野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2019年08月

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このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「アラブ革命の遺産」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「アラブ革命の遺産―エジプトのユダヤ系マルクス主義とシオニズム」(長沢栄治著・平凡社刊)】
「アラブ革命の遺産」(長沢栄治著・平凡社刊)を読みました。初めて読んだのは、2016年です。この頃は、2011年に始まったアラブ民衆蜂起が打ち砕かれ、米欧と同盟するサウジやカタールのアラブ王制国家が煽動する宗派戦争が席巻し「イスラーム国(IS)」を生み、それに驚いた米欧・アラブ王政軍が激しく空爆してISを破壊・追いつめていた時でした。
 この「アラブ革命の遺産―エジプトのユダヤ系マルクス主義とシオニズム」と題する著作は、2012年3月に発刊されていて、丁度まだエジプト民衆革命の勢いのある時に執筆されているものです。この種の研究書には見られない熱い人間的洞察と心情に溢れていて、大変感動しつつ読みました。これは著者の人柄によるところが大きいかもしれません。帯に「終わりなきサウラのために」(サウラは革命の意)と記されています。
エジプトで共産主義者として革命を求めた多くの人々が王制下で、またナセルの民族革命政権下で、どのように闘い弾圧されたのか、そしてその革命の遺産が、どのようにこの新しい民衆蜂起に活かされるのか。それとも、かつてのような激しい弾圧の辛苦を背負うのか、時代の要請に応えるように執筆されています。「アラブ革命の遺産」として、歴史を俯瞰し1940年代・50年代を闘った、エジプト共産主義運動と、そのリーダーとして闘ったユダヤ教徒出身のエジプト人を中心に捉え返しているのがこの本です。「祖国を追われ世界を祖国として闘った」といわれるインターナショナリストのヘンリー・クリエル(1914~1978)と、ユダヤ教からイスラーム教に改宗しつつ闘った共産主義運動の理論的リーダー、アハッマド・サディク・サアド(1919~1988)の二人の闘い、生活、証言に焦点を当て、著者がエジプト知識人・革命家たちと思想的対話と交流を果たしながら書き上げたのがこの書です。この本は600ページに及ぶ大部なものですが、革命家たちの息吹が伝わるような、その闘いの矛盾・対立・葛藤・獄中での姿など、克明に明かしながら、著者もまたその中で呻吟を共にしつつ書いているように思える本です。
この本の主旨やポイントは、著者によって「アラブ革命が始まってから一年が過ぎた」という書き出しで始まる「まえがき」で、判りやすく示しています。その中で著者は、2011年に始まる民衆革命は、歴史的に半世紀以上前の、1952年、ナセルらの七月革命に始まる変革と、アラブ民族革命の遺産が引き継がれていると捉え、当時実現しえなかった志が今も闘い継がれており、それをアラブ革命の遺産として捉え直すことを自らに課した作業として執筆していることがわかります。
1952年、エジプト革命に始まる植民地支配からの解放と、人間の尊厳と権利を求める闘いがアラブ中を覆い、世界に影響を与えつつ、また、影響を受けながらアラブ民族主義革命が進んだ時代です。こうした革命の時代、若者たちは一人ひとりはどう生きたのか? 1940年代から活躍した人々と時代を掘り起こし、再現しつつ記しています。エジプト共産主義運動のリーダーであるヘンリ・クリエルとアハマド・サディク・サアドの歴史は、エジプトの革命の遺産の実情を示しています。クリエルは1943年、エジプト共産主義運動、民族解放民主運動(DMNL)を創設し、サアドはそのライバルの組織「新しい夜明け派」の指導部に属する理論家ですが、二人のユダヤ人指導者は、パレスチナ問題で正反対の立場に立つことになります。
1947年11月、国連総会のパレスチナ分割決議にソ連が賛成するという、アラブの共産党・共産主義者たちにとって衝撃的なことが起こります。サアドは、アラブ民族主義者同様、分割決議に賛成したソ連に、共産主義者として異議を唱えます。そしてのちにも、ソ連や「外国人(移民してきたユダヤ人など)」の共産主義運動の様々な軋轢の中で、「運動のエジプト化」に尽力していきます。
また、パレスチナの英植民地経済・社会を分析しつつ、反シオニズム・反英を貫きます。一方、クリエルは分割決議を支持するDMNL 路線を創出し、反対を主張する同志と党内矛盾対立に至りつつ闘います。このクリエルの分割案支持は、ソ連への追従というより、シオニズムに対するユダヤ人クリエルの親和性を疑った同志たちによって、1958年3月DMNL から絶縁を宣言されます。クリエルは、その当時既に1950年7月にファルーク王政によって、エジプト国籍を持ちながら「外国人」として国外追放されて、パリでの活動を強いられた中で、同志たちの絶縁という苦境に出会ったのです。クリエルがユダヤ人であり、国外に在って追放の身で指導しようとしたことが反発を生んだ、といえます。クリエルはその後「連帯」という組織を立ち上げて、アルジェリア独立戦争を支持して投獄されながら、南アの反アパルトヘイトの闘いなど、第三世界解放運動に尽力し、1978年6月、パリで暗殺されます。この本の中で、それらが詳細に多様な角度から記されています。
第一部は「アハマド・サディク・サアド論」、第二部は「ヘンリ・クリエルとエジプト共産主義運動」、第三部では「エジプト共産主義運動におけるユダヤ教徒問題」、第四部は「パレスチナ問題とエジプト共産主義運動」、第五部は「アラブ民族革命の時代を生きる」として、「はじめに」の中で概括しています。この第五部は補論的部分と断りながら、二人の革命家について触れています。エジプト・シリアのアラブ連合共和国時代(特に1958年)、激しい反共弾圧の拷問に殺された、誠実なレバノン共産党リーダーのファラジュッラ―・ヘルウを蘇らせています。この本の中で、それは、シリア・レバノン共産党書記長として、40年も君臨し、「ミニスターリン」といわれたハーレド・バクダーシュの正体を露わにし、対比しながら、ハルウの殉難の様子を哀悼をもって伝えています。また、友人でもあるムスタファ―・ティバ(元クリエルの同志で1952年から1964年、フルシチョフの訪エジプトまで獄にあり、闘い続けた革命家)との出会い・交流の中で著者が教えられた様子が率直に記されていて、補論部分はアラブ民族主義政権の強権・拷問・弾圧の中で、革命家たちがどう闘ったのか、学ぶことができます。
とくにナセル政権の評価をめぐって、結局、ソ連の国家外交政策に犠牲を強いられ、解体していった党(1965年3月、ナセル政権支持で、エジプト共産党は自主解党宣言をする)に、共産主義者の矜持をもって闘い続けた革命家の友人、ティバの姿を熱い共感で描いています。1960年代、日本の私たちは唯闘いの突出に力を注ぎ、市民・人民と共に闘えなかった革命をふり返りつつ読みました。
この本に私がとりわけ深い関心を抱いたのは、海外の私たちの1974年、闘いの中で交差したヘンリ・クリエルについて、その生い立ちや、共産主義者としてのエジプト時代を深く知ることができたためでもあります。クリエルは、何故あの時パレスチナ解放闘争支援を他の第三世界への尽力と比べて、躊躇したのか? 当時の疑問が、この本を読んで納得できるようになりました。
ヘンリ・クリエルは、初期のエジプト共産党を創ったユダヤ人であることを、1974年、私たちが彼らと出会った頃から知っていました。彼らの組織「連帯」はその多くを地下組織化して第三世界の解放闘争を支持していました。当時の第三世界の解放闘争は常に暗殺に晒されるなど厳しい中にあり、彼らの兵站を支えるためにはそうせざるをえなかったのです。クリエル本人もファルーク王政から外国人として追放されながら、そしてアルジェリア解放闘争を支持してパリで投獄されながら、ひるまず南アやアフリカの闘いもまた支えていました。私たちと接触するようになった折「連帯」は欧州では自国政府打倒の闘いは行わない、支持しないことが第三世界革命支援のために必要なことであり、欧州の武装グループには協力しないという立場を明確にしていました。その上でパレスチナ解放の武装闘争にはコミットしない、これまでしてこなかったという立場を取っていました。「第三世界革命支援」と言いつつ、なぜパレスチナ解放闘争は支援しないのか? ユダヤ人との対立にはモサドが介入し、仏・欧州での活動に支障が出るという風にこちらは理解していました。PFLPの国際遊撃戦には共闘しませんでしたが、結局私たちに対しては国際主義の立場からいくつかの兵站的な支援をしてくれました。
 しかし74年に私たちの活動の過ちから、いわゆる「パリ事件」といわれる日本人・外国人の大量逮捕に至り、クリエルの仲間にも小さくない被害を与えたばかりか、クリエルが「テロリストの親玉だ」とか「KGBの手先だ」といった大キャンペーンに晒される結果をもたらしました。私たちは政治的にもまた技術的にもあまりに未熟でした。クリエルらはユダヤ人・イスラエル人とPLOらパレスチナ人の政治対話の回路をML主義者こそ開くべきだと考えていたと思います。当時の情勢もまた私たちも議論を受けとめうる程成熟していませんでした。その後すっかり厳しくなった条件の中「連帯」は活動を続け、78年5月4日クリエルは自宅アパートのエレベーターから玄関ホールへ降りたところで2人組の男たちによって射殺されました。誰がクリエルを殺したのか? モサド、仏右派の秘密軍事組織OAS,さらにはアブニダールによる殺害まで、当時衝撃的に犯人像が語られました。私はアブニダールに直接聴き、彼らではないと理解しました。それにアブニダール派は暗殺を誇示し隠したりはしません。モサドの仕業だろうと考えました。私たちの失敗、あやまちのためにクリエルらを危険に晒してしまった結果、クリエルの死を招いた責任の一端を負っていると反省して、友人組織を通して追悼を伝えました。今回この本によってクリエルの個人史を読み(当時のエジプトの億万長者のファミリーのユダヤ人子弟は仏の学校に通い、生活も仏人的でアラビア語も不十分で「外国人」という実体だったのも知りました)祖国を追われたスファルディのユダヤ教徒の彼が、ユダヤ人共産主義者として組織したパレスチナとイスラエルの民衆の側の対話が、モサドのクリエル抹殺につながったのだろうと改めてその思いを強くしています。革命を担う人々の人間的側面を革命の遺産として伝える希有な良書としてこの「アラブ革命の遺産」を再読しています。                (2018年12月6日記)

【内容説明】(紀伊国屋書店サイトより)
国家にも、民族にも、宗教にもとらわれずパレスチナ問題に直面しつつ公正な社会のために闘った国際的な活動家クリエルと改宗した知識人サアドの苦難の生。
目次
第1部 アハマド・サーディク・サアド論(ユダヤ教徒エジプト人とマルクス主義―アハマド・サーディク・サアドの場合;アハマド・サーディク・サアドと民衆的思想)
第2部 ヘンリ・クリエルとエジプト共産主義運動(クリエル問題とは何か;家族と文化的背景;エジプト共産主義運動の「第二の誕生」;組織の統一から分裂、そして弾圧へ;その後のクリエル)
第3部 エジプト共産主義運動におけるユダヤ教徒問題(『証言と意見』資料に見る外国人・ユダヤ教徒指導部問題;組織統一と指導部の非ユダヤ化をめぐる問題―『証言と意見』資料から)
第4部 パレスチナ問題とエジプト共産主義運動―サアドとクリエル(パレスチナ問題の展開―一九二〇年代から第二次世界大戦期まで;国連パレスチナ分割決議とエジプト共産主義運動;アハマド・サーディク・サアド『植民地主義の爪に捕われたパレスチナ』)
第5部 アラブ民族革命の時代を生きる(アラブ共産主義者の殉難;砂漠の政治囚収容所からの手紙―ムスタファー・ティバさんとの交友)
著者等紹介
長沢栄治[ナガサワエイジ]
1953年山梨県生まれ。東京大学経済学部卒業。東京大学東洋文化研究所教授。専門は近代エジプト社会経済史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

【お知らせ その1】

2019.9.16全共闘シンポジウム_1_1


「団塊/全共闘世代の未来と課題?続全共闘白書アンケートを素材に」
(9・16続全共闘白書シンポジウム)

続全共闘白書アンケートへのご協力ありがとうございます。
お蔭さまで、430超の回答が寄せられ、年内の出版化をめざして編集作業に入っています。
その「先触れ」として、アンケート結果を素材に、以下のシンポジウムを開催しますので、ぜひご参加下さい。
■9月16日(祝)13:30(開場13:00)~15:30
■帝京平成大学池袋キャンパス(豊島区東池袋2-51-4)
■概要 全共闘世代は高齢社会の厳しい現実をどう受け止め、どんな覚悟で「社会的けじめ」をつけようとしているのか? アンケート結果を素材に、上の世代、当事者である団塊・全共闘世代、その下の団塊ジュニアの三世代クロストークによって、「団塊/全共闘世代の未来と課題」を読み解き、次世代への提言とします。
■パネリスト:落合恵子(作家)、阿部知子(小児科医、衆議院議員)、若森資朗(元生協理事長)、小杉亮子(社会学者)
■コーディネーター 二木啓孝(ジャーナリスト)
■参加費 1000円(資料代を含む)
*詳細は添付のチラシをご覧下さい。
<問い合わせ先>
続・全共闘白書編纂委員会(事務局・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17ネクストビル402ティエフネットワ-ク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス aef00170@nifty.com

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」
1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月

●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は9月13日(金)に更新予定です。

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重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」146号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より  2019年2月14日~2019年5月15日
2月14日 風の強い屋上でハッピーバレンタイン! とみな笑顔。何かをみつけてはみんな楽しみを探す明るい人々です。運動に出て来れる人の数は限られているせいかもしれません。Mさんの送ってくれたネットと写真届きました。その中に冤罪・布川事件の桜井昌司さんが尊敬する人として、泉水博さんの名をあげて「泉水さんが千葉刑務所に入っている時に、仮釈放を目前にしながら、重篤な病気の同囚のために、正当な医療を要求して一人で決起したんですね。ぼくには全く考えられませんよ。とにかく仮釈放になるまでひたすらじーっとおとなしくしています。これはね、できません。すごい人ですよ。千葉刑務所で語りつがれています。」という話をされたことが記されています。「そうか日本赤軍はそんな人だから泉水さんを指名したのか―。集会の場で『ぼくにはできません~』とおっしゃる桜井さんもすごい」とあります。泉水さんも桜井さんもいい話、嬉しく読みました。ありがとう! (中略)

2月25日 午前中待っていた新聞が届いて“辺野古「反対」7割超”「玉城知事の得票超す」投票率は52.48%と一面に朝日新聞。当然反対が多いと思いましたが、投票率と反対の得票がどの位かな、と気になっていました。沖縄の民意が他の県の県議選や知事選などよりも高い投票率でしっかり反対を示したこと、大変有意義です。読売新聞では一面の扱いは小さく、投票率が低いとか影響ないなどの論調で、問題を小さく扱おうとしています。米本土と日本の沖縄県外の市民の共感を育て、反対を現実のものにと願うばかりです。工事も軟弱層の地盤改良に7万7千本の杭が必要だとか、計画自体が無理押し続き。断固とした姿を見せるべきは、沖縄県にではなくトランプ政権になのに、官邸は何をしているのか……。

2月28日  私が48年前、ベイルートへ日本を発った日。いろいろ感慨深いです。
丁度、2月の花、みごとな紅梅1m程の枝ぶりの4本に、あわせて背の高い3本の菜の花が届き、わーっ!と思わず歓声です。うれしい春が来ました。花瓶が小さいので、それでも80㎝くらいにして、4本の枝を4方に分散させてハサミで調整しつつ飾りました。ぐんと房内が華やかです。夕方には「オリーブの樹145号」も届きました。感謝! 御多忙の中、いつも描いてくださってありがたいです。今号は東大闘争のこと、上原さんが書いてくださいました。当時を思い返します。最後まで振り続けた上原さんの共産同の旗が、屋上から落下する映像は、1.19の象徴的シーンとして、人々にも記憶されています。丁度書評の「思い出そう! 1968年を!!」にも、その頃のことを触れましたが、御茶ノ水駅から本郷に向かって攻防を繰り返したのを思い出します。荒岱介が「畜生!畜生!」と、うめきながら走り回って部隊に采配を振るっていました。東大組が逮捕勾留されている間に、ブントは分裂、赤軍派7.6事件などが起きるのですが、当時みな本気で変革を!と、持てる力を朗らかに尽くしていました。良い文章をありがとう。入力・編集・印刷など、編集室の皆さん、ありがとうございます。
「支援連ニュース」菊池さんの文「東ア」の人々の逮捕状況やメンバーの自供と弁護人解任に抗して、家族たちが弁護士とともに、再び救援センターの弁護人を選任して闘い、支えていった歴史を知りました。家族の強固な連携の力が、どんなに有意義に今に至る支えをつくりあげてきたかを知り、ありがたい絆だと学びました。(中略)

3月9日 東京も春一番が吹きました。今日はもう終わった梅の枝を片付けようと花瓶を洗っていたら、新聞紙に広げた梅の枝と菜の花の茎あたりから、きっと毛虫になる前のニョロニョロとヒルのような虫2匹。啓蟄ですね。梅の枝は枯れつつあるのですが、新芽の緑が生きそうな小枝を折って改めて花瓶に飾りました。窓の外はプラスチック塀で何も見えませんが、きっと東京のはずれの昭島、原っぱには土筆やふきのとうが八王子みたいに咲いている頃です。

3月11日 週末の快晴から雨の昭島です。今日は彼岸法要の日。雨のため屋外の運動はなく早い入浴となりました。部屋に戻って着換え始めたところにN和尚の面会の知らせが届きました。寒い雨の中申し訳ないです。面会室は寒いのでフリースを着ていったら、入浴直後で汗一杯。脱いでまずN僧の読経に法華経を黙読しつつ、3・11の被災者に、それから明日N和尚が導師となって執り行われる遠山さんの墓前法要を思いつつ、遠山さん、山田さんら「連赤」の友人たちに、そしてまた3月15日命日の母のために祈りました。いつもN和尚は姉と連絡しあってくれるのでありがたいです。また、前回の面会の折、できれば遠山さんのイメージに合うトルコ桔梗の青紫にカスミ草の花束を墓に、と話していたのですが、もうトルコ桔梗は手に入るとのことで明日献花して下さるとのこと。「三月哀歌」という私の遠山さんを悼む短歌も、御遺族がぜひ明日の墓前に奉納したいとおっしゃっていると知らせて下さいました。これまで大学時代の旧友とご遺族が会う機会がなく、47年目N和尚の努力で一緒に墓参することができ、遠山さんの無念を家族の怒りを愛する遠山さんを共に追悼して、新しい気持を拓くことができることを念じています。感謝。

3月13日 今日の午後、障碍者のバイオリニスト式町水晶さんと母の啓子さんの演奏と講演がありました。シンセサイザー風なのかも(よく判りませんが)バイオリンの大音響や東北大震災の特別なバイオリンによる静かな浜辺の歌や、力強い「リベルタンゴ」「孤独の戦士」など、合間に自らの障碍を朗らかに語り、自信と信念を持った演奏家でした。母親の話も聴きたいのに難聴で聴き取れず……残念です。一時間半健常者たちの演奏よりも力強くすごいな……と感動しつつ鑑賞しました。(中略)
3月18日 遠山さんの墓参会の写真報告、様々な思いで今日読むことができました。加えて夕点呼時Yさんの補足説明と共に高原さんからの墓参のお礼の文もまた丁度届きました。(墓参後の食事会で、植垣さんを許せない、高原さんの発言と金さんの言い合いになったとか……。「遠山さんと面識はありませんが、いろいろなお話を聞いて連合赤軍事件というのは50年近い年月を経ても多くの人の心に癒すことのできない傷を残したということを改めて実感しました。そういう意味で墓参に参列させて頂いてよかったと思います。」とYさん)
“一月尽殺意無きまま殺したと旧友(とも)を語れる冗舌憎し”
これは私が高原さんの想いを詠んだものです。「革命とサブカル」を1月に興味深く読んだのですが、読みつつ、ふと高原さんが浮かび零れた一首です。

3月19日 昨日夜受け取った高原さんの墓参への礼状は心に残りました。高原さんは、「感情的に抑えきれない時があります。昨日も、せっかく参加くださった皆様に不快な想いを引き起こしてしまったこと、誠に申し訳なく思っております」と礼状にあり、50年目に、犠牲者全員の親しい人々が一堂に会して故人を偲べば、と願っています。和尚が言い争いを収めたようです。三年後には、山田夫人のT子さんや、できれば加害の側にいた人が深謝する場になれば…と思ったりします。かつて東京拘置所に青砥さんが私に面会した折、第一声が「親友の遠山さんをあんな形で殺し、死なせて誠に申し訳ありません」と深く頭を垂れていたのを思い出します。そんな機会が訪れることをと、思わずにはいられません。橋渡しの役に立つべき高原さんが感情を抑える必要がある時にそうできないと、今回の墓参を実現してくれた和尚にとっても、難しいことだと推察します。

3月22日 「監獄人権センター通信」No.97の「空と風と星の詩人~伊東柱(ユンドンジュ)の生涯」(海渡雄一執筆)がとってもいいです。伊の詩と治安維持法で福岡刑に収監され、1944年2月22日獄死したこの人のことは、何度か記事で読んだことがありました。今回は何篇か詩が載っていて、いい詩だなぁと心に滲みます。感謝。また、渡邉浩史歌集「赤色」を読んでいます。この人は、秩父蜂起発祥の地で生まれ、秩父困民党総理の田代栄助研究家であり、接骨医院長だそうです。こんな歌が好きです。
“酒飲めば飲めば淋しくなるばかり耳朶はこんなに冷たいものか”
 なんだか茶碗酒をゆっくり飲み干していた父の姿を思います。父の、夢破れた人生を思いつつ、こんな歌も。
“往く雲は変わらざりしよ千年を敗れ敗れて俺の近代”
“ならぬことはならぬとはいえ自由党ラッパ鳴らして辻曲がり行く”
“逆縁のかくも非情の盃を干してどうする散りゆく牡丹”
また、ゆっくり読みたいです。

3月26日 ラジオJウェーブのニュースで、トランプがシリア領のイスラエル占領地ゴラン高原の、イスラエル主権、つまり占領地併合を認める文書を、訪米中のネタニヤフと話の上で署名したとのこと。「21世紀のバルフォア宣言」です。中東で、占領と民族浄化政策を続ける政治シオニズムが米政権の力で生きのびる限り、戦乱は増殖され続けます。
“トランプの「バルフォア宣言」シオニストへ再びアラブの地を与えんと企む”

3月30日 今日はパレスチナの「土地の日」。76年に土地収用に抗議しゼネストしたイスラエルパレスチナ人に対し、イスラエル軍が弾圧・虐殺した日。そしてそれにも拘わらず闘い続けた日です。きっと今みな闘っているでしょう。「ガザ帰還の大行進」が去年始まった日ですから、ガザで西岸でゴラン高原でヨルダン、シリア、レバノンの難民キャンプで様々な闘いの姿を示しているでしょう。また今日は檜森さんの命日です。あの日と同じように丁度桜が満開の今年の3・30、十八回忌になるのですね。思い出す姿は若いままの檜森さんです。花は今日のためのように独房で咲いています。
“三・三〇春告げる花雪柳チューリップ見つめつ君を弔う”
“奪われて追放されて殺されてそれ故益々パレスチナを愛する”

4月2日 新聞を読んでびっくり。選挙狙いか、政権の元号利用、皇室利用の甚だしさに驚くばかりです。ことさらに「極秘」を煽り、指名している「各界有識者9人」や衆参両院の正副議長の意見聴取などと権威付けしつつ「携帯電話もとりあげる」など、狂乱では?(副議長赤松氏は抗議したらしいのですが。)こういう服従の強制化が「令和」を現しているような気がします。ことさらに「国書由来」を安倍首相は強調していますが、学者たちも述べているように、時代自身が中国の学習から影響されているのですから、やはりその説は「帰田賦」に典拠があることや、梅は中国の国花で「今回の元号選びは、ふたを開けてみれば、日本の伝統が中国文化によって作られたことを実証したといえる」(小島毅東大教授)や「行政が元号の使用を強制している実態はおかしい。元号法は撤廃してほしいと考えている」(保立道久東大教授)、「国書の強調は日本がGDPも中国にぬかれ、勢いを失ったことの反映のような気がする」(水上雅晴中大教授)などなど。元号を「極秘」「強制力で」取り仕切って見せて、国家権力を前面に出した政治ショー。末恐ろしい強権を「令和」は帯びて生まれてきたな……というのが私の印象です。「令」は庶民が浮かべるのはやはりまず「命令」の「令」でしょう。元号は皇室が使用してもいいが、公的機関や一般社会では不要です。少なくとも西暦と並記にしてほしいです。混乱のもとですし。

4月5日 送ってくれた治安フォーラム、今年の1月号から4月号まで、感謝。警察関係者が読むのでしょう。「ジハード主義を読む」保坂修司などもありますが、中国、ソ連の諜報・サイバー攻撃の手口の分析、日共の動向(去年10月の中央委報告で、入党者4,355人、日刊赤旗844人増、日曜版6,691人増とか)オウム真理教の分析、去年の右翼活動分析、去年の「過激派の軌跡と今後の展望(過激派問題研究会)」、3月号は外事国際テロ情勢、2018年の「国際テロ」「中国」「北朝鮮」「ロシア」と、それぞれ個人名でなく各「研究会名」の分析記事、また「日本赤軍の動向」という項目があり、5.30記念日と「テロ」を称賛していること、逃亡中の7人に投降を促さず、支援を継続しているとみられること、「こうした姿勢が改められない限り、その危険性は矮小化して評価されるべきではない」とのこと。予算のためか、そうしか言いようがないためか? 解散して18年の組織の亡霊に妄想を持っているのでしょうか。(中略)

4月16日 巷では「令和」で盛り上がっているのでしょうか。朝日新聞では批判的記事も載っていますが、イベントや商売やバラエティーで元号を盛り上げているのでしょう。小島東大教授、当時の良識なら令和は「りょうわ」(大法律令、令旨など)と言うし、万葉集の序の「令」と「和」は、(「令」は月を修飾する語)直接関係なく、とってつけたよう。観梅の宴は「落ちゆく花。縁起が良いと思う人は少ないのでは。「中国古典の『文選』と国書『万葉集』のダブル典拠とすれば、東アジア友好のメッセージも伝わったはず、と述べています。また、万葉学者の東大品田教授は、庶民も詠んだとされる万葉が「天皇や貴族などの一部上層にとどまったというのが現在の通説」「当の本人(詠んだとされる人々)は、万葉歌集の存在自体知る由もなかった」と、近代以降、万葉が愛国に利用されたことを示し、警戒しています。たとえば、「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ」など、軍国歌謡へ。カコを現在に都合よく偏重する安倍政権の姿ははっきりしています。私は伝統や歌を否定するものではありません。万葉集をこじつけで押し付けようとする姿勢を警戒したいと思います。
“狭量さ晒すが如く新元号国書国書と宣いており”
と思わず零れます。(中略)

4月21日 昨夜半、久しぶりに煌々と輝く月を見つけました。十六夜の月です。やっと見つけました。
“煌々と十六夜の月にみつめられ密かな憤怒も溶けてゆくらし”

4月28日 今日は4・28闘争、沖縄が思われる日。夕方和尚の電報届きました。面会の予定知らせてくれました。5月16日です。5月15日はパレスチナのナクバの日。パレスチナのために法要したいと思います。和尚の送ってくれた東京新聞のコピーはいつも面白い。今回はパンタさんの頭脳警察50周年記念コンサートが7日あの新宿の花園神社の野外テント劇場で行われたとのこと!赤軍派結成と同じ年なのですね。「パンタ」という芸名はひょっとしてヘラクレイトスの「万物流転」(パンタ・レイ)という言葉と関係があるのかと執筆者はロッカーとして変幻自在に生きているパンタさんを記しています。「その政治的過激さは一貫しており、日本の芸能界では希有。怒ることはたやすいが、半世紀にわたって怒る続けることは難しい。頭脳警察はそれを実践した。」と賛辞の文です。そうか……パンタさんも芸能界?!そういう風に捉えていなかったのを自覚。パンタさんの怒りは優しさと表裏なのですね。現実があまりにも不公平だから何故?!と根源的に問い続けるパンタは変革者であり続けているのだと思います。祝50年のコンサート、知っていたら花束を贈りたかった!残念……でも祝50周年!(中略)

5月8日 パレスチナでは5月を迎えて激しい攻防と緊張が続いています。占領者イスラエルが圧倒的な軍事力でパレスチナ人を蹂躙していることと、被占領者たちの抵抗運動を「喧嘩両成敗」や「ハマースのテロ」とする米欧メデアバイヤスのかかった主張で、いつもイスラエルが免罪されて何十年たったことか……と、改めて思う5月です。朝日新聞の論調と読売新聞を較べて読んでいると、扱い方、事実の捉え方、読売の方がより頻繁で正確です。朝日はエルサレム支局の視点が基調で、イスラエル側主張の紹介が多いと思います。これからナクバの日も迫り、5月は更にパレスチナを注視し続けたいと思います。アラブも代替わり、私たちの知る友人・知人が少なくなって、若い人々が最前線を担っています。

5月10日 丁度「月光」58号の特集で、坪野哲久の歌を味わっているところでした。1928年に「無産者歌人連盟」後の「プロレタリア歌人同盟」を結成した人の一人です。何度も獄中に追いやられつつ、闘い続けた人。渡辺政之輔、山本宣治の追悼集会での“渡政の闘志かがやく祭壇の赤旗よ!もっとひるがえれ”“どうしても泣けてくるのだ山宣の死面(デスマスク)が今日掲げられた”の歌や、“チンポコがぐっしょり濡れて雨の中に地ほり穴ほりぶっ通した鉄管”“お前になんか腕づくだって負けやしねえがおれらには命の使いどころがあるんだい”など、若い時の歌。同じころ“曼殊沙華のするどき像(かたち)夢に見しうちくだかれて秋ゆきぬべき”(1940年)など。1988年、死の前にはこんな一首も。“核と癌ああ文明の貌(かお)としてかがやきおびえて世紀末くる”この人の生き方も敬しますが、この夫人、同志で歌人の山田あきの方がもっと好きです。“連翹の花にとどろくむなぞこに浄く不断のわが泉あり”“みずからの選択重し貧病苦弾圧苦などわが財として”“被爆者の現身(うつしみ)のあぶら石を灼きそを撫でしわれ永遠のつみびと”などなど。短歌はいいなあと、刺激を受けつつ思います。哲久らの歌が求められる時代だと、今。こんな歌も。“われ一生に殺なく盗なくありしこと忿怒のごとしこの悔恨は”哲久の心意気。
もう中東はラマダン(断食月)です。明日金曜日(ラマダンの最初の祈りの金曜日)ですが、イスラエルの不当な仕打ちが予測されます。「ガザでは生きていることを毎日祝うの」と、かつてメイが言った言葉が思い出されます。ナクバの71年目を迎える5月です。“パレスチナ祖国へ帰る自由さえ奪われ殺され71年”「月光」の歌人たちに刺激されて、このパレスチナの5月、私も詠んでみました。
パレスチナ――ナクバの記憶
オリーブの種で作りし数珠手繰り
ナクバの日々を友は語りぬ

真夜に扉叩き壊され銃口が
火を噴き母と兄は倒れし

母の骸だんだん冷えゆくその下で
隠れし六歳われ生きのびて来し

凝固する母の血の胸に罌粟(けし)白花(びゃっか)
置きて弔い別れし五月

死も知らず母の乳房にしがみつく
蠅にまみれし赤子が泣いてる

手に二人三人目の背の子の袖噛みて
必死に川を渡る親見し

若きらは見知らぬ老婆をかわるがわる
背負い逃れしナクバの五月

虐殺と飢餓と酷暑の地獄の道
その時の友は今も親友

ナクバの日々北へ北へと追いたてられ
オリーブ畑も果樹園も盗られ

パレスチナ怒り哀しみ切歯扼腕
犠牲厭わずフェダイーン(戦士)となる

アシュバルの子等の目輝き我らみな
フェダイーンになると胸を張りたり

おみならは祖国へ帰ると旗掲げ
占領軍の銃口に向かう

占領軍と占領された者並べて喧嘩
両成敗は欺瞞に過ぎぬ

世界から帰還の権利見捨てられつ
不条理許さぬパレスチナの友ら

硝煙と朝霧越えて敵陣へ
オリオンの星となりし友らは

などなど、ナクバのことを話してくれた情景を浮かべて詠むと、洗練されない直情が溢れてしまいます。
 
5月15日 今日は米統治の沖縄が、72年日本の統治下に入ったはずの日。国土の0.6%の沖縄は、日本に復帰後、日本本土の反基地闘争が力及ばず、沖縄の基地の集中を許し、今でも米軍基地施設の7割が沖縄に。「普天間の危険」を口実とする辺野古沿岸移転は、更に民意を排除して続けられる不条理です。県民総所得に占める軍関係所得の割合は、5%程度。基地のない、アジアのセンターとしての観光立県は、日本にとっても国益のはずです。基地撤去と日米安保の解消も、21世紀半ばには実現されねば…と思いつつ。一方又、71年前にはイスラエルが5月14日に建国し、それを知ったこの日、5月15日は、パレスチナにとってのナクバの日です。今、ラマダン中。ナクバの状態のまま「帰還の権利」を奪われたパレスチナ人民の闘いは、米欧植民地支配の先兵として登場したシオニスト国家に対する闘いは、21世紀勝つまで続くでしょう。「勝つ」とは政治シオニズムを脱したパレスチナ人、イスラエル人の民主主義な社会を基盤とした国とすることです。
パレスチナ問題の専門家で、JSRニュースを配信しておられた奈良本さんが、米国の新中東和平案について、次のように記しています。「アメリカの新『中東和平』は、凄まじい内容です。Israel Hayomにリークされたものが以下に紹介されています」として、要点は、①イスラエルは西岸地区の全入植地を併合②非武装化されたパレスチナ国家③パレスチナ側が拒否すれば、PA(パレスチナ自治政府)へのすべての資金援助を停止、いかなる国からの援助も阻止④もしPLOが受諾して、ハマースが拒否すれば、イスラエルによるハマースとジハード(イスラーム聖戦機構)のメンバーに対するイスラエルの暗殺作戦を支持⑤エルサレムは、イスラエル、パレスチナ共通の首都、など」とのこと。
イスラエルのネタニヤフとトランプの作り出す「中東和平案」は「現状の合法化」、つまり占領地の入植地や戦略陣地の西岸地区をイスラエルが67年の第三次中東戦争以来手離していないのですが、それをイスラエルに併合し、「帰還の権利」を抹消させ、エルサレムはイスラエルの首都として、アラブや国際社会に認めさせること。残りにパレスチナ「国」と国の名を与え、財力と軍事力でパレスチナを黙らせようとする魂胆。パレスチナは今こそ脱シオニズムの民主化―イスラエルもパレスチナも―の長期持久戦略で立ち向かう時です。パレスチナからオスロ合意を脱した闘いこそ! と念じています。なぜなら、すでに実質併合下にあり、トランプやネタニヤフの任期の先を見据えた解放戦略として、イスラエル人もパレスチナ人も問われるからです。パレスチナの今の抵抗戦はまた、「反イラン戦略」でイスラエルと組もうとするサウジらの力を押し止める力となるはずです。厳しい闘いのパレスチナに、そして日本の沖縄に連帯!パレスチナに沖縄に連帯する5月です。 

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手元に「関学闘争の記録」(関西学院大学全学共闘会議出版局発行)という冊子がある。この冊子と当時の新聞記事を中心に、何回かに分けて関西学院大学闘争の経過とその内容について掲載していきたい。

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今回のブログは3回目、7月19日のNo522で掲載した関西学院大学闘争の記録の続きである。1969年2月の入試粉砕闘争と学館前座り込みの文章と写真、新聞記事を掲載する。
まず、1969年2月の入試粉砕闘争の経過を、この冊子に掲載された「闘争日誌」で見てみよう。

【闘争日誌】(関学闘争の記録より)(抜粋)
2.4 全共闘「入試実力粉砕」の方針打出し、泊り込み強化。これに対し武田教務部長、「全共闘側の武装阻止にも素手で立向う」と言明し入試会場は体育館と中等部、高等部校舎を使用することに決定さる。
2.6 全共闘武装部隊80人、学院当局に雇われた右翼学生200が看守する体育館を未明に火炎ビンと投石で攻撃し、右翼学生を完全に粉砕。院長は、5時10分に機動隊導入を要請。早朝から「入試粉砕、闘争勝利」のシュプレヒコールで学内を武装デモ。午後1時、機動隊500、正門前に待機し、その場で、松田政男氏の講演を聞いていたサークル闘、全学1連協、キリスト者反戦連合の学友300人と対峙。午後2時機動隊、試験場防衛のため、体育館、中等部、高等部に配置さる。学生会館前で、2、000人の学友、機動隊導入に反発し、徹夜ですわり込む。
2.7 経済学部入試始まる。午前8時20分、担棒とヘルメットで身を固めた全共闘80人、機動隊に突入。
7名が不当逮捕さる。引き続き、入試終了直後、再び機動隊と激突。すわり込み部隊500人に減る。入試実現派300グランドでデモ。
2.8 商学部入試。全共闘、第5別館と法学部のバリケードを強化し、機動隊の強制解除に備える。

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入試粉砕闘争は、2月6日未明、全共闘武装部隊80人が、火炎ビンと鉄パイプを武器として、入試会場にあてられていた体育館、中等部、高等部周辺にむらがる右翼、体育会系学生、教職員250を完全に粉砕した時点にはじまる。全共闘は、6項目要求関する対理事会大衆団交予備折衝を積み重ねてきたが、学院当局はこれを拒否。彼ら当局の意図は、大衆団交を一般的な「おしゃべり」の場にすることだったのである。
 入学試験を契機に、関学闘争は質的転化を遂げた。すなわち、学園闘争史上、はしめての関学入試粉砕闘争が、12月以降の6項目要求闘争という個別学園闘争の枠を突き破り、大学の存在そのものを突き崩す闘いとして闘いとられたということである。関学80年の歴史を“マスタリー、フォア、サーヴィス”の下に窒息せしめ、労使協調のイデオロギーに毒された中堅サラリーマンを大量に育成し、関西財界に売り渡し、なおそのうえ“入試実現”によってブルジョア大学としての延命を謀らんとする学院当局と、そしてそれを強要してきた資本制国家100年の日本の社会総体に対する闘いが入試粉砕闘争であった。
そしてこの闘いは、大学の解体を要求するばかりか、国家にとっては資本制分業生産の一時的麻痺を意味することから、それを維持、回復せんがための機動隊=国家の暴力装置の反革命的介入は必然のことであった。そして、その時まさに「関学の栄光の歴史」は、もろくもくずれ去ったと言ってもよいだろう。
 これに対し、「学問の自由」なる関学の危機を即自的に感じはじめた多くの学生大衆は学生会館前に座り込み「機動隊導入弾劾」のシュプレヒコールを繰り返した。グランドでは、右翼系学生500の「入試実現」の垂れ幕もたれていた。

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学内に押し入ろうとした機動隊を、学生会館前まで押し返したデモ隊は、その場で抗議の“座り込み”に入った。
“機動隊導入弾該!入試粉砕!”のシュプレヒコールは、われわれの団結と連帯感を呼び醒し、時間の経過は、闘争の限界点を示した。
 全共闘、右翼、機動隊、そしてこの座り込み部隊の対峙関係の中で、座り込みは、夜を徹して闘われた。
 しかし、自己目的化してしまった座り込みは、重く沈み、次第に生気を失っていった。

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2月7日、経済学部入試が、機動隊250の警備のもとに実施され、全共闘60名が午前、午後の二度にわたって機動隊の阻止線を突破するために衝突、学生会館前に座り込んでいたサークル闘、全学一連協の学友を踏みつけて、機動隊は、法学部校舎のバリケードを解除する構えを見せた。
 これに対して、全共闘は「バリケードを断固死守する」方針を打ち出し、深夜、徹夜の座り込み部隊とともに武装デモを行い、バリケードの強化にとりかかった。
「機動隊に警備を願っているは、入試実施のためだけであり、学内のバリケードには手をふれさせない」と言明していた小宮学長は、ここに至っては、全共闘を機動隊に売りわたす他になすすべがなかたのか、9日早朝、機動隊2,500が、第5別館を包囲し、激しくガス銃を撃ち放ち、薬物入りの放水を浴びせかけてきた。

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【騒然と初の“警棒入試” 関学】毎日新聞1969.2.7(引用)
受験生がかわいそう “むしろ延期を”府警にがい顔
「入試反対」「警官帰れ」兵庫県西宮市の山手の学生街を揺るがすシュプレヒコール、ヘリコプターの爆音―警官のヘルメットと警棒に守られた関西学院大学入試は、大学入試の常識とおよそかけ離れた狂気と騒乱に包まれた。全国での初めての異常な入試に受験生たちは「紛争最中の試験だから、ある程度は覚悟していたが、後輩の試験だけは静かに受けさせるだけの先輩の思いやりが欲しかった」と嘆いていた。
ゲバ棒をっ持った共闘会議派、すわりこみだけのノンセクト学生、スピーカーでがなりたてる入試賛成派、それに警官隊―7日、関学大キャンパスの朝は「四すくみ」の形で明けた。その渦の中で入試は強行された。
 午前7時ごろに機動隊約700人が試験場の体育館前道路をジュラルミンのたてで封鎖した。そこから約100メートル離れた地点につくられた全共闘のバリケードには石の山がどんと築かれた。
 大学正門はイスのバリケード、立看板、旗―ぴったり閉じられ、受験生シャットアウト。午前8時ごろから集まり始めた受験生たちは試験場を案内する地図を受け取りながら戸惑い気味。「案内します」「試験場はこちら」白腕章の大学職員が声をからすなかをグラウンドから体育館など試験場へ。
 午前8時15分、全共闘の学生約70人が投石を始めた。石は警官のタテに当たってガンガン鳴りつづける。機動隊員は守勢一方。たまりかねた機動隊の投げ返した石が間にすわっていたノンセクト学生の間に落ちる。数分後、横から回り込んだ30人余の機動隊員が攻勢に出た。その前にノンセクト学生が立ちふさがり、機動隊員に「帰れ」「帰れ」と連呼、とうとう機動隊を押戻し、投石はやんだ。
 学生と警官の衝突をまのあたりに見た受験生と父兄たちは「覚悟していたが、こんなにひどいとは。子供がかわいそうだ」とショックの大きさに声も小さい。大阪市からきた母親は「せっかく勉強してきたのだから、ベスト・コンディションで受けさせてやりたい。試験が始まるのを見届けたら先に帰るつもりでしたが、これでは心配で帰れません」と試験場に消えてゆくわが子を不安げな目で見送っていた。
 受験生の一番乗りは午前7時すぎ、山口県柳井市から来たA君(18)。「旅館にいては落ち着かないし、大学の異様な姿をこの目で見てやれと思って早くきた」というが、学生と警官がにらみ合う状況を見て「やっぱりいやですね」とぽつり。
 試験は3会場とも定刻9時に始まった。次第に増える機動隊員がその周辺を固めている。6日未明、たたき破られた体育館の窓やドアにはベニヤ板が打ちつけられ、寒風はかろうじて防がれていたが、監督官室などはあん幕でおわれただけ。
 明石市のある父親は「このような異常な状態で、入試を強行する大学側の態度が理解出来ない。現時点で入試がむずかしければ延期するなり、何らかの方法があったはず」と吐き捨てるような口調。
 一方、ある母親は「入試に反対する学生さんの気持ちもわからないわけではないが、受験生にとって入試は一生を左右する重要なものです。この大学を目指して勉強してきた受験生のために大学が機動隊を導入したことも、受験生を守る意味で仕方ないことだと思います」としんみり。父兄の意見も賛否両論だった。
 小宮孝学長代理の話
外の騒がしさが試験場内に聞こえるのではないかと心配したが、構造のせいか静かなので安心した。欠席者が少なかったのは受験生の真剣さの表れで、強硬してよかったと思う。14日まで機動隊にお願いして妨害は実力で排除してもらう。
 答案、頭にはいらぬ
 正午、昼休みで出てきた受験生たちの多くは、外の騒ぎを「少しは聞こえたが、解答に一生懸命だったから・・・」と話していたが、奈良市から来た受験生は「二時間目の国語で長い説明文を読んでいる途中、再三のシュプレヒコールがうるさくて、初めから読み直した」と憤然とした面持ち。また、親子連れの一組は「もし息子がパスしても、入学式のことが気になりますね」ときびしい口調だった。
(つづく)

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