野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2020年03月

2020年2月11日(祝)、東京・御茶ノ水の:連合会館大会議室で「高校生が世界を変える!高校闘争から半世紀~私たちは何を残したのか、未来への継承」と題したシンポジウムが開催された。

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(チラシ写真)
【プログラム概要】
Ⅰ部 1968 年は我々に何をもたらしたか ―自己否定を巡って― 山本義隆(東大全共闘)+高校全共闘(都立青山高校・麻布学園高校・教育大付属駒場高校・県立仙台一 高・慶應高校・灘高校・都立日比谷高校・県立掛川西高校・都立竹早高校など)が登壇予定 司会:高橋順一(武蔵高校・早稲田大学教育学部教授)
Ⅱ部 運動の現場から ―香港の学生・日本の高校生の闘い―
香港の闘う学生+日本の闘う高校生+高校全共闘+全中共闘などが登壇予定 司会:初沢亜利(ドキュメンタリー写真家、東北・沖縄・北朝鮮・香港などの現場撮影取材)
Ⅲ部 ぼくたちの失敗 ―僕たちは何を失い何を獲得したのか―
高校全共闘(都立上野高校・都立九段高校・新潟明訓高校・県立旭丘高校・県立千葉高校・都立北高校・ 府立市岡高校・都立立川高校など)+全中共闘(麹町中学・日本女子大付属中学など)が登壇予定 司会:小林哲夫(高校紛争1969‐1970「闘争」の歴史と証言 著者)

今回は、前回の第一部に引き続き、このシンポジウムの第二部の概要を掲載する。概要なので、発言を全て掲載しているわけではない。第二部はプログラムが一部変更となっている。第三部も今後概要を掲載していく予定である。

【第2部】
<登壇者プロフィール>
初沢亜利

写真家 1973年フランス・パリ生まれ
上智大学文学部社会学科卒 写真集に「Baghdad2003」「隣人、38度線の北」「TrueFeelings 爪痕の真情」「沖縄のことを教えてください」などがある。東川賞新人作家賞、日本写真協会新人賞、さがみはら写真新人奨励賞受賞 2019年には香港を取材。植民地主義をテーマに作品を発表している
劉燕子(リュウ・イェンズ)
1965年生まれ。中国湖南省で育つ。祖父は文化大革命で牛小屋に拘禁されて死去。父は北京大学に在籍していた時に「準右派分子」とされ、除籍後に鉱山で労働改造を続けさせられた。師範専門学校を卒業後、地元の教育委員会に勤務していた89年に天安門事件が発生。来日して関西の大学院などで学び、現在は神戸大などで非常勤講師として教えつつ日中バイリンガルで著述・翻訳。劉暁波氏や亡命作家などの中国では発表できない作品を紹介。天安門事件の30年に合わせて「『〇八憲章』で学ぶ教養中国語」(集広舎)を出版するなど著作多数。1960年代に関する論考は「社会暴力の動因と大虐殺の実相-譚合成『血の神話』における湖南省道県のケースから-」(『思想』2016年1月号特集「過ぎ去らぬ文化大革命・50年後の省察」掲載で、同時に啓之「内モンゴル文化大革命における『えぐり出して粛清する(?粛)』運動-原因、過程、及び影響-」とオーセル「『殺劫』-チベットの文化大革命における一連の事件を手がかりにして-」も訳載)、共著『中国が世界を動かした「1968」』(藤原書店、2019年)、共編著『文革受難者850人の記録―負の世界遺産―』(集広舎、2019年)など。

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総合司会:金廣志氏
「それでは第二部を始めたいと思います。香港での闘いのニュースが流されていますけれども、香港の闘いを取材されてきた初沢さんを中心にお話をいただこうと思います。初沢さんは、沖縄や北朝鮮、現在は香港を取材されている、写真家でありながらジャーナリストです。お隣は在留香港人のAさんです。その隣は劉燕子さん、現代中国文学者で神戸大学の講師もされています。その隣は、現在の日本の若者が香港の闘いに対してどう感じているのかということもお話いただきたいと思いまして元大学生のBさんです。初沢さん、進行よろしくお願いします。」

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初沢「フォトグラファーの初沢亜利と申します。よろしくお願いいたします。実は昨日まで香港におりまして、まさにコロナウイルス下の香港の状況を見てきたわけですけれども、ちょっと我々からすると想像を絶するくらい彼らはパニック状態に陥っていまして、香港人はほぼ100%マスクをしてます。当然、マスクは足りない。マスクだけでなく水も足りない、トイレットペーパーも足りないということで非常にパニックに陥って、毎日さまざまなところで列が出来ているという風景がありました。
何故かなと考えたら、一つは2003年のSARSの記憶が生々しいということがあります。それと、この半年間続いてきたデモと、ある種地続きになっているような印象を受けました。日本から見るとコロナウイルスの話で香港のデモは終わったのではないか、あるいは12月くらいからほとんど報道もなされなくなって、多くの最前線の人たちが逮捕されて、これで香港のデモが落ち着いてくるだろうと思われている方も多いと思いますが、今回のパニックの一つ大きな原因というのは、この半年間、それ以前からと言ってもいいんですけれども、香港人がどれだけ香港政府とそして中国の中央政府に対して信用していないか、信用できないか、全く信用できないことを前提としています。我々がコロナウイルスのニュースを見る時、一応中国政府が出した数字というものをベースに報道し、我々も一応それを信じた上で状況を見ているわけですけれども、香港の人たちは全く中央政府の発表を信用していないわけです。ほとんどの人たちがゼロが二つ多いと考えています。その状況で自分たちがどう身を守ったらいいのかということになれば当然パニックに近い状況になるということです。今回、何人かの方に取材しようと思って行ったんですけれども、彼らは家から出たくないという状況で、なかなか取材も思うようにいかないということもありました。つまり、この半年間のデモのある種の延長線上に、今回のコロナウイルスの香港人のかなり強い反応というものがあるんだなと確認したわけです。
さて、香港の話をどのように進めたらいいか難しい点もありますが、特に昨年起きたデモがいったい何なのかということは、分かりにくい部分があるのではないかと思います。皆さんは当然かっての自分たちの闘いというものと、今の香港デモを比較しながら、あるいは過去の記憶をたどりながら見るということになろうかと思いますけれども、なかなかそのような視点だけでは見えてこない香港の現状があると思います。例えば分かりやすく言うと、この半年の香港の闘いのリーダーは不在だと言われています。リーダーが不在で、どうして半年以上も闘いが続けられるのかということを皆さんとても不思議に思われると思いますし、更には内側での内ゲバ的な対立が全くといっていいほど起きていないわけです。2014年の雨傘運動の時は、そのような対立が起きて活動が弱体化したわけですけれども、その教訓を経て、今回内側での仲たがいというものが起きていない。特に、最前線にいる勇武派と言われる人たちと、和理非と言われる多くの平和的市民、750万人のうち200万人がデモに参加するという状況ですから、その平和的な市民と勇武派の間で分断が起きていない。当然香港政府としてもこの分断というものを大きく世界に報じようというような画策もあったわけですけれども、それに反してむしろ多くの平和的市民は一層支持するようになって、その中で11月の区議会議員選挙の民主派大勝という流れになっていったわけです。どうして内輪もめが起きないんだろうということがあると思います。そしてもう一つは、例えば弱体化していくと、わずかに残った過激派がテロリスト的な非常に過激な行動を最後に残すのではないか、ということも皆さんの記憶の中から予想できるわけですけれども、そのようなことにもなっていないし、おそらくならないであろうということです。その辺をどのように見ていったらいいのかということを踏まえて、在留香港人のAさんの話も聴きながら、あるいは劉先生の話も伺いながら話を進めていければと思います。
劉先生は中国ご出身でいらっしゃいまして、さまざまな、もちろん香港だけではなくてチベットやウイグルとか広い意味で中国の人権問題を見てこられていると思いますが、今回の香港のデモをどのようにご覧になっているか、まずお話いただければと思います。」

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「中国語を教えながら、中国語と日本語で文筆活動をしています。私の両親は中国湖南省で、私自身は天安門世代です。今日参加させていただいて、最初(第一部)に流れていたインターナショナルは、今、中国ではメロディーは流せますが、歌詞は全く歌うことはできません。『起ち上がれ、飢えと寒さに苦しめられる人民よ』とかそういう歌詞は中国共産党に非常に都合が悪いということです。また、2018年末、北京大学のマルクス主義研究サークルの学生や広東省の工場で独立労組を設立しようとする労働者を支援した学生たちは暴行され、身柄を拘束されました。先月、日本では50年前の全共闘に関する『続・全共闘白書』の本が出版されましたが、中国では「六・四」天安門事件のことは全くタブーで、一切話はできません。
私は、香港には今までシンポジウムや研究交流などで何十回も訪ねました。その中で一番関心を持つのは、今回、香港の若者はどのように30年前の天安門精神、つまり民主、自由、公正、全ての不正義なことに対して、おかしいことに対して声を上げてきたのか、それと「六・四」天安門事件の影響はなかったのかということです。去年の8月、9月に香港を訪れて、香港中文大学やいくつかの大学のシンポジウムに参加して、また学生たち市民たちのデモの現場にいて、実際に生の声を聴くことができました。
「六・四」天安門事件は中国では一切伝えることはできませんが、この30年の間に香港のビクトリア公園では毎年6月4日、市民たちはロウソクを灯して記念集会を続けてきました。香港の大学生、若い人たちはどのように天安門事件のことを知っていたのか、やはり学校の先生、親たちの言い伝えでした。また、香港では世界で唯一の天安門記念館があります。そこにも訪ねたことがあります。何故香港の若者は中国を愛せないのか、彼らのアイデンティティはどのように変わってきたのか。私がインタビューした若い人たちは1997年、つまり『一国二制度』において、香港が中国に返還された以降に生まれた人で、中国政府=中国共産党が素晴らしいという愛国教育の叩き込みや、政治経済制度の見直しによる香港と本土の統合強化に反対していました。8月31日の流血事件(キリスト教会が主催した「讃美と散歩」)の時は私も現場にいました。その日、香港の中環地区や金鐘地区では警察が催涙ガスや放水車など用いて「散歩隊」を解散させました。香港の若い人、特に若い女の子が私のそばにやってきた時、みんな体が震えながら『私怖いです。しかし今起ち上がらなければ、もっと怖いです』と言っていました。それを含めた調査をして、いくつか論文を書きました。香港の若者が今回起ち上がったこと、中国の一党体制に対してNOという勇気があることに敬服しています。香港のことは、今後の中国大陸の民主化運動、政治にどのような影響を与えるのか、あるいは武漢の新型肺炎での封鎖のことは経済や強権的管理体制にどのような影響があるのでしょうか。今のところ中国は大きな地殻変動が見えないですけれども、しかし長いスパンで見れば必ずヒビが入っていると思います。」

初沢「Aさん、自分が見てきた感じてこられたこの半年間のデモについて、自己紹介を含めて少しお話いただければと思います。」

在留香港人Aさん「日本に来て1年半くらいになります。2014年の『雨傘革命』の時は大学生で、『雨傘革命』に参加しました。残念ですが、その時は『雨傘革命』が終わって香港は何も変らなかったけれど、去年から香港でまたデモが起きて、自分は海外の日本にいますけれども、今は東京で香港デモ応援の活動をさせていただいています。」

初沢「Bさんお願いします。」

日本の元大学生Bさん「昨年、東洋大学を卒業しました。知っている方は知っていると思いますが、竹中平蔵による授業反対ということで大学で立て看を掲示して、大学から2時間半の尋問と退学を示唆するような脅され方をして、戦ったということです。運動は一時期盛り上がったんですけれども、継続的に盛り上がらないという状況で、そういった日本のことを感じながら、すぐ海の先の香港がこれだけ盛り上がっている状況に対して、どうしたらいいんだろうというか憤りというか、もう社会人になるとよけいに今の閉塞した社会の状況を受ける中で、逡巡していることろです。今日は香港の学びからも、過去の日本の学びからも、いろいろ得ていきたいと思っています。」

初沢「先ほどの山本義隆さんのお話の中でも、京都大学に行ってみたら香港の学生に連帯する立て看板の一つもない、というお話もありましたけれども、香港に積極的に支援あるいは心情的にも応援しようかなと思っている層というのは、どちらかというとかなり右寄りの人たちの方が多くて、『チャンネル桜』を見ると、ひたすら『香港がんばれ』という話をやっていたり、あるいは香港の市民にかなり寄った記事を書いているのは産経新聞だったりします。左の方は、左も様々ありますけれども、特に若い人たちはどうしても暴徒化したかに見える今の若者たちの抗議に対して反感があったりする部分もあるのでしょうか、どうも警察の暴力と若者たちの暴力を等価にして見てしまう。12月に香港に行った時に、若いプロテスト派の人たちから言われて僕はすごいショックを受けたことがありまして、それはヨーロッパとか韓国とかアメリカの報道、もちろん日本の報道も含めて彼らは実によくチェックしているんですが、『日本の報道が最も中国寄りである、世界の国々の報道に比べると圧倒的に中国寄りであるのは何故なんでしょうか』と非常に寂しそうな表情を浮かべる方たちがいまして、僕自身香港に行くまで知らなかったんですけれども、香港人というのは恐らく世界で最も日本のことが好きな人々で、人口の4人に1人くらいは日本に旅行に来ているんですね。毎年のように旅行に来ている、あるいは5回10回と来る人たちがいる、そのくらい香港の人たちは日本を愛しているわけですけれども、それに比べて我々は香港のことを知らなすぎるし、彼らの闘いと意味というものについて理解を深めるきっかけもないのかなと思います。
Aさん、日本で生活をされていて、おそらく香港デモを毎日チェックしながら、そして在日香港人の年令が近い世代の人たちと一緒に運動されていますが、この日本の反応、日本人の反応を、どのようにこの半年間感じていらっしゃいますか?」

在留香港人Aさん「そうですね。今、僕はだいたい30人の在日香港人の人たちと一緒のチームで活動しています。他の日本人のチ-ムもいて、他に香港から日本に来て自分で活動やイベントをやっているグループもあります。今、東京にいる在日香港人から見ると、日本人からの注目はまだ足りないと思います。メディアの報道も少ない。
こちらのチームの目標は、できれば今の香港の現状をなるべく日本人の方に伝えたいという方針で活動しています。例えば、毎週、東京のどこかで街宣をやったり、学術的な交流会をやっています。デモに関心を持つ人たちの反応はとてもいいですけれども、一般大衆は香港の状態にあまり関心がないと思っています。」

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「私たちの関心というは、香港の市民と勇武派といわれている人たちが乖離していない状況ですよね。これは私たちの運動の時に、そういう一時期もあったんです。67年の佐世保での闘いとか、68年の王子野戦病院の時は私たち高校生もデモ隊を組みましたけれども、大変な拍手を受けながらデモをやったんですね。しかし、皆さん経験があると思うんですけれども、我々の運動というのは、ラジカルになっていけばなっていくほど、根底的なところを問うほど、いわゆる社会あるは市民と遊離していったという経験があるわけです。香港では、勇武派といわれている人たちと一般市民が何故あそこまで連帯できるのか。私たちが目指したものと違うものがあるのではないか。そのあたりについてお伺いできればと思います。」

「確かに、香港だけでなくウイグル、あるいはチベット、中国民主化の問題を取り上げる場合はとてもねじれた現象で、大きなジレンマに立たされているんです。ややもすれば右翼的あるいは左翼的と言われるので。特に香港の場合についていえば、勇武派が闘っていることを暴力的とか、私もいろんな話を聞きました。『これは日本の全共闘とよく似ているのではないか、最後に「あさま山荘」になるのではないか』と。でも、友人のアーティスト三木(サンムウ)を紹介します。彼は武蔵野美術大学に留学してから香港に帰りました。彼は戦争や虐殺など人間に対する不合理なこと全てを芸術のテーマにしています。彼は60年代の全共闘と今日の香港に話が及ぶと、はっきりと反植民地や反権威主義では共通するが、他では違うと語りました。しかし、これは日本というより、報道の問題と言えます。
香港の私の友人たち、ジャーナリストや大学関係者はほとんど穏健派の和理非(平和的非暴力的理性的)ですけれども、香港の穏健派と勇武派は対立しているのではなくて、むしろ運命共同体です。香港の「六・四」天安門事件記念館のボランティアをやっている友だちは、『警察は本当にフル武装でやってきて、私たちは手に何も持っていない。石ころさえ持っていない。でも、私たちは一歩も現場から逃げたりしません。勇武派たちと一緒にいます。彼らたちが前線で身を以て対峙しているからこそ、私たち穏健派が存在できるのです』と言っていました。ところが、日本の場合、報道する時、勇武派は暴力的というような、そういう生々しい場面があまりにも多い。でも、実は体制側、警察側の暴力はそれ以上です。私は現場で目撃しました。8月31日、警察がやってきて地下鉄の中に入りました。どうして警察は地下鉄の中に入れるのか?香港の地下鉄の会社が協力しなかったら入れるでしょうか?あんなに若い人の血が流れている時に、安全地帯に身を置く人が勇武派の暴力を責めることができるのでしょうか?私たちは、この問題に右翼とか左翼とかイデオロギーを超えて、普遍的価値を求めて、おかしいことに対しておかしいと声を上げること、そして勇気を出してNOという声を出して行動を起こすことではないでしょうか?私たちはメディアやSNSなどの様々な情報に埋もれて確かな情報が見えなくなっています。自分の肉眼で現場を見る、そして自分の耳で肉声を聞くことが必要ではないかと思います。
私はこの11年間、日本に劉暁波さんのことを伝えようと一生懸命に声をあげています。彼は1989年、天安門広場で学生たちに武器の放棄を説得し、仲間を戒厳部隊に派遣し、対話を進め、これにより最悪の流血を防ぎ、無血撤退を実現させました。2008年に『〇八憲章』をネットで発表しましたが、すぐに封鎖されました。
ノーベル平和賞を受賞することはアジアにおいてとても大きなことです。劉暁波さんは決して『中国の劉暁波』ではなくて『アジアの劉暁波』です。私たちは自由、民主、公正を求め強権体制に立ち向かうという意味で共通の運命にあります。そういうことを考えずに、勇武派が冷たい視線を浴びて全共闘と似たようなものと言われる時、私たちは勇気を出して彼らの傍に立って、ただ勇気を与える、拍手すること、『あなたたちがやっていることは正しい』と言うことです。香港の若者には皆さんの応援が必要です。正しいことをやっている時は『君、前に進め。僕たちは傍にいる』と言うことがとても大切だと思います。」

「今、劉さんからお話いただきましたが、まだ疑問があります。例えば香港理工大で千人近くの学生たちが立て籠もって、僕なんかは東大の安田講堂と重ね合わせて見ていたんですね。これは香港最後の闘いになるんだ、この闘いの後というのは香港の闘争の未来はあるのか、逆にこれで崩壊していくんじゃないかと見えたわけです。ですから、ただ連帯ということではなくて、いわゆる勇武派といわれる人たちと市民がどこが一緒になっていて、どこが実は違うんだということをAさんに聞いてみたい。」

在留香港人Aさん「少し話を戻しますが、何故平和派(平和的な穏健派)と勇武派が分裂していないのか、もう少し説明します。2010年の雨傘革命の時は学生組織と民主派がリーダーだったので、結構平和な手段を使っていました。でも、雨傘革命の失敗で、みんな平和的手段の限界を知ったから、今回のデモも最初は100万人、200万人を集めたりヒューマン・チェーンをやったり平和的手段を使って政府にプレッシャーをかけましたが、何も変えられない。ですから、平和的手段に期待していない一部の勇武派が出てきた。勇武派の行動により少しずつ変化が出てきて、逃亡犯条例改正案が撤回されました。皆も平和派と勇武派は別々ではなくて一緒に行動した方がいいと思っています。
何で市民と勇武派が別れていないのか。たぶんこれは平和派がとても役に立っていると思います。今まではデモ中にデモ隊の人がレンガを投げたり警察と衝突したら、たくさんの市民は、こういう人たちは暴徒だと言って、結構悪いイメージがありました。でも、今回のデモで平和派の人は一般市民にたくさん宣伝します。例えば、勇武派の人が何で警察に物を投げたり反撃するのか、その理由など説明します。例えば、一般の住宅地の近くの施設にたくさんポスターを貼って、何で今私たちが反抗しているのか、ちゃんと一般市民に説明します。
とても重要なことは、今は大規模な衝突は減っていますが、香港のデモ隊は闘争の方法を変えて、一般市民にもデモ(抗議行動)に参加する手段を与えています。例えば、今、『黄色経済圏』というものが出来ています。『黄色経済圏』というのは、黄色は反政府の人たちの色です。経済圏というのは、反政府の人は政府もしくは親中派の店を使わない、こういう形で一般市民にも日常生活の中に、こういう行動精神を植え付ける。こういう形で私たちが今起ち上がる必要があることを一般市民に教育する。この行動があるので、一般市民も少しずつ、勇武派の行為に賛同できなくても理解してくれています。」

「少し補足します。私は現場で老人たちやお母さんたちの支援隊と何度も出会いました。老人たちは背中に『子供を守れ』と書いて、お母さんたちは手作りのおにぎり、クッキーで。クッキーの中にも『子供を守れ』と書いています。老人、年寄りたちは、自分たちが頑張れなかったので香港は今日こうなったと、若い人に贖罪意識を持っています。後ろめたい気持ちを持っています。ですから、彼らは穏健派ですけれども、いつも警察と闘う時は、子供を守って最前線にいました。ですから、今の質問の勇武派と穏健派のはっきりとした線がないんです。先にお話ししたアーティストの三木(サンムウ)は、こう言います。『若い人がどんどん逮捕されたら、私たちは穏健派ですけれども、私たちは身を挺して行かなければなりません。この時、私たちは勇武派になるのではないか。今は銀行員の息子が最前線。息子が倒れたら親父の番になる。親父が倒れたら、おばあちゃんが行く。おばあちゃんなんて、100万人、200万人のデモ参加者の数に入ってないだろう。だが毎回、車椅子で隊列の一番最後についてきている』と言います。ですから、勇武派と穏健派のはっきりとした線はないんです。『彼らが存在しているからこそ私たちがいることができます。私たち穏健派が身を引いたら、彼ら子供たちは危険に晒されるのではないか』と思っています。
昨年、特に香港理工大学は市の中心部にありましたので、あれほど熾烈な闘いになりましたが、市民たちは街を出て、一人ひとり救援活動をしました。こうして30年前の天安門事件から今日の香港まで、香港の市民たちは、彼ら一人ひとりが勇気を持っているからこそ、闘っているからこそ、一人ひとりが勇武派ではないかと思います。」

「香港で今闘っている人たちの親たちが、ある意味で負い目を持っていて、若者の闘いに共感しているというお話しがありましたけれども、私たちの世代はまったく違います。我々の親は戦中派ですけれども、我々の運動に対して非常に否定的で『そんなことするんだったら勉強しろ』とか『お前の将来どうにもならなくなるぞ』とか言われる状況でした。あれから50年経って、我々は昔は暴力を肯定していたけれども、今はみんな平和主義者ですよ。みんな『平和にデモしましょう。暴力はいけない』と言っている。香港は違いますよね。暴力という概念が違うのかもしれませんが、初沢さんが取材してきた中で、日本の運動と香港の運動との縦と横のつながりですよね、そこの違いみたいなところをお聞きしたいのですがどうでしょうか。
あともう一つ。『時代革命』という言葉を使っていましたが、『革命』という言葉は中国にとっては、俺たちを引っくり返そうとしているんだなということですよね。私は、これはとてつもない領域の闘いになったと思ったんですけれども、意外と香港はその辺は懐深く戦っているとも感じています。それについてもお聞きしたいと思います。」

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初沢「『時代革命』は劉さんからお話いただくとして、今回、現場で見ている限りは明らかに暴徒と見えますよね。本当に数メートルの距離で写真を撮っているわけですから、地下鉄の中を壊したり激しい暴動が起きていたことは確かですけれども、それを傍で見ている香港の人たちの中には、ちょっとやり過ぎだなという声も一方では聞かれますが、それ以上に警察の暴力というものがあまりに激しかった。そして、それを香港の人たちは毎日、家でもレストランでも現場の映像が流れていて、それを見ながら暮らしているという状況が半年間ありましたから、その警察の暴力の異常性、かつて香港の警察は市民から大変尊敬されている時代があって、それが一気に逆転する形で、警察の暴力を半年間市民が見続ける。そして、その警察の暴力を政府が一切取り締まらない。更には親中派がデモ隊に攻撃を加えたりすることもありますが、彼らが逮捕されることはない。明らかに警察の行為が法の支配の基にあるとは言えない、完全に法治が崩壊したような状態になっていることを市民が日々映像を通じて、あるいは現場を通じて目の当たりにしているということが、勇武派を市民から引き離す以前に、警察の行為に対する批判、それを一切取り締まらない政府、すなわち法治の崩壊というものを、むしろ市民はその事の方が恐怖感を持っていることだと思います。
200万人以上の香港市民が、5千人と言われる最前線の人たちを背後で支えるという状況が続いていたわけです。そこでは様々な支え方があって、香港は日本と少し違ってかなり寄付文化が浸透していまして、クラウドファンディングなどを通じて弁護士費用を出したり医療費を出したり、彼らの生活費を出したりという形で、数十億ともいわれるお金を一人一人の市民が出している。それも、20代の平和的なデモにしか参加しない社会人に成りたての人に話を聞くと、『お金はないけれども、少しずつ出して20万円ほど出している』と、そういうことの積み重ねで、彼らの最前線の活動も維持されている。その意味では一体となっているわけです。しかし、当時の日本と今の香港の状況が一つ大きく違うのは、民意を暴力的な形でも平和的な形でも示したとしても、そして実際に政治権力は持たないですが、区議会議員の選挙で民意が反映されても、何ら香港というものは変わることはない。すなわち民主主義というものが存在しないことの壁に香港市民はぶち当たっているわけです。これが当時の日本であれば。皆さんの当時の運動を半数以上の日本人が応援したとすれば、次の選挙によって大きく市民の主張が政治に生かされるわけですが、そのような民主主義の体制が香港にないということが、彼らの闘いが本当に切実であり、辛い部分であると、僕はカメラを持って常々感じていたところです。」

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「私たちは闘いのピークの時に、香港の区議会議員選挙のように市民が圧勝することはないんです。反対に負けるんです。自民党が圧勝して、民主連合政府とか提唱していた社共がいっぺんに衰退していくんです。お話を聞いていると、我々の断絶した運動と、香港の一体化した運動の差というものを、もっと詳しく聞きたいんですけれども、時間が無くなってきましたので、Bさん感想をお願いします。」

日本の元大学生Bさん「何でしょうね。日本というのはこれだけ分断されているんだなということを香港を見て思います。世代間でもそうですし、同じアジアとしてもそうですし、勇武派と民主派でもそうですし、やっぱり僕としては継承できなかったのが一番大きいと思います。雨傘運動から今回の運動につなげたというのは、運動というのは何かしら進化していけるんですね。遅れたり後ろに下がることはあるかもしれないけれども、必ず運動というのは進んでいけるんですね。それが日本は出来なかった。中国の統制がある中で、香港はメディアだったりネットの中で、ちゃんと世論とか文化というものを形作ってきたからこそ、立場は違っても共闘して同じ方向を向いて闘うことができた。だけれども日本はどうでしょうか。これだけ書店とかメディア、テレビでも新聞でも、コロナウイルスを持ってくる中国人とか、そういうことばかりで、そこの違いというのは大きいと思います。だからこそ若い人たちを含めて、香港の運動を同じアジア人として共闘してやっていく必要があるのかなと思いました。」

「劉さん、Aさん、初沢さん、感想をお願いします」

「香港の『光復香港、時代革命』の意味は、どのような時代に戻るか、香港人とは誰か?ということに関わります。香港の人たちはこう言います。全ての人は、民族、人種、言語、年齢が違っても、普遍的価値を認めれば、つまり自由、公正、法治、人権の尊重、普通選挙などを認めれば、一人ひとりがみんな香港人です。つまり『香港人』とは、もはや単にアイデンティティだけでなく、ある種の信念や意志をも意味します。それは強権政治を恐れず、正義や自由のために犠牲を厭わないことの象徴なのです。香港は今や危険に迫られています。もちろん香港だけでなくチベット、ウイグルはなおさらです。こういう局面において、みなさんは50年前の青春に命を懸けて闘ったわけですけれども、もぅ一度その青春に戻りましょう。(拍手)
最後になりますが、中国の新型肺炎で、数日前に武漢にいる34歳のお医者さん、李文亮さんが亡くなりました。中国では今、言論統制がみなさんの想像以上に厳しいです。彼が小さなチャットのグループの中で警告を流しただけで公安に呼ばれて反省書に署名させられました。こうして言論の自由が萎縮し、事実が隠蔽され、これにより初動で対応が遅れました。そのため、今日、日本にも新型肺炎が拡大しているのです。中国のリベラル知識人、ネットで活躍している人たちが数日前からインターネットで医師が亡くなった2月6日を『言論の自由の日に』と呼びかけています。当然すぐ削除されますが、中華人民共和国70年の歴史の中で、多くの人が命を懸けて闘ってきました。みなさんと同じ60年代、68年や69年、文化大革命が激化しました。そして数千万人の命が落とされました。でも、こうして一歩一歩前進しているんです。是非みなさん一人ひとり声を上げて下さい。よろしくお願いします。(拍手)」

在留香港人Aさん「日本人のみなさんに伝えたいことを少しまとめてみます。日本は民主国家ですから、同じ人権、自由を大切と思った人として、これからも香港の最新状況を注目していただければ嬉しいです。一人の香港人として、みなさんに何かしろとは言いづらいですけれども、もしよろしければ、みなさんの自分の専門のスキルとか専門の分野とか人脈を作って、香港を手伝えることがあればいいかなと思います。
香港のことは海を隔てて遠い国の話ですけれども、今回、新型コロナウイルスの件もあって、中国と香港の政治というものも、実際に日本に影響しています。ですから、これからも香港と中国のことを注目して下さい。(拍手)」

初沢「みなさんも若い頃に学生運動で闘われた。今も10代20代の若者が香港で闘っています。今、何故香港で若者が闘っているのかということは、その頃とは違う問題があると思います。というのは、今の香港の若者は2048年以降に生きている、生きなければいけない世代ということになると思います。27年後ですけれども、その時代に彼らは40代50代になっている。その後、『一国二制度』が完全に失われるのか。あるいは何らかの形で続いていくのか、本当にどうなるのかということが彼らにとっては分からない。これ以上ない不安を抱えながら生きていく、あるいは生活をしていく、仕事をしていくということになるわけです。したがって、昨年の逃亡犯条例改正案問題から5大訴求に至るデモがありましたが、いったんは収まったかのような形になっていますけれども、必ず何らか形で何度も何度もうねりをくり返しながら2047年に向かっていく、そして彼らの運動も、また世代を受け継ぎながらより成長していくのではないかと思いますし、同じアジアの人間の写真家である私としては、非常に今後も関心を持って眺めて報告していきたいと思います。
昨年末に大変有意義な本が出まして、私の写真を表紙に使っていただいていますが、『香港危機の深層』という、香港の専門家たちが集まってこの半年のデモについて書いた本が、東京外国語大学出版から出ていますので、お読みいただければより深く理解できるかと思います。」

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(本写真)
「もっともっとお話しを聞きたいし、もっともっと深いところを僕らは知らなければいけないことを教えられた気がします。この機会をもう1回作りましょう。今日は初沢さん、劉さん、Aさん、Bさんありがとうございました。(拍手)」

●第二部はこれで終了したが、後日、劉燕子さんから昨年8月から9月にかけて香港を訪ねた時の現場での体験を書いたレポートをいただいた。第二部の議論の理解を深めるため以下に掲載したので、お読みいただきたい。
【現場から劉暁波の香港論を考える   劉燕子】(引用)
第2章 香港と私
1.現場に身を置いて

 私は香港が「祖国の懐に戻って」から二二年間に十数回も訪ねた。その中にはヴィクトリア公園で天安門事件追悼キャンドル集会や詩人・アーティストたちの詩歌朗読、演奏、パフォーマンスなどの芸術祭があった。
 私は「雨傘運動」で、規模が最も大きく、メディアの報道も頻繁であった時ではなく、大陸で抗議デモの支持を表明した市民や活動家が相次いで拘束された一二月と翌年三月に香港を訪れた。香港政府庁舎や立法会の周辺には、まだ若者や市民が十数のテントを張っていた。その中には、香港の政治、民主化、天安門事件に関する仮設図書館もあり、若者が案内してくれた。また、香港中文大学の学生や大陸からの留学生による座談会にも参加した。香港の若者はなぜ愛国(愛党)教育に反発し、中国を愛せないのかをめぐり活発に議論が交わされた。
 二〇一七年一一月二四日、独立中文筆会(Independent Chinese PEN Centre) が香港城市大学(City University of Hong Kong)で「劉暁波と言論の自由に関する国際シンポジウム」を開催し、その中で「劉暁波勇気賞」の授賞式も行われた。私は中国現代文学者として参加し、報告した。しかし、翌年からこのシンポジウムのために大学は教室を貸さなくなり、カトリック系の書店で開くようになった。
 このような状況において、天安門事件三〇周年の今年、香港市民は巨大な抗議デモで世界を震撼させている。「逃亡犯条例」改定に反対するデモは週末ごとにふくれあがり、六月九日に百万人、一六日に二百万人という空前の規模に発展した。主催者発表とは言え、香港の総人口の四分の一になる。
 そして、私は八月三〇日に香港に飛び、一週間ほど現場にいた。当初、深?に移動し、高速鉄道で長沙に行き、実家に帰省するつもりだった。しかし、深?に入境するとき、スマホなどのデータが全てチェックされ、削除を要求されると聞かされた。香港での抗議活動が本土に影響を及ぼすことを中国当局が恐れているためである。友人の詩人は広州の実家に帰ろうとしたが、八時間も拘束されて、帰宅を断念した。
 このため私も帰省を止めたが、その結果、身を以て民主化を求めるデモを体験することができた。まず香港浸会大学(Hong Kong Baptist University)新聞与社会研究所と衆新聞の共催で「修復香港・中国は何を憂慮するか?」というシンポジウムに参加した。
 八月三一日、民主派が計画したデモ行進を警察は許可せず、そして「民間人権陣線(民陣)」は中止を発表した。それにも関わらず、キリスト教団体が主催する讃美歌合唱(宗教的な集まりは許可が必要ない)、また「買い物」や「散歩」が行われた。“Sing Hallelujah to the Load”が最もよく歌われ、言わばテーマソングになった(後に「遺伝子改造への抵抗」のシンボルとなる「香港に再び栄光あれ」が歌われるようになる。このメロディにも讃美歌の要素があるという)。
 そして、合唱が終わると、若者たちは中心部で「散歩」デモを強行した。
 その日は太陽が強く照りつけ、蒸し暑かった。私は香港記者協会の女性ジャーナリストといっしょにいた。彼女たちは六月九日以来ほとんどのデモや集会に参加し、自他ともに「和理非(平和と理想と非暴力)」を標榜している。既に二カ月以上も黒いシャツと黒いマスクを身に付けて抗議する穏健自由主義者である。
 抗議活動では「勇武派」と呼ばれる強硬派もいる。これにも市民は一定の理解を示している。例えば、最前線で機動隊に「肉迫」する「勇武隊」の若者たちに、市民は通るたびに拍手していた。女性ジャーナリストは「“勇武派”が命を賭して機動隊と闘っているからこそ、私たち“和理非”が存在する空間ができる。彼らを孤立無援にさせない」と、守ろうとしている。
 午後、政府のヘリコプターが低空で不気味に旋回した。人々は互いにマスクをかけ、傘を広げて頭部を隠した。
 日が暮れると夕立が降り注いだ。すると、陸橋からたくさんの傘が、あたかも「天女散華」のようにまかれた。また、機動隊が青い水を放水すると、ペットボトルなどで水が配られ、デモ隊員は大量の水で青い着色を洗い流し、消毒した。

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 それだけでなく、老人たちが「我々の子供を守る」というゼッケンを着けて機動隊に対峙し、催涙弾の発射を止めよと必死に訴えていた。母親たちは「頑張れ、子供たちよ」と手作りのおにぎりを差し入れ回っていた。流血事件も相次ぐ中、ソーシャルメディアで知り合った医師、看護師、救急救命士たちが医療チームをつくり、ヘルメットや防毒マスクなどフル装備で一生懸命救護している。薬品や消毒の水など必要な物資は現物や現金の寄付でまかなっている。また、地下鉄の駅の改札で、ボランティアたちは切符を買って、置いていた。定期券などを使うと記録が調べられるので、それを避けるためであった。

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「和理非」派たちが帰宅した。すると、夕刻から深夜にかけて警察は強硬派を取締まった。数百名の機動隊が中心街になだれ込み、警棒で盾を叩いて威嚇した。数百メートル離れた最前線では若者たちがゴミ箱などを路上に積みあげ、ガスバーナーで火をつけ、大きな炎をあげた。数十人の機動隊が迫ると、対峙していた若者たちは「黒い警察」とシュプレヒコールをあげた。
 突然、バンバンという銃声が立て続けに聞こえ、周囲に催涙弾の白煙が飛び散り、また放水も始まり、現場は騒然となった。私は全速力で逃げようとした。しかし、市民たちは「一、二、一、二」と声をかけあいながら整然と撤退した。「ゆっくり歩け」というプラカードも掲げられていた。
 さらに、地下鉄太子駅では機動隊によるデモ隊の制圧で、数名が重軽傷を負った。私は衝突が起きる三十分ほど前、ギリギリのところで現場から距離を置き、推移を見守った。
 九月一日、デモ隊側は死者が出ているのではないかと疑い、監視カメラの映像の公開を求めた。
 この日、私は九龍地区の旺角にある「六・四記念館」を訪れた。支連会が設立し、天安門事件の資料などを展示している。天安門事件の真相を伝える施設としては、中国語圏で唯一である。
 二〇一四年に別の場所で開館したが、ビル管理組合の反対などで閉館に追い込まれ、今年の四月に再開された。遺族たちの協力で犠牲になった学生のヘルメット、ノート、また弾丸も展示し、当時の新聞記事、パネル、映像などで事件を解説し、劉暁波のコーナーも設けられている(入場は無料)。女子組のお姉さんたちは三〇年もずっと「六・四を忘れずに。良知を」と呼びかけ続けてきた。お母さんたちが差し入れた「子供たちガンバレ」の手作りクッキーもあった。

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 九月二日、午前は大雨で、午後は蒸し暑くなった。
 香港中文大学で、十大学と一部の中高生による授業ボイコット決起集会が開催された。大陸からの留学生が「反対」と叫び中華人民共和国の国歌を歌ったが、香港の学生たちは整然と対応して集会が続けられた。
 私は図書館の前で学生たちと話した。学生はふるえていて、私は「怖いですか」と尋ねると、彼は「確かに恐いが、今、立ち上がらなければ、もっと恐くなる」と答えた。

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九月三日、中国政府側が出資する以外の「独立書店」を回った。案内してくれた友人が二〇一五年の銅鑼湾事件を機に共産党批判の書籍は急減し、そもそも印刷会社が引き受けなくなったと説明した。
 彼は香港人だが、十数年前、自転車でタイからチベットのラサまで旅行し、そこで「風転」喫茶店を開業している。チベット女流作家のツェリン・オーセルの親友である。
 彼のペンネームは「少年薯伯伯」で、「天空の城ラピュタ」の主人公、パズーからで、また「弘剛(ヒロタケ)」とも呼ばれている。
 デモ隊と警察が激しく衝突した時、彼は香港人の日常を次のように語った。
 「自由は空気のような自然体で、香港人が求めているのはきれいな空気。香港人は真剣だ。真剣に自由な空気を求めている。」
 また彼は著書の扉に「風や雨の中で自由をギュッと抱きしめよう。次に香港に来るときは若者の笑顔が見られるだろう。きっとよくなる」と書く。「でも、もうラサには帰れないな。香港の抗議活動に参加したから」と寂しそうに語った。
 三日夜、旺角警察署の前で「犠牲者」を弔う祭壇がつくられ、若者が次々に献花した。また、若者たちは睨み合う警官の顔に向けてレーザーポインターを照射した。警官は怒鳴りながら銃口をデモ隊に向けた。
 隣の女の子は「太子駅で行方不明者が出ました。警察署で拷問されて死んでいるのではないかと不審に思う人たちが集まっているのです」と語った。
 十時になると、警察の周囲のマンションの窓が一斉に開けられ、「香港を取り戻せ」、「時代革命」とのシュプレヒコールがあがった。女の子は「ここだけじゃないわ。香港のどこでも十時になると一斉に叫ぶの。香港では暗黙のうちに以心伝心でこうなっている」と話した。

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まことに抗議活動は「水になれ(Be Water)」が合言葉になるように、神出鬼没である。参加者が利用するSNSが何者かのサイバー攻撃でダウンしたが、デモは自然発生的に続いた。私は江戸時代の傘連判状の一揆を連想した。
 四日、私は再びアーティストや詩人たちに会った。彼/彼女たちは九月末の抗議活動に会わせたパフォーマンスの準備をしていた。その中に詩人でパフォーマンス・アーティストの三木(サンムウ)がいた。彼は武蔵野美術大学を卒業して、日本で仏像の修理に携わっていた。天安門事件以降、彼は芸術のテーマを「戦争、虐殺など人間に対する不合理なもの全て」とした。
 彼は香港に帰ってから、様々な芸術祭など主宰した。数日前、一九六〇年代日本の学生運動や社会運動と今の香港の共通性に話が及ぶと、彼は「反植民化では共通するが、他は違う」と明確に語り、次のように言った。
 「たとえ勝ち目がなくとも、尊厳ある生き方を求める。今日のようになったのは、ぼくたち大人の責任だ。若い人がどんどん捕まったら、俺たちが勇武派になる。」
 これを聞き、私たちの友人で詩人の孟浪を思い出した。彼はこう述べた。
 「詩は現場にある。詩人は現場にいる。詩的な正義は現場にある。これが豊かで生き生きとした常態になれば、すべての人が立ち向かう普遍的な常識になる。」
 孟浪が生きていたら、きっと三木とともに現場にいることだろう。
2.むすびに代えて
 帰阪する飛行機で読書灯を付けて劉暁波や龍應台の本のページをめくった。読みながら改めて香港の現状について考えた。
 香港の状況は文字通り危機的である。確かに広範な市民が抗議運動に参加し、また支持しているが、その一方で社会の分断もあり、さらに家族の中に亀裂が生じているところもある。大陸への反感は強まり、例えば「普通話(共通語)」は拒否され、広東語が用いられている。ともに現場に身を置いた台湾の友人は中華民国のバッジを身に付け、大陸の人ではないことを示していた。
 中国政府は建国七〇周年で十月一日の国慶節に向けて華やかに演出しているが、しかし、香港では「人民は帰って来た。希望は人民にある。変革は抗争から始まる。国慶ではなく、国難だ」というスローガンの大規模デモが始まるという。このようの長期にわたって大規模なデモが繰り返される原動力は何であろうか? それは、日本では空気のような民主と自由への希求だと言える。
 一〇〇日間で、逮捕者は約一五〇〇名、その三~四割が若者で、二百余名が起訴された。警察が発射した催涙弾は三一〇〇発に及び、負傷者は無数で、抗議自殺者まで出た。本稿を書きあげる際、香港政府はデモ参加者のマスク着用を禁じる「覆面禁止法」を「緊急状況規則条例」をもって制定した。これは「実質的な戒厳令だ」との非難の声があがった。また、十八歳の若者や十四歳の少年が実弾で負傷したというニュースが飛び込んできた。
 若者が命を懸けて訴えるものは何だろうか? たとえ釈放されても、逮捕歴は就職などで極めて不利になる。それにも関わらず若者は抗議する。
 ふと、魯迅の言葉が脳裡に浮かんだ。
 「そうだ。若者の魂は私の目の前に屹立する。彼らはすでに粗暴になり、あるいは粗暴になろうとしている。けれども私はこれら血を流し、痛みに耐えている魂を愛する。なぜならば、それは私が人間の社会にいること、人間の社会に生きていることを感じさせてくれるからである。」(『野草』「まどろみ」一九二六年四月十日)

(つづく)

【お知らせ 】
ブログは隔週で更新しています。
次回は4月3日(金)に更新予定です。

2020年2月11日(祝)、東京・御茶ノ水の:連合会館大会議室で「高校生が世界を変える!高校闘争から半世紀~私たちは何を残したのか、未来への継承」と題したシンポジウムが開催され、約300名の方が参加した。

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(チラシ写真)
【プログラム概要】
Ⅰ部 1968 年は我々に何をもたらしたか ―自己否定を巡って― 山本義隆(東大全共闘)+高校全共闘(都立青山高校・麻布学園高校・教育大付属駒場高校・県立仙台一 高・慶應高校・灘高校・都立日比谷高校・県立掛川西高校・都立竹早高校など)が登壇予定 司会:高橋順一(武蔵高校・早稲田大学教育学部教授)
Ⅱ部 運動の現場から ―香港の学生・日本の高校生の闘い―
香港の闘う学生+日本の闘う高校生+高校全共闘+全中共闘などが登壇予定 司会:初沢亜利(ドキュメンタリー写真家、東北・沖縄・北朝鮮・香港などの現場撮影取材)
Ⅲ部 ぼくたちの失敗 ―僕たちは何を失い何を獲得したのか―
高校全共闘(都立上野高校・都立九段高校・新潟明訓高校・県立旭丘高校・県立千葉高校・都立北高校・ 府立市岡高校・都立立川高校など)+全中共闘(麹町中学・日本女子大付属中学など)が登壇予定 司会:小林哲夫(高校紛争1969‐1970「闘争」の歴史と証言 著者)
今回はこのシンポジウムの第一部の概要を掲載する。概要なので、発言を全て掲載しているわけではない。第二部と第三部も今後概要を掲載していく予定である。

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【第1部】
総合司会 金廣志氏
「本日の総合司会をさせていただきます元都立北園高校の金廣志と申します。よろしくお願いいたします。
本日は半世紀前、1970年前後に制服の自由化とか管理教育へ異議を突き付けた高校生たちが50年ぶりに参集しています。これは2012年に発行された小林哲夫さんの『高校紛争 歴史と証言』という本がございますけれども、それがきっかけとなって、その年に出版祝という形で全国の高校生に呼びかけたところ、100名以上が参集して、私たち自身も非常に驚きました。高校生自身は皆それぞれが学内の中で分断されていたんですけれども、手を結びたかった、あるいは他の高校の運動を尊敬していたとか、そういう横のつながりが出来たんですね。それがきっかけになって今回の会は、戦友会とか同窓会とか、そういうものを行うために集まったのではないです。むしろ、現在の若者たちの困難な闘いに連帯したいと、そういう思いで今回の集会を企画していますので、同窓会、戦友会が目的の方は二次会の方でよろしくお願いいたします。

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第1部についてはプログラム通り、第2部については香港の現状を中心に、第3部については現在さまざまな分野で活動している日本の高校生・大学生との対論を行いたいと思います。皆さまのご支援よろしくお願いいたします。」

<連帯のあいさつ>
元大阪府高連OBからのメッセージ

「大阪の60年代後半の高校生を取り巻く空気はまさに混沌としていました。坂本龍一が過去のラジオ番組の対談でいみじくも当時の都立高校文化について指摘していたように、大学生とは違う、一種軽薄に政治、音楽、ファッション、映画等の文化を含めて敏感に取り込んだことは大阪においても同様でした。大学セクトのオルグは、遅くとも66年には一部高校の文化部に入っていたけれど、彼らの言説は半分上の空、『なるほど』もあれば『誇大妄想だろう』もあった。だから組織より自由意志を尊重していた。乱暴に言えばデモの際に紅組か白組かその外か、どこかにいないと隊列が決めない程度、あるいはともかく気の合う友だちと一緒にやる程度の選択だった。大切なのは戦争に加担しないことの強烈な意思表示、管理教育・自由の束縛への反発、世界で巻き起こっているカウンター・カルチャーへの共感でした。ふり返ると、それらは人生の人格形成時期の骨格をなしていたと言えるのではないでしょうか。だからこそ、今回の集まりも開催されるのだろうと考えます。
今、世界激動の時、現在の中高生に伝えられることなど思い付きませんが、少なくとも大学生よりはまともな感性を擁しているように思います。それらのみずみずしくも生きづらさに囲まれているように見える彼らに、何らかの場を提供することが私たちに出来ることではないでしょうか。」

「実行委員の大谷から、山本義隆さんのご紹介と謝辞をお願いします。」

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大谷「実行委員の大谷行雄です。シンポジウム開始に先立ち、実行委員を代表し、山本義隆さんのご紹介と謝辞を述べさせていただきます。本日はこれだけたくさんの方に集まっていただき、まことにありがとうございます。特に遠方から来ていただいた元仲間たちには深く感謝申し上げます。
山本義隆さんのご紹介といいますと、東大全共闘の議長とか。ここにいる若い人たちにとっては駿台予備学校のカリスマ講師ということで、周知のことかと思います。今日、ここに至るまでの5.6年前からの話をさせていただきます。山本義隆さんは長い沈黙の後、2014年10月に『10・8山﨑博昭プロジェクト』の発起人の一人として、プロジェクトを立ち上げる会で講演をされました。長年政治から離れていた私も、山本さんが語られたということで賛同人になりました。このプロジェクトは1967年10月8日の第一次羽田闘争で命を落とした山﨑博昭君を追悼し、この事件を後世に残す目的で結成されたもので、追悼モニュメントの建立、記念誌の発行、ベトナム・ホーチミン市にある戦争証跡博物館での『日本の反戦運動』展示会を開催するという3つの目的を持っていました。特に三番目のベトナムでの事業は海外生活が長い私が何か貢献できるかと思い、担当者として山本さんとのお付き合いが始まりました。おかげさまでベトナムでの展示はホーチミン市だけでなく、南部カントウ市、中部フエ市でも開催され、大成功に展開され、今現在はハノイ市、先々はアメリカでの展示会を企画検討中です。この縁をきっかけに、山本さんに3つのお願いをしてきました。一つは、一昨年に亡くなった私の義理の兄である情況出版の編集長であった大下敦史の追悼の会に講演をしていただいたこと、第二に、山﨑プロジェクトがアメリカから元SDSの闘士、コロンビア大学闘争のリーダーだったマーク・ラッド氏を日本に招へいした際に対談をお願いしたこと、そして最後にお願いしたのが、今日の集まりに登壇していただきたいということです。山本さんはこれらのお願いに対し全て快諾していただきました。
山本さんがここに参加していただいた経緯、優しく寛容でかつ誠実な姿勢は、ひとえに亡き山﨑博昭君に引き継がれたものと思っています。ちなみに、山﨑さんは亡くなった時は京大の1回生でしたが、出身高である府立大手前高校ではラディカルな高校生活動家だったということも聞いております。そこで私から皆さんにお願いがあります。山本さんに敬意を表し、この場を借りて山﨑博昭君に黙祷を捧げたいと思います。ご協力いただける方はご起立下さい。あちらに山﨑君の遺影がありますので、そちら向かって黙祷をお願いします。

(1分間の黙とう)

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ありがとうございました。」

「本日の登壇者を簡単に説明させていただきます。高橋順一さんです。1966年武蔵高校入学、今は大学教授です。第一部の司会をお願いします。池田実さんです。都立北高校で学校封鎖を敢行して無期停学になり、後に郵便局員になっても組合運動で懲戒免職を受け、約30年にわたる裁判に勝利して復職したという、闘う男です。(拍手)繭山惣吉さんです。麻布高校では、入学生は繭山さんたちが闘った50年前の闘争を学びます。今、麻布は制服もありませんし、自由の象徴のような学校として50年間経ています。繭山さんたちの闘いがあったからこそだと思います。安田宏さんです。都立上野高校67年入学です。高校闘争の中では稀なる勝利をした学校でした。福井紳一さんです。72年慶應高校入学です。駿台予備学校の日本史では、日本でも最も有名な講師です。最後に大谷行雄です。67年教育大附属駒場高校入学です。高三の時に駒場高校でストライキをやって、当時の高校生のいわゆる勇武派学生として有名な男でした。
これから高橋順一さんの進行で会を進めていきたいと思います。よろしくお願いいたします。」

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司会:高橋「ご紹介いただきました高橋順一です。この後、私の司会で第一部を進行させていただきます。隣に山本さんが座っていますが、私の山本さんの一番の思い出は、1969年2月21日に日比谷公会堂で開かれた『東大・日大闘争支援労学連帯集会』です。この時すでに山本さんは逮捕状が出て潜行中で、亡くなられた塩川さんが司会をされていて、『ただいま山本代表が到着しました』と言うと舞台が暗転して光が点いたら中央に山本さんがいらっしゃって、当日の基調報告をしました。それはすごい報告でした。あたかも空間を言葉の論理の刃が切り裂いていくような鋭いものでした。論理というのは、あるいは言葉というものはこんなに力を持っているかと思わざるを得ないほど素晴らしいものでした。それは、『知性の叛乱』という本の中に収録されています。その時の印象は忘れられないものがあります。
本日の進行は、私と登壇者から山本さんに問題提起をしていただきます。それぞれが高校生として関わった運動・闘争がいかなるものであり、また、そこからどのようなものを感じ、そしてそれを山本さんに対しどうぶつけていくのか、手短にお話いただいて、山本さんの方からお話いただきたいと思います。
私の方から最初にお話しさせていただきます。私の高校は東大への進学率が高い高校の一つで、東大を目指す学生が多い高校でした。そうした中で68年に東大闘争が起きた。さまざまな形で我々はインパクトを受けた。それは69年の東大入試中止だけでなく、東大へ行くものと思っていた我々の存在そのものが問われる事態というのが、68年の東大闘争だったのではないかと思います。そうした中で我々がある意味で一番インパクトを受けたのは『自己否定』という言葉でした。その当時、僕らは『自己否定』という言葉は東大生であることを否定することと受け止めていたわけですが、よく考えていくと、我々がそのインパクトを受けて高校生として活動を始めた時、我々が求めていたものは何だったのか。もちろん各学校の校則の撤廃であるとか、さまざまな具体的な要求を求めた運動があったことは確かです。ただ僕自身『自己否定』の論理という言葉にぶつかった時に、そしてそのインパクトを受けて我々の運動が始まった時に、我々が求めていたものは、むしろ言葉の上では全く逆に、ある種の『自己肯定』だったのではないか。というのは、当時の高校生は、様々な形で自分たちの存在を外側から規制され、外側から抑圧され、いわば半ば我々の存在を否定される状況にあったと言わざるを得ないような気がします。そうした我々の存在が否定される状況の中で、我々はある意味では『自己肯定』を求めて運動を始めたのではないかという気がします。『自己否定』と『自己肯定』というのは、一見すると言葉の意味としては全く逆になります。でも、我々が『自己否定』という言葉から強いインパクトを受けたことも確かです。この『自己否定』と『自己肯定』の欲求というのは全く反対のものなのかというと、よく考えてみるとそうではなかったような気がします。
東大全共闘の『自己否定』と、我々が求めた高校生としての我々の存在を認めろという『自己肯定』の欲求というのは、どこかで一周回って重なるのではないかという気がします。それは同時に、我々の運動というものが表面的には様々な政治的要求というものを抱えつつも、むしろ存在肯定を目指す、ある意味では『存在をめぐる闘争』であったのではないか。そういう意味では政治闘争と一概に片付けられない面を持っているという気がしてならないわけです。この『自己否定』と『自己肯定』との関係は何か?東大全共闘が掲げる『自己否定』というのは、やはり当時の東大の学生たちが外側から枠付けられた様々な条件の下で、いわば自己のレベルで否定を強いられていた学生たちが、否定を強いる東大の現実そのものを否定することを通して、最終的には自分自身の東大でも何でもない、あるがままの存在を認めさせるというところを目指した運動ではなかったのか、という気がしてきたわけです。それはだいぶ後になってからそういうことに気が付くわけです。
改めてここで山本さんに、あの時の『自己否定』という言葉、あるいは山本さんの『知性の叛乱』という本の中で僕が一番気になったというかインパクトを受けた言葉として『自己権力の確立』という言葉、『自己否定』ということと『自己権力の確立』ということが一体どういうふうに関わっているのかということが、さきほど我々が東大闘争の『自己否定』の論理というものからインパクトを受けることによって、表面的には全く逆に『自己肯定』を、自分の存在を認めさせることを求める運動を始めたということ、その関係というものを、改めて今、山本さんにそのあたりをどうお考えか伺ってみたいと思います。東大全共闘が掲げた7項目要求というものも、表面的には一つ一つの個別的な要求かもしれないけれども、これも条件闘争をはるかに超えた『存在をめぐろ闘争』であったのではないか、そのような気がします。
私の話はそれくらいにして、池田さんから順番にお願いします。」

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池田「池田と申します。都立北高校はいわゆる進学高ではないです。進学校が高校紛争の中心と言われますけれども、実は東京だけでなく全国的にもそうではありません。高校教育、いい高校、いい大学に入っていい会社に就職するというようなそういう社会に対する否定、そして当時ベトナム反戦闘争がありましたけれど、1969年11月26日からまる1ケ月間、私たちは高校の校長室から教員室、全て封鎖し、全学ストライキ実行委員会ということで定時制、全日制、1年から3年まで1ケ月のバリケードを行いました。

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12月26日の朝、起きたら外が騒がしくて、機動隊が『君たちは包囲されている。ただちに違法な封鎖をやめて降りてきなさい』というようなことを言われて、いよいよ来たかということで3人で屋上に上がって、機動隊が来たら抵抗せずに逮捕されようと考えていましたが、バリケードを破って教師が屋上に上がってきて、私たち3人を強制排除したということです。まさか教師が私たちを排除するとは全く思っていなかったけれど、教師は王子警察から事情聴取したいと言われて、私たちを裏口からこっそり逃がした。理解ある教師が多かったということで、結果的に1ケ月にわたってバリケードを築けた。私たちのバリケードのスローガンは『永続バリケードを構築せよ』ということで、このままバリケードを続けていれば革命が起こる、そのためにバリケードをずっと続けるという決意で立て籠もっていました。当時の高校生は大学生と違って家族問題、親との関係とか進路の問題だとかありましたけれど、それでもバリケードを築いたということです。結果として私を含めて6名が退学になって、処分撤回闘争をやりましたが撤回できませんでした。50年前の闘争ですが悔いはありません。これが私の原点です。

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その後、中卒のまま郵便局に就職して、79年の全逓の闘争で解雇されましたが、2007年に最高裁の判決で28年ぶりに現職復帰して定年まで勤めることが出来ました。私は高校闘争を原点に、行動すれば何かが変わるという思いでやってきました。『高校生に何が分かる』とよく言われましたけれども、分からない、知らないから闘えるということもあると思うんです。今の現役の高校生、大学生の皆さんも、そういうことをヒントに活動を続けていただきたいと思います。
自分が行動することで、社会が変わる、社会を変えるということを訴えて報告とします。ありがとうございました。」

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繭山「麻布高校1969年入学で、71年の闘争に関わりました。麻布高校は、元々かなりリベラルな学校で、創立者の江原素六は下級武士の出で、板垣退助と自由民権運動をやっていた人だったので、創立の精神も独立自治の精神ということが謳われています。
70年の初めくらいに、教員たちと話して全校集会で政治活動を含む自主活動の自由を獲得する。これに対する反動として理事会から山内校長代行が送られてくる。処分乱発、集会に出ただけで停学、生徒会は凍結。教員に対しても校長の方針に従えない教員は去ってもらっていい、こういう姿勢で文字通り抑圧的な体制を組むわけです。それに対して僕らは71年10月3日の文化祭の時に、校長たちが事務室に立てこもる中で中庭に座り込みました。かなり用意周到な準備して、討論を重ねた上でやりました。詳しい経緯は省きますが、最終的には11月の全校集会で辞任を勝ち取ることで収束しました。
なぜ僕らは起ち上がったのか?やはり退学処分や警察による暴行や逮捕も想定されたわけです。正直言って、私はかなり悩みました。政治党派という中にはいなかったし、相当悩んだ末に、最終的にはここで目の前の状況から逃げるような生き方をするのはどうかと思いました。自分の存在ということで言えば、当時、麻布から良い大学へ行って良い就職をするというレールに対して、それに乗って受け身になることについて、当時、けだるい日常と言いますか本気になれないというのが一方で強くありまして、周りの友人たちも処分されたり、学外での政治闘争で逮捕された友人たちがいて、次は自分だという思いで闘争に参加しました。ただ、やっぱり楽しいんですね。闘争前後の大学への泊り込みも含めて。そういう中に真実とか価値があることが実感できたし、自分の存在を問う中で踏ん切りをつけたというのが実のところです。ですから、たとえ負けてもそれは変わらなかったなという思いも一方であって、勝ったことによって自信が付いて、後のいろんなことに影響を与えて今日まで来ている、そういうことが大事だと思います。
山本さんに伺いたいのは、今の世の中で若者を含めて非常に不確かな存在、一方で共同体が解体している、そういう時に一つの潮流として『存在からの問い』というものが成立しうるのかということです。私自信考えていますが、時代状況がだいぶ違っていて、そんな問自体が無意味だという風潮もありますが、でも違うなと思っています。」

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安田「都立上野高校67年入学の安田です。ちょうど私の上の学年が卒業式闘争をやって自主卒業式をやり、私たちの学年で秋にバリケード封鎖をするということで、2年がらみの闘争になりました。
山本さんに2点ほどお聞きしたいと思います。一つ目は、東大闘争で新左翼のいろいろな党派が入ってきて、なかなかまとまらないであろう各党派の中で、山本さんがどうやってリーダーシップを取られたのか。もう一つは『自己否定』それから『大学解体』ということは我々の中にも大きなインパクトをもって響いてきました。東大闘争は7項目要求を掲げて、私の知る限りでは何度も各学部の学生大会を通して多数の支持を得て、そしてストライキをやったと思います。7項目要求まではそうだったと思いますが、そこから『自己否定』あるいは『大学解体』まではすごく飛躍があると思います。その飛躍というのを、どうやって多くの支持層をその飛躍の下に獲得していったのか。元々『自己否定』というのは個人的なものだと思いますが、どのように全学的な闘いとして組織されたのかということ、この2点についてお聞きしたいと思います。」

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福井「福井です。この中では一番若い世代だと思いますけれど、あの時の衝撃というのは自分の人生で大きなことだったと思います。
僕らの1年先輩、2年先輩が中学生の全中共闘という、全国闘う中学生共闘会議を結成しまして、1970年2月に清水谷公園に部隊が登場して、新聞にもかなり大きく報道されたことを最新知りました。
ベトナム戦争、ハードロック、アンダーグラウンドの演劇、ブラックパンサーの運動、ドラッグなどさまざまなものが一気に噴き出してくるわけです。そういう中で、全共闘の肉体を駆使した行動というものが、閉塞した状況を切り拓く、そういう空気を吸ってしまった。そして、そのことがたぶん自分の生涯に関わり続けているだろう。その時の、社会と自分との関わり方というのは、状況が変わっても政治が変わっても目の前の日常はいろんな形でぶつかるわけですから、その時の行動の基準になっていく。そうすると火花が散る。一人一人の人生を破綻させることもあるけれども、一人一人の人生を真摯に動かす、そして人生を否定するようなものではなかった。しかし、あの全共闘が切り拓いたものがどういうものであったのか。そしてまた社会と自分たちの関わりの中で、そういうものにぶつかり開放感を持つ、あるいは何かしていく。今の子たちより僕らの方がまだ元気で屁理屈を付けて抵抗できた。そういう機会や議論を失い、自分のぶつかるものは一体何なのか、敵なのかも見えない、真綿で首を絞められるような感じで追い込まれていく。そのような状況というのが続いているのではないか。
そういう状況の中で、山本先生には、今の若い世代に何か言葉があれば、自分が社会運動や学生運動に関わり始めた契機みたいなところから、何か語れるものがあったらお聞きしたいと思います。」

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大谷「今日ここにいる方とはちょっと違うところがありまして、バリストも1日で終わっていますし、在学年数も3年のうち1年半くらいしか学校に行っていません。私の場合は高校2年くらいで自己否定に自己否定を重ねて、ただの革命家になりたい、職業革命家になりたいと思って闘ってきました。
山本さんにお聞きしたいのは、あの当時『自己否定』という言葉がありましたが、それはあくまで『帝大解体』とか、自分の所属する体制に対する自己否定だったと思いますが、革命というものをあの時点で考えられなかったのかということをお聞きしたいと思います。あの当時、どれだけの人間が革命ということを真剣にできる、あるいはやりたいと思っていたのかということを『自己否定』にからめてお聞きしたい。」

司会:高橋「旧高校生側からの問題提起は以上で終わりました。これを受けて山本さんの方からお話しただきます。よろしくお願いいたします。」

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山本「今日の集会ですけれども、高校生の闘争をやった皆さんの集会だからあまり僕なんかが表に出ない方がええと思っとったんだけど、大谷君に引っ張り出されて来たんですけれど、先ほどから3つか4つのことを言われたんですけれども、党派との関係というのを仰ったけども、僕は60年安保の時の入学です。それで東大闘争を闘った僕ら大学院生は全闘連と言っていたんですけれど、その他に助手共闘なんか50年安保の世代です。さっき塩川さんの話が出ましたけれど、塩川さんは58年に全学連委員長をやった、つまり唐牛全学連の前ですよ。そんなのもおるわけで、何ちゅうかオールド・ボルシェビキというのかな。だからそれなりに若い学生諸君も敬意を表してくれたんだと思います。僕は今でも思い出すけれども、塩川さんを初めて大衆の前に出したのは10月の集会で、ちょっと中だるみみたいになっとったんで、インパクトいるなということで塩川さんに喋ってもらおうということで、その時に僕は塩川さんに『元全学連委員長と紹介していいか』と言ったら『よしてくれよ』とか言って、それを聞いていたもう一人の助手共闘の人が『やっちゃえやっちゃえ』と言うから、集会で『元全学連委員長の塩川さんを紹介します』と言ったら目の色が変わったですね。そんなのがおるんかと、記者たちも雰囲気変わったです。そんなんで、若い学生諸君も僕らをそれなりに敬意を持って表してくれたと今から思うと思います。
それともう一つは、東大闘争というのは7月の段階で安田講堂を占拠している。これは本部封鎖と言ってますけれども、本当はオキュペーションなんです、占拠なんですよ。その時、全闘連の中で議論したのを覚えていますが、学生諸君はロックアウトを考えておったみたいで、本部封鎖という時に本部事務を封鎖すると。僕らはそうじゃないんだと、これは講堂開放なんだと。要するに講堂を開放して全部の学生を入れる。それが7月で、それでひと夏我々はそれでやってきて、それを維持したのはノンセクトの諸君なんです、僕ら全闘連と青医連を含めて。それが東大全共闘の中心になっているわけです。だからそれについては敬意を表せざるを得ない状態だったです。初めのうちは本部の職員と、これは本部の職員というのは文部省直属なんですけれども、毎日押しかけてきて、それとの攻防戦ですよ。僕は早いうちに機動隊が入ると思っとったんで、かなり緊張しとったですけれども、そういうことを全部耐え抜いて、雑用を全部やって、そういう意味では党派の諸君は何もやらんですよ。全体の集会の準備とか、全体の会議の設定とか、それを根気強くやったことがそれなりに、いろんな党派がいましたけれども、僕らと一緒にまとまってやれた原因じゃないかと思います。もちろんそれ以前の蓄積もあるんですけどね。それ以前の砂川闘争の時から、本郷で私は東大ベトナム反戦会議というのをやっていたんですけれども、各党派を全部集めて本郷で統一集会をやらせたりしてたから、そういう蓄積があったということもありますから、そういうことだ思います。

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それからさっきの『自己否定』と『大学解体』ですけれども、東大全共闘として闘争の過程で言い出したのは『帝国主義大学解体』。国策大学です、東京大学は。国策大学に対して『大学解体』と言ったんです。『自己否定』ということをスローガンとして言ったことはあまりないんですよね。ほとんどビラにもそんなこと書いていない。言い出したのは安田(講堂攻防戦)の後だったような気がするんですよ。そういうのを個人的に言い出して、ただ僕自身の気分はどうだったかと言うと、当時高校生の諸君からすれば僕は10年くらい年上なので、すでに大学院の博士課程の3年です。それまでに僕は66年に日本物理学会が米軍から資金を援助されていたことを巡って闘争をやっていたんですけれども、その時に教授たちとやり合うわけですよ。そうすると、最終的にはやっぱり『それでも研究が進めばいいことじゃないか』という話にいくわけですよ。僕らは『それはけしからん』と言って、そういうことに対していろんな言い訳をするわけです。『大体物理学会というようなところは研究者の研究のための同好会みたいなもんで、そういうところにそういう政治的な話題を持ち込むのはいかん』とか言ってるので、『何言ってんだあなたたちは』と。米軍は現在のベトナム戦争の一方の当時者です。そこから金をもろっといて、それはものすごい政治的なことなんだ。確かに教授が言うように見返りは要求されていない。つまりそれを直接軍事研究に使うとは言っていないけど、ちゃんと見返りとしては学会の広報物に米軍から資金援助を行ったことを書け、となっている。そうすると学会のプログラムなり何なりにそういうのを書けば、国際会議ですから世界中の物理学者がやってきて、日本の物理学会は米軍とそういう関係にあるんですかとなる。ものすごい政治的なことなんですよ。特に(ベトナム)戦争の最中ですから。『そういうことも分からんのか、お前たちは』という話になるでしょ。そうすると追いつめられて、最後は『それでも研究が進めばいいじゃないか』という話になるわけで、何はともあれ研究が進めばいい。そうすると僕らはいったい何なのか、研究を進めるというのは何なのかという話に最終的にはなるわけです。結局、行きつくのは、確かに研究者個々人にとっては好きでやっとるんだし、好きだけではない、研究で業績上げれば認められてキャリア・アップにつながる、それで自分の地位が上がっていく、そういうもの諸々含めて研究者をやっている。だけど国が何で金を出すんかといったら、それはもちろん直接産業技術の開発につながるということはあっても、それだけではないんですね。

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僕はずっと考えたら、結局明治以降日本はしゃかりきになって近代化をやって科学技術の発展を進めてきたが、もちろん富国強兵、殖産興業だけども、それだけはないんですね。それをやることによって、日本は近代国家になっていくんだと、国際社会で認められていくんだというのがあったと思うんです。それはものすごく大きかったと思うんです。だから直接技術に関係なくても金を出す。特に国際的に評価される研究、特に物理とか数学に金を出すわけです。これは僕らが思っている以上に大きいと思います。たとえば中曽根が日本で最初に原子力開発を言い出したわけですが、僕らがいろいろ調べてみたら中曽根は必ずしもエネルギー問題に関心があったわけでもないと思うんです。それから直接それが核武装につながるというけれど、その段階ではあまり考えていなかったのではないかと思う。そうすると何かというと『一等国』なんです、科学技術を持つということは。これは戦前、『一等国』というのは戦艦何万トン持っているという、あれと同じ発想なんですね。それは世界中どこでもそうです。毛沢東もそうです。毛沢東も原爆を作ったからこんなもの使えるとは思ってないです、使えようがないですから、ミサイルも何もないんだから。何で作るのかというと、それは超大国の証なんですよ。原爆を持っているということは。そうすると原爆を持つ国は超大国、持たないけれども核技術を持っている国はそれに次ぐ一等国なんです。中曽根の発想はそれだったと思うんです。要するに国際社会で認められる、発言権を持っている一等国である、そのためには核技術を持たなければいけない。戦後社会はそうなんです。それをいち早く彼は見抜いたんです。そうだと思います。後になって岸信介は『潜在的核武装路線』という形で核武装の可能性を作るんだという形で路線を引いて、現在の外務省はそうですけれども。
そんな風に、科学技術の発展というのは、国家なりから見ると国のためなんですね。そういう中で学者が研究要求をするということに対して、僕はだんだん自分で疑問を持ってきた。それまでは東大の大学院なんかやっぱり、理科系なんか実質上、研究の底辺を担ってるわけです。大学院生の当然の要求みたいな形でいろいろ言うわけですよ。研究費を上げろとか、奨学金上げろとか、それが当然の権利みたいに言われていたわけです。僕も大学院に入った時、初めのうちはそんなもんかと思っとたけれども、段々それに疑問を感じてきて、そういうことの要求というのは特権的なレベルで分け前をよこせと言っているんとちゃうんか、と思われて『自己否定』というのはそういう研究者としての立場からの要求なんかではあかんのちゃうか、共感を得られないというか、難しく言えば普遍性を持たないんじゃないか。そういうものがあったわけで、だからこれは学生諸君とはずいぶん違う考えを持っていたのではないかと思いますね。例えば『産学共同路線粉砕』とか言うでしょ。後になって分かったんだけれども、学生と言っている意味が全然違っていた。学生諸君は産学共同というのは、労働者の予備軍として学生は教育されているんだから、それと闘うことが労働者と連帯することになる、みたいなことを言ってたけど、僕らはもっと現実的に産学共同というのは大学の中に企業からどんどん金が入ってきているわけですよ。すさまじいですよそれは。特に僕は60年入学ですから、60年に入学した時は原子力工学科、電子工学科が出来ているわけです。そういうところに官産学の一体の推進機構が出来ているわけです。原子力村といいますか、何と言いますか。原子力だけじゃないですよ。工学部、薬学部全部そうです。実際、そういう形で研究が進められているんです。膨大な寄付講座が出来ている、寄付金が入ってきている、だから産学共同(路線粉砕)というのは、そういうものに対するものだと思っとったんです。そういう風な企業と一体となって大学の研究が進められていく、教授の権威というのはそれで持っているわけです。工学部の教授だって大きな企業とつながっていて、毎年企業から委託研究生を引き受けて、それと引き換えに卒業生を企業に押し込むという、それでその企業から金をもらっているという、そういう構造になっているわけですね。だから産学共同というのは、僕ら大学院生というのはそういう風なところで物考えとったわけで、後で分かってきたんですけど、どうも学生諸君と話が合わんなと思っていた。だから東大の大学院生なんて特権なんです、特権階級なんですよ。あまり特権階級という意識がなかったのかもしれないけれども、やっぱりそうなんですね。そういう中で権利の分け前をというのは、民主化闘争でもそういう感じがしてしょうがなかったんですよ。権利を主張してそれなりに権利を認めさせるみたいな、そういう枠内での権利の分け前、大学の自治といっても実際は教授の特権の擁護ですけれども、権力との緊張関係で言っているわけじゃないんだから。大管法の時もつくづく思ったんだけれども、教授たちが大学の自治を守れという時は、その枠内で安定して研究できる自分の権威が守られればそれでいい、ということだったと思うんですね。むしろ学生なんかが言うと教授の自治の侵害になるわけです。特権者の権利の撤廃を要求するするみたいなものがあって、それが『自己否定』というのは今から考えるとかなり気恥ずかしい言葉でなかなか言えないですけれども、あの時は言えたのだからすごいものだと思います。そういう中で、そういうところから離れて自分たちの主張があるんだということを言いたかったようなところがあるんですね。うまく言えんですけれども。
『大学解体』というのは、かなりストレートに言うことができたです。ついにそこまで言ったかという。東大闘争が始まってすぐに出した『東大闘争勝利のために』というパンフレット、僕と3人ほどで作ったんですけれども、その時に、ちょうど1968年は明治維新100年で、明治100年の権力機構を支えてきた東京大学について書いたものですから、その時から思っていたから、闘争半年間でそこまで行けたという思いがあって、『大学解体』というのは僕自身、当時は心から言いたかったことです。

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大谷君の『革命とどうつながるのか』と言われたことは、テーマが大きすぎて、あと5分で言えるものではない。
『今の若い人に対して』ということについて、これは本当にどうしていいのか僕も知りたいですけれども、僕ら本当にちょっと引き籠っとったんで、あかんと思ったのは、福島の事故の後、これは僕は後で人から聞いたんですけれども、東京大学に行った奴が『東京大学の学生は何もしとらん。シーンとしていて、立看一つ出ていない』と。もうひとつ僕の経験を言いますと、昨年、京都大学の学園祭で、京大生の山﨑君が虐殺された、その展示会を私が一緒にやっている『10・8山﨑博昭プロジェクト』の企画で京都大学で展示会をやったんですけれども、そこで数十年ぶりに大学の学園祭というところに行きました。明るくて楽しくていいんですけれども、ちょうど香港の理工大学に機動隊が突入する寸前です。僕はホテルでテレビを見たら、ニュースでその寸前の学生が思い詰めた感じで喋っている。正直、涙が出てきましたよ。京都大学に行ったらいっぱい立看は出ているんですよ、お祭りですから。『香港学生に連帯する』という看板が一つもない。僕の見た感じでは。これはやはり『あかん』と思ったです、正直。皆が皆そうなれとは言わんけれども、せめて看板一つぐらい、そういう看板なければ嘘だろうと思ったわけで、そういう意味では僕は何とか、さっきの福島の時の東京大学は何のレスポンスもないというか、シーンとして普段と変わらん状況があったということを含めて、やっぱり『俺たち間違った』と、『この50年何しとったんや』と、本当悔しいし、自分が情けないです。何で若い人たちに伝えてこれなかったんだと思います。だからそれは本当に何とか、すぐ伝えたからといってすぐレスポンスがあるとは思わんけれども、これは僕らあかんなと思う。お前ら何しとたんやと言われたら返す言葉ないですよ。もう本当にだらしない。情けないと思います。そんなんで、さっきの質問の答えにならんけれども、答えようがないんで、いい知恵があったら出してもらいたい感じです。」

司会:高橋「質疑応答をやろうかと思いましたが、その時間がありません。最後の山本さんの言葉、我々自身も痛い言葉だなと思います。金を取ってくる人間が一番偉いみたいな価値観というのは、自分が一体社会的にこの世界の中でどのように位置を与えられ、どういう風に動いていくのかということに全く無自覚であるというような気がします。学生諸君もそうだと思います。そういうことに対して、今、山本さんが最後に仰られたことが切実な問題提起になっているのではないかと思います。これで第一部を締めくらせていただきたいと思います。」

「最後の山本さんの言葉にもありましたけれども、若者たちに我々がどう答えていいのか、解答を持っていないんですよ。だからこそ、これから一緒に解答を作っていきましょうよ。最後の山本さんのお言葉を受けて、今、前に若い方たちが座っていらっしゃいますけれども、これから山本さんや運動を経験した方々と、新しい交流を結んでくれればいいかなと思います。私たちは必ず支援しますので。これで第一部は終わらせていただきます。」
(つづく)

【山本義隆氏の講演 アーカイブス】
今回の集会での山本義隆氏の発言について理解を深めるために、2年前に掲載した記事がありますので、参考にご覧ください。
山本義隆氏講演 1968年という時代と東大闘争を語る
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2018-07-06.html

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会

http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は3月20日(金)に更新予定です。

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