野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2018年11月

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「かつて10・8羽田闘争があった 記録資料篇」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「かつて10・8羽田闘争があったー10・8山﨑博昭追悼50周年記念記録資料篇」(合同フォレスト発行)】
この本は、昨年10・8五十周年に刊行された「かつて10・8羽田闘争があったー寄稿篇」についで当時の生の記録を中心に編んだものです。2004年、兄建夫さんの慰霊碑を建てたいという意を受けて始まった「10・8山﨑博昭プロジェクト」の工夫と創意、友情と連帯が、日々育ち広がり、ベトナム・ホーチミン市の戦争証跡博物館において、「日本のベトナム反戦闘争とその時代展」開催と、国境を越えた活動にまで発展しました。この本の目的は、当時の記録を掲示することで、歴史に屹立して闘いの一つの節目をなした山﨑博昭さんの死と10・8羽田闘争を現在50年後に再確認・再認識する意義があります。圧倒的な質と量の当時の記録は、私自身の20代を蘇らせ、当時視野になかった様々な記録を読むことが出来、未熟な自らを問いつつ読み、描くことが出来る書です。
 主な内容は、第一に「現認&裁判記録」として、死体検案書の掲示、当時の小長井良浩弁護士の「山﨑博昭君の死因について・警察当局の世論操作を糾弾する」や、ドキュメンタリー「現認報告書―羽田闘争の記録」(小川プロダクション)のほとんど無傷の山﨑さんの死顔の写真などや証言、起訴状、国会議事録、都議会議事録がそのまま示され、山﨑さんの死の原因究明が真向から官憲側と対立している姿が鮮やかに蘇ります。
 今、半世紀を経て冷静に読み返してみても、いかに権力側が嘘と強弁で事実を捏造していたかがわかります。第二に当時の「一般紙、機関紙、大学新聞」の記録です。大手のどの新聞も、公安側の情報をたれながし、「学生が学生を轢き殺した」という論調を世間に広め、暴力、暴徒キャンペーンは、かくもすさまじかったか、と今更に驚かされます。当時は「ブル新はどうせ信じない」と、気にとめなかったのでしょう。
 同じ10月8日.日本共産党は、佐藤訪ベト阻止に力を入れず、、当日「赤旗まつり」の最中でしたが、「暴力主義」批判によって、学生、トロツキストを糾弾することで結果的に権力を助ける狭量さを晒しています。第三には、「週刊誌、雑誌」です。ここに涙を拭いつつ読んだ一文があります。「女性自身」68年2月5日号に掲載されている「羽田事件2人の母」というタイトルの、被害者(故山﨑博昭君の母)と、容疑者(車の運転していたとされるN少年の母)の往復書簡として、兄山﨑建夫さんが橋渡しをしている文です。母、山﨑春子さんが、車の運転していたとデッチ上げ逮捕され拘留中のN少年の母親にあてた手紙の毅然とした姿と優しさに胸をうたれます。お母さんは、警察発表の「轢死」に非常な疑いをもっており、弁護士に死因調査を依頼していると述べた上で、「たとえ最悪の場合を考えても、ああいう混乱の中で、博昭が運転免許証を持っていたら、まったく反対の事態が起こったかも知れません。ですから本当に博昭を死なせた原因は、あのようにまで激しい抗議をしなければならなかった、佐藤首相のベトナム訪問にあるのだと考えるようになっております。どうかあなたさまも、お子さま信じてあげてください。(略)どうか、世間のおもわくなど気になさらず、がんばてください」と記しています。その手紙を受け取ったN少年の母は「子供が逮捕されてから、世間へも出られない思いで、主人と考えこんでばかりおりましてまったく死んだような私どもの家に、一点の灯をつけてくださったのは、あなたさまのお手紙でございました」と、手紙を読んで泣きながら受け取り記したことを建夫さんは記しています。こうした文は、当時知りませんでした。「女性自身」編集部は、光文社闘争前で進歩的人々も多かったのでしょう。こうした真心こそ新聞は載せるべきなのに。第四には「チラシ」。第五には10・8羽田闘争の山﨑さんの死を扱った「詩、短歌、評論、エッセイ、小説」などからの抜粋です。当時、読んだものはほとんどありませんでしたが、大江健三郎さんが、大新聞の記事「仲間による轢死」を信じて自分の文章に触れたとのこと。その後、ドキュメンタリーの「羽田闘争の記録」を観て、暴力は学生側でなく、官憲側だと告発して、のちに自らの一文を批判していて、大江さんらしい誠実さを読みました。第六に、当時の「追悼文」「識者の声明文」が再録され、第七に「羽田10・8救援活動の記録」、これは水戸巌さん、喜世子さん御夫妻が10・8闘争直後から、どの学生にも分け隔てなく権力から守り、病院への支払いにカンパにと奔走した献身的な姿がわかります。この活動によって救援連絡センター設立につながり、現在に至っているわけです。
 最後の章で「50年を経て」として、ベトナム・ホーチミン市戦争証跡博物館での顛末などが記されています。ベトナムでの展示は、8月から10月だったものが、11月まで延長されて、8月20日から11月15日まで開催され、281,951人の(ベトナム人49,748人、外国人232,203人。この戦争証跡博物館は、ベトナムで最大のの博物館で、毎年70万人の入場があり、70%が外国人とのこと)世界の人々が見学されたと佐々木幹郎さんの報告に記されています。報告によると、日本からの60名の訪ベト団に対して、「虎の檻」に24歳から42歳まで囚われ死刑判決を受け、3回脱走を試みて失敗し、戦争終結で奇跡的に生き残った82歳の男性が、淡々と当時の闘いを語ってくれたとのことです。佐々木さんは「最後に彼は『あなたたちの運動のおかげで、一日でも早く戦争が終わったことに感謝します』と結びました。その時、聴いていた私たちによろめくような感動が襲ったことを忘れることができません」と記しています。思わず胸が熱くなりました。山本義隆さんは、このベトナムの博物館展示開催の挨拶の中で「この時代は、日本の無名の民衆が世界史の動きに直接関わりを持った、日本の歴史において稀有な時代だったのです」と述べています。稀有な時代・・・。私が不在の日本を、改めて知る思いです。資本の海外進出からグローバル化への時代の変化の中で、逆に「世界」を日本で消費し、世界史の動きが変革と結びつかない時間が長かったのだろうと思います。
 ベトナムの博物館の館長は、こうした活動があったことを、現在のベトナムの若者たちに伝えたいと言われ、このプロジェクトに関わってこられた人々もまた、記録・資料を準備する中で、もともと若者たち(ベトナムや日本の)へと発信することが「10・8山﨑博昭プロジェクト」の役割と発見させられ、文化運動・表現運動としての磁場になっていることを発見したと、後書きで述べています。特に日本では、権力側の発表をうのみにするメディアによって、当時の事実がゆがめられてきました。その過去があいまい化されて今へと引き継がれてはならないと強く思います。未来に、「過去」となった現在が公文書改ざんで歪まないことと同じように。
 本書に収録されたの多様な豊かな表現は、複眼的視座から当時の歴史が、どんな時代で、山﨑さんの死がどんなに権力側に脅威となり、事実を隠蔽しようとしたのか、マスコミ操作総動員の「学生が学生を轢き殺した」というフレームアップと暴徒キャンペーンの中で、どれだけ多くの良心が真実を追求し求めたのか、この本の中身はその氷山の一角にあたるといえるでしょう。佐藤首相のベトナム訪問こそ糾弾されるべき平和と反戦の敵対行為であったこと、それを権力側からの物語に埋没させまいと、学生運動・反戦闘争の当時の正当性を山﨑さんの無念の死と共に歴史に刻んでいる本です。
 50年前の10・8闘争とその時代を生のまま伝える手段として、この資料篇は歴史書として広く読まれるべきだと思いました。
10月21日記
注:本は10月17に落手しました、感謝と共。  重信房子

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【本の紹介】
「かつて10・8羽田闘争があったー10・8山﨑博昭追悼50周年記念記録資料篇」
待望の「記録資料編」!
記録が語る、資料が語る!
10・8羽田闘争と山崎博昭君の死をめぐる関連資料全170余点を収録!
半世紀前の激動が、いま、甦る。
政府・警察・マスコミのけたたましい暴力学生キャンペーン、それに対する透徹した冷静な論説、ベトナムからの連帯表明、欧米の反響など、1960年代後半の日本社会の風景が浮かび上がる。
四六判640頁+巻頭写真16頁 定価=本体3900円+税 発行-合同フォレスト 発売-合同出版
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[主な執筆者]
大江健三郎  高橋 和巳  松下  昇  鈴木 道彦  立松 和平  
岩田  宏      黒田 喜夫  長田  弘  三枝 昂之  福島 泰樹  
北井 一夫(写真撮影)         小長井良浩  水戸  巌  水戸喜世子  
山崎 建夫  山本 義隆  三田 誠広      辻  惠     佐々木幹郎
[収録内容]
●巻頭:記録写真集(全16ページ)
●序文
●概説・10・8羽田闘争とその時代
●現認&裁判記録
●一般紙、機関紙、大学新聞
●週刊誌、雑誌
●チラシ
●詩、短歌、評論・エッセイ、小説
●追悼文
●声明
●羽田10・8救援活動
●50年を経て
●後書

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月7日(金)に更新予定です。

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」143号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より  2018年5月9日~2018年8月7日>
5月9日 今日は雨のせいか肌寒いです。
連休が明けて、資料などが夕方にたくさん届きました。
今日はコーラスもあり、忙しいうちに診察も入りました。主治医から、5月17日に大腸内視鏡検査を行うことを伝えられ、書類に署名押印しました。
(中略)
5月15日 70年目のナクバのパレスチナの日。新聞の一面に米大使館エルサレム移転に抗議し、14日デモ隊にイスラエル軍が銃撃して子ども6人含む41人が死亡。3000人超が負傷したと報じられています。これは14日午後4時50分現在の数字。西岸地区でもガザ地区でも非暴力デモ。イスラエル軍には非暴力抗議すら通用しないことを世界に明かしています。今日ナクバの日も続いているでしょう。5月14日のエルサレムへの米大使館移転歓迎式典はイスラエルの招待した86ヵ国のうち20余ヵ国のみの参加です。参加した国々は自国への米の経済援助のための国々がほとんど。
パレスチナの人々が怒っているのは、93年「オスロ合意」でエルサレムの帰属は最終的地位を両者で決定するとしていたものを、「イスラエルの首都」と米政府が認めたことで既成事実化し、交渉の議題から無くすことを狙っているからです。とは言っても、すでに「オスロ合意」はイスラエルが放擲(ほうてき)しています。93年「オスロ合意」から減らすべき入植地は93年当時の2倍の250ヵ所あり、政府の認めていないものが更にあります。人口は3倍の60万人に増え(西岸40万人と倍増、東エルサレム21万人超)、とくに今は旧市街地の「ユダヤ化」のためにキリスト教徒を含めパレスチナ人への弾圧、様々な口実の追放を企んでいます。
米の大使館移転にネタニヤフが「勇敢な決断に感謝する」と持ち上げているのに対し、PLOのハナン・アシュラウィは、「重大な歴史的不正義が今日も続いている」と強く非難しています。
去年4月6日ロシア外務省は中東和平に関する声明で「東エルサレムを将来のパレスチナ国家の首都、西エルサレムをイスラエルの首都として認める」と述べて、これまでのテルアビブからイスラエルの首都認定を変えていましたが、東エルサレムはパレスチナの首都と認定しています。
また、アッバース大統領は去年11月11日のアラファト死去13周年のガザのビデオ演説の中で「ガザだけの国家も、ガザなしのパレスチナ国家もない」と表明し、中東和平交渉で二国家解決構想がダメになった場合、パレスチナ人がイスラエル人と平等の権利を持つ一国解決を目指すと述べたようです。これは一国解決を恐れるシオニストに対する表明ですが、本気で平等の権利を実現する一国解決に向けて、血も汗も流す覚悟とは思えません。去年からパレスチナ自治区の統一政府討議が続きながら、結局ハマースを武装解除しようとする米・イスラエルの後押しで、パレスチナ自治政府(PA)が行政・治安権限を全掌握目指しつつ、今もハマースは軍事部門を手離していません。
トランプのエルサレム首都宣言で、反米政治活動を共同しつつ、両者は統一政府に対しては解決になりえないままです。9年ぶりに開かれたPNCでは、ハマース・PFLPらボイコットのままアッバースをPLO議長に再選して終わりました。PNCは、トランプのエルサレム宣言問題を非難し、「パレスチナ国家の永遠の首都」としてエルサレムを首都とするパレスチナ国家樹立を目指すと5月4日PNC最終宣言を採択しています。しかし、70年目のナクバ、本気で難民問題の解決を、国際社会を動かして問うような戦略的方向は出されていません。
(中略)
5月18日 Mさんの便りで、「パレスチナ連帯!ガザと共に!15日間行動」の様子を知らせて下さいました。「5/14はイスラエル国旗を掲げた3人の女性が『行動の妨害』に来ました。しかし、むしろ行動参加者や通りがかりの人から、イスラエルの暴力的な行為について指摘されていました。15日最終日の大阪梅田には40~50人の方々が行動参加下さいました。」とあります。70年目のナクバに連帯は果敢に日本でも声を挙げ続けていたのを知りうれしいです。でもイスラエル国旗で妨害に来る人がいるなんて、日本の今の安倍政治の反映ですね。イスラエル市民の連帯なら歓迎なのに……。大丸東京でもBDS運動のキャンペーンで「大丸東京店のイスラエル入植地ワイン販売」は「取り扱わないことになりました」と返答を得ていますとのこと。「パレスチナ現地はもとより日本政府・安倍内閣によるイスラエル協力関係強化も含めて、とても厳しい状況が続いています。微力ですが粘り強く皆さんと共に歩みたいと思います。」とMさんの声は辺境に居る私に大きな力です。もうすぐ5・30も近づきました。
(中略)
5月29日 今日は、丸岡さんの命日です。あの 3・11 の年ですから、もう 7 年も経ったのですね。この昭島医療センターの環境なら、丸さんももう少し何とかなったでしょうが……。新緑の森を見つめつつ、朝、丸さんに挨拶しました。
5月30日  再び 5 月 30 日を迎えています。正確には闘争は、日本時間では、5 月 31 日の明け方でしょうか。現地時間では、予定より飛行機が遅れて、夜 10 時過ぎていて、タラップを降りる時、空を見上げたら星が煌いていたと、岡本さんが後に語っていました。すでに 46 年目を迎えています。きっと友人たちが「葬式ではなく祭りを」という、リッダ戦士たちの残した言葉に応えて集い、小さな宴を催していることでしょう。またベイルートでは、 PFLP や岡本さんらが、バーシム奥平、サラーハ安田、ユセフ檜森、ニザール丸岡の共同の墓石の前で、彼らを労い敬礼していることでしょう。闘いを記憶し、連帯してくれる友がいるおかげで、バーシムたちの闘いとその実存は、46 年経った今でも生きています。
70 年代、非同盟運動や社会主義諸国が存在し、アラブでは「アラブ民族主義」が反植民地主義・反シオニズムを掲げ、パレスチナの全土解放闘争を支援していました。しかし、どの国も各々の経済的困難や矛盾を抱えていました。「アラブは一つ」と訴えつつも、アラブ民族主義が植民地支配の国境線を取り除けず、また、アラブ地域に偏在する石油などの富を「アラブの財産」として人々のものとせず、王制国家は資本主義国・石油メジャーらと国境の内側で利権をむさぼり合っていました。この克服できなかった格差は、今、どの国もアラブの大義の要であったパレスチナ解放の当事者性を失ったままにあることは、ガザの厳しい現実が、解決されずにあることに示されています。
「帰還の権利」が国際社会のアジェンダから外されてきたことが、ガザの封鎖された 70 年目のナクバの闘いで訴えられています。ベイルートのシャティーラ、サイダのアイネヘルワ難民キャンプが、パレスチナ解放闘争の基地だった豊かなリッダ闘争の時代を思い浮かべる時、この「ナクバの 70 年」ほど、パレスチナの存亡の危機を示しているものはありません。闘いの指導部の過ち(オスロ合意)は、かくも民族の危機を引きずるものだと、改めて憤りをもってイスラエル・米の仕打ちを直視しています。「今世紀は負けたかもしれないが、来世紀は勝つ!」と言っていた楽天的なパレスチナの友を思い出しつつ、「ナファス・タウイールだよ」を想いつつ。(「持久戦」・「息長く」の意「ナファス・クウイール!」と言われる度、当初意味を知らず、私はマレシと同じか「まあ、なんとかなるさ」という意味と思っていたのです。)
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5月31日 白井聡著の「国体論 菊と星条旗」はとても説得力のある日本論です。「国体とは何か?」という切り口から、2016年8月の天皇の「お言葉」を解題しつつ、天皇の危機意識の根源を追います。そして戦前と戦後の国体の形成・発展・崩壊を比較検証しつつ、戦後の国体を鮮やかに浮かびあがらせます。戦後はかつての天皇の位置にマッカーサーが在り、占領軍に主権が握られた状態にあったこと、しかしそれは過去形ではなく昭和天皇も奨励し、サンフランシスコ講和と同時に日米安保条約を結ぶことでその関係を継続して、今も変更がないこと。「米が望むだけの軍隊を望む場所と望む期間だけ駐留させる権利」(ダレス米大統領特使)を許したのです。
戦前も戦後も制限主権状態にあり、「国体」が国民の政治的主体化を阻害してきたこと、そして冷戦期「手段」であった対米従属は冷戦後逆に「目的化」され、安倍政権の現状で露呈しているのは天皇ではなく米国への忠誠であり、その分米国の作り上げた天皇制民主主義・「国民の統合」としての天皇の役割も危機に陥っている現状をあきらかにしています。「対米従属とは戦後の国体なのだ」と天皇の戦前と戦後の位置を明らかに示すことで、米が主権の要を握っている以上、戦後の国体もまた崩壊の危機にあることを訴えています。「お言葉」に衝撃を受けた著者が「戦後の国体」という切り口から不可視化された対米従属の構造を日本の特殊性として根底的に問う視座は深刻な安倍政治と対峙する論理を形成しているところが注目です。
私も憲法を骨抜きにした「統治行為論」を廃しない限り、今後の改憲論議は歯止めもなくなると危惧しつつ読みました。(伊達判決を葬った「統治行為論」の詭弁です。)でも、安保条約は望むなら破棄できます(第10条)その気があれば!です。
6月4日 日大の体質はまったく50年前と変わっていないのは、自民党に多くの責任があります。日大の理事らと利権を分かち合い、批判する勢力を官憲と一体に弾圧してきたからです。
68年9月30日両国講堂には3万5000人の日大生が集まり、5月に結成されたばかりの日大全共闘が日大経営陣の使途不明金の不正に団交で立ち向かいました。この日の団交で学生側が勝利し、全理事の退陣など12項目について理事会側に合意させました。ところがこの日の学生たちの勝利に危機感を持ったのは自民党政府・官僚です。68年ベトナム反戦闘争が世界中で戦われ、日本のベトナム戦争加担に対し抗議し、また自民党の文部政策を批判し全共闘運動が勢いを増していた時です。
この年の10.21闘争では1500人を超える人々が一日で逮捕されています。時の佐藤内閣は個別一大学の不正をただす行為に対して、10月2日「日大の大衆団交は認められない。政治問題として対策を講じる」と宣言し、日大当局と共謀します。翌10月3日には日大当局は「9・30確約(全理事退陣など12項目)」の破棄を宣言しました。そして10月5日警視庁は大学側の告発を理由に日大全共闘議長以下8名の逮捕状を発動し、権力と一体に運動を潰していきます。
東大闘争でも、69年1月の安田講堂攻防翌日の20日に東大は入試を断念し、同時に東大全共闘議長への逮捕状が発動されます。常に権力と一体に「合法性」を独占し、異議申し立ては「非合法」に追いやる手口。これが自民党のやり方で、「籠池逮捕」もその口です。市民の監視と発言の拡大で対峙を作り出すことは、スポーツ・社会問題・政治全分野で問われます。

6月13日 今日の午前中に受け取った6月12日の夕刊と6月13日の朝刊には、米朝首脳初会談が大きく報じられています。米が北への敵視政策をやめて、戦争終結・平和条約へと考えるなら、これまでと違って前向きに進みそうです。この問題の解決はトップダウンしかないし、それが始まったからです。金労働党委員長は戦略的であり、柔軟な戦術を多用して非核化もよし、と構えているようです。「主体思想」の国ですから、中国・ロシア・韓国を巻き込んで、戦略を実行しようとするでしょう。そして中国式の手法で経済強化を目指したいところでしょう。
文大統領が反共・陰謀の人でないことが前進を作り出しそうですが、問題は日本政府。過去の植民地支配と向き合い、謝罪と賠償を自ら求めてこそ、拉致問題の全面的解決になるはずです。ブレーキ役はもうなりたたないはずです。米朝首脳のような未知への決断力のある日本の首相が必要です。第二次大戦の「戦後秩序」は、植民地支配の矛盾を、東に38度線の朝鮮半島、西にイスラエル建国によるパレスチナ問題を抱えて出発し、その矛盾の解決は未だなされていません。
トランプ政権は東でのディールに気をよくし、益々イラン問題、エルサレム問題の混迷を、西でなりふり構わず続けそうです。イスラエルの、レバノン・シリア・イランへの戦争挑発にゴーサインを出し続けることでしょう。
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6月21日 今日は運動に出る人が多かったせいか、いつものベランダ(とっても狭いのは前に書いた通り)から、一階上の7階の屋上部分の自然芝のところで初めて運動へ。プラスチック柱から南に広がる緑地や街並みが少し見えます。昭島は、立川基地跡のところに医療センターがあるせいか、空き地が目立ちます。でも、みな隅に座ってそれぞれ固まって30分の交談を楽しんでいて、歩いたり走ったりしているのは約一名の私です。
今日は夏至。快晴ではないけれど、風が身体を包み、空がこれまでより広く見えるので、開放感があります。少しうれしい運動時間でした。
(中略)
7月3日 午後整髪、ショートカットにしました。暑くなるので整髪の順番が回ってきてホッとしています。
新聞の地域版に前川喜平さんの講演で「星野君の二塁打」の話をしていたと出ていて、へえ、まだ「星野君の二塁打」は小学校の教科書で扱っているのですね。あれは小学何年生で教えるのでしょう。昔、私はこの監督の考え、チームワークの重視に反対意見を述べたのを思い出します。星野君も自分のためでなく、チームの勝利を考えていたはずで、それを一方的に否定するのは星野君の決断を抑えつけるようではないか?と。小学校の先生は「でもね、監督に従うことが求められている」とあれこれ説明し、教室で「監督に賛成の人」と手を挙げさせました。大多数でしたが、挙げない人も何人も居ました。納得いかず家に帰って父に話したことを思い出します。「房子は房子の考えを大切にすればいい」と笑っていました。そんな事を思い出しました。
(中略)
7月5日 八王子時代から続いている行事ですが、七夕の笹飾りに希望者は短冊を交付されて希望などを笹に飾り付けることができます。私も子ども時代の習慣を思い出しつつ楽しんでいます。健康(みんなの)やパレスチナの平和を!など。
今日は一か月ぶりの診察。耳鼻科とも主治医は話してくれ、また私も補聴器の高値だったことを伝え、結論的に最もシンプルな解決──大声で話してもらうことと何度も聴き返すこと──で当面解決することにしました。

7月6日 九州・西日本・東海では大雨被害甚大とのこと。ここ昭島でも雨です。
今日は7・6事件の日。ブンドの中から、党の軍隊の形成と蜂起的闘いを求める部分が、党の革命をめざして赤軍フラクを形成し、中央の統制に反発して、明大和泉校舎にいた仏議長らをリンチしました。そして、機動隊の包囲下、リンチ重傷を負った仏議長を、結局破防法の逮捕状が出ていたのですが、逮捕させてしまった日です。加えて、東京医科歯科大に、その後襲撃に来た中大グループに、今度は塩見議長以下が拉致され、赤軍派の暴挙によってブンドが崩壊し始めた日です。でも時制的には、赤軍派の行動より早く、朝から中大グループは望月さんが上京して医科歯科大に入る以前に見つけ、拉致しています。
赤軍派形成、7・6事件は、自己批判してきた事件ですが、もっと言えば、それまでの私たちブンドの在り方、党内・党派闘争の在り方思考方法に問題があったと言えます。「新左翼主義」と言ってもいいのですが、常に対象批判・責任追及・自己正当化の三段論法で、「分裂の党観」に立っていた分、「批判精神」をもって真面目に真剣に問う分、分裂を作り出し、その思考が「違い」を追及して分裂の道を開いていきました。ブンドは連合的な大衆闘争機関として、その党的な指導を果たしているうちは、情勢もあって影響力を発揮しましたが、違いを理由にマル戦派に暴力をふるった時から(目撃した人によると、それを始めたのは学対の塩見さんで、その指揮下、早大社学同が明大学館五階ホールで、マル戦派で全学連副委員長だった成島さんに対するリンチを始めた)分裂の党派・党内闘争が始まった、といえます。党の統一の要諦は「違い」を受け入れることであり、共同の要諦は「違い」を認めリスペクトすることにある、と私は自分たちの活動反省を込めて実感してきました。それができないのなら統一も共同もしないのが肝要です。
かつて70年代から80年代、私たちはアラブで日本の共産主義運動・新左翼運動を「理論委員会」を設置して学習総括したことがあります。その時の教訓は「大地に耳をつければ日本の音がする」(亜紀書房刊)にまとめましたが、結論として党とは何か?と「党の役割」を一致してまず、それを基準に「自己批判―党の革命」の立脚点をもって進むことだ、ととらえました。「党の役割は、社会革命・変革の実現にむけて諸勢力を統一しつつ、革命に勝利すること」統一し得るようなあり方とは……など、当時母体を失って国内に力を持たない自分たちを「国際部の役割」と規定しつつ、国内の変革主体の形成の一翼たらんと総括していたのを思い出します。「7・6事件」は「内ゲバ」など、日本の闘いの在り方を問う契機でしたが、武装闘争の方向へと流れることで、ブンドも崩壊し「連赤」へと至って行ったと思います。自らの反省と共に心に刻む日です。
(中略)
7月12日 今日午後、転房になりました。南の少し緑の見えた房から、向かいの北向きの何も見えない房! プラスチック塀から光が入るので、昼と夕方などは判るのですが、やっぱり閉塞感が……。
(中略)
7月18日 今日も猛暑のようです。昭島の予想気温は36℃~26℃。
昨日はコーラスで私にとっては新しい歌「ビリーブ」を習い、「夏の思い出」「花は咲く」「七夕」などを歌いました。
今日は東では城﨑さんの控訴審開始。西では山田編集長に対する地裁判決の日です。今の司法はまったく期待がもてません。希有に憲法に沿った大飯地裁判決をたちまち高裁で覆してしまうからです。
ひまわり2本鉄砲百合4本(蕾各2つ)の豪華な花が届きました。夏を感じることが出来ます。これから緑色の百合の蕾は白百合に日毎変っていくのが楽しみです。
猛暑続き、去年は八王子で蚊やダニそれに暑さの中にいました。65才以上は夜冷し枕を毎晩、日中も貸与してくれました。運動場で麦わら帽子をかぶってクラクラする程の強い日差しの中走ったものです。でも昭島ではエアコンで暑さの心配はなく、ときどき寒い位。でも体調は緊張感を欠いたせいか、どこかここか痛んだりしています。腰痛、胃の鈍痛、倦怠感など体力が落ちています。
(中略)
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7月22日 米澤鐡志著「原爆の世紀を生きて──爆心地(グランドゼロ)からの出発」を読みました。この本は1945年8月6日朝、広島市内の爆心地近くの電車の中で母と共に原子爆弾を浴びた10才の少年が恐ろしい破滅と人間の生き死を見せつけられながら被爆の死の淵を彷徨い、9月1日母を失い、母乳を乳んだ一才の妹を10月に失いながら奇跡的に助かり、それからどんな人生を歩んできたかを伝える記録です。この「運命の子」米澤鐡志の生涯を貫く思想「核と人類は共存出来ない」が、どのように生まれてきたかを語り尽くしています。この運命の契機は苛酷で残虐であったけれど、それに立ち向かい自らの生き方として反戦平和の先頭に立って来、83才の今も闘い続けている米澤さんの感動的人生が綴られています。遠くない日本がどんな時代だったのか是非若い人々に読んでほしいと思います。歴史も判り易く読むことが出来ます。巻末には由井りょう子さんの文による「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」の前著も紹介されています。京都時代の日共との対立や、その後の「社会主義革命運動」(社革)などの当時のことなど短くまとめられています。もっと知りたい点(書きたい点)もあったでしょうが、全体のバランスの中で良くまとめられていて良いと思います。本全体の装丁、デザイン、コラムなどの配置もとっても読みやすく良い本に仕上がっています。

7月23日 この間、7月19日以来、体調を崩し今日は39.1度。血圧も高くしんどかったのですが(週末は免業日で処方以外の薬はよほどでないともらえない。それで月曜日まで我慢していたら、今日は悪寒で冬物衣類を着て震えていました。)3時半に主治医診察でインフルエンザも念の為チェック。陰性です。熱さましの薬を飲んだら熱くなってすっかり熱が下がったらこの間のしんどさは嘘のように元気です。でもまだ食欲はわいてきません。ここも熱中症対策で戸外運動は19日以降中止。でも19日夜体調を崩したので熱中症も関係あったかもしれません。
(中略)
7月27日 朝、まだ頭が熱いお豆腐のように感じます。今日はN和尚がお盆法要に来て下さるのに。10時半過ぎ診察。いつもの主治医でない他の医師。状況を説明し、医師から7月24日の血液検査の結果、感染症の数値、CRPなども高いので、CT検査、測った心拍114なので心電図もとることになりました、病室に戻り、昼食前面会の呼び出しです。薬が効いて、シャキっとなっていたので、車椅子を使わずに面会室へ。お盆法要にN和尚とメイの友人のMちゃんが来てくれました。ちょっと体調を崩したことを先にお断りし、それも含めて読経でお盆法要して下さった。私とMちゃんは黙読しつつ合掌。その後、7月6日にN和尚の寺、福島住職の法昌寺で、高原夫妻がみえて、遠山さんの法要を執り行ったり、7月22日には、遠山さんのお母様の名で、お経を納められたそうで、ずっと祈っていた和尚の存在を、もっと早く遠山さんご遺族に知ってもらったら良かった……と思いつつ、嬉しいことでした。法要共々ありがとうございます。
(中略)
7月31日 今日はもう普通の体調に戻りました。ちょっと疲れやすい程度です。こんな歌が零れます。“七月尽総身にエネルギー取り戻し灼熱好きの私にかえる”
(中略) 
8月3日 この頃ジャーナリストの安田純一さんの映像がネットで出回ったというニュースがありますが、この拉致事件は金銭を要求しているもので、日本政府が国民に果たす義務として真剣に要求に向き合えば解決するものです。もし政府の身内のものだったら、もっと真剣に対処していることでしょう。一般の、殊に政府に批判的国民にはまったく冷たい安倍政権です。「裏交渉」はしていると思いますが、犯人を特定しようとか、全額を支払わないで済まそうとか、人命第一で対応していないのでしょう。安田さんの発言したという「韓国人オマル」というのは、裏交渉の符丁でしょうか。そのうち結果が出そうです……。
救援の山中さん救援紙100号までの縮刷版送って下さってありがとうございます。丁度69年から71年頃までの当時の攻防について調べたかったので大変助かりました。77年まであるので76~77年の泉水さんの獄中決起も読めました。泉水さんの決起のお陰で八王子医療刑に移された友人の囚人は泉水さんの公判の証言に立って感謝を述べています。しかし獄中決起に官は制裁のごとく3月29日懲役2年6カ月の有罪を科しています。その後数カ月でダッカ闘争があったのですね。この救援縮刷版は調べ物をするのに大助かりですが、そればかりか時間があれば当時を思い返しつつじっくり読むと色々記憶も喚起されるし、懐かしい旧友らの名(逮捕とか獄中アピール、公判レポートなど)がたくさん!ああ、闘っていた時代がそのまま零れる良書。ありがとうございます。
(中略)
8月7日 7月イスラエル国会で「イスラエルはユダヤ国家」と宣言した「国民国家法」が可決されて以来、自治区や占領地ばかりか、イスラエル国内で反対が広がっています。4日にはテルアビブで数万人が参加し「民主主義に反する法を撤回しろ」と抗議集会が開かれています。アラビア語とヘブライ語がイスラエルの公用語だったのに、この法によって公用語はヘブライ語のみとなり、入植地建設も「国民的価値」として「その建設と強化を奨励および推進する」と謳い、エルサレムは「統一不可分のイスラエルの首都」と宣言しているものです。
トランプ政権に勢いづいた右翼連合政権は、これからこの基本法に沿って法整備に着手するとのこと。明確なことは、トランプ・ネタニヤフコンビが中東危機の元凶だということです。「二国解決」を求めるシオニストユダヤ人の労働党系や、今回はパレスチナアラブ系イスラエル人の中でもドルーズ派が公然と反対を訴えているのは当然ともいえます。アラブ系でも兵役に就きユダヤ系と「平等」と囲い込まれながら、この法で母国語は公用語から格下げされ、平等が目にみえて損なわれるからです。国内に14万人のアラブ・ドルーズがいます。「全市民平等」はこの新法で法的にも殺され、ユダヤ人の優位性を定義した以上「民主主義国家」のまやかしの看板ももう剥げています。益々、シオニズムの本性である「選民思想」を問う闘いへと発展することを願っています。
今日立秋、今度は台風接近!猛暑豪雨台風の夏乗り切って共に。
1968年から50年目の夏を思い返し、あれこれ反省も含めて思わず笑いがこみ上げます。
(終)

【お知らせ その1】
10・8山﨑博昭プロジェクト関西集会
「世界が見た10・8羽田闘争」
●日時:11月17日(土) 開場:13:30 14時~17時
●会場:エル・おおさか 5F 視聴覚室
アクセス:http://www.l-osaka.or.jp/pages/access.html
(最寄駅/天満橋駅から徒歩)
●資料代:1000円
講演1 アメリカから見た10・8羽田闘争、及び日本のベトナム反戦闘争
講師:幸田直子(近畿大学国際学部国際学科講師)
講演2 在日コリアンから見た10・8羽田闘争と韓国民主化運動
講師:金光男(キム・クァンナム)(在日韓国研究所代表)
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【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は11月23日(金)に更新予定です。

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