全国学園闘争の記録シリーズ。今回は大阪大学である。吹田、豊中、箕面にキャンパスがある。
大阪大学は大学のサイトによると『大阪大学は、我が国第6番目の帝国大学として1931年に創設されました。しかし、大阪大学の原点は緒方洪庵が1838年に創設した適塾に見だすことができます。緒方洪庵の弟子や息子を中心として明治新政府により1869年に設立された大阪仮病院や大阪医学校が幾多の変遷を経て、1931年に医学部と理学部の2学部からなる大阪帝国大学が創設されました。(中略)大阪大学には緒方洪庵の「人のため、世のため、道のため」という精神と大阪府民の学問への思いが受け継がれています。』とのことである。
大学のサイトを見ても、1968年から1969年にかけての大学闘争のことには全く触れられていない。歴史から抹殺されようとしている個別大学闘争の記録を残してくのが、このブログの使命でもある。
1969年2月20日号の「サンデー毎日」掲載の全国大学紛争校一覧によると、大阪大学の闘争の争点は「処分の白紙撤回を要求」、指導セクトは「中核派を中心に反日共系」とある。自治会は日共系や民学同系だったようだ。
では、当時の新聞や雑誌の記事から、大阪大闘争の様子を見てみよう。まず、闘争の発端となった出来事の新聞記事から。

【毎日新聞1968.6.26】(引用)
阪大、深夜まで混乱
空港突入計画 中核派の“占拠”に抗議
「大阪国際空港が軍事基地として使われているとして反対する関西の三派全学連中核派は26日、同空港突入の“実力行動”を計画し、25日午後3時すぎ、阪大、関大などの中核派学生約二百人が国際空港に近い豊中市侍兼山にある阪大教養部大講義室を占拠した。大学側は退去を求めて中核派学生の説得に乗り出し、徹夜で警官導入の最悪事態回避の努力をつづけた。
 一方、自治会を中心にした同大学生、職員ら4千人が乱入に抗議して中核派とにらみ合うなど、阪大が開学以来の混乱となった。中核派学生たちは26日午後、350人くらいが空港へデモするものとみられ、大阪府警も警備本部を設けて厳戒態勢をとっている。
 阪大中核派の学生約50人は、この日午後3時、教養部大講義室で行われていた第三時限の授業が終わったとたん、室内に入り込みアッという間に教壇を占拠した。このため阪大の学生自治会(民青、民学同系)と大学院学生協議会連絡会の主催で開かれた『阪大の自治を守る全阪大決起集会』には教養部をはじめ、10学部の学生、教職員約4千人が参加、『三派帰れ』の大シュプレヒコールで撤去を迫った。
しかし午後7時半、京大、立命館大、竜谷大を中心とする中核派の京都勢約130人がバスで阪大正門前に乗りつけ、学生、教職員約百人のピケを突破、構内をジグザグ・デモで走り抜けたあと、大講義室になだれ込んだ。
 阪大の学生は総立ちとなってシュプレヒコールを繰り返し、中核派の学園占拠をきびしく非難したが、白ヘルメット姿の中核派学生は批判をよそに26日の大阪国際空港デモの討論を続けた。
 午後8時40分、岡田実総長が集会場に出席、学生たちに『三派全学連学外退去と全阪大生の理性ある行動』を強く訴えた。
 また同総長は『全阪大生の整然とした行動に強い感銘を受けた』と警官導入絶対反対を叫び続けてきた学生、教職員の拍手と歓声とあらしにつつまれた。
 学生たちは午後10時50分『警官導入阻止の目的は達せられた。26日午後零時半からもう一度集会を開こう』と“休会”を宣言、引き揚げ始めたため、中核派は大講義室から出て、学内デモで気勢をあげ、26日午前零時半、大講義室に泊り込んだ。
 中核派は大阪国際空港に隣接して米軍機の修理、整備も行っている新明和工業伊丹工場があり、また最近は米軍用機の同空港利用が目立っているとして26日のデモの途中、同空港突入を計画したもの。」

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(写真)
中核派学生に退去勧告文を持って説得に向かったが、教養部入口で押返され、自治会学生に経過を説明する岡田阪大総長

革共同全国委員会機関紙「前進」にこの大阪大学の記事が掲載されているので見てみよう。
【前進 1969.1.6】
阪大で学生部封鎖
処分撤回、1月全学ストへ
「6・25,26、全関西の政治焦点となった大阪空港闘争のとき、大阪大学を『不法占拠』したことを理由に、教養部2年平田君(教養部自治会副委員長、全学連中執)以下3名に対する処分が出された。また11月における民学同(右派)との武装闘争を口実にした第二次処分の策動(民学同による処分要請→当局による事情調査)が強められている。これに対し、12・4『処分白紙撤回』『大衆団交要請』のスローガンで、学生部封鎖を皮切りにして開始された大阪大学闘争は、12・19民青と民学同とのバリケードをめぐる軍事戦での勝利という局面をつくり出し、1月冒頭からの大学当局との全面対決戦に入ろうとしている。
 過去一貫して阪大に学園闘争は起こらないという神話がつくりあげられてきた。大学当局は民学同という安全弁をおくことによって常に、学生の不満を大学の存在そのものに対する否定に向かわせないようにしてきた。
 ところが70年安保にむかう全社会的流動化の中で、10・8羽田以降の闘いを否定した民学同の没落と戦闘的学生運動の飛躍的前進という現実が、大学当局の旧来の支配方式を一挙に動揺させている。
 いま、大学当局は全学的に盛り上がった『大学変革』の闘いを自己の路線の下に収約せんがために、1月に総長提案として『学生参加を含めた改革案』を提出せんとしている。東大が資本制百年の歴史の中で官僚のエリートと支配階級のイデオロギー生産の場であることに対して、阪大は1950年代後半からの高度経済成長にみあう高級技術者の産出の場として、関西財界とのゆ着を深めてきたと同時に、政府支配階級の目的大学化構想の先端をきって『大学院大学』実現の路線を歩みつつある。
 その過程として教養部1年からの留年制、経・基礎工の自治会否定、生協の大学当局による私物化、教養部の徹底的軽視、理工系の偏重、大企業の委託研究という『学生の無視』と『学問の不在』という現実を生み出している。その上、今回留年限度を『6年から4年にきりさげる』ということが4月から実施されようとしている。処分撤回闘争として出発した今回の闘いは、すでに大学当局の総路線に対する闘いとして発展している。教養部教官は『首を覚悟で文部官僚による大学支配から解放する』と語り、『助教授・助手・大学院生グループ』から大学当局に対する批判が展開されはじめている。
 1月から教養部スト・後期試験ボイコット・本部封鎖・全学スト実現を通じて、『第二の東大実現』『安保粉砕、日帝打倒の砦』にむけて闘いは発展するだろう。」

この後、「前進」の記事のように大阪大学の闘争は発展していく。
1969.1.18・大阪大学で反代々木系生 200 人が教養部本館を占拠。
1.31・大阪大学教養部学生大会、スト突入を決議。
2.18大阪大全学闘争委員会学生150人が処分の白紙撤回を求めて本部事務局に乱入し占拠。
5.22大阪大全学闘争委員会60人は大学立法に反対して教養部二号館などを封鎖。
5.23大阪大に機動隊導入。理学部本館に立てこもる全共闘学生は火焔瓶数十本を投げて抵抗。

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【朝日新聞1969.5.24】(引用)
阪大内に機動隊
「大阪府警は23日午後8時20分、大阪大学豊中地区(豊中市侍兼山町)に機動隊約千人を出動させ、反代々木系の全学闘争委員会の学生らが構内に築いたバリケードを取除いた。同大学に紛争が始まって以来、機動隊が学内に立入ったのは初めてで、この日の立入りは、山本厳学長代行からの『基礎工学部にいる職員、学生を救出してほしい』という豊中署への要請に基づいて行われた。
阪大豊中地区では、全闘委が教養部、法、経済学部などを封鎖、さらに実験施設などがある基礎工学部の本部の封鎖をねらっていたが、これに反対して同学部の職員、学生らがたてこもり4月中旬以来激しい衝突をくり返した。」

【毎日新聞1969.7.6】(引用)
キャンンパス情報
<大阪大>
「大阪大学は5日午後、全学闘争委員会との第二回目の大衆団交を開いたが、全闘委側は評議会の大学法案に対する反対理由が明らかでないとして一方的に決裂を宣言。8日の全学をバリケード封鎖し、大学立法粉砕の政治闘争に重点を移す方針を打ち出した。」

闘争が続く中、朝日ジャーナルに以下のようなルポが掲載された。闘争の実情がよく分かる。
【朝日ジャーナル 1969.9.21】(引用)
苦悩する個別学園闘争―関西からー
原点を貫くつらさ  大阪大学
「関西の学園闘争の中では、今後、阪大が一つの目になるのではないでしょうか。それは一つには現在あちこちの大学で続々封鎖が解除されているのに、阪大では9学部中教養、法、文、経など7学部が集中している豊中地区の主な建物のほとんどが学生の手で封鎖され、闘争の拠点が確保されているからです。
 そればかりではありません。阪大は国立大学の中でも比較的近代化された大学だといわれていますが、その近代化された大学で起こった闘争がどういう形で進むのか、一つのモデルケースになると思われるからでもあるのです。
 ことしの6月25日、『非常大権』を背景に独走した、と学内から強い反発をうけて崩壊した山本巌総長代行体制のあとをうけ、ハト派のエースとして登場した本城市次郎総長代行も、8月3日の大学措置法強行採決直後、立法に抗議するという形でやめてしまいました。代行に就任した当時、話合い路線を強調し、学生のゲバルトに対しても、学生が相手に話を聞かせるため、世間に訴えるにはこれしかないと思いつめたら一概にけしからんとはいい切れない、とまで言っていた本城氏も難局を打開することはできなかたのです。
 封鎖に参加していたある学生は、本城体制の破産に対して『本城さん自身はまともな人だと思う。その彼をかつぎ出して学生をギマンしようとした評議会の路線が破産したといえる。本城さんの辞任は評議会への抗議でもある』と言っていました。
 そのあと出てきたのが現在の釜洞醇太郎総長です。釜洞総長は就任直後、記者会見で『正常化のためには機動隊導入も考えられる』とタカ派的な発言をしましたが、その後評議会で批判の声が出たため、『あの発言は私的なものであった。総長としては大学措置法はあくまで無視し、長期路線でいく』と表明しました。目下まず執行部の体勢固めを急いでいるところで、大学当局としては、夏休みあけ後、9月16日から理、文、経済の3学部で事業再開したい意向ですが、当然学生たちは妨害することでしょう。
 もっとも混沌としているのは学生の方も同様です。阪大はかって旧民学同右派(現在「日本のこえ」系の民主主義学生同盟=民学同)の拠点校のひとつで、いまでもこの民学同がセクトとしては院生を中心に最大に勢力をもっているようです。しかし建物を封鎖するなどの急進的な闘争をやってきたのは、中核派がヘゲモニーを握っている全闘委(全学闘争委員会)の学生が中心です。
 闘争のきっけは処分問題だったのですが、いまでは処分撤回闘争は完全に空洞化してしまい、全闘委の闘争目標は学内問題より、11月佐藤訪米阻止闘争へむけての政治闘争へ重点が移ってしまいました。個別学園闘争から政治闘争へと、ここまでは一見ありふれたパターンなのですが、よくみるとちょっと変わった動きも出ています。たとえば理学部と基礎工学部の各自主管理実行委員会が封鎖している建物の中で連日行っている自主講座です。
 そこで追及されているのは、『われわれの研究とは何か』『科学至上主義的な教育の再編成に対して研究者(研究労働者)の立場からしどう対決できるか』などといったテーマです。基礎工では、数理、物性、合成など各研究分野ごとに『われわれの研究を問う』シリーズの対論を行ったり、理学部でも各自の研究点検運動を行ったりしています。自主管理委員会の主力はノンセクトの院生で、自主講座には若手教官の一部も協力しています。
 『なあんだ、学問・研究とは何かというテーマといい、自主講座といい、別に目新しいところは少しもないじゃないか』と言いたげなK君の顔が見えるようです。それはその通りでしょう。それどころか全闘委の党派学生からは、この“政治の季節”に政治闘争をになわないような自主講座運動はナンセンスという声さえ出ているのです。それらの声に対して、じゃあいったい、ほかになにができるのか、といわば開き直ったのが、彼らの運動といえるでしょう。
 両学部が封鎖されたのは7月8日、とくに基礎工の場合は封鎖の主役が基礎工学部とは直接関係ない全闘委の学生で、現在の自主管理委員会のメンバーは封鎖された側だったのですが、後に管理をひきついだというかっこうです。その一人のO君(博士課程三年)はこう言っていました。
 『全闘委の諸君は建物の封鎖はしたものの、それからどうするかという点で何もなかった。むしろそこで、どうしたら7・8封鎖の質を高めることができるかの問題を、ボクたち研究者につきつけたともいえる。質を高めるためにはやはり、研究とは何かというような日常的な細かいところまでさかのぼらなければならない。それをぬきにした政治闘争だけでは、こんどの闘争は持続できないだろう』。
 大学とは何か、学問・研究とは何かという問題は1968・69年の全共闘運動の原点といえるでしょう。学園闘争が11月の佐藤訪米を目前にして、ともすればその原点がかすんでしまった感じは否めません。こうした状況の中で、原点のまわりを突っつこうとするのはかなりしんどいだろうと思います。そのしんどい作業にあえて挑戦しながら、いろいろな可能性を追求しているのが、阪大の中ではほんの一握りの自主管理委員会の面々だといえるでしょう。
 念のために、彼らが政治闘争を軽視しているわけではありません。いままでの街頭デモでもそうでしたが、11月闘争でも、街頭に全闘委の白ヘルや赤ヘルと並んで、自主管理委員会のヘルがいくつかみられることでしょう。セクト、ノンセクトを問わず、11月闘争を否定する学生はいないでしょうから。」

この後、大阪大学闘争はどうなったのか。翌年の朝日ジャーナル「学園ハガキ通信」への投稿で知ることができる。
【朝日ジャーナル「学園ハガキ通信」 70.3.1】(引用)
“叛大”はいずこ(大阪大)
「わが阪大の現状は非常にきびしく、前期考査を前にして、全軍労もそっちのけで、みな“勉強”ばかりしている。69年6・15には600人近いデモを出し、10・21には千人近く集まったのに、1・24はわずか11人!
全闘委は街頭に出ったきり。民学同は上からの指示により何もせず、昨年10月15日授業再開の日の闘争圧殺に反対して、新入生では唯一ストで闘ったぼくたち基礎工生物工学科生の活動も、なんとはなしにシリスボミ。
処分消滅、産学協働、新大阪大学構想とかの重大な問題は、どこにいってしまたことやら。
自主研究をしている院生と造反教官はヤキモキし、教養の学生は、12月中の1週間にわたる連日の機動隊導入でストをつぶされてからは、全くヤル気ナシ。
今まで1年にわたる闘争なんてまったくなかったみたい。また“叛大”から、もとの“阪大”にもどってしまうのか。
(基礎工学部・匿名希望)」

※「1968-70全国学園闘争図書館」に大阪大学新聞1966.6.10をアップしています。
(終)
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。

【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月10日(金)に更新予定です。