野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2020年01月

「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチェラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
現在、第一部に続き第二部を公開中であるが、第二部も文字量が多いので、8回程度に分けて公開する予定である。今回は、第二部第二章(2)と(3)である。

【1960年代と私  第2部 高揚する学生運動の中で】
第2章 国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連 (2019.9.13掲載)
2.三里塚闘争への参加 (今回掲載)
3.68年 高揚の中の現思研 (今回掲載)
4.御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ
5.三派全学連の分裂
6.ブントの国際反戦集会
7.全国全共闘の波
8.現思研の仲間 遠山美枝子さんのこと
9.現思研・社学同とML派の対立
10.69年 東大闘争
11.新しい経験と4・28闘争

第2章 国際連帯する学生運動
2.三里塚闘争への参加

「三里塚闘争」の発端は、1966年7月4日、佐藤内閣の閣議決定によって、「新東京国際空港の建設用地を成田にする」として、7月29日に空港公団が設立された事に始まります。その間に政府は、成田の当該地の農民、住民たちの意見を聴く事もありませんでした。もともとは、空港の候補地は、隣接する宮里地区だったのですが、猛烈な反対運動が起こり、自民党の基盤の強い千葉県の自民党の意向も受けて、広大な用地買収は無理として白紙に戻しました。次に狙われたのが、三里塚でした。三里塚には明治初期から三里塚御料牧場があり、天皇・皇室用の農産物を確保するために、広く国が管理している直轄地でした。そこに、戦後入植した農民たちが農業を営んでいたのですが、土地収用をやり易いと見たのか、三里塚に目を付けたのです。
その情報を得て、閣議決定の前に、6月28日農民たちは「三里塚・芝山連合空港反対同盟」を結成しました。この地域の農民は、戦争では大陸へと狩り出され後、開拓民として入植し、やっと農民としての生活を営んで来た人々が多かったのです。農具商で画家、クリスチャンの戸村一作さんが、みなに推されて反対同盟の委員長になりました。
農民の戦いは千葉県の社会党、共産党、労働組合も支持しましたが、67年には機動隊に守られながら空港公団は測量を始めました。10・8羽田闘争直後の10月10日の杭打ちに対して、農民たちのスクラムに機動隊は襲いかかり弾圧しました。(10月10日外郭測量阻止闘争―初の杭打ち)

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殴られ、蹴られ負傷者が続出する有様でした。こうした苦しい戦いの最中にいち早く駆けつけ、割って入った日本共産党系の民青(民主青年同盟)の全学連の学生たちが「挑発に乗るな!皆さん、警察の挑発に乗らないで下さい」と叫んだと言うのです。実力で父祖の地を奪われまいと戦う三里塚の農民たちにとって、日本共産党のカンパニアと選挙への投票の誘導は、強い不信を招くようになっていったようです。
こうした中で、67年三派系の全学連や千葉県の反戦青年委員会の共催による「11・3三里塚空港粉砕・ベトナム反戦青年総決起集会」が開かれました。この集会では、初めて反対同盟と三派系の全学連が共闘を確認しています。第二次羽田闘争前の、10・8羽田闘争以降の盛り上がりの中で集会は行われました。特に、中核派は千葉県の国鉄労働者や学生たちを動員して、三里塚闘争にいち早く、常駐体制を取り始めました。ブントは、千葉県に住む人はいたが、有力な大学や労働組合を持っていなかったせいで、出遅れていました。中央大学出身の反対同盟の行動隊長の島さんの常駐要請もあったのに、支援体制は準備が遅れていました。ブントは千葉県委員会を結成して、常駐体制を取るのは67年の11・3集会の後の年末か68年に入ってからではないかと思います。しかし、なぜか首都圏出身の人材を派遣せず、常駐体制のキャップは、後の連合赤軍事件を主導する千葉県委員会の大阪から来た森恒夫さんが担当しています。彼は、大衆運動に於いては誠実で、丁寧な率先垂範のカードルであっただろうと思います。
68年、エンタープライズ寄港反対の戦いが一段落し、王子野戦病院開設阻止闘争と三里塚闘争が、当面の反戦闘争の目標となりました。
ちょうど、3月4月、新入生を迎えようとする各大学は、闘争への呼びかけ、立て看板作成など休みなく忙しい季節です。3月10日、三里塚闘争の大集会を行う事になりました。社会党や労働組合も加わって、大きな集会になるようです。(3月10日空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会~反対同盟・全国反戦共催)既に、反対同盟の農民たちが、日本共産党方針を批判していたので、三里塚闘争の大衆的な運動は、社会党系が中心的に、大衆的な闘争の基盤を持って主催する形となっていきました。
この前頃から、三里塚に行って、実際に農民を助け農民の話を聴き学習するという意味で、社学同の学生たちが日程調整して「援農・泊まり込み」に、出かける事になりました。私たち現思研も、スケジュールを調整してそれに参加しました。私たちは、上原さん、クラケン、遠山さんら数人と一緒に一週間より短い週末の援農第一陣として出かけました。場所は、天神峰という所の堀越昭平さんのお宅でした。
受け入れ準備をして待っていたのは、千葉県委員会の森恒夫さんで、私たちに同行したのは、当時私たちを多分指導する位置にいた早稲田大学の村田さんです。堀越さんのお宅は、ちょうど母屋を新しく建てた所でした。新しい母屋で挨拶を交わした後、その裏に残されていた旧母屋が私たちの宿舎として、きちんと準備されていたのを知りました。
「学生さんたちがわざわざこんな所まで、応援に来て下さってありがたい事です」と堀越さんが、丁寧なお礼を言うので、私たちは大変恥かしい思いがしました。なぜなら、宿泊体制から三度の食事まで堀越さんの御家族が賄ってくれるというのです。夫人は、ニコニコと立ち働き、子供たちがもの珍しそうに私たちを遠まきに取り囲んでいます。「私たちに何かお手伝いさせて下さい」と言っても、「そうさな・・。まあゆっくりして下さい」と言われただけです。家の旧母屋に入ると村田さんが「お!ここは合宿にいいな。学習会なんかにも使えそうだな」と梁にぶら下がって言いました。もう夕方になって、食事を夫人と子供たちが運んでくれました。米飯はおいしいし、鶏をつぶして食卓に提供してくれたり、かえって、物入りの多い迷惑な「援農団」です。食事が終わった後、まず堀越さんがこれまでの三里塚と戦いの始まった歴史について話をしてくれました。この一帯は戦前は御料地だった事、戦後苦労して入植して来た人が多いこと、今になって農民の声を聞く事も無く、66年に空港用地として閣議決定された事。反対同盟の戦いに、日本共産党系の人々から、実力闘争を止めるよう説得された事も話していました。
翌日には、地域見学をする事になりました。翌朝、私たちは早く起きたつもりでしたが、すでに堀越家の人々は、一仕事を終え、朝食準備をして待っていてくれました。母親と一緒に小学生の娘が食事を運んでくれました。堀越家で収穫したおいしい米や卵、野菜など朝食もまた恐縮なばかりです。手伝うと言っても、何だか足手まといになりそうで、それでも遠山さんと2人「あの~、何かお手伝いさせて下さい。掃除でも何でもします」と言うと、「じゃあ、鶏小屋の卵でも取って来てもらおうか」と言われて、遠山さんと私は喜んで、小学生の娘と一緒に鶏舎に入って、カゴに卵を一つずつ入れて行きました。「いつもは、あたしが一人でやってるんだ」と小学生は、自分の仕事が取られてしまって、誇らしいのか、嬉しそうにやり方を教えてくれました。堀越家でも、まだ援農に来る学生たちに慣れていないためか、お客様扱いで気が引けます。実のところ、足手まといなのは明白です。それに、みんな仲間たちは「大飯食らい」です。村田さんは、リーダーどころが楽しんでいて、食後の一服の時に覗いている子供たちを、私と遠山さんで部屋に誘って話していると、「タバコを吸ってみるか?」などと勧めたりしています。午後は、長靴を履いて畑に行き、キャベツやネギの収穫に加わりました。「働くと飯が旨いなあ」などと、村田、上原さんらはもりもり食べます。夜は、社学同学習会の予定だったのですが、みな疲れてぐっすりと眠ってしまいました。
そんな風に、援農は楽しい合宿となりました。村田さんは早々と出発し、森さんはずっといましたが、ちょうど前に雪が降ったので残雪が積もっていて、みんなで子供たちも含めて雪合戦をしたりしました。誰かが森さんに「おっさん、恋人いないでしょ、遠山さんどう?!」なんて言ったので、森さんも遠山さんも真赤になって、雪礫をお互いに投げ合っていました。遠山さんはどうあれ、森さんはとても嬉しそうでした。連合赤軍事件があった後、私はこの時の雪合戦の事をふと思い出したものです。
こんな風に「足手まとい」に過ぎない私たちですが、「援農」は楽しい合宿になりました。それでも、みんなが誰も感じたのは、「援農」と言う実態とは程遠い学生が農民たちの寛容さに助けられて学習するためのものだとしみじみ思いました。それでも、農民たちと少しでも直接触れあった事で、私たちは三里塚闘争が身近なものとなりました。
68年3月10日の事だったと思います。この日は快晴でした。三里塚反対同盟支援の大集会が現地で開催される事になっていました。この日は成田市役所前で三里塚・芝山連合空港反対同盟と千葉県反戦青年員会の合同集会で、4,500人が参加し、更に5,000人の市民がとり囲むように加わった日と記録されているようです。
前日、ブント・社学同の先輩から「空港公団公舎に突入する戦いになる。ひいては、この大きなカッターを検問突破して、何とか現地まで持って行けないだろうか」と現思研に相談依頼が来ました。現地調達も試みるが、デモ隊や、学生は厳しく強制身体捜検を受けるので、公団公舎に大きなカッターを持ってたどり着けるか分からない。多分公団の周りには鉄条網の阻止線を張っているので、カッターで解除しながら、社学同が、公団一番乗りを目指すつもりだと言うのです。全学連の各派、中核派も解放派も、同じ様に空港公団突入を準備するはずとの事です。渡されたのは、植木挟みのようなカッターと大きなペンチのような鉄線を切る道具ニッパーです。それで「OK!やってみよう!」と言って遠山さんと私が一つづつ運ぶ事にしました。
私たちはデモ隊の仲間と離れて、普通の学生かOLのように装い、手荷物検査でチェックされると困るので、マキシーのコートの下に身体に着ける事にしました。ところが時間帯のせいか、デモの一団と判る人々を除くと、案外総武線列車は空いていて、みんな座っています。私たち2人は、カッターが脇の下に隠してあるために、座る事は出来ません。ドア口の所に立って、とりとめも無い話をしながら成田に向かいました。どの駅だったか思い出せませんが乗り換え、言われた通りのコースを通って更に歩き、空港公団建物の付近に出ました。記憶では、何だか小高い所に空港公団の建物があって、そこに続く道路は、装甲車で封鎖し、機動隊も配備されているのが見えました。そこに行く道に学生たちや労働者、農民のデモ隊が向かいます。デモ隊は、とり囲まれてはサンドイッチにされ、身体検査をされたりしていましたが、私たちは一般の市民のように検査も無く通行しました。会場は成田市役所前の広場で、集会は7000人以上の1万人近い人々が集まり、3500人以上がその内の全学連の人々です。
空港公団公舎の建物から離れた所で集会が終わると、各党派が赤、白、青などの党派を示すヘルメット部隊を先頭に角材を持って、建物の方へと接近しました。私も記憶が定かで無いのですが、千葉県の反戦の人にカッターとニッパーをすばやく渡しました。
当時はまだ、警備側も、現在のような封じ込め規制では無く、公団に対する集会実行委員会の抗議文を受け渡すまで阻止する事は出来ません。警備よりデモ隊の人数が多いからです。集会参加者のほとんどの人群れが空港公団に向かってデモ行進を続けます。
全学連部隊は、自然に先頭になって、各党派や自治会の旗をなびかせながら、高台に向かう道一杯に進み、公団の門に向かいました。赤ヘルメットの社学同のとなりに白ヘルメットの中核派、解放派の青ヘルメットと、横に数列ずつ並んで一斉に公団への道を駆け登りました。後から見ると、色取りどりのヘルメットのおかげで、帯のように蛇のように列が動いていて荘厳な眺めです。正門にたどり着くとブントの先頭部隊が、カッターを使い鉄条網をカットしてどんどん鉄門へと接近しました。その時には、公団外側のそこに機動隊は配備されておらず、正門を巡って各党派が争うように門を壊そうとしていました。機動隊は、門の内側にも公団側にも陣取っていて、デモ隊が突破したら、不法侵入で逮捕する構えで控えているのでしょう。ブントは、カッターの威力で一番早く門前に到着したのに、なかなか門は突破出来ません。
私はデモの後の方から、坂道なので良く見えたのですが、赤ヘルメットも白ヘルメットも、鉄柵を皆で押しまくったり揺するのですが、ビクともしません。「あの門は、外に開くのかも知れない。引っ張る方が開くじゃない」と誰かが言い出したのが聞こえました。居合わせた遠山さん、白井さんと私は、何か門の扉を引っ張るロープのような物は無いだろうかと近所に捜しに行く事にしました。少し行くと銀行がありました。銀行の駐車場は、通りからの無断入車を阻止するように、金属のチェーンの可動式の柵が置かれていました。「あっ、これいいね!」と、私たちは、このチェーンが可動式なのでそこからチェーンだけを取り外して失敬し、それを急いで持ち返りました。また、私たちも、ちっとも「悪事」と考えずに周りも見ることも無く、急いでこのチェーンを社学同部隊の列に渡しました。

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まるで各党派の障害物競争のようだ、と笑っている人もいました。「よし!これがあれば一番乗りまちがいない!」と言いながら、ブントの赤ヘルメット部隊が鉄柵にチェーンを巻きつけて、ゆっさゆっさと引っ張りました。手応えありです。「よし!もう少しだぞ!」、皆で力を合わせて引っ張るうちに、少しだけ両扉の片方が開きました。「やった!」社学同の赤ヘルメットが大喜びした隙に、あっと言う間に中核派の白ヘルメットの男が、旗と共にその隙間に滑り込みました。そして内側に入るとすぐ中核派の旗を高々と振り回したのは、口惜しいけれど感心してしまいました。「やっぱりブントのいいかげんさとは違うね!」などと、私たちは笑ってしまいました。もちろん二番手になりましたが、共産主義者同盟・社学同旗も跳び込んで高々と掲げていました。

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こんな風に、傍から見物している人々にとっては、笑えるような大攻防戦が繰り返されました。機動隊の催涙弾攻撃に抗し、投石・ゲリラ戦も続きます。そして畑のくねった道を今度は、救護班の青医連の友人たちとデモ行進しつつ、私たちは集会場へと戻って行きました。あれは成田の駅近くだったでしょう。一緒に参加した現思研の仲間の何人か、去年入学してまだ未成年のTさんもいません。逮捕されたのを見たか?みんなであちこち確認しあいました。解散集会の頃には皆疲れと逮捕された友人たちの救援について話し合っていました。帰路は、国鉄では無く京成電鉄になりました。京成電鉄に乗ったのは、それがきっと解散地点から近かったためなのか、今は思い出せません。
この時の事だったと思います。この日のために、確か関西でもブントは数日前に「70年安保粉砕・王子野戦・三里塚空港阻止」の関西の政治集会をやっていて、東京へと闘争参加していたのだと思います。帰路京成成田から上野駅に着くと、そこで山手線の国電(今、民営化されJR)に乗り換えになり、私鉄と国鉄の違いで、乗り継ぎ改札が在ります。そこで切符を見せて山手線のホームに降りる事になります。10・8羽田闘争以降、スクラムを組んで強硬突破して無賃乗車する学生も多かったのですが、現思研では「戦いでパクられるのは、仕方が無いけれど破廉恥罪を起こしては、人々の信頼を失うから気をつけよう」と、常々決めていたので、現地闘争には、ちゃんと切符を買って行動していました。
この日、三里塚での大奮闘を終えて、学生たちが無賃乗車で来るのではないかと、京成線も国鉄も共同して、手ぐすねを引いて待っていたようです。乗り換え改札の向こう側には鉄道公安官がずらりと並んでいます。学生の一部が強硬突破しようとして、抱え込まれたり、揉めている所に、私たちはちょうどぶつかりました。関西の社学同の学生たちのようです。小柄な学生が大柄な男たちに「切符を見せろ」と抱え込まれ暴れています。「何だ、何だ」と彼を助けようと皆で囲み込むようにしました。私は、改札を通った自分の切符を小柄な学生の振り回した手の中に握らせました。彼はハッと私の方を見てニヤリと笑って「離せよ!何だ!切符を見せればいいんだろう!持ってる!」と大声を上げながら振りほどき、「ほら!文句あるのか?!」と開き直っているのが見えました。私は、急いでホームへと降りて行きました。私の切符だと知られないようにと、遠山さんたちとホームで固まっていました。上手くいったらしく、ホームに彼も降りて来ました。ホームで電車に乗る時に隣に来て、「ありがとう」と、こっそり切符を返してくれました。
御茶ノ水駅に着くと、また何十人かが「わっせい、わっせい」と改札を無視して通過しました。その後、明治大学の学生会館5階ホールで、三里塚闘争の総括集会が開かれました。彼が、改めてお礼に来たので、その時同志社大学の望月上史さんを知りました。この時、私が「破廉恥罪はやめて下さい。社学同の信用を落とします」と言うと、「いや。金が無いんだ。闘争優先という事で許してくれよ」などと言います。「私に謝られても困るわ」と言い返しましたが、そんな縁で、望月さんとは顔見知りになりました。
そして、ブントが後に赤軍派と分裂するきっかけとなった69年7月6日の朝、東京駅から電話して来た望月さんと話をしました。この時は正規の切符で、彼は赤軍フラクの呼びかけに応じて上京して来たのです。それが彼と話した最後となりました。彼は、赤軍派分裂のブントの最初の犠牲者として、69年9月死亡してしまいました。その事は後に、「7・6事件」についての所で述べたいと思います。(注:「7・6事件」は第三部)
この日の三里塚の戦いでは、私たちの傍に居たTBSの車が、学生の角材を運んだと疑われ大キャンペーンが張られました。政府警察情報が、スキャンダルを作り上げたのです。実際には三里塚の農民の婦人たちをプラカードと一緒に乗せてあげたに過ぎなかったのです。当時、もっとも公正な報道は、TBSの「ニュースコープ」と言う番組でしたが、それらのスタッフら進歩的な人々が処分されました。それに抗議して、TBSの「ニュースコープ」キャスターだった田 英夫さんは抗議辞職しました。田さんのベトナム戦争批判の報道を政府は、常々クレームを付けていました。(のちに田さんは、乞われて社会党の議員になっています。)

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また、私は後に、戸村一作反対同盟委員長と会う機会がありました。私は1971年以来、アラブを中心に活動していた時です。78年にパレスチナ連帯国際美術展が、ベイルートで開催されました。78年3月21日から4月初めまで、世界30ヵ国から250点の美術作品が展示されました。そしてアジア・ラテンアメリカ・欧州などから美術、芸術家が招待され、連帯し様々に語り合いました。この国際美術展は、パレスチナ解放機構(PLO)のアートセクションの人々が中心になって世界の人々に呼びかけ実現したものでした。私たちも協力し支える団体の一つでした。日本からは、針生一郎さんとPLO東京事務所長のアブドルハミドさんが中心になってこの企画に連携し、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家協会(AALA)の人々の作品の展示に尽力しました。そして、その制作者たちが訪問団としてベイルートに訪れました。加えてPFLPや私たちの推薦で、画家であり農民を描いて来た戸村一作さんの作品が展示され、また彼も招待されたのです。成田空港の開港が3月30日に迫っていた頃の事です。
この展示会前の77年に「サダトの裏切り」とアラブ中を激震させたサダト・エジプト大統領によるイスラエル訪問とイスラエル承認の動きが始まっていました。これまで、イスラエルが占領地を返還しない限り、和平を結ぶ事は出来ないとアラブ諸国は一つになって、「包括的和平」を求めていました。これまで各国が個別に単独にイスラエルと交渉する事はありませんでした。アラブ諸国政府と人民は、PLOと共に、サダトとイスラエルの動きに対して衝撃を受けつつ政治的物理的に抗議を拡大している時でした。物理的とは、アラブ諸国にあるエジプト大使館を各国民衆が占拠したり焼き打ちし、同時に対イスラエルゲリラ戦の強化拡大でした。政治的には、反エジプト路線を強化していた時です。この米国を仲介とするイスラエル・エジプト合意は、78年9月には「キャンプデーピッド合意」として、初めてアラブの一国家がイスラエルを承認し、平和条約を目指す道につながって行きます。
イスラエルはエジプトを抑え込むその一方で、48年、67年戦争以来、初めてレバノン南部への侵略を開始し、3月上旬、戸村さん一行が到着する前から激しい攻防になっていました。レバノン南部戦場は、侵略者イスラエル軍に対するゲリラ戦が激化していました。イスラエルの偵察飛行は、レバノン全土に及び、ベイルートのPLOの施設を狙って空爆が続いていました。そしてまた、レバノンは、75年から以降15年にわたる内戦下にありました。レバノン経済、政治の既得権を持つキリスト教マロン派内のイスラエルと連携する右派と、政治改革を求め、PLOと連帯するレバノン民族主義勢力・イスラーム勢力との間の内戦です。
アラブ大学を会場とする国際美術展は、内戦下の左派民族主義的勢力やPLOが守る西ベイルートの解放区で行われる予定でした。そんなところに、3月になってイスラエルの侵略に抗する戦争が始まったのです。
戸村さんは、PLO治安部隊の護衛に案内されて、美術展での講演ばかりか、南部前線視察やキャンプなど、あちこちを精力的に見て語り交流していました。戸村さんはお会いした時は「こんな解放感はない!」と、とても感激しておられました。「三里塚と反対だ!」とレバノン内戦下のベイルートに大きな驚きだとして「検問しているのが、みな味方なんだ。三里塚の検問が味方だったら、どんなにいいだろう」と語りながら、解放区というのが、どんなに素晴らしいものか、どんなに戦いが文芸・文化を創造するかを目の当たりにすると興奮気味に語っていました。
戸村さんは「美術展の会場である、アラブ大学の入口にはアブストラクトのオブジェが飾られていると思ったら、これは数日前に撃ち落としたイスラエルのファントム機の残骸の一部だと判ったのは、凄かった!」などと話していました。更にベイルートにパレスチナ連帯で招待されて来た占領下パレスチナやアラブ、アフリカ各地の人々が、三里塚の日本の戦いを知っているのにも驚いていました。彼らが、パレスチナ労働総同盟中心に「三里塚連帯集会」をベイルートでPLOと共に開いてくれた時には、涙を浮かべていました。ちょうど三里塚は、開港阻止闘争が大詰めを迎えていました。それを知っているので、三里塚反対同盟委員長である「画家戸村一作」に対して、解放組織の人たちが次々と連帯の挨拶に訪れたのです。
戸村さんは、画家であると同時に、戦いの闘志を燃やしていて、ベイルートから南15キロメートルくらいのダムール地区が襲撃された直後に望んでレバノン住民らやパレスチナ難民と語り合いに出かけました。彼は、私たちにこんな提案をしました。
「何とか、三里塚の団結小屋をこのレバノン南部に一つ作りたい。作れないだろうか?一緒に協力して欲しい。三里塚の青年たちが世界の現実を、侵略も、解放区も学べるこのパレスチナ戦場で共に戦いたい」戸村さんは、そう主張していました。三里塚は、私たち学生を教育し、成長を促す現場でした。アラブに来ていた何人もの私たちの仲間が、一度は三里塚闘争に参加していました。そんな人々が三里塚の団結小屋をレバノン南部に作る事に反対する人はいません。
ちょうど開港間際の戦いで、自分が破防法で引っ張られるような事があったら、奪還闘争してもらって、こっちの団結小屋の主になって、三里塚の青年たちの希望を大きく育てたい!そんな冗談とも言える構想を語りました。私たちは国内で、パレスチナ連帯に関わる人たちが激しい弾圧に晒されるのを知っていたので、「赤軍弾圧」を口実として、三里塚への更なる過酷な弾圧の口実に晒されるのを警戒していました。
だから、私たち抜きに、PLOやパレスチナ勢力と三里塚の直接の連帯を育てたいと戸村さんに伝えました。戸村さんは、三里塚は日本赤軍の言動より、十分過激で、自分があなたたちと会ったと、日本の帰国会見でぶち上げても、何の差し支えも無いと主張していましたが、私たちはそうしないよう望みました。
戸村さんの無事帰国後、1978年3月26日、三里塚では学生たちの逮捕覚悟の開港阻止実力闘争―管制塔制圧の戦いが成功しました。一旦開港は、阻止され、政府は開港日を5月に変更させざるを得ませんでした。このベイルート美術展でのPLOと反対同盟の出会いは、戸村さんが1979年11月2日に亡くなるまで、またそれ以降もパレスチナの人々と三里塚の連帯を育てました。私たちも、また戸村さんとの出会いによって、三里塚の戦いに対する連帯を以降、いつもアラブで心にとめていたものです。

3.68年 高揚の中の現思研
67年~68年、ベトナム反戦を求める戦いが、米政府を追い詰め、米国内でも学生、市民の反戦運動が広がっていました。また、欧州でも反戦闘争と労働運動、学生運動が結び付き、革命を求める新左翼潮流の活動が汎欧州レベルに広がって行きました。この頃のこうした海外の動きは、日本の新聞国際面でも、大きなニュースとなって、私たちの興味を引いたのです。
世界の変革の流れは、毛沢東の言葉を借りれば「国家は独立を求め、民族は解放を求め、人民は革命を求める」60年代を体現し、ことに資本主義国に於いては、その戦いの質の同時性を表現していました。これまでのソ連型の共産主義・社会主義にとって代わる戦いが、各地で討論となり各国共産党批判となっていました。資本主義にとって代わる社会主義計画経済は、資本主義を揚棄する道に進んでいるのか?否。プロレタリアートの独裁とは、プロレタリアートが例外なく社会成員を解放する能力を持つ事、つまり人間解放が故ではなかったのか?それが党独裁の官僚機構へと変質しているのではないか?ソ連中心の国際共産主義運動は、「平和共存」の名で各国の階級関係の現状固定を望み、人民の戦いに連帯する国際主義を失っているのではないか?当時の欧・米の新左翼運動や人種差別に反対する運動等などは、ラディカルな変革を求めていました。ブントの私たちがチェコへのソ連の介入に、ソ連大使館へ抗議行動に出かるのも、68年夏です。5月にパリで学生運動と労働運動の結び付いた「五月革命」と呼ばれる戦いが始まろうしていました。

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私たち現思研は、神田御茶ノ水の大学同士の助け合いの「戦いの季節」の中にいました。私自身は、大学の執行部などの役職は退いて、卒業論文に集中するつもりでしたが、闘争が続き中途半端でした。卒業論文も、本当は深く父の経験を捉え総括する意味で、「日本ファシズムの形成過程とその思想的背景」をテーマとして研究を始めていました。
みすず書房の分厚い資料を、父と読み討論したりし始めました。父は、井上日召の「梅の実」や、中学時代から親友だったと言う池袋正釟郎さんや、友人の四元義隆さんの文を感慨深く読み直していました。四元さんの供述書に一部、父のことが述べられています。私は、当時の人物に焦点を当てながら、父の友人らと時代を捉えるつもりでした。それが当初の目論見と違って、結局68年の高揚の中で、卒業論文に十分関わらず一般論に終わるような内容となってしまうのですが・・・。
68年、現思研は新しい仲間も増え、活況でした。現思研のTさんは、3月の三里塚闘争で初めて逮捕された68年について、こんな風に語っています。「僕は初めて逮捕され未成年ということで、最初、千葉少年鑑別所に入所させられましたが、途中で僕だけ練馬少年鑑別所に送られた。23日の拘留を終えて娑婆に出てきた時は、68年4月になっていた。釈放され喜び勇んで現思研に戻ると、知らない新しい顔がいっぱいいた。田中、J、K、H、S、I等々。田中とは年令も一緒、同じ九州熊本出身と知ってすぐ仲良くなった」と。学習の場は毎日の街頭デモや学内闘争、立て看板やビラの作成などです。夜の泊まり込み作業も楽しいものでした。お金は無かったですが、常に仲間と共同し、お互いにアルバイトを融通し合い、助け合いました。悩みや問題があれば、家族のように率直に話し合いました。仲間がデモで逮捕されたら、他の仲間が支え、家族にも心配させないように措置を取りました。
現思研仲間は、コンミューンというか家族共同体のようにお互いの考え方と人格で団結した仲間です。後に私が、アラブで活動を始めた当初、ブントや赤軍派の理論、いわば借り物の論理でアラブ・パレスチナの解放組織と交流しました。しかし、それが通用せず、ポケットから出すべき、そういう借り物が無くなった時、私は自前の戦い方として「現思研方式」で戦っている自分を発見しました。仲間を第一にして、敵に対峙し、実践の総括の中から政治を掴み、それを理論へと一般化させるやり方です。でも現思研は「政治組織」として、きちんとしたものを持っていない、「何でも自発性」のサークル主義的な欠陥がありました。
考え方が近いとか気の合う者がお互いに魅かれて集まり、共に戦ったのですが、「ルーズ」でした。でも倫理的規律は、自発的に皆持っていたし、ボランタリー・アソシエーションであり、形態もない家族のような組織でした。今から捉えると「組織」としての規則、例えば会則も無かったし、会費もありませんでした。それが私の欠陥でもあったと、アラブに行ってから自覚しました。組織し合う人間の人格、思想のみならず、「組織」として形態を作る重要性を学びました。その時「ああ、自分が現思研でそうした民主的な組織機構形態を作っていけてたら、後に赤軍派にバラバラに加わり分かれて行くことは決してなかったし、そうしなかっただろう・・・」と深く反省したものです。
現思研当時は、何か新しい事を始めるとか、社学同からの要請があれば、会議で決定する機関が無くても、個々が自分の判断で参加していました。私たち先輩の決断が、下級生たちにどんな影響を与えていたかも、当時は無自覚でした。当然のように皆行動は、共にする事になったのですが、それは後に、赤軍派へと向かった私自身の反省があります。自分がどう生き闘うかが関心の中心でした。その上で当時は、一緒に戦う楽しい仲間たちがいて、その下級生たちを助ける事が、私の一つの生甲斐だったのだと思います。アルバイトで稼ぎ、食べれない仲間がいたら助けるのは嬉しかったし、要請があれば、社学同にカンパをしたり、「活動にはお金が必要」と、一番気にかけつつ活動していました。それでも、こうした現思研の在り方は、ベ平連的な「運動体」ではあっても、「組織」とは言い難い欠陥があったと思います。
一人一人のメンバーの5年、10年先の人生を、どう生きて行くのか、どう社会的基盤を作るのか、事業を起こし兵站力を強化しようというような考えも欠けていました。戦う一致はあり、みんな自分の人生を考えつつ共に戦い、いわゆる「組織的保障」は無く、また誰もそんな無いものねだりもしませんでした。「心情的結束」「自発的団結」の強さという、精神的なエネルギーの仲間たちでした。後にそれが赤軍派の「7・6事件」後、様々な理由で崩れ、バラバラになってしまう時代へと転じていったのですが、以降は、その負債や責任を個々が背負いながら、苦労しつつ各々自立して生活の場を作っていったのだと思います。
私は海外を活動の場として、30年も経って日本に戻り逮捕されました。
昔の現思研の仲間は、穏やかな市井の人として生きていたのですが「窮鳥ふところに入る」の思いで助けないわけにはいかないと、また現思研以外の当時の大学時代の友人たちも含めて私の公判、獄中の生活に対して財政的、精神的に支援してくれました。旧友はありがたいとしみじみ思います。
現思研の67年・68年の活動はいわば全盛時代で、学生運動の盛んな時代と重なっています。私が、まだ卒業論文作業に意欲的な頃に、パリの五月革命の戦いがニュースになりました。「すごい!労働者と学生が一体になって蜂起している!」と新聞、テレビのニュースから学生会館の仲間たちは湧きたっています。「パリのカルチェラタンの機動隊との攻防は凄いな。あれは学生街だゾ!御茶ノ水街・神田街でも戦えるじゃないか?!」と大いに話題になりました。米国でも欧州でも、私たちと同世代の学生たちが戦いに立ち上がり、米国では、黒人の代表的な組織ブラック・パンサーは武装闘争もやっているというのです。5月10日のパリの革命的状況は、ベトナム反戦の戦い途上にある世界の人々に、希望のように正義実現の烽火のように見えました。  
日本にも1月には、米国の歌手、ジョーン・バエズが来日公演し、米政府を批判し、ベトナム人民連帯を訴えていました。ベ平連は、フォークソングを歌いながらデモ行進したり、新宿西口広場でも、フォーク集会を開き、ヒッピー風の若者たちは、新宿駅中央の芝生に寝っころがったり、徹夜で人生を語り、ジャズ、芸術、演劇を論じ合っています。状況劇場は、花園神社で公演し、更に明治大学や京都大学など、各大学でも公演したりして、自由を生きる文化が広がって行きました。学生運動が、そういう文化に影響を与え、逆にそうした文化が、学生運動や大学にラディカルな自由の戦いの創造性を育てていました。私も、一度明治大学の演劇部のヒッピー仲間に誘われて好奇心で経験してみたいと、新宿駅前の芝生に一日夜寝ころんで哲学やサルトル、ボーボワールを語り合う輪の中に入ってみた事があります。でもそうした開放感より、戦いの解放感の方がずっと素晴らしいと一回で止めました。
日本にも、パリの五月革命と呼応する、若者たちの文化や土壌が当時はありました。しかし、警察は「風紀悪化」などを口実に、若者たちの芝生立ち入りを禁止し、また土曜日、西口地下広場で定例化していたフォーク集会も禁止しました。また、この頃はイデオロギー論争が盛んで、特に原理研=統一教会とは全国各地の大学で論争がありました。明治大学内では原理研は基盤も拠点もないので、御茶の水駅前に黒板を携え、ML主義批判や「統一理論」の演説を行っていました。見かけると、現思研や社学同昼間部やML派など駅前に駆けつけ論破し、相手は糾弾に何時間でも沈黙したりしていましたが、そのうち諦めたのか来なくなりました。
米国では、マルチン・ルーサー・キング牧師が68年4月4日に暗殺され、以降米全土で暗殺に抗議したブラックパンサーの反乱は広がって行きました。当時米国では、一週間の間に各地の反乱で死者38人、負傷者3550人、逮捕者15250人を出した時代です。黒人に対する差別、ベトナム反戦運動で米国は、更にマヒ状況となっていました。
米国の運動から、日本にも4・26国際反戦統一行動が呼びかけられました。それに呼応するばかりか、27日、28日と反戦沖縄闘争へと連続する戦いが、全学連の中で提起されています。米国からもこの4・26統一行動に向けて、日本の学生、市民宛てにメッセージも届きました。全米黒人反戦反徴兵連盟(NBWADU)、全米非暴力調整委員会(SNCC)などが「キング牧師の死を乗り越えて進もう」「4・26国際統一行動には、全米百万のデモ、16の都市でストライキを行う」と宣言しました。
10・8羽田闘争からエンタープライズ寄港阻止闘争、成田三里塚闘争、王子野戦病院反対闘争と、高揚していた学生運動は、「70年安保粉砕の大衆的出発点として、4・26を戦う」として、学校でのストライキと街頭行動を全学連が呼びかけました。各大学が、全学連の呼びかけに応え、明治大学社学同の和泉校舎、駿河台校舎や医科歯科大学などで「政治ストライキ」を行う事になりました。

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この統一行動のデモでは、ブントは「国際主義」を掲げて防衛庁に向けて大量動員を呼びかけました。明治大学だけで400人の隊列を組みました。続いて4・.27と4・28闘争では、新入生を迎え明治大学、中央大学で1000人近くの動員を持って、首都圏での戦いを主導しました。しかし、警察側は、明治大学、中央大学のデモ対策として、御茶ノ水駅を中心に機動隊第二機、第四機の先鋭を配置し、十数台のトラック、装甲車でデモ参加者の隊列を挟み、身体捜検を強制したり、進行を阻んだのです。それで皆は三々五々隊列を組まずに銀座方面へとゲリラ的に向かいました。私たち現思研も赤旗を持って、御茶ノ水駅と反対に地下鉄のある九段方向に歩き出したのですが、振り返ると後ろに知らない学生たちが、私たち20人たらずの後ろに数十人も続いていたのでびっくりしました。戦いたい、どこの旗の下でも良いからと、戦いたい人は参加します。
べ平連によって、市民参加の裾野が広がったおかげで、人々が多く参加したのが68年です。もちろん、日本社会全体から捉えた時には、権力支配機構はびくともしておらず、また学生運動に於いて、多数の参加を得たとしても、当時の社会構成からいえば大学生層はプチブル上・中層的な少数でしかありません。それでも、社会的影響力が大きかったのは、政府野党と全学連が共闘し(党派が全学連の枠内で調整し)、また国際的に反戦闘争があなどれない潮流であったからです。全学連は、しかし全体から見ると街頭戦の高揚、各大学での全共闘運動の登場の中で、よりラディカルな戦術を持って指導しようする戦術左派の位置以上では無かったと言えます。当時は、全体の「部分」であった自分たちの位置を直視しきれていませんでした。
この時期67年10・8以降は、また党派的競合とは別個の戦いも成熟していきます。一方に党派の戦い方、もう一方にベ平連的な戦い方の中から、より現実的な大学の直面する問題に立ち向かう潮流として全共闘運動が全国的に広がりつつありました。この全共闘運動は、65年の慶應や早稲田、明治などの学費闘争や大学自治を求める全共闘方式の闘いを継承し日大、東大など全国へと広がっていきます。
(つづく)

【三里塚関係アーカイブス】
今回の「1960年代と私」の中では三里塚闘争のことが書かれているので、過去のブログの中から三里塚闘争関係のブログを紹介します。
1971年 三里塚「幻野祭」その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2008-08-08.html
1971年 三里塚「幻野祭」その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2008-08-15.html

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」発売中!

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「続・全共闘白書」が、昨年12月25日に刊行されました。
A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(予約注文の方には割引があります。チラシをご覧ください。)

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(チラシ)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【お知らせ その2】
「高校闘争から半世紀」~私たちは何を残したのか、未来への継承~

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日時:2月11日(祝)13:00~17:00
会場:連合会館 2階大会議室
(千代田区神田駿河台3-2-11 東京メトロ「新御茶ノ水」駅 B3出口すぐ
JR中央線「御茶ノ水」駅 聖橋口徒歩5分
【プログラム概要】
Ⅰ部 1968 年は我々に何をもたらしたか ―自己否定を巡って― 山本義隆(東大全共闘)+高校全共闘(都立青山高校・麻布学園高校・教育大付属駒場高校・県立仙台一 高・慶應高校・灘高校・都立日比谷高校・県立掛川西高校・都立竹早高校など)が登壇予定 司会:高橋順一(武蔵高校・早稲田大学教育学部教授)
Ⅱ部 運動の現場から ―香港の学生・日本の高校生の闘い―
香港の闘う学生+日本の闘う高校生+高校全共闘+全中共闘などが登壇予定 司会:初沢亜利(ドキュメンタリー写真家、東北・沖縄・北朝鮮・香港などの現場撮影取材)
Ⅲ部 ぼくたちの失敗 ―僕たちは何を失い何を獲得したのか―
高校全共闘(都立上野高校・都立九段高校・新潟明訓高校・県立旭丘高校・県立千葉高校・都立北高校・ 府立市岡高校・都立立川高校など)+全中共闘(麹町中学・日本女子大付属中学など)が登壇予定 司会:小林哲夫(高校紛争1969‐1970「闘争」の歴史と証言 著者)

【お知らせ その3】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」
1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985

●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その4】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月7日(金)に更新予定です。

今年は2020年。このブログも13年目に入った。いつまで続けられるか分からないが、掲載するネタ(記事)があるうちは続けていきたいと思う。
さて、今年最初のブログは、昨年10月の明大土曜会沖縄ネットワー沖縄・辺野古現地闘争の報告である。沖縄ネットワークのメンバーの一人として現地闘争に参加したM・H氏から寄稿されたものである。
【土曜会沖縄ネットワーク 10月末・辺野古現地闘争に参加する】

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■土曜会沖縄ネットワークの行動■
今年4月に続き2回目の現地連帯行動を展開した。今回の参加は芝工大・明大土曜会を初めとして18名の参加となった。<2回目にしてなんだが新しい顔ぶれも参加した> 沖縄に連帯する関東の会で活動する日大のKさん、30才の法大OBのS君、金沢からはHさんとアメリカウッドストック世代のケビン氏、参加各グループは現地3日から7日間の滞在であった。初めての沖縄行の人もあり、滞在の後半は各々が沖縄戦南部戦跡、史跡見学やうるま市で市民団体との意見交換などを行った。
■2019年12月明大土曜会 報告要旨■
・沖縄現地の人たちとの交流対話は進む
・辺野古持久戦、辺野古の現場はオール沖縄の市町村毎「島ぐるみ会議」ネットワークが守る
・辺野古抗議船に乗ってカヌー隊にエールを送る、海から見えてくるものとは
・普天間―辺野古の流れを知るための略年表

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■現行の辺野古新基地建設が構想されたのは■
『1966年、ベトナム戦争の真っ最中に米国の海兵隊と海軍はキャンプシュワブに接する辺野古の海を埋め立てて、V字滑走路とヘリパッドを持つ飛行場と大浦湾側に巨大な軍港建設を構想した。
戦争による米国の財政悪化は新基地の建設を許容するものではなく長らくお蔵入りしていたものだ。1996年、県内移設の条件付きで普天間基地返還が発表されて以来6年。
結局は日本政府が考えていたとおりの、基本的には、アメリカに占領されていた時代の辺野古埋立―巨大な新基地を日本政府が財政負担して建設する計画に落ち着いた。沖縄返還から30年という節目でもあった』 (七つ森書館 由井晶子『沖縄 アリは像に挑む』より 以上要約)
辺野古新基地はベトナム戦争激化という情勢の中米軍の手によって構想されたが、戦争の終結―米国経済の悪化によって30数年お蔵入りしていたものだった。

■沖縄現地の人たちとの交流促進■
土曜会沖縄ネットワークの目的は、年2回ほど(4月と11月)足並みをそろえて辺野古新基地建設反対の現場に立つこと。我々の身近な人と人の関係から沖縄連帯の輪を広めること。かつまた長く豊かな在沖経験を持つ現地全共闘世代との交流対話を進めることであろう。
首里城の復元や辺野古の家の運営に携わった在沖10年の芝工大OBのNさん、
いつも「辺野古報告」を送ってくれている県中南部八重瀬町島ぐるみ会議事務局長の沖本さん、沖縄平和市民連絡会で辺野古バスの運営担当の大村さん、オール沖縄会議辺野古現闘団のHさん、首里城の石工8代目のやや末裔という元沖縄タイムス論説委員長のNさん、沖縄返還の年1972年沖縄大学自治会委員長だったCさんたちと語り合いの時間を持った。

■辺野古に集う人びとは抗う■
新基地建設の埋立土砂や建設資材を運ぶダンプは平日の毎日3回に分けて(午前10時、午後1時、3時)、シュワブ前と安和桟橋にやってくる(本部港塩川は不定期)。月毎のダンプの総数は約2万5千台となる。
 押し寄せるダンプの波と機動隊の規制を前に、辺野古に集うアリたちの合言葉は<ダンプ一台でも一分でも遅らせる>こと。

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 シュワブ前      安和桟橋前      本部港塩川
【シュワブ前にて】
毎朝8時から抗議行動が行われている。「機動隊は座り込みの邪魔をするな」「機動隊は市民を守る任務につけ」「ワッショイ」のマイクの声が聞こえてくる。
搬入ダンプは午前9時、午後1時、午後3時にまとまってやって来て数珠つなぎになる。
「現場の力で搬入を阻止しよう」「ワッショイ」「ワッショイ」。

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ここで加藤登紀子「美しき五月のパリ」バージョンのメロディーにのせて{辺野古の海を返せ}の歌が、72年の沖縄返還闘争いらい歌い継がれている{沖縄を返せ}が、替え歌で鬼太郎の替え歌{ゲゲゲのゲート}、リンダの{こまちゃうな機動隊}が歌われていく。
機動隊の排除開始の号令でごぼう抜きが次々と始まる。
ダンプ搬入のちょっとした合間を見て、また隊列が組まれ座り込みが再開される。だから一日5回から6回は強制排除されるのである。
辺野古は、権力という大きな力が小さな力をねじ伏せ押し殺し戦争に傾いていくその歪んだ現場ではないだろうか。シュワブ前のテント村は人間の居場所である。
【安和桟橋前にて】
①国道に数珠つなぎになって右折して入ってくるダンプを遅らせるため横断歩道をゆっくりと青信号から赤に変わる直前までの「牛歩」戦術、②桟橋入り口前国道でのスタンディング、信号を右折したダンプは琉球セメントの敷地に入ってくる、その前で何回も何回もダンプの周りを回る「ぐるぐるデモ」戦術、③桟橋前の国道をゆっくりと走る「エコドライブ」戦術、④土砂積み出し船のまわりにまとわりつくカヌー隊。出港時はカヌー隊がぎりぎり船まで近づいて海保との「いたちごっこ」戦術として展開されている。 

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【本部港塩川地区にて】
本部港は伊江島に渡る沖縄本島の北端部にある。塩川ふ頭は100メートル級の貨物船が接岸できるほどの広さだ。塩川での阻止は、本部町島ぐるみ会議が担っている。塩川から積み出し船出港予定の一報がはいると、最初に駆けつけるのは地元のお母さんや高齢者だ。シュワブ、安和から支援者もだんだんと集まってくる。
塩川港の入り口にダンプが列をなしてくる、機動隊が広いふ頭に散開する。デモ隊はその中に入って個々分散的な抗議行動でダンプを徐行させる。

■辺野古 持久戦■
テント村は海のカヌー隊や辺野古抗議船や陸の座り込み、すなわち市民的不服従の出撃拠点―陣地だ。

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          (辺野古浜テント村)           (シュワブ前テント村)  
  (2019.10.31現在日数)
テント村の調べでは、沖縄内外から辺野古の現場をおとずれた人の数は2010年には10万人をこえ、それ以後は集計不能になっているという。それというのも辺野古に集まる人びとのあり様が変化しているからだ。「沖縄の島ぐるみ」、今の言葉ではオール沖縄と県内外の無名の人々大衆が一緒になってかくも長く現地で闘っているのは、沖縄戦後史において初めてのことではないだろうか。
沖縄内外から駆けつけ個人、グループ、団体が混然一体となっており主義主張も属性も関係なく誰に告げることもなく、すっと戦いの現場に入っていけるものになっているからだ。
現場を守り人々を結びつける舞台を準備する縁の下の人と多様な県内外の支援の広がりが辺野古持久戦を可能にしているのだろう。(国家に抗する、制度に飼いならされない市民が主役の政治と社会運動の形成を意味しているのだろう)
例えば「島ぐるみ会議」だ。
翁長さんの知事選を地域社会で担う住民の選挙母体としてスタートした。翁長知事選の主力は政党や労組に系列化され組織動員されるものではなかった。
超党派オール沖縄としての自発的な個人の集まりの場が地域社会に生まれ、市町村毎の島ぐるみが全県に張りめぐらされている。かくして島ぐるみはオール沖縄会議の手足、すなわち現場の力になっている。
現在では、シュワブ前ー安和桟橋ー本部港塩川地区での座り込み・阻止行動への動員や、島ぐるみ学習会、地元議会の辺野古促進議員の動きに対してストップをかけるなど、沖縄の民意(人権、自治、平和)を守る草の根活動をしている。
 シュワブ前―安和桟橋―本部港塩川地区での座り込み・阻止行動は島ぐるみなどが担当し主催している。
うるま島ぐるみ、南部島ぐるみ、ヤンバル島ぐるみ、本部町島ぐるみ、統一連、沖縄平和市民連絡会、平和運動センター、ヘリ基地反対協が曜日毎の現場を担っている。
組織動員がきかない市民組織だから長丁場のヘバリもあるだろ、島ぐるみは、沖縄のひょこりひょうたん島だ。
オール沖縄会議と島ぐるみ会議の協議で、11月からシュワブ前で毎月第三木曜日の集中行動が新たに決まった。第1回の集中行動は11.21に行われ、約230人が座り込んだ。この規模になると機動隊も容易に排除できない。資材を搬入するダンプは通常の半分以下の100台弱、目に見える成果だ。
木曜日のシュワブ前は、地元名護のヘリ基地反対協議会が担っている。

■辺野古現地闘争に参加、明大K・Yさんの報告から■
2019.10.29(火)~11.02(土) 沖縄県辺野古ほか
・10月29日(火) 辺野古 民宿クッション宿泊 (辺野古基金による支援事業) 
・10月30日(水) 辺野古 民宿クッション宿泊
午前:シュワブ前 土砂搬入ゲート前座込み 午後:名護市安和、琉球セメント桟橋土砂搬入阻止
午後安和桟橋を後に、本部町塩川岸壁搬入阻止
・10月31日(木) 読谷村波平 知花晶一さんの民宿ヌガーヤー宿泊
 午前:キャンプシュワブ埋め立て状況を、辺野古抗議船上より見る
 午後:辺野古からうるま市を経て読谷村へ移動
 うるまで市民団体と話し合い。ドローンをやっている土木技師のO氏らの話を聞く。
   配布資料「光り続けるドローンの眼」
 基地反対闘争の戦い方には、色々な方法がある。それはまさしく現地の言う通りである。
・11月1日(金) 那覇市船員会館宿泊
 夕方:芝工7名、明大3名、沖縄現地のH、O、N、O、N氏と歓談会
 10月31日未明、首里城が漏電により炎上、現地では号外が出ていた。帰京して読む東京の新聞、その見出しの小ささに、1,500㎞我彼の距離を感じました。また、沖縄の米軍基地に関する報道も同様、海の向こうの話である。
1982年以来、37年振りの訪島であった。行って良かったではなく、行って良く分かった。
 私等ヤマトの怒りは、その場限りの一過性です。けれど、ウチナンチュウにとっては、日常茶飯な事柄で、その意思を継続させるのは、人並みでない意志が必要だと感じた。私が現地に行って、とやかく言える余地は全くなかったです。それは、介護をしていない人が、介護をしている人にとやかく言うのと同じだからです。
結論
① 当面の目標はなんであるか。辺野古新基地を潰す事である。その一点でのみで戦う(スペイン市民戦争(1936年~39年)に、学生時代から興味があった。反ファシズム(フランコ)統一戦線が、内部分裂によって崩壊した二の舞は、繰り返したくない。
②工事車両阻止は、第3木曜が焦点。その時に合わせて、現地入りが最善。
③ヤマトで出来ることは、安倍自民党打倒だ!
・辺野古における反基地闘争の拠点である、民宿クッションに掲げてあった以下の文章を書き留めた。
ファシズムの初期症状(ローレンス・ブリット Lawrence Britt)
1 強情なナショナリズム
2 人権の軽視
3 団結のための敵国つくり
4 軍事優先
5 激しい性差別
6 マスメディアのコントロール
7 国家安全保障に対する執着
8 宗教と政治の癒着
9 企業の保護
10 労働運動の弾圧
11 知識人と芸術への軽蔑感
12 犯罪の厳罰化への執着  
13 身びいきと腐敗の横行  
14 不正選挙

■辺野古抗議船に乗ってカヌー隊にエールを送る、<海から見えてくるもの>■

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突入の機会をうかがうカヌー隊    辺野古抗議船 平和丸に乗る  
 
■辺野古沖は日米合同委員会指定の立入り禁止の、「臨時制限区域」だった■
5人~13人が乗船できる辺野古抗議船は5艘あり、シュワブ沖と安和桟橋で海上抗議とカヌー隊の支援をしている。乗船希望者は多いときは40~50人になる。
日米合同委員会は「日米地位協定」により、具体的な在日米軍の活動や施設運営方針を協議決定するが、国会には全く報告義務のない非公開の機関である。陸海空海兵隊の在日米軍高官と日本政府各省庁の次官や局長クラスで構成され、その下には約32の分科会がある。ざっくりといえば、それらは在日米軍受入れのいたりつくしの、おもてなし奥座敷である。
辺野古新基地の建設予定総面積は205haだが、そのうち埋め立て面積は約150haである(軟弱地盤は75ha)。「臨時制限区域」は本来、米軍の活動のために設定されるものである。日本政府が行っている埋立土木工事のために設定されうるのか、かつまたフロートに囲まれた約150haは写真撮影禁止や進入禁止となりうるのか、国内法で逮捕して刑罰(地位協定に伴う刑事特別法)を科することはできるのか。ちなみに埋め立てられた海域は日本の国有地になるのである。
この日(2019.10.31)、我々の目の前でフロートの間隙から侵入したカヌー1艘が海保のボートに取り囲まれ海に突き落とされて拘束され曳行されていった。抗議船船長の話では、「辺野古浜まで引っ張っていって解放される」。司法判断がやっかいになることを避けての措置だったのだろう。
これまでカヌー隊が芥川賞作家でカヌー隊の一員である目取真俊が逮捕された一件(2016.4.1)を除いて、逮捕されることはなかった。侵入者は海保に力づくで拘束されてから身柄を米軍に引き渡され基地内に一時拘留される。警察は米軍から身柄引き渡し受けて緊急逮捕する。
片っ端から逮捕すれば多数の立川米軍基地侵入―砂川事件裁判ならぬ、臨時制限区域侵入―辺野古沖事件裁判が行われることになる。

■埋め立てられているのは「赤い土砂」■
知事は水面埋め立てに関するさまざまな権限を持っている。
知事(翁長)権限による「埋立承認撤回」後、県と国は係争中だが知事権限が無くなったわけではない。係争中であれ、政府―防衛省防衛局が工事内容を具体的に県知事に説明した「設計概要説明書」がある。その中の「環境保全図書」では、「海中に投下する石材は事前に採石場で洗浄する」となっている。

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(2019.10.31辺野古抗議船より撮影)
もはや周知の事実だが、辺野古の海に投下しているのは、砕石と赤土を混ぜた土砂である。
政府―防衛省防衛局は年明け~春には大浦湾側の軟弱地盤改良に伴う「設計概要変更」を県に提出するが、この点も国と県の攻防となる。
 <この赤土はダンプで安和桟橋前と本部港塩川へ→土砂運搬船で辺野古沖へ→運搬船から陸揚げ用台船に積まれ→護岸に待機したダンプへ→辺野古の海に投入>
 辺野古の戦いは持久戦であるが持久戦にも谷間と山場もある。軟弱地盤の改良工事やサンゴ3万群体の移植、赤土、V字滑走路周辺の高さ規制・・・等を織り込まなくてはならない政府(防衛省防衛局)の沖縄県に申請する「設計と工事、環境対策変更書」が、政府がいつ出すかによるが次の大いなる山場となる。

■弱さを武器にした海上の戦い■
2003年4月、ついに政府は辺野古埋立を現実化するため予定地の地形調査に乗りだしてきた。辺野古漁協から調査に出る防衛施設局職員に「いかないでください」と数名が説得を試みたが、毎回相手にされなかった。政党や労組方面はだれもきていない中、毎朝の説得を続けるうち沖縄各地から少しづつ人が集まり、辺野古の海を掃除してから語り合う土曜集会が7月から始まった。
そこで考え出されたのは「力で対決できない」が「おもちゃのようなカヌーに乗って、海の掟を逆に使う」だった。海上で大きな船と小舟が出会った場合、大きな方が避けて通らなければいけない。ぶつかって処罰されるのは大きな方だ。そうだ、「弱さを武器に」できる。 カヌーで作業ポイントを先取りしてしまえば、動力のある作業船はポイントに近づけない。カヌーは小さく、力の弱い存在だが大きな船にスイスイと近づいていける。陸の座り込みがアリなら、海のアメバーになればよい。
カヌーによる阻止行動に向けた練習がはじまった。地元の青年や名護・辺野古のヘリ基地反対協でも船を入手した。2000年に開催された沖縄サミットに反対する個人参加の市民運動から生まれた沖縄平和市民連合も参加する。
「海に乗りだしていく」コラボレーションが動き出し、「ボーリング調査」を遅らせた。
2004年9月、防衛施設局はサンゴの海に杭を打ち込む調査の強行に打って出た。11月末、作業用の鋼管やぐらが四ケ所設置された。夜明け前に船を出してやぐらを先に占拠しまう「海上の座り込み」が始まった。やぐらのボーリング機械の真下に女性メンバーが鎖をしばりつけた。女性のカヌー隊も応援にかけつけた。海上での攻防は熾烈をきわめた。いら立つ業者は暴力による排除をエスカレートさせる。

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2004年12月、それまで静観姿勢をとっていた近隣漁民たちは10隻以上の漁船を連ねて海上闘争に参加した。漁船はやぐらを取り囲み、「わったーの海を守ろ」と書いたむしろ旗を潮風になびかせた。地元の海に精通した漁民たちの登場で作業船は近づけず、以後ボーリング調査はまったく進まなくなった。
(M・H私記:写真は当時の杭打ち阻止闘争/海の三里塚闘争、我らが砦の上の世界ではないか/10月31日、明大生田のS・H・Yは知花晶一さんの三度目となる民宿に泊まった/米軍が沖縄本島上陸を開始した読谷の海が見下ろせる小高い丘の上に民宿はある/偶然だったが写真の人とは違うが知花さんと一緒に当時体を張った九州の人が家族連れて来ていた/その語りを思い出してこの項を作成した/知花さんから沖縄の学生運動を聞くのもこれまた勉強であろう)
海上の戦いは日々の攻防は持久戦となった。春の休暇になると多くの学生や若者も集まる、世界の環境団体も現場に大型帆船を送り込みジュゴンを描いたポスターとしもに緊急キャンペーンを世界に発信した。
海上保安庁も今までの中立姿勢を打ち捨てて排除に乗り出し負傷者が相次いだ。さらにジュゴンとウミガメの生態に配慮して夜間はしないとの県との作業規定も一方的に破棄された。海上の阻止行動は24時間体制となり知恵くらべ根くらべ体力くらべとなった。カヌー隊の地元長老は海のやぐらで編んだ毛糸の赤いベレー帽がテント村のみんなに配られた。施設局が夜間作業をやめるまでの50日間続けられた。
鉄は意外にもろいものである。
海水につかり潮風にさらされた鋼管やぐらは海草が巻き付き腐食が進み海の生き物たちの漁礁となった。いつ倒壊してもおかしくない老朽化で、2005年9月2日の大型台風の接近で施設局はやむなく撤去を始めざるをえなかった。
地元、沖縄内外のいくつもの境界線を越境する名も無き者たちと自然の力が工事着工を食い止めた。
翌10月、日米政府は辺野古沖「海上」案の撤回を発表する。条件付き辺野古沖移設という基地負担補助金増額を乞い願う保守系の県と地元自治体案は切り捨てられた。
日本政府が考えていたとおりの、基本的には、アメリカに占領されていた時代の辺野古埋立―巨大な新基地を日本政府が財政負担して建設する辺野古「沿岸」に舵を切っていくことになる。
2007年5月18日、防衛省は辺野古沖合での海底調査器具設置のため海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」を派遣し海自隊員による作業が敢行された。

■普天間から辺野古へ■
住宅地の真ん中にあり老朽化した普天間基地の解決は<辺野古が唯一>なのだという。
普天間基地が市街地住宅地の真ん中あるのは当然ではないか、今もって米軍基地があるのがおかしいのだ。それは米軍事占領―52年の講和条約―72年の日本の主権の回復となっても米軍及び米軍基地には指一本も触れられない。日本の主権は軍事占領時と本質的には変わらないブルー・スカイ・ポジション(平時の疑似的な「戒厳令」)の前にある、日米地位協定はこの別名にすぎない。米軍基地が集中する沖縄に行けば「安保がよく見える」ことになる。
沖縄戦は住民の「約四人に一人」がなくなった戦争として知られる。だがその一方で戦火を生き抜いた「残りの三人―約33万人」にとって、この戦争は<捨て石>の戦争にとどまらず、米軍に郷土が奪われ住む家から追い立てられていく<占領>の進行過程としてあった。
住民は主として東海岸中北部に設立された沖縄本島面積の10%ほどの軍政地域の12の民間人収容所に押し込められた。その数は1945年4月末に11万人、7月末には生存した民間人ほぼ全員にちかい32万人に達した。と、同時に本土攻撃に向けた基地建設が無人の荒野を行くごとく轟然と開始された。普天間地域の集落全体もローラーでつぶされ整地され約480haの基地となった。収容所から帰って来た普天間の住民たちにとっては基地の周辺にしか生き残りの場所は残されていなかった。阿波根さんたち、伊江島の住民たちも3~4ケ所の収容所をたらい回しにされた生活を送り普天間住民と同様になった。
オスプレイが常駐する海兵隊の普天間は、キャンプシュワブと背中合わせの5000haの広大なキャンプハンセンの中にある第3海兵遠征軍司令部が管轄し、朝鮮半島有事の際の前方展開を専門とする部隊だ。米人の救出、北の軍隊をソウル前方でくい止めるくさびの役だけの訓練を受けている。朝鮮半島情勢の変化を普天間返還交渉の糸口などにというのは安倍政権の頭の中には無いのだろう。
辺野古(総称久辺三区/久志村、久志岳、辺野古)は「辺鄙な山村」であった。沖縄戦末期、「辺鄙」なその山襞に約1万5千人が収容される掘っ建て小屋の捕虜収容所が作られた。米軍の配給品と海の畑といわれた引き潮時の辺野古の魚介類に頼る生活が辺野古の沖縄戦後の始まりである。東海岸中北部は、軍政地域の予定地として米軍の艦砲射撃から意図的に外された地域だった。
辺野古の住民は山に依存する薪や木炭業を生業としていたが、「島ぐるみ土地闘争の終わりが始まる頃」の1957年、辺野古では約200haの米軍演習場キャンプ・シュワブの建設が開始された。辺野古地区はそれと引き換えに米軍の余剰電力と水道、地元優先の雇用を要求した。現在のシュワブの面積は2250ha、辺野古弾薬庫150haのモンスター基地となっている。
米軍にとっての沖縄戦は、「勝利を抱きしめて」だけではなかった。沖縄戦で米軍は、太平洋戦争で最大規模の55万人態勢でのぞみ、沖縄第32守備軍兵力は10万人に満たなかった。沖縄戦の全戦没者の半数以上の12万から15万人の沖縄の人(民間人、軍属・県出身軍人)が殺された。
米軍の死者は太平洋戦争最大の1万2千人の死者を出し、負傷者との合計では8万5千人。日本軍の死傷者数の10万人と極端な大差はない。米軍部にとっては大量の若者の「血を流したて得た」他に代えがたい征服地として、ここにながく沖縄の排他的な長期保有にこだわった理由がある。
在沖米軍基地名となっているシュワブ、ハンセン、キンザーなどの地名は、沖縄戦で名誉勲章を受章した戦死米兵の名前にちなんだものである。
現在の辺野古新基地建設に舞台を戻せば、沖縄全島7割の民意と辺野古の自然を踏みにじる何が何でも最新鋭の軍事基地機能を備えた耐用年数200年の新基地を建設することに問題はある。振り返れば<普天間―辺野古問題>の具体的な起点は、1995年10月8万5千人の超党派全住民態勢で開かれた「少女暴行事件を糾弾する」県民大会だ。一般住民(特に女性たち)が自発的に参加したことがこの大会を復帰後最大規模に押し上げた。沖縄社会の内部で進行していた地殻変動が一気に表面化した。この大会の衝撃力は日米両政府を大きく揺さぶって対沖縄米軍基地政策の転換を迫った。沖縄県民の憤りに接して、「沖縄の負担軽減」の目玉として日米合意したはずの普天間返還が、辺野古の海を埋め立てる「移設」問題へとすり替えられ、沖縄の民意を切り捨て何が何でも「新基地建設」を強行姿勢だ。
舞台は辺野古に移る。
ここには、沖縄住民が求めて来た、人権、自治、基地のない平和な島をという戦後意識が脈々と島ぐるみの戦いとして継承されているだろう。

■普天間―辺野古をめぐる略年表■
1995.10.21―宜野湾海浜公園で「少女暴行事件を糾弾する」8.5万人の県民大会開催。
      県民の一五人に一人が参加する復帰後最大規模の大会となる。
1996.04.12―橋本・モンデール会談で普天間基地の5~7年以内の全面返還を発表。
      安保体制を足元から揺るがす沖縄情勢の沈静化を図る。
1996.04.21―クリントン・橋本「日米安保再定義」宣言。安保を極東からアジア太平洋に拡大し、在 日米軍と自衛隊の軍事一体化を推進する。
1996.09.08―沖縄県民投票、89%が日米協定見直し・基地縮小に賛成。
1996.12.02―SACO最終報告、普天間代替施設として「本島東海岸沖」が盛り込まれる。
      水面下で事実上の辺野古沖が決定、辺野古問題20年の迷走が始まる。
1997.04.17―米軍用地の使用期限を延期するための知事の代理署名権限を内閣に移行させる
     「駐留軍用地特措法」成立させ、米軍基地反対運動と知事権限の分離を図る。
      この頃から「代替え施設」の内容と場所をめぐる迷走が始まる。
1997.12.21―辺野古がある「名護市民投票」、代替施設の是非が基地反対か市政全般化と北部経済振興かにすり替えられる。賛成45%、反対53%で基地反対派が勝利する。
1997.12.24―比嘉名護市長、突然投票結果を覆し海上ヘリ基地受入れ・辞職を表明。
      公有水面使用と埋立権限を持つ大田知事、海上基地反対を表明。
                     移設案は暗礁に乗り上げる
1998.11.15―大田知事、保守と財界が推す稲嶺に敗北。稲嶺知事、撤去可能な海上基地ではなく、埋立による恒久的に基地建設を打ち出していたがそれと矛盾する「15年間の使用期限と軍民共用」を発表。
1998.12.27―名護市長選で岸本氏(保守系)当選。条件付きで移設受け入れ表明。
                      岸本は元早稲田の革マル、一坪反戦地主といわれていた。
1999.12.28―辺野古沖合への移設と10年間で100億の北部経済振興予算を閣議決定。
2002.  ―ベトナム戦争の最中に計画された「辺野古海兵隊基地」建設を、日本政府の財政負担で建設することが政府決定。
2004.08.13―普天間基地隣の沖縄国際大学に米軍大型ヘリ墜落炎上。
2004.09.09―辺野古沖ボーリング調査を阻止する「海上やぐら闘争」始まる。
2005.10  ―日米辺野古沖海上案を断念。キャンプシュワブに隣接する辺野古沿岸案に変更。
      政府による沖縄稲嶺県政の切り捨て、「15年軍民共用」案が白紙化する。
 この頃、日米同盟という「国益」と基地整理縮小という「県益」で沖縄保守県政はほぼ政府との断絶に入る、稲嶺知事ほぼ不眠症となる。
2006.11.19―国との関係リセットで仲井真(保守)が糸賀(革新)を破って知事選に勝利。
      仲井真は当選の勢いで政府との仕切り直しを図るが、政府は微調整にも応じず。
2007.05.18―防衛省、辺野古沖合での海底調査器具設置のために海自の掃海艇を派遣。
      1月に防衛庁は防衛省に昇格していた。
2007.07  ―高江ヘリパット建設工事阻止、住民の座り込み始まる。
2007.09.29.―教科書検定意見の撤回を求める超党派県民大会、過去最大の11.6万人参加で開催される。沖縄戦の歴史認識は、県民が培ってきたアィデンティの根幹である。基地か経済化の問題では保革対立が対立してきたが、沖縄戦認識ではほとんど対立せず、「島ぐるみ」でまとまり団結する。1995年の総決起大会は米軍への抗議であったが、07年の県民大会は「対日本政府」に対して行われた。
      島ぐるみオール沖縄が生まれてくる地殻変動をもたらす歴史的転換であった。
2009.02.27―海兵隊グアム移転とその費用日本負担等の在日米軍再編で日米合意。
      普天間返還―グアム移転―辺野古恒久基地建設が錯綜する。
2009.08.30―民主党への政権交代。
      オバマは「アジア回帰」、鳩山は「対等な日米関係」「東アジア共同体」「常時駐留なき安保」を打ち出し、その先に経済共同体以上の不戦共同体を描いていた節がある。オバマは普天間返還と海兵隊グアム移転の一体化であった。
2009.11.08―辺野古新基地建設と県内移設県民大会、2万1千人参加。
      12月鳩山首相、辺野古以外の移設を本格的に検討すると表明。
岡田外相は県内移設―嘉手納への移設統合、社民党は県外移設であった。
菅直人政権が辺野古回帰の日米合意を踏襲するが、沖縄では県外移設の声が強まっていた。
2010.01.24ー名護市長選で、「海にも陸にも新しい基地はつくらせない」と明言した稲嶺進が前市長の島袋を破って当選。尖閣諸島問題や中国脅威論を主張する右派勢力は、沖縄には海兵隊も自衛隊も必要」とナショナリズを煽り、相手陣営へのヘイト攻撃をする選挙戦の登場ともなった。
2010.04.25.―基地の県内移設に反対し、県外・国外移設を求める超党派9万人県民大会。
2010.05.04―鳩山首相来県し、県内移設を表明。6月辺野古引責で鳩山首相退陣。
2010.10.16―仲井真、知事選出馬会見で「日米合意の見直し・県外移設要求」表明。
      県外移設に踏み切らせたのは、県民世論の変化を呼んだ選対本部長の翁長那覇市長だった。翁長は沖縄の期待を裏切り辺野古に回帰する自民党、民主党への失望も大きかったという。
仲井真のポスターには、「普天間県外移設」「もう、米軍基地はゴメンです」のキャッチコピーが並び、革新の伊波を破って再選された。
2012.09.09―オスプレイ配備に反対する超党派県民大会、宮古・八重島会場と合わせて10.3万人が参加。この大会で着目すべきは、沖縄の保守と経済界の重鎮が大共同代表として名を連ね、県41市町村の反対決議が揃ったことである。
とりわけ経済団体が加わったことは運動に厚みを増すものとなった。
      10月にノー天気な野田政権の下、オスプレイは普天間に強行配備された。
      野田は民放TVで、「配備はアメリカ政府の方針で、(日本)それをどうしろこうしろとは言えない」と発言、沖縄の怒りを増幅させた。
2012.09.27―普天間基地閉鎖、3日間のヒューマンチェーンと座り込み。
沖縄県警は一部強制排除を行う。
2012.12.16―衆院選で自民党第1党、政権に復帰する。
沖縄自民党は官邸から辺野古移設を「説得」され、県外移設公約を放棄―辺野古移設容認となる。沖縄選出自民党国会議員5名全体、沖縄自民党県連議員、普天間がある佐喜眞宜野湾市長。自民党沖縄県連は事実上の分裂状態へ。
2013.01.29―県内41の全市町村長、オスプレイ配備反対と普天間県外移設の「沖縄建白書」を安倍首相に提出。
2013.02.22―日米首脳会談で「普天間飛行場の早期移設」が合意。
2013.12.17―仲井真知事、都内病院に突然の入院。官邸の菅や政府与党と密会していたのは明らかである。
2013.12.27―その後沖縄振興予算増大と引き換えに仲井真知事、辺野古埋立を承認。
2014.08.18―辺野古で海底ボーリング調査開始される。
2014.8   ―辺野古新基地に反対するキャンプシュワブ前座り込み、カヌー隊の海上闘争がスタート。
2014.11.16―翁長(オール沖縄)知事誕生。翌年10月辺野古埋立承認を取り消し。
(以上、明大土曜会 M・H)
(終)


【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」出版記念会

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「続・全共闘白書」が、昨年12月25日に刊行されました。
A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(予約注文の方には割引があります。チラシをご覧ください。)

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(チラシ)
それを記念して、以下により出版記念会を開催いたします。
多くの方の参加をお待ちしています。

日時:2020年1月18日(土) 17:00~20:00(16:30開場)
会場:学士会館201号
(東京都千代田区神田錦町3-28 03-3292-5936)地下鉄神保町駅 徒歩1分)
会費:5,000円(立食)(本代別)
記念対談:吉岡忍(ノンフィクション作家、日本ペンクラブ会長)×二木啓孝(ジャーナリスト)
「『続・全共闘白書』を読み解く?全共闘世代に遺された課題とは」
※会場で本の販売があります。
※その後近くにて二次会を予定しています。
※会場の準備の都合上、参加の方は以下までお知らせください。
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【お知らせ その2】
「高校闘争から半世紀」~私たちは何を残したのか、未来への継承~

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日時:2月11日(祝)13:00~17:00
会場:連合会館 2階大会議室

(千代田区神田駿河台3-2-11 東京メトロ「新御茶ノ水」駅 B3出口すぐ
JR中央線「御茶ノ水」駅 聖橋口徒歩5分
【プログラム概要】
Ⅰ部 1968 年は我々に何をもたらしたか ―自己否定を巡って― 山本義隆(東大全共闘)+高校全共闘(都立青山高校・麻布学園高校・教育大付属駒場高校・県立仙台一 高・慶應高校・灘高校・都立日比谷高校・県立掛川西高校・都立竹早高校など)が登壇予定 司会:高橋順一(武蔵高校・早稲田大学教育学部教授)
Ⅱ部 運動の現場から ―香港の学生・日本の高校生の闘い―
香港の闘う学生+日本の闘う高校生+高校全共闘+全中共闘などが登壇予定 司会:初沢亜利(ドキュメンタリー写真家、東北・沖縄・北朝鮮・香港などの現場撮影取材)
Ⅲ部 ぼくたちの失敗 ―僕たちは何を失い何を獲得したのか―
高校全共闘(都立上野高校・都立九段高校・新潟明訓高校・県立旭丘高校・県立千葉高校・都立北高校・ 府立市岡高校・都立立川高校など)+全中共闘(麹町中学・日本女子大付属中学など)が登壇予定 司会:小林哲夫(高校紛争1969‐1970「闘争」の歴史と証言 著者)

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は1月24日(金)に更新予定です。

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