野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2018年12月

2025年「大阪万博」開催が決まった。テレビなどでは1970年の「大阪万博」を回想する報道が流されるようになったが、「人類の進歩と調和」という当時の万博のテーマに沿った報道で、万博で展示された技術が今の時代にどう生かされているか、というような視点がほとんどである。当時、万博は70年安保闘争から目をそらさせるものだとか、万博の意味を問ういろいろな批判的意見があった。また、ベ平連が中心となって「反戦のための万国博」(反博)が大阪で開催されるなどの動きもあったが、そういうものは報道されていない。

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(写真:反博)
そのような報道を見ていると、やはりもう1度この人たちの記事をブログに掲載すべきではないかと思った。それは「万博破壊共闘派」である。ブログのNo93(2009年7月)で「1969年万博破壊共闘派」というタイトルで記事を掲載したが、その続きの記事を掲載することにした。
「万博破壊共闘派」は、1969年、日本で最も過激な儀式集団といわれている「ゼロ次元」の加藤好弘氏が中心となって結成され、文化管理体制に向かいつつある万博に、破壊を持って闘うという方針で全国的に反万博の行動(万博破壊のティーチインや儀式大会)を展開した。
1960年代後半の前衛芸術運動、アートパワーの炸裂のすさまじさを見てみよう。
まずは、朝日ジャーナルの「文化ジャーナル」欄に掲載された記事である。

【アート・パワーの台頭―文化管理体制と万博破壊共闘派―】朝日ジャーナル1969.7.13
「あと八ケ月にせまった日本万博を目標にして、ハーマン・カーンなら、“全面戦争”と呼びそうな文化管理体制があり、70年にいたる文化・芸術の管理の里程標として、美術に限っていえば、毎日現代美術展、箱根の森美術館がおかれているといったらいいすぎだろうか。たとえば、微弱ながら毎日現代美術展に対して、若い作家、批評家の側からの“造反”の芽生えがみられたという事実。芸術が自由を求める場であったかぎり、だれもが意識するとしないとにかかわらず、こうした“万博気流”の息苦しさを感じていることは否定できないだろう。
 その息苦しさを太平洋戦争中の大政翼賛美術にたとえたのは、建築ジャーナリストの宮内高久だが、かれや針生一郎、久木浩二らによって編まれた「われわれにとって万国博とは何か」はたしかに時機にかなった発言であった。
<反制度・反管理>
 しかし、問題はこの発言者である針生一郎がほかならぬ毎日現代美術展の審査員の一人であったということ。また、現代美術展のあと行われた“ティーチイン”ではこの展覧会の“公開審査”要求の首謀者であったはずの批評家の石子順造、作曲家の刀根康尚は、こうした状況の複雑さにおそれをなした形にみえ、同じ審査員であった東野芳明や針生に軽くいなされたうえ、いっそ会場占拠に踏み切ったらどうだったのだと、逆にアジられろ始末だった。
 公募―審査―受賞といった外在的な管理機構の中で犯されずに存在するとされた芸術の内在的な自由、その独自の価値基準に対し、全面的な文化管理を想定してもなお安心していられるのか、というところにしぼられるはずである。さきに開かれたエレクトロマジカ展などをめぐって流行している“芸術のテクノロジー”論も、テクノロジーというのがじつはこうした管理機構をもふくんで、ほとんど全文明的な観点を持ってわれわれを取りかこんでいるものであることを考えにいれたうえで展開されるのが本筋であるはずだ。
 このティーチインで、いささか明確さを欠いたとはいえ戦闘的な姿勢でこうした視点をとったのは“0次元”の加藤好弘やアングラ映画の金坂健二であったろう。ビート時代から始まってヒッピーアートにいたったアメリカの地下芸術運動に一貫しているのがこの反制度・反管理の姿勢であったはずであり、日本のアングラが、体質の弱さを示したのは、そのへんの意識の不徹底もあったのではなかろうか。
<万博破壊の勢力>
 現在、加藤好弘によってひきいられる、いわゆる“儀式派”たちを中心として異常な盛り上がりを見せはじめた第二次アングラ勢力“万博破壊”をスローガンとする行動はそれを強化しようというものである。
 10年の“儀式歴”を持つ0次元を始め、末永蒼生らの“告陰”、“ビタミン・アート”秋山祐徳太子、そして関西にはランニング・アートの岩田信一、九州派の桜井孝身など多数のメンバーがおり、かっての“狂気見本市”から現在では“万博破壊ブラック・フェスティバル”と銘打って日本中を巡回し続けているし、パンフレット、地下新聞による活動もめざましい。儀式という形式にうかがわれる一種の精神主義など、もちろん問題を内側にはらんではいるが。

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<反博共闘派と大学共闘派>
 さる6月10日、これら万博共闘派は、はじめて京都大学教養部のバリケード内に潜入、学生ノンセクト・ラジカルが主体となった、いわゆる“バリサイ”に参加した。現在日本のニューレフト勢力を構成する知識人たちの論理をも“体制”であるとし、ゲバ棒に文化面で共闘しうるのは肉体による“狂気”のデモンストレーションだけであるとする彼らの主張のほうが、圧倒的に学生たちとのコミニュケーションを成立させた模様である。
 同じ10日の午後、京大の教養部本館の屋上で、かれらおとくいの全裸片手上げ整列儀式が敢行され、はじめて閉鎖中の学園紛争の場で“アート・パワー”が発揮されたよしだが、“関西プレイグループ”の水上旬が屋上から綱渡りの途中で地上に墜落、負傷するというおまけがついた。“狂気”を標榜してエスカレートする以上、この種の不祥事は、むしろつきものであって当然ということになるが、暴力の季節には芸術も暴力化しろということか。これ以外に芸術が時代に積極的に対峙する力を回復する道は残っていないのか、芸術家、知識人全般のノド元に刃のように突きつけられた問題提起としてこれを見る必要があろう。」

この「万博破壊共闘派」の一員として、京大の儀式にも参加した秋山祐徳太子が、「通俗的芸術論 ポップ・アートのたたかい」(1985年土曜美術社刊)という本の中で「万博破壊共闘派」について書いているので、それを見てみよう。

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【ゼロ次元商会反万博ににりだす】「通俗的芸術論」秋山祐徳太子著(引用)
『ゼロ次元に出会ったのは、もう20年も前に岐阜アンデパンダンに出没した頃である。名古屋に本拠があって、連日、儀式と称するものをやっていた。中でも面白かったのは、人の芝居を観に行って、そのまま自分たちも袋に入って舞台に出てしまい、芝居がどちらのものだか分からなくなってしまったというようなことだ。ある時は椅子をもち出して一日中椅子に座って移動してみたり、とにかく裸でくり広げる儀式がショッキングなものだというのは前から伝わっていた。
名古屋では岩田信市さんと加藤好弘さんが中心にやっていて、為夫・ド・コバンスキなるロシア人(いや日本人だった)もいたりしたが、加藤好弘さんが東京に進出してきた。
加藤さんは日常生活では明星電機というごく当たり前の事業を始めていた。むしろぼくはこの当たり前の日常の方に魅力を感じた。社員も出社時間から退社時間までは普通のサラリーマンである。言ってみれは一小市民の姿である。その人たちが、勤務時間の後に、ゼロ次元商会の一員に転身する。
ぼくはゼロ次元のいろいろな儀式を観たし、最後には共に行動した。なにしろ連日やっているので、自分たちでも回数は分からないという。その代表的なものをいくつか紹介すれば、ほくの家の近くを走っていた、今は無いが、⑤番の都電、目黒―永代橋を一日借り切って「市電車内寝体儀式」というのをやる。車内で男女が寝ころがってロープに縛られたりしている。そして奇声を発したりする。

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(写真:市電車内肉体儀式:「通俗的芸術論」より転載)
変な乗客が載っていると街行く人は理解に苦しむ。都電は正規の運転手が運転したまま都心へと走る、花電車にしては変だと思って中をのぞきこむ人もいるが、その好奇な顔がコッケイだ。いわば都営の電車が「狂気」を乗せて都心を走るという。そして大衆は次から次へと動くチンチン電車を観てしまう。ゼロ次元の素晴らしさは、日常を手玉にとって行為を展開するというところにある。
なんといっても見事だったのは、新宿全裸行進だろう。新宿紀伊国屋の通路を防毒面をかぶった全裸の一団が右手をあげて行進していく。通行人は目を白黒させて息をのむ。はるか一般人の常識を超える次元に大衆は白日夢を見るように放心してしまう。気がつくともう居ない。
また建国記念日には、おかしなお面をかぶって日の丸を手に手に万歳をする。政治次元を突きぬけていく何かを現出していく。

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(写真:ゼロ次元紀元節儀式:「通俗的芸術論」より転載)
あるときはモーニング姿で、渋谷ハチ公の前に正座をし、おもむろに右手を上げ、超音波バスまで行進する。風呂に行くイントロの部分があり、超音波にそのモーニングのまま飛び込んで、軍艦マーチ勇ましく儀式する。ゼロ次元は統一儀式が2,3あって、「ホーイ、ホーイ」という足上げ儀式というのはなかなか楽しい。外から見ると力んでいるように見えても中に入ると楽な気持ちになる。
なにしろこんなわけで毎度、週刊誌やテレビ、映画などにも紹介され、これに目をつけたキャバレーから出演交渉があり、出演することになった。ゼロ次元が出ると満員になって大盛況、大変結構なことと思いきや、あんまり面白いので、ホステスも客共々オマンの底から笑いころげてしまい、ビールの売り上げがのびず、キャバレー側も出演を断念しなくてはならなかったというエピソードがある。
またあるときは葬儀屋と間違えて電話がかかってきたりするという、もっともゼロ次元方式の葬儀ならさぞ仏さんも喜ぶと思うのだが・・・。
考えてみればゼロ次元も生活は明星電機、ぼくも東芝の社員と、いわばフツーのところに居たわけだが、いつの間にか「新宿少年団」という団体を作ってしまった。団体といってもぼく一人である。少年団なのになぜ一人なのかという疑問もあるだろうが、少年団にオジサン一人というのが面白いのである。
こんなことでいろいろと共にやっていくうちに、狂気見本市協会なるものができあがった。万博も開催が近づき、文化管理体制に向かいつつある万博に、破壊をもって闘うというウルトラな方針が出てきた。それとともに保安処分なるものもちらつき、狂気準備集合罪にもなりかねない法律も動き始めていた。ぼくは理論上のことはさておき、文化管理体制に対して、およそ芸術的でないものをぶつけるということに大変意義があるように思えたので、積極的にこの運動に参加することとした。とは言ってもぼくもサラリーマン。時間に制約があるのだが、その間隙をついて出動していくのである。さて全共闘は大学占拠によって全面的に旧体系を暴露していく。その直接行動は不可能に挑戦する純粋芸術のような行為である。我々はゲバ棒の代わりにいろいろな行為をやればいい。
そして万博を観る側から観られる側に移行するには、全世界のチャンネルをこちらに向けさせることが必要だろう。加藤好弘さんは「万博破壊共闘派とは旧文化体系破壊を象徴化する儀式屋の芸術蜂起である!」と力説する。実に的を射ている文句だと思う。(中略)』

同じ本の中で、朝日ジャーナルの記事にあった京大「バリ祭」への参加の様子も書かれている。

【京大にエロスの蜂起】「通俗的芸術論」秋山祐徳太子著(引用)
『銀座のビルに「EXPOまで、あと〇日」と記される電光掲示板がかかり万博開催が足早に近づいている。誰かがあのEXPOをANPOに変えてしまったらどうだろうかと発案し、なるほど場合によってはやる必要もあるかもしれないと思ったりした。
我々は3月に名古屋、京都、大阪、5月に九州と各地を転戦してきた。そして再び京都は京大バリ祭、大阪は万博会場へと出動する。
そしてその前日、池袋のシアターにおいて華々しくブラック・フェスティバルが開催された。ここでは女子も含めて一斉に全裸になり、一列にお尻を突き出したところに、ぼくが能で舞いながら「ドスン」と長い如意棒でお尻を突き、それぞれ向こう側に倒れていく、いわば文化管理体制の終焉を告げるべき儀式である。
ティーチ・インが始まるころ、私服の一団が観客にまぎれて入ってきた。明らかに一般観客とは違う、古くさい背広姿に一目瞭然にそれと分かるものを身につけていた。
京都への出発の日、ぼくたちは加藤宅へ早朝集合した。マイクロ・バスに「万博粉砕・万博破壊共闘派」タレ幕をつけ走り出すと、所轄署か警視庁さしまわしの車がピタリと我々の乗り込むバスをつけてきた。そのまま高速道路に入るまでつけられ、それ以降はたぶん各県警に連絡がまわったのだろう。
初夏の風がさわやかで、日本の象徴富士山にさしかかる。あらゆるところで富士山にお目にかかるが、こうして近くで見ると絵や写真ほどポップには見えない。なんとなく生きている感じで、少しずつ形が変わっていってるのではあるまいか。
浜名湖のインター・チェンジに入ると、むしょうにうなぎ丼が食べたくなる。浜名湖のうなぎは名物である。名物はすべてポップであるとぼくは説をたてている。うなぎで精力がついて、さらに「夜のお菓子うなぎパイ」などをみやげに買い、ドライブインの広場で予行練習を始める。居ならぶ旅行者や観光バスからは何が始まるのかと好奇な目を向けられる。
好奇な目をそのままにしておいて京都に向かう。途中、小休止していると京都の舞妓さんが金持ち風のダンナと車を降りているので、みんなで「マイコハーン」と言うと、ターザンと間違えたのか、さっさと逃げていってしまった。そのときぼくは、(う~ん、なるほど、富士と舞妓は合うな)と当たり前のポップ風景を思い出していた。
バスが時代劇風な景色の中を進んでいくと、京の都が近づいてきた。今でこそ我々はバスで来られるが、昔ならば徒歩か駕籠にのってこなければならない。牛車というのが一番京に似合う気もする。昔でも文化管理体制にモノ申す人もいただろう。御上にタテつく不届き者ということなのだろうかね。
その不届き者たちが今、京の都に入ろうとしている。めざすは、京都大学である。バスは一気にスピードをあげて都大路を突っ走る。京都府警のパトカーはついてこない。そのまま教養学部正門に横づけするや統一儀式で全員横たわる。バスの上には名古屋のフォークグループが反政府的な文句を歌いあげる。正門には黒山の人だかりができてしまい、今度はまた全員片手あげ儀式で学内に入る。

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(写真:京大バリケードに入る万博破壊共闘派:「通俗的芸術論」より転載)
教養学部は封鎖中であって、大きな柱には「造反有理」「帝大解体」と記され、その窓は「4・28中枢霞が関占拠へ、社学同」など、今流のアクション・ペインティングよりはるかに見事に描かれている。
東に東大砦があるならば、こちらは西の砦ということになる。ふとぼくはこれが純粋芸術の場ではないかと思ったりする。このバリ祭(バリケード祭)こそが全ての管理体制から解放された自由の場であるのなら、我々はこの場でさらに自由の翼の一撃を世に示さねばなるまい。我々はそのまま、バリ祭委員に迎えられて地下解放区に入る。地下室はサイケデリック・アートと、ポップなものをまぜ合わせたような新芸術を展開していた。ニューヨークの地下鉄なんかもこんな感じなんだろう。
ここで作戦会議に入る。夜はここでティーチ・インを行うにしても、何かやらなければならないという気持ちが激してくる。そして遂にこの教養学部本館のベランダに全員、全裸で立つことを決定する。
階段を小躍りするように上がっていくと、初夏の陽光がさしこむベランダに到着した。これから数分後に狂気の世界が現出する。ベランダの内部で全裸になると、一勢に飛び出すタイミングを計った。これといった緊張感はない。羽根のついたヘルメットをかぶり直す。そして一勢にベランダに飛び出していった。フワーと宇宙空間に飛び出た感じで、重力がなくなっていくような気がする。前方には京大の象徴である時計塔がわれわれの狂気と向かい合う。ときどき恥ずかしそうに針がこきざみに震えているようである。ベランダ越に見た京大周辺の全景は美しかった。茶色の建物と緑の樹々が広々としている。京大の歴史の中でこんなことはかってなかっただろう。まさに我々のエロスによる芸術蜂起である。

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(写真:京大教養学部ベランダにおける反博全裸儀式:「通俗的芸術論」より転載)
下界が急に騒がしくなる。「何や何やあれは!」「チンポ出し集団か」と怒鳴っているのが聞こえる。水上旬氏が我々の前に出て、下にロープを渡している。どうやら降りるらしい。下には奥さんが赤いドレスを着て円形の白い布のそばに座っている。水上氏はロープにぶらさがって降りていく。三分の一も行かないとき、彼は地上に落下した。そのまま動かない。我々は不意なハプニングに現実に引き戻され、冷汗が伝ってきた。そのことでこの儀式を中止するわけにはいかぬが、人の生死の問題でもあり、下の状況を見て儀式を終了した。水上氏は奇跡的に命をとりとめたものの、重症であった。
それにしても<知>の象徴である教養学部本館における我々の<狂>は教育体系を打ち破る一矢であったことはあきらかである。』

この京都大学のバリ祭での教養学部本館のベランダの上で行った反博全裸儀式の様子が「アサヒグラフ」に見開きカラーで掲載されたことから、これを契機に猥褻物陳列罪で8名が逮捕されてしまった。そのようなことがあり、「万博破壊共闘派」が万博会場で儀式を行うことはできなかったが、それに代わって万博会場を全裸で走ったアーティストがいた。
これも本の中に書かれているので見てみよう。

【「反博」金メダリスト】「通俗的芸術論」秋山祐徳太子著(引用)
『仙台に糸井貫二さんという芸術家がいらっしゃる。通称を「ダダカン」という。ダダイズムのダダに自分のカンの字をつけたものと思われるが、たいがいの前衛的な芸術家なら彼の怪奇なる手紙を何度か受け取った経験をお持ちだろう。まあ。現世ではとても理解できぬ宇宙エロス的な内容で、必ず中には赤いペニスをかたどった紙が入っている。
たとえば我々が日本のどこかで儀式をやっていると、必ずといっていいほどあの赤い型紙がどこかにソッとおいてある。姿を見せずに現れては消えていくのだろうか?不思議である。
彼は仙台市外の太子堂という所に住んでいる。別段、太子といってもぼくには関係ないのだが、その生活ぶりも人間ばなれしている。
米はあまり食べないらしいが、何でもタンポポの花を食べたり、野に咲く植物で生活しているらしい。ゼロ次元の上条順次郎さんはこの方を神と尊敬しているので、ときどき食物を奉納するそうである。当時で六十歳を過ぎていたので、現在では大変な年だろう。消息は知らぬが元気でいることと思われる。
以前、東京に出てきたときのいでたちがすごかった。赤フンドシで、上着にはベタベタとお札が貼られていて、黒い大きなサングラスをかけていると、おもしろさよりも迫力が先に立つ。
万博破壊行動で我々が逮捕され身動きが難しくなったとき、このダダカンさんが一人万博に挑戦していったのである。
万博会場では、太陽の塔の目玉のところに赤ヘルの男がよじ登って、頑張っているときである。その下をダダカンが全裸で突っ走ったのである。
始めは何事ぞと思った大観衆も、しばらくすると大拍手を鳴り響かせたという。そして警備員が見せてはなるまいと3、40人、彼をとり囲むように5、60メートルも走ってきたそうだ。話を聞いただけでもその光景が目に浮かぶ。悠然と走るダダカンにすがりつくように陰部をかくそうとずる警備員の慌てぶりがコッケイだっただろう。
塔には目玉男が入り込み、地上には全裸男がと、まさに狂気に満ちた現場を現出したそうだ。
警備本部に連れていかれたダダカンは逮捕されると思いきや、精神病扱いにされあっさり片付けられてしまった。あまりのことなので超法規手段をとらざるを得ない当局側においても、国際的になってはという恐れもあるのか、このことは新聞の一行にもならなかったそうである。
幻の行為ということで過去に葬ろうとしたわけだが、ただ現実には歴然とその事実があったわけで、それにしても歴史的な日本国家の大行事にいともアッサリと、老骨ひっさげた男に走られるとは、ただただ我々頭が下がる思いであった。
再び迎える筑波万博において科学を越えたエロスが、再び突っ走るかどうかはがだれにも分からない。ダダカンとは忘れたころにやってくる聖なる人なのである。
それにしてもオリンピックではないが、まさに万博に輝く「金」(キン〇〇)で勝負した偉大な功績はゴールド・メダリストにふさわしいだろう。ただダダカンならば、そんなものよりタンポポの花でもいただいた方がよろしい、とおっしゃるだろう。お見事でした。』

以上、1969年の「万博破壊共闘派」の活動を見てきたが、この「万博破壊共闘派」の中心となった「ゼロ次元」の儀式の様子を今、観ることができる。
先日、国立近代美術館で開催されている「アジアにめざめたら アートが変わる、世界が変わる 1960-1990年代」(10月10日から12月24日)という展覧会を観てきた。この展覧会は、日本、韓国、台湾、中国、香港、インドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシア、インドなど、アジア各国で1960年代から1990年代に発生した近代美術から現代美術への転換期に焦点を当てたものである。

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この展覧会の中で、「ゼロ次元」の「いなばの白うさぎ」が上映されている。約20分ほどの短縮版であるが、新宿紀伊国屋書店の地下通路での全裸防毒面儀式も映っている。国立の美術館でこんな映像を流してもいいのだろうかなどと思ってしまったが、現代美術の「作品」としての扱いなのだろう。さすがに通しで観ているのは私くらいだった。
「ゼロ次元」の儀式が美術館の「作品」となったことについては50年という時代の流れを感じるが、「ゼロ次元」は美術館ではなく街頭や日常風景の中に現れてこそ、そのアート・パワーが発揮できると思うのだが・・・

この「万博破壊共闘派」の反万博の行動や、京大での「儀式」の様子は、写真集「ゼロ次元 加藤好弘と60年代」(平田実・2006年河出書房新社)で見ることができる。

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【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
年末年始はお休みします。
次回は1月11日(金)に更新予定です。

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子がある。この冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センターでの近況などが載っているが、最新の144号(2018年11月25日発行)には、今年が1968年から50年目となることから、「1968年特集」というタイトルで、重信房子さんら3名の方の1968年の闘いのエピソードが掲載されている。
今回は、この「1968年特集」の中から、重信房子さんの「ブントの国際反戦集会」のエピソードを掲載する。
(この記事の転載については、重信さんの了承を得てあります。)

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【ブントの国際反戦集会 - 1968年8月3日】
 当時の私に「新しい変革の時代」を知覚させたのは、67年の「10・8闘争」であり、生涯を教育の場で社会活動を続けていくことを考えさせました。そして、また、そうした考えに、より明確に世界、国際的な闘いの必然性を自覚させたのは、68年の8月3日に行われた「国際反戦集会」です。
 世界各地で闘っている仲間が集い、語り合い、世界の一翼として私たちの闘いがあるのだと、海外参加者らと共にインターナショナルを歌いながら強く刻まれ、感動したのです。この「8・3国際反戦集会」は、三派全学連の分裂を早くから予測していたであろうブント指導部によって、情勢を切り拓く大切な節目だったに違いありません。

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 68年の春ころ、専修大学の前沢さんから「今度、我々ブントの力で、時代のオピニオンリーダーたる一般誌を出すので、協力してくれないか」と、突然誘われました。「フランスのカルチェラタンの闘いに示されるように、学生・労働者は政治闘争ばかりではなく、いまでは、文化・芸術含め、変革のための総合誌が問われている。8月の国際反戦集会の前には、その創刊号を出すつもりで準備している。君は、文芸サークルで『駿台派』編集長もやっていたし、詩集『一揆』も見たので、よっちゃん(松本礼二ブント前議長)と話して、君に加わってもらいたいと思ってさ。考えといてくれないか」と言われました。確か、学館の現思研の部屋に訪ねてきたのです。その本のタイトルが、すでに『情況』と決まっていたのかどうかは思い出せません。「無理です。ちょうど卒論執筆を計画しているところだし、文学雑誌と、ブントのイニシアチブの本では、まるっきり違うし、関わりたくても無理です」と即答しました。それでも松本さんとも会い、何度か誘われましたが、左翼雑誌の編集には興味が湧きませんでした。そのころ京大のブントの小俣さん中心に、明大でもすでに8・3集会のための様々な準備が始まっていました。
68年、「8・3国際反戦集会」は、中央大学の講堂で行われました。この国際会議は、「国際反戦会議日本実行委員会」として6団体(共産主義者同盟、社会主義労働者同盟、社会主義労働者同盟ML派、社会主義青年同盟解放派、社会主義青年同盟国際主義派、第四インター日本支部)このうちのML派や解放派は、7月に小競り合いの末、ブントの反帝全学連が結成されていたので、その後のいきさつを詳しくはわかりませんが、共同していました。日本実行委員会は機能し、東京の「8・3集会」ばかりか、他のいくつかの都市でも行っています。
 8月4日には、国際反戦関西集会も共産同関西地方委員会、日本共産党解放戦線(上田等さんら)、社青同国際主義派、第四インター、解放派、ML派、毛沢東思想学院など、広い共同行動の中で大阪厚生年金会館に約1,000名を集めて開催されています。また、海外からの参加者らは、ヒロシマ8・6の原水禁集会や、ベ平連の京都ティーチイン集会にも参加しています。

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(写真:アメリカ・コンビア大学)

 来日したのは、まずSWP(米国の社会主義労働者党)委員長のブレッド・ハルテットさん。彼は7月28日羽田空港に到着した折、日本の通関当局より「原水禁、べ平連への参加はかまわないが、8月国際反戦集会への参加は認められない。参加の場合には、強制退去を命ずる」と、入国時にその条件付の書類に署名させられました。この事実は、8・3国際反戦集会の中大講堂の席上、ハルデットさん自身が暴露し、抗議しました。それほど、三派系のラジカルな闘いと、米国のラジカルな運動の接触に、公安関係者は神経質になって、妨害を企てたのです。他の参加団体は、米国からはSNCC(米国・学生非暴力調整委員会)、前委員長のカーマイケルは、当時日本でもよく知られていました。ブラック・パンサー党、当時黒人の間に絶大な人気があり、黒人の権利を闘いによってかちとっていた団体です。OLAS(ラテン米人民連帯機構)、この組織は、67年7月にキューバを中心に創設され、チェ・ゲバラが当初名誉総裁で、ハバナに本部があります。SDS(米国・民主社会学生同盟)、SNCCが黒人中心の組織なのに対し、SDSは白人組織で、反戦反徴兵、ベトナム反戦闘争を中心に学生パワーを発揮し、カリフォルニア・バークレー校が拠点で、本部は、シカゴのイリノイ大学といわれていました。以上は米国からの参加団体です。仏からはJCR(仏・革命的共産主義青年同盟)、1966年4月に創設されています。JCRは50年代のアルジェリア解放闘争支援、キューバ革命支援を行い、65年大統領選時に、仏共産党の共産主義学生同盟を除名されたメンバーの他、トロッキストのメンバーを含む組織で、5月パリ革命の先頭で闘った組織です。その結果、ドゴール政権によって非合法化されたため、ブリュッセルに本部を置き、地下活動を続けていると、この会場で代表の女性が発言していました。
 ドイツからはSDS(西独・社会主義学生同盟)、西ドイツの社会民主党の学生組織ですが、ドイツ社民の大連立に反対し、中央に従わず、ベルリンで1万5千人のベトナム反戦集会を開いたといいます。北大西洋条約機構(NATO)の粉砕を訴えています。理論的には、マルクーゼ、ローザルクセンブルグ、ルカーチの影響が強いといわれていて、委員長のドチュケは銃撃被害に遭っています。
 以上のような海外からの参加団体を加え、実行委団体や学生、市民参加のもと、8月3日、東京集会が開催されました。この東京集会は、中央大学講堂で2時10分に開会宣言され、日本実行委員会委員長松本礼二さんが開会の挨拶と経過報告を行いました。その後、海外からの参加団体の紹介があり、この時、SWPの代表のハルテットさんから、すでに述べた国外追放の制約を受けながら参加したことが語られると、拍手は講堂を揺るがすほどでした。集会には、日本の闘う団体も招かれていて、戸村一作三里塚反対同盟委員長が、連帯をこめて演説したのを覚えています。

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(写真:フランス・五月革命)

その後、仏代表の女性が、パリ5月革命がいかに闘われてきたか、今も非合法化でいかに闘っているか、5月に労働者の一千万人ゼネストがいかに行われたか語ったのが、私には強い印象として目に焼き付いています。同世代のふっくらとした体型の女性が、舌鋒鋭く、ゼスチャーも交えて語る時、通訳がもどかしいくらい共感しつつ、他の誰よりも印象深かったです。その後、ML派の畠山さん、解放派の大口さん、ブント議長の佐伯さん(佐野茂樹)ら、6団体トップの人々が、それぞれ自分たちの政策を表明していました。
その後、SNCC、SDS、SWP、JCRなどが参加し、「NATO・日米安保粉砕共同闘争」を呼びかけ、全国各地で反戦集会を行っています。そして、国際連帯の絆を、新しいインターナショナルの形成として呼びかけました。
この時のブントの呼びかけた「8・3集会論文」は、プロレタリア国際主義を掲げブントの新しい旗印となりました。「8・3論文」と呼ばれるもので、「世界プロレタリア統一戦線・世界赤軍・世界党建設の第一歩をー8・3国際反帝反戦集会への我々の主張」というタイトルの論文です。第一章は「現代過渡期世界と世界革命の展望」というもので、これを塩見孝也さん、のちの赤軍派議長が執筆しました。第二章は「70年安保・NATO粉砕の戦略的意義」で、のちにブント議長となる仏(さらぎ)徳二さんが執筆し、第三章は「8月国際反戦集会と世界党建設への道」で、旭凡太郎(のちの共産同神奈川左派)によって執筆されました。これは、8月5日の機関紙「戦旗」に発表され、この8・3論文を、2つのスローガンにまとめました。
「帝国主義の侵略・反革命と対決し、国際階級危機を世界革命へ!」「プロレタリア国際主義のもと、全世界人民の実力武装闘争で70年安保・NATOを粉砕せよ」と。
8・3国際反戦集会に結集した組織と共に、新しいインターナショナルの潮流形成をブントは目指していました。そして、第一に69年には、NATO・70年安保粉砕を共に闘う。第二に、日米安保・沖縄・ベトナムを環太平洋諸国の武装闘争・ストライキ・デモで闘う。第三に佐藤訪米を、羽田・ワシントンで共同して阻止する。第四に、来る10・8、また10・21を国際共同行動で闘う。第五に、国際共産主義インターナショナルへ向けて、協議機関設立の準備、国際学連の再建を目指す、とする方針を主張しました。
国際社会に触れ、国際的に各地で闘う主体と直接に出会い、この出会いに国際主義のロマンを抱いたのは、私ばかりではなかったでしょう。ブントの指導部から一般メンバーまで、ブントのプロレタリア国際主義が、世界の闘争主体とスクラムを組んで闘っていくという、誇りの実感を強くしたのです。
最後に各国語で一つの歌,インターナショナルを歌いながら、感激屋の私は、涙がこみあげてしまいました。この8・3集会のために、現思研の仲間たちもいろいろな実務を手伝ってきました。英文タイピストのSさんは、集会まで徹夜の作業を続けたりしまた。
現思研の仲間たちが、私も含めて、ブント・社学同に対して、自覚や愛着を持ったのは、この集会の影響が強かったと思います。
国際反戦集会は、分裂して生まれたばかりの反帝全学連にとっても有利に作用していました。国際的な各国闘争主体との出会いは、日本を代表して、ブントらが実践的に国際主義を実体化する条件をつくりました。この国際反戦会議の決定として、新しいインターナショナル創設の協議機関設立や、来年69年8月の再会を約し、闘いの連帯の継続の方法も語り合いました。
しかし、ブント自身は激動の68年の中で、69年内部論争を先鋭化させ、この晴れやかな国際反戦集会を境にして、矛盾と分岐を拡大させてしまうのです。1年後の69年に米国からのSNCC.ブラックパンサーの訪日に彼らの受け入れの矛盾は哀しい現実となるのですが、それは、「7・6事件」の後だったからです。
(終)

※ この国際反戦集会の記事を掲載した「戦旗」143号(1968.8.25)を「新左翼党派・機関紙」で見ることができます。。
http://www.geocities.jp/meidai1970/kikanshi.html

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