野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2019年07月

手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。

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今回のブログは、6月7日のNo519で掲載した関西学院大学闘争の記録の続きである。1969年1月にバリケード封鎖された校舎内の写真と、「卒業拒否者の独白」を掲載する。
まず、1969年1月の各学部封鎖の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)(抜粋)
69.1.6 全共闘会議で、第5別館封鎖派(社闘、フロント、社学同、人民先鋒隊)と反対派(反帝学評、学生解放戦線)に分かれる。
1.7 第5別館実力封鎖。全共闘(社闘、フロント、杜学同、人民先鋒隊)30人、6項目要求貫徹、全学スト体制の構築めざす。この日から右翼の攻撃に備え、ゲバルト訓練始まる。反帝学評、学生解放戦線派は 「ショック戦術だ」と封鎖に批判、クラス、サークル末端からの組織化めざす。
1.10 学長、退去命令発す。「封鎖は大学の自治を根底から破壊する行為だ。ただちにこの不法行為をやめよ。いまからでもおそくない。すぐ退去して第5別館を正常な状態にもどすことを命じる」
全学執行委員会(反帝学評系)、学院当局に6項目要求に関する対理事会団交を要求。
1.11 法でスト権確立投票始まる。
1.17 学院本部実力封鎖。全共闘(社闘、社学同、フロント、人民先鉾隊)60人、未明に机、イスでバリケード築く。
学院当局、「第5別館、本部の建物の封鎖が続く限り、大衆団交に応じることができない」と回答。
1.18 l法、無期限ストに突入。この頃サークル闘争委結成され、以後講演会活動やすわり込み運動を展開。
1.21 文闘委、教授会に大衆団交求め、昨年12月東山学部長が署名、捺印した10 ・21反戦闘争弾圧の自己批判書と大衆団交開催するとの確認を反古にした理由を追求するが、教授会「何も答える必要ない」と突っぱねる。
1.24 全学集会開かる。これは学院当局提唱による、第1回目の収拾策動であったが、全共闘ヘルメット部隊150入が介入、大衆団交に切り変える。しかし、院長、学長は一切の釈明をしないばかりか、その場から逃亡を図り、一般学生6、000人の怒りを買った。
その後、2、000人の学内大デモを展開。右翼学生職員なぐりかかり、20数名重軽傷。
この頃から全学1連協、体育会有志連合、キリスト者反戦連合が、活発に動き出す。
1.25 商、スト権確立投票開始。   --
1.26 社闘実力部隊30人、未明に、社会学部校舎を、実力封鎖。
1.27 神、無期限ストライキに突入。経済学部集会開かる。
 右翼学生に守られた教授、大衆団交に切り変るや逃亡。新川執行部、これと同時に「闘争の責任負うことできない」と解散声明。以後、経執行部不在。
1.28 全共闘(社闘、フロント、社学同、人民先鉾隊)200、深夜に文学部校舎にバリケード築く。
1.29 文に引き続き、未明、経も実力封鎖。これで理を除く全学部で封鎖体制を確立し、当日から始まる予定であった後期試験すべてが無期延期となった。

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<卒業拒否者の独白>
 ’60年以降のあまりにも長い、陰湿な空白は、「批判」することによって「人間」の歴史が形成されうるかのように、自己を対象化することなく、自らを「人間」という述語へ転化させ、現実の社会状況のなかで、その述語を未曾有のカテゴリーヘと転化させうることを信ずるインテリゲンチャー達の己惚によって埋められようとしてきた。現実の幻想性に拝跪すれば果てしない地平を、現実そのものにまで引きもどす不断の「人間」の行為を放棄した、世界風物劇場の舞台に、こわれた第2バイオリンの悲痛な主題をかなでながら登場する主人公の戯言は空虚な光束の中に死滅しようとしているのだ。
 その空虚な光束の中にこそ、われわれの現実そのもの一闘争の立脚点があるのだ。だが、その立脚点が「自己否定」などというドラマチックな言葉にすりかえられてはならない。いったい、’67年10月8日の学友の死が、鮮血が「自己否定」などという排泄物によって表現されうるものでしかなかったのか。そのような言葉で美化されうるものだったのか。「闘争」が美化されて語られるのは、世界風物劇場の舞台だけでたくさんだ。
逆立ちして眠れ一卒業拒否者の独白―
 ともかく、いかに無内容なものであろうとも「大学卒」という資格が現在の社会体制の中で一つの特権的で有効なパスポートであることは否めない。しかし、この闘争はそういった一切の体制によって与えられるものとしての無意味な特権に対して〈否〉と叫ぶところから開始されたのだ。独占資本に奉仕するための人間を造るための一連の教育を拒絶するところからー。
 この闘争の最初の段階から、後期試験ボイコット、入学試験粉砕、卒業拒否は運動の一連の流れとしてあったはずである。しかし「入試実力粉砕」を叫びつつも「卒業」や「進級」の意味がわれわれに切実な問題としては突きつけられていなかったことも否めない。そして第5別館、法学部での〈死守〉一それは、この闘争が、あくまでも権力に対する非妥協的な永続的な闘いであることをわれわれに指し示した。
 3月になり、卒業試験がレポートや認定などの種々の巧妙な、そして無内容な方法に切り換えられて学院側から打ち出され、卒業見込者としての僕達に突きつけられてきたのだった。形式だけのレポートや曖昧な認定や面接が無意味なものと知りながらも一枚の「卒業証書」を受け取るために多くの友がレポートを提出し、認定され、そして卒業していった。しかし、卒業拒否した僕の中に、卒業していった者と殆んど同質の問題があり、それが解決されないままに卒業拒否を決断したのだと気づいた時、僕のゲバ棒は外部の敵と同時に僕自身の内部へも向けられなければならなかった。
「卒業拒否」というのは国家権力に対する永続的闘争宣言であると同時に、過去20余年に渡って触まれてきた僕の内部の小さを歴史に対する〈否(ノン)〉である。人間は本来、自由な存在としてあるはずである。20余年に渡る体制の、僕に対する変形作業は、僕を変形し、歪め、そして一個の体制に奉仕する奴隷を造りあげようと仕組まれてきた。奴隷にされかかっていると気付き、人間と  しての自由を願った時、僕は僕自身に付きまとう全ての存在を一つ一つ検討してみなければならなくなった。教育、家族、美的感覚……。これらの一つ一つがいかに歪められ、変形されて、体制の奉仕者を造りだそうとしていることか!
 個人的なレベルで語られる欲求の多くが現体制を認めるものであり、というよりは意識の如何にかかわらず体制に積極的に参加するものであり、「卒業しても闘う」などと未来形で語ることは現在を抹殺した二元的な欺瞞でしかありえない。個人的な特殊欲求が、闘う姿勢につながり、なお普遍性をもちうると言う時、そこには厳密な科学性を必要とするのだよいうことを忘れてはなるま  い。体制的存在者としての僕が、僕の個人的特殊な欲求を持ったまま、その特殊的欲求を追求することによって普遍的な反権力闘争を、行なおうとするのは、至難のことである。一つの自己の過去の歴史に対して〈否〉を発することによって切り裂れた僕の歴史が、大きな人間の歴史に参加するためには多くの弾圧が加えられるだろう。しかし、人間として己れの自由を選択することによって全ての自由を選ぶのだという確証がなくて誰に対してゲバ棒を向けることができるのだろうか。
 しかし、卒業レポートの締切日までに「卒業」することの意味や「卒業拒否」の内容などの討論が進まず、「卒業拒否」は個人的な内部意識のものとなり、ただ個々の内部で一つの行為を“決断する”か”否”かのみが問題となり、組織的に運動化することのできなかったことは否定的に総括されねばならない。
 4月になり、桜が咲き乱れ、4連協の部屋も寂しくなっていた。とり残された空しさみたいな、一人だけで観客のいない舞台で気張っているような奇妙な空白感が僕の中にはある。しかし、今こそ僕は、真の連帯の意味や闘うことの意味が解りはじめているのだと考える。闘いは続くだろう。更に新たな闘いの姿勢が僕の中に構築されねばならない。
 横になると、条件反射で/すぐ眠ってしまう僕に/君は〈自己変革〉を迫る/逆立ちして眠ることなんか/僕は出来やしない(文学部内の壁の落書き)
あえて言う。逆立ちして眠れ!と。

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(つづく)

【予告!ブログを引っ越します!】
ヤフーブログの終了に伴い、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなります。
そのため、当ブログはライブドア・ブログに引っ越します。
引っ越し時期は次回更新日の8月2日の予定です。

【お知らせ】
ブログは隔週で更新しています。
次回は8月2日(金)に更新予定です。

「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチャラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
今回、第二部の原稿が届いたので、1年半ぶりに第二部の公開を開始することにした。
第二部の目次を付けたが、文字量が多いので、8回程度に分けて公開していきたい。今回は、第二部第一章(9-10)である。

<目 次>
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第二部第一章
社学同参加と現代思想研究会(67年)
1.私の触れた学生運動の時代      (2019.1.11掲載)
2.全学連再建と明大「2・2協定」   (2019.1.11掲載)
3.明大学費闘争から再生へ(大学内の闘い) (2019.1.11掲載)
4.社学同加盟と現代思想研究会    (2019.2.8掲載)
5.67年現思研としての活動     (2019.2.8掲載)
6.67年春福島県議選のこと     (2019.2.8掲載)
7.全学連の活動ー砂川闘争      (2019.4.19掲載)
8.67年学園闘争の中で       (2019.4.19掲載)
9.10・8羽田闘争へ        (今回掲載)
10.10・8羽田闘争の衝撃     (今回掲載)
第二部第二章
国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連
2. 三里塚闘争への参加
3.68年高揚の中の現思研
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連分裂ー反帝全学連へ
6.ブントの国際連帯集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年東大闘争
11.教育実習と4・28闘争

「1960年代と私」第二部
高揚する学生運動の中で(1967年から69年)
第一章 社学同参加と現代思想研究会(1967年)
9.10・8羽田闘争へ

 67年10月8日、この日の闘いによって、学生運動が転換したと言っても過言ではないでしょう。
 砂川基地拡張反対闘争を闘いながら、三派全学連は矛盾や対立は続いていました。中核派のヘゲモニーに対して、他の党派もそうだったのでしょうが、私のまわりでは特にブントが対抗意識を露わにしていました。中核派の「反帝反スターリン主義戦略」と「反帝戦略」のブントは、闘いの位置づけ、分析において常に対立し、全学連の基調報告や政策にどう反映させるか、7月の全学連大会でも争っていました。私たち現思研は、それらを学対の村田さんや、山下さんから聞くとか、機関紙で知る程度で、主体的な立場でどうとらえるというほどの考えもありませんでした。学内の党派的な拮抗や、民青との対立には反応しますが、党派的な大学外のやりとりは、あまり注目もしていません。
 67年には、ベトナム反戦闘争が国際的な高揚を背景に、学生運動、ベ平連をはじめとする市民運動も広がっていました。
 4月に美濃部革新都政が始まり、社共や総評・産別などの労働運動も共同し、世論は平和と反戦を求める要求は強まっていました。再びアジア侵略によって経済成長を遂げようとする独占企業、財・政界の露骨な動きに対し、多数の都民が美濃部都政に平和と民主主義を託したといえます。
 学生運動は、そうした時代を背景に学費闘争、砂川米軍基地拡張反対闘争を闘い、ラジカルさを競うように各党派の街頭活動は先鋭化していきました。6月には佐藤首相が訪韓し、9月20日には、第一次東南アジア訪問の日程が決まり、日韓条約を免罪符のように、日本政府は戦争の責任をあいまいにしたまま、再びアジア経済侵略を開始しています。こうした佐藤政権下の67年、8月には新宿で米軍タンク車衝突炎上事件が起き、9月には米政権が、日本への原子力空母エンタープライズ寄港を申し入れています。そして、10月8日、佐藤首相は南ベトナム傀儡政権の招きによって、ベトナム訪問が行われようとしていました。佐藤首相のベトナム訪問には、ベ平連も社共の既成政党も、連日、街頭抗議活動を行っています。

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 10月8日、全学連と反戦青年委員会5,000余名は、この日、激しい弾圧に抗して闘います。実際には、前日に法政大学で行われた、中核派による解放派リーダーへのリンチ事件で、全学連としての統一行動は不可能となってしまいました。10・8闘争の総指揮を執るはずだった高橋孝吉さんらに対する中核派のリンチ、テロのやり口に、反中核派で社学同含めて爆発寸前の矛盾が激化しました。ブントや解放派らは中大から法政大学へと抗議行動を起こし、衝突しそうな状況であったようです。私たち現思研も、中大での決起集会に参加し、翌日の備えて明大学館に戻って、みな泊り込みました。
 法政大学での党派対立に備えて、各派は角材を準備したのでしょうが、この角材は内部対立ではなく、権力に向けて行使されるべきだということで収拾したと聞きました。それが10・8闘争の新しい実力闘争街頭戦に転じていったのです。
 当時の私は、授業もあったし、文研サークルの活動や詩集作りに熱中し、学苑会執行部も現思研の後輩に財政部長を継ぐように説得し、やりたいことを整理しながら、来年は卒論に集中しようと考えていました。すでに必要な卒業の単位はだいたいとっており、卒論と教職課程を中心に、来年の68年を迎えようと計画していました。このころ、関西から東京駐留で、学館に寝泊まりしている佐野さんや藤本さん、また、その後、北海道から学館に来ていた山内昌之(のちの小泉首相ブレーン)や吉田さんら、頼まれれば、現思研として雑務を引き受けたりしていました。社学同の人々のことを身内のように親しんではいましたが、だからといって「同盟員」としての活動を特に義務付けられるわけでもなく、招請があればデモに参加し、機関紙を購読するくらいの活動です。もちろん学内での私たちの自治会や生協の活動自身が、社学同にとってはメリットでもあるのです。
 早稲田社学同の荒さんもよく私たち現思研の部屋に顔を出していました。彼いわく「現思研は心の軍隊だな。お互い家族のように思いやるのはうらやましいが、それだけでは心情主義だ。学習会をやったり、機関紙討論などの理論的活動をやっていない」と批判していました。のちに下級生から思い出話として知らされたのですが、私は「あらそうかしら。観念的で大言壮語の『戦旗(機関紙)』を読んでもピンと来ないのよ」と平気で言い返していたようです。また、私が、じゃあ学習会をやろうかと言って始めるのはカフカの朗読だったり、ブント社学同の学習会というので、私が準備しているので参加するのかと思ったら、医科歯科大の山下さんや早稲田の村田さんにレクチャーを頼んでアルバイトに行ってしまったそうです。中国文化大革命にも共感せず「あんな画一的なおかっぱ頭が社会主義なら、私はあんな革命はいりませんよ」と言っていたと荒さんは、のちに語っています。この頃から荒さんが私にニックネームで「魔女」「魔女」と呼ぶので私は腹を立てていました。「魔女って『奥様は魔女』のサマンサみたいなもんだよ。魔女らしくないのに魔女みたいなことするからさ」と荒さんが言い出したので、以降、ブントや赤軍派の多くは「魔女」というニックネームで呼んでいました。私が怒るので、私の前では当初は使わなかったですが、のちには、68年ころにはまあいいかと気にしなくなり。当時の通称となってしまいました。こうした雰囲気の中で羽田10・8闘争を迎えることになりました。
 10月8日早朝。いつもは早々に知らされる集合場所が(すでに萩中公園に決まっていたままかもしれません)当日朝ブントから「今日はこれまでと違う。歴史的闘いとなる。ことごとく指揮には従ってほしい。まず、何人かに分散して東京駅へ行ってほしい。そこで次の指示が出る」というのです。上原さんや、67年に入学した田崎さんら含めて、私たちは分散して三々五々、御茶ノ水駅から東京駅へと向かいました。
東京駅のホームに着いてからか「品川駅京浜急行ホームにただちに結集せよ」というのです。私たちは赤旗を巻いたまま、品川駅のホームへと向かいました。社学同の仲間たちもどこに行くのかわからないし、乗り替えの改札があるので、みんな一番安い区間の切符買うように言われて、10円区間だったか20円区間だったか覚えていませんが、京浜急行品川駅に入りました。スクラムを組んで改札を無賃で突破するグループはいません。ホームいっぱいに社学同の仲間らしいのがうろうろしています。成島副委員長や、佐野さんもいます。しばらくすると「ピーッ」と笛が鳴って「乗れーッ!」との号令です。みな、あわてて乗り込みました。私たちは30人くらいの明治の仲間たちです。現思研の仲間は仕事があるので、そんなに多くなかったと思います。田崎さんはこの日、生まれて初めての街頭デモで、行く先も告げられず?みんなと行動を共にしたとのことです。昼間部には元気の良い池原さんらがいます。私は東京生まれですが、品川から京浜急行で行く地域は、まったくなじみのない方角です。いつも通う小田急線よりも狭い家の真近に迫ったようなところを電車が走っていきました。駅名を読みながら、指示がないかと耳を澄ませながら待機していました。「ピーッ」と笛が鳴り、「降りろーッ!」との指示がとびました。あわててみなホームに降りました。小さな駅のホームです。私たちが降りると列車はガラ空きで、残った少ない乗客が何事かとホームをしきりに眺めています。ホームの駅名を見ると「大森海岸」と書かれていました。ホームに立っていると、「飛び降りろーッ」の号令がどこからか。無賃下車です。ホームの背は簡単なコンクリートの柱が並び、そこに太い鉄棒が通してあります。これをまたいで、駅脇の道に跳び降りろという要求です。かなりの高さで、みな元気よく次々跳び降りるので、私たちも跳び降りました。そこで1,000人を超える人々が集結して、緊急の集会です。「我々は決死の覚悟をもって羽田空港へ突入し、佐藤訪ベトを阻止する。我々こそがその使命をやりとげるのだ!」成島全学連副委員長が声を限りに演説しています。他の人の工事用ヘルメットではなく、成島さんだけオートバイ用のヘルメットです。
 どこから調達したのか、前方に角材が届きました。社学同ばかりか、社青同解放派ら全学連の反中核派連合が結集しているようです。どどっと、角材が地面の置かれると、先頭部隊が決まっていたのでしょう。早大の荒さんら、一人ずつ角材を握り、短いアジテーションが終わると、シュプレヒコールで景気付けながら旗棹を持った部隊に続いて角材部隊が続き、ジグザグデモで出発です。私たちは救護看護班なので、友人たちは、貴重品を持ってくれと私たちに託してきます。救急箱もあり、それらを分担して荷物管理しつつ私たちは後方を歩くことにしました。デモ隊は1,0000人~1,200人だったといわれています。ぎゅーぎゅー詰めの連結車両のほとんどがデモ隊だったのです。デモ隊は、角材か樫棒の前衛部隊100余人に続いて駅の広場から道路を渡り、デモでジグザグ進みます。そこまでは予想外の展開ながらいつもの調子で、私たちはデモの最後尾についていました。

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すぐそこには鈴ヶ森ランプの高速道路に乗るインターチェンジの入口があります。その坂道の下までくると笛が鳴り「羽田へ突入するぞーッ!」「走れーッ!羽田はすぐそこだぞーッ!」と激がとんだのです。角材をもった連中は全速力で高速道路の坂を上りはじめました。デモ隊が続きます。置いていかれてはならじと、救護班は後に続きました。私たちの役割は、取り残されては果たせないからです。新入生たちも私たちと一緒に走りました。身軽に棒一本持った連中や、何も持たずに走るデモ隊に対して、カバンや救急箱を抱えた10人ほどの私たちも走りました。たちまち引き離されながら息を切らせて高速道路に上がると、すでに佐藤訪ベトに向けて一般車両の通行を禁止していたらしく車は見当たりません。かわりに何十メートルおきくらいに見張りとして立っていたらしい機動隊員は、学生たちの急襲攻撃で殴られたり倒れたりしています。それらの機動隊員たちを踏まないように避けながら、デモ隊の後を追って疾走しました。しばらく行っても「羽田はすぐそこだぞー!」という掛け声ばかりで、一向にそれらしい風景が見えません。たちまち引き離されながら、必死に追いかけます。走りに差が出て、部隊はいくつかに分かれて羽田へと向かっていたらしいのです。先頭集団を走っていた早稲田の荒さんらが、渋谷方面へと道を間違えたようだというのが聞こえました。出口を逆走すれば羽田に向かうのですが、入口をそのまま走ると、東京方面に向かってしまうようになっていたのをよく知らなかったのです。(のちに知ったとのことです)そのうち機動隊が羽田方面からと、大森方面から追いかけて、私たち百余名の集団を挟み撃ちにしようとします。装甲車から降りてきて、殴られて孤立してぼう然としたり倒れたり休んでいる機動隊仲間を収容する部隊と、学生デモ隊を攻撃する部隊に分かれています。彼らは、学生たちを包囲し、警棒で乱打し、蹴ったり激しい暴力をふるっているのが見え、だんだんこちらに近づいてきます。高速のインターチェンジの少し低いところで、「あっ!」という間に2,3人の学生が追い詰められて、飛び降りました。「あっ!今落とされたんだ!ひどい!」。見ていた仲間が悲鳴をあげました。下を見ると倒れたままです。生きているのだろうかと心配です。機動隊は仲間の復讐に燃えて、容赦ない暴力ふるい、血まみれの学生たちが、頭や顔から血を流してうずくまり、血の臭いが充満しています。機動隊は次々と殴りながら、何故か逮捕せず蹴散らす方針らしいのです。私たちの番です。ひとかたまりに私たちは身を守り、包囲を縮めてくるので、身動きが取れません。小隊長らしい男の指揮で殴りかかってきました。私たちは「救護班」の腕章を巻いているし、荷物を抱えているので一目瞭然のはずなのですが、警棒で殴りかかってきました。「見ればわかるでしょ!救護班に何する!」「女に何するんだ!」と私たちは口々にわめきました。私も頭は殴られなかったですが、肩や背、腕をしたたか警棒で殴られました。あとで見たら腕には青アザが出来ていました。みな口々に抗議しつつ、頭から流血している仲間を護るように立って対峙しました。そこに首都高速道路公団のマイクロバスが通りました。ちょうど羽田方面から大森方面に向かって走っていくようだったので「運転手さん!助けて下さい。怪我人がいます!」私は道路に飛び出して車の前の方に走り寄りました。運転手はきっと、ずっと先から学生たちが殴られ蹴られ、小突き回され血を流してうずくまるのを憤りの思いで見ながら走ってきたに違いありません。うなずくと、運転手はすぐ車を止めて、降り、ドアを開けて、数人の近くにいた血だらけの学生を車に運び入れるのを手伝ってくれました。機動隊に聞こえるように「ひでえことをするなあ」と大きな声で言いながら、どこに行けばいいのか?と私に聞きました。機動隊員たちは指揮者の号令で、羽田方面へと去って行こうとしています。私は運転手に「この近くに個人病院はありませんか?大きい病院だと警察に通報されたりすると困るんです。お金は私が御茶ノ水の大学までもどって持ってくるので、即金で払いますから」と言いました。「よし、わかった」と言って車をスタートさせました。私は、一緒にいた他の現思研の仲間には気がまわらず、怪我人で頭がいっぱいで、みんなと別れて私は車に乗り込みました。私たちの乗った公団の車は、鈴ヶ森ランプから普通道に出て、道からちょっと奥まったところにあった個人病院に連れていってくれました。
私は病院に飛び込んで「おねがいします」と呼びました。年輩のやせた院長が出てきました。私は「デモで怪我した人がいるので治療してほしいのです。今、手元にあるお金をまず払います。これから、私が御茶ノ水にある大学にとんぼ返りして治療費を持ってきますから、こちらの怪我人を助けて下さい。警察には知られたくないんです。私自身もこの怪我をした人たちの名前も知りませんし、聞くつもりもありませんから。とにかく私が責任を持ちますから助けて下さい」と院長に訴えました。道路公団の運転手は、怪我人を運ぶのを手伝ってくれた上に、自分のポケットをさぐって、有り金を差し出し「これ治療費に使って下さい。学生さんたち、がんばれよ!」と言って行こうとしました。「あっ、すみません。名前教えて下さい。あとでお金返したいので」と言うと、笑いながら「いや、いいから。一市民ということでそれでいいでしょ」と言うと、院長にお願いしますと言って出て行ってしまいました。院長は怪我人の傷をざっと見ながら「まあ若いんだから大丈夫だろう」と言いながら引き受けてくれたので、私はすぐにタクシーに飛び乗って御茶ノ水へと向かいました。そして、お金を調達すると、また、タクシーに飛び乗って医院へと、とって返しました。この時、大森に戻るタクシーの中で、運転手から「今、ラジオで聞いたんだけど、学生がデモで殺されたらしい」と教えられました。えっ?!と息を呑み、ラジオのニューズを聴きました。私にとっては羽田近辺はなじみのない場所で、橋の名前をいわれてもわかりません。でも、鈴ヶ森ランプから羽田方面に向かい、押し返されたデモ隊が、橋の上で攻防を繰り返しているらしいことがわかりました。当初は私も羽田空港に通じる3つの橋の位置関係や橋の名前も、また、殺された学生というのがどのグループに属するかもわかりませんでした。そこに社学同の仲間がいるのかもわかりません。とにかく大森の個人病院に戻って精算しました。治療した4,5人の学生たちは、どこの大学の人か聞きませんでしたが、必要な人には電車賃を渡して別れました。その後、現思研や社学同の仲間と合流すべく、そこから歩いて行こうとしても、機動隊の通行止で方向もはっきりしません。現思研の仲間たちもどこかで闘っているはずです。この日は、機動隊に追いかけられる学生たちを羽田周辺の住民たちがあちこちで助け、分散、蹴散らされながらも学生たちはみな萩中公園の方に集まって行ったようです。私は何人かの仲間に会い、御茶ノ水の学生会館に戻りました。

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夜、萩中公園で追悼集会が開かれ、それに参加してきた仲間も戻りました。仲間の話や報道から、殺されたのは京大1年生の山﨑博昭さんで、中核派が中心に攻防しつつ羽田へと突破を試みた弁天橋で殺されたことがわかりました。現思研の仲間たちは、突撃隊やデモ隊で加わった者もおり、防衛戦を突破して、鈴ヶ森から穴守橋をはさんで攻防を繰り広げたとのことです。穴守橋を渡ると羽田空港です。中核派は、社学同や解放派が萩中公園集会前に突撃隊を率いて、鈴ヶ森ランプをから羽田突入を図ったと、ブントの成島副委員長の誇らしげな発言を聞いたので、集会を早々に引き上げ、突撃体制に入ったと、政経学部の中核派の友人が語っていました。
前日の中核派によるリンチ事件から、全学連統一行動が分裂した結果でもありますが、穴守橋では、社学同や解放派、反戦青年委員会、中核派は弁天橋、革マル派は稲森橋をはさんで、羽田空港突入攻防を繰り返したのです。弁天橋では、橋の真中の障害物として置かれた装甲車に、車のキーが付いたままに置かれており、学生が運転して警備車を押し戻しました。そしてそこに出来たわずかなすき間から抜けて前に進もうとする学生たちを、機動隊は警棒メッタ打ちにし、学生も投石と角材で対抗しつつ、警備車を倒して道を広げようと、ワイヤーや丸太などで激しくわたりあったそうです。すき間から一番早く向こう側に到達した一団に山﨑博昭さんがいて、無差別の警棒の乱打に虐殺されたのです。(それらは、50年後に「10・8山﨑博昭プロジェクト」によって当時の公判、証言、資料の科学的真相再究明の結果を本の中で明らかにしています。すでに当時から主張していた内容を再検証したもので、警察の「学生が運転して轢き殺した」というデマがつくられたが、矛盾をきたして、結局通用しなかったという事実なども明らかにしています。)また、ちょうど昼ごろには、山﨑さんの死が穴守橋にも伝わり、佐藤首相の飛行機がベトナムへと飛び立ったこともあって、弁天橋に向かう者も多かったようです。川に落とされ、ズブ濡れの人や、怪我人が多数いましたが、弁天橋のたもとでは、山﨑さんに連帯して「同志は倒れぬ」を歌い、1分間の黙祷をしたとのことです。革共同の北小路さんが車の上に乗って「機動隊もヘルメットをとって黙祷しろ!」と糾したが、機動隊はリンチを止めなかったと話していました。攻防を経て、萩中公園で夜遅くまで虐殺抗議集会が続きました。
この日のことを「戦旗」(ブント機関紙)は次のように記しています。
「装甲車を先頭に学生はジリジリと橋の上を前進した。装甲車の前に近づき進み、橋を渡ろうとした。その時、これを見た機動隊は、学生の群れに襲いかかった。逃げ場を失った学生が次々と川に飛び込んだ。残っている学生に向かって警棒を振りかざした機動隊が狂犬のように襲いかかり、メッタ打ちにする。このメッタ打ちされた学生の中に山﨑博昭君がいたのだ。学生の装甲車はやむをえず後退し、橋から引き上げた。山崎君はこの機動隊の突進、警棒の乱打の中で虐殺された。」(「羽田闘争10・8→11・12と共産主義者同盟」より)

10.10・8羽田闘争の衝撃
この日、共に闘った一人の学生が殺されたことは、大きな衝撃となりました。「命を賭けなければ、もはや闘えない時代なんだなあ・・・」社学同の昼間部の友人が、現思研の部屋に来てため息をついてそう言いました。理屈抜きに、もう後には引けない新しい段階へと闘いが転じたのを、誰も実感していました。
「学校の先生になる者たちこそ、こういう闘いの中で日本社会の変革の担い手になるべきだ」私たちの友人たち、教育研究部の人々も、下級生も元気がいい。私もまた、みんなの憤怒を聴きながら、もう詩を書いてはいられないな、もう書くのはやめよう・・・と思いました。これまでは自分の中で、政治では言葉にできない情念や憤怒を詩に結晶させようとしつつ、カタルシスのように書いていたような気がするのです。10・8闘争による闘いの気分は、そんな私のあり方を問うていたのだととらえたのです。詩にではなく、本当に社会を変えるために情熱を捧げよう、そんな風に思いました。そして、新しい社会参加への関わりを模索しました。その第一は、何よりも、来年には卒論を仕上げ、教育実習も終え、先生の職業に就いて、社会変革の多くの担い手の一人として生きること、そこに私自身の生きがいがあると確かな思いを持ちました。
家に戻って、10・8闘争のことを父に話しました。学生が殺されたこと、それほど激しい弾圧で数えきれない負傷者が出たこと、住民が学生たちをかくまったこと、首都高速道路公団の運転手が怪我人を個人医院に運ぶのを手伝ってくれて、持っていた現金を差し出してくれて、名前も名のらずに去ったこと・・・。テレビでは学生の暴徒化と、もっぱら、公安側の情報報道を流しているけれど、現実は過剰警備が殺人に至ったことなど話しながら「私、先生になっても社会活動はずっと続ける」そんな話をしました。
この時、父は、自分も若い時、民族運動に参加したことを話してくれました。父の親類らの話から小耳にはさんで、昔父が何か「大それたこと」に関わったらしいことを、子供時代に聞き耳をたてて知ったこともありましたが、父からくわしく聴くのは初めてでした。
子供時代から私たちは、父とどう生きるべきかとか、人間の価値や正義、どちらかといえば天下国家を語り合う家族でした。博識の父を子供たちは、いつも質問攻めにしたものです。財政的に商売は武士の商法でうまくいかず、貧しかったけれど、父の知識を社会への窓口として、私たち兄弟は豊かな子供時代を過ごしました。父は子供たちを大学に行かせる財力がなかったせいもありますが、働くことを奨励し、社会から学ぶことを大切にしていました。自分が「知識人」的な生活を体験した結果かもしれません。私が働きながら大学に行く手立てを見つけて、入学を決めたあとに父に話すと、父は大変喜んでくれました。でも、父はいつもの静かな口調で「房子、『物知り』にだけはなるな。物知りだと思った時から人間が駄目になる」と言ったものです。子供時代から金の多寡(たか)で人間の価値をみる軽薄な人間になるな、と教えた父。その父がこの日語ったのは、若い時の自分の民族運動の時代と友情、そこで志を共にした人々が捕まり、刑を科されたこと、中学時代の親友池袋や、四元、血盟団の井上日召の話などです。美しい日本が、資本主義の金の支配によって、人々の暮らしはたちゆかなくなり、餓死や飢えが広がり、娘を売らざるをえない農民たちがいる。その一方で、財界、資本家、政治家や官僚たちは国民を犠牲に、利権と権力を謳歌しているとは何事ぞ!と若者たちは憤り起ちあがったといいます。父も井上日召らの呼びかけに、池袋と共に加わったということです。そんな話を私は、10・8闘争の夜に聴きました。そうか、そういう風に父も生きてきたのか。子供時代に朝鮮戦争がはじまり、朝鮮人排斥の中で、父だけそうしなかったこと、近所の馬事公苑へと「天皇の車がお通りになる」というおふれに、近所の人々が道路に並び、頭を下げているのに、父は決してそういうことをしなかったこと・・・など、他の日本人の人々と反応の違う父の姿を思い出しながら、そんな父を誇りに思っていた小さい頃の自分をも思い出していました。それ以来、これまでよりも、もっと話し合う親子になったと思います。活動のために、会う機会は減っていきましたが、どこにいても、のちにアラブに行った後も、父はずっと私の理解者でした。
10・8闘争はまた、チェ・ゲバラのボリビアでの戦死と重なりました。世界では、民族解放、革命のために命をかけて闘っている、チェ・ゲバラの「二つ三つ、更に多くのベトナムを!それが合言葉だ!」の呼びかけ、さらには、連帯はローマの剣士と観客の関係であってはならないというチェの言葉は、私たちにベトナム反戦から国際主義精神に基づく革命を実現する道をさし示していました。「たとえ、どんな場所で死がわれわれを襲おうとも、われわれのの闘いの叫びが誰かの耳に届き、誰かの手が倒れたわれわれの武器を取り、誰かが前進して機関銃の連続する発射音の中で、葬送の歌を口ずさみ、新たな闘いと勝利の雄たけびをあげるなら、それでよい」とチェ自身が語ったような死に方だったのです。また、チェはこうも言いました。「我々のことを夢想家というなら、何回でもイエスと答えよう」と。チェの闘いと死。世界の若者たちを共感させ、心をつなげた人が死んだことは、私には大きな衝撃でした。自分のことは後回しだ・・。求められた時は、私はいつでも応えられる私でありたい!チェ・ゲバラの戦死に、また、山﨑さんの死に、私は一歩踏み出したのです。それは心情的レベルにすぎなかったかもしれません。
 全学連もまた、10・8羽田闘争を教訓として、死を覚悟した闘いの時代だととらえました。そして、それを乗り越えて闘う決死隊、先鋭部隊を先頭とする街頭戦のスタイルが、10・8以降、新しい闘いのスタイルとなりました。決死隊はヘルメットをかぶり角材などで武装し、警察の警備の過剰な攻撃に対処する先鋭化へと向かっていきます。権力側は、公安情報によってマスメディアを誘導し、山﨑さん虐殺を「学生の運転した車が学生をひいた」というキャンペーンを張り、闘いの中で警察の警棒の乱打によって虐殺されたことを認めようとしませんでした。

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 10月17日の、山﨑君追悼日比谷野音集会には、党派を越えた6,000余人の労働者、学生が、山﨑さんを追悼しました。全学連委員長の秋山勝行さんは、この集会で「全学連は必ずや、この死に報い、この虐殺の本当の張本人を摘発し、粉砕するまで闘い抜く。時が経つにつれて、羽田の正義者は誰であり、犯罪者がどちらの側であったかが、ますます明瞭なった。全学連の死闘こそ、佐藤首相の南ベトナム訪問を最も真剣に受け止め、くい止めようとした力であり、日本人民が当然やらなければならないことを、もっとも忠実に実行した」と語っています。今からとらえれば、この10・8闘争を契機に、党派はこれまで以上に運動の先鋭化と非妥協性にもっとも価値を置く闘い方に進んでいくのです。私も、広範な運動や合法的なさまざまな多様な活動を軽視し、それよりもラジカルであることが、もっとも使命を実践していると思うようになりました。
 全学連は、10・8闘争から11月12日の佐藤訪米阻止闘争へと引き続く闘いを準備しました。10・8闘争で死者が出たことで、この日は決死隊として死を覚悟する者たちも多かったのです。社学同のデモ指揮にたった早大の村田さんは、オートバイのヘルメットをかぶり、いつものしゃがれ声を嗄らして死をいとわぬ闘いの指揮をとると、アジテーションで絶叫していました。第二次羽田闘争という位置づけで、全学連は、先頭に角材による「武装部隊」をすえて、3,000人の全学連、・反戦青年委員会が闘いました。しかし、武装力を強化したのは、学生より機動隊の方でした。この日かそののちから新しく等身大の大きさのジュラルミンの盾で防衛する態勢をとりながら、、催涙弾を100発近くデモ隊に撃ち込んで、前進をはばみました。この日は大鳥居駅付近が、まるで戦場のようになりました。
 10・8闘争の時もそうでしたが、マスコミが学生を暴徒と悪宣伝していましたが、羽田付近の住民たちは違いました。機動隊に追い立てられて路地に逃げ込む学生たちをかくまい、負傷した学生たちを手当してくれます。「あんたたちは、一銭の得にもならないのによく闘っている」と感謝されたという仲間もいました。私自身の10・8の時の経験でも、正義と信じて自らをかえりみず闘う学生たちに、住民たちは大変好意的でした。こうした高揚は、米欧各国でも同じようにありました。ベトナム反戦運動は、国際的な各地の若者たちをかりたて、チェ・ゲバラに共感し、一つの大きな力に育っていました。
 10・8闘争を経て、闘いの質はよりラジカルとなり、また、より多くの大学、高校でベトナム反戦の闘いばかりか、授業料の値上げや大学自治、管理運営などで、当局との闘いがますます広がっていったのです。67年の新しい闘い方は、68年を更にラジカルに高揚させていきました。

つづく

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