野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2020年02月

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」148号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より  2019年8月16日~2019年11月8日
8月16日 台風10号は西日本を蹂躙しながら、一方その影響で新潟では41度近くまで気温上昇の日本。これまでの季節感と異なり、梅雨も炎暑も台風も一緒に襲っています。でも獄は単色の季節……。
連休後半は望月衣塑子著「新聞記者」を読みました。まっすぐな正義感と職業意識で培った原則に忠実に生きてきた望月記者の素直な筆致が読む人々を共感させずにはおかない本です。誠実であればある程「記者クラブ」では異端になるなんて、世界のジャーナリズムが驚くでしょう。それにしても「記者クラブ」システムは権力の下請け機関だと、つくづく思います。廃止の声をあげるべき朝日などのいわゆる“良心的”ジャーナリズムも既得権第一なのですね。著者が記している以上に、公安や官邸は望月記者をまるで「テロリスト」への対策のごとく「危険人物」として監視している筈です。警察国家は、国民よりも時の権力者を第一に守る国ですが、日本はオブラートに包みながらも、その典型です。望月記者と共同して、権力をこそ監視するネットワークを広く作りえないものか……と、もどかしく思いつつ読みました。政権に対して、こうした真っ当な記者が質問し、監視し続けることが主権在民・民主主義を言葉ではなく、現実にもたらすことを改めて思います。著者の父親の闘いと挫折感に、同時代の友を重ねつつ読みました。よい本をありがとう!
15日には「監獄人権センター」のニュースレターも受け取りました。そこで知ったのですが、第29回国連犯罪防止刑事司法委員会が来年4月には京都で行われるそうです。第28回には日弁連ばかりか政府側は、稲田検事総長も加わり、京都会議をアピールしたとのこと。日弁連は国際人権活動日本委員会と共に死刑制度や、日本での被疑者段階の立ち遅れた処遇現状について語ったようです。来年の京都会議の機会に、獄での人権問題、ことに病人囚の「執行停止」措置や、終身刑化している無期懲役の実情など、弁護士・NGOなど参加し、アピールしてほしいです。また海渡弁護士の調査レポートに「留置所・拘置所における死亡が相次ぎ、その死因が究明されていない」点が明らかにされています。2018年1月1日から19年6月21日まで21件の死者が出ています。このレポートは拘置所など未決の人々についてですが、既決受刑者もきっと同様の問題があるはずです。刑務所で「病死」で済まされていることにも。獄中処遇の改善によって、病気の受刑者、治る見込みのない人は特に「執行停止」「仮釈放」が健全な処置です。「獄死」ではなく親族、友人の元に帰って、彼岸に発つ措置がとられるべきです。私自身の周りの人々の経験を見聞して、そう思っています。

8月19日 今日の新聞を見て8月19日に始まった「ピクニック計画」からもう30年たったのか……と改めて気付きました。ベルリンの壁を壊したのは実はこの日なので、欧州ではこの日を記念して、メルケル首相がハンガリー西部ショプロンを訪問し、「自由と連帯の象徴」と称えたようです。30年前のこの日、民主化でゴルバチョフに倣ったハンガリー共産党政権はハプスブルグの最後の皇太子オットーの帰国を許し、オットーは民主派と共同して政府を動かし、オーストリア・ハンガリー国境地帯のショプロンにある公園から、東独市民が西側に脱出するのを助け、2000人以上がこの日オーストリア側に移動したのです。その後さらに東独市民が押し寄せます。西独のコール首相とハンガリーのネーメト首相は秘密に会い、ソ連が介入しないとのシグナルを得て、取引をしました。コール首相が10億マルクのハンガリー経済援助を約束し、東独市民を自由に出国させ、独に向かわせる密約です。これで10万人の東独市民が継続脱出。東独政府もホーネッカー大統領批判でソ連迎合のクランツに代わり、東独市民の脱出の意思を抑えきれず、ベルリンの壁開放へと至ります。当時東欧に居て目の当たりにした89年を思い返します。コールの秘密外交もオットーのイニシアチブも、東欧共産党側のインテリジェンスでは?かんでいましたが、市民のうねりに手の打ちようがなかったのです。最後まで壁崩壊を信じなかったのは、東独やチェコの治安当局者たちです。市民の自由の切望、当局への不信・不満に対し、まだ「社会主義制度の優位性」を論じていました。パレスチナの友人たちと思わず顔を見合わせてしまいました。人間がわかってない……と。でも東欧崩壊ゴルバチョフ路線は100万を超えるユダヤ人のイスラエル移住を助け、パレスチナの困難、シオニストの西岸地区併合を準備していきました。歴史の分かれ目の日でしたね。8月19日は。

8月20日 資料の中に、エルサレムで在住の幼児4才のムハンマド・ラービウ・アルカーンちゃんがイスラエルのパトロール隊の一団に投石したとして、正式の出頭命令が出された(7/29)とあります。ただ、驚いて逃げただけらしいのに! まったくイスラエルは……。ムハンマド坊やは出頭を恐れて泣いたので、家族がポテトチップとジュースを持たせて一緒に出頭したとのこと。家族にも出頭命令! シオニストたちは正常ではない、この神経は……。
(中略)
 
9月20日 昼食休憩後の13時半少し前、ベッドでの安静時間が始まって少しして、「調査とのこと。移動します。」と言われました。「何の調査ですか」と。とにかく5Fの入り口の詰所のところで男性刑務官から「警視庁から来庁調べです」と知らされました。「お断りします。その旨よろしくおねがいします。」と私は房へ戻りました。何のために? 2015年の城崎さんの時の3月、警視庁、検察庁の調べを断ったあと、強制捜査令状で房内を荒らしたことを思い出しています。何が外であったのか? 気になっています。19年目の病人の受刑者に「現役扱い」の警視庁の調べ要求は人権侵害です。でもあの時も金曜の午後。弁護士に伝えられるのは連休明けです。他の獄中の仲間や、獄外の仲間たちにも調べはあるのでしょうか。

9月27日 昼食時には明日の誕生会のため、チョコレートの小さいショートケーキに生クリームを添えたものが供せられました。おいしく頂き、和尚にも会えて、明日は誕生日といい気分だったのですが…。午後、安静時間の終わった3時過ぎ、処遇課より「指導」でした。連休明けの24日(火)に発信した、弁護士宛速達を示しました。「えっ!?何故!? 火曜日に発信しなかったのですか? それならもっと早く言ってくれればいいのに」何故今日(金)まで延ばして、今来たのか? 弁護士への手紙の2か所について、禁止基準に触れるとのことで、書き直しを求められました。「弁護士への手紙ですよ。急いでいたのに。一点目は書き直しはできません。必要ならそちらで抹消措置をとって頂いて結構です。二点目の当施設の他の患者について書くのは禁止とのこと。前にも書いたし亡くなられたのでいいと思ったのですが、それは取り消します」と、そこだけ自分で黒く消しました。何故速達、しかも9月20日の警視庁の調べに関して至急弁護士への通知と対応を求めたものだったのに。疑問が消えません。弁護士宛速達が、この19年、こんなに遅れたことは初めてです。4月から代わった処遇判断のせいなのか? あんまりでは……。

9月28日 休日ですが、静かに誕生日を迎えています。
また、9・28インティファーダから19年目のパレスチナの記念日でもあります。弾圧とトランプ頼りで票を稼ごうとしたネタニヤフは第二党となり、今後は「青と白」との大連立を目指しています。4才と5才の子供にまで投石の罪で出頭命令(7月28日)を出し、子供たちは、飲んだジュースの紙パックを捨てただけ、と主張しています。それほどの危機感を持ったイスラエル軍なのか、判断力なしの暴虐なのか、ネタニヤフ政権下の占領から併合を実行するでたらめさの中で、パレスチナの闘いは続いています。
様々な条件の中でこうして74才生きていること、みんなに感謝ばかりです。
“諦めもニヒリズムもなく生きた日々ヒューマニズムと友在りてこそ”
 “彼岸花わが誕生花咲き誇る命と燃えよ山動くまで”
“囚人となりて棲みたる病房で尚闘えるを喜びとする”
(中略)

10月7日 パレスチナ連帯国際フェスティバル事務局より、10月30日講演の連帯メッセージ依頼が届きました。着々と準備が進んでいるようです。これまで関西でパレスチナ連帯に関わってこられた方々や、グレートリターンマーチを共同している他の地域の方々とも共同はうまく進んでいるのでしょうか。要請の寄稿文は明日にも仕上げて、10日発送予定の便で送るつもりです。発信枠が限られて入るため、せっかく切手なども送って頂いたのですが、挨拶もなく、原稿としてのみ送ります。(挨拶など加えると、信書扱いで不許可となります)。もうパレスチナ・ガザのラップ歌手MC・ガザのイブラヒム・グネイムも訪日ビザなど整ったのでしょう。楽しそうなグレートリターンマーチです。

10月8日 弁護士宛の手紙について、審査の結果、今回は書き直さなかった部分もそのまま許可することになった、と通告に来られました。今日投函されるようです。「来庁調べ」からもう18日も経ち、速達で急ぎ伝えたかったのが、2週間かかりました。

10月9日 今日「死刑と人権」受け取りました。発行主体のかたつむりの会は、いつもカラフルな関西の集会・イベントのビラを集めて送ってくださるので楽しみです。今回も円山公園の「変えよう日本」「パレスチナ連帯10・30」や「輝け憲法」「反原発」「死刑廃止」など、数々の美しいビラがたくさん。昔の私たちのガリ版刷とは大違いです。
また「死刑と人権」№197では様々な情報・報告、学んでいます。小さなパンフに「法廷内での手錠・腰縄は不要」の訴えがあり、同感です。手錠腰縄のままの入廷は判断に悪い影響を与え、「推定無罪」原則に反します。私の公判では、第一審の終わりに、判決のためだけ担当した強権的訴訟指揮の村上裁判長だけが、傍聴人の前でわざわざ手錠・腰縄を外させていました。他の裁判長は時に手違いがあったりしましたが、私が法廷に入る前の扉のところで外させるか、私が入廷して手錠腰縄を外してから傍聴人を入廷させていました。この悪習の手錠・腰縄入廷方式は廃止すべきです。
(中略)
10月19日 トルコでペンス・エルドアン会談が合意。米は、プーチンのイニシアチブには負けられないと介入。もともと、米・トルコ合意で国境30㎞の「緩衝地帯構想」は2015年に合意したもの。ところが、当時米が独自に創設した「シリア民主部隊」が2015年7月か、緩衝地帯予定地で活動を始めてすぐ、ヌスラ戦線に拉致・殺害・粉砕されたので、独自部隊作りは断念したのです。そしてやむなくプーチンらと関係が良かったクルドYPG支援にきりかえ、地上部隊の民主軍として、対IS戦を賄ってきたものです。その後、米は緩衝地帯作りに消極的だった為、業を煮やしたトルコの強硬手段が出たので、対立しにくい米は、ロシアに負けじと割り込んできたのです。米軍が撤退すれば、ロシアのイニシアチブで、トルコとシリア・アサド政権による妥協、シリア政府とクルド人勢力の妥協もめざされるでしょう。トルコからのシリア難民帰還、シリア政府の形式か実態かの「全土掌握」、トルコによる管理支配と、クルド自治の棲み分け調整が、どう進むか注視しています。
また、日本は中東に「独自」に自衛隊派遣、「有志連合不参加」とのことです。すでに海賊対策名目で派遣されており、不要な外交的つじつま合わせの政治でしょう。

10月24日 昨日、夜のスポットニュースで報道していました。ロシアイニシアチブによる地域の緊張緩和が、米国の介入を越えて進みそうです。プーチンは「国境地帯の平和と安全を守るのはトルコとシリアであり、両国の協力が不可欠だ」と強調しています。シリアはもともと「安全地帯を設置したいなら『アダナ合意』を実行すべきだ」と主張して、トルコに対処してきました。
「アダナ合意」は2000年にアサド父の時代、トルコ・シリアの関係を敵対から友好に向けた合意。「シリア難民問題を本気で解決したいなら、トルコはあの合意同様、シリア政府と話し合うべきだ」ということです。ロシアを仲介としてそれが始まれば、アサド政権は形式的にはシリア全土掌握に向けて踏み出し、今月末に予定されるジュネーブでのアサド政権と反体制派による内戦後の新憲法の起草を目指す憲法委員会でも、政府側は弾みがつくでしょう。クルド住民自治については「シリア国内問題」として話を続けることになるはずですが、クルド人勢力はイラクでもシリアでも余儀なく米・イスラエルと共同してきたので、アラブ民衆の反発はあります。クルド人勢力の間でも親米勢力と親ロシア旧左翼とのヘゲモニー争いもあるでしょう。クルド独立国家の戦略を持ちつつも、シリア、イラク、トルコ、イランで自治基盤を獲得する闘いがまだまだ必要です。とくにシリアの和平協議では、トルコの反対でクルドは協議から締め出されたままの解決が必要です。シリア政権との共存・自治獲得の政治的闘いが、クルド人たちのナショナリズムや親米の動きを越えて、どう作られるでしょうか。シリア政府とクルド人らシリア民主軍(SDF)はロシアの仲介で、プーチン・エルドアン会議前に、様々合意しているはずです。グローバル資本主義体制の作り出した格差の結果、世界は「ナショナリズム」とグローバリズムが衝突したままです。政権・国家に収斂していく攻防で、人民勢力はまたもや保塁を失うのでしょうか。
レバノンでは「ワッツアップ革命」が全土を席捲中のようです。WhatsAppのアプリをインストールして、無料でSNSで世界中ビデオ電話できるので、それにレバノン政府が課税しようとして反対のデモが拡大したとのこと。ネットの意義を半減させる移民・出稼ぎ人口が国内人口より多いレバノン人の必需コミュニケーションです。反対は当然でしょう。

10月28日 昨日帰国したメイが午前中面会に来てくれて、久しぶりにプラスチック越しのハイタッチ。元気そう。八王子施設の時には30分の面会に15分の延長が許可されていたのですが、今回申請しましたが拒否されました。レバノンの「ワッツアップ革命」など話しだしたら、すぐ時間が無くなるので、お互いテーマを確認して早口になります。それに難聴気味の私。大阪の国際連帯フェスティバルのメイの話すテーマも聞かずに、私のメッセージのミス点などを伝え、Tさんらにお詫びと訂正よろしくと伝えてと話しました。明日から大阪へ。友人たちとも出演者のみんなとも交流し、良い時間を過ごしてほしいと思いました。話しているうちにもう時間……。会えて嬉しかったです。成功を!

10月29日 救援連絡センターから「刑事施設内の購入物品についての価格調査にご協力をお願いします」と、調査項目表が届きました。それで、書き込み許可が下りるか……と気になりましたが、25日にOKが出て、今日価格表を借りて書き込みをしました。10月からの消費税増税に伴って、価格を全国的に調査するとのことです。スーパーなどの値段をあまり知らない私ですが、他の患者たちによると、市価の2倍から3倍で、ハミガキチューブ、タオル、ハンカチ、箸箱、耳かきやボールペン、下敷き、定規、クシ、ブラシ、ノートなど、100円ショップで売っているそうです。
レバノンでは10月17日からの反政府デモが全国化し、経済的苦境の原因を政府の汚職や利権にありと、政府退陣要求し、29日にハリリ辞任。混乱は続いているよう。メイのタイムラインによると、はじめて党派の旗はなく、デモの全部がレバノン国旗。在外レバノン人も一つに応援中とのこと。

10月30日 昨日発信したはずの速達、第496信が「発信不許可」で戻ってきました。急ぎの10・30文訂正があったのに。「なぜ文面見てわかるのに、昨日指摘せず今日なのか? 前の弁護士への手紙も、もう用をなさなくなってから言ってくるのは、いやがらせとしか思えません」と怒りつつ、「質問がある」というところを「意味なくなったからいいです」と、ぐしゃぐしゃに黒で指摘のところを消しました。(中略)
先週から南側の病室に替わり、森は見えませんが、空と遠くの建物の姿がみえて、天候がわかるのが嬉しいです。みんなに会いたい秋です。

10月31日 十月尽。今日もまた「指導」を受けました。今朝、Yさん宛てに救援連絡センターの「価格調査回答表」などを送ったのですが、「救援センターから来た調査用紙を、Yに頼むのは伝言にあたる」と不許可。「Yさん、オリーブの樹が救援センターの会員であり、アドレスにしている関係」など再提出しましたが、再び不許可。これまで、あたりまえに通用してきたことが、通用しない新しいやり方には憤慨しています。気分転換に「はながみ通信」を読んでいます。鶴見俊輔さんのこんな言葉を見つけました。「国家が間違った方向に行く時、それに抵抗するチカラは家の中から作られるんですね」

11月3日 愛知の「不自由展」の時に続いて、川崎でもKAWASAKIしんゆり映画祭」で上映中止や「宮本から君へ」の助成不交付など、警察国家の実態を示している日本。でも、今日の新聞で「若松プロが2作品抗議で上映しないと表明」。また是枝監督らの“「公益」と「国益」という言葉の区別がついていない」公益・公共の価値が、すべて「国益」に回収されてきた”という批判と行動は、公益を護る下からの力として、国家主義に有効な波を形成しています。若ちゃんがいたら、当然吠えたでしょうし、若松プロの行動はうれしいです。市民の抗議が力ですね。

11月4日 中東は様々な意味で新たな局面を迎えています。トランプ政権の対イラン包囲の行きづまりや、シリアからの米軍撤退、IS指導者バグダーディ殺害など、大統領選再選にむけて、更にイスラエル寄りシフトを取りながら、戦略的には力を失っています。
そうした流れに、サウジを率いるムハマド皇太子(MBS)は、イスラエルとの協力強化や、米国内キリスト教徒・福音派との協力強化(福音派のジョエル・ローゼンバーグとのジェッダでの会議など)湾岸国エジプト・ヨルダンとの同盟強化など、米軍に基地を新たに提供しつつも、対イラン同盟を第一として体制をつくりあげようとしています。
シリアでは、ロシアイニシアチブで、第一段階10月13日に、シリア政府とシリア民主軍(SDF)の合意をとりつけ(その合意には国境地帯をすべてシリアの主権下に置き、ロシアの保証の下でSDF兵力のシリア軍への統合、自治についての今後の協議、すでに存在する北東シリア自治当局などの政治的な行政などの解決など)その上で、プーチンとエルドアン大統領による10月22日の「10項目合意」が成立しているのですから、すべての局面は軍事ではなく政治的解決の足並みが揃いはじめています。(イドリブ県などヌスラ戦線らの地域を除いて)11月1日から始まったシリア憲法制定に向けた委員会も照応して、政治攻防が続くでしょう。
クルド人勢力は、SDFとしては認められていないようですが、市民代表や政府との交渉の中で、自治の内実をどこまで実現していけるでしょうか。北東シリアのクルド人を中心とする既成の自治行政は、女性のリーダーの下で民主的に少数民族の多様性を育ててきたことで、よく知られています。こうした流れと他方では、ロシアのイニシアチブをより広げ、イラン・トルコ・シリアと国家レベルの安定化が進み、トルコのエルドアンとシリアのアサドの対話もありうるでしょう。しかし、難民化した人々や経済の復興は、つまり人民レベルの要求は実現されていません。
エジプトでは強権と虐殺のサウジと同盟したシーシ政権、レバノンでは宗派政治がつくり出す、宗派トップの利権の分かち合いと人民の再分配されない怒りが、SDS革命から宗派制度の再編を求めています。2011年の「アラブの春」で、強権に乗っ取られた人民の要求は、再び強権に抗してレバノン、イラク、エジプト、ヨルダンと広がっています。富の再分配、民主化の闘いは続きます。
パレスチナでは、これまでの「土地と平和の交換」の原則が、仲介の米政権によってネタニヤフ支援で破壊されたままです。この条件、イスラエルの右傾化の中で組閣模索中の新政権には、何の期待も持てません。それでもネタニヤフを排することが第一です。パレスチナ自治政府(PA)は「減額された代理徴収を受け取った」ことでまた、民衆から批判がふきあげています。イスラエルが占領下のパレスチナ人の税を代理徴収していますが、その中からPAがパレスチナ殉教者や捕虜の家族に支払っているのを「テロ支援」と、勝手に差し引いて渡すことを決めたので、PAは受け取りを拒否してきました。でも財源難で、なし崩しに受け取り始めたことで政治組織が批判しています。国際社会も、アラブでのサウジイニシアチブのために、イスラエルに対する抑止力がない分、イスラエルの併合、占領政策は続き、パレスチナの闘いは益々破壊され続けています。人民の抗議の闘い、イラク、レバノン、シリアからはね返し、パレスチナに連帯してほしい!
先に述べた「1969年混沌と狂騒の時代」を読みつつ、記憶違いなど今後も検証したいです。慎介さんらの文を読みながら、60年代の闘いの日々を読みとらえ返すと、反省があれこれと浮かびます。本の中で他の人が私について触れていますが(過分な言及も!)、私の記憶と違うもの、また自分がどう闘うかで、仲間たちを十分支えていなかった姿を思い出したりです。野村さんも元気そうに発言しています。テント日誌、三上さん感謝。水谷さん「革共同26全総」批判文、ありがとうございます。中心が崩壊しつつあるのでしょうか……。

11月5日 今日はうれしい日でした。一つは、メイとメイの従兄弟が面会に来てくれたこと。もうすぐ出発で「またね!」と別れました。二つは、丁度10月の花が届いたこと(かのこ百合2本と竜胆、鶏頭)。三つは、点呼の後、連休速達で大阪から「10・30パレスチナ連帯フェスティバル」の報告第一号が届いたことです。
(中略)
11月8日 立秋です。この間東京は秋晴れ続き。きっと、青空に銀杏並木が映えていい秋ですね。あの逮捕の11月8日から19年目を迎えています。こんなに時間が経ち、友情や支援の中で、病気を何とかやり過ごしながら生きてこれたこと、感謝と共に今後の時間を考えることも多くなりました。あまり時間は残っていないな……と。何もできる訳ではありませんが、謝罪と感謝の中で過ごしてきた19年を超え、生きて社会に戻ることが、みんなへの恩返しの一つだと、心に強く思っています。逮捕の瞬間の苦い痛みから公判、手術、闘病、そして「平穏」な現在を、みんなの叱咤激励、笑い、ありがたく思い返し、ますます悪化する社会の中で、さまざまに生き抜いて闘い続けている人々と共にあろうと思うこの頃です。みんなにありがとう!
(終)
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!重版決定!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は3月6日(金)に更新予定です。

1969年の東大安田講堂攻防戦から51年目となる2020年1月18日、東京・神田の学士会館で「続・全共闘白書」出版記念会が開催され、100名を超える参加者があった。
この「続・全共闘白書」とは本の「まえがき」によると

「(前略)あれから50年、私たちには伝え遺したいことがある。
 『続全共闘白書』へのご協力のお願い
全共闘運動から50年、みなさんいかがお暮しでしょうか?
全共闘運動の頂上決戦となった安田講堂攻防戦から四半世紀が経過した1994年の前年、全共闘運動 にかかわった有志により、『今こそ語りはじめよう全共闘世代』と銘打って以下の呼びかけがなされました。
 『それぞれが自らでさえ持て余しぎみの情熱をぶつけあいながら、世の中の枠組みを変えようと した私たちの「思春期」から、二十余年の星霜が流れました。(中略)そして、今、私たちは「思秋期」――自らの“行く末”がおおよそ見えてくると同時に、何事かをなすには体力の限界を感じるたいへん悩ましい時期――にさしかかっています。私たちは「巨大な塊り」であるがゆえに、つねに社会の矛盾を集中的に受けると同時に、社会に矛盾を生み出す素でもあり続けてきました。公的年金を支え続けてきたのに、当の私たちが過労死と失業をなんとか潜りぬけて退職しても、私たちの年金を支えてくれる国民は圧倒的に足りないことが、象徴的な事例でしょう。私たちの「明日」は決して明るくはありません。だからといって私たちの「明日」を誰かにゆだねるのは、かつて私たちがもっとも嫌った道でした。それは今も私たちがもっとも嫌う道です。私たち自身が私たちの未来の当事者でなければなりません。(中略)もちろんこの20数年で私たちはそれぞれ大きく変わったことを認めなければなりません。その違いと変化を認めあう中から、新しいネットワークのありようを展望していきたいと考えます。』
その第一歩として、収入から年金・介護問題、政治参加の意思など73項目のアンケートを実施したと ころ、発送総数約5千に対して、全国86大学・高校全共闘体験者から526通の回答を得て1994年 夏に『全共闘白書』(新潮社)として刊行。この種の硬派系としては破格の4万部超を売り上げ、これが 契機となって『日大930の会』をはじめ、様々な『再会』が実現、『全共闘運動の歴史的意義』をめぐる議論にも資することができました。
あれからさらに四半世紀が経過、時代状況はますます悪化と劣化に向かうなか、私たち全共闘世代もついに後期高齢者に仲間入りします。このまま『社会のお荷物』として座して消えゆくわけにはいきません。
私たちならではの『社会的けじめ』をつけ自覚と覚悟をもって旅立ちたい。そのためにアンケートを実施、前回同様出版化して社会に発信します。おそらくこれが私たち全共闘世代の『遺言』となるでしょう。
前回回答された方はもちろんのこと、今回本企画を初めて知った方にも、ご協力をお願いいたします。
2018年12月
(中略)
以上の『呼びかけ文』につづき、収入から年金・介護問題、政治・社会制度への問題提起など前回を上回る75の設問のアンケート(詳細は12~18ページ参照)を実施したところ、2019年8月の最終締切までに450超もの回答が寄せられました。
 出身大学はのべ96校(短大、附属専門学校等を含む)、高校からものべ22校、中学生から1校、他に校名を秘匿した回答もあり、往時の全共闘運動がいかに地域と学園を超えて闘われた多種多様な運動であったかを物語っています。
 また日大・東大闘争の被告、さらに獄中からは重信房子氏、和光晴生氏、北朝鮮からは「よど号」当事者からも回答が寄せられました。
 着目すべきは、前回にくらべて“思いのたけ”が濃密に書き込まれていることです。
 おそらく、50年前、社会の諸制度に対する異議申し立ての運動を起こした全共闘運動経験者も、いまや『後期高齢者』を目前にして、これが“社会的遺言”になると自覚されてのことだと思われます。
したがって、本書を歴史的レポートとすべく、回答は基本的にほぼそのままの形で掲載することにいたしました。(後略)」

私もこの編集作業のお手伝いをさせていただいた関係で、この出版記念会に参加した。以下、その報告である。
出版記念会の司会はジャーナリストの二木啓孝氏である。

【「続・全共闘白書」出版記念会】
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二木
「只今より『続・全共闘白書』出版記念会を始めたいと思います。(拍手)
51年前の今日、1969年1月18日・19日というのは東大の安田決戦の日でした。もちろん占拠で闘った方もいます。外で御茶ノ水で神田カルチェラタンを闘った方もいらっしゃるということで、この日に皆さんと『続・全共闘白書』の記念会を開催するというのは、ありがたく思っています。
最初に、この『全共闘白書』を作ったいきさつと苦労話を、編纂実行委員会の前田和男さんから報告していただきたいと思います。」

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前田「今回の目的は、51年前に安田講堂の攻防戦がありまして、あれから半世紀が経ちました。多くの人たちが古希(70歳)を越えて、後期高齢者にもなる。先に亡くなられた方もいますが、その人たちのためにもしっかりけじめをつけて、私たちのやり残したことを語り継いでいきたいというのが今回の願いです。
25年前に私たちは『全共闘白書』を作りました。これは全共闘運動から四半世紀ということで、この時は73項目に渡ってアンケートを取りまして、526人の方が回答されました。それから25年経ったので、もう1回やろうかということで前回の回答者に郵送したところ、届いたのは200通くらいでした。かなりの人たちが亡くなられている。そのような状況の中で、今回この本が刊行されました。
25年目に比べて違うのは、最後に『今だから話せる当時のこと、今こそぜひとも伝え遺したいことを自由にお書きください』という設問があるのですが、25年前に比べると圧倒的に回答が多い。たぶんこれはある意味で私たちの『遺言』になるだろう。それも回顧というのではなくて、『何かを語り継ぎたい』ということが濃厚にある。全共闘運動が何であったのかということを、25年後にもう一度定点観測したことによって、深く浮かび上がってくるものがあると思います。是非お買い求め下さい。」

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<クロス・トーク>
二木「全共闘白書で回答を寄せた方2人に、現役の東大3年生の方が質問していただきます。回答者はこちらで指名させていただいたMさん(東大)とWさん(明大)、東大3年生はNさんです。
Nさんはどういういきさつで今日来たんですか?」

「東大3年のNと申します。よろしくお願いします。東大に『ビラ研究会』という昔のビラ、今のビラもありますが、学生運動に関わるビラを蒐集して、かつ学生の文化を研究しようというサークルがありまして、そこで活動しています。実際に当事者の方にお話しを伺うという活動をやっていますが、ご縁をいただいて、今回このような場所に来させていただきました。よろしくお願いします。」

二木「回答者の2人の方から、アンケートに答えられたことと、学生運動に関わった後、どういことをされたのか短くお話いただきたいと思います。」

「私は1947年生まれです。浪人などして東大に入り、駒場で全共闘に参加しました。最初は穏健な立場だったので、必ずしも全共闘寄りでもなかった。暴力はあまり好きではなかった。ところがクラス討論でいろんな討論をやるうちにだんだん変わって全共闘に参加するようになりました。69年の安田講堂攻防戦の前後で社会全体がもっと盛り上がる、フランスの5月革命のようになると思っていましたが、そうはならなず、がっかりして自宅にこもり、何で社会を動かせなかったのか考え続けました。社会を動かすという意味で、いろんな人を巻き込むために、地域でベ平連を作りました。また、地元の環境問題の運動にも関わりました。就職して組合活動をしましたが、組合のひどさにもがっかりして、革新系全体に対する不信感が生まれました。その後アメリカに留学。帰ってきてから企業や大学に勤め、今は沖縄の基地問題を中心にジャーナリストとして活動しています。」

「69年明大入学です。高校の時に民青系のサークルに入りましたが、67年10月8日の羽田闘争に大きな影響を受けました。東京に行って大学で学生運動をやるんだという気持ちでした。大学に入ってすぐストライキがあって、それからずっと毎日闘争に明け暮れるという生活を送りました。授業にはほとんど出ませんでしたが、大学にいる時間は長かった。学館に泊まったりする生活を送っていました。71年6月に逮捕されて72年に出てきたら、内ゲバばかりやっている。それで生協に入った。政治的課題を追いかけていても限界があると思っていたので、地域からもう1回社会を見ようと思って、ずっと生協活動を続けてきました。生協の理事長をやって、8年前に退任して今日に至っています。退任後は、差別問題とか社会的連帯経済を広める活動をしています。」

二木「Nさん、『続・全共闘白書』を読んだ印象と2人の自己紹介の感想などお話いただけますか。」

「『続・全共闘白書』は全部は読んではいませんが、感想として、最後の自由記述欄に詳細に書いている方が多くて、僕らから見れば50年以上前の先輩方ということで、そろそろ後期高齢者に入られる方が多いと思いますので、老い先短いというか、半ば遺言のような感じで僕たち語りかけるような内容がかなり多かったかなと感じました。それからお2人の自己紹介について、学生時代に大規模な社会変革を志した方だと思いますが、その意志というのを何らかの形で後の人生に持ち続けて実践しておられたというがすごいと思いますし、個人的にも尊敬できると思います。
質問ですが、全共闘運動というものが当時何故可能だったのかということをお聞きしたい。というのも、最近の社会変革をめざす運動というのは、安保法制反対の国会前の集会がありましたが、国会前ではやるが大学ではあまりやっていない、国会前の場ではやるが大学という場ではやらない。今とは質的に全然違う運動が、あの時代に何故起こることができたのか、お聞きしたいと思います。」

「難しい質問で何故だかよく分からないところもあります。ただ、背景としてベトナム戦争があった時代なんです。正義に反する戦争が行われ、政府がそれに協力している、企業も一部協力しているという、それに対する怒りみたいなものは全般的にあったと思います。それからもう一つは、高度成長の時代でしたが、その反面、水俣病などの公害がたくさん出ていて、学者たちが政府・企業に協力する、それでいいのかというのがあった。潜在的に背景として政府、企業というのは悪く見えた。アメリカも非常に悪く見えた。反発する対象というのが非常にクリアだった。東大の医学部闘争の時に教授たちは権威主義をかざした。それに対する反発があった。全般的には反体制運動というよりは、こんなに問題があっていいのかという疑問に対して教授たちは権威主義で対応した、ということが背景にあったと思います。セクトだけでなくノンセクトや一般の学生も含めて、今の社会はおかしいじゃないか、大学の在り方はおかしいじゃないかということがかなり共通の気分としてあって、戦闘的に闘った人はごく一部だったかもしれないけれど、それを心情的に支持する人はたくさんいたんです。ある世論調査で、東大の場合は6割が全共闘を何となく支持するというデータがありました。それはその時の実態を表したものだと思います。」

「やはりベトナム戦争が心に突き刺さるものがあったと思います。もう一つは60年安保世代の人たちが、闘争がなくなっていく中で、日韓闘争とか学費闘争で頑張って、それなりに社会を何とかしなくてはいけないという形でやっていて、それを67年10・8闘争みたいな形で表現していった。僕らは、体を張って角材を持って機動隊に向かっていく姿を見せられた時に、それば何故なのかという憧れみたいなものもあったと思います。一方ではピッピーとかフーテンみたいなものもあって、僕らの世代はピッピーをやるのかフーテンをやるのか学生運動で突っ張るのか、どこにどういう価値観をもっていくのか、高度成長の中で問われた時代だった。そういう背景があった。
それと大学で何故できたのかというと、それなりに大学の先生でも支持する人たちがいて、意外と寛容に見てくれていたということがあります。今は大学は立て看も出せない、ビラ撒きもできない。当時は戦争を経験した人たちが大学側にもいて、そういった運動にも寛容な雰囲気があって、我々を助けてくれた。
それと今は授業料が高すぎる。僕らの時は生活費を含めて何とかなった。今は1回やると社会復帰できないみたいな雰囲気があるような気がするけれど、僕らの時はそれはなかった。」

二木「先週の東京新聞でジャーナリストの鎌田慧さんが『続・全共闘白書』についてコラムに『内ゲバと爆弾闘争がなければ、着実の運動は拡大していたはず』と書いていました。セクトとノンセクトでは運動の風景の見え方が違っていたのではないか。Wさん、党派から見て風景の違いはありましたか。」

「僕は運動をやる時に、組織的にやることに魅力を感じていた。組織された暴力という立場で運動を考えていました。内ゲバはやりました。内部抗争で党は鍛えられるとか、『ロシア共産党党内闘争史』など読んでいました。」

二木「この『続・全共闘白書』のアンケートで『運動をやめた理由』として内ゲバというのが結構出てきます。Mさん、セクトが先鋭化することで運動を引っ張っていったけれども、その功罪はノンセクトの方にどのように見えましたか。」

「最後まで私がセクトに入らなかった理由は、一つは暴力です。それともう一つは言葉が硬直しているという印象がありました。普通の人間の感覚と全く違う世界に行って頑張っている人たちみたいで、頑張っているけれどちょと違うなという感じがあった。それとノンセクトの場合は、全く一般学生で、一部は極めて保守的な人まで全共闘に入ってきた。これはクラス討論などで蓄積されて、いろんな人が変わっていったということがあると思う。セクトの場合は初めから理論があった。その違いはものすごく大きかった。ただセクトを全く否定している訳ではなくて、セクトがあったから切り拓いたという面がずいぶんある。先鋭的な人たちと、それを支える、理解を示す人たちが膨大にいた、そういう関係にあったのではないかと思います。ただ、闘争が終わった後、どう振る舞うかという面ではセクトの人はセクトに依っていくわけで、セクトの理論でいくか迷いがあったのでしょうが、ノンセクトの場合は個人に還元されたということがあって、それぞれがそれぞれの道を選んで、いろんな形で社会の中に入って社会の中でどう貢献するのか、何をやったら全共闘の中で得たものを活かせるのかと考えた人は非常に多かったと思います。全部が全部、目的意識を持って生きてきたかどうかは別ですが。」

二木「セクトとノンセクトの違いは、社会主義とか共産主義とか革命を目指すのか目指さないのかということだと思います。Nさんにとって社会主義とかマルクス主義はどう見えますか。」

「古典化されたものとしては終わりつつある。研究方面では新しい読み方も出てきたようですが、個人的にはどうかなと思います。」

二木「最初のクロストークはこれで終わらせていただきます。」

<参加者からの挨拶>
二木「中国から留学してこられて、現在は神戸大学で講師として教えていらっしゃる劉燕子さんから発言をお願いします。」

「みなさん今晩は。私はリュウ・イェンズといいます。インターネットで今日の集会を知り大阪から参りました。私は若い世代の一人として、記憶を継承することの大切さを思っています。『続・全共闘白書』は送っていただき、新幹線の中で読みました。資料集としてとても大切だと思います。25年前の『全共闘白書』も読みました。私は日本戦後の歩んできた歴史、社会運動にとても興味を持っています。私は大学で中国語を教えながら、日本語で伝えようとしています。忘れられた声、抹殺された声をすくいあげて日本の読者の伝えようとしています。私は天安門世代です。1989年の天安門事件は、まだ皆さんの記憶にありますでしょうか。去年、30周年になりました。皆さんの(全共闘運動と)同時期に中国で文化大革命がありました。数千万人が命を落としました。この文革も、天安門事件も今日の中国ではタブーで一切伝えることができません。記憶するどころか抹殺しようとしています。どうやって記憶を次の世代に伝えるか、私は学生に教える時も、やはり『おかしいことはおかしい』と気づく感性とそれを支える知性を教えたいです。また、『おかしいことはおかしい』と言う勇気とともに、実践することを続けることの大切さを伝えたいと思っています。
皆さんに質問がたくさんありますが、一つだけ質問させていただきたいと思います。さっき、運動に参加するきっかけが時代の雰囲気とか不正義な戦争、ベトナム戦争とか、またパリの5月革命など仰っていました。この本の中で、同時代の中国の文化大革命、『造反有理』についてあまり語っていないなと思っています。当時のセクトはたくさんの言葉、『粛清』『粉砕』そういう言葉をそのまま使っているんですけれども、この本の中に中国の影響についてあまり語られなかったので質問したいと思います。戦後の中国は、日本の思想史、精神史に大きな影響を与えたと思いますが、どう思いますか?また、もう一つは、25年前に出した『全共闘白書』では、中国に対するイメージは好きな国というのが多かったのですが、今回は中国が嫌いが増えていますので、質問したいことがたくさんあります。時間がありましたらよろしくお願いします。」

二木「劉さんの質問は全員答えられると思います、懇親会でお願いします。劉さんは翻訳の本をいっぱい出しています。ご存知の劉暁波さんの本もあります。今日も持ってきています。是非買ってください。」
(劉燕子さんのプロフィール:中日新聞記事より)
1965年生まれ。中国湖南省で育つ。祖父は文化大革命で牛小屋に拘禁されて死去。父は北京大学に在籍していた時に「準右派分子」とされ、除籍後に鉱山で労働改造を続けさせられた。師範専門学校を卒業後、地元の教育委員会に勤務していた89年に天安門事件が発生。来日して関西の大学院などで学び、現在は神戸大などで非常勤講師として教えつつ日中バイリンガルで著述・翻訳。2003年に日本国籍を取得。劉暁波氏や亡命作家などの中国では発表できない作品を紹介。天安門事件の30年に合わせて「『〇八憲章』で学ぶ教養中国語」(集広舎)を出版するなど著作多数。
(劉さんからの補足)
1.同時代の中国文化大革命、そこにおける「世界革命」や「造反有理」が全共闘のみなさんにどのような影響を与えたのか、日本の戦後の精神史にどのように位置づけられるのか、知りたいと思いました。
2.みなさまの努力や記憶を継承し、おかしいことはおかしいことと気づく感性とそれを支える知性をもって、「おかしい」と言い、行動する信念や勇気を持ち続けたいと存じます。
このことをバイリンガルの執筆活動や授業を通して一所懸命に若い世代に伝えようとしています。

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(中日新聞記事)

二木「続いて元総理、菅直人さんがお見えになっています。」

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「私は本来なら1969年に卒業予定でした。東工大はあまりストライキのないところなんですが、その直前にストライキになりまして、ちょっと首を突っ込んだら首が抜けなくなって1年間留年をして、その時に『全学改革推進会議』というセクトとは関係のないグループを作って、今でもその仲間と会っています。ストライキの翌年に機動隊が入っていわゆる正常化が行われた翌日から、学生が全部出てきて授業が始まった。私は4年生で卒業していたので授業に出ていませんでしたけれども、あまりにもあっけなかったので、その時『全共闘運動に対する共感と批判』という論文を書きました。持ってきましたので、関心のある方はご覧ください。

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もう一つ言いますと、せっかくあれだけの運動がありながら、その後の日本の政治、一般的な意味での政界に、ヨーロッパでは多くの方が出て来られたと聞いていますけれども、日本では例えば東大全共闘だった今井さんだとか、亡くなった仙谷さんとか、そういう何人かの方は政界に出てこられましたが、政界に出てきた方が少ないのが、私としては残念です。その原因は、さきほど二木さんが言われていましたが、内ゲバの延長上にいろいろな問題があって、がんばった方ほどやはり挫折感があったのではないか。挫折感があったので、立候補しようという話にはならなくて、私みたいに能天気な人間の方が、市民運動を通してそういうところに入っていったら、何かそういうことになっちゃったということなんですが、そういうことで今日はメールが来たものですがら、ちょっと顔を出してみようかなと思ってやってまいりました。
『全共闘運動に対する共感と批判』という論文を持ってきましたが、今読んでどうということはないんです。あえて一言いえば。私は全共闘運動というのはマルクス主義の運動とは全然見ていません。つまり疎外だとか文明批判だった。『共感』と書いたのは文明批判の部分が『共感』なんです。『批判』は古典的マルクス主義は当時から論理としても成り立っていないと思っていましたので、そんなことを書きました。」
(注:「全学改革推進会議」は「全共闘」とは別のグループです。詳しくは記事の最後に掲載した「全国学園闘争アーカイブス」の「全国学園闘争東京工業大学編」を参照して下さい。)

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(『全共闘運動に対する共感と批判』)

二木「菅さんありがとうございました。今日来られないということで、何人かからメッセージをいただいています。」

<メッセージ>
「この度は『続・全共闘白書』をお送りいただきありがとうございます。拝読いたします。
鳩山由紀夫」
「集えば50年という歳月が一瞬に吹き飛んでしまうような気がします。でも確かに半世紀生きてきたそれぞれのその後の人生があると思います。今回の出版の労をお取り下さった皆さまにただならぬご苦労をおかけしました。記録として残していただいたことに感謝します。
阿部知子」
「れいわ新選組代表の山本太郎です。
『続・全共闘白書』の出版、おめでとうございます。
『続・全共闘白書』の設問中『もっとも好きな政治家』『好き嫌いは別にしてもっとも注目する政治家』では、私、山本太郎がダントツの1位、また『もっとも注目する政党』でも、私が代表をつとめる『れいわ新選組』が立憲民主党についで2位と伺いました。
誠に光栄です。
また、『もっとも注目する言論人』では白井聡さんが1位とのこと。古稀をこえた元全共闘のみなさんが、私や白井さんのような若い世代との連携を求めていることは大変心強いことです。
50年前に日本と世界を変えようとしたみなさんの熱い闘いを、私たち下の世代がしっかりと引き継ぎたいと思います。
本日はぜひとも駈け付けてご挨拶かたがた、皆さまからエネルギーをいただこうと思っておりましたが、この土日は、安倍一強政権を打倒するため全国キャランバンに出かけます。
ご盛会をお祈りすると共に、これからも、共に闘い続けることをお誓いしたいと思います。
れいわ新選組代表 山本太郎」

第一部はこれで終了し、会場設営後、第二部の懇親会に移った。

<乾杯>
「皆さまの益々のご健勝と、日本社会が少しでも良くなるように、また、トランプなどを許さず、香港の若者たちに連帯して乾杯!」

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懇親会では何人かの方から発言があったが、発言は省略する。(会場内が騒がしく発言がよく聞き取れない。)

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懇親会の最後はやはりこれ。全員でインターナショナルの斉唱で締めた。

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懇親会の後は近くの店に移動して二次会。出版記念会参加者の半数近くの方が参加して盛り上がった。

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(終)
【全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」では、高校・大学合わせて約120校の方からアンケートが寄せられた。
東大・日大闘争以外の学園闘争は記録もほとんどなく、いわば「知られざる学園闘争」となっているが、この「白書」をより深く読むためには、それぞれの闘争の内容を知る必要がある。
このブログでは「全国学園闘争の記録」として、今まで、大学では明治大学、明治学院大学、青山学院大学、東洋大学、東京工業大学、竜谷大学、上智大学、立命館大学、慶應大学、関西大学、国士館大学、拓殖大学、国際基督教大学、関西学院大学、大阪市立大学の闘争について掲載してきた。
また、高校では都立青山高校、都立日比谷高校、都立立川高校などの闘争も「高校生たちの闘い」として掲載してきた。
ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」では、各大学の大学新聞やビラなど資料も公開している。
今後も出来るだけ「知られざる学園闘争」を掘り起こしていきたいと思っている。
さて、今回の「出版記念会」での菅直人氏の発言の中にあった「全学改革推進会議」とは何であったのか、以下の東工大の記録をご覧いただきたい。

1968-69全国学園闘争 東京工業大学編その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-23.html
1968-69全国学園闘争 東京工業大学編その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-30.html
1968-69全国学園闘争 東京工業大学編その3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-11-06.html
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【お知らせ その2】
「高校闘争から半世紀」~私たちは何を残したのか、未来への継承~

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日時:2月11日(祝)13:00~17:00
会場:連合会館 2階大会議室
(千代田区神田駿河台3-2-11 東京メトロ「新御茶ノ水」駅 B3出口すぐ
JR中央線「御茶ノ水」駅 聖橋口徒歩5分
【プログラム概要】
Ⅰ部 1968 年は我々に何をもたらしたか ―自己否定を巡って― 山本義隆(東大全共闘)+高校全共闘(都立青山高校・麻布学園高校・教育大付属駒場高校・県立仙台一 高・慶應高校・灘高校・都立日比谷高校・県立掛川西高校・都立竹早高校など)が登壇予定 司会:高橋順一(武蔵高校・早稲田大学教育学部教授)
Ⅱ部 運動の現場から ―香港の学生・日本の高校生の闘い―
香港の闘う学生+日本の闘う高校生+高校全共闘+全中共闘などが登壇予定 司会:初沢亜利(ドキュメンタリー写真家、東北・沖縄・北朝鮮・香港などの現場撮影取材)
Ⅲ部 ぼくたちの失敗 ―僕たちは何を失い何を獲得したのか―
高校全共闘(都立上野高校・都立九段高校・新潟明訓高校・県立旭丘高校・県立千葉高校・都立北高校・ 府立市岡高校・都立立川高校など)+全中共闘(麹町中学・日本女子大付属中学など)が登壇予定 司会:小林哲夫(高校紛争1969‐1970「闘争」の歴史と証言 著者)

【お知らせ その3】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」
1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その4】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月21日(金)に更新予定です。

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