野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2019年12月

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「糟谷孝幸君追悼50周年首都圏の集い」
2019年12月8日(日)午後から、東京・秋葉原で「糟谷孝幸君追悼50周年首都圏の集い」が開かれた。参加者は関係者を入れて約30名。

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司会は白川真澄氏(ピープルズ・プラン研究所・元共労党書記長)。最初に糟谷プヨジェクトの世話人である内藤秀之氏(日本原農民)から糟谷プロジェクト立ち上げの経緯や、1969年11月13日の扇町闘争のことなどを交えてあいさつがあった。
続いて辻恵氏(10・8山﨑博昭プロジェクト)から以下のようなアピールがあった。
「山﨑プロジェクトの50周年に向けての目標だった記念誌発行、記念碑建立、ベトナム戦争証跡博物館での展示を実現した。今後は若手との交流を進めながら、糟谷プロジェクトなどとの連携、アメリカでのイベントの検討、72年沖縄返還50周年までに沖縄でのイベント開催を目指したい。」
続いて、荒木雅弘氏(告発を推進する会事務局)から以下のように糟谷君虐殺告発運動の報告があった。
「1969年から1976年までの告発裁判闘争の経緯説明。1969年12月、逮捕3警官を検察庁に告発したが、1年9ケ月後に不起訴となった。そのため、大阪地裁に検察官の不起訴処分の当否の審査を求める付審判請求を行った。1976年9月、大阪地裁は付審判棄却決定、10月には大阪高裁が抗告棄却決定。7年の告発闘争で、糟谷君の死因は警棒の乱打以外にはないという結論になった。」
報告の後、参加者から名前と簡単な自己紹介があり、意見交換に移った。
以下、意見交換の中から、何人かの方の発言の概要を掲載する。

<意見交換>
司会:白川氏「糟谷君が闘った69年の意味を振り返って、それを一つの記憶にとどめていく、それが大きな目的だが、それは過去を振り返るということではなくて、これからどうしていくのかという問題と強くつながっている。世界的には69年当時のような状況がもう1回起こっている。例えば気候変動危機に対する高校生などの運動、香港での闘争がある。残念ながら日本だけが例外的に運動の状況が落ち込んでいる。多くの人がそれをどうしたらいいのか考えている状況がある。
私たちが社会を良くしていくにはどうしたらいいか、将来に向かって69年の意味を振り返るということで、糟谷プロジェクトが発足している。それぞれの今の時代に対する思いとか、あるいは69年に対する思いがあると思うので発言をお願いしたい。」

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武藤一羊氏(ピープルズ・プラン研究所)「白川さんと一緒にピープルズ・プラン研究所を20年くらいやっている。88歳になった。同年の仲間が誰も居なくなった。60年代70年代が歴史になっている。研究対象になっている。僕は歴史をつかまえるし方が、かなり日本というものに影響されていて、つかまえ方がどうもどこかはっきりしないんじゃないか。当時は共労党とかプロ青とか含めて、かなり国際主義ということを考えていたと思う。国際主義ということで言うと、反帝反スタというのも一種の国際主義で、世界的な見通しを持つように見えたけれども、実際にかみあう国際主義というのはあまりなかったような気がする。そっちをやりたいということで、仲間と一緒にPARC、アジア太平洋資料センターを73年に起ち上げて、ずっとそれをやってきた。本当に人類が生き残るか、我々の子孫が生きて残れるか分からないという時期に来ている、そういう時になっていると思う。今、50年くらいかけて安倍的なものが日本を制覇した。だから30年くらいかけて、もう1回基盤というものを作り直すという、そういうことが出来るかどうか。できないとどうなるか分からない。そういう危機的な面白い時期に、ちょうど我々の年代も引っ掛かっているのではないか、という感じで生きている。」

参加者「原発廃止運動に関わって、今も3つの裁判をやっている。一つは大飯原発差し止めの仮処分を原告一人で裁判をやっている。脱原発運動の中で、最近若い人たち、40代の人たちとつながりが持てた。この人たちは山本太郎なんです。かつてない自発的で自主的な行動がある。この情熱をどのように歴史につなげて形あるものにしていけるのか、協力できることはしたいと思う。」

参加者「糟谷君のことについて、人がその中で亡くなったことについて、私はずっと忘れてはいけないという気持ちを持ちながら、そのあと生きてきた。その当時、共産主義者だったか社会主義者だったかと言われれば、おそらく民主主義者だった。ただ平和とか貧困に対する思いとか、自分の感性に正直なところを形にしようとしたら新左翼になった。自分の中に飛躍はない。その後、三里塚、沖縄、山谷、川崎と闘いの場を変えていったが、その間、自分が若い時に選んだこの道、選択が人生の選択だった訳ですが、原点に必ず糟谷君と山﨑君のことが思い出される。」

参加者「70年前後の時代的雰囲気は体に染みついている、自由とか連帯とかエコロジーとか非暴力とか、そういう感覚がずっとあって、それを政治的にどう表現できるかという問題意識があって、今。緑の党グリーンズジャパンというのをやっている。気候マーチという20代から30代の人が3千人くらい集まるデモに参加して感じるのは、経済成長とか消費社会に対する違和感、価値感の大転換を表現していることは間違いない。それは69年頃の価値観の大きな転換から続いているような感じがする。ポスト資本主義という感覚が実感として若い世代の中にある。国会前で65歳以上の人を千人くらい集めて、気候変動の対応を求める行動を呼びかけたい。」

参加者「集会のタイトルに『権力犯罪を許さない忘れない』とあるが、私らが扇町闘争でやったことも明らかに犯罪、それを自覚してやったところはある。その前まではせいぜい角棒、持ったとしても鉄パイプぐらいだったが、私らがやった時は、長さ1メートルくらい、厚さ9ミリ、幅30ミリくらいの鉄板を切ったもの、これを用意して、それを車で運んできた。私らがやったことは、権力に対して、こいつらをやっつけるんだ、殺すんだみたいな気持ちがあったことは確か。そういう中で当日デモ指揮をするはずだった大阪市大の指揮者が日和って来なかった。そいつに対する恨みつらみは今でもある。糟谷君の代わりにその指揮者が死んでいてもおかしくなかった。」

参加者「さきほどの話で、11.13闘争で持った鉄板が凶器だったかどうか。あの頃、建軍路線というのが一方で潮流としてあって、11.13闘争というのは、建軍路線に行く人たちと大衆的実力闘争の中でどれだけ力を蓄えていくかという人たちの分岐点ではなかったのか。」

司会:白川「69年の闘争で今日出てきた一つの問題は暴力の問題。これは新左翼運動全体の中ではあまりちゃんと総括されていない。11.13の扇町闘争の場合は、こちらが用いた武器の水準がそれの前とは異例のものであった。誰がそれを決めたのかというのは関係者の中でもはっきりしない。その辺の問題をどう考えるのか。69年の時はいわゆる武装闘争への移行という流れが、赤軍派がブントの中で登場していたから、そういう話は出ていたけれど、全体としてはまだ大衆的実力闘争というレベルだった。建軍路線が出てきたのは71年。ただ、69年の時の暴力についての考え方というのは、みんな『革命的暴力』ということで括っていたから、そこにはそれぞれいろんな思いとか、いろんな願望とか全部入っていて、ごちゃごちゃだったんじゃないか。逆に暴力についてもモラルとかなかったというのはその通りだと思う。」

参加者「11.13の時は偶然だったと思う。前日に何ケ所かに隠していた鉄棒を押収された。関西大学のものは発見されずにあったようだが、これで何も出来ないと思っておもいついたのが鉄板棒があるということでそれを取りに行った。それがやっと6時に間に合った。ちょうどその時、機動隊も警備が変更になって、トラックが来たらすっと中に入れた。偶然が重なってそれが自分たちの手元に来た。加工したら刀になるとギクッとした。」

参加者「10・21の時にそれを東京で使った事実はある。それを11月にもう1回やったということだと思う。」

司会:白川「当時の全体の流れで言うと、10・21が最初の大きな焦点で、何でその日に築地市場を襲撃したんだと言われるが、都庁にその日、都職と東水の労働者が休暇を取って結集する、それに合流するというので、一番近いには築地市場の駅というのでそこで降りたが、そこで機動隊に包囲されて逃げ込んだのが築地市場だったということ。問題は大阪の10・21闘争がうまくいかなくて、中電のマッセンストに合流するという計画を立てていたのだが、不完全燃焼に終った。それで11・13は関西でやらないと収まらないということでやろうと決めた。でも現場のことは分からないことが多い。」

参加者「様子を見にいった時に、機動隊が出てきて、プロ学同の部隊が突撃して刀みたいなのものでガンとやる、機動隊がいったん引きました。中隊長か大隊長から『何してるんや!』と気合を入れられて2回目が来たという感じ。そういう武器だったのは間違いない。」

参加者「機動隊とぶつかっていくことで何を目指していたんですか?騒ぎを大きくして佐藤訪米に反対の意思表示をしたかった?大阪でしょ?」
参加者「全国でやることによって、本気で佐藤が訪米できないような状況をつくる必要があった。」
参加者「分かるけど、機動隊に向かわなくても、いろんなところを占拠するとか、他のアイデアはなかったのか?」
 
参加者「暴力の問題で、ここから先はまずいんんじゃないかと言うのが運動の側にあったかどうかというのは結構重要な問題。運動を総括する上で、暴力の問題、今これから何かする時に暴力闘争、武装闘争が必要になることがあるのかどうか、真剣に議論しなくてはいけない。もう一つ、内ゲバの問題は嫌になった。
4年くらい前までグローバリズムに対する闘争というのがすごくあった。今、グローバリズムを壊しているのはトランプと習近平。僕ら自身が向きあうべき社会はものすごく変わってきていて、米中帝国主義の闘いの中でグローバリズムとは何なんだろうと、資本主義が持っていたどうしようもない問題、地球温暖化の問題などがあり、どういう社会をつくるのかというのを考える時、その辺りを真面目に考えないと勝てないだろうと思う。
糟谷さんの問題を考える時、その時代と今は全然違っている。糟谷さんの虐殺は忘れてはいけないこと、世の中を変えようとする人を忘れてはいけないことなんだけれど、今、これから世の中を変えていこうとするときに、武装闘争で何とかなるということがどれだけあるのか、ということがある。」

参加者「糟谷君は『11・13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』と日記に記している。自分たちがその当時、敵に殺されたというよりは、そこに捧げるという理想に燃えて闘った。自分たちはそういう表現をした。当時、社会主義やプロレタリア独裁は、正義であれば相手を殺していいという理論のように私は受けとめた。これが内ゲバや爆弾闘争の方にブレーキをかけられなかった理屈ではないか。そこを私たちは歴史的に反省をしないといけない。敵に確かに殺された。そのことを告発することを堂々とやればいい。でもそれ以上に、私たちはそこに命を捧げた若者たちの尊い気持ちをちゃんと押さえた方がいい。」

辻恵(山﨑プロジェクト)「京大の11月祭で山崎プロジェクトの企画でベトナム反戦闘争の展示を行った。その中で、11月22日に『京大山﨑博昭とベトナム反戦を考える』というシンポジウムを開催した。40名くらい集まった。10名弱の学生が参加して発言した。企画した学生からは『自分が50年前生きていたら山﨑君と同じようになったかもしれない。京大の中でそういう企画を皆に知ってもらおうと思ってやりたかった。』という発言があった。また、『山﨑プロジェクトの企画に参加することが自分の人生を考える一つの切口になるかもしれないという期待を持ってやってきた』という発言もあった。我々が次の世代に語り掛ける場を何とか求めようと広げてきた結果、山﨑博昭の出身校で初めてシンポジウムを持てて、しかも現役の学生が熱っぽい発言をしてくれたということがあった。
72年の連合赤軍なりそういうもので、いったん新左翼はみんなから投げ捨てられているところがあると思うが、それを越えて我々が伝える何かをもう1回やる必要があるのではないか。
今は権力を取るためには、暴力闘争ではなく政治闘争で国会の権力を取るしかない。そのためにどうするのか。その時に、既存の政党では現場の闘いとかいろんな闘いがつながっていかない。そういう意味で山本太郎の登場というのは、そのつなぎ目の大きな転換点なのではないか。そこを拡大して切り拓いて広げていくことが極めて重要なのではないか。右の側から取り込もうという動きもあるが、我々の側がちゃんと取り戻して大きな軸を作っていく、その中で、野党共闘で一緒になるというようなものは絶対に支持されない訳で、彼らの目論見をも打ち砕く、しかしそれは、今の政党に基盤を持った5人の集団を作らないと、それを山本太郎を一つのきっかけに、そこに我々が通じるものを生み出していく根拠があるのではないかと思っている。」
司会:白川「60年代後半における総括すべき問題として暴力の問題があるのは間違いない。『殺されるかもしれないけれど、こちらから殺してはいけない』という、そういう暗黙のルールみたいなものはあったのでは、というのが僕の意見で、その事が明確に意識されていたかどうかは別で、もう少し議論されなければいけない。」

以上で意見交換が終わり、山田雅美氏(事務局)から今後の進め方について協力要請があった。
「現在、賛同人・呼びかけ人は約250人、カンパも120万を超えている。もっと広げて糟谷の本を出したい。糟谷孝幸君に関する本への協力(原稿の執筆)をお願いしたい。全部載せるつもり。来年11月までの完成に協力をお願いしたい。
2020年1月13日も大阪で『糟谷孝幸君追悼50周年集会』を開催予定。参加をお願いしたい。
引き続き糟谷プロジェクトに協力をお願いしたい。」
最後に閉会あいさつがあり閉会した。
「糟谷孝幸君追悼50周年首都圏の集い」の様子は以上であるが、以下に関連の資料を掲載する。
糟谷君の死因をめぐる当時の新聞記事があるので、それを見てみよう。

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【朝日新聞 1969.11.30】
死因に対立見解 大阪のデモで死んだ糟谷君

“警官による虐殺”弁護団
“警棒の傷と違う”府警
「佐藤首相の訪米阻止闘争の13日、大阪・北区扇町公園で府警機動隊とぶつかり頭に傷を受けて死んだ岡山大2回生、糟谷孝幸君(21)の死因について、弁護団は29日東京で『糟谷君は逮捕時および逮捕後の警棒の乱打によって虐殺された』と発表した。一方、捜査当局は同日、『警棒によるものではない』との見解を示し、両者の見解は全く対立した。
 大阪府警察曽根崎署の糟谷傷害致死事件捜査本部は、29日までの調べから、『死因となった左側頭部の打撲傷は。警官の警棒による傷ではない』との見方を強めた。
 同捜査本部がその後の調べで明らかになったとする糟谷君逮捕時の状況はー集会がデモに移った直後、ヘルメット姿の一団が扇町公園南出入口横の歩道に、機動隊めがけて火炎ビン、石を投げる、機動隊員がこの一団に殺到、最先頭にいた糟谷君がよろめいた拍子に、追いすがった3人の巡査が両腕をとって押倒す、5,6人が糟谷君を奪い返そうと、鉄板やコン棒でなぐりかかった、3人の巡査は、組敷いた糟谷君を押さえつけながら、片ひざをついてタテで防ぎ、棍棒を抜いて防戦、糟谷君の腰の部分に燃え移った火炎ビンの火を、3人の警官がもみ消そうとしたとき、機動隊がかけつけた。
 同本部が『警棒によるものではない』との見方を強めたのは①糟谷君を逮捕した3人の巡査から『糟谷君をデモ隊から奪い返されまいと、押さえつけるのに必死で、なぐるゆとりはなかった』との供述を得た②警棒で頭をなぐった場合、ふつう皮が破れて放射状の傷口ができるが、解剖結果によると、糟谷君の傷は1-1.5ミリ程度の細い棒状の傷―などの点からである。
 同事件の『真相究明実行委員会』樺島正法弁護士と、糟谷君の遺体解剖に立合った京大医学部脳神経外科の佐藤耕造医師は29日、上京して記者会見し、死因に対する弁護団側の見解を説明『権力による重大な犯罪である。10日以内に該当する警察官を大阪地検に告発する』と発表した。
 弁護団の見解によると、同君が『警棒によって殺された』とする根拠は①同君の頭内を手術した行岡病院の松木康医師は『左側頭部に幅1.2-1.3センチの条痕(こん)が平行に二筋ついている』と発表した。同君を解剖した松倉豊治教授も『鈍器により2回、強くなぐられた』といっている③警察は『逮捕した糟谷君を奪い返しにきた学生の鉄棒が当たった』というが、鉄棒では糟谷君の左側頭にあった『幅1.2センチ』の条痕はつかない④学生が2回も糟谷君をなぐるはずがない⑤同君の右腕に鈍器による打撃を防いだ跡とみられる内出血が13ケ所あり、警棒の乱打を浴びたと推定されるーなどの点である。」
糟谷君を逮捕した警官は3人。警官1人の警棒には糟谷君と同じ血液型の血痕が付いていたことが、11・13扇町闘争裁判の中でも明らかにされたとのことである。

次に、党派の機関紙が糟谷君のことをどのように伝えたのか見てみよう。
【戦旗202号 1969.11.21】
糟谷孝幸君(岡大生)虐殺さる

13日、大阪のデモで。19日に抗議集会
「13日夜、大阪の『佐藤訪米阻止闘争』において、岡山大学文学部2年生。糟谷孝幸君(21)が官憲によって虐殺された。この日の闘いは、10・21中電マッセンスト大阪北制圧闘争が2万の大衆を結集しつつも戦術的に不貫徹に終ったことを総括しつくしたわが赤ヘル軍団が再度、中電労務室のバリケード封鎖闘争を貫徹し、マッセンストライキの永続性を示すと同時に、扇町公園を中心に、3度にわたって火炎ビン、爆竹をもって官憲の壁を突破したまさに70年代を切り拓く画期的な闘いであった。官憲は、この闘いに恐怖し、階級的憎悪をこめて随所で、デモ隊にテロ、リンチを行い、糟谷君はその犠牲になったものである。
 羽田闘争における山﨑君の場合と同様に、官憲は全く卑劣にも糟谷君がデモ隊の鉄パイプによっ撲られたのが死因であるというフレームアップをなさんとして捜査本部を設置した。われわれは断じてこのようなフレームアップを許さず、徹底的に官憲を糾弾しつくすであろうし、プロレタリア独裁へ向けて糟谷君の遺志を引き継ぐだろう。
 19日には、大阪において糟谷君虐殺抗議の大集会が開催される。
 なお糟谷君は岡山大学において、ノンセクトでありながら赤ヘルを被り、岡大において最先頭に立って闘い抜き、今回のデモにはプロ学同の諸君と共に大阪に結集したものである。」

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【前進 号外 1969.11.20】
糟谷孝幸君(岡山大2年)虐殺さる

「13日夕、大阪で佐藤訪米阻止の行動に決起した学生、岡山大文学部2回生、プロ学同の活動家糟谷孝幸君(21才)は、機動隊の打ちふるった警棒を頭に受けて重症を負い、14日午後大阪市行岡外科病院で死去した。この大阪扇町公園では、大阪地評の集会と並行して、地区反戦、全共闘、べ平連の統一集会がひらかれ、デモ出発後、機動隊に規制された学生たちは火炎ビン・爆竹・鉄パイプなどで激しく闘った。その際、機動隊の弾圧は暴虐をきわめ、警棒をふり上げ、学生の頭上めがけ乱打した。糟谷君は、逮捕時にメッタ打ちにあい、頭がい骨骨折をうけ、しかも何の手当も与えられないまま取り調べられ、その最中に意識を失い、14日午後9時死去した。同君の傷は頭頂部左側に幅2センチ、長さ5センチの傷が並行して2本あり、傷の下の骨が4.5センチにわたって2本折れていた。手術を担当した松木医師も『棒状の鈍器でなぐられたと思う』と語っている。
 関西救援連絡センターの樺島正法弁護士、佐藤耕造医師(京大脳神経外科)、葛岡亨医師(奈良医大)らは。『明らかに機動隊の警棒リンチが下人である。テレビで機動隊員が糟谷君に警棒を乱打する場面を見た者がいるし、現場の目撃者もいる』と記者会見し、事実調査をさらに進めた上で関係者を告訴、告発する、と語った。
 樺、山﨑、滝沢、津本同志についで、またも学生を虐殺した国家権力に対し、われわれは満身の怒りをこめて復讐を誓うとともに、11月決戦の途上で若き命を断たれた糟谷君の遺志をついで闘いぬく決意を表明するものである。」
糟谷君について「戦旗」ではノンセクト、「前進」ではプロ学同の活動家という表現になっているが、プロ学同シンパというのが正しいようだ。

この糟谷君の虐殺に抗議した集会が1969年12月14日、東京・日比谷野外音楽堂で開催された。その様子を党派の機関紙で見てみよう。

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【前進 第463号 1970.1.1】
糟谷君の屍こえて進撃誓う
12・14人民葬 革共同の北小路同士が弔辞

「前号既報の通り14日の糟谷孝幸君虐殺抗議人民葬(全国全共闘主催)は『第二民青』=革マルの反革命的襲撃を一蹴して盛大に開かれた。
 日比谷野外音楽堂に集まった1万2千の労学市民は、同志糟谷への1分間の黙とう『同志は倒れぬ』の大合唱をもって集会をはじめた。全国反戦代表の今野求氏、故山﨑博昭同士の長兄山﨑建夫氏、三里塚芝山連合反対同盟の戸村一作委員長、市民団体を代表してもののべながおき氏、救援会代表水戸巌氏、岡山大の糟谷君の友人、そしてプロ学同代表代理の清水次郎君から、それぞれ追悼の言葉と闘いの決意が述べられた。また権力による糟谷君虐殺の真相報告と虐殺警官追求の強い決意が弁護団、医師団から明らかにされた。
 また集会第二部においては革共同を代表して立った北小路同志を筆頭に、共労党、ブント、解放派、統社同、第四インター、MLの各派代表から、11月決戦勝利の確認と、70年代への決意表明がなされた。自衛隊の小西三曹、沖縄官公労、沖縄反戦などからのメッセージが読み上げられた後、集会は5時50分に終り全参加者が東京駅までの虐殺抗議デモを展開した。反革命=革マルに一指もふれさせることなく、11月決戦を闘いぬいた全ての党派、全ての労学市民は、この人民葬の盛大な成功の中で、70年代にむけての再進撃をかたく誓いあった。
 以下は革共同を代表しての北小路敏同志の弔辞要旨である。
<弔辞>
革共同を代表し、糟谷孝幸君に同志としての追悼のことばをおくる。
 君は、全国全共闘の勇敢な戦士として11月決戦の先頭にたち、そのゆえに敵権力の暴虐に倒れた。だが見よ!11月決戦は日本階級闘争史上かってない地平を闘いとり、70年代の内乱的死闘と日本革命の展望をきりひらいた。これは、君を先頭にわれわれすべてがかちとった偉大な勝利である。
 君を虐殺した権力に復讐し、君の無念の死をあがなう道は、ただ革命に勝利すること以外にはない。君は、勝利のためには死を恐れてはならぬことを身をもって示した。われわれは、牢獄はおろか、死をも恐れず、第二、第三の糟谷君となるために闘いぬくことを誓う。生死をかけて渾身の飛翔をかちとり、70年代の大事業に自己を激突させることを誓う。
 すでに革共同は、その勝利のための大方針を提起し、新たな戦闘配置についている。11月決戦にたいするいっさいの弾圧をはねかえし、三里塚決戦とバリケード春闘、卒闘叛乱をかちとり、4・28から6月安保決戦の大爆発をもって、日帝のアジア侵略宣言を打ち砕こう。沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒の旗のもと。日帝のアジア侵略の危機を内乱に転化し、アジアを反帝反スターリン主義世界革命の根拠地たらしめよ。われわれは、反戦派労働者を先頭に日本労働者階級の総力を結集する党として自己を打ち鍛え、全国反戦と全国全共闘の中核、全人民の中核となってこの事業を果しぬくであろう。
 日共スターリン主義者の反革命を粉砕し。社会民主主義者の破産を乗りこえてすべての闘う民衆の強大な戦列を構築しよう。君の人民葬を泥靴で踏みにじろうとした第二民青=革マルをたたきつぶし、放逐しよう。
 君は殺されても、君の血はわれわれのなかに燃えている。糟谷孝幸君!眠ることなくわれわれのうちに生きて闘いぬけ!
<人民葬への弔電>
糟谷君人民葬に、11月決戦を闘い共に抜いた沖縄の反戦、労働者、そして自衛隊内反戦闘争を革命的に闘い抜いている小西三曹や獄中の東大全共闘代表山本義隆君から以下の弔辞がとどけられた。(編集局)
糟谷君の虐殺に全自衛隊員、全人民は抗議し、国家権力の一切の弾圧を粉砕せよ。
新潟より 小西誠

糟谷君の死をいたみ、虐殺に怒りを込めて抗議する。人の命はなによりも尊い。死は美化されるべきでなく、利用されるべきでもない。殺人者権力を弾劾し遺志をついで闘うのみ。
いつか糟谷君の理想は現実となろう。冥福を祈る。
山本義隆(全国全共闘連合議長、東京拘置所在監)

10・11月闘争を実力をもって沖縄県反戦の旗のもと、闘い抜いてきた中部反戦は権力による糟谷孝幸君虐殺に怒りをもって抗議し、70年から打ちつづく激動の70年代を闘い抜く決意である。
 安保粉砕・基地解体・沖縄闘争勝利にむかって生産点闘争と地域住民闘争を明確に政治闘争として闘い抜くなかから、きたる4・28には無敵の反戦派労働者を結集し、拠点ストをもって街頭実力闘争を断固として闘い抜くことが糟谷君の死にもこたえるわれわれの任務なのである。
 糟谷君に沖縄の若きプロレタリアートの声を!
沖縄中部地区反戦青年委員会・全軍労反戦・コザ市職労反戦・グラペット反戦・ヨコツ地区反戦・劇団「創造」反戦

佐藤訪米阻止闘争を戦闘的に闘い、機動隊に虐殺された糟谷君を惜しむとともに心から怒りをおさえることができません。糟谷君の虐殺は反戦・平和・安保廃棄を闘う人民に対する挑戦であり弾圧であることを再確認し、われわれの闘いを強化していかなければならないと考えます。そのことを誓い、糟谷君の冥福を祈ります。
沖縄官公庁労働組合中央執行委員会委員 仲吉良新」

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【戦旗206号 1969.12.19】
糟谷君人民葬に万余の結集
12・14革マル派の介入を粉砕し

「『糟谷君虐殺抗議人民葬』は16日の大阪に引き続き首都において、全国全共闘主催の下、日比谷野音において、午後2時より1万余名の労・学・市民を結集して盛大にかちとられた。
 この人民葬は、第一に、今秋安保決戦が、安保=反革命同盟の再編を日帝による『72年沖縄返還』を梃子に推し進めんとする帝国主義の侵略・反革命の強化を、佐藤訪米―日米会談によって集約せんとすることに対して、67年10・8羽田闘争を期して開始された『プロレタリア国際主義』『組織された暴力』を旗印として、わが同盟を最先頭にして牽引された反帝統一戦線の総体の闘いが、この帝国主義の侵略反革命の一大攻撃を粉砕する中において、権力闘争としての自らの闘いの質と構造を創り上げていくものとして問われていたが故に、かかるわれわれの闘いを総力を挙げた弾圧布陣とその暴力装置の発動の中で圧殺せんとした帝国主義権力の一連の階級的犯罪の頂点として、他ならぬ糟谷君の肉体的抹殺が意図的に遂行され、しかもその事実を隠蔽せんとすることに対する階級的弾劾としてある。
 従って、第二に、糟谷君虐殺がかかる闘いの真只中において帝国主義国家権力の階級的犯罪として遂行されたとするならば、糟谷君の遺志をいかに受け継ぎ、貫徹していくかが、問われるわけであり、そのような関連から、とりわけ今秋闘争の主体的関わりを前提にした評価―総括と、今後のわれわれの闘いの展望をめぐる党派闘争の場としてあるということである。
 第三に、このことは、11・28東大闘争分離公判欠席判決粉砕統一行動において、まさに自らが東大闘争に果たした犯罪的役割を隠蔽したまま、いつも闘いが終わった頃をみはからって『党派闘争』のみを『戦闘的』に闘い抜く革マル派が今、60年安保闘争以降の全く結果的にはアッケなく終わったところの『全国制覇』の再現を夢見るところから開始された党派闘争を、断乎として貫徹しぬくことが問われていたのである。
 赤ヘル部隊は、午前11時に淡路町公園に結集し、日比谷野音に向かった。
 日比谷野音は、革マル派の『介入』を粉砕し、人民葬を闘いとらんとする各部隊によって完全に防衛され、続々と労・学・市民が結集し、1時過ぎには、野音内はほぼ満員になる。2千名の革命的左翼ゲバルト部隊は、各党派ごとに『今日に至るまでのびのびになってきている・・・反代々木中間諸派の反動的再生をを粉砕することを通じ、社民・スターリニストの“本来”の戦線に全精力をかたむけてたちむかうことを課題としてきた』『しかもわれわれは絶好の機会をむかえている』(「解放」150号)という、まさに自己の運動が、いかに権力に立ち向かうかではなしに、党派囲い込み=他党派解体に自己完結する革マル派の野望を粉砕すべく意思統一を続ける。
 日比谷野音においては、2時過ぎから人民葬が全国全共闘の代表の司会によって開始され、黙祷が捧げられた後、弁護団から糟谷君虐殺の下手人である寝屋川署員3名他、糟谷君逮捕に協力した不特定多数の官憲を告発した旨報告される。三里塚芝山反対同盟戸村一作委員長等の追悼の言葉が述べら人民葬はとどこおりなく進展する。
 野音の外では。革マル派が日比谷公園の一隅に辿り着いたとの報で全部隊が戦闘配置につく。

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 赤ヘル部隊は最先頭に位置し、反帝学評とともに戦端を切り拓いた。後続部隊が続き、日比谷公園からまさに革マル派を駆逐せんとする勢いのった時に、官憲が介入し、革マル派は余命を保つことができたのである。赤ヘルを先頭とした革命的左翼の諸部隊は、官憲の介入を阻止し人民葬を貫徹すべく戦線を立て直した。医師団の報告を最後に、人民葬は、政党代表の追悼の言葉に移った。
 共産同代表は『糟谷君の遺志を受け継ぐことは、この秋の闘いでわれわれがかちとった、正規軍、軍団建設を全階級的に定着拡大させ、恒常的武装闘争を闘いぬく中から。世界プロ独に進撃することである』との力強い決意が述べられた。
 人民葬の最後は『虐殺抗議・安保粉砕』の一大デモンストレーションを国会―首相官邸―新橋―国労会館コースによって終始戦闘的に展開することであった。」
この日は、革マル派が集会に参加しようとやってきたが、日比谷公園内で大規模なゲバルトとなり、機動隊が介入して187人が逮捕された。
このゲバルトに至った経緯が、12月8日の「糟谷孝幸君追悼50周年首都圏の集い」の意見交換の中で語られたので紹介する。

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【元東大反帝学評 伊東恒夫氏の証言】
「糟谷君人民葬の話をします。あの頃はまだ革マル派は全国反戦の一員だった。全国全共闘と全国反戦の共催で開くということになっていたので、革マル派は自分たちも当然参加の権利があると前日まで主張して、全国全共闘の構成員ではなかったけれど全国反戦としては参加の自粛を要請するみたいな経緯で、当日革マル派が千人くらい来てしまって、僕らの部隊は250くらいで、さてどうしようかという話になった。だけど並んで一緒の集会をやるというのもちょっと想像しにくいし、そういう前日までの経過もあるから、僕らは3倍以上の敵には突っ込むなと言われていたんだけれど、3倍以上いるんだけどどうしようかと総指揮の奴が僕のところに相談にきたので、『迷った時にはやる方を選ぶのが僕らのあれじゃないの』と言ったら『分かった、やる』というので諸党派をオルグに行った。プロ学同はその時の当事者だから、プロ学同には声をかけずに、プロ学同以外の諸党派に『俺たちはやるぞ、一緒にやろう』とオルグして回って、結局やろうと言ったのは叛旗派だけで、叛旗派も50名くらいしかいなかったけれど、女性の指揮者だったのを印象深く覚えていますけれども、それに合わせて僕らも50名の突撃隊を作って、その突撃隊の指揮を僕が執ることになって、突っ込んでいって、初戦は隊列を崩したんだけれども、向こうも逃げ場がないところに布陣していたので、横に後ろの人が溢れてきて、僕らがとり囲まれるようにしてボコボコにやられる。僕はそのまま先頭で突っ切って公園の外に出て『負けたぞ』と電話を入れたんです。そうしたら『いやいや勝ってる、急いで戻れ』と言われて公園に戻って聞いたら、僕らを取り巻いていた一般学生とか参加者たちが、わっとその外から革マル派に襲いかかって、そういう状況の時に機動隊が入ってということで、僕が戻った時には、もう機動隊が引き上げようとしている時だったけれど、さきほどの総指揮はグロッキーになって誰かに助けられてベンチに横たえられていましたけれど、そこに行って『すぐに救急車呼んでくれ』と言って、僕はすぐに部隊の指揮に戻ったというのを覚えています。革マル派も機動隊が入ったことで参加することはなかったですけれど、それを理由にして全国反戦から革マル派を排除するというきっかけが、糟谷君虐殺抗議人民葬の衝突だった。」
この12月14日で「糟谷君虐殺抗議人民葬」から50年となった。私も当日参加していたので、この日のことは強く記憶に残っている。
当日の様子は、以前にこのブログに掲載したので、それを見ていただきたい。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

(終)

【お知らせ その1】
糟谷孝幸君追悼50周年集会

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日時:2020年1月13日(祝) 午後1時半~
会場:PLP会館大会議室
   (大阪市北区天神橋3-9-27)
会費:入場無料
内容:「1969年とは何であったのか?」
    海老坂 武 氏(フランス文学者)
   「11.13裁判・付審判闘争の報告」他 
  
【お知らせ その2】
「続・全共闘白書」出版記念会

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「続・全共闘白書」が、いよいよ12月25日に刊行されます。
A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(予約注文の方には割引があります。チラシをご覧ください。)

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それを記念して、以下により出版記念会が開催されます。
●「続・全共闘白書」出版記念会のお知らせ
日時:2020年1月18日(土) 17:00~20:00(16:30開場)
会場:学士会館201号
(東京都千代田区神田錦町3-28 03-3292-5936)地下鉄神保町駅 徒歩1分)
会費:5,000円(立食)(本代別)
記念対談:吉岡忍(ノンフィクション作家、日本ペンクラブ会長)×二木啓孝(ジャーナリスト)
「『続・全共闘白書』を読み解く?全共闘世代に遺された課題とは」
※会場で本の販売があります。
※その後近くにて二次会を予定しています。


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
年末年始はお休みしますので、次回は1月10日(金)に更新予定です。

【重要なお知らせ】
ヤフーブログの終了に伴い、ヤフーブログは8月いっぱいで記事の投稿ができなくなりました。
そのため、8月1日からライブドア・ブログに引っ越しました。
リンクを張られている方や、「お気に入り」に登録されている方は、アドレス変更をお願いします。
引っ越しにともない、過去記事も引っ越しました。
ヤフーブログのアドレスになっている過去記事を検索でクリックすると、ライブドアブログのトップページに自動転送されます。、
過去記事をご覧になりたい方は、ブログのアーカイブスで探していただくか、記事タイトルで検索して、ライブドアブログのアドレスになっている記事をご覧ください。(まだ検索に引っ掛からないようです)

このブログでは、重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」に掲載された日誌(独居より)や、差し入れされた本への感想(書評)を掲載している。
今回は、差入れされた本の中から「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」の感想(書評)を掲載する。
(掲載にあたっては重信さんの了解を得ています。)

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【「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(川上泰徳著・岩波書店刊)】
「シャティーラの記憶」(川上泰徳著・岩波書店刊)を読みました。頭の芯から言葉にならない想い――こんなにもつらく繰り返される人々の苦難と闘い、そしてそれは私自身の自らの記憶と体験と交叉する分―-なつかしさと化学反応を起こしたように言葉にならない想いが溢れ出たのです。
 シャティーラ――そこは、ベイルート市内からも近い0.1?の狭いパレスチナ難民キャンプ。私が1971年、ベイルートに着いた3月、初めて訪れた難民キャンプがシャティーラです。イスラエルがベイルートを占領した1982年、パレスチナ難民たちをキリスト教徒右派民兵を使って、シャロン国防相が虐殺させたのも、このシャティーラです。
 この本の著者は、20年にわたって特派員などを体験してきた中東問題専門家であり、フリーランスとなった2015年から2018年の3年間、ナクバの70年目にこの本をまとめる考えで、のべ6?月ベイルートに滞在してシャティーラ難民キャンプに通いました。そして1948年前後からパレスチナを追われたナクバ(シオニストのパレスチナ人民族浄化によって1948年のイスラエル建国が成された、パレスチナ民族にとっての大厄災のことをナクバという)時代の難民の第一世代から現在の若者たち第三世代、第四世代の約150人のシャティーラの住民にインタビューを重ね、それぞれの時代の経験と記憶を探り、パレスチナ難民の70年の実情を記録しているのが、このルポルタージュです。
読みながら、人間としてこれ以上ない仕打ちを受け、闘い、生き、語る人々の姿に、何度も立ち止まらざるを得ませんでした。1948年当時、パレスチナを追放された70~80万人と言われた難民登録者数は今や650万人を越えていますが、ここで著者が浮かび上がらせた住民の実情は、同じように650万件の記憶と経験があるのだと思いつつ読みました。どこのキャンプでも、きっと同じことが溢れていると思います。かつては、あるいは今もファタハやPLO、PFLPに属して闘い、闘い、闘ってきた老齢の父や母、その息子、娘たち、住民のパレスチナ人一人一人の人の一端が立体的にこの本で描か言を聞き、記憶を集めるのは、パレスチナ問題の歴史の事実を検証するためではなく、「私はあくまでも難民たちの脳裏に焼き付けている体験の記憶という主観的な言説を集めることで、彼らの体験を70年という時の広がりとして知りたいと考えた。それは私がジャーナリストとして、パレスチナの実感に触れる方法であり、人間体験としてのパレスチナをシャティーラという舞台の上で再構築しようとする試みである」と記しているように、やり方も独特です。まず、シャティーラに行き、出会った人にインタビューを試み、人から人へと話をしてくれる人間を探してインタビューを続けたのです。「50人、60人の話を聞いても見えてこない。(中略)取材が3年目となり、100人を過ぎたころにシャティーラを舞台にしてそれぞれの事件や時代ごとにうごめく人間の集団が見えてくるような感覚があった」と「あとがき」で述べていますが、オープンマインドのアラブ人、パレスチナ人だから見ず知らずの著者と出会い、率直に語ってくれて、この本の記録が成立していることがわかります。
 目次の第1章は「ナクバの記憶」として1948年にどのようにシオニストによって殺され、家を追われたのか、当時のアラブ志願兵らの姿も浮かび上がります。もっとも重要なこのナクバの記憶が少ないページしか割かれていないのは、すでに著者がインタビューを始めた時には、多くの当事者が亡くなられているためでしょうか。当時10歳前後だった人々の証言を読みながら時代をしみじみ感じてしまいました。私が70年代初めのシャティーラで聴けば、ナクバの記憶が家族中から怒りと哀しみと共に途切れることなく溢れ語られ、パレスチナ史はそのこと一色でした。のちのシャティーラの歴史となる右派キリスト教徒民兵による虐殺や、シリア軍やレバノンシーア派のパレスチナ人弾圧もありえなかった時代です。
 このシャティーラキャンプはパレスチナ祖国奪回をめざす民族主義者のパレスチナ人によって、闘いと訓練の砦として、当初場所が確保されたそうです。この始まりから、70年代のパレスチナ革命の「黄金時代」(カラメの闘いからミュンヘン闘争を経てアラファトの国連演説など)からさらに82年のサブラ・シャティーラ虐殺事件。この虐殺の実態を住人は語っています。あの虐殺直前にイスラエル軍に包囲されたシャティーラ住民は、代表団を平和の使者として白旗を掲げてイスラエル側との交渉に向かったのですが、そのまま行方不明となったそうです。そして、9月16日から18日の3日間の殺戮の目を覆うような残忍さ。
 しかし、イスラエル包囲下の虐殺の中でも、シャティーラの住民たちの中から約100人が虐殺者に抗して、ゲリラ戦で闘い続けたので、狭い露地の地形を知らない虐殺者たちは恐れ、キャンプの奥に入れず、18日撤退していったとのこと。撤退するまで、抵抗戦を闘ったという当事者の証言があります。私たちもサブラ・シャテーラ虐殺に対する国際民衆法廷をPLOと共に、83年日本で開催する準備をしたのですが、ゲリラ戦の抵抗は、当時十分知られていませんでした。
 また、93年の「オスロ合意」の過ちが難民キャンプを無気力にさせてしまったことも実感できます。シャティーラなどレバノンの難民キャンプの居住者は1948年のナクバの時の難民たちであり、オスロ合意によって、「帰還の権利」が棚上げされたばかりか最終地位交渉でもイスラエル政府は帰還権を拒否し続けてきたし、そうなることは当初から危惧されていたからです。
 第7章「内戦終結と平和の中の苦難」がそれですが、レバノン内戦終結と「オスロ合意」を経て、レバノンのパレスチナ難民が平和から除外されていく姿や、また、PLOやファタハからガザへの帰還メンバーに選ばれたり、役職を示されながら、愛する家族の居るシャティーラに残った人々の話に人間の尊厳の心の持ちようを教えられます。
 第8章、第9章は、私の知らない時代で、後半部分の記録には、衝撃を受けつつ読みました。
 第8章の「シリア内戦と海を渡る若者たち」では、シリア人と違って、パレスチナ人は欧州で難民として認められず、多額の旅費を掛けつつ、シャティーラに舞い戻った人や、逆に自ら欧州から戻ってきた若者たちの姿も描かれています。
 また、シリア難民の何家族もがレバノンで保障のない生活を強いられ、家賃の安いシャティーラに間借りしていることも知りました。200ドルの家賃と日々の食費を稼ぐために毎日大通りに出て、ティシュを売って、健気に母親を養うシリア難民の少女の話。そうか、シャティーラに身を寄せて暮らすシリア人まで居るのか……。
 さらに第9章「若者たちの絶望と模索」では、深刻な「パレスチナ人の今」が、人々のインタビューから浮かびます。「オスロ合意」で、「帰還権」は棚上げされ、80年代のシーア派民兵によるキャンプ攻撃が続き、当時学ぶ機会を奪われた子供たちの今。政治的NGOなどに参加し、親たちの希望を継承する若者が育つ一方で、薬物依存や売買がキャンプに広がっている実情に驚かされます。それが家族間抗争や世代間断絶にもつながっているとのことです。
 「ナクバから70年を経て、かつて『パレスチナ革命』を担ったシャティーラには殺伐とした光景が広がっている。今シャティーラが直面しているのは、従来のパレスチナ問題を超えて、難民第三世代、第四世代となる子どもや若者たちと家族として、人間として、どのように関わるかという、より根源的な課題である」と記す著者の9章の結びに衝撃を受けました。レバノンのパレスチナ難民の置かれた差別による貧しさ、正規の就職を禁じられた生活を強いられ、数々の弾圧の中希望のない未来を見た時、若い人々が闘いも努力も虚しくなることも判ります。この若者たちの現実を、闘ってきた大人たちは、どんな苦悩でそれを見つめているでしょう。故郷を追われ真っ当な生活を奪われた結果の現実の一面だからです。でも著者は第1章からずっと、特に「終わりに」の中で、このシャティーラの人間的絆の深さ暖かさ、互いに助け合い問題を解決する委員会や調停など人々の暮らしの自治・自決の姿を記しています。この自治・自決はまた、女性たちこそがその家族と社会を支える存在であること、そしてその根本には、あくまでもパレスチナへ帰るという代を継いだパレスチナへの帰還を、かつてより強く願い続けている老若男女の意志として記しています。今やパレスチナのディアスポラは世界中に存在し、パレスチナ人が被った政治的暴力、生活を破壊される貧困を生む経済的暴力含めて、この暴力やそれを告発し克服しようとする意志は、「パレスチナ人の70年の経験がパレスチナを超えて、世界へ、そして普遍へとつながっていることを示している」と。パレスチナのナクバから70年、0.1? に住む人々の記憶と記録が普遍的な告発、世界の人間の尊厳の闘いとして問い返されています。
 ナクバに始まるパレスチナ人の70余年は、あまりに悲惨です。どのように人間性を奪われてきたのか、数々を淡々と語りながら、直、人間性豊かな人々。この本が人々の個々の歴史の縦糸と時代時代のシャティーラでの事件とその解決の共同性――ある時は武装し、ある時には真摯に仲介し―― 一つ一つが具体的に描かれていて、目に見えるようです。
 この現実をもたらした歴史的犯罪は今も裁かれず、パレスチナ人を「邪魔者」のように扱う世界で、なお帰還を求めるシャティーラの住民たちの世界を変えようとする諦めない意志に共感し、世界を、日本を変えねば……と、改めて思います。
リッダ闘争の日に読み終えました。
(5月30日記)

【本の紹介】
「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」

岩波書店 2,860円(税込み)
(以下、紀伊国屋書店Webサイトより転載)
内容説明
故郷を追われてから70年。レバノンのキャンプに暮らすパレスチナ難民の証言を通して、苦難の歴史をつむぎ出す。0.1km2のキャンプの歴史から浮かび上がるパレスチナ問題の本質。
目次
第1章 ナクバ“大厄災”の記憶
第2章 難民キャンプの始まり
第3章 パレスチナ革命
第4章 消えた二つの難民キャンプ
第5章 サブラ・シャティーラの虐殺
第6章 キャンプ戦争と民衆
第7章 内戦終結と平和の中の苦難
第8章 シリア内戦と海を渡る若者たち
第9章 若者たちの絶望と模索
終わりに―パレスチナ人の記憶をつむぐ

著者等紹介
川上泰徳[カワカミヤスノリ]
ジャーナリスト。1956年長崎県生まれ。大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)アラビア語科卒。1981年朝日新聞社入社。学芸部を経て、特派員として中東アフリカ総局員(カイロ)、エルサレム、バグダッド、中東アフリカ総局長を務める。編集委員兼論説委員などを経て2015年退社。エジプト・アレクサンドリアに取材拠点を置き1年の半分を中東で過ごす。中東報道で、2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

【書評アーカイブス】
このブログでは、主に「オリーブの樹」に掲載された重信房子さんの「書評」(本の感想)を掲載しているが、今回は、以前、このブログに掲載した書評の中から、アクセス数の多かった記事を紹介する。

重信房子さんの獄中書評「夜の谷を行く」(桐野夏生著)
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2017-09-15.html
浅川マキの書評 ビリーホリデイ自伝「奇妙な果実」
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2014-10-31.html
【お知らせ その1】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

●糟谷孝幸君追悼50周年集会

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日時:2020年1月13日(祝) 午後1時半~
会場:PLP会館大会議室
   (大阪市北区天神橋3-9-27)
会費:入場無料
内容:「1969年とは何であったのか?」
    海老坂 武 氏(フランス文学者)
   「11.13裁判・付審判闘争の報告」他 
  
<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月20日(金)に更新予定です。

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