野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2019年06月

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「ガザに地下鉄が走る日」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「ガザに地下鉄が走る日」(みすず書房)】
岡真理著「ガザに地下鉄が走る日」を読みました。
この本はイスラエルにとって武装作戦で攻撃されるより脅威に違いない、と思いつつ読みました。パレスチナの西岸地区やガザでイスラエル軍によってパレスチナ人が銃弾や空爆で殺されるニュースは日本でも時々伝えられます。でも日本に住む人々にとっては同情を寄せても遠い存在でしかありません。この「時々伝えられる」パレスチナとは、どんな現実なのか?人々はどう暮らしているのか?実は「時々」ではなく、日常生活のすべてイスラエルの欺瞞的で野蛮な介入と弾圧の中にあること、その数々の姿……。それらを一人の研究者として思索しつつ、旺盛な好奇心を持つパレスチナ人の伴走者としてすごした日々の行動の記録が凝縮されているのがこの本です。
著者から読者に提供される経験と思索の数々は、共感を与えずにはおかない筆致で描かれています。どの章も20代だった著者が新しい社会・現実に直面しながら思索し、問題意識を組み立て、更にパレスチナ問題を解明していく40年近い思索の過程がパレスチナの現場の人々との対話と協力を通して生まれる姿が浮かびます。人々に語りかけ鋭く学ぶ姿勢に私は感動すると同時に、自分をふりかえります。私は解放運動の闘いの側、解放組織の側からしか見えなかったことを読み取ることが出来るからです。著者がアラブ・パレスチナの人々と出会い共感し連帯しながら研究提示している記録を私は追体験的に想像しつつ当時を思い、その地名、サブラ・シャティーラ難民キャンプ、ラシーディーエ難民キャンプ、タッル・エルザァタル難民キャンプ、そしてパレスチナ人がよく語る「ワタン」「ヘルウ・フィラスティーン!(すばらしいパレスチナ!)」や言葉に感情移入して胸に郷愁のように熱く迫り、情景が広がります。
第一章から第十四章のうちどの章もいいものです。第二章のガッサン・カナファーニの「太陽の男たち」。第三章「ノーマンの骨」と題されたイスラエルによるナクバ(大破局)虐殺の真実。第四章「存在の耐えられない軽さ」に記された、イスラエルの10年以上の完全封鎖の下「生きながらの死」におかれたガザの人々の告発。第五章「ゲルニカ」が語るサブラ・シャティーラの82年の虐殺、それらは過去ではなく、著者の筆で今につながる日常性として活写されます。また祖国パレスチナに帰ることの出来ないレバノンのパレスチナ人が、著者がパレスチナ、エルサレムにも最近行ったことを知り、思わず声を揃えて「ヘルウ・フィラスティーン?」と聴く第九章の情景。第十二章では「人間性の臨界」と題して、2008年から9年にかけてイスラエルがガザでいかにパレスチナ人を虐殺したのか、この空爆と虐殺に抗して雨の中日本でも扇町公園から約500人の抗議とデモのあったこと、きりなく記したいエピソードにあふれています。どの章も心に響きますが、第一章、第二章そして最終章についてふれておきます。
 第一章「砂漠の辺獄」の中で著者は自らの経験から思索を開始します。著者が22才の夏トルコ・シリア国境を通過した時、陸続きの国境の間にはどちらの国民国家にも属さない「ノーマンズランド(緩衝地帯)」があることをはじめて知ります。この経験は2003年の米軍イラク侵略の戦禍を逃れるためにヨルダンへと向かったパレスチナ人が、他の国籍のある人々と違って、ヨルダン入国を拒否されてノーマンズランドに留め置かれ、難民と化していた衝撃の事実と向き合うことになります。また、イラクからシリアに逃れ同様の境遇に遭うパレスチナ人。更にはシリア内戦の中、レバノン、ヨルダン、トルコの国境地帯ノーマンズランドに滞るしかない人々、欧州へと難民化をもとめ海の藻屑(もくず)となる人々……。人間としての扱いを拒まれた「ノーマン」……。主権を基礎とする「国民国家」の空隙に落ち込んだ人々を著者は凝視する。「彼らは人権とも、彼らを守る法とも無縁だ。『法』も『人権』も、それは『人間(マン)』、すなわち『国民』の特権なのだということ。国民でないものは『人間』ではない、それが、普遍的人権を謳うこの世界が遂行的に表明している紛うことなき事実であり、その事実が──彼らが『国民』でないために『人間』でないという事実、それゆえに人権や人間を護るべき法の埒外の存在であるという事実が──露わになるのが、ここノーマンズランドだ。」もっとも必要とする人々に人権が与えられず、自らの力では越えられない国と国との間に棄ておかれた砂漠の辺獄。「人間と市民の同一性、生まれと国籍の同一性を破断する」難民という人々の住む穿たれた穴の暗黙の虚構の上にこの世界があると著者は見据える。そこから著者は「パレスチナを思考することは、ノーマンとともにこの砂漠の辺獄から世界を思考するということに他ならない。」という視座を得て、国民国家の狭間で生きることを強いられた「ノーマン」の現実をパレスチナの重層的姿としてその視座のもとに最終章の第十四章「ガザに地下鉄が走る日」まで記録しています。
 第二章「太陽の男たち」では、ガッサン・カナファーニーの小説「太陽の男たち」が「国境と難民」について思考するうえで、二十一世紀の今日的問題を既に半世紀以上も前に記したものとして、改めて読まれるべき作品として紹介しています。世界に問題が溢れるとうの昔に、パレスチナの現実がそこに始まっていたことを示しています。この小説を簡単にスケッチすると、イスラエルの民族浄化作戦によって48年パレスチナを追放された3人の男たちの10年目の物語。働き口も無く、パスポートもビザもない3人がクウェートへと職を求めて密入国を試み果たせずに、死を迎えノーマンズランドにうち棄てられていく物語です。クウェート密入国の手段は灼熱の50度にもなるイラクのバスラからクウェートへの空(から)の給水タンクの内に潜んで、国境を通過することです。この運搬を金稼ぎに諒解する運転手もまたパレスチナ人です。イラク国境は越えたのですが、クウェートの検問所でひまつぶしの係員たちのくだらない話の相手をさせられながら、運転手はジリジリしながら入国手続を終えるや、大急ぎで車をノーマンズランドに移動して停車し、タンクの蓋を開けたが、すでに3人は事切れていました。灼熱の7分の辛抱のはずが20分以上を過ぎてしまったのです。運転手は「なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜ叫び声をあげなかったんだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ。」と繰り返すのです。この悲鳴で物語は終わります。ここに、作者ガッサンの思いが込められています。
その後、エジプト人のタウフィーク・サーレフ監督によって「欺かれし者たち」のタイトルで、この小説が映画になりました。映画の方は、灼熱地獄のタンクの中で、3人は必死にタンクを叩くのです。でも声は届かず、結局絶命し、原作と同じく、骸はノーマンズランドに棄てられます。今回この著書を読みつつ私は、昔のある光景を思い返しました。あれは、71年の12月の終わりか正月72年の冬、私は26歳のころのことです。当時の私は、ボランティアでPFLPの情報センターを手伝っていました。私のボスがPFLPの週刊誌「アル・ハダフ」の編集長で作家のガッサン・カナファーニです。彼から、自分の小説「太陽の男たち」の映画が出来たので試写会をやるから来いよ、と誘われました。どこかの文化センターの一室で、十数人の身内だけの試写会で、丁度日本から遊びに来ていた女友達を連れてきてもいい、というので出掛けました。ほんの内輪の訳は、PFLPハバシュ議長らイスラエルに命を狙われている人々を護る保安上の配慮だとわかりました。ハバシュ議長夫妻と、ガッサンの妻アニーらがいました。映画は、後半小説のストーリーと違って、タンクの内から必死にタンクを叩く画面になったとたん、暗闇の中でガッサンが身じろぎし、制作した監督の方を見ました。監督は緊張している風で、みんなを見回しました。映画が終わると、ガッサンが何かまくしたてて、監督も負けずに捲し立てていました。ハバシュがニコニコして「いい映画だった」と言って席を立ったので、みなハバシュ夫妻を送りつつ、会はお開きになりました。
翌日、ガッサンに事情を聴くと、ガッサンは、原作通りであってほしかったと話していました。タンクを叩いたのに、世界は耳を傾けず、やっぱり死ぬのは希望がないじゃないか、というようなことを語りつつ、アラビック・コーヒーを啜っていた情景が浮かびます。居合わせたイラク人の映画監督は、サーレフは絵になる最後にしたかったんだろう、闘いを示したかったんだろう、と言っていました。その後PFLPの72年5月30日のテルアビブ空港襲撃作戦に対する報復で、72年7月、生き残ったオカモトの軍事裁判直前に、ガッサン・カナファーニは殺されます。今回この本を読んで、この映画が73年制作と記されているのを見て、ガッサンが生きている間に、もしかしてこの映画にゴーサインを出さなかったのかもしれない、と思いました。ただ、ガッサンの同意を得ていて遅れただけかもしれませんが。
アルハダフの大きな机で、大好きなアラブコーヒーを啜るガッサンを思い返しつつ、この第二章を何度も第十四章と共に読み返しました。最終章が本のタイトルともなっている「ガザに地下鉄が走る日」。2018年のナクバから70年目の「帰還の大行進」が語られています。1948年、民族浄化の犠牲者の難民たちが、ガザに19万人を超えてやってきます。当時のガザの人口は8万人強。70年後の現在、ガザの総人口は200万人。そのうち7割の130万人が、ナクバで難民になった人たちとその子孫です。ガザの200万人の「ノーマン」たちが、人間の諸権利と切り離され、「難民キャンプ」というより「強制収容所」と呼ぶ方がふさわしい「ノーマンズランド」の中で、なお帰還を求める大行進の闘いが続いています。殺されても殺されても。パレスチナを占領し、パレスチナ人の帰還を許さないイスラエルは、逆に諸外国のユダヤ系国民を「帰還法」によって、いつも帰還を促し、「国民」の特権を行使させています。このシオニズム批判も著者は鋭い。
そしてまた、2014年3月、封鎖7年目のガザのフランス文化センターを訪れた著者が見たカラフルな絵について、最後に語っています。それはガザの地下鉄の路線図。本物の路線図のように精巧で、著者を釘付けにしました。それが、ガザのアーティスト、ムハンマド・アブ・サルの制作した「ガザの地下鉄」という題の、想像上の地下鉄路線図だったのです。ガザから西岸のエルサレムへ行って、アルアクサー・モスクに祈ることもできるし、西岸の人々は、ガザに来て海水浴することもできる。ガザに地下鉄が走る日、西岸の分離壁もレイシズムもない、かつての入植者や難民たちが、断食明けの食事を共に囲む……。ガザの地下鉄は、まだ訪れない美しい希望を「絶望の山」から「希望の石」を切り出す鑿だと、著者は記します。ガザの帰還を求める叫びに対して、著者は「私たちが、この世界を私たち自身のいかなるワタン(祖国・郷土)として想像し、それを全霊で希求するのか、ということと限りなく同義である」と、本を結んでいます。そして、「あとがき」がまたいい。ガザに示されるパレスチナの真っ暗の闇の中で、もし「私」のために灯が灯されていると知ったら、その灯に向かって人は歩み続けることが出来る、と著者は書いています。「真っ暗の山中の遠く浮かぶ灯に、私たちもまた、なることが出来るのではないか。いや、そうならねばならないだろう。パレスチナに希望があるとしたら、それは私たち自身のことだ」と。そうあり続けたい。何度も眼元を濡らしつつ読み終えた本です。
              (2月21日記)

「ガザに地下鉄が走る日」みすず書房 3,200円(税別)」
(「みすず書房」サイトより)
イスラエル建国とパレスチナ人の難民化から70年。高い分離壁に囲まれたパレスチナ・ガザ地区は「現代の強制収容所」と言われる。そこで生きるとは、いかなることだろうか。
ガザが完全封鎖されてから10年以上が経つ。移動の自由はなく、物資は制限され、ミサイルが日常的に撃ち込まれ、数年おきに大規模な破壊と集団殺戮が繰り返される。そこで行なわれていることは、難民から、人間性をも剥奪しようとする暴力だ。
占領と戦うとは、この人間性の破壊、生きながらの死と戦うことだ。人間らしく生きる可能性をことごとく圧殺する暴力のなかで人間らしく生きること、それがパレスチナ人の根源的な抵抗となる。
それを教えてくれたのが、パレスチナの人びとだった。著者がパレスチナと関わりつづけて40年、絶望的な状況でなお人間的に生きる人びととの出会いを伝える。ガザに地下鉄が走る日まで、その日が少しでも早く訪れるように、私たちがすることは何だろうかと。
目次
第1章 砂漠の辺獄
第2章 太陽の男たち
第3章 ノーマンの骨
第4章 存在の耐えられない軽さ
第5章 ゲルニカ
第6章 蠅の日の記憶
第7章 闇の奥
第8章 パレスチナ人であるということ
第9章 ヘルウ・フィラスティーン?
第10章 パレスチナ人を生きる
第11章 魂の破壊に抗して
第12章 人間性の臨界
第13章 悲しい苺の実る土地
第14章 ガザに地下鉄が走る日
あとがき

著訳者略歴
岡真理  おか・まり
1960年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は現代アラブ文学、パレスチナ問題、第三世界フェミニズム思想。 著書に『記憶/物語』(岩波書店)、『彼女の「正しい」名前とは何か』、『棗椰子の木陰で』(以上、青土社)、『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房)ほか。訳書にエドワード・サイード『イスラム報道 増補版』(共訳、みすず書房)、サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』(共訳、青土社)、ターハル・ベン=ジェルーン『火によって』(以文社)、アーディラ・ライディ『シャヒード、100の命』(インパクト出版会)、サイード・アブデルワーヒド『ガザ通信』(青土社)ほか。2009年から平和を目指す朗読集団「国境なき朗読者たち」を主宰し、ガザをテーマとする朗読劇の上演活動を続ける。

【重要なお知らせ!】
ヤフーのジオシティズの閉鎖に伴い、「明大全共闘・学館闘争・文連」のホームページを「さくら」レンタルサーバーに引っ越しました。
リンクを張られている方や「お気に入り」に登録されている方は、以下のアドレスへの変更をお願いします。
HP「明大全共闘・学館闘争・文連」
 http://meidai1970.sakura.ne.jp
新左翼党派機関紙・冊子
 http://meidai1970.sakura.ne.jp/kikanshi.html

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月5日(金)に更新予定です。

今回のブログは、久しぶりに全国学園闘争の記録として関西学院大学闘争を取り上げる。
関西学院大学のホームページによると、歴史は古く、1889年に神戸に神学部と普通学部を持つ「関西学院」として創設され、1932年に「関西学院大学」として設立されたキリスト教系の大学である。「かんせいがくいん」と読む。昨年の日大アメフト部問題で関西学院大学の名前もマスコミに頻繁に登場したのでご存知の方も多いと思う。

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手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。
まず、この冊子に掲載された「闘争日誌」を見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)
67・9・8  小泉財務部長、関学新聞と会見し「学費値上げはすでに内定している」と言明。
10・31   「学費値上げ阻止」全学共闘会議結成さる。
 11・22    学院当局、抜き打ち的に臨時常務会を開き、同夜全共闘に対し現行学費(67年度当時)の5割アップと43、44年度連続学費値上げを一方的に通告。
12・7  緊急理事会が早朝に開かれ、11・22の常務会案通り5割アップが決定さる。
12・16 各学部闘争委、スト権確立投票を行い、法学部の拠点ストを皮切りに、社、文、商の3学部も無期限ストに突入。経は民青系執行部のためスト権確立せず、戦線脱落。                   
68・ 1・17 右翼、体育会系学生の組織動員により、商、学生大会で「バリケード撤去」決議され、続いて文、一法もバリケード解除。社は、後日に持ち越す。
1・22 社教授会、社・自治会に対し「自治能力なし」と決めつけ、解散命令で弾圧。
1・27 社・学生大会で「後期試験ボイコット、闘争の継続」を決議。
2・26 社・学生大会、「バリケード解除」を決議し、実質的に闘争は終焉。                   
3・23 法、社、商、文の教授会、26名にもおよぷ大量不当処分(退学11名、無期停学8名、停学7名)を発表。
3・28 卒業式当日、棍棒とヘルメットに身を固めた全共闘武装部隊70人、学院本部に突入。昼休み中の院長、学長に処分撤回を迫るが、教授達が右翼体育会系学生150を扇動し、攻撃を仕かけ、投石戦続く。学長、「生命に危険がある」とし、5時すぎ、兵庫県警に機動隊導入を要請。
4・9  兵庫県警、証拠物件押収のため、再び学内に乱入。中田全共闘議長ら9名の学友を、下宿先などで不当逮捕。長期勾留。
5・22 法、処分解除。以後、文の一部、商も処分解除。
6・26 全学総会開かれ、「教授会決定の処分は認めない。応援団の解散要求」決議さる。
9・26 3・28・闘争の第1回公判開かる。法廷内に公安刑事2名が潜入していることが判明し、学友100人はこれを実力で排除、「不当起訴弾該、官憲の不当弾圧粉砕」をシュプレヒコール。
10・21 国際反戦デー。法、文で1日スト。社では4日間のバリケードスト。
11・29 全学執行委員会、学院当局に対して「公開質問状」を出す。これは、学費値上げ、機動隊導入理由など8項目に対する当局の見解を問うたもので、6項目要求の土台となるもの。
12.12 全共闘準備会30人、理事会の行なわれている新阪急ホテルになだれ込み大衆会見を要求するが、古武学長「大学に団交の場はない」と突っぱねる。
12.19 法、文、社で6項目要求(①43 ・44連続学費値上げ白紙撤回 ②不当処分白紙撤回 ③機動隊導入、捜査協力自己批判 ④文学部学科制改編白紙撤回 ⑤学生会館の管理運営権を学生の手に ⑥以上を大衆団交の場で文書でもって確約し、責任者は引責辞職せよ)の1日スト。
文で教授会会見。東山学部長、対教授会団交を開くとの確認書と、10・ 21反戦闘争を弾圧した自己批判書に署名、捺印。
12.23 文教授会、東山学部長の確認書と自己批判書を反古にしたため、文闘委1日封鎖行なう。
全共闘会議が、夜開かれ、学院本部封鎖が提起されたが、意志一致できず流れる。
69.1.6 全共闘会議で、第5別館封鎖派(社闘、フロント、社学同、人民先鋒隊)と反対派(反帝学評、学生解放戦線)に分かれる。
1.7 第5別館実力封鎖。全共闘(社闘、フロント、杜学同、人民先鋒隊)30人、6項目要求貫徹、全学スト体制の構築めざす。この日から右翼の攻撃に備え、ゲバルト訓練始まる。反帝学評、学生解放戦線派は 「ショック戦術だ」と封鎖に批判、クラス、サークル末端からの組織化めざす。
1.10 学長、退去命令発す。「封鎖は大学の自治を根底から破壊する行為だ。ただちにこの不法行為をやめよ。いまからでもおそくない。すぐ退去して第5別館を正常な状態にもどすことを命じる」
全学執行委員会(反帝学評系)、学院当局に6項目要求に関する対理事会団交を要求。
1.11 法でスト権確立投票始まる。
1.17 学院本部実力封鎖。全共闘(社闘、社学同、フロント、人民先鉾隊)60人、未明に机、イスでバリケード築く。
学院当局、「第5別館、本部の建物の封鎖が続く限り、大衆団交に応じることができない」と回答。
1.18 l法、無期限ストに突入。この頃サークル闘争委結成され、以後講演会活動やすわり込み運動を展開。
1.21 文闘委、教授会に大衆団交求め、昨年12月東山学部長が署名、捺印した10 ・21反戦闘争弾圧の自己批判書と大衆団交開催するとの確認を反古にした理由を追求するが、教授会「何も答える必要ない」と突っぱねる。
1.24 全学集会開かる。これは学院当局提唱による、第1回目の収拾策動で あったが、全共闘ヘルメット部隊150入が介入、大衆団交に切り変える。しかし、院長、学長は一切の釈明をしないばかりか、その場から逃亡を図り、一般学生6、000人の怒りを買った。
その後、2、000人の学内大デモを展開。右翼学生職員なぐりかかり、20数名重軽傷。
この頃から全学1連協、体育会有志連合、キリスト者反戦連合が、活発に動き出す。
1.25 商、スト権確立投票開始。   --
1.26 社闘実力部隊30人、未明に、社会学部校舎を、実力封鎖。
1.27 神、無期限ストライキに突入。経済学部集会開かる。
 右翼学生に守られた教授、大衆団交に切り変るや逃亡。新川執行部、これと同時に「闘争の責任負うことできない」と解散声明。以後、経執行部不在。
1.28 全共闘(社闘、フロント、社学同、人民先鉾隊)200、深夜に文学部校舎にバリケード築く。
1.29 文に引き続き、未明、経も実力封鎖。これで理を除く全学部で封鎖体制を確立し、当日から始まる予定であった後期試験すべてが無期延期となった。
1.30 商学部でスト反対派の右翼学生ら執行部の解散求めるリコール運動始める。
1.31 対理事会、常務会団交に向けての予備折衝ははじめるが、団交開催の 条件をめぐって決裂。
2.4 全共闘「入試実力粉砕」の方針打出し、泊り込み強化。これに対し武田教務部長、「全共闘側の武装阻止にも素手で立向う」と言明し入試会場は体育館と中等部、高等部校舎を使用することに決定さる。
2.6  全共闘武装部隊80人、学院当局に雇われた右翼学生200が看守する体育館を未明に火炎ピンと投石で攻撃し、右翼学生を完全に粉砕。院長は、5時10分に機動隊導入を要請。早朝から「入試粉砕、闘争勝利」のシュプレヒコールで学内を武装デモ。午後1時、機動隊500、正門前に待機し、その場で、松田政男氏の講演を聞いていたサークル闘、全学1連協、キリスト者反戦連合の学友300人と対峙。午後2時機動隊、試験場防衛のため、体育館、中等部、高等部に配置さる。学生会館前で、2、000人の学友、機動隊導入に反発し、徹夜ですわり込む。
2.7 経済学部入試始まる。午前8時20分、棍棒とヘルメットで身を固めた全共闘80人、機動隊に突入。
7名が不当逮捕さる。引き続き、入試終了直後、再び機動隊と激突。すわり込み部隊500人に減る。入試実現派300グランドでデモ。
2.8 商学部入試。全共闘、第5別館と法学部のバリケードを強化し、機動隊の強制解除に備える。
2.9 第5別館を除く全校舎バリケード、機動隊2、500によって強制解除さる。 早暁、兵庫県警は大阪府警の助けも借り、第5別館と法学部校舎にたてこもる学友48人を、ガス銃と放水で攻撃。法学部は、午前9時半に解除されるが、第5別館死守部隊35人は、徹夜でこれに応戦し、そこにかけつけたデモ隊2、000人と熱い蓮帯を交わす。法、全員逮捕さる。
2.10 30時間にわたって闘い抜いた、第5別館死守部隊35人、午前11時50分、ガス銃、ヘリコプター、消防車などの権力側の武器に屈す。警棒で乱打され、催涙ガス液を浴び、屋上から階下へひきずりおろされたりしたため、全員が、火傷、打撲傷を負い重傷。
2.12 「全関西労学関学奪還総決起集会」に3、000人。午後3時すぎ、正門近くの上ケ原派出所を投石で襲撃。3人が不当逮捕さる。
2.14 機動隊常駐解かる。入試全学部とも終了。
2.15 全共闘、「機動隊導入による強権的闘争圧殺」に抗議して、法、文、商、社、経、神の学部校舎を再封鎖。サークル闘も、学館を占拠し泊り込む。学院側、「ロックアウト」を宣告。
2.17 県警、被逮捕者の自宅、下宿など22か所を強制捜査。
2.18 学院本部再封鎖。
2.19 同窓会館を封鎖。
2.21 第1教授研究館、同別館、第2教授研究館の3建物をバリケード封鎖。キリスト者反戦連合も、宗教センターとランバスチャペルの自主管理に入る。
 学院側、26、27日に「全学集会」を開催する旨を、全学生に文書で配布。
2.26 全学集会粉砕総決起集会に500人。前日深夜、会場にあてられていた新グランドに当局が張りめぐらした柵を、全共闘武装部隊100人で破壊し、当日は早朝から武装デモ。小宮院長、正午すぎに姿を現わし追求集会に切り変える。院長は、「機動隊の暴力は、法の名によって認める。入試は、社会的責任上実施した」と強硬に言い張る。その後、場を中央講堂に移し、再び追求するが堂々めぐり。
2.27 前日に引き続き追求集会。院長、教授と右翼学生を動員して居直る。5日に対理事会大衆団交を開催することを確約し、解散。
3.1 全共闘50人、京大入試粉砕闘争に出撃。
3.3 小宮院長と26評議員全員が辞任。辞任理由は「健康上重責に耐えることができない。」とされていたが、実質には確認書を反古にするための闘争分断工作。
全共闘30人、神大入試粉砕闘争へ。
3.5 全共闘500人、「大衆団交破棄に対する学院当局弾劾集会」を開いた後、図書館、産業研究所、正門守衛室を封鎖し、卒業、後期試験などによる一切の収拾策動粉砕を決議。
3.7 法、教授会大衆団交開かる。教授会、「昨年の処分を白紙撤回し、今後一切の処分権を放棄する」という自己批判書に署名、捺印。
3.10 理学部実力封鎖。理闘委、教授会に対して「学院の入試強行に協力した」など6項目の自己批判を求める大衆団交を要求してきたが、教授会が、これを拒否したため。これで7学部全部を封鎖し、中央講堂、体育館だけを残すことになった。
3.11 教職員組合は職員集会を開き「関西学院の非常事態に際し全教職員に訴える」との大学への要望を採択。
3.13 社、卒業試験に、全共闘50人「試験ボイコット」のデモ。機動隊50待機。(神戸YMCA)
革新評議会学生ら、大阪駅前で「全関学人は紛争解決のため、立ち上がれ」と訴え、48時間のハンストに入る。
3.14 経、卒業試験。(大阪予備校)
この頃から、革新評議会、民主化行動委員会、法学部有志連合など右翼諸団体の組織化進む。
3.17 革新評議会による「事態収拾」集会開かる。全共闘60人、介入し、右翼学生250を追い散らす。
経教授会、全共闘を支持する松下昇講師に、4月からの契約更新をしない ことを一方的に決定。松下講師、これに対して「関学闘争で大学側が機動隊を学内に導入したことについて大学側は自己批判すべきなのに、それをせず、大学側の態度を批判してきた私をやめさせるのは教育者としても絶対許せない。私はどんなことがあってもやめない。一人でたたかう。」(3・18朝日新聞)と語る。
大学評議会、28日の卒業式中止を決定。
3.19 学長代行に小寺武四郎教授決定。「早急に新執行部を決めて正常化のために努力する」と抱負を語り、「廃校か否か」のアンケートを全学生に配布。「学内正常化のため」の商学部集会、200を集めて大阪プールで開かる。
3.22 学長代理代行に城崎進教授就任し新執行部出そろう。
3.23 「学院正常化、全関学人総決起集会」開かれ、学内右翼諸団体、体育会系学生、教授、職員、父兄、OBなど1、200が結集。体育会系学生ら、プラカードを持って、集会を防衛。全共闘150人「右翼粉砕、封鎖貫徹」をシュプレヒコールし、これと対峙。午後3時になると、右翼学生200が、正門バリケード解除にとりかかったため、全共闘武装部隊、これらを完全に粉砕。機動隊200が出動。以後、右翼学生の組織化進まず。
3.28 「卒業ボイコット、6項目要求貫徹、中政審答申粉砕全学総決起集会」開かる。
3.29 小寺学長代行、退去命令出す。   
3.31 小寺学長代行、再び退去命令出す。
4.1 休校処置(ロックアウト)解かれる。
4.5 「入学式粉砕、6項目要求貫徹、中教審答申粉砕」集会開かる。機動隊300、正門前周辺で待機。
学院当局、「新しい大学の創造にむかって」の第2回目のアンケートを全学院生に配布。
4.12 新入生歓迎総決起集会。約100名参加。
4.13 松下講師講演。第5別館屋上で文闘委の情況劇。
4.15 理、学外試験中止。レポート形成に切り変わる。他の学部もレポート形式による後期試験実施さる。
4.18 経済学部新入生オリエンテーション。大阪府警機動隊100、大阪城周辺で警戒。全共闘30人が、阻止行動。
4.26 「安保粉砕、沖縄闘争勝利」の国際反戦闘争。京都、神戸、東京で闘わる。全共闘100人これに参加。
4.27 社、学外試験が、機動隊100、と右翼学生に守られ、三田市の湊川女子短大で行わる。全共闘50人、試験場に押しかけるが、阻止できず。
4.28 「首都制圧」沖縄闘争。東京、大阪など20万人が決起し、機動隊と激突。銀座、渋谷に「解放区」。関学全共闘からも東京派遣20人。

以上が闘争経過である。

今回は、「関学闘争の記録」の中から、1969年1月24日の「全学集会」までの部分を掲載する。
【「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局)】
闘う戦列のなかにも
われわれが粉砕せねばならないものがしのびこんでいることを
まず知ることが闘いの出発点だ!

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<アノトキ オマエハ
コトバトイウ コトバヲ
ウシナッタニモカカワラズ
イマサラ ナニヲ
カタラントスルノカ………〉
言葉という言葉のコミュニケーションが
かぎりなくディスコミュニケーションに
風化するこの砂礫地方の帯の中
存在の立脚する机と椅子で
なによりもまずバリケードを演じ
対他化され 先取りされた イマジネールの僕自身の存在そのものを
スクリーンに カンバスに 原稿に誕生する創造作業でもって
政治現実に向って語り始めた
十年前 夜鷹の参の星 死と突然輝き
さらなる夜への歩みの予言者の予言は
呪縛のように拠点への照準を現在に定めよ
砂礫の中 足音は 今の重い拒絶〈否〉 単調の連なり 峻絶なる黒い行為の渇きから
内なる情念のオアシスヘ羞恥で泉を掘る存在と運動の引き裂かれた<被害者〉
独身者の蒼ざめた清純なるヘンズリの定期日常と完全に訣別せよ
喫茶店で珈琲に砂糖二杯の恋人をゲバれ
泣くなよい子だねんねしなのかあちゃんをゲバれ
外なる近代 内なる封建 中和されたアカディミズム教師をゲバれ
彼と我の全体への〈否〉で 日常を切る
この「やさしさ」の中 峻然と今蘇生せよ
永続の学生への門を自らの手で押し開け
〈被害〉と<加害〉が内なる青いまっさおなオアシスの中<羞恥〉を仲人して 結婚する
国家の幻の外 おおくの自由を体現する投企者の この不安と喜びそのものは
世界との恋愛関係そのものではないか!
演ぜられたバリケードは 今 硬さ 確かさ 実感そのものの現実のバリケード それは僕だ
僕はバリケードだ      
とぶな とび立つな 飛翔するな
立脚にまず立て ここにまず立て 永続に向けてまず立て その限りに
どこへでも いつでも飛び立てる
さらなる夜への自立した生の参の星は
 今 ここに輝いている 言葉だ 

<'69 1・7 第5別館実力封鎖!>
 10・8羽田を起点とした日本の状況が“新しい政治の季節の到来”を告げ知らせたのと同様、われわれもまた虚飾の“自由”と“平和”に色彩られた関学の地に“内なる羽田”を打ちたてねばならなかった。
 牧歌的風土の中に埋没し、資本の餌となってきた関学の全歴史に対するわれわれの闘いは、1月7日の第5別館実力封鎖でついにロ火を切ったのだ。だが、そこまでに至る過程の中で、われわれは、数かぎりない裏切りや苦汁をなめなければならなかった。われわれの闘いの前史は、41年秋の「薬学部新設、父兄会費値上げ案」反対闘争に始まる。マスプロ教育の御多聞にもれず、関学もその例外ではなく「水増し入学、教室不足」か甚しく、年度の初めには「立ちんぼ授業」が続出し、悪らつな勉学条伴のもとに放置されていた学生の不満が、「既存学部充実せよ」のスローガンのもとに一挙に爆発する。だが、学院当局は「薬学部新設、父兄会費値上げ案」をあっけなく白紙撤回し、決定的な政策転換を成し遂げた。
 あにはからんや、その次の年度には、われわれの闘いを逆手に先取りした形で学院当局は「既存学部充実のため」と銘を打って43、44年度連続学費大幅値上げを打ち出す。彼らの意図は設備拡大→マスプロ教育による安価で大量の労働力商品の育成にあったのではなくて、設備充実→ミニプロ教育のもとに「心に日の丸、手には技術をもった」資本にとってはより優秀な排外主義的労働力商品の育成を手がけはじめたのだ。これに対するわれわれの闘いは、学費大幅5割アップと非民主的決定という学院当局の暴挙に対する怒りに支えられ、水ぶくれ状態のうちに進行し、法、社、文、商の四学部で続々とストライキ突入をかちとるのである。だかしかし、われわれの打倒すべき主要な対象は決して学院当局の政策でも、反動的教授でもなく、まさに“平和”と“自由”に訓化されてきた自己自身であるという教訓を闘いのなかで知ったのは、後期試験を直前に続々とバリケードが解除されていった時のことであった。右翼の個人テロが横行し、学院当局は居なおりを開始し、ストライキを支持していた学生か脱落していったように、まさに闘いの極限状況の中で、人はそれぞれの本性をむき出すものである。
………長い沈黙の後、第5別館実力封鎖は、これら総体に対する“ノン”を軸に展開されていく……。

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<1・24全学集会>

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マスプロの拠点である第5別館封鎖に始まる6項目要求闘争は、1月24日、沈黙を守り続けた学院当局と後期試験に流れる大衆を登場させた。当局は、全共闘の追求に何も釈明できず、収拾策動の場が大衆団交の場となり、あわてふためいた当局はその場を逃亡。2,000名にふくれあがったデモ隊列は、「6項目要求貫徹、封鎖貫徹」のシュプレヒコールで道路を埋め尽くした。その後全学封鎖体制、入試阻止へと闘争はエスカレートするなかで、水を吸い込んだ部隊の動向に関学闘争のカギがあり、体質がある。

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(つづく)

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