野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2019年04月19日

No 516  重信房子 「1960年代と私」第二部第3回(1967年)の後半です。
文章が長いので2つに分けました。
前半では、「7.全学連の活動ー砂川闘争」を掲載しています。  

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)

8.67年の学園闘争の中で
 67年街頭行動の中で、一番鮮明に忘れることができないのが、10・8羽田闘争です。あの経験は私に、学生運動ばかりかその後社会に出ても教師として働きながら重視しようと考える生き方に導いたといえます。67年は、私はまだ学苑会の財政を担当していたと記憶しています。66年の対案によって、日共系から学苑会執行部を、いわゆる三派系の学苑会に転換して以降、たしか5月の定例学生大会だったと思いますが(もしかして、それ以前にあった「2・2協定」に関する3月の臨時学生大会だったかもしれない)私は財政担当として、会計報告の中で、民青の時代の不正を糾弾しました。この時の大会は、66年12月1日の一票差で勝利した大会と違って、大きな差で三派系が勝利しています。私は、民青から引き継いだ会計帳簿を一つ一つチェックし、日共系の暁出版印刷所の領収証が実際より多いと感じたので、私は印刷所に行って、原簿をチェクしてもらい、実際に支払われた額を書き出したうえで、領収証の総計額の書類を再発行してもらいました。2回の印刷代数万円が水増しされているのがわかりました。それを示しながら、民青時代の帳簿の不正を学生大会で報告しました。印刷所の方も、私たちが三派系とか理解していなかったのか、妨害することもなかったので、正確な数値が得られたのです。民青は「清廉潔白」をこれまでも主張していたので、ダメージでしたし、日共内の中国派のパージと重なり、急速に学苑会奪還や「民主化」の中央奪還の活動は退潮していき、商学部、法学部自治会死守体制をとり、文学部民主化委員会など、学部活動にシフトしていきました。そのころか、その後のことですが、ブントの現思研活動に対して脅威を感じていたのか、今度は、ML派に属していた会計監査委員が、私の会計処理の領収証に不正がある、デパートの食品や衣料の領収証があったとして告発をはじめました。私に直接問い合わせや審査を行わず、ML派に報告し、ML派からブントの指導部に話を持ち込んだことがありました。それによって、私に自己批判を迫り、私を辞めさせようとしたのか、他の交換条件があったのかわかりません。私は、こうしたやり方で自治会のことを党派問題にしたことに、ML派に大いに憤慨しました。まず、「私の会計処理は正当だ」とブントの人に言いました。「ML派こそ自己批判する必要がある」と伝えました。ブントの人は驚いていました。これは実際に「不正領収証」だったのです。理由は、学苑会委員長であり、全二部共闘会議議長のML派の酒田さんの授業料の一時穴埋めだからです。66年12月の学生大会対案人事で酒田さんに委員長になるよう説得した時には、授業料が払えず除籍になりそうというので、私が会社を辞めて貯めていた虎の子貯金を貸しました。それも返せず、3月再び授業料支払いが求められる季節となり、「2・2協定」後の処分含めた大学側との闘いにおいて、委員長を除籍させるわけにはいかないと、中執内部で会議をして決めたことなのです。酒田さんが返却するまで一時的に中執財政で立て替えること、その会計処理は私にお願いされた訳です。ML派も、立て替える考えもないし、私含めて、他人の授業料をもう払えなかったからです。私は「ML派の会計監査委員が、問題を党派的に歪曲したのは許せない。学生大会で、すべて経過報告する」といきまいて怒りました。しかし、ML派が謝ったので、そうはしませんでした。そのかわり、私は大会の新人事で私の財務部長の他、副財務部長にML派の人間を置くよう要求しました。ML派に監視と責任を分担し、公明正大を証明してみせようと思ったからです。この人事は、たしか67年5月の大会だったと思います。ところが、この財務副部長のK君は、数か月の夏休み明けから大学に来なくなり、一時金として常時支払いのため彼が管理していた金を使い込んだと謝りに来て、そのまま辞めたいと言い出す始末でした。「使い込んだ金は働いて返す、ML派には言わないで」と言い、その後連絡不通になりました。もちろん中執会議で報告しました。ML派とは、以来、冷ややかな関係となりました。また、卒論もあり、10・8闘争後の67年秋の大会で、財政部長は現思研の宮下さんに後継してもらい、学苑会活動は、一切、引き受けないようにしました。現思研が拠り所であり、また、卒論や、アルバトも多忙だったためです。
 また、この66年から67年は、日共系の学生たちとの主導権争いがとても激しかった時代です。66年にはじめて日共・民青系の人たちの激しい暴力を目撃したことがあります。これが初めてで、衝撃的でした。三派系(都学連系)は、ラジカルでも、民青のソフト路線では考えられない光景だったのです。明大本館で、全国寮大会が開かれました。当時は、今の武道館の建つ前から、そこには近衛兵の駐屯宿舎がありました。戦後、そこは苦学生たちの寮となっていて、「東京学生会館」(東学館)と呼ばれていました。そこにはまた、活動家の拠点として、ML派などが活動の場にしていました。「東学館闘争」の立て籠もりなど、退去と建物の破壊に抗議した闘争を経て、66年11月、学生たちはこの東学館から追放されました。それ以前のことだったと思いますが、この全寮連の大会において、執行部の奪い合いで激しい対立となったのです。当時の全寮連の執行部を牛耳っていたのは日共・民青系で、御茶の水女子大など、いわゆる反日共系の寮の代表に対して資格がないから大会への入場を認めないと対立が続いていました。結局、どちらが次期執行部を形成するのかの争いであり、また路線的には米帝に従属した日本政府の文部行政を批判し、「諸要求貫徹」を主張する日共系に対する反日共系の闘いでもありました。日共系は、鍬の柄のような棒を持った防衛隊を組織し、入場に押しかける反日共系を入場させないと、暴力的に渡り合っていました。2階から突き落とされ、頭から血を流し、よく死なずに済んだというような流血が続き、双方多数の怪我人が出ました。
 学生会館にいた私たちは、緊急救援を頼まれて、怪我して本館中庭に倒れている学生を、青医連の友人たちに治療してもらうために走り回りました。本館の現場に駆けつけてみると、代々木病院からの救急車が正門脇にすでに停まっていました。代々木病院の救急車隊は、倒れている人に「大学は?え?こいつはトロッキストの方だ」などと言いながら負傷した学生を選別して放り出したりしているのを目撃しました。「ひどじゃないか!」と私たちは泣きそうなほどの衝撃を受けながら、倒れている者たち、選別排除の目にあった者たちを立て看を担架代わりにして、次々と学館に運び入れました。「民青が・・・」話す程に、どくどくと流血します。糸は木綿糸まで消毒して縫っていたけれど、大丈夫なのか・・・と怖くなりました。一方、民青は、会場封鎖をして寮大会を続け、「トロッキストの妨害にもめげず、新方針、新執行部を選出した」と後の日共機関紙「赤旗」にも載っていました。
 私は、反日共系の側にいるわけですが、民青の偽善的振る舞いにはうんざりするのですが、本音では、どうして反日共系は先に手を出してしまうのかが不満でした。いつも民青系は、やられてからやり返すと思っていたのですが、この寮大会の時は、まったく違っていました。民青の人たちは譲れない時には、暴力を「正当防衛」として先に手を出すものだと知ったのはこの時です。
 67年か68年に、明大二部の民青が本格的に暴力を仕掛けてきたことがありました。きっかけは何だったのか・・・。とにかく明大二部の民青の勢力がずいぶん削がれてしまったことが一つ大きな危機感だったと思います。また、三派系が民青のビラ撒きなどにも暴力をふるったりしたことが原因だったかもしれません。日共系に対し、三派系は横暴でした。学苑会執行部ばかりか、生協二部の学生理事選挙でも、日共系は敗れて、議席を失っていました。残っている商学部と法学部自治会を拠点に、「政経学部民主化委員会」や「文学部民主化員会」などを立ち上げて、巻き返しを図っていました。クラスに討論やビラ撒きに入ると、日共系と反日共系が教室でぶつかって論争もしていました。時には、三派系の活動家たちは、民青系の学生を無理やり三派系の自治会室に連れ込んできて、「自己批判要求」なども暴力的に行っていて、民青、日共の神田地区委員会で、我慢の限度にきていたのだろうと思います。
 ある日のこと、夜9時を回っていて、最後の授業が始まり、みな現思研の仲間も教室に向かい、私は一人4階の現思研にいました。
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(学館4階平面図・現思研は学生新聞委員会室)
「うオー」というようなとどろき、「あぶないー!」「民青の襲撃だ!」遠くで怒鳴り声がしました。「日共の暁部隊はすごい」「中大では民青の方が暴力的だ」など、ブントの人たちから話は聞いていたので、民青が攻撃を仕掛けてくることを、私たちも話題にしていました。来た!私は現思研の部屋(マロニエ通りに面した4階)からすぐ走っていって、反対側にあるエレベーターが3階にあったので、それを4階に上げて非常ボタンを押して停止させました。エレベーターを日共系に支配させないためです。そして、そのすぐ脇の階段用の鉄扉を閉めようと急いで手をかけ、民青が来るのを遮断するべきだと思いました。襲撃隊は、すでに3階の学苑会に到着したのか、ガラスの割れる音や怒鳴り合い、ドアを突く豪快な音がしています。覗こうとしたら、その一瞬に3階から4階へと黄色や白のヘルメットをかぶった集団が駆け上ってきました。「いたぞ!重信がいるぞ!」と先頭で2段跳びに駆け上がってきたのは商学部の民青のリーダーの和田さん。ぎょろ目でいつもキャンパスで反日共系に立ち向かい論争している闘志満々の人です。私はあわてて鉄扉を引き、閉めてカチャリとロックしました。間一髪で遮断しました。カンカンカンカンと鉄扉を叩き、しばらく怒鳴りながら鉄扉を壊そうとしていましたが、しばらくするとあきらめたらしく静かになりました。3階や隣の学生会館旧館の方に走っていったようでした。
 旧館には、各学部自治会室があります。こちらの新館の4階には現思研のいる新聞会室以外、和室、会議室がありますが、調べてみると、4階にいたのは、夜9時から10時近いため、私以外誰もいませんでした。それも知らず民青は隣の旧館の窓からガラス張りの新館4階に板を渡して渡るつもりか、うかがっていました。私は会議室すべての電気を付けました。民青の行動が、ちょうど授業を終える学生たちによく見えるようにするためです。そして、現思研の新聞会室に戻り、ドアをロックして、ベランダからマロニエ通りの学生たちに呼びかけました。「学友のみなさん!民青が地区民青や日共の人を引き連れて、ただ今、学館を襲撃中です。この暴力を監視してください!」と叫びました。ロープや板を渡って新館に乗り込んでも、民青が私の部屋に入るには、もう一つドアを壊さなくてはなりません。私もハンドマイクはないので、大声で訴えました。最後の授業を終えて夜間部の学生たちがぞろぞろと出てくる時でした。私の方からは、何人の民青襲撃隊が加わっているのかは見えず、分かりません。ただ、「日共の暁部隊には半殺しにされる」と中大の友人からも聞いていたので、現思研でも時々話題になっていたのですが、それが現実になりました。
 当時の千代田区など第一区の選挙区の日共の衆議院議員候補は、紺野与次郎さんで、私の中学時代の仲良しの友人の民子さんの父親でした。「大丈夫よ、もし日共に拉致されたら民子さんのお父さんに訴えればいいから!」などと軽口をたたいていたのですが、本当になってしまい、驚きつつ、下には学生仲間がいるので、闘争心の方が湧いてきました。続々と学館の下に集まった友人や野次馬が「日共は暴力を止めろ!」「ナンセーンス」と大合唱しています。そのうち、雄弁会の友人で地理学科のMさんが、「警察が来たぞ!」と大声をあげました。すると、あっという間に日共・民青は撤収を始めて、さっと消えてしまいました。撤退時は隊列を組みつつ全力疾走です。警察は来ませんでしたが、Mさんの機転だったのです。
 民青は「暴力はふるわない」ことを原則としており、こんな暴力を白日にさらしたくなかったので、逃げ足は速かったのです。
 もう1回の次の攻撃は、その後のことです。67年末か68年初めのことか、学館を道をへだてた大学院裏の校舎の1階で、民青と反日共系が長い旗竿で小競り合いを始めました。解放派やML派ら文学部の自治会と民青の対立のあった時です。
 この時の私は、やはり4階にいて、マロニエ通りを見下ろしました。そこに大学院の裏の方からマロニエ通りを通ってデモ隊が整然とピッピッピッと笛に合わせて駆け足でかけつけてくるところでした。水色のヘルメット部隊の助勢です。4階のみんなは援軍に手をたたき、下の野次馬や学生たちも拍手していたところ、突然、反民青の部隊を襲撃し始めたのにはあっけにとられました。社青同解放派の党派性は水色のヘルメットなので、てっきり救援隊が仲間と思ったのですが、これが民青部隊だったのです。「あっ、そういえば民青全学連のシンボルカラーは青だ!」と誰かが叫びました。全学連防衛隊というのができ、トロッキストを粉砕するために駆けつけたということなのです。この時も、背後から100人ほどが襲いかかり、反日共系は防戦に追い込まれ、コーナーに押されていた日共系の学生の血路を開くと、あっという間に撤収するという見事な動きを示していました。
 よく訓練された組織された暴力に、現思研の仲間たちと感心してしまいました。しかし、大学祭などは、右派も民青の人々とも対立するばかりではありませんでした。
 私自身の当時の関心や活動についても、ここで触れておきたいと思います。研連での合宿や行事、ことに秋の駿台祭の文化祭にはみんな協力し合います。駿台祭には昼間部も夜間部も、駿河台校舎を使う者たちが、共同して駿台祭実行委員会を結成します。66年にはそこで共同した応援団長のSさんらの協力のもとで、その後の学費闘争の時にはいろいろ助けられました。
 体育会の危険な自治会破壊攻撃に、応援団は「中立宣言」して、体育会の動きに歯止めをかけてくれたし、本館で使用していた貸布団が体育会の占拠で妨害されて運び出せないのを、応援団員を動員して片づけを手伝ってくれました。貸布団屋に代金を支払う私には、当時、布団を失うことは深刻な問題でした。
 文化祭プログラムは、民青など含め、研連と昼間部の文連(文化部連合会)、応援団と協力し、学園祭はサークル中心の展示・発表・講演の催しをやります。実行委員会で大きな講演や、広場での打ち上げパーティーも企画しました。
 67年には、右翼体育会の拉致や暴力が2月は猛威をふるいましたが、入試も終わり、新入生を迎えると、彼等は野球部の島岡監督の指揮で神田から引き上げ、生田など合宿所に戻っていきました。応援団は神田にいるので、引き続き交流していました。
 67年の文化祭では、私も企画を担当しました。そのころ、「少年サンデー」「少年マガジン」「ガロ」などマンガが大学生の読み物となっていると、社会的に話題になっていました。なぜマンガが流行するのかといった「マンガ世代の氾濫」を問う企画をつくりました。また、当時、吉本隆明が学生に読まれており、そのことにも注目しました。そこで、「ガロ」に執筆していた上野昂志、マンガ評論の石子順三、最後の講演を吉本隆明として企画し、駿台祭に招請しました。その前年、66年には、私たちは羽仁五郎を「都市の論理」の著者として招請しました。「交通費しか払えないが、講演をお願いしたい」と私は交渉しましたが、「講演料はきちんと払ってもらいたい」と言われましたが、講演後、始めからそのつもりだったのでしょう。交通費分も含めて、すべてカンパしてくれました。
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(「都市の論理」広告)
 65年は、小田実も記念館でベ平連運動について話をしてもらいました。ML派の人らがベ平連批判と質問をすると、「ベトナム反戦に関して、君たちは君たちのやりたいようにやったらいいでしょう。同じように、他の人がやりたいようにやるものまた、自由に認めるのが民主主義だ。ベ平連は各々自分のやりたい方法で、やれる方法でやる。私もそうだ。文句をいわれる筋合いはない」と返答していたのを覚えています。67年の学園祭の吉本隆明の講演は、ちょうど10・8闘争後の遅くない日となったので、10・8闘争について吉本の考えを知りたいと、学生会館5階ホールには入りきらないほどの学生が集まりました。ちょうど、10・8闘争に関して知識人、文化人と呼ばれる人々が「暴徒キャンペーン」を張る政府マスコミに対抗して、警察の過剰警備による弾圧を批判し、学生たちの闘いを孤立させまいと奮闘している最中だったのです。吉本は、10・8闘争に関してそれまで発言していなかったので、学生たちへの「支持」をみな期待し聞きたかったのです。ところが、おもむろに口を開いた吉本は、評価する、しないと表明すること自体がナンセンスなのだと述べて、みんなをしらけさせました。知識人の主体性とは何かを語り、自分のやり方で表現していると述べたのです。学生たちが吉本に期待したほど、吉本の眼中にには学生たちの闘いが評価されていないことが、よくわかったのです。私自身は、67年10・8闘争までは詩作をしていたので、吉本の「詩」や「抒情の論理」などの本を読んだことはありましたが、思想的影響も受けていなかったのですが、友人の中にはがっかりする者もいました。
駿台祭のこうした講演のほか、日共系の社研(社会主義科学研究部)や民科(民主主義科学研究部?)のサークル展示には支援し、当時のベトナム反戦など研連でも共同したりしました。私の所属していた文学研究部は、部室を開放して、「駿台派」という同人誌を販売している程度だったと思います。67年は、その「駿台派」の編集長として、私も短編から詩、エッセイを編集していました。この67年には、自分の情念の広がりや突出を詩の中で格闘していた感じです。世界・社会を変えることができるという思いと、自分の意思を政治的な言語でなく、何とか表出したいと考えて、現代詩に熱中していたように思います。政治的言葉、ことに学生活動家たちの自己陶酔的なアジテーションのパターンの政治用語から排されている心情を表現したいという思いにかられていたのです。「駿台派」では、小説や評論で、詩の発表の場が不十分と感じて、文研の詩人仲間に呼びかけて、67年には詩集「一揆緑の号」を発行しました。9月に編集を終え、印刷中にちょうど吉田茂の死があり、はさみこみのしおりで「臣茂」が死んでも「臣人々」は生き続ける憂国的心情を記しました。この詩集は、10・8闘争のあと発行されましたが、10・8闘争を契機に、私自身は詩作を一旦やめて、政治的声を拒否せず聴こうと思ったのです。
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(詩集「一揆緑の号」)
「やりたいことをやり、なりたい自分になる」「自分の欲望・意志に忠実に生きる、生きることができる!」そんな思いにあふれていました。社会を変えられると信じていました。高校を卒業して就職し、新卒新入社員として社会に出た64年から65年に大学に通える道を見つけ、夢中で「学生」をやっていたといえるかもしれません。
大学生活、学習も詩作もアルバイトも、学生運動も、すべてが楽しくて充実感を味わっていました。自分一人の人間の能力は限られているけれど、思いっきり自分の可能性を開いて生きようとしていました。寝る間を惜しんで、常に好奇心を持って前向きなエネルギーにあふれていた自分を今、振り返りつつ、その情熱を認めることができます。しかし、当時、私に欠けていたことを、今ははっきりわかります。自分のことに精一杯だったのです。友人たちの悩みや困難に一緒に悩み、耳を傾け、解決に尽力していたつもりでしたが、今から捉え返すと、自分の関心角度からしか結び合っていなかったのだろうと思います。それを若さというものかとも今は思います。そうしたあり方は友人にも、家族、特に父や母に対しての配慮を欠いていました。大学を受験し、自分の意思通りに生きる私を、家族はみんな応援してくれました。そして学生運動にも理解を示してくれました。私も何でもすべて家族に、特に父親に語りました。
でも、私が両親や兄弟たちに支えられていたほどには、私は家族をかえりみる余裕がなかったのだと、今ではとらえ返すことができます。若さは身勝手で思い切りよく、時には傷つけていることを自覚できないものなのでしょう。
このころ、替歌もたくさんバリケードの中で歌われました。学費闘争のころには校歌や明大の戯れ歌(ここはお江戸か神田の町か 神田の町なら大学は明治・・・)なども歌っていましたが、ブントの歌もありました。67年にはブントの先輩たちが歌う「ブント物語」の歌(「東京流れ者」の曲で歌う)を知りました。この歌をコンパなどでインターナショナルやワルシャワ労働歌で締める前に、みな楽しんで歌っていました。「ブント系の軽さ」といえますが、なかなか当を得た戯れ歌です。

 ブント物語
1.ガリ切ってビラまいて一年生
  アジッてオルグって二年生
  肩書並べて三年生
  デモでパクられ四年生
  ああわびしき活動家
  ブント物語
2.勉強する気で入ったが
  行ったところが自治会で
  マルクス レーニン アジられて
  デモに行ったが運のつき
  ああ悲しき一年生
  ブント物語
3.いやいやながらの執行部
  デモの先頭に立たされて
  ポリ公になぐられけとばされ
  いまじゃ立派な活動家
  ああ悲しき二年生 
4.デモで会う娘に片想い
  今日も来るかと出かけたら
  今日のあの娘は二人連れ
  やけでなったが委員長 
  ああ悲しき三年生
  ブント物語
5.卒業真近で日和ろうと
  心の底では思えども
  最後のデモでパクられて
  卒論書けずにもう1年
  ああ悲しき四年生
  ブント物語
6.先生、先生とおだてられ
  今じゃ全学連の大幹部
  奥さんもらって落ちついて
  今更就職何になる
  ああ侘しき活動家
  ブント物語

※ 管理人注
この替歌は、「戯歌番外地 替歌にみる学生運動」野次馬旅団編(1970.6.15三一書房発行)には「悲しき活動家」という歌として載っています。
本に掲載されている歌詞と一部違うところがありますが、替歌なので、いろいろなところでアレンジされて歌われていたと思うので、何が正しいということはないと思います。
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(戯歌番外地)

(つづく)

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。
HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
 http://meidai1970.sakura.ne.jp
新左翼党派機関紙・冊子
 http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
ゴールデンウイーク中はお休みしますので、次回は5月10日(金)に更新予定です。

「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
今回、第二部の原稿が届いたので、1年半ぶりに第二部の公開を開始することにした。
第二部の目次を付けたが、文字量が多いので、8回程度に分けて公開していきたい。今回は、第二部第一章(7-8)である。

<目 次>
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第二部第一章
社学同参加と現代思想研究会(67年)
1.私の触れた学生運動の時代      (2019.1.11掲載)
2.全学連再建と明大「2・2協定」   (2019.1.11掲載)
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) (2019.1.11掲載)
4.社学同加盟と現代思想研究会    (2019.2.8掲載)
5.67年現思研としての活動     (2019.2.8掲載)
6.67年春福島県議選のこと     (2019.2.8掲載)
7.全学連の活動ー砂川闘争      (今回掲載)
8.67年学園闘争の中で       (今回掲載)
9.10・8羽田闘争へ
10.10・8羽田闘争の衝撃
第二部第二章
国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連
2. 三里塚闘争への参加
3.68年高揚の中の現思研
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ
6.ブントの国際連帯集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年東大闘争
11.教育実習と4・28闘争

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
7.全学連の活動 砂川闘争

 米軍による北爆から「ベトナム侵略戦争反対」を訴える国際的な反戦運動が、米欧日で激化し続けていました。朝鮮戦争を上回る兵力を投入しながら、ベトナム人民の北部、南部の強じんな抵抗の前で、米政府は痛打をくらわされていました。米国内の反戦運動は社会に広がり、政府を脅かし、欧州、ソ連、東欧から非同盟運動の主体である第三世界に至るまで米国のベトナム侵略に反対し、ベトナム人民連帯行動を強化しました。日米安保条約を盾に、米国のアジア侵略基地として、日本の米軍基地は侵略の前線として機能していました。兵力の補給、武器の更新、負傷兵の撤退、海軍兵力の寄港と日米政府の様々な密約の中で進められていきます。
 67年1月のベトナム反戦第一波闘争が、12月に再建された三派全学連の初の行動として、羽田へと、400余名が全学連部隊として登場しました。明大は、学費闘争の最終局面でしたが、初代全学連委員長が斉藤克彦さんであり、参加も多かったようです。その後「2・2協定」を経て、斉藤さんに代わって秋山勝行委員長代行のもとで、全学連の第二波行動として、2月26日、砂川基地拡張阻止闘争が行われました。この時の参加か、その後の参加か、私自身の参加記憶ははっきりしません。たぶん「2・2協定」後で多忙で参加しなかったのでしょう。
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(1967.2.26滑走路前での総決起集会)
 ただ、この2・26闘争で三派全学連と反戦青年委員会は、初めて独自の集会を持ち、「反戦勢力」の流れを作り出したと、全学連自身が評価しています。このため、砂川基地拡張反対同盟青木行動隊長は、1,500人の青年、学生、労働者に次のような挨拶をしたと、記録されています。
 「あの11年前の砂川闘争以来、こんなに前進した集会はなかった。これまで抗議集会といっても、基地に近寄ることができず、立川市役所前の広場などに集まって、犬の遠吠えをするだけでした。それが今日はどうでしょう。このようにして今日は滑走路の前で堂々と集会をやり抜いたのです」(77年「流動」8月号より)。67年前半の私たちの主要な闘いは、「2・2協定撤回」「学生処分白紙撤回」と、現思研の組織化であり、学外では、ベトナム反戦・砂川闘争が中心としてありました。その中で、第一次砂川闘争を闘ったのは、全学連の明大の先輩たちであり、この時の逮捕起訴の裁判で、「伊達裁判長判決」が出たことを学びました。伊達裁判長は「米軍は日本国憲法に違反する軍隊であり、基地に侵入したと起訴された全学連の学生は無罪である」と言い渡したのです。ところが検察は、高裁を飛び越えて上訴しました。そして最高裁判決で差し戻しされ有罪になったという話です。当時も、司法権力のいかさまだと、私たちは話をしていましたが、のちに、このころの記憶は、2013年、土屋源太郎さんの話で、1955年の闘いが再び明らかにされているので、ここに触れておきたいと思います。
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(土屋源太郎氏2015年撮影)
 土屋源太郎さんは、伊達判決で無罪を受けた被告の一人であり、当時明大生で、全学連の都学連委員長として活動していました。土屋さんは、「伊達判決をいかす会」を立ち上げ、「砂川伊達裁判判決破棄した最高裁判決は無効」を求めて活動を開始していました。なぜなら、伊達判決を覆すために米駐日大使と日本の外相・最高裁判所長官が判決を巡って会っていたことが示される資料が、米国の機密文章解除の中から発見されたためです。土屋さんの発言は次のような内容です。(「情況」誌2014年11・12月合併号)
 「1950年朝鮮戦争が始まると、立川基地からも米軍機は飛びたち、ベトナム侵略戦争でも拠点になっていった。米軍立川基地もその一環であり、原水爆を搭載できる大型機、高速戦闘機発着の必要から、滑走路拡張が必要となった。1955年5月、砂川町長に政府は基地拡張の通告を行い、126戸の農家と17万平方キロメートルの接収を告げた。これは町の生活破壊であり、砂川町議会を始め、反対を表明して『砂川基地拡張反対同盟』が結成された。これが砂川闘争の始まりだった。この基地のための測量に抗して、機動隊の暴力にスクラムで抵抗し、5,000余が流血の中で闘い抜いた。『土地に杭は打たれても心に杭は打たれない』と青木行動隊長の発した言葉は、その後の闘いの合言葉となった。権力の分断工作、逮捕などに抗して、1956年、反対同盟は全国の人から応援され、全国へも支援を呼びかけた。この時から全学連として砂川闘争に関わるようになった」と土屋さんは述べています。そして、延べ2万5千人以上の学生が砂川に泊り込み、地域ぐるみの支援活動を行ったとのことです。
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(ポスター)
 「1956年10月12日、13日、数千の機動隊に守られて早朝から測量隊が現れた。6,000を超える労働者、学生、市民が座り込み、測量阻止のスクラムを組んで反対同盟と一体となって闘った。この闘いの中で『赤とんぼ』が唄われ、大合唱となり、さすがの機動隊も静かになった。この日、1,000人以上の怪我人、13人の逮捕者が出た。世論の反対の高まりの中で、15日以降の測量は中止になった」。その後のことです。57年の7月8日、早朝から基地の柵をゆさぶり、抗議行動を行った柵がこわれて立ち入れるようになり、基地内に200~300人の人数が数メートル侵入した結果となったようです。当時、都学連委員長だった土屋源太郎さんは、指揮をとっており、この基地への侵入は当然のことと考えていたそうです。
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(基地に突入する全学連)
 「基地に入ると、1.5メートルくらいの高さに鉄条網が数百メートルにわたって置かれ、その後ろから機関銃を乗せた米軍ジープが2台現れた。司令官から基地内に入った者があれば射殺してよいと命令を受けていたという。対峙は昼近くまで続き、国会議員や調達局(測量当事者)、警察と話し合いがなされた。『本日の測量は中止する。双方は同時に引き上げる。逮捕者は出さない』ということで闘いは終わった」のです。
 ところが2ケ月以上も経った9月22日に、米軍立川基地に侵入したとして、労働者、学生、23人が逮捕され、労働者4名、学生3名が『安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反』として起訴されました。土屋都学連委員長もその一人でした。この砂川事件で起訴された7人の被告には、総評弁護団中心に、大勢の弁護団が結成されました。被告側の主張は「安保条約に基づく米軍基地の駐留は、日本国憲法第九条違反であり、基地侵入は無罪」という立場で、「この裁判は憲法裁判だ」として臨んだのです。59年3月30日、東京地裁一審判決は伊達裁判長によって宣告されました。「主文・被告人全員無罪」。主旨は、「米軍の日本駐留は軍備なき真空状態からわが国の安全と生存を維持するため、自衛上やむを得ないとする政策論によって左右されてはならない。米軍の駐留が国連の機関による勧告または命令に基づいたものであれば、憲法第九条第一項項前段によって禁止されている戦力の保持に該当しないかもしれない。しかし米軍は、米戦略上必要と判断した場合、わが国と直接関係ない武力紛争に巻き込まれる危険があり、駐留を許可したわが国政府は、政府の行為により、再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意した日本国憲法の精神に悖る。
わが国が、外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で米軍の駐留を許容していることは、指揮権や軍出動義務の有無にかかわらず、憲法第九条第二項前段によって禁止されている戦力の保持に該当するものであり、結局わが国に駐留する米軍は、憲法上その存在を許すべからざるものと言わざるを得ない。米軍が憲法第九条に違反している以上、一般国民の同種法益以上の厚い保護を受ける合理的理由は存在しない。軽犯罪法より重い刑事特別法第二条規定は、なん人も適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条に違反し無効である」以上が伊達判決の主旨です。
 この「伊達判決」に危機感を持った米日権力者は、司法に介入してこの一審を否定すべく、秘密裏に話し合っていたのです。そのことは、当時の秘密だったので、被告らも知りませんでしたが、この会議の結果、上訴に至ったのです。この最高裁判決によって編み出された「統治行為論」という詭弁が、以降も日本国憲法をを骨抜きにしていくようになりました。最高裁判決いわく、日米安保条約のような、高度の政治性を有するものに対する違憲か否かの判断は、司法裁判所の審査には原則としてなじまず、一見きわめて明白に違憲、無効と認めない限り、裁判所の司法審査権の範囲外であるとして司法判断をしないと決めたのが、「統治行為論」です。「統治行為論」というこの論理によって、以降の「福島裁判長判決(自衛隊違憲論)」を退け、また。「イラク派遣訴訟」や、米軍基地に関する判断回避など、立憲主義の否定、骨抜きは基本となってしまいました。
 司法において、最高裁判所が憲法判断できなければ、国の統治者の恣意的な憲法判断を許し、憲法第九条も骨抜きにされていかざるをえないのです。とにかく、土屋源太郎さんらは最高裁の差し戻し判決によって、再度、地方裁判所の審理が行われ、有罪となり、被告7人は罰金2,000円の有罪刑を科されました。最高裁判決から40年を経て、2008年、米国立公文書館で砂川事件「伊達判決」に関する解禁文章14点が発見されました。(国際問題研究者の新原昭さんの発見)その主な重要な点は、マッカーサー米大使と藤山外相の田中最高裁判所長官との間で行われた砂川裁判「伊達判決」を破棄するための謀議密約があったこと、その内容を大使が、米本国国務省にに報告した公電にあったのです。以上のように、50年代砂川闘争は闘われ、かつ、権力の謀略によって、無罪から有罪に変化したばかりか、「統治行為論」という、日本の立憲主義の否定が公に「合法」化されてしまったのです。
 こうした歴史の上に、再び砂川基地に対する拡張計画が出され、それを阻止する闘争が日程にのぼったのが、67年だったのです。
 67年2月以降、ベトナム反戦、さらには4月28日沖縄返還要求闘争が続き、そして5月16日、「三派全学連」は中大学生会館において350人以上の学生参加の上で「砂川基地拡張実力阻止闘争全学連総決起集会」を開きました。同じころ、明大二部の研究部連合会(研連)合宿が行われています(4月29日~5月3日)。研連は執行部が、学苑会執行部に対案として名を連ねた人々に代わって、教育研究部幹事長の諏訪さんらが中心となって新執行部を運営していました。この合宿には、教育研のクラケンや、現思研の仲間も参加しています。(私の記憶はあいまいですが、遠山さんと当時一緒に参加した写真が残っています。)
 5月16日には、学苑会は5月末の定例学生大会開催を決定しています。すでに4月以降、新入生を迎えた自治会の呼びかけで、反戦・反基地闘争は広がっていきます。全学連の呼びかけで、5月26日、砂川基地拡張阻止の日比谷野音集会や、デモが繰り広げられていました。この集会で、革マル系の全学連と場所取りめぐって乱闘になったとのことですが、私には記憶にないです。この集会をふまえて、5月28日、砂川現地において総決起集会が行われました。立川市砂川町に基地拡張予定地において、日共系の集会と、三派全学連の基地拡張反対決起集会が別々に行われることになりました。当初は、社共統一行動を予定していたのですが、結局、全学連の参加をめぐって折り合いが付けられなかったのだと思います。明大新聞67年6月8日号によると、日共系の集会には3万人で、明大からは約20人が参加し、安保廃棄・諸要求貫徹実行委員会主催の「ベトナム侵略反対・立川基地拡張阻止・米軍基地撤去諸要求貫徹、6・28砂川集会」として開かれました。当時の日共系の主張には、必ず「諸要求貫徹」という言葉が使われていたのを思い出します。一方、三派全学連は、約3,000人で、明大からは約250人が参加しています。そこから200メートルほど離れた場所で、約500人の革マル系全学連も集会を開いていたと、明大新聞に載っています。
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(1967.5.28砂川現地闘争)
当日は、私も現思研の仲間と共に参加しました。私たちの結集した全学連(三派全学連)は機動隊と激しく衝突し、双方合わせて約100人の負傷者を出し、学生48人が逮捕されています。私たちも、明大昼間部の自治会も「2・2協定」の敗北的事態をのりこえて、再建された社学同勢力も勢いづいていました。まだ学費闘争指導部に対する処分が行われる少し前であったので、200人を超える人々が参加しています。
私も、現思研の仲間も、ブント社学同の隊列に加わり、「明治大学」としての隊列を組んで滑走路北側の集会に参加しました。和泉校舎から現地にマイクロバスで乗り付けた部隊が200人と明大新聞に出ているので、農・工学部の生田校舎や、神田駿河台校舎も含めれば、はるかに300人を超えていたでしょう。このころ、現思研のメンバーは、研連や各学部自治会、学苑会執行部で活動しつつ、学外のデモ、集会には15人から20人の仲間がデモに加わっていました。時には現思研のみならず、学部学生も誘って、より多くの仲間が加わります。
この日は、新入生の経験教育もあったので、私たち上級生らもほとんど参加しました。13時からの集会を経て、4時過ぎからデモ行進に移りました。「江ノ島ゲート」と呼ばれる付近から大量の機動隊が隊列を狭めるように規制し、それに抗議する学生たちは楯と警棒の暴力に阻まれてしまいました。私たちは歩道側へと追いやられ、片側サンドイッチ規制のまま、立川駅方面へと向かいました。
私は青医連の人たちと、傘に大きく「救護班」と書いた紙を貼ってさし、腕にも同種の腕章をまいて、社学同の医学部の友人たちのグループと一緒に、緊急医療救護体制をとる一員として、歩道をデモに並行して歩きました。衝突のたびに、頭を割られる怪我人が出ていました。それでも学生側も機動隊の隙をついて、投石や駆け足行進で抗議します。基地正面ゲート付近になると投石が激しくなり、投石を止めると、ゲート付近で急に一斉座り込みに入るなど、全学連の指揮のシュプレヒコール・笛に従ってスクラムを固めてシットインを行います。機動隊のごぼう抜きに対し、退去させられたあとから再びスクラムを組んで態勢を立て直し、投石する学生たち。
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(1967.5.28砂川現地闘争)
たまらず機動隊は、逮捕した学生を盾にして投石に対抗するという卑劣な行動にでました。野次馬含めて「ナンセーンス!」「何だ!」と騒然です。救護班と書かれた傘を目印に、怪我人が次々と運び込まれてきます。白衣をまとった医学連の友人たちが、即応体制をとっています。この友人たちは、かつて雑談の中で「手術にはまだ立ち会っていない」とか、「縫ったことは一度だけある」という医者の卵たちで、普段は活動の方に熱心な人もいます。でも、こういう場では未経験でもそれどころではないと、果敢です。
頭を割られて血がドクドクと出ています。その本人が何か話すと、それに合わせるように血が更に流れ出ています。青医連の者たちは止血し、また縫い合わせています。「大丈夫?」と私の方が不安になって尋ねると、真剣な顔で「消毒をしっかりしていれば大丈夫。血が出ている方がまし。打撲で脳内出血で血が外に流れない方が怖いんだ」などと言っています。これは頭から血を流し、縫ってもらっている人への励ましの説明かもしれません。私は何もできす、もっぱら消毒か、必要物品を手渡すか、服をハサミで開いて医者の卵たちが治療しやすいような補助しかできません。私と行動を共にしていたのは遠山さんともう一人、女性もいました。
夜8時半ごろ、デモ隊は、ジグザグデモや渦巻デモをくり返して、立川駅前で党派別というより大学別に集まって総括的に逮捕者や怪我人などの安全確認をして、9時ごろにみんなで立川駅から御茶ノ水へと向かいました。学館に戻り、現思研の仲間は、すでに新学期前に新入生逮捕の経験から、よく注意していたので、みな無事でした。この日の明大からの逮捕者は1名でした。当時は逮捕されてもだいたい2泊3日で釈放されていた時代です。長期勾留は指揮者のみだったと思います。
その後も6月も数次にわたって砂川基地拡張阻止の全学連の闘いは続きます。6月末に佐藤首相の第一次東南アジア訪問に対する新たな経済侵略に対する、訪問阻止闘争が広がっていきます。
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(1967.7.9砂川現地闘争)
7月9日には、砂川基地拡張阻止大集会が社共統一行動として行われました。雨の中、全学連、反戦青年委員会も加わり、12,000人の人々が集まっています。
この日も激しい市街戦となり、機動隊はデモのたびごとに、新しい防護服や乱闘靴から、盾や指揮棒に替わっていくというのが、当時の私の印象です。学生は反撃して投石しますが、社共統一行動を要求された反発もうまれます。このころの闘いから、反戦青年委員会は既成左翼や組合の無力さや、しがらみを超えること、「自立・創意・工夫」のもと、独自に全学連との行動を重視するようになっていきます。そしてまた、砂川闘争の先陣争い的な競合が闘いの中から育ち、党派間の内部矛盾も顕著になっていったと思います。
ちょうどそのころ、明大ではすでに述べた学費値上げ反対闘争に関わった指導的な位置にあった学生たちに、不当な大量処分が、6月23日、学長名で発表されました。退学処分11名を含む21名に懲戒処分が科されました。退学処分には、学費闘争の始まりの学生会中執委員長の中澤満正さん、全学闘争委員長の大内義男さん、全学連初代委員長だった斉藤克彦さんも、また「2・2協定」の混乱を収拾していた委員長代行の任を負っている小森紀男さんも含まれていました。二部では、酒田全二部共闘会議議長や研連委員長だった岡田さんに退学処分が下されました。ただちに、昼間部、夜間部の各執行部、各学部自治会は、不当処分に対し「処分撤回闘争」を組み、ハンストや、授業ボイコット体制を取る宣告しました。それらはすでに述べたとおりです、
当時のブントの学生対策(学対)指導部は、中核派と競合しつつ、明大の「2・2協定」自己批判の苦い教訓から、学園内闘争に対しても無理な急進的方針に執着していたのではないかと思います。街頭でも大学でも「改良と革命」の話はかつてのようには出ず、「革命的敗北主義」が主張されるようになりました。徹底的に非妥協に闘って敗北することによって次の勝利への展望をつくるとする考えです。私たちはそうした主張を大学の自分たちの活動の中では実践していないままでした。
私たちは、そういう意味では「社学同」といっても自分たち流のやり方で加わっていたので、仲間意識を大事にし、相互扶助・共同のスタイルで、働きながら学ぶ範囲で、街頭政治闘争に参加していました。党内を、だれが指導していて、どんな派閥があるかも興味はなく、明大学生会館を中心に出会う仲間たちと交流し、助け合っていたので、御茶ノ水周辺大学とは、ブント同士仲良しでした。明大・中大・医科歯科大、専修などの友人たちです。また、関西から東京に任務がえで常駐する全学連や反戦活動家のブントの人たちも、明大学館を根城にしていたので親しく、頼まれれば、現思研の仲間が助けました。後の反帝全学連の委員長の藤本敏夫さんや、学対の山下さん、村田さん、高原さんや佐野さんらです。「2・2協定」以降、明大闘争の過ちを他党派に対しては謝罪しつつ、ブント内では「斉藤糾弾」を求めて彼を探しまわったりはしていたけれど、ブント指導部自身の自己切開の痛みを伴うものではなかったのだろうと思います。その分、東京に乗り込んで活動を始めると、「関西方式」をそのまま持ち込んで、「関西派」的な人脈形成しつつ、自らを自己肯定したまま「革命的敗北主義路線」を主張していたように思います。私の知る関西派の人たちは「政治主義」というか文化、芸術、文学を語り合うことはありませんでした。
ブントは、全国の自治会数では中核派をしのいでいるのだということでした。中核派の断固非妥協路線と競うように「革命的敗北主義」路線が主張されていたように思います。解放派やML派ももちろんライバルではあったけれど、「反中核派」でブントと共闘していたように思います。現代帝国主義の規定、情勢分析、ベトナム連帯の位置づけなどー米帝国主義の侵略戦争か、スターリニズムと帝国主義の代理戦争かといったーあらゆる局面で論争し、他派批判を自らの立脚点とするといったやり方です。
当時の全学連中執のメンバーは、中核派11、社学同9、解放派5、第四インター2となっており、議決においては、中核派の方針に反対して拮抗したまま進んでいきます。その結果、「非妥協性」を競うような運動戦へと、全学連の活動が益々傾斜していったといえます。夏休みを経て、9月佐藤訪韓阻止闘争から、500名をこえる実力部隊を先頭に街頭行動を更に重視し、9・20佐藤東南アジア訪問実力阻止闘争を経て、10・8羽田闘争へと飛躍していくことになります。

(文章が長いので2つに分けています。後半もアップしていますので、ご覧ください)

後半に続く

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