野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2018年07月

今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。

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前回のブログで、「集い」での山本義隆氏の記念講演の概要を掲載したが、今回は、もう一つの白井聡氏の記念講演の概要を開催する。

【「大下敦史ゆかりの集い」記念講演 2018.6.17 於:学士会館
―前「情況」誌代表 大下敦史氏の思い出を語るー 白井 聡 】


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福井紳一(司会)(60年代研究会)
「記念の講演に入っていきたいと思います。まず、京都精華大学の白井聡さんです。白井さんは、大下さんの元での『情況』でデビューして、今度出された『国体論』においても、大下さんに捧げるという思いで最後に書かれておりますけれど、その『国体論』は国体概念を基軸に、日本近代史をもう一度総括していくという画期的な試みの本で、今、売れて読まれています。
では、よろしくお願いします。」

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白井聡(政治学者:京都精華大学人文学部専任講師)
「皆さんこんにちは。白井聡と申します。今、ご紹介がありましたように、京都精華大学というところで教員をやっておりますけれども、専門は政治学とか社会思想というようなことを専門にして日々教育をしております。
 私と大下さんとの関係を最初に申しますと、一言で言いますと、私にとって大下敦史さんという人は、本当に恩人であります。といいますのは、最初にお会いしたのは、2004年だったと思いますが、私が当時、一橋大学の大学院博士課程に在籍をしているころでありました。私は、当時、どんな研究をしていたかというと、ロシア革命のレーニンの研究をしておりました。その主題はどういうものかというと、すごく簡単に言ってしまえば、レーニンというのはやっぱり偉いんだということですね。懸命に論証をしようと、そういう研究をしておりまして、それで2003年に修士論文を書いて博士課程に進んでいたわけです。しかしながら、当時、今もそれほど根本状況は変わっていないんですけれども、レーニンは素晴らしいというようなことをいう研究が、学会向けといいましょうか、業界向けをするかというと、全然受けないわけです。むしろ学会のトレンドに全く逆行している、そういうものであります。
私は修士論文を書く過程で、大学院のゼミで発表などをするわけですが、その時に私の師匠の政治学者の加藤哲郎先生は『白井の発表はなかなか面白いけどなあ。こういうのをやっていると就職はないぜ』と言われたものです。私も若かったものですから、血気盛んなものですから、先生はこんなこと言ってるけれども自信はある、今に見ておれと思っていたわけですけれども、博士課程に進みますと、だんだん先生の言っていることの意味がよくわかってきました。なるほど、これほどまでに学会のいわゆる流行といいましょうか、傾向に合致しないことをやっていると、これほどまでに無視をされるというか、放っておかれるものなのか、そういうことを博士課程に進学して、博士課程に進学するということは、同時につぶしが全くきかなくなってくるということを意味するわけで、何とかその世界で生きていかなければいけないわけでありますが、しかしながら、一体どうしたものかと、そういう状況に、今から思えばあったんだと思います。

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そういう中で、当時、Sさんが一橋大学の読書会に参加していたということがあって、そこからのつながりで河出書房新社のAさんとも知り合いになって、その紹介で、『情況』に書いてみないかという誘いを受けました。当時私が『情況』という雑誌に、どれだけの知識が、どんな認識があったのかというと、それほど大した認識はありませんで、一応、新左翼系だということは理解をしていたと同時に、大学時代にある先輩がカバンの中から『情況』を取り出して『こんなの持っているとね、公安に目を付けられちゃうの』と、ある女の先輩が言ったことを覚えていたりしますけれども、何だかとにかくとってもやばい雑誌らしい、というくらいの、いってみれば最左派だというくらいの漠然たる認識でありました。きっと、あなたのやっていることだったら喜んでもらえるんじゃないか、というような誘いを受けましたので、そういうことだったら有難いと思って、修士論文の一部を1本の論文に仕立てて情況編集部に送りました。すぐに掲載してもらえるということになりまして、当時言われたのは、『情況』の校正は著者自らやった方がいいと聞かされておりまして、というのは一応学術論文ですから、注とかが付いていたりして、その注は外国語が入っていたりして大変ややっこしいわけですけれども、いろいろそこで問題が発生して、頭から湯気を出している先生などがいるらしいという話も聞いておりましたので、なるほどと、自ら編集部を訪れてやった方がよさそうだということで、当時、新宿の河田町にあった編集部を訪ねました。
行く前には、私としては若干身構えるといいましょうか、とにかく一番左だといわれている『情況』だ、そのボスであるところの大下さんはどういう人なのか、話は断片的に聞いていたんですけれども、ともかく『情況』で頭を張っているんだから、相当の左翼の大物であろうということで、かなりおっかない人なんじゃないかというイメージを勝手に持って行ったんですけれども、もちろん、会った瞬間にイメージというものは吹き飛んだといいましょうか、今でも覚えておりますけれども、河田町のビルの重い鉄の扉を開けますと、そこに情況編集部があったわけですけれども、なんとなく生活感が漂っているんですね。当時、朝子ちゃんがまだ小さかったと思うんですけれども、朝子ちゃんのおもちゃとか絵本とかソファーの上にあったりして、左翼のアジトというのはこういうものかと、そこで面喰ったわけです、私は、左翼の大物である大下編集長から鋭いコメントがあるんじゃないかということを、期待半ば、また、不安半ばという形で対面したわけですけれども、そういった固い話というのは全く無く、とにかく不思議な感じがしました。初めて会ったのに、何か懐かしい感じのする人ということですね。その初めての対面が、その後の十数年間に及ぶ付き合いをさせていただいたわけですけれども、その運命を変えたんじゃないかと思っています。

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その時に僕がすごく勇気づけられた気持ちもしました。というのは、論文の内容についての込み入った話など大下さんは一切せずに、とにかく言ってくれたのは『うん、これはいいよ』ということでした。それは実際掲載されまして、編集後記にも、大下さんのとても僕のことを買ってくれているコメントが載りまして、それに僕はすごく勇気づけられました。何といっても、物を書いて生きていかなくちゃいけない、いわゆるアカデミックな論文スタイルに、学者である以上、それなりに適応しなければならないわけですが、一方で、いわゆるアカデミックなスタイルというものに対して僕は強い違和感があって、もっとある種魅力のあるものを書きたいと、常々そう思ってやったきたわけで、今もそうですけれども、まさにその姿勢というものを貫けたのは、まさに大下さんが『君の書くものは、これはいいものなんだ』と、そういう風に言ってくれたということですね。そのことが根本的に僕をこれまで支えてくれたと思います。
具体的には、最初の1本、40枚程度だったと思いますが、これは修士論文の一部なんですよと言ったところ、『じゃあほかの部分も出しなさい』という話になりまして、レーニンの『国家と革命』に関して書いた修士論文だったんですが、そのメインの部分を次々号に載せてもらいました。これは150から180枚にのぼるものでして、普通、雑誌の論文というものは、長くて50枚、平均して30枚とか40枚しか掲載してもらえないものですけれど、150枚を超えるものを一挙掲載をしてもらったわけです。どうも、この長さそのものが、他の出版業界の人に聞いてみると、非常にインパクトがあったそうです。こんなとんでもない長いものが載っている、これは何だということで、それ自体にインパクトがあったという話も聞きました。そして、『別冊情況レーニン再見』というものを、法政大学の長原豊さんが、こういうものがあるからやらないかと提案があって、とにかく大下さんはレーニンといたら目がない方でありますから、絶対にそれはやるべきだと、それで一緒にやりましょうということになって、これをやった。その時には中沢新一先生にインタビューさせてもらったりとか、本当に私にとっては楽しい思い出であります。
それ自体も楽しかったし、結局、こういったことというのは、最初の僕のメジャーなところでのデビューにつながっていきました。具体的にいいますと講談社の編集者が、何かレーニンレーニンとか言って、いろいろ書いている若いやつがいるらしいということで注目をしてくれて、講談社選書編集部から手紙が来まして、うちで出さないかということで、私はそこでオファーを受けまして、『未完のレーニン』という本を出すことになったわけです。その原稿のほとんどが『情況』に掲載したものをベースにしています。

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今も思い出すんですけれども、講談社から手紙をもらって、大下さんにすぐに電話をしました。大下さんが非常に弾んだ声で『本当によかった。きっと大きな会社から、そういった話がきっと来るだろうと思っていたけど、なかなか時間がかかったから、これはどこからも来なかければ、「情況」で本にしたらどうかと思っていたんだ』と言ってくれました。本当に何と言いましょうか、大下さんはとにかく僕の書いたものを高く評価してくれて、そうであるが故に、これはもっと大きな会社から広く読まれる形で世の中に問われるべきなんだという風に、本当に心の底から思ってくれていたと思います。本当に私心なく僕のことを応援してくれた、そのことには、僕は本当にいくら感謝してもしきれないと思っています。
こうやって話していると、どうしても悲しさも募ってくるんですけれども、大下さんの朗らかさということを振り返りたいと思います。10何年かの付き合いの中で、今から思い出してもつい笑ってしまうし、僕も今、家族がいますけれども、妻も何度か大下さんと会ったことがあって、あんなことがあったねと夫婦の間で話をして、ひとしきり笑うことができる、そんなたくさんの想い出があります。
中でも思い出されるのは、ある時、翻訳本を『情況』で出そうということで、月1回くらい神保町のデニーズに集まって、そこで翻訳の検討をするということで、各自が持ってきたものを、ああでもないこうでもないと言ってやるということをやっていたんですね。もちろん、翻訳は情況出版から出す。それをやる時、毎回、大下さんが臨席していたんですけれども、ある時、いつまで経っても大下さんが来ない。おかしいなあ、この時間を指定したのは大下さんなのに、例によって1時間くらい遅れるのはいつものことですけれども、1時間過ぎて2時間経っても来ない。さすがに大下さんに電話をしてみたら『大変なことが起こっているんだ』と言うんです。何が大変なことが起こっているんだろうと思ったら、甲子園です。斉藤佑樹ですね。延長戦で決着が付かず、決勝戦の再試合を俺はかぶりつきで見ているからとてもじゃないけど家から出れない、と言うんですね(2006年早実と駒大苫小牧の決勝戦再試合)。大下さんも早稲田ですから愛校心にとんでいまして、私も大学は早稲田だったものですから、斉藤佑樹の早稲田実業を大変に応援していたんですけれども、再試合を僕だって観たかったんですよ、仕事をさぼって観たかったんですけれども、仕事だからしょうがないと思って我慢してやってきたわけですけれども、社長はそういうことは全く無視をしていた、そんなことがありました。
それから、すごい話というのが、今は東大の名誉教授になっておりますけれども、当時は東大法学部の現役の教授だった方がいらして、その方が『情況』の大下さんが依頼をして、インタビューだか原稿だかをいただいたんですね。大下さんのすごい編集方針というのがあって、それは驚くべきは編集後記というのを、全部の原稿を読んでから書いていた。普通、雑誌の編集者はそれをしないと思うんですけれども、もちろんそれで割を食うのは印刷製本屋さんですが、全部を読んでから大下さんは編集後記の原稿を書いていたんですね。だから、本当にきっちりきっちり毎号全ての原稿を読んでいた。そこで生じることは何かというと、大下さんの批評精神がそこで発動する場合がある。その批評精神とは何かというと、最後になって原稿の入れ替えが起こる。つまり、最終版になって入れるはずではなかった原稿が届く、この内容がいいとなると、大下さんはスパッと決断をするわけです。ある時、それが起こったわけです。『これはいい』と。それで東大の先生の原稿が落とされるということが起こったわけです。原稿料も払っていないわけですから、普通、そういうことはしないと思うんですが、大下さんは普通の物差しは通じない。それで、ここで不思議なことといいましょうか、これこそブントということなんだと思いますけれども、普通、そういうことが起こると、落とされた側は、もう二度と許さないという雰囲気になるのが普通だと思うんですが、そうならない。結局、2、3ケ月後の『情況』に、その原稿が改めて載った。更に面白い話があって、掲載号が教授の家に送られてきた。その教授の奥様が掲載号を見て『あなた、ついに「情況」に載せてもらえたのね。本当によかったわね』と言った。この方は大変有名な方で、いろんな有名な雑誌に書いておられますし、しょっちゅうTVやラジオ等でも活躍しておられる方ですけれども、その先生の奥様というのはかなり変わった方なんではないかと思うんですけれども、ある意味面白い、筋の通った方ではないかと思いますけれども、その奥様の側から見ると、NHKだとか岩波『世界』だとかこういったものよりも『情況』の方が格が高いみたいなんですね。これも大下さんから聞いたきわめて興味深いエピソードの一つでありました。

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こんな具合に面白い話が多数あるわけですが、大下さんの『どうもどうも』という挨拶とか、何ともいえない屈託のない話し方、これでもって、普通、角がたつというところをなぜか丸く収めてしまうという不思議な力というのは、実はタフネゴシエーター(手ごわい交渉相手)の力でもあったというエピソードを一つご紹介したいと思います。
大下さんの同年代の仲間の方で、どうも商売や健康などいろんな困難を抱えて、にっちもさっちもいかなくなった方がいらして、これはしょうがない、生活保護を受けることにしようということに決まったんですが、なかなか生活保護を受けるのは厳しいわけで、簡単に受給できない。そこで大下さんは某区役所について行った。そこで交渉が始まったわけです。『これこれの受給をしたいんですが・・・』と。まず最初にお役人さんは何を言うかというと、NOということです。かくかくしかじかで受給資格が足りないんでどうのこうのというこで、一生懸命なぜ受給できないのかという理由をていねいに説明するわけです。その説明が終わったところで、大下さんはどうしたかというと、『これでお願いします』と最初と全く同じことを言うわけなんです。それで窓口で困ってしまって、もう1回同じ説明をする。そうすると、大下さんはまた同じ言葉で返す。実は。これはものすごくタフな交渉術なんだと思います。こういうことを繰り返している間に、ついに相手方は疲れ果ててしまって、もうしょうがないということで許可しようということになった。実際にこの申請に成功を収めるわけです。本当に、こんな力もあるという意味で、本当に不思議な人でした。

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ところで、先年、塩見さんがお亡くなりになりましたけれども、塩見さんが亡くなった時に、あれだけ有名な方でしたから、ある種、何者だったのかみたいないろんなことがマスメディア上でも語られましたけれども、私が接した中である意味一番感動的だったのは、雨宮処凛さんが書いた追悼文でありまして、その中で言っているのは、塩見さんとの付き合い、もちろん彼女の場合、出所してからお付き合いがあったということなんですが、なかなか付き合うのが大変な人でしたと。なぜかというと、二言目には『世界同時革命だ』というので、とにかく大変であると。それから、ある時期、ケンカをして絶交寸前までいった。それはなぜかというと、ある時、塩見さんが怒り出して『お前は左翼だとか自称しているけれども、ろくにマルクスも読んでいないんじゃないか。そんなやつは左翼とは呼べん』と言い出して、雨宮さんとしては『あんな分厚いものをたくさん読まなければ左翼と言えないなんて、そんな面倒くさい話だったら、私は左翼でなくて結構だ』と言ってケンカになって大変だったという話を書いていらっしゃるわけですけれども、その中で彼女が書いていたのは、実は亡くなる数年前の塩見さんの周辺には、ある種、雨宮さんをはじめとした、ずっと若い世代の塩見さんを囲むサークルのようなものができていた。じゃあ何でその若者たちは塩見さんに惹かれていたのか。結局、いろいろ大変だけど、塩見さんの近くにいると癒されたんだということなんですね。何で癒されたのかというと、とにかく塩見さんは二言目には『世界同時革命』だと言う。もう一つは『それは資本主義のせいだ』と言うわけなんですね。この自己責任が強調される時代において、いわゆる『生きづらさ』を抱えた若者たちが、『生きづらさ』を感じているのは結局自分のせいだと思い詰めていたところに、塩見さんに会うと、『それは君のせいじゃないよ。資本主義のせいなんだ』と、こういう風に言ってくれるところに、ある種の解放感といいましょうか、救いというのがあったと書いてらして、僕はとてもいい文章だなと思ったんですが、僕もよくよく考えてみると、大下さんからもらったものの本質というのは、そこだったんじゃないかという気がしています。
要するに、君はここにいていいんだよ、あるいは僕のそばにいていいんだよと言ってくれると、そんなことは言わないわけですけれども、雰囲気がそう問わず語りに言っているわけなんです。それによって僕は、ある種の安心感というのを覚えることができたし、そして今、いろんなことを書いておりますけれども、レーニンについて論じて、そして今、天皇について論じるということをやっているわけですけれども、僕は常に思い切って書くといいましょうか、いわゆる既存のイデオロギーの流れ、あるいは固着化してしまったもの、そういったものに絶対に囚われずに書きたい、そういう思いをもってやってきました。ある意味、それは冒険であるのかもしれません。そして好きなようにやるということでもあります。自分の本当に書きたいことを書くという自由ですね、もちろんそれは自由であり、自由にはリスクが伴う、ある意味の冒険なんです。誰からも相手にされないというリスクもある。でも、そんな冒険をすることが今までできました。なぜ冒険できたのかというと、やっぱりそれは、誰かが無茶をやっても救ってくれる人がこの世にはいるはずだ、しかも元々赤の他人だった人が救ってくれるということが、この世の中にはあるんだという確信が、まさに大下さんによって与えられ、そして支えられきたからだと思っております。

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まさにそれを大下さんは、全く無償で、ただ僕のことを気に入ったからという、ただそれだけのことでそれをしてくれました。ですから、今、つくづく思うのは、大下さんが亡くなってしまったということは、僕にとっては本当に何と言いましょうか、支えてくれる背骨、柱を失ってしまったということでもあるわけなんです。だけど、それは同時に、いつかは必ず来る日だったわけですし、それは本来自分で一本立ちしなければならないんだと、大下さんから言われているのかなとも思います。そして、その一本立ちするということは、きっと大下さんが人に対して何かを与えてくれていたことを、今度は僕がほかの人に何かを与えるということをやっていかなくてはいけない、そういう年齢に自分自身がなったんじゃないかなと、そういうことを今、ひしひしと感じております。
その精神でもって、今後も、大下さんが可能にしてくれた冒険を続けながら、そして来るべき新しい冒険者を見つけて、これを支えていきたい、これを大下さんが亡くなったことを契機としての僕の改めての決意として、ここで表明して私の話を終わらせていただきたいと思います。(拍手)

【大下敦史氏追悼画像】

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(2010年10月23日「映像とシンポで日米安保体制と沖縄の自決権を考える」集会であいさつをする大下敦史氏)

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は8月3日(金)に更新予定です。

今年の1月3日、前・情況出版代表大下敦史氏が逝去された。享年71歳。
大下氏を偲んで、6月17日(日)東京・神田の「学士会館」で「大下敦史ゆかりの集い、追悼!記念講演会」が開催された。

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前回のブログでその集いの概要を掲載したが、今回は集いでの山本義隆氏の記念講演の概要を掲載する。山本氏の講演は「50年前のこと」ということであったが、「1968年という時代と東大闘争を語る」というタイトルを付けさせていただいた。

【「大下敦史ゆかりの集い」記念講演 2018.6.17 於:学士会館
―1968年という時代と東大闘争を語るー   山本義隆】

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福井紳一(司会)(60年代研究会)
「元東大全共闘の代表である山本義隆先生からお話をいただきたいと思います。山本先生は、10・8山﨑博昭プロジェクトにずっと関わっていただき、そして、その中心でずっと動いていただいたんですけれども、ここにいらっしゃる辻さんと佐々木さんがベトナムに行った時に、ベトナムの戦争証跡博物館で展示をやるという話がありまして、それは大変な話だ、できるのかということで、プロジェクトのシンポジウムの時に山本先生に横に呼び出されまして、『そんな大きなことを引き受けちゃったけれど、彼らにそんなことできるわけない。やるのは俺になる。腹を決めた。手伝ってくれ』というお誘いがありまして、それで『60年代研究会』みたいな名前を付けながらも、山本先生は、ベトナム反戦戦争のさまざまな資料蒐集、関係者の聞き取りをずっとなさってきて、あの膨大な展示も、実はもう気付かないうちにパネルもほとんど山本先生が手作りで作っれた。ものすごく器用な方で、それで2016年に根津でまず(展示を)やる、それから京都精華大学、去年、(ベトナムで)『日本のベトナム反戦闘争とその時代展』をやりました。そして大下さんと一緒にベトナムを訪問しました。
では山本先生お願いいたします。」

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山本義隆(科学史家・元東大全共闘代表)
「今、紹介していただいた山本です。大下さんとは、今の話にありましたように、ベトナムに一緒に行っていただいて、その時、大下さんが相当病気が進んでいると聞いていたので、ベトナムのツアーの時にしまったなと思って、ツアーのメンバーに一人医者を連れていくべきだったと、これは大失敗だと思ったんですが、無事、何事もなく帰ってこられて、正直ほっとしました。。
今、大下さんのいろいろなエピソードが出ましたが、一つだけ言いますと、最後の日の夕方に、チェックアウトしてロビーに集まって、そこからバスで空港まで行くということになっていて、夕方に僕はもちろんチェックアウトしてロビ-に降りて行ったら大下さんがいて、話をしていたらどうも話がおかしいので、もしかしてと思って『大下さん、今日帰るの知ってる?』と言ったら、『え!?今日か?明日と違うのか?』と言うので『冗談じゃない、すぐ部屋に帰って荷物をまとめてチェックアウトしろよ』と言った。そういう堂々たるところがあった。もう一つは、ツアーの準備をバタバタしていたので、細かなところまで行き届かなかったので、機械的に部屋を割り振ったら、大下さんの部屋が禁煙ルームになってしまって、彼はものすごい喫煙家で、夜中の12時過ぎにロビーに降りていったら、ホテルの前でタバコを吸っている。それくらいタバコが好きで、もうちょっと気を使っておけばよかったと思ったんですが。大下さんは、本当によく体を押してベトナムまで来てくださったと思う。それだけで本当に感謝しています。

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今日、大谷さんから10分くらいしゃべれと言われて、テーマと言われて、苦し紛れに『じゃあ、50年前のことにしてくれ』と言って、本当は、この1週間ほど、きちっとそれなりにまとまった話をしようと思って準備しようと思っていたんですけど、体の具合が悪くてできなくて、だからほとんどぶっつけなんでけれども、50年前に何があったかというと、今日の会の関係でいうと、『情況』という雑誌が創刊された。それで、その当時の雑誌は『朝日ジャーナル』とか『現代の眼』とか『構造』とかいくつかありましたけれども、全部なくなって、『情況』だけが残っている。はっきりいったら絶滅危惧種みたいなものですよ。それが50年残ったというのはすごいことだと思うんです。そこは大下さんの力はすごかったなとつくづく思います。よく絶滅危惧種を保護して下さったという感じです。

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(写真:情況創刊号)
それで、『情況』の創刊が6月頃だったと思うんですけども、『情況』が成功した理由は何なのかというと、はじめ『情況』ができた時には、清水多吉とか、いくつか論壇の物書きさんが書いていたわけですよ。編集者の古賀君には、ちょうど6月から東大闘争がはじまっているわけですけれど、安田(講堂)に来て、『おい。山本、何か書け』と言って、それで僕が8月27日に病院の赤レンガ館封鎖闘争というのがあって、直後で、『バリケード封鎖の思想』とかいう題だったと思いますが、11月に(『情況』に)出たんです。それがはじめての東大闘争についての現場からの報告だったと思うんですけれども、要するに言いたいのは、『情況』が成功したのは、そういう既存の物書きさんに依存するのではなくて、現場の、僕もそういう雑誌に書いたのははじめてですよ、もちろん僕の名前は誰も知らんですけど、雑誌買ってもこれ誰だという話になるわけですけれども、そういう既存の物書きさんではなくて、現場で運動している人間に書かせたということが『情況』の少なくとも成功の大きな理由だったと思います。ということは、もちろんそういう現場があったということなわけです。なければ、そんなことは書けっこないわけで。

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(写真:1968.6.17 東大)
どういう現場があったかというと、ご存知だと思いまけど、50年前の今日、何があったかというと、今日は東大に1,200名の機動隊が入った日なんですよ。もうちょっと話を広げて6月初めくらいから言いますと、6月2日、九州大学の建設中の建物に米軍のジェット機が激突したという前代未聞のことが起こっているわけです。

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(写真:九大)
それで6月11日に日大で1万人の集会があって、そこに武装した右翼が襲撃しているんですね。日本刀も持っていました。屋上から砲丸とかスチールの机を投げ落とすんですから。そこに機動隊が来て、大衆は拍手したんですよ、右翼を取り締まってくれると。ところが取り締まられたのは全共闘の方だったので、初めて正体がわかった。それがきっかけになって、法学部のバリケード封鎖をやったのが11日です。その次の12日、日大経済学部をバリケード封鎖した。そこから事実上、立て続けに全学バリケード封鎖に入っていくわけです。

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(写真:「反逆のバリケード」より)
それで6月10日に、東大の医学部全学闘、ブントの諸君ですが、律儀なことに東大当局に対して、本部封鎖も辞さず闘う決意があるということを文書で渡しているんです。そんなこと、わざわざ大学当局に言っとんたんかと、僕はあとで知ったんですけれど。それで6月15日に、東大医学部全学闘と医科歯科大、まあ医学連のブントの諸君ですが、安田講堂を占拠した。それで6月16日に、教養学部の自治会選挙でフロントが勝ったんです。これは他の党派の諸君があんまり評価しない、言わないですが、僕はあの時にフロントが勝ったということは、正直ものすごく大きかったと思います。もし教養の正副委員長が民青だったら、ものすごくやりにくかったと思います。それで、15日に6・15の統一行動があって、僕は大学院でベトナム反戦会議代表なんですけれども、そのいろんな大学院の組織を糾合して、大学院の200人くらいで6・15の統一行動に行っているんですね。それで医学部の諸君が安田講堂占拠に入ってすぐ戻ってきて、17日に大学院中心にして全学闘争連合ができて、これは東大の中で大衆的な全学組織ができたのは初めてなんです、それが一番早かったのが大学院なんです。各学部とか教養学部とかじゃなくて。それ以降、全闘連と青医連が、実際、東大全共闘の中心部隊になっていきました。

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それで26日に文学部が革マル派の主導でストライキに入りました。これも実際、ものすごく大きかったと思います。やっぱり、文学部が鉄壁のストライキをやったということはすごく大きかったと思います、本郷では初めてです。それで27日に経済と大学院が無期限ストに入っている。だから大学院がかなり重要な役割をしていたんです。
それで、今でも覚えていますけれども、6月28日に総長の会見というのがあって、総長は30分と言って、体の調子が悪いから一時引っ込みますとか言ってそのまま帰ってこなくて、僕らは一時引っ込んだんだから待っていようという話で、戻ってこないのはわかっていましたけれども、待っているという口実で、そのまま占拠していたんです。それで、すぐに安田講堂を再封鎖しようといって、その時に、民青の諸君は機動隊導入の挑発行動をやるなと言っていたけれど、大衆的にはあまり入らなかったです。なぜかというと、民青は全学組織である中央委員会、医学部と文学部以外は民青がとっとったわけです。持っていたくせに、1月から医学部の処分反対闘争を何もやらなかったじゃないかと、お前らが孤立化させたんじゃないか、という論理が大衆の中にものすごく入っていたですね。それは、実はその前の年から始まっていたんです。
なんでフロントが自治会選挙に勝利したかというと、10・8闘争からなんですよ。さっきの大下さんの話にありましたけれども、10・8闘争があって、次の11・12闘争をどうやるかというのを、三派全学連の偉いさんがいろいろ相談した、僕は全然知らないですが。ちょうど11月12日に駒場で駒場祭をやっとったんですね。そこに全部部隊を入れる。東大の教養学部というのは、井の頭線の駅の改札口まで大学の構内なんです。ということは、大学の構内からそのまま電車に乗れるわけです。ということは機動隊がそこに入れなかったんです。それに目を付けたんだと思うんですね、どの党派のどの偉いさんか知らんけれども。だから11月12日の第二次羽田闘争は、前の晩から、駒場祭をやっている最中に三派全学連の部隊が全部入って、軍事訓練をやって、次の日の朝、井の頭線の駒場東大前駅から出て行ったんですね。その時、駒場祭の委員会を主導していたのがフロントだったわけです。当然民青は相変わらず誹謗しているわけですけれども。その時に、10・8闘争でお前ら何もやらなかったじゃないか、という民青の諸君に対する非難というのは当然出てきているわけです。それは大衆的にものすごくあったけれど、三派全学連まではやれんという感じのフロントは支持していたんですよ。だから漁夫の利をしめたといわれているんですけれども、そういう雰囲気がやっぱりあったと思います。

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それで、僕らは6月28日の時に安田講堂を再封鎖しろといって、この話しをするのは初めてなんですが、内幕を言うのは、だいたい全闘連、青医連はもちろんやる、それから解放派の諸君もやる、ブントは第一次闘争でほとんど消耗していなかった、革マルは7月5日の代議員大会が終わってから封鎖、僕らは絶対に代議員大会の前にやらなければいけない、フロントは7月ではなく9月からやる、それで延々10時間くらい議論したです。その時に、その議論をリードしたのは解放派のF君という、これはものすごい迫力でした。何が何でも俺がやると、俺一人でもやるみたいな雰囲気で、それで革マル派も含めてみんなを全部説き伏せて、あれは見事なものだったです。それで『じゃあしょうがないやろう』ということで、朝まで議論やって、その晩、封鎖実行員会を作って、7月2日に封鎖したわけです。
その時に僕らはFに言ったんですよ、『封鎖した後、どうするんだ』。何もイメージないですよ。要するに本部を封鎖するという打撃しか考えていない。そうじゃないだろう、僕らはむしろ占拠だ、だから本部封鎖、講堂解放という、それでいかなければ絶対ダメだ、講堂を大衆に解放しろと。それで、実際、その次の日から何があったかというと、本部の事務職員というのは文部省直轄です。だから上の偉いさんから職員に対して安田講堂に行かせるわけです。昼になって職員が押しかけてくるわけです、自分の荷物取りたいとかなんとか言って、それを結局、粘りに粘って撃退していたのは、大学院と青医連なんです。党派の諸君は何もやらなかった。僕らは本当に自発的に集まってきたんです。それで玄関前でやりとりして、『じゃあ私たちが荷物を取ってきますから』なんのかんの言って、毎日2時間3時間それで粘られて、それを10日くらい繰り返して、結局、向こうはあきらめたんですけれどね。封鎖というより占拠闘争、オキュペーションです。それはその当時、本郷、専門課程のあるところですけれども、それ全体を中心になるところがどこにもなかったから、あれを解放したというのは、ものすごくよかった。
何でもかんでも入れる、来た人は全部入れていくようにしてという、その時に理論というのは、ベトナム反戦闘争と同じなんで、50年代の反戦闘争というのは、日本が巻き込まれると、朝鮮戦争に巻き込まれるというのだけれども、60年代末のベトナム反戦闘争というのは、日本がアメリカのベトナム侵略を支えている、経済的にも軍事的にもですよ、はっきりいえば、基地を提供しているんだから、それを露骨に示したのが九州大学の事件であり、加担しているんだと、それをどうするのかという論理が大衆的にものすごく入っていった。ということは、そういう論理を受け入れる大衆的な健全さがあったように思うんです。それと同じで、安田講堂再封鎖、もちろん民青はものすごく誹謗するんだけれども、じゃあ一体、何で医学部の諸君が1月からあれだけ苦労してきたんだと、俺たちはそれを知らんぷりしてきたんじゃないかと、そういう議論でやっていって、医学部の教授会というのは、今の安倍政権と全く同じです。明らかに間違っている、ウソをついている、みんなわかっているけど認めない、全くあれと同じですね。処分者のアリバイから、実際に大学の医学部の講師までが現場に行ってアリバイを認めている、だけれどもそれを認めようとしない。それは今の安倍政権と同じなんですけれど、そういうことを認めてきた他の教授会は何なのかというのが、各学部で議論になっていったわけです。法学部の偉い先生が人権だ何だと偉そうなことを言っているけど、あんた何を考えているんだと、こんなことが大学の中で許されていいのか、そういう風に各学部単位でいろいろやって、それで雰囲気がものすごく変わっていったと思います。
僕らは初めは、8月の10日もしたら機動隊が入ると思って余裕がなかったですけど、今から考えると、もっと余裕をもってやっておけば、安田の中を徹底的に探して、いろんなものがあったんだから、それを全部外に持ち出してどこかに隠しておけばよかったと思うんだけど、そんな余裕はとてもなくて、明日機動隊が入るかもしれない、そんな具合だったですから、おしいことしたと思っていますが。
8月の5日過ぎてから、東大全学共闘会議を結成して、『東大闘争勝利のために』というパンフレットを作った。8・10告示の批判も含めて、青医連のM君と法学部の解放派のF君と僕の3人で作ったんですけれど、それを全学生に配ろう、どうしたらいいか?いろんなことを考えたんですけれども、結局、印刷する金を集めるしかないということで、金を集めて全学生に配ったです。そこにS君が書いた『はじめに』に、僕は今でもちょっと覚えていますけど、『資本制百年の汚辱にまみれた東京大学の歴史』とあって、その時はじめて、そうだ1968年というのは明治維新百年なんだと、その時まで気が付かなかったんです。

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そんなんで、9月過ぎたらやっぱり雰囲気が変わってきて、その間、いろんな学生が入ってきて、我々と議論して、それで各学部で教授とやりあって、10月11月頃になると、僕らの意識では処分問題はもちろんあるけれども、大学の制度をとやかく維持ということは問題でなくなってきてたような感じがするんです。そもそも東京大学って何なんだと、何をやってきたんだというのが僕なんかにしても大きかったですね。それで産学協同という、解放派の諸君が産学協同とよく言っていたので内容を聞いてみたら、教育レベルでのとか言っているんだけど、そうじゃないだろうと、本当は研究室レベルなんです。産学協同というのは、特に工学部、農学部、薬学部、医学部、理学部の一部もそうです。もう露骨に産学協同なんです。要するに国策大学なんです。それが問題なんだというのが、僕らが一番意識しました。だから、11月頃にMLの諸君が『東京帝国主義大学解体』というスローガンを初めて言って、これはMLの諸君が言い出したんですね。それで僕は何か腑に落ちるところがあったんです。こんな風に、各党派、いっぺんくらいいい事やっているんです。革マルも安田講堂から逃げたとかいわれていて、やっぱり文学部のストライキを、ほとんど鉄壁のストライキですよ、維持したのが大きかったです。けしからんのは内ゲバを始めたこと、解放派を襲撃したことです。これは本当に、今考えてもはらわた煮えくりかえるくらい不愉快です。お前ら何考えてるんか、バカという感じですね。そんなんで、僕らにとっては民主化がどうとかこうとかというレベルではなくなって、構造化された大学の問題なんだ、ということが少しずつ意識されるようになってきた。

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プライベートな話をしますが、僕はドクターの3年で、ドクター論文を書くことになっていたので、8月の状況が落ち着いてから安田講堂で計算しとったんですよ。それで、僕の研究室から5人、僕の研究室の素粒子研というのは大研究室なんですよ、5人が安田講堂の出入りしとったわけです。それで僕は研究室に全然戻っていなかったから、途中で気が付いて、一人ひとり各個撃破で教授に呼び出されておった。僕は2人目に気づいて、これはまずいと思って、すぐに研究室に戻って、何をするかというと、教授が呼び出してくるのを待っとったんですね。僕の本当の教授というのは、たまたま外国に行っとって、代わりのボスに呼び出されて、向こうは震えとるんです。手が震えてタバコ出して『吸うか?』というので『いいです』。『君、今何している?』と言うから、物理の教授と大学院生の間で『何してる?』といえば、こういう研究をしていますという話になるわけです。だから、黒板に計算したんです。3行くらい書いたら『もういい』と言うので、失礼な奴だと思って、ようやく向こうも『君は安田講堂に出入りしているだろう』『ああ、しています』『そういう大学院生は研究者として認めない』と言う。あっけにとられて、研究者というのは教授に認められてなるもんやと思っていなかったから、『研究者として認めないというのはどういう意味ですか?』と聞いたら、『共同論文は書かない』。僕はそれまで教授と共同論文を書いたことないですよ。いくつか論文書いていますけれど、全部単名で書いています。教授とやったことはない。もう一つは『外国の大学に推薦状を書かない』。言外に『俺が推薦状を書いたら一流の大学に行けるぞ。お前の本来の指導教官だったら三流だからできない』と言っているんだなと。『わかりました、本気で言っているんですね。じゃあみんなの前で言ってください。全部集めて下さい』、大学院生は30人くらいいます、僕は30人くらい集めました。『先生はさっきこう言いいましたね。こう言いましたね、共同論文書かないと言いましたね、研究者として認めないと言いましたね、外国への推薦状を書かないと言いましたね』。大学院生はみんな怒り狂って、いくら何でもそれはないでしょうというので、結局、僕の研究室ほとんど全部安田講堂支持になっちゃったんですけどね。その直前までドクター論文書いとったですが、研究室にはもう戻らんと思ったです。

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そういうことがいっぱいあって、封鎖闘争というのも戦術的なものじゃなくて、そういう学生なり大学院生の気持ちなり、今までの考え方を変えていく解放空間だったと思うんですよね。さっき『情況』に初めて書いた論文が8月27日の病院の赤レンガ館封鎖と言いましたけれど、赤レンバ封鎖は誰がやったかというと、基礎病院連合実行委員会という、お医者さんと研究者が中心となった封鎖闘争なんです。その後、赤レンガの封鎖は実は20年以上続いたと思います。そこで、精神神経科の開放治療を続けていたんです。だから、そういう風ないろんな内容を持ていたと思うんです。だから、言いたいのは、10・8闘争から始まったけれど、あの学園闘争は、それまでの党派に集約されたような論理に納まらない内容を、さっき、重信さんのメッセージの中に68年ブントが持っていた豊かな総合性みたいな言葉がありましたけれども、そういう内容を持っていたんじゃないかと思うんですね。だから、それまでの左翼というのは、近代化して生産力が向上したら、資本主義では矛盾が起こるけれども、社会主義ならばいいみたいな、非常にシンプルで、何というか、そのためには共産党なり前衛党は権力を取らなければいけない、逆に言うと、そういうところが権力を取ったら何でもかんでも解決するみたいなところが、50年代はそういうところがあったんですよ、60年代を通してそういうことでは解決できないんじゃないか、そんなことじゃないんだ、それはソ連の様相を見ても中国の様相を見てもわかってきたし、唯一絶対正しい前衛党があって、それが勝つことがまず第一で、そのためには少々のことは我慢しなさいみたいな、でもそういう話はないんじゃないか、やっぱり東大の問題にしても地域開発の問題にしても、全てのことに正しい前衛党なんてあるわけないじゃないか、これは60年直後はまだそういう幻想はあったですね。60年安保闘争の総括というのは、本当の前衛党を作らなければいけないみたいなものがあって、僕なんか半信半疑で斜めに見とったからあれですけれど、そういう意識がずっとあって、68年の闘争というのは、本当のところをいうと、そういう風な、もっと広がりのある運動、たとえば共産党なんかでも、我々にあれだけ敵対したのは、彼らは70年代中期に民主連合政府ができると信じとったわけです。そうなると一番じゃまになるのは左の部分であるというのがあったと思うんですよ。ものすごい危機感を持っていたと思います。そういう意味で、住民運動であれ何であれ、一番大事なのは、そういう指導的な前衛党が力を伸ばすことなんだという論理みたいなものが、それでは解決せんと、そういう問題の立て方をしてはあかんのちゃうか、というのが、僕らがあの時に感じ取ったもので、結局、68年革命というのは、そういう風な広がりを持って、それが挫折したと言わざるを得ないけれども、そういう風に思っています。だから内ゲバの問題なんかでも、詰まるところ、そういう前衛党の幻想みたいなものがあったんじゃないかと思います。そうじゃなければ、あんなことできっこないですよ。僕なんかとてもついていけないですよ。何でかというと、絶対的に正しいなんて思えない。そんなことあるわけないと思っているから。その場その場で、実際に運動に関わっている人間が、その問題の前衛党なんだ、前衛なんだと考えるべきなんだと、僕はずっと思っているんです。

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この間、10・8山﨑博昭プロジェクトで、たまたま山﨑博昭君が僕の高校の後輩だったこともあって、それから水戸喜世子さんに言われて、水戸さんに関しては、水戸巌さんがまだ核研におられた頃から知り合いで、米軍資金闘争をやった時からの知り合いで、本当に水戸さんという人はすごい人だと思っていますけれど、初めて米軍資金闘争をやる時に、教養学部の会議室に集まった時に、水戸さんが来られて初めて会って、それで本郷に帰ってきて助手にその話をしたら、『そうか、水戸が来とったか。ほんならこの闘争は本物になるな』と言ったのを今でも覚えています。すごい人だったです。それで10・8羽田闘争の直後に、僕は水戸さんのお家まで行って救援の手伝いを始めたんですけど、もう少し話を広げますと、あの68年のいわゆる新左翼が生んだものの一つとして救援運動があるわけです。それまでは、共産党の救援運動というのがあったわけですけれども、あれは党派の方針を支持する者しか救援しないという。それを水戸さんは、そういう政治信条を離して、権力に弾圧されてきた人は全部救援しなければいけないと、それを貫いた人なんです。それで、その救援運動が実に50年続いてきた。これは新左翼の最大の遺産の一つだと思います。あの頃はゴクイリイミオオイとみんな覚えたけれど、それが今でもまだ残っている。救援運動を続けている、本当に政治信条を越えて権力からの弾圧は救援するという思想を貫いてきた。僕はこれはものすごいことだと思います。
この間、10・8山﨑博昭プロジェクトの中で議論していたんですけれども、10・8闘争の救援から始まった水戸さんの始められた救援運動は、ちゃんとその意義とその歴史を語り継ぐべきではないかと、つくづく思っております。だから、ここのところ、そのことをやりたい、やるべきかなと思っています。
『情況』が50年、絶滅危惧種が生き残ったということですが、救援運動は絶滅危惧種になっては困るので、我々が誇っていいあれで、それやってきた水戸さん、山中幸男さん、本当に頭下がります。立派だなと思っています。
そんなことで僕の話、まとまらないで申し訳ないですが終わります。
(拍手)

※ 当日のもう一つの白井聡氏の講演内容は、別途、ブログに掲載する予定です。

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次回は7月20日(金)に更新予定です。

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