到来してきた。戦争政策遂行、改憲内閣、ファシストの安倍内閣の4度の成立、「三里塚空港機能拡大・夜間飛行制限緩和・空港用地700ha拡大・新滑走路の建設・50万回増便」の10年計画の新たなる攻撃がかかってきた。戦いの思想を魂を管制塔戦士の行動を規範に共に競いあい磨きあってゆこうではないか。団結して前へ。

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3月25日の集会には約250名の参加があり、会場は満席(私は立ち見)であった。
集会では多くの方から発言があったが、そのうち5名の方の発言概要を掲載する。

第一部
映画「三里塚のイカロス」上映
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代島監督 挨拶
「いろんな方々、それからここに参加していらっしゃる皆さんのご協力を得て完成させたような作品です。この前に『三里塚に生きる』という作品を作っているんですけれども、それは闘争の当事者、農民が主人公の映画でした。でも、支援の人たちが三里塚にどう関わったのかということは、とても描きずらいテーマでしたし、『三里塚に生きる』を一緒に撮った大津幸四郎にも『支援にだけは触らない方がいい』と言われていたんですが、僕自身が皆さんより10歳くらい年下の1958年生まれなんですけれども、皆さんの世代の、あの時代の闘争の姿を思春期に見て、憧れていたんですね。だから、ずっとあの問題って何だろうという思いがありました。あと、あの時代が何で挫折してしまったんだろうという思いも一緒に持つようになりました。

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三里塚であの時代を生き、理想に燃えて支援に入った皆さんの映画を作りたいと思ってこの映画を作ったんですけれども、ただ、三里塚もそうですし、例えば、今、沖縄や反原発もそうですが、組織で動いているということがとてもいろんな要素が含まれていて、ここにいらっしゃる方が一人ひとり、ご自分が三里塚でどういう風にしてきたかということを自分に問うた時に、やっぱり、一人ひとりの中にそれぞれの答が生まれてくると思うんです。とてもいろんな要素が含まれた闘争だったと思うんです。ただ、この『三里塚のイカロス』に関していうと、最後にもう一度羽田闘争の写真が出てくるんですけれども、もう一度皆さんに、あの時代を生きた自分を思い出し、問うてもらいたい。これからどう生きていくかを含めて、何か考える材料になればいい。それから、今の10代20代の若い人たちはあの時代を全く知らないんですが、三里塚について理解をしていって欲しい、自分たちがどう生きるかということを大事にして欲しいと思って、この映画を公開しています。
この映画を昨年の9月に公開して、平田さんがフェスブックに『三里塚のイカルスを熱く語る会』というスレッドを開いて友人たちが投稿しています。それとともに、平田さんが『開港阻止決戦って何だったのよドキュメント』をフェイスブックで連載したんですが、それはそれで面白いエピソードが満載なんですが、このドキュメントをどう締めくくるのかと思っていたら、家族、お母さんから獄中に届いた手紙の一節を書いていました。それがすごく僕の心を打ったので、ちょっとご紹介して終わりたいと思います。
『池の柳が芽吹いた。今年は寒かったのに春はまたやってきた。
その足にもの言わせて走れと言って聞かせたのに、逃げる気のないおまえのこと。
かくなるうえは、立ったり、しゃがんだり、足踏みしたりして来たる日に備えよ。』
平田さんは福島の支援をしていますが、もしかしたら来る日に備えて皆さんも、立ったり、しゃがんだり、足踏みしたり、いろんな人生を送ってきたと思うんです。
この40周年の集会は、来る日に備え、考え、どう行動するかというきっかけになるといいなと思っています。
本日はありがとうございました。(拍手)」

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第二部
主催者挨拶

三里塚反対同盟 柳川秀夫
「今日の40周年集会は、反対闘争に関わる戦争のための集会ではない。今日は警察関係はいないと思いますが。40年前もとてもいい日でした。ここにお集まりの皆さんも、3・26の当日に力を合わせておられた方が大半ではないかと思います。
大勢の中で話すことがめったになくて、何を話していいのかわからないんだけれども、今、三里塚の現状から言いますと、新聞などでご存知かもしれませんが、第三滑走路をもう1本造るということで、相変わらず空港を巨大化しようとやっております。昔から住んでいるところがズタズタにされる。反対闘争が始まってから52年になります。当時は村で総決起して反対運動を闘い始めたんですが、今の状況というのはなかなかそうはならない。
皆で集まって力を合わせてというのは、今は出来ないような社会構造になっているわけです。その辺が昔と違うところです。だから、反対の決起集会も全然行われない。私の部落は滑走路に直接かかるところですが、昔は反対運動を部落ぐるみでやってきたところでもあるわけですけれども、誰一人反対という声が上がらない。それは、私の住んでいる部落にも関わることですが、日本全国の農村は昔の共同体というものはもう存在しないということです。個人で生きていくのに不自由しない。こういう社会状況の中で、成田の滑走路が巨大化するという時に、自分を含めた営々と住んできた地域も、すでに一番大事なものではなくて、それをステップにして次の人生を考えようという感じになっている。
三里塚闘争というのは『腹八分目の社会』『世直し』ということを代執行の中で必死になってたどり着くわけですけれども、それは『持続できる社会』ということ、それがやっぱり三里塚の大きな課題だと思っています。

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反対同盟と名乗ってはいますけれども、実際のところ大半の人は去ってしまって、私と数人がいるだけの関係です。三里塚の課題というのは、魂の問題だと思っています、いろんな人が何十年もかかって、いろんな人の思いが結集して、その中で出された結論だと思っています。持続できる社会にするためには、皆が腹いっぱい食べるのではなくて、腹八分目の考え方というのが備わっていかないとだめだと思います。それが今の大きな課題で、滑走路問題があるんだけれども、もう一度そういうものはだめなんだというには、もう1回、ズタズタにされた社会の中の考え方というものを作り直さないと、そういう反対だという考えも出てこない。残念ながらそんな状況になっています。三里塚に限ったことではなくて社会全体の状況ではないかとか思っています。
なかなか物事は進まないですけれど、私も70歳になりましたが、ここにお集まりの皆さんもそれなりのご年配で、最後の頑張りとして、自分が悔いのない生き方をしていく、例えば40年前の今日、明日の日に思った考えや、その生き方というのはいろいろ培われて養われて、皆さんここにお集まりだと私は思っています。そういう意味で、今日は感謝しています。どうもありがとうございました。」

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管制塔被告団 平田誠剛
「管制塔の占拠メンバーの一人だった平田です。管制塔元被告団を代表してご挨拶をするということらしいんですが、本当にいいかげんで、いつの間にか私がここで挨拶をすることにさせられてしまった。管制塔グループらしいです。
今朝起きて、見事に晴れ上がった青い空を見ました。40年前の3・26の暗がりから私たちが青い空に向かって飛び出すところから、私たちの空港の中での闘いが始まりました。
いろんなことを思い出しながら、面白かったことや辛かったことや、あまり管制塔被告団というのは、白い帽子を被って目を吊り上げる人たちとちょっと違って、世の中に悲劇はないと思ているやつばっかりで、全部お笑いだぜ、という世界になってしまっていっちゃたんですね。確かにあの時の闘いで、9ゲートのN君は命を失うことになりましたし、管制塔に一緒に行ったH君も、4年後に拘禁症で、それが保釈中に激化する形で自ら命を絶つという辛い経験もしました。それでもやぱり俺たちは、面白がって生きようぜという風に思って生きてきたんだと思います。
私たちの頃は、鉄パイプを持って行くぞ、と決意して行く。これよりは、今の時代、よく考えたら『そだね~』と言いながらやっていた方が平和でいいと思う。確かに私たちの頃、40年前には決意をしてやらなければいけない闘争のやり方だっただろうし、私もそれが正しいと思うんです。1ミリもそのことについて譲るつもりはない。じゃあ、今、それを同じことをやるのか?そうはいかないと思います。映画の中にも出てきましたけれども、先人のいろんな苦労を受け取りながら、どうやってそれを今に生かし、今の中で未来にそれをつなげていくか、ということを、やっぱり考えなければいけないんだろうなと思います。

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(映画で駒井野の団結小屋を作る時に)吉田義朗が、花嫁を歌いながらあの道を帰ってきたみたいなこと言ってましたよね。あの道は私たちが空港に忍び行った排水口の一部です。つまり、反対同盟の人たちというのは、外側から管制塔に至るあの排水口の存在は、ある意味常識です。直前になって、それを使おうという計画を作らなければ、たぶん、空港の中の地下構としてあっただけだと思います。
管制塔のカンパ1億円を皆さんにご協力いただきました。ありがとうございました。(拍手)
感謝するだけでは平田の芸風ではないです。金があるなら福島で動いているんだから出せよ、と言ってもなかなか出てきません。でも、私が福島の避難者のところで活動する時に、その拠点になっているのは、1978年3月26日に一緒にいた人たちが、平田が言うんだったらしょうがねえか、と場所を提供してくれたり、いろいろなものを持ってきてくれたりして支えてくれています。それから、私が通っている仮設住宅のおばちゃんたちが、熊本に行きたい、熊本で地震で被災した人たちの仮設住宅を訪ねたい、仮設住宅でどうやって暮らしていくのか、お話を聞きながら話をしてこようじゃないか、という話になりました。お金を集めるときに、なんだかんだと言ってもドンとお金を出してくれる。熊本では、3・26を一緒に闘った人たちが、向こうの受け入れ態勢を作ってくれて、きちんとやってくれました。警察官や役人になる公務員を育てるような専門学校に行って、頑張れよ、いい公務員になれよ、いったん事が起こった時に、どれほど公務員の仕事が辛くて、だけど大事なのかという話をしました。それから被災者の人たちは、体験した自分たちの話を、あなたたちちゃんとやってね、とその困難さと大変さとやるべき仕事の大事さについて語ってきました。それから、仮設住宅に行けば、熊本の人たちがこんなに笑ったり泣いたりできたと言いました。自分の心をきちんと話せない、でも、福島から来た仮設住宅に住んでいる人には自分のことを全部言ってもいいんだ、と思ったんですね。感動的な場面でした。それを俺たちができるか?活動家や支援者にそれができるか?できません。でも、それが出来たのは普通の人たちです。普通の人たちが、そういう辛いところに行って、きちんと相手と心を通じることができる。たぶん、私たちは、そういうところをサポートすること、後ろから黙ってサポートすることが、たぶん私たちに一番求められていることなんだろうなと思って帰ってきました。普通の人たちが、こんなにすごい働きをするような、そういう風に思うようになるんだ、それは熊本の人たちだけじゃなくて、福島から行った人たちがそうなるということについて感動して帰ってきました。とてもい経験でした。
さっき代島さんが言ってくれましたけれど、今、私たちは何もできる力がないと思っているかもしれない。だけど我慢が必要です。我慢して我慢して、目の前にあることに、人々を信じて進むということが、この先、とても大事だろうと私は思っています。
私にとっては、ここがフィールドです。福島のいわきの仮設住宅がフィールドです。皆さん方にも、今、つながらないかもしれないけれど、私たちをつなぐフィールドが、きっとあると思います。我慢しながらそこを進みましょう。心はつながっています。あそこの大熊町仮設住宅の一番しんどいところを支えている人は、実は、あの吉田義朗が(トンネル掘りの)落盤事故で生き埋めになった時に、その後ろですぐに助けていた人です。つまり、お仲間というのは、見えていないけれども、きちんといます。
私も少しずつ、足踏みをする状態になるかもしれないけれど、進みたいと思います。皆さん、一緒に確実に我慢しながら前に行きましょう。」

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現地報告  山崎宏
「こんにちは。山崎です。私は支援として約30年、横堀に住んでいます。いわゆる団体の三里塚現闘という形で存在しているわけです。現地と、全国の三里塚に関心を持たれる、心を寄せられている人たちとのいろんなつなぎ役としてやっています。
現地報告ということですが、主要な問題点については、プログラムに掲載していますので、あとで読んでください。(注参照):
私が毎回、集会で言うことは、三里塚闘争は決して過去にあった闘いではない、現在進行形の闘いであるということなんです。三里塚の問題というのは、キーワードとして挙げるならば『国策である』ということです。反原発建設の闘い、辺野古の新基地建設に対する沖縄の人たちの闘い、これは明らかに国策に対する闘いであり、であるが故に国家権力は全体重をかけて、この闘争をつぶし、自分たちのやりたいことをやってくる、そういう関係性にあると思います。国策であるが故に、現在まで続いている闘いが永続的に続くものであるだろうと思います。例えば、原発建設についても、国家権力機動隊を使った直接的な暴力、そして膨大な金を地元にばらまいてこれをやっていく。これはまさに沖縄の辺野古でも見られるし、現在の三里塚においても進められていることです。

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第三滑走路については、4年くらい前に国土交通省の方から計画が出されまして、第三滑走路を2030年までに建設する、東京オリンピック・パラリンンピックに向けて旅客の増大が予想されるので、そのために飛行時間を延長するという計画が出されてきました。これに対して、地元の住民たち、とりわけ騒音直下の住民の人たちは大変反発しまして、例えば成田市の川上地区においては、そんなことは絶対に認められないという住民の強い意志が表明されました。そして、横芝光町という空港圏の町がありますが、ここは第三滑走路が建設されると、今でさえ第二滑走路によって騒音被害を受けていますが、その騒音が更に拡大する。横芝光町は、第三滑走路が出来れば、第二滑走路、第三滑走路の騒音地帯に置かれてしまい、町の約4割がその騒音被害を受けるようになる。横芝の自治体町長も、地元住民の力に押されて、合意することをずっと否定し続けてきました。しかしながら、この3月中旬、いよいよ他の市町村の早く作れという圧力に抗することができなくて、住民の騒音被害による反対を切り捨てて、ついに合意してしまいました。それによって、周辺市町が全て第三滑走路計画に賛成しているという事態に今なっています。
朝日新聞の記事の社説の中で、『強まる同調圧力に抵抗できない』と的確に問題点を指摘しているわけですけれども、全体の周辺市町が合意しない限りこの計画は前に進められない、だから横芝に対しても無言の圧力をかけて屈服させて、関係市町村全体が第三滑走路建設に合意していくという構造ができあがってしまいました。これは年度がわりに間に合わせるために、住民の騒音に対する危機意識を切り捨てても、横芝光町の町長が同意せざるを得ないというところに追い込まれていった結果であります。苦渋の選択ということで、本当に住民の受ける被害については切り捨てても、膨大な地域振興策と大量の金をばらまいてやっていくことを認めてしまっているわけです。
この第三滑走路問題については、まだまだ私たちの力が足りないし、地域の行動そのものが、現地の皆さんが話されているように、社会的構造が変化していく中で、なかなか反対の運動を作り上げていくことができないという厳しい状況に入っています。これについても、私たちは更なる闘いを支援する、推進していく義務があると思います。私たちは『三里塚空港に反対する連絡会』という首都圏を中心にして仲間たちが、毎年2回、東峰現地行動というものを行っています。このように、今、私たちの仲間は、ごく少数で細々とした運動を取り組んでいるわけです。逆に少数であっても、そういった意思を表明し続けること自体が非常に大事なことだと思っています。

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それから、皆さんに知っていただきたいことは、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて飛行時間の延長を打ち出しているわけですけれども、2002年サッカーのワールドカップが行われた時も、それを口実に平行滑走路を造るということで、東峰地区の農地を分断し、そして住宅を分断して、部落を用地内に組み込んで、平行滑走路を開業しました。このように常にスポーツイベントが、自分たちの野望を遂げるための大きな要因として扱われてきたということがあると思います。
最後に、映画の中でもパレスチナとの連帯ということがいわれていましたが、やはり現在も、三里塚空港反対の闘いは、パレスチナ連帯という言葉に象徴されるような、反帝国主義、国際連帯の代名詞でもあると思います。私たちもこれから、この国際連帯ということでも、三里塚闘争を闘っていきたいと思っています。」

(注:プログラム)
<成田第3滑走路建設一飛行時間延長反対の闘いを!>

 国土交通省一成田国際空港会社は資本の利潤の追及のために空港機能の拡大をはかろうとしている。2030年度までの第3滑走路の建設、2020年東京五輪・パラリンピックでの旅客の増大をロ実にした夜間飛行制限時間の緩和(現行午後11時から午前6時までの7時間を午前1時から5時までの4時間)を決め、さらに平行(B)滑走路の北側延伸計画まで提示した。
 国・千葉県・関係9自治体・空港会社からなる四者協議会はこの計画を推進するために住民説明会を各地区で行ってきた。移転対象となる佳民、新たに騒音地域となる住民、騒音がさらに増大する騒音地域住民からは厳しい批判の声が上がり、断固反対が次々と表明された。この結果、空港会社は飛行制限を現行より1時間短縮するという見直し案を提示し住民に説明した。しかし、住民はこれにも納得せず、なし崩し的にさらに短縮するのではないかと不信感を募らせている。
 しかし、関係自治体は住民の反対を無視し、交付金の増額・地域振興策と引き換えに空港会社の見直し案を受け入れ「早急に地域振興策を」と、前のめりになっている。住民の生活を破懐してでも一部の利害関係者の利益を目指す利権追及の構図そのものである
<裁判所を使った強権的土地取り上げ>
 空港会社(当時空港公団)は「成田シンポジウムー円卓会議」の結果、「強制的な手段によらず話し合いによる解決をはかる」と確約し、事業認定を取り下げ、強制代執行による土地の取り上げは不可能となった。
 しかし空港会社はそれ以降、民事裁判に提訴して裁判所の強制力で農民、地権者から土地を取り上げるという手段を取ってきた。それによって用地内の1坪共有地を強奪し、農民の耕作地を取り上げようとしている。
 横堀地区にある反対同盟現闘本部も裁判で土地の所有権を奪ったうえで、建物の撤去、土地の明け渡しを求める訴訟を起こした。一審千葉地裁は反対同盟側の証人調べの申請を却下し、たった4回の書面審理のみで空港会社の主張を全面的に認める判決を下した。控訴審の東京地裁は第1回の公判で突然結審を言い渡し、控訴棄却の決定を行った。
 上告した最高裁は昨年7月上告棄却の決定を下し、判決が確定した。それを受けて空港会社は千葉地裁八日市場支部に撤去の申請を行い、5月31日深夜午前0時から裁判所による強制撤去が行われた。このような裁判所を使った土地の取り上げは強制代執行と何ら変わらない公権力の行使による土地強奪である。
<強権と金の力で空港は建設されてきた>
 成田空港は最初から地元住民の意志を無視して作られてきた。政府と財界、千葉県の一方的な思惑によって三里塚の地に決定され、住民にとっては全く寝耳に水の出来事だった。政府・空港公団は農民の生活の糧である農地を奪い、追い出そうとあらゆる手段を尽くして三里塚農民に襲い掛かった。国家権力-機動隊の暴力を使って体を張って抵抗する農民を弾圧し、また札束を積んで農民を懐柔、分断し空港を建設していった。現在の政府一空港会社のやり方は形こそ違っても本質的には何も変わっていない。あたかも住民の意見を聞くというポーズを取りながら、政府が決めたことは何が何でも進めていくという姿勢だ。
<空港反対の闘いは今も続く>
 現在、空港建設予定地内には成田市の束峰、天神峰、木の根地区に農民・住民が生活し、生産活動を行っている。また芝山町の横堀地区にも反対派の土地があり、政府・空港会社の横暴と闘っている。住民が闘い続ける限り、そして三里塚に心を寄せる労働者・市民が連帯して闘う限り政府・空港会社の思い通りには行かない。
<成田空港の軍事使用を許さない>
 新滑走路の建設は単に経済的な利潤追求という要因に留まらない。空港こそまさに兵粘基地、出撃拠点として戦争遂行のための不可欠の軍事的インフラフである。安倍政権の進める戦争国家体制を阻止する闘いと共に第3滑走路建設に反対していかなければならない。

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発言  鎌田 慧
「今、映画を初めて拝見したんですけれど、中川さんがお連れ合いに手紙を書いたくだりとか、ホロリとさせられました。管制塔占拠がどうして成功したのかということが一つありまして、それとどうこれからの運動をつなげていくのかというのが、これからのテーマだと思います。映画の最後の方で小川直克さんの屋根スレスレに飛行機が飛んでいるシーンがありまして、これも胸打たれる光景でして、あそこの2階に泊めてもらって、飛行機が来るとどれだけの騒音になるか体験したことがあるんですけれども、相変わらず今のああいう形で騒音直下にさらされて暮らしている人がいるという、この空港の残酷さというのが改めて感じられました。そして、最近行っていないなという犯罪的な意識になったりしました。そういう意味で、みなさんもいろんな思いで映画をご覧になったと思います。
私は『廃港要求宣言の会』という団体で、『連帯をする会』と一緒に全国的に宣伝をしていくという形で、反対同盟の新聞を作ったり、全国集会をやったり、パンフレットを作ったりしていましたが、やはり三里塚闘争というのは戸村一作さんのことをやっぱり思い出すわけです。
この映画で触れられていなかったのは、労農合宿所のことが出てこなかったんですが、今日、ここに集まっている人たちは、現闘にいた人たち、あるいはその周辺で頑張っていた人たち、あるいは全国的にいろんな地域で頑張って三里塚に結集してきた人たち、そういう人たちが同じ思いで集まっていると思います。『連帯する会』は上坂さんというう人が、本当に歯をくいしばって頑張っていまして、彼は大阪に住んでいたけれど、ずっと東京で暮らして運動の全国化に頑張っていて、やっぱち忘れられていない人だったと思います。『廃港宣言の会』は前田俊彦さんが労農合宿所のそばに家を作りまして、住んでいました。九州に帰って亡くなられましたが、そういう人の死がありますね。
それから闘争では三ノ宮さんが自殺し、新山さんとか原さんとか、そういう方々の死がありまして、東山薫の虐殺というのもあったと思います。闘争があったときに催涙弾が飛んできているわけですけれども、プラスチック製の万年筆よりもう少し大きい銃弾ですね、硬質のプラスチックの弾が飛んで落ちていたのを見ています。それに当たって怪我した人は聞いていませんけれど、そういう形で大弾圧だったし、それに対する闘争でもあったというのは、やはり歴史的にキチンとしておきたいと思います。
そして強調したいのは、管制塔占拠というのは突出した闘争のように思われていますけれど、そうじゃなくて、やっぱりそれを管制塔の戦士たちに実行させた広い運動があったということです。それは岩山鉄塔の前からずっと準備されており、岩山鉄塔戦があり、横堀要塞があって、そして大鉄塔があって、そして管制塔という闘争の積み重ねという、これは農民たちが実際に要塞に入って、彼らが逮捕されて投獄されていったんですね。ごく普通の農民が逮捕されて刑務所に入っていたという、そういう風なことがあったわけで、これは歴史的な闘争で、それは秩父困民党の闘争でもあったし、足尾銅山の谷中村からの数度にわたる『押し出し』で、東京に向けた人民の『押し出し』が弾圧されて逮捕されるという、そういうこともあったわけだし、近くは砂川闘争もありました。そのようないろんな闘争の思いが、ぞれぞれの人の胸に刻まれて、ああいう風な大闘争が成功した。しかし、私は『第二第三の管制塔を』という言い方はあまりしない。無理なんです、それは。管制塔を占拠するというのは、あの当時の闘争で、盛り上がった形で決起し、成功できたわけで、それをいつも幻のように追い詰めて、あれができないから駄目だと言っているのでは運動にならないわけで、管制塔占拠しなくても勝てるような運動をどのようにして作っていくのか、そういう風な作り方が今問われていると思います。
それは、例えば沖縄の辺野古闘争もカヌーでピケを張ったり、ピケで車を止めたり、運搬するトラックやブルドーザーを止めるという形でやっているわけですけれど、それは素手で闘う非暴力闘争ですけれども、管制塔は非暴力闘争の一つの頂点を実行した、実践した。しかし、それに続く闘争という形ではなくて、それを更に上回る闘争、あれだけの知恵と組織と準備と熱意と勇気とを、他の現場でどういう風にして私たちが日常的に作っていけるのか、そういうことが問われていると思います。

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空港建設は国家的事業ですけれども、何とこの国家はひどい国家でしょうか。安倍首相の昭恵夫人が名誉会長になっていた、たかだか学校の建設にために国有地を8億円も安くするという、安倍と安倍の妻のやったことじゃないですか。それを官僚に責任を取らせて逃げようとしている。安倍が首相でなければ、安倍昭恵は8億円を安くする学校の名誉会長に納まるわけがないので、彼女が名誉会長だから8億円を引いたというのは歴然としているわけで、こういう腐敗した堕落した国家のために、私たちはどうして死ななければいけないのかという根本的な問題と、今、三里塚の人たちの思いを、今、私たちはどう胸に刻んで、原発反対闘争とか沖縄の闘争とか、さまざまな問題、年金も悪くなり、非正規労働者が希望もなく働いて、倒れて死ぬまで働かなければいけないような社会にしている社会に対して、私たちはどのように抵抗し攻撃していくのか、それは三里塚でいろんな運動を広げて、そこからいろんな知恵を出したように、いろんな人たちが話し合って運動を広げていく、そういうことが今問われている、それが今日の集会だと思います。
三里塚闘争は66年の空港計画から始まって、戸村一作さんは闘って闘い抜いて亡くなった、反対同盟の委員長の頭を警棒でかち割るような野蛮な警察、今、沖縄の山城さん、運動の代表をみせしめ逮捕して5ケ月も拘置する。こういう野蛮なことが許されていて、それに対する全国的な抗議がなかなかできない。そういう中心人物を頂上作戦でやっつける。これは戸村一作さんの時はやられているわけです。そいう風にとても狂暴な国家で、ますます腐敗して堕落してきている。なおかつ私たちは何もできていない。非常に残念に思っています。
三里塚闘争の意義というのは、非暴力闘争で成功したことだけではなく、やっぱり持続可能な社会を闘争の中で生み出してきたということです。三里塚の農民、百姓といっていますが、百姓が闘いを宣言した百姓宣言、百姓のプライドというのを打ち出したわけだし、それから有機農業というのもいち早く始めた。それは大地とか自然とか有機とか農業とか、そういうキーワードをいち早く出していた闘争だったということも強調しておきたいと思います。

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あの3・26の日に、菱田小学校に結集した時の、あの決意がみなぎった集会に参加された方がいらっしゃると思いますが、会場に集まって、そこから出発していった日に、私も立ち会うことができて、とてもうれしく思っています。そういう意味で、三里塚闘争あるいは管制塔占拠を単なる追憶で終わらせてはいけない。私たちは三里塚闘争で死んだ人たちの魂を引き受けて、それを追憶するのではなくて、今、まだこういう生活をしていて頑張り足りていない、頑張りきっていないという自省を鏡として、心の中を映す鏡として頑張っていかなければいけないと思っています。
あれから40年経ったわけですけれども、とにかく管制塔占拠を心の中で想起しながら、次の運動をどういう風に作っていくのか、そのバネにしていく、知恵と源泉にしていく、闘争の源にしていくという気持ちを広げていくという、単に思い出に浸らない、今の安倍政権、公文書偽造ということが出てもまだ内閣が倒れないという、こういう瞬間に立ち会って、非常に残念、悔しく思っています。私たちはとにかく三里塚闘争を精一杯掲げて闘ってきましたけれども、まだまだ頑張るべきだったことがあります。今、青行隊から出てくる人は柳川さん一人しかいないという状況になっていますし、それは40年経っても天神峰とかいろんなところにいた人たちの苦しい生活があるし、それは原発の避難者、自主避難といわれますが勝手に逃げたわけじゃない、放射能に追われて故郷を去らざるを得なかった人たち、そういう人たちと、三里塚から追い出された人たちは、やっぱりつながっていると思うんです。そういうことを含めて、私たちは今日の集会を胸に落として、そして追憶ではなくて、更に新しい運動をきちんと受け止めていく、僕はもう寿命が短くて数年しかないわけですけれども、もう少しだけはやれるかなと思っています。皆さん、もう少し頑張っていきましょう。」

※ 管制塔占拠闘争を報じた第四インター機関紙「世界革命」517号(1978.4.3)を「新左翼党派機関紙」にアップしました。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html

(終)

【お知らせ1】
●10・8山﨑博昭プロジェクト東京集会
シンポジウムと徹底討論「死者への追悼と社会変革」

2018年6月2日(土)
午後2時~5時
全水道会館(JR水道橋駅徒歩5分)
参加費 1,500円

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【お知らせ2】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2-5-5
参加費4千円

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【お知らせ3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月8日(金)に更新予定です。
 

1967年10月8日の「第一次羽田闘争」から50年が過ぎた。昨年の10月8日には10・9山﨑博昭プロジェクト主催の50周年記念集会も開かれた。50年が経つと「歴史」になるといわれるが、そういう意味では「10・8羽田闘争」も「歴史」となったのかもしれない。
私が明治大学に入学したのは1969年4月。その頃の集会では「10・8が切り開いた組織された暴力とプロレタリア国際主義の旗のもと・・ ・」という言葉が必ずアジテーションの冒頭に出てきた。10・8羽田闘争を知らない私のような学生には「ジュッパチ?何のこと?」という感じだったが、先輩たちからゲバ棒が初めて登場した輝かしい記念すべき日として教えられてきた。
 この「10・8羽田闘争」に関連して、当時の活動家による回想などで、前夜の10月7日に、法政大学で中核派による社青同解放派へのリンチ事件があったことが知られるようになってきた。昨年発行された「情況」2017秋号にも「10・8闘争とその功罪」というタイトルで高橋孝吉氏(当時:三派全学連書記長)のインタビュー記事が掲載されている。
 佐藤首相(当時)の南ベトナム訪問に対し、三派全学連が一致団結して阻止闘争を組むべき日の前日に、なぜこのような「事件」が起きたのか?この「事件」の背景については、今まで語られることはなかった。
 この度、10・8羽田闘争50周年を機に、当時、三派全学連書紀局に関わっていたN氏から、10・8羽田闘争を巡る三派全学連内部の視点からの貴重な証言(文章)を寄せていただいた。
今回のブログは、その証言(文章)を掲載する。

【10・8羽田闘争の光と影 -三派全学連内部からの視点―】
この原稿は、2017年10月8日に開催された「10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争50周年」に寄せて書いたものである。その後、ブログ「野次馬雑記」への掲載依頼により、加筆したものである。

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(弁天橋)
<1967年10・8羽田闘争と山﨑博昭君の死>
山﨑博昭君の死は、当時ベトナム反戦闘争を闘った者たちには忘れることのできないことである。
だが、結成されて1年も経たない三派全学連の一員として10・8羽田闘争を闘った者たちにとっては実に複雑な気持ちが同居しているのも事実である。
複雑な気持ちとはなんであろうか。
60年安保闘争における樺美智子さんの死が、あの闘いの象徴であるように山﨑博昭君の死は、日本におけるベトナム反戦闘争を象徴するものである。
このことに誰も異議をはさまないだろう。そして、私が感ずる「複雑さ」は、彼の死の歴史的意味を貶めるものではないと確信している。
ものごとはいつも美しく語られ、同時にあった「負の側面」を語らずに終わる。
この「負の側面」は、すでに語られ、ある程度知られていることかもしれない。
今さら、「負の側面」を語ることに果たしてどれほどの意味があるのか確信を持てないが、三派全学連結成を共に担い、10・8羽田闘争を闘った者たちに残る共通の違和感・複雑な想い=「10・8羽田闘争を美しく語って終わるわけにはいかない」という理由を述べることは意味のないことではないと思える。

<10・8前日に起きたこと>
10・8前日の10月7日、法政大学(中核派拠点キャンパス)において、三派全学連書記長T、都学連委員長K(両氏とも『社青同解放派』)が拉致され、凄惨なリンチが加えられるという「事件」が起きた。
この結果、三派全学連として闘うはずであった「10・8佐藤訪ベト阻止闘争」は、分裂して闘われることになった。
凄惨なリンチを受け、膨れ上がった顔とボロボロになった体を引きずり、抱えられて中央大学講堂に現れた二人を見て、みんな目を疑った。
ここには、全国から結集した学生が明日の10・8羽田闘争に向け、総決起集会を開いていた。
1965年都学連再建、1966年三派全学連結成等の過程で、各派はそれぞれの政治主張を掲げ、論争をし、よく殴り合いの衝突をしたことがある。しかし、それは限度を心得ており、密室に連れ込むなどという陰湿さはなく、オープンで実に爽やか。このような衝突が一度くらいないと全学連大会は盛り上がらず、すっきりしないという実に健康的なものであった。
しかし、10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争を目前にして起きた法政大学での中核派の社青同解放派に対するテロ・リンチは、陰湿かつ凄惨さにおいて、かつてないものであり、それは、大衆運動とは両立しえない性格のものであった。この事態は、ようやくにして結成された三派全学連を分裂へと導くに十分であった。

<原因は何だったのか>
1)ここに至る経緯と要因をいくつかのポイントに絞ってあげれば、次のようになる。
第一は、10・8羽田闘争の全学連総指揮者をめぐる対立である。
10・8佐藤訪ベト阻止闘争を前にして、「全学連の総指揮を誰がやるか」が 重大な焦点となった。
本来であれば、委員長、副委員長、書記長の三役から選べばいい話で、「委員長がやる!」と言えば、即、決まる話である。しかし、委員長A.Kは「自分はできない。しかし、総指揮者は中核派から出す」とし、具体的には、広島大学A.Tを提案した。
理由は次のようなものであった。
「10・8直前の9月14日、法政大学学費値上げ反対闘争で大量逮捕者を出し、委員長Aもそこで逮捕され、釈放されたばかりで総指揮をとることはできない」と。
これに対して、「委員長ができないなら書記長か副委員長が指揮をとるのが筋」と解放派・ブンドは主張した。この時、全学連副委員長はN(静岡大・ブント)、書記長はT.(早大・社青同解放派)であった。
大衆運動組織の原則からすれば当然の主張である。そしてこの時、書記長のTが「Aがやれないなら、俺が指揮をとる」と名乗り出ていた。
今から思えば、「釈放されたばかりだから指揮は取れない」というのはおかしな理屈である。9月14日に逮捕されて20日足らずの拘留で釈放されたのは、幸運な話で、10・8羽田闘争を指揮するのに別段支障はない。10・8の総指揮を執ることは、逮捕され一定の長期拘留を余儀なくされることが前提だから、そこに20日前後の拘留が直前にあったことなど何の関係もない話である。Aにそうした覚悟がないというなら話は別だが、そんなわけはなかろう。10・8佐藤訪ベト阻止闘争を歴史的闘争と位置づけ、並々ならぬ決意を中核派もまた表明していたのだから。
要するに、10・8で逮捕されれば長期拘留を覚悟せざるを得ず、中核派にとってAの不在は、ようやく手に入れた三派全学連のイニシアティブを失いかねない―このリスクは回避したい。更に、『総指揮』も手にすることによって、中核派のヘゲモニーを目に見える形にしたいという欲張りな党派利害を主張したものにすぎない。
この主張が無理筋であることをA、Yは認めざるを得ず、初期、全学連書記局では書記長のTが総指揮を執ることについて、彼らは半ば承諾していたという。(Tは私の質問にそう答えている)   
ここには、党派利害を最優先する中核派政治局の指導方針があり、この方針を無理筋と思うA、Yと中核派政治局の間に微妙な相違が生じていたことは事実である。しかし、A、Yは、最終的には全学連書記局での合意を翻し、強引と思える中核派政治局の路線に転換したのである。
2)思い起こせば、1966年12月に結成された『(三派)全学連』(全国35大学、71自治会、1800人結集)の初代委員長はS.K(明大・ブント)であった。だが、1967年初頭の明大学費値上げ反対闘争において大学当局との「ボス交」が露呈して批判され、初代委員長S.Kは辞任した。代わってA(横国大・中核派)が委員長となった。
ブントにとっては何ともいえず悔しいものだったろうが、彼らは潔くよくこれをのんだ。
大衆運動・大衆組織の原則に沿った在り方が、ここには生きていたのである。
だが、こうして委員長の座を手に入れた中核派は、10・8佐藤訪ベト阻止闘争にあたって、この原則を破壊した。この矛盾した二つのことが、三派全学連結成後1年も経たないうちに起きている。それは、「大衆運動組織と党派の在り方」をめぐる根本問題であった。
この党派は、あらゆる闘争において「主流派の位置」を求め、そのヘゲモニーを脅かす党派に対してゲバルトを伴う恫喝をかけてその芽を摘み取るという「党派性」を持ち、当たり前のように行使してきた。
これを中核派は、「党としての闘い・党のための闘い」と「理論化」し、活動の基軸に据えていた。この「前衛党建設論」こそが安保ブントに欠落していたものとし、その欠落を補う前衛党建設論が黒田理論にはあるとして「革共同黒寛派」に走った理由でもあった。
だが、中核派指導部が培ってきた「ブント的大衆運動感覚」は、革マル派の「徹底した反急進主義・秩序派体質」と合うはずはなかった。この相違は如何ともしがたく、両者は短期間で分裂へと向かうのだが、自派の純粋培養の延長上に「前衛党建設」を目指す「排他的党建設論」は残った。この前衛党論が生み出す党派主義・セクト主義が、全学連という大衆運動・大衆組織に持ち込まれたのである。
ちょっと古くなるが、私の記憶に残るレーニンの次の一節との対比はどうだろうか。
1917年ロシア革命のさなか、「党かソビエトか」と二者択一的に問題を立て、混乱するボルシェヴィキ党員にレーニンは答えている。(ソビエトの多数派はエスエル、メンシェヴィキであり、ボルシェヴィキは少数派であった)
「そのように問題を立てるべきではない。党かソビエトかではなく、党もソビエトもだ!」と。(今、私の手元にレーニン全集はないので、これはあくまでも記憶だが、そう違っていないと思う)
中核派が示したこのような党派主義・セクト主義は、他党派に対するものというより、より根本的には大衆運動そのものに対立するものとして作用し、絶えず矛盾を生み出し続けることになる。
後に述べるが、このことは中核派だけの問題ではなく新左翼全体が内包していた問題であるが、この当時のブント、解放派は、この体質とは無縁であったと思う。
他党派の私から見れば、ブントは「自然発生的大衆そのもの」であり、常にその先頭に立っていた。解放派は、「大衆の自然発生性」を重視し、ある意味では「ブント的」であった。私の眼に彼らは、「愛すべきブント」と映っていた。
3)それにしても、中核派はなぜかくも余裕を失った強硬路線を選択したのであろうか?
彼らが持っている特有の体質・路線のほかに、当時過剰な危機感を持つことになる事態が進行していた。
それは、社青同解放派が首都圏において確実に伸びていたことである。
この時期の解放派の伸びと勢いはかなりのものであった。
1965年に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、総評青年部、社会党青少年局、社青同中央本部の三者によって、世界的ベトナム反戦闘争の高揚を背景に結成され、共産党、新左翼を含むすべての青年労働者にここへの結集を呼びかける画期的なものであった。(このイニシアティブは、社会党江田派によってとられた!この当時の社会党構造改革派の懐の深さには目を見張るものがある)
都学連、三派全学連の結成は、この流れとも軌を一にしている。
そして、社青同解放派は総評・社会党運動の中にあって、この最左派に位置していた。
要するに青年労働者運動においても解放派は重要な位置を占め、伸びていた。
当時の新左翼諸党派にあって、労働運動に基盤を持っていたのは「解放派」(社会党、社青同東京地本等)、「第四インター」(三多摩社青同、三多摩地区反戦、社青同宮城、宮城県反戦等―これらは社会党・社青同への加入戦術活動による成果である)、大阪中電を軸とする「ブント」(ここでも片山甚一をはじめとする大阪社会党構造改革派の懐の広さが目につく)、三菱造船長崎社研の独立左派グループぐらいであり、中核派は青年労働者の中にまだ基盤を持っていなかった。
そして、この影響は解放派学生運動にも及んでいた。
大衆運動における「大衆の自然発生性とその自立的発展」を重視する解放派の「ローザ主義」は、中核派の「レーニン主義」(党派主義)と一線を画し、学生の中にも支持を広げていた。この『伸び』が、中核派を刺激し、危機感を募らせていた。
4)中核派は、解放派を「総評民同と癒着する『改良主義・敗北主義・日和見主義』である」と批判し、この批判を巡って両派の対立は絶えず生じていた。(この対立は、1969年に再建された「全国反戦」の終焉を告げたあの時へとつながる。それは1971年6月明治公園での全国反戦主催―沖縄闘争集会における中核派―解放両派の軍団化した部隊による激突によって、「全国反戦青年委員会」が名実ともに終りを告げた「あの時」である)(註1参照)
当時、中核派の拠点である法政大社会学部で解放派が学生の支持を受け伸びていた。これは中核派にとって由々しき事態であり、許してはならないことであった。
この時期、中核派の社青同解放派の伸びに対する警戒・危機感は、解放派が認識するよりはるかに深いものであった。
そうであれば、中核派にとって10・8佐藤訪ベト阻止闘争における全学連総指揮者は、中核派でなければならず、全学連書記長T(解放派)の総指揮などあってはならない事であった。
このことが大衆運動・大衆組織の原則を破壊し、統一戦線を解体することにつながるテロ・リンチ事件を引き起こした重要な背景にあったのである。

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(法政大学 1970年)
<ここに至る若干の経緯>
1)10月7日午前10時より全学連書記局会議が中央大学学館で予定されていた。
議題は、①10・8の総指揮者について②10・8の闘争戦術について。
以上二点である。
だが当日、定刻を過ぎても中核派は現れないし、連絡もなかった。
全学連書記長Tと都学連委員長K(いずれも解放派)が、「A、Yを迎えに行ってくる」といって法政大学に向かった。
この何ともいえない楽観的行動は、この時期の健康な学生運動の状況を示していたし、A,Yから「10・8羽田闘争の総指揮は、書記長T」という内諾を得ていたことによるものである。
ところが法政大学では、深刻な「事態」が起きていた。
2)ことの始まりは、10月6日、日比谷野音でのある出来事に発する。
「10・6ベトナム戦争反対集会」(社・共共闘)の現場で、中核派Mと解放派Kが論争した。その中味は、例の「総評民同と癒着した改良主義者―解放派」という批判をめぐってであった。頭にきた解放派KがMをぶん殴った。これに対しデモを終えて法政に戻った中核派が法政大解放派メンバーに暴力をふるった。この暴力行為を聞きつけた早大の解放派が法政大に乗り込み中核派をぶん殴るということがあり、10月7日、その仕返し・報復として法政大解放派の学生が中核派に拉致され、リンチされるという事態に発展した。
解放派にとってこれらは、よくあること。それがちょっとエスカレートしたものという程度の認識だったが、中核派にとってはそうではなかった。両派対立の性格は、中核派政治局の主導によってとんでもない性格に変わっていった。
3)10月7日。この日、中核派政治局(H・S.T・S.K・K)は、法政大学に腰を据えていた。それは、中核派政治局の10・8羽田闘争にかける並々ならぬ決意を示すと同時に、解放派の振る舞いに対する重大な決意の現れでもあった。
法政大解放派メンバーを密室でリンチしながら、「このメンバーを解放したければ指導部が身代わりに法大に出向いて来いと通告した」らしい。(水谷保孝・岸宏一著「革共同政治局の敗北」)
こんなことが起きているとはつゆ知らず(Tは、全く知らなかったと私に語った)、T、Kは法政大に向かった。全学連書記局会議への出席を促すために。
そして、法政大構内に入るや否や中核派に拘束された。T、Kは拉致され、その代償に法政大解放派学生は解放された。
そして、中核派政治局(S.T,H,K)指導による全学連書記長T、都学連委員長K等解放派学生指導部に対する今まであり得なかった陰惨なリンチが行われたのである。
この凄惨なリンチについて詳しくは書かないが、Tによれば、現場にいたY(Aもいた)が耐えられなくて、「もうやめてくれ!」とS.Tに願い出たらしい。かくしてT、K等解放派指導部は解放された。
10・8羽田闘争を指揮するはずだったTはリンチされ、傷を負い、総指揮は不可能となった。さらに、当日の戦術は全学連として意志統一されることはなかった。
かくして、三派全学連の分裂は確定した。
4)中大講堂に全国から結集した学生は、顔が膨れあがり、ボロボロになり、抱えられて壇上に登場したT、Kの姿を見て目を疑い、間もなくにして何が起きたかを理解した。
中大講堂を埋め尽くしていたすべての学生は、直ちに法政大学に向かい、すべての門を閉ざした法政大前で、明日の闘争の指揮をとる三名が抗議のアジテーションをし、明日の闘いへの決意を述べた。
かくして、10・8羽田闘争は分裂した。そして、三派全学連として復元することはなかった。

<10.8当日のこと>
1)10・8当日、中核派を除く全学連部隊は、中大から御茶ノ水―東京―品川を経て、京急大森海岸駅で非常用コックを開け、電車を緊急停止させ線路の石を拾い、角材をもって鈴ヶ森ランプを突破した。
これを見届けた全学連副委員長Nと私は萩中公園に向かった。
Nは萩中公園に結集していた反戦青年委員会の労働者に向かって、「わが全学連は首都高速鈴ヶ森ランプを突破し一路羽田空港に向かって前進している」とアジった。この時丁度、中核派部隊が萩中公園に到着した。

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(萩中公園でアジるN副委員長)
角材に小さなプラカードをつけて登場した中核派は、昨日の今日、萩中公園で中核派以外の全学連部隊との衝突を予測していたかのような構えで登場した。
しかし、全学連副委員長Nのアジテーションを聞くや否や、「遅れてはならじ!」と踵を返して弁天橋に向かった。
実はこの時、鈴ヶ森ランプを突破した全学連部隊は、道を間違え羽田空港と逆方向に向かっていた。
そもそもの誤りは、鈴ヶ森ランプ「入口」を突破し進入したことであった。この「入口」は、本線につながっているのだが、本線は「羽田」ではなく「東京方面」に向かっていた。全学連部隊は突破した勢いで前進したが、「どうも逆ではないか?」という不安がよぎる。前方を走って逃げる警官に「羽田はどっちだ」と訊くと「あっちだ!」と逆方向を指す。「警察を信用するわけにはいかない」と前進するが、「どうも景色がおかしい。向かっている方向は東京方面で、羽田とは逆方向ではないか?!」という声が学生の中から聞こえてきた。指揮者陣は立ち止まり、決断した。「逆だ。方向転換!」―今度こそ羽田へ向かって部隊は前進した。
方向転換し進む先に間もなく機動隊が現れた。
この日の警備体制は、「羽田空港に反対派部隊は一歩も入れない」という警備方針で、穴守橋、稲荷橋、弁天橋に阻止線を敷いた。ここが最重要阻止線であると。高速道路から全学連部隊が来るとは全く考えていなかったのである。
「全学連部隊、鈴ヶ森ランプ突破!」の報を聞いた警視庁はあわてた。予想外の報に急遽機動隊を高速に向かわせた。彼らが、間一髪で全学連部隊の羽田空港突入を阻止しえたのは、わが部隊が方向を間違え、羽田空港突入までに時間を要したからであった。
高速道路「平和島出口」付近でかろうじて阻止線を敷くことに間に合った警視庁機動隊と全学連部隊は衝突した。この衝突の中で逮捕者を出し、全学連部隊は一般道へと押し出された。そしてわが部隊は第一京浜を走り、再結集して穴守橋で闘うことになった。(註2、註3参照)

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(高速道路で衝突する全学連部隊)
2)こうしたことがありながら、二つに分裂した全学連部隊は、それぞれが10・8羽田闘争を全力を挙げて闘いぬいた。
昨日あったことなど忘れ「佐藤訪ベト阻止・ベトナム人民との連帯」を掲げて闘いぬいた。
そして、山﨑君の死を知り、それぞれの闘いを終えて萩中公園に集まった学生部隊は反戦青年委員会の労働者とともに黙祷を捧げた。
山﨑博昭君を追悼する統一集会が持たれたのである。
3)10・8第一次羽田闘争で分裂した三派全学連は、11・12第二次羽田闘争を分裂したままで闘った。(第二次羽田闘争で筆者は全学連副委員長N、書記長T(Tはなんとか復活していた)とともに全学連部隊の総指揮をとった。この時、初めて「ジュラルミンの盾」と「投石よけ防護ネット」が登場した)
翌年1968年1月エンタープライズ寄港阻止佐世保闘争が闘われた。
この時、10・8以前「全学連」を構成したブント、解放派、社青同国際主義派(第四インター)、中核派は、分裂後初めて現地で共同の戦術会議を持った。
佐世保現地における大衆闘争がこれを強制したというべきである。(ブントからN、T、解放派からT,F、中核派からY、社青同国際主義派(第四インター)からN(筆者)。
佐世保現地闘争は社会党・総評傘下の労働者とともに大衆的実力闘争として闘われた。そして、全学連部隊は佐世保市民に圧倒的に支持された。これは、闘争後街頭に立った時、寄せられたカンパへの反応が経験したことのないものだったことに示された。各派ともヘルメットを持って街頭に立ったのだが、ヘルメットは百円札、五百円札で、あっという間に溢れかえった。バスの窓から手を差し出してカンパする人もいた。
この時、早く東京に帰ってこの反応が特殊佐世保的なものか、そうでないのか確かめてみたいと思った。帰って後、東京での佐世保闘争報告とベトナム支援カンパの反応は良かったが、佐世保での反応は、やはり群を抜いていた。
こうした人々の反応は、大衆運動の形成を最優先する統一戦線の在り方とその重要性を何よりも明らかにしていた。
そして、「突出した闘い」とは、それを支える大衆運動が基礎にあって初めて意味を持つのであり、大衆運動を組織することと切り離された「突出」に意味はないことを示している。

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(エンプラ阻止闘争)
<10・8羽田闘争の「負の側面」を明らかにする今日的意味>
1)以上が栄光に輝く10・8羽田闘争とその裏側にある「負の側面」である。
10・8羽田闘争を担った者たちが抱く違和感・複雑な感情とは、山﨑博昭君の死を含み全力で闘われた10・8羽田闘争の誇りといつも同居している、決して忘れることのできない「負の側面」である。
山﨑博昭君は弁天橋の闘いの中で亡くなった。弁天橋の闘いを担ったのは、中核派を中心とする学生諸君である。このことにより中核派の10・8弁天橋闘争は、10・8羽田闘争総体の象徴的闘争として語られてきた。
本来なら中核派指導部の行為は、批判され、闘う人々の信頼を失い、存続の危機に陥る性格のものだった。だが、中核派は無傷で残った。いや無傷で残ったのみならず、圧倒的「優位」を手にした。
その「優位」を維持するために、前日あった事実を中核派は隠蔽しつづけた。
彼らは、事実が表に出ることを恐れた。知っているのは、中核派政治局と指導部のほんの一部のみである。
法政大に結集し、弁天橋で闘った学生のほとんどは、この事実を知らない。当然のことながら、この闘いで亡くなった山﨑博昭君は知る由もなかった。
そして、中核派以外の党派もこの事実を取り上げ、真正面から問題とすることはなかった。このことを取り上げることは、10・8羽田闘争の意義を失わせることになりはしないか?それともことの重大さを認識していていなかったのか?
ただ、違和感と複雑な感情が残った。

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(羽田のデモ隊)
2)こうして、10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争は、11・12第二次羽田闘争、翌1968年1月のエンタープライズ寄港阻止佐世保闘争へと続く日本におけるベトナム反戦闘争の高揚を決定づける歴史的闘争であったことは間違いない。
しかし、この時生じた「負の側面」の真実を明らかにし、しっかりと総括できなかったことは、その後の新左翼運動にとって禍根を残すことになった。
この時期に代表される「学生運動中心の政治闘争」を概括すれば、良くも悪くも「党派活動家集団運動」であり、その性格を脱することはできなかった。これは、60年安保に至る学生運動と比較すれば違いは明瞭である。学生自治会結成から始まった戦後学生運動の歴史を担い、その原則を保持してきた全国学生自治会総連合運動は、「層としての学生運動」として形成され、単なる「党派活動家集団運動」ではなかった。しかし、60年安保闘争の敗北とその過程で生まれたばかりの新左翼の水準がその後の学生運動を規定した。(註4参照)
闘いの高揚を実現したある局面では、党派活動家集団運動を越えた大衆運動の自立的発展が全体を覆うこともあったが(全共闘運動は、その一部を垣間見せた)、それはほんの一時期で、やがて訪れる運動の後退(衰退)局面に入ると再び「党派」が全面を覆いつくすことになる。また、そのようにしてしか運動を持続できなかった現実が、「党派運動」に意味を与えた。大衆性は急速に失われ、後退は衰退にまで至る。
運動の高揚と後退(衰退)は絶えず繰り返される当たり前のことだが、高揚の局面では表面に現れなかった「負の側面」が、後退(衰退)の局面では隠しようもなく露呈する。
10・8羽田闘争前日という高揚の局面で生起した中核派による他者排除の論理とその行使は、運動の後退(衰退)局面では、より一層色濃く中核派もちろん、ブントにも解放派にも現れた。
「社会変革の道」=「革命」と真逆な内部ゲバルト=「内ゲバ」が公然となされ、日本社会を覆った。意見の異なる他者を物理的に抹殺する「内ゲバ」と「革命」が同居していることに疑いを持たない主体=党派―その革命理論・革命党建設論とは一体何であろうか?
ソ連邦共産党における「スターリン独裁政治」を批判したはずの新左翼が、スターリニストと寸分違わぬ他者殲滅の泥沼に陥っていた。
なぜこのようなことが起きたのかは、広い視点から根本的に総括されなければならないし、そのことは今日可能だと思うが、ここでは10・8羽田闘争前日に生起したことの事実とその背景を明らかにし、その重要な意味を内ゲバが公然化する前から示唆していたという指摘にとどめたいと思う。
10・8羽田闘争と山﨑博昭君の死が持つ歴史的意味をおさえながら、同時に起きた「負の側面」にも向き合うこと。この双方を捉えることによって10・8羽田闘争50周年の歴史的意義はより正確に捉えることができるのではないか。10・8羽田闘争50周年は、そのような場でもあってほしいと思う。
「美しい物語で終わらせてはならない」というのは、そういう意味である。
3・11東日本大震災・福島第一原発事故以降、新しい社会運動が芽生え始めているのだからなおさらである。
 「自由とは、常に思想の異なる者の自由である」(ローザ・ルクセンブルグ)
「単なる同一性ではなく、多様性を許すような同一性へ」
「他者(他人)を手段としてのみならず、目的(自立した個人)として扱え」
(カント)
  2017年9月
               N.T(元第四インター・社青同国際主義派)
<註1>
1965年に結成された反戦青年委員会については本文で触れたが、諸々の事情により機能不全に陥っていた反戦青年委員会の再建によって生まれた「全国反戦」について述べたい。このことについては、江藤正修遺稿集「社会的労働運動の模索―明日を見つめた格闘の記録」第一章の「反戦青年委員会の総括」が事実を正確に語っているので少々長くなるが引用する。
「・・・ところが全国反戦は、68年3月から機能麻痺・凍結状況が続き、このような新たな情勢に対応する全国展開ができない事態が続いていた。そうした中で、『社会党・総評が動かないのならば各県反戦がまとまって全国反戦を再建すればいい』と考えた宮城県反戦の今野求さん(宮城県評オルグ・第四インター)は、69年初頭に上京して全国県反戦青年委員会連絡会議(全国反戦)の結成を呼びかけた。このオルグは、宮城、埼玉、神奈川、石川、大阪、徳島、福岡、長崎など11県反戦呼びかけの4・20全国集会(沖縄闘争)へと結実したのである。
この時に、全国反戦の世話人に選出されたのが今野求さんと村上明夫さん(埼玉県反戦)である。第四インターの今野さんはともかく、主体と変革派結成以前(主革派結成準備会は同年8月)の村上さんが世話人に選出されたのは、新左翼諸党派にとっても社青同反戦派の存在が総評・社会党との関係で重要だったからにほかならない。
こうして全国反戦は、同年11月の佐藤訪米阻止闘争を頂点とするベトナム反戦闘争、沖縄闘争、三里塚闘争などを全国全共闘、ベ平連と並ぶ全国運動のセンターとして、71年6月まで闘い抜いた。しかし、全国反戦再建以降、顕著になったのは新左翼諸党派の内ゲバを含む対立の激化であり、反戦青年委員会の党派軍団化である。
結成スローガンとしての自立・創意・統一を掲げた反戦青年委員会運動は、労働疎外と労働組合の官僚化が進む青年労働者の日常から、そのみずみずしい感性を解き放つ場であった。彼らのエネルギーは街頭闘争での戦闘的デモンストレーションで噴出すると同時に、職場における支配の網の目を突き破る職場反戦の運動としても体現されていた。
ところがこの時期、反戦青年委員会では職場と街頭が対立的運動スタイルとして語られ、職場に重点を置く主張は、中核派などから“日和見主義”の代名詞として批判の的になった。(中略)しかし、右傾化する労働運動と対峙して、職場の変革と社会の変革の双方を貫く闘いを模索しようとすれば、自主管理社会主義をイメージする職場反戦や産別反戦の主張が出てくるのは当たり前である。
(中略)
ところが「根拠地」的な存在(職場反戦、産別反戦を主張する潮流―引用者)は、その後の反戦青年委員会運動の中で多数派を占めることはなかった。反戦青年委員会に結集する多くの青年労働者は軍団としての党派反戦の側に獲得されたのである。68年に垣間見られた社会革命的な運動の要素があっけなく消え失せ、カリカチュア的なレーニン主義に基づく党派軍団化の道に圧倒的多数の反戦青年委員会運動がなぜ進んでいったのか。その原因は、日本の政治・経済・社会構造の何に由来するのか。
反戦青年委員会を取り上げたこの論考で私が言いたかったのは、この点の総括の進化なのである。
全国反戦の解体も、実はこの点と深く絡み合っている。全国反戦世話人であった今野さんが、その解体を71年6月と明言したのは理由がある。全国反戦主催の沖縄闘争の集会が明治公園で行われたが、その場で中核派、解放派の反戦部隊が激突したのである。反戦青年委員会の主軸をなした両党派の軍団化した部隊による内ゲバ的激突によって、総評の鬼っ子といわれた反戦青年委員会は、名実ともに終りを遂げた。」
<江藤正修略歴>
1944年8月17日生まれ。1964年法政大学文学部入学、1968年社青同埼玉地本書記長、埼玉県反戦青年委員会事務局長、1974年第四インター日本支部加盟。1992年労働情報編集長。2017年5月24日永眠。享年72歳)

<註2>
鈴ヶ森ランプには「入口」と「出口」がある。「入口」から入ると、この道は東京方面に向かっている。「出口」は、文字通り出口である。しかし、「出口」から入り、これを逆走すれば羽田空港に向かうことができる。だが、1967年10・8当日全学連部隊は、このことを認識していなかった。そして、「入口」から突入した。このため、「東京方面」に進撃することになったのである。
途中で気がついて方向転換するが、幸か不幸か、警視庁が羽田空港防衛のためこの区間を車両通行止めとしたため車は来ず、悠々逆走できたのである。当時の三派全学連書記長T(解放派)の話によれば、10・8、3日前に解放派指揮者を乗せ高速を走り、現地を下見したという。しかし、「肝心な時に間違えて…」と話してくれたが、この間違いは仕方ないと思う。
あの頃「四輪自動車」の運転免許証を持っている学生など僅かで、日常的に運転している者など皆無、高速道路を運転したことのある者などいなかったのではないか。
ことほど左様に当時の闘争はどこか抜け落ちていることがいっぱいあり、決意に満ちた真面目なものであったが、笑い溢れるおおらかなものであった。
そして特質すべきは、闘争の経路―「京急大森海岸下車―高速道突破」の指示は、部隊の責任者のみに限定され、事前に漏れることはなかったことである。警視庁は、「鈴ヶ森ランプから全学連乱入」の報を聞くまで全く知らなかった。「寝耳に水」であったことだ。

<註3>「ゲバ棒」について
この時登場した「ゲバ棒」・「角材」についていえば、「闘争前日、中大で机、椅子を壊して作った」説と「大森海岸駅で線路に飛び降り、線路に敷き詰められた石をもって駅前に出たとき、路上に止められていた「1トンの平ボディートラック」に山積みされた角材があり、これを持った」説と二説あるが、この二つとも正しい。
前者は私も現認している。後者は、当日全学連総指揮の一人だったY(横浜国大・社青同国際主義派)に確認している。そして、三派全学連書記長Tは、「角材は、解放派がトラックに積んで用意した」と話してくれた。さらに「ヘルメット」についていえば、10・8では指揮者も含めてほとんど被っていない。高速道路突破の最先端を担った各派の指揮者もノンヘルがほとんどである。第二次羽田でデモの最先端にヘルメット姿が見られるが、部隊のほとんどはまだノンヘルである。「ヘルメット、角材」が大衆的に登場するのは1968年1月の佐世保闘争からである。この時角材は、ブントが鳥栖駅から列車で持ち込んだのと佐世保現地の材木屋に行って「なにがしかの金を置いて」手にした覚えがある。
ところで、10・8の「角材」について「本当は、対中核派用に用意された『ゲバ棒』だ」というデマがまことしやかに流れているようであるが、これは全くの嘘である。
10・8前夜、中核派への抗議で法政大に向かった時も「角材」を持って行ってはいないし、10・8当日、「高速道路突破前に中核と衝突すること」などありえない。当時の指導部に「中核派とのゲバルトのための角材」など考えたものは一人もいない。
中核派が萩中公園に登場する前にわが部隊は、鈴ヶ森ランプ突破行動を開始しているのである。中核派もまた「高速道路突破」戦術は「寝耳に水」だったのである。
噂は、「社学同ML派」筋からと聞いたことがあるが定かではない。
社学同ML派と10・8羽田闘争についていえば、「ML派は10・8羽田闘争にはいなかった」というのが真実ではないか。当時、横浜国大のML派は、10・8羽田闘争を一度も呼びかけていない。

<註4>
柄谷行人(1941年生まれ、哲学者)は、著書「可能なるコミュニズム」(2000年1月、太田出版)の「序言」の中で「学生運動」の重要性に触れ、次のように書いている。
「・・・最後に、そして最も重要なのは学生運動の問題である。日本の学生運動は、戦後、全日本学生連合―学生のアソシエーションとして始まっている。それは、戦前、あるいは、今日のそれとは決定的に異なっている。それは、学生を、階級ではないが、一つの階層、その成員が数年で入れ替わるとしても総体としてはつねに存続する自立的な一階層として見る考え方に基づいている。それは政党や労働者の運動とつながることはあっても、それらに従属することなく、普遍的な課題を自立的に追及すべきである。これは、全学連を組織した初代委員長武井昭夫(てるお)氏の考えであった。そのことを知る人は稀だが、実は、ブント全学連から全共闘に至るまで、この武井氏の考えが貫かれていたのである。
しかし、それをつねに脅かし破壊する考えが、マルクス主義の主流―旧左翼であろうと新左翼であろうと-にあった。それは、革命の主体は労働者であり、また、生産過程にこそ闘争の中心があるというものである。だから、学生運動は副次的であり、労働運動に従属すべきだということになる。
しかし、実際のところ、生産過程(職場)で労働者が「主体」であることなどありえない。したがって、学生は革命家としてそこに入り込んで、彼らの意識を変えなければならないということになる
かくして、学生運動は革命政党に従属し、あるいはその養成所でしかないということになる。
これは戦後の初期から、全共闘の時代にまで存在した問題である。事実上学生運動しかなかったにもかかわらず、それがいつも否定されてきたのである。その結果、日本では、労働運動のみならず、学生運動そのものが実質的に消滅してしまった。私は、それがポストモダニズムに固有の現象だとは思わない。それはむしろ日本的な現象である。実際には、学生たちは何かをやりたがっている。しかし、そうすることができないのは、かつての新旧左翼が亡霊のように徘徊しているからである。阪神大震災の時、私は多くのヴォランティア学生を目撃したが、それはまさに学生運動であった。もともと学生運動は根本的にヴォランティアだったのだ。それを否定する理論が学生運動を破壊したのである。
資本への対抗運動の中心を、流通過程、つまり、「消費者としての労働者の運動」に見出すならば、学生のもつ意味は決定的に変わってくる。学生は労働者ではないが、将来において労働者となる。その意味で、学生の運動こそ「消費者としての労働者の運動」を観念的に先取りするものである。学生の考え方は抽象的で普遍的でありすぎる、という非難は、的外れである。むしろそうだからこそ、価値があるのだ。労働運動や市民運動は、具体的な利害によって左右される。もちろん、個々人はいつまでも学生でいるわけではない。しかし、階層としてはつねに存続する。学生運動は、政党・市民運動と連帯することがあっても、それに従属すべきではない。また、それは、かつての学生運動の真似をする必要はない。まして、元左翼のノスタルジーに付き合う必要はない。
それは独自のアソシエーションの方法を編み出すべきである。」
※柄谷行人氏は、1960年に東大に入学。すぐ60年安保闘争に飛び込んでいる。
安保闘争後、柄谷氏は三派に分かれ論争するブントにあって、駒場グループとして「中立」の態度をとっている。ブントが解散したあと、1961年5月に柄谷氏は「社会主義学生同盟」(社学同)の再建を構想する。先ず、駒場で「社学同」を再建。それをもとにして全国的な社学同再建のアピールを書いた。このアピールは、「無名の学生が書いた」といわれているが、書いたのは柄谷行人氏。
柄谷氏はこのことについて、次のようにいっている。
「僕は、社学同再建にあたって、前衛党としてのブントを目指すことを否定しました。僕が考えていたのは、事実上「全共闘」のようなものだといってよいと思います」(「政治と思想」2012年3月刊、平凡社ライブラリー)

以上、N氏の紀行である。
10・8羽田闘争を巡る三派全学連の内部の動向について、正面から書かれたものは今まで公表されなかったと思う。そういう意味では、貴重な証言である。
(終)

※ 10・8羽田闘争を報じた「戦旗」(1967.10.15)を「新左翼党派機関紙」にアップしました。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html


【お知らせ】
●日大全共闘結成50周年の集い

2018年6月10日(日)
午後1時 御茶ノ水「錦華公園」集合
(明治大学裏)
午後2時から5時
アジア青少年センター
千代田区猿楽町2-5-5
参加費4千円

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【お知らせ2】
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次回は5月25日(金)に更新予定です。 

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