野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2020年06月

全国学園闘争の記録シリーズ。今回は大阪大学である。吹田、豊中、箕面にキャンパスがある。
大阪大学は大学のサイトによると『大阪大学は、我が国第6番目の帝国大学として1931年に創設されました。しかし、大阪大学の原点は緒方洪庵が1838年に創設した適塾に見だすことができます。緒方洪庵の弟子や息子を中心として明治新政府により1869年に設立された大阪仮病院や大阪医学校が幾多の変遷を経て、1931年に医学部と理学部の2学部からなる大阪帝国大学が創設されました。(中略)大阪大学には緒方洪庵の「人のため、世のため、道のため」という精神と大阪府民の学問への思いが受け継がれています。』とのことである。
大学のサイトを見ても、1968年から1969年にかけての大学闘争のことには全く触れられていない。歴史から抹殺されようとしている個別大学闘争の記録を残してくのが、このブログの使命でもある。
1969年2月20日号の「サンデー毎日」掲載の全国大学紛争校一覧によると、大阪大学の闘争の争点は「処分の白紙撤回を要求」、指導セクトは「中核派を中心に反日共系」とある。自治会は日共系や民学同系だったようだ。
では、当時の新聞や雑誌の記事から、大阪大闘争の様子を見てみよう。まず、闘争の発端となった出来事の新聞記事から。

【毎日新聞1968.6.26】(引用)
阪大、深夜まで混乱
空港突入計画 中核派の“占拠”に抗議
「大阪国際空港が軍事基地として使われているとして反対する関西の三派全学連中核派は26日、同空港突入の“実力行動”を計画し、25日午後3時すぎ、阪大、関大などの中核派学生約二百人が国際空港に近い豊中市侍兼山にある阪大教養部大講義室を占拠した。大学側は退去を求めて中核派学生の説得に乗り出し、徹夜で警官導入の最悪事態回避の努力をつづけた。
 一方、自治会を中心にした同大学生、職員ら4千人が乱入に抗議して中核派とにらみ合うなど、阪大が開学以来の混乱となった。中核派学生たちは26日午後、350人くらいが空港へデモするものとみられ、大阪府警も警備本部を設けて厳戒態勢をとっている。
 阪大中核派の学生約50人は、この日午後3時、教養部大講義室で行われていた第三時限の授業が終わったとたん、室内に入り込みアッという間に教壇を占拠した。このため阪大の学生自治会(民青、民学同系)と大学院学生協議会連絡会の主催で開かれた『阪大の自治を守る全阪大決起集会』には教養部をはじめ、10学部の学生、教職員約4千人が参加、『三派帰れ』の大シュプレヒコールで撤去を迫った。
しかし午後7時半、京大、立命館大、竜谷大を中心とする中核派の京都勢約130人がバスで阪大正門前に乗りつけ、学生、教職員約百人のピケを突破、構内をジグザグ・デモで走り抜けたあと、大講義室になだれ込んだ。
 阪大の学生は総立ちとなってシュプレヒコールを繰り返し、中核派の学園占拠をきびしく非難したが、白ヘルメット姿の中核派学生は批判をよそに26日の大阪国際空港デモの討論を続けた。
 午後8時40分、岡田実総長が集会場に出席、学生たちに『三派全学連学外退去と全阪大生の理性ある行動』を強く訴えた。
 また同総長は『全阪大生の整然とした行動に強い感銘を受けた』と警官導入絶対反対を叫び続けてきた学生、教職員の拍手と歓声とあらしにつつまれた。
 学生たちは午後10時50分『警官導入阻止の目的は達せられた。26日午後零時半からもう一度集会を開こう』と“休会”を宣言、引き揚げ始めたため、中核派は大講義室から出て、学内デモで気勢をあげ、26日午前零時半、大講義室に泊り込んだ。
 中核派は大阪国際空港に隣接して米軍機の修理、整備も行っている新明和工業伊丹工場があり、また最近は米軍用機の同空港利用が目立っているとして26日のデモの途中、同空港突入を計画したもの。」

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(写真)
中核派学生に退去勧告文を持って説得に向かったが、教養部入口で押返され、自治会学生に経過を説明する岡田阪大総長

革共同全国委員会機関紙「前進」にこの大阪大学の記事が掲載されているので見てみよう。
【前進 1969.1.6】
阪大で学生部封鎖
処分撤回、1月全学ストへ
「6・25,26、全関西の政治焦点となった大阪空港闘争のとき、大阪大学を『不法占拠』したことを理由に、教養部2年平田君(教養部自治会副委員長、全学連中執)以下3名に対する処分が出された。また11月における民学同(右派)との武装闘争を口実にした第二次処分の策動(民学同による処分要請→当局による事情調査)が強められている。これに対し、12・4『処分白紙撤回』『大衆団交要請』のスローガンで、学生部封鎖を皮切りにして開始された大阪大学闘争は、12・19民青と民学同とのバリケードをめぐる軍事戦での勝利という局面をつくり出し、1月冒頭からの大学当局との全面対決戦に入ろうとしている。
 過去一貫して阪大に学園闘争は起こらないという神話がつくりあげられてきた。大学当局は民学同という安全弁をおくことによって常に、学生の不満を大学の存在そのものに対する否定に向かわせないようにしてきた。
 ところが70年安保にむかう全社会的流動化の中で、10・8羽田以降の闘いを否定した民学同の没落と戦闘的学生運動の飛躍的前進という現実が、大学当局の旧来の支配方式を一挙に動揺させている。
 いま、大学当局は全学的に盛り上がった『大学変革』の闘いを自己の路線の下に収約せんがために、1月に総長提案として『学生参加を含めた改革案』を提出せんとしている。東大が資本制百年の歴史の中で官僚のエリートと支配階級のイデオロギー生産の場であることに対して、阪大は1950年代後半からの高度経済成長にみあう高級技術者の産出の場として、関西財界とのゆ着を深めてきたと同時に、政府支配階級の目的大学化構想の先端をきって『大学院大学』実現の路線を歩みつつある。
 その過程として教養部1年からの留年制、経・基礎工の自治会否定、生協の大学当局による私物化、教養部の徹底的軽視、理工系の偏重、大企業の委託研究という『学生の無視』と『学問の不在』という現実を生み出している。その上、今回留年限度を『6年から4年にきりさげる』ということが4月から実施されようとしている。処分撤回闘争として出発した今回の闘いは、すでに大学当局の総路線に対する闘いとして発展している。教養部教官は『首を覚悟で文部官僚による大学支配から解放する』と語り、『助教授・助手・大学院生グループ』から大学当局に対する批判が展開されはじめている。
 1月から教養部スト・後期試験ボイコット・本部封鎖・全学スト実現を通じて、『第二の東大実現』『安保粉砕、日帝打倒の砦』にむけて闘いは発展するだろう。」

この後、「前進」の記事のように大阪大学の闘争は発展していく。
1969.1.18・大阪大学で反代々木系生 200 人が教養部本館を占拠。
1.31・大阪大学教養部学生大会、スト突入を決議。
2.18大阪大全学闘争委員会学生150人が処分の白紙撤回を求めて本部事務局に乱入し占拠。
5.22大阪大全学闘争委員会60人は大学立法に反対して教養部二号館などを封鎖。
5.23大阪大に機動隊導入。理学部本館に立てこもる全共闘学生は火焔瓶数十本を投げて抵抗。

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【朝日新聞1969.5.24】(引用)
阪大内に機動隊
「大阪府警は23日午後8時20分、大阪大学豊中地区(豊中市侍兼山町)に機動隊約千人を出動させ、反代々木系の全学闘争委員会の学生らが構内に築いたバリケードを取除いた。同大学に紛争が始まって以来、機動隊が学内に立入ったのは初めてで、この日の立入りは、山本厳学長代行からの『基礎工学部にいる職員、学生を救出してほしい』という豊中署への要請に基づいて行われた。
阪大豊中地区では、全闘委が教養部、法、経済学部などを封鎖、さらに実験施設などがある基礎工学部の本部の封鎖をねらっていたが、これに反対して同学部の職員、学生らがたてこもり4月中旬以来激しい衝突をくり返した。」

【毎日新聞1969.7.6】(引用)
キャンンパス情報
<大阪大>
「大阪大学は5日午後、全学闘争委員会との第二回目の大衆団交を開いたが、全闘委側は評議会の大学法案に対する反対理由が明らかでないとして一方的に決裂を宣言。8日の全学をバリケード封鎖し、大学立法粉砕の政治闘争に重点を移す方針を打ち出した。」

闘争が続く中、朝日ジャーナルに以下のようなルポが掲載された。闘争の実情がよく分かる。
【朝日ジャーナル 1969.9.21】(引用)
苦悩する個別学園闘争―関西からー
原点を貫くつらさ  大阪大学
「関西の学園闘争の中では、今後、阪大が一つの目になるのではないでしょうか。それは一つには現在あちこちの大学で続々封鎖が解除されているのに、阪大では9学部中教養、法、文、経など7学部が集中している豊中地区の主な建物のほとんどが学生の手で封鎖され、闘争の拠点が確保されているからです。
 そればかりではありません。阪大は国立大学の中でも比較的近代化された大学だといわれていますが、その近代化された大学で起こった闘争がどういう形で進むのか、一つのモデルケースになると思われるからでもあるのです。
 ことしの6月25日、『非常大権』を背景に独走した、と学内から強い反発をうけて崩壊した山本巌総長代行体制のあとをうけ、ハト派のエースとして登場した本城市次郎総長代行も、8月3日の大学措置法強行採決直後、立法に抗議するという形でやめてしまいました。代行に就任した当時、話合い路線を強調し、学生のゲバルトに対しても、学生が相手に話を聞かせるため、世間に訴えるにはこれしかないと思いつめたら一概にけしからんとはいい切れない、とまで言っていた本城氏も難局を打開することはできなかたのです。
 封鎖に参加していたある学生は、本城体制の破産に対して『本城さん自身はまともな人だと思う。その彼をかつぎ出して学生をギマンしようとした評議会の路線が破産したといえる。本城さんの辞任は評議会への抗議でもある』と言っていました。
 そのあと出てきたのが現在の釜洞醇太郎総長です。釜洞総長は就任直後、記者会見で『正常化のためには機動隊導入も考えられる』とタカ派的な発言をしましたが、その後評議会で批判の声が出たため、『あの発言は私的なものであった。総長としては大学措置法はあくまで無視し、長期路線でいく』と表明しました。目下まず執行部の体勢固めを急いでいるところで、大学当局としては、夏休みあけ後、9月16日から理、文、経済の3学部で事業再開したい意向ですが、当然学生たちは妨害することでしょう。
 もっとも混沌としているのは学生の方も同様です。阪大はかって旧民学同右派(現在「日本のこえ」系の民主主義学生同盟=民学同)の拠点校のひとつで、いまでもこの民学同がセクトとしては院生を中心に最大に勢力をもっているようです。しかし建物を封鎖するなどの急進的な闘争をやってきたのは、中核派がヘゲモニーを握っている全闘委(全学闘争委員会)の学生が中心です。
 闘争のきっけは処分問題だったのですが、いまでは処分撤回闘争は完全に空洞化してしまい、全闘委の闘争目標は学内問題より、11月佐藤訪米阻止闘争へむけての政治闘争へ重点が移ってしまいました。個別学園闘争から政治闘争へと、ここまでは一見ありふれたパターンなのですが、よくみるとちょっと変わった動きも出ています。たとえば理学部と基礎工学部の各自主管理実行委員会が封鎖している建物の中で連日行っている自主講座です。
 そこで追及されているのは、『われわれの研究とは何か』『科学至上主義的な教育の再編成に対して研究者(研究労働者)の立場からしどう対決できるか』などといったテーマです。基礎工では、数理、物性、合成など各研究分野ごとに『われわれの研究を問う』シリーズの対論を行ったり、理学部でも各自の研究点検運動を行ったりしています。自主管理委員会の主力はノンセクトの院生で、自主講座には若手教官の一部も協力しています。
 『なあんだ、学問・研究とは何かというテーマといい、自主講座といい、別に目新しいところは少しもないじゃないか』と言いたげなK君の顔が見えるようです。それはその通りでしょう。それどころか全闘委の党派学生からは、この“政治の季節”に政治闘争をになわないような自主講座運動はナンセンスという声さえ出ているのです。それらの声に対して、じゃあいったい、ほかになにができるのか、といわば開き直ったのが、彼らの運動といえるでしょう。
 両学部が封鎖されたのは7月8日、とくに基礎工の場合は封鎖の主役が基礎工学部とは直接関係ない全闘委の学生で、現在の自主管理委員会のメンバーは封鎖された側だったのですが、後に管理をひきついだというかっこうです。その一人のO君(博士課程三年)はこう言っていました。
 『全闘委の諸君は建物の封鎖はしたものの、それからどうするかという点で何もなかった。むしろそこで、どうしたら7・8封鎖の質を高めることができるかの問題を、ボクたち研究者につきつけたともいえる。質を高めるためにはやはり、研究とは何かというような日常的な細かいところまでさかのぼらなければならない。それをぬきにした政治闘争だけでは、こんどの闘争は持続できないだろう』。
 大学とは何か、学問・研究とは何かという問題は1968・69年の全共闘運動の原点といえるでしょう。学園闘争が11月の佐藤訪米を目前にして、ともすればその原点がかすんでしまった感じは否めません。こうした状況の中で、原点のまわりを突っつこうとするのはかなりしんどいだろうと思います。そのしんどい作業にあえて挑戦しながら、いろいろな可能性を追求しているのが、阪大の中ではほんの一握りの自主管理委員会の面々だといえるでしょう。
 念のために、彼らが政治闘争を軽視しているわけではありません。いままでの街頭デモでもそうでしたが、11月闘争でも、街頭に全闘委の白ヘルや赤ヘルと並んで、自主管理委員会のヘルがいくつかみられることでしょう。セクト、ノンセクトを問わず、11月闘争を否定する学生はいないでしょうから。」

この後、大阪大学闘争はどうなったのか。翌年の朝日ジャーナル「学園ハガキ通信」への投稿で知ることができる。
【朝日ジャーナル「学園ハガキ通信」 70.3.1】(引用)
“叛大”はいずこ(大阪大)
「わが阪大の現状は非常にきびしく、前期考査を前にして、全軍労もそっちのけで、みな“勉強”ばかりしている。69年6・15には600人近いデモを出し、10・21には千人近く集まったのに、1・24はわずか11人!
全闘委は街頭に出ったきり。民学同は上からの指示により何もせず、昨年10月15日授業再開の日の闘争圧殺に反対して、新入生では唯一ストで闘ったぼくたち基礎工生物工学科生の活動も、なんとはなしにシリスボミ。
処分消滅、産学協働、新大阪大学構想とかの重大な問題は、どこにいってしまたことやら。
自主研究をしている院生と造反教官はヤキモキし、教養の学生は、12月中の1週間にわたる連日の機動隊導入でストをつぶされてからは、全くヤル気ナシ。
今まで1年にわたる闘争なんてまったくなかったみたい。また“叛大”から、もとの“阪大”にもどってしまうのか。
(基礎工学部・匿名希望)」

※「1968-70全国学園闘争図書館」に大阪大学新聞1966.6.10をアップしています。
(終)
【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。

【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。
【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月10日(金)に更新予定です。

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。
今回は「オリーブの樹」149号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

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<独居より  2019年11月15日~2020年1月31日>
11月15日
 午前には、当センターからのインフルエンザ予防接種、乳癌検診のことを書面で「受けます」と記し、承諾書に署名指印しました。午後には、処遇課よりの話があります、とのことで、病室を出て呼ばれました。今日発信した手紙についてでした。手紙は、差出人から宛名人宛てであり、それ以外の人へ伝言などはできないこと、日誌に書かれていることは、宛名人以外の人に読んでもらう意図で書かれているのか? など。今回の手紙のここがどう、と具体的にはないが、原則主旨を踏まえているのかなど、質されました。私は、もともと日記を書いており、その日その日にあったこと、受けとった資料や手紙の感想など、そのまま記しています。私から他の人に見せてというのは、これまでOKだったのに、この間不可だというのは承知しています。受け取った人の自由意思で、他の友人にも読んで頂くのは問題ないはずです。また、日記は手元に置かず、便箋で蓄積してもらっているもので、その中から、自分で友人の協力を得て、一部オリーブの樹に載せています。今年6月ごろまで何の問題もなかったことが、再三指導されてきましたので、私も日誌の内容が、当局から「伝言」ととられないように配慮して書いているつもりなので、ご理解、ご指摘下さい、と答えました。
それからまた暫くして、今度は企画課の担当が2人、病室に訪れました。
「情況・2019年秋号」について、検閲の調査結果、不許可の通告に来ました。「情況」誌が「法70条第1項の第2号矯正指導上、支障ありとみなす内容」のため、とのことです。「情況」誌が読書禁止!? 初めてで驚いています。どんな内容が引っかかったのでしょう。とにかく不許可のため、領置する書類に署名指印を求められました。
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(情況・2019年秋号)
(中略)
11月22日 届いた資料の中に、10・26エルおおさかでの「10・8山崎博昭プロジェクト」による集いに関するものがありました。「1960年代から70年代の米国学生運動活動家リーダー、マーク・ラッド氏が語る」という企画の資料です。ラッドさんは米「SDS(民主社会学生同盟)」のリーダーの一人で、左翼を率いて「ウェザーマン」を組織し、米政権に対して武装闘争を挑んだ人で、今からそれをとらえて語っているものです。共通した感慨もあり注目しました。10万人のSDSメンバーの中の500人にも足りないウェザーマンらの武装闘争の突出によって、戦線を分裂弱体化させ、権力の弾圧を拡大させ、闘う人々を遠ざけてしまったと、教訓を語っています。そして「非暴力戦略」による変革権力奪取を今こそと主張し、環境問題など新しい時代に闘うことを求めています。(その中で米・ハーバード大のユリカ・チェノウエス氏の非暴力闘争勝利の4つの必要条件を紹介。①大量・多様な人々の参加を長期的に保つこと②政権を支援する層―実業界エリート、政権側メディア、公安のエリートである警察と軍隊の中で協力者へシフトさせる能力③大衆抗議・反対運動における多様で創造的な対抗手段をもつこと④直接的弾圧に直面した時、運動が崩壊したり暴力的手段に陥らない組織的な規律性を持つこと。)何よりも非暴力闘争の目標の前に分裂でなく「共同」を失わないことが大事でしょうね。尚、これまで「SDS」について英語表記を捜してわからず、「オリーブの樹」144号では「民主社会学生同盟」と記しました。「追想にあらず」では当時のブント機関誌「戦旗」に倣って「民主社会主義学生同盟」としましたが、それは間違いだったようです。今回英語表記を見つけました。ソーシャリズムでなく、(Student for a Democratic Society)「民主社会学生同盟」でした。

11月23日 福島泰樹著の「亡友」を読みはじめました。この歌集は著者の三十二冊目の作品です。第一歌集の刊行から50年目。これまでの歌の中から編んだものです。「生者への語りかけが死者への呼びかけとなって、はや日は久しい。」と様々に交わった亡き友を、この50年をとらえながら詠んだ歌の数々です。
「友とは記憶の共有者であり、友の死は友の記憶に生きている私の死に他ならない」という著者の一文に強烈に同じ想いを抱いた日々を蘇らせています。「彼らは死者ではない。私の中でくっきりこれまで以上に生きている。生き続けるだろう。死んだのは彼らの中の私だ。」リッダ闘争の衝撃の後の日々は、そんな思いでした。生と死は逆転したように。近しい友を詠む著者の歌の一首一首が死に直面した友、逝ってしまった友への哀しい慈しみに溢れていて、一気には読みきれません。具体的な友を詠んだ歌は、その友を私が知らない分、十分味わえないこともありますが、友をみつめる己の側、著者自身を詠んだ歌の数々は、友の死に直面する私自身を重ねてしまいます。
“滂沱たる涙は胸の奥ふかく情(こころ)の河に流し候”
“生きるとは友を見捨てることなるか
また一人ゆく愛鷹は雪”
“「述志」とは志を述べること願うこと
悲しみ深く諾(うべな)う情(こころ)”
また「亡友参」にある歌集「下谷風煤録」で、私も読んだ省線電車の歌など時代は没しても生き続け存在している姿がやはり著者の核としてここに選ばれています。「亡友五」まであり、まだ十分読めていませんが、著者の50年、いや生を受けて今現在までの亡き友を語りつつ、人生を総括のように編んでいて、著者のその世界観のはじまりの第一歌集を読んでみたいと思いました。“「根源的敗北を敗北し続けよ!」あわれメットに書き殴りけり”“「わたくし」を世界の唯中に解き放て一人称を逆手にとれよ”など読みつつ「バリケード・一九六六年二月」の歌集を想像しています。
三上さんがテント村日誌を送って下さるので、同世代の方々が替わり番こで座り込みを続けている様子に連帯しています。
(中略)
11月30日 救援紙を読みました。救援連絡センターは2019年に50周年を迎え、新年にむけてシンポジウムを行っています。「改憲攻撃下の弾圧といかに闘うか、代替わり・オリンピック情勢の中で」と、シンポジウムは共謀罪含む弾圧、戦時治安体制の強化に警鐘を鳴らしています。私の逮捕も69年でちょうど設立された救援連絡センターの電話5911301(ゴクイリイミオーイ)を連呼して弁護士が駆けつけて下さった50年前を思い出します。(もちろん2000年の逮捕時も同じ電話に助けられました)2020年は、改憲攻撃が五輪行事・治安セキュリティ強化として進むでしょう。救援連絡センターの意義と役割は益々重要な新年です。再び御支援に感謝するばかりか、センターの力強い活動を期待しています。次の半世紀へと引き継ぐ新年です。

12月5日 今日は午前中エコーによる腹部検査とCT撮影を行いました。そして午後施設の担当の方と主治医に補聴器のカタログをもとに相談しました。面会室での聴き取りが難しいためです。また今日の新聞でペシャワール会の中村哲医師が他の5人と共に殺害されたことを知りました。井戸・灌漑などアフガンの人々にとって死活的な役立つ支援を30年以上続けられた人。米や日本政府の「反テロ」の名のアフガンに対する軍事行動を批判し、「そこに解決はない」と明言していた人です。本当に大切な生き方を示した人でした。哀悼を捧げます。

12月6日 今日は処遇首席に厳しく詰問叱責されてしまいました。調べがあると呼ばれて別室に行くと、処遇首席が待っていました。今年度から首席に就かれた方で、これまで10年近い間に5人の首席の方々の指導を経験しましたが、詰問、叱責される行為も理由もなく過ごしていたので驚きました。これまで処遇上許可されてきたことが今年度許されなくなったことも多々あります。
首席が今後どのような目標を持っているのか? と言うので、入所時の目標「病気を治し、公判で述べたように無関係な人々に被害を与えたなど反省に立って社会復帰する」ことなど述べると、首席はここは罪を犯した者の曲がった考えを矯正するところだ。あなたの手紙や文章、友人の交流、本・資料など調べたが、反省もなく今も組織として水面下で仲間とやりとりし、矯正する気がない、と一方的な批判叱責を様々な角度から話し始めました。何かの行為で違反したとかではなく、思想や人格否定でまず驚きました。
事実でないと私も反論せざるを得ません。「組織」など昔に解散し存在しないこと、「水面下」もないし、私は何も隠すことなく自分の考えを述べること、かつての反省の上に「非暴力」的に社会を変えたいこと、交流中の友人たちは誰一人として暴力的活動など行っていないこと、日本は民主主義制度で憲法でも思想信条・言論の自由があり、私自身法に基づいて意見を述べており、別便でお規律を破ってもいない。当局と政治的意見の違いはあっても、日本では認められていることなど、私の考えを述べました。私の話は逆に反省していないと取られたのかもしれません。
反省しているのなら懲役労働に出るか? 働く希望・意志はあるのか? 国民の税金を使って暮らしていることをどう考えるのか? 被害者の立場をわかっているのか? などなど詰問、批判と叱責の「調べ」でした。
(中略)
12月17日 今日は、今年最後のコーラスを楽しみました。エーデルワイズの二重唱。「花のまわりで」を声一杯歌い、クリスマス近いので、「ジングルベル」と「聖夜」最後に「花は咲く」。お腹に力を入れて気持を込めてみんなで歌います。80代の先生のソプラノは健在です。戻って少しして処遇課よりまた注意指導。12月10日にYさんに送った手紙が発信されていませんでした。最後のページの新年の挨拶コメントに、一行に二行書いてあったところがひっかかったとのこと。“敗戦から75年目の新年、日本のあり方を問い直す年となることを願っています”と、後に加筆したので2行になってしまったところ。書き直すか、消去するかと問われ、書き直すと再び検閲になり遅れるので今日発送してもらうために、消去しました。かつてとちがって、書き直し指導が当日や、翌日でなく一週間後になるようです。 
(中略)
12月19日 今日の運動は5階ベランダ、とっても寒い。昼のニュースでは雪か雨が夕方に……とのことですが。今日は、今年最後の診察で、インフルエンザの予防注射もしました。この間の検査結果も主治医から受けました。胸部レントゲンは問題ありませんでしたが腹部CTの方が前から腫瘍か?と経過観察の一センチ弱のもの。まだ不明なのでMRI腹部造影剤での撮影をすることになりました。肝臓のところです。年明けだと思います。他はなんとか、今年も癌無くすごせました。みんなはどうだろうか……、一病息災の友人たちの顔を思い返しています。今年も残りわずかで、この手紙を出すと、あと年末26日までに一通出せるのみです。今年も、過ぎてみると何と早い一年・来年の華やかと空疎さをみつめつつ政治の変化を望む年の瀬です。
(中略)
12月31日 ちょっと作業に没頭しているうちに大晦日になりました。昼のスポットニュースでカルロス・ゴーンがレバノンに帰国したと報じています。彼の逮捕のし方、日産のクーデター、司法取引でおびきよせることから始まり、その後の恣意的な日本の司法のあり方は、世界の批判を浴びていました。有罪率99.6%の日本で、ゴーンらの文化慣習とかけ離れた日本のやり方が有罪になるのは自明であり、必ず日本を脱出するだろうとは思っていました。そして、日本の司法、拘置所での扱いなど国際水準に満たない基本的人権のあり方を訴えるだろうと思っていました。不断に既存の枠組みを超えて思考しない日本人にとっては驚天でしょう。でも世界では、時々起こることです。きっと、仏・レバノンでは拍手喝采も多いでしょう。日本にとっては、ゴーンの行動は驚きの無法ですが、これを機に、日本の司法のあり方も国際社会に晒されることになるでしょう。レバノンの法律では自国民の他国への引き渡しは禁じられているので、それにアウン大統領らと盟友のゴーンは、安全圏に入ったことになります。でもレバノンは小国です。今後ICPOや様々の圧力をどうやりすごすことができるのか見ものです。強欲なゴーンを人民はレバノンでも支持するとは思えませんが、大国の圧力があればレバノンで公判などして時をかせぎ、曖昧にしていくでしょう。

2020年1月元旦 まだ初日の光が届く前、南の空の暗い下方が紅色に染まり燃えはじめ、新年のうねりを感じつつみつめているうちに序々に紅の煌めきが拡大し眩しい光に変りました。それからずいぶんたって、私の視界にも太陽が目を射る様に姿を現わしました。光に向かって生を感謝し、またみんなに感謝しつつ、良い一年でありますようにと祈りました。元旦のぶあつい新聞が届きました。読むところは、いつもと同じ位の分量ですが。「IR汚職」「国会議員5人に現金」が一面記事。「カジノ利権」は目に見えていたこと。これを機会にとりやめこそ国民の利益です。その脇に「ゴーン被告・レバノン逃亡」の記事に声明も。ゴーンの声明は本人の自由の高揚感を示していますが、こんなに早く声明を出せば、ホットなままに、関係者、協力者が特定されるのにそうした配慮もないようです。レバノン側もゴーンも。
ここの食事は、いつもおいしいので、特別料理はありません。昼に15センチ×10センチの小さなお節セットが添えられました。なますなど、もどきのお節料理が少々。三が日は白米です。それはおいしい。夕食はチーズハンバーグ、スパゲティサラダと抹茶プリン。祝日菓子は3点、ポテトチップス一袋、小倉ようかん、チョコレートでした。今日は菊の花どれも満開で元旦を飾っています。年賀状は、午前と、夜七時すぎと、2回にわたって、たくさん頂きました。どのお便りも私に元気や希望、暖かさを与えてくれます。奥平さんの親族の方や、高校の時代の友人たちの賀状もうれしいです。みんなの一枚一枚心に響き、みんなの新年の心に照り返されて感謝と共に謙虚に新しい年に向きあい生きぬこうと誓っています。
(中略)
1月14日 久しぶりに5階のベランダで運動。青い空に向かって思いっきり深呼吸。ホッとします。軽く200歩を走ってみました。汗ばむほど穏やかな気温です。
夕方、去年送って下さった歌誌「月光」届きました。私の歌も載せて下さっています。この「月光62号」は、「バリケード・一九六六年二月」の刊行五十年特集です。若い福島泰樹が浮かぶ歌の数々です。“憩わむに椅子なし窓も塞ぐゆえ騒立つ指の一〇の凍傷” “積み上げし椅子プラカード獄門の留年の門われは通るも” “一隊をみおろす夜の構内に三〇〇〇の髪戦(そよ)ぎてやまぬ” “寄り添いて瞳みおれど生身ゆえ凍死体よりさむし夜明けは” “機動隊去りたるのちになを握るこの石凍てし路面をたたく” 私たちのバリケードと同じような情景が、闘いのクロニクルとなって詠まれて圧倒的です。彼は早大学費学館闘争を渾身の力で闘い、闘い続ける意志をもって留年した五年生。しかし、バリケード「自主撤去」で150日の闘いが終わり、闘いへの希求と彷徨する魂を抱えて労働者となる。そして結局、法華経興隆学林に入学。収めきれない情念をもてあましているところで67年9月、歌稿を求められて「よし、早大学費学館闘争の短歌をもって、再び闘ってみよう。胸中ふかく敗北と連帯の想いとが熱く吹き荒れた」という。そして67年の10月8日。勃興する闘いの意志に寄り添いつつ、66年の精神の継続と発露を新しい歌の世界と切り結び拓き続け、現在も住職として歌人として「絶唱コンサート」など知られる通りです。この喜寿を迎える歌人の創造性、エネルギーの源泉を知りたくて、第一歌集を読んでみたかったのです。闘争は収束されたけれども、輝く誇り、憤りと連帯の真髄を新しい生き方へと転移させてきたのだなと、しみじみ感じつつ読んできました。第一歌集が出版された当時の寺山修司、塚本邦雄、磯田光一らの批評も、62号で再録されていますが、「刊行五〇年の秋」というタイトルの、福島泰樹自身の文がやっぱり一番胸を打ちます。
(中略)
1月18日 今日は、東大闘争の機動隊導入で厳しい攻防が始まった日。外を見ると、初雪!というか、みぞれが舞っています。でも夜から雨でみぞれの雪は積もりません。窓から眺める狭い隙間(すきま)のみぞれは、何だかなつかしくみとれてしまいました。お昼には、もう晴間の昭島の冬です。室内が寒くないので今頃、どんなに酷いしもやけに悩まされていたか……と八王子時代を思いつつありがたく過ごしています。

1月20日 今日あけ方から美しい紅と青い空。室内温度も寒くない空調です。南向きはすごし易いです。
午後、久しぶりに大谷弁護士と面会できました。でも先生も驚いていましたが、これまで一時間許され、また「立合人なし」だったのに、今回、30分で立合入り、ようは「一般面会扱い」しか許されない結果になりました。先生も処遇主席とやりあったようですが。「立合無し」は、これまで私以外の患者でもずっと行われていました。それでも短い間でも処遇の件、医療の件など時間一杯に話せてとてもホッとしました。心強い先生です。それに、今日初めて、面会室で補聴器を使うので、とても気にしていました補聴器なしでは、先生の話を聴きとれないし、週末試したら、自分の声の大きいこと!大脳一杯に響き紙や本を捲る音が大きく調節が仕様書通りにやってもうまくいかなかったのです。でも、面会室では大谷弁護士の声はしっかり聴こえてとっても効果的で嬉しいことでした。ハウリングもなく。ただ自分の声がうるさいけど。補聴器使用は成功でした!
(中略)
1月22日 今日はMRI。空は降りそうな気配です。大寒過ぎても最高8℃最低0℃で去年より暖かです。午後に診察、CVポートの洗浄と静脈に針をさして、MRI時の造影剤注入の準備。その後、15時半まで、MRIの肝臓検査と、頭部MRIも行いました。
今日午前に病室引っ越しを告げられ、バタバタと荷物準備し、午後新しい病室に荷物移したままで診察とMRI。もどって部屋を整理しているうちに昼食も夕食も届きました。前に居た南向きの少し昭和記念公園の端の森がみえる、気に入っているところです。もしかして桜も見えるかしら!と資料なども受けとりました。
(中略)
1月24日 今日は監査官への去年の「苦情申し立て」の解答を告知受けました。一年に一回、秋にあり、受刑者から苦情の様々を3件まで提出することができます。東拘時代は毎年提起し、毎度「不採決」「却下」「希望の開陳に過ぎない」などで採用されたことはありません。八王子時代から2019年5月頃までは苦情はなく、提起していません。去年は3点①弁護士への速達9月24日発信が10月8日以降まで留められた発信遅れ②プラスチックのプラプラする名札、部屋を出る時に付けるのが24時間装着にかわったのは不要③他の難聴者含め八王子にはあったマイクを面会室設置の検討を求めたがすぐ検討なく却下されたこと、でしたが「施設の裁量の範囲」で却下。第三者機関でないので、受理・採用・改善は期待できません。
(中略)
1月26日 明日は大雪予想の日曜日。
川俣水雪さんが送って下さった「歌集シアンクレール今はなく」を読んでいるところです。歌人に対する知識なく読み出し、同世代の方かと思っていました。最初に高野悦子の「二十歳の原点」に出てくる喫茶店のシアンクレールから、続いて「桔梗や高橋和巳逝きてなお」と彼への敬愛と追体験するような心象の凝視が続くからです。“「バリケード一九六九年二月」立命館を春疾風吹く”“似合わないシュプレヒコールくりかえす未だ少女の面影残し”や“ひたすらに破滅へ向かう人間の闇を剥れり人間として” “全共闘支持に傾くその夜も岐路こそまさに愛すべしとぞ” “夜明けまで泥酔したるその理由「清宮教授を駁す」立看”など当時の京都がうかびます。
でも福島泰樹の「跋」を読み、1960年生まれの人だと知り、少し驚きました。私たちと同世代の人々のような見方、考え方、風景を詠んでいたからです。福島泰樹の跋は、物語の中に人物、時代を浮かび上がらせて、歌の深さを理解させてくれます。その分、あの時代の京都をこの歌人を通して蘇らせます。“ジャズ喫茶しあんくれる無きいまも六月の雨川面をたたく”。荒神橋のたもとで檜森さんを弔ってくれたのも立命の友人たちだったのを連想して思い出します。
著者は学生時代を立命館で学び、故郷に帰り、仕事をへて再び京都の暮らしに戻り、病死を覚悟してありのままの自分を残せれば良いと、この歌集に託した思いを述べています。“立看もビラさえもなきキャンパスの静謐にして平和なること”と詠みつつ、日本の現状を憂う歌が後半に、暮らしの姿と共に詠まれています。
まだ読み切れていませんが、前半もいいし、後半の達観、諦観(見極めるの意)した豊かさと未練に感応できる歌が多いです。こんな歌が好きです。“激論に冷めたココアのひと匙を啜る音さえ盗まれていむ” “一夜にて銀杏並木の黄葉がレコンキスタのように散り敷く” “国論を二分する日の遠からずひかえておるとこの静けさは”
まだ読み込めていませんが、刺激を語彙にできないもどかしさを楽しみつつ読んでいきます。
(中略)
1月30日 今日の新聞に「トランプの中東和平案」について載っています。「トランプ政権案」というより「イスラエル政権案」です。「2国家共存」になる筈のないプランです。何よりも、この転換した米中東和平案の特徴は、中東和平案のこれまでの原則、ルールを放擲したところにあります。そして第二に、「中東の矛盾の根本が、イスラエルによるパレスチナ占領にあること」という「アラブの常識」を、アラブ王制諸国中心に正式に覆したことです。これは、2002年サウジ アブダッラー皇太子(当時)が提起したアラブ中東和平案も反故にするものです。そして第三に、反イランを第一とする中東資本主義体制を、米・イスラエル・サウジ・UAEら王政国家で強権的に作ろうとするものです。サウジ・UAE・イスラエルが、シオニスト クシュナーのイニシアチブでもちまわりで作り上げていった内容といっても過言ではありません。この和平案への怒りが、パレスチナの統一の力になるでしょうか。まだ新聞の記事でしかわかりませんが、あまりに「イスラエル案」なので、国連を始めとする国際社会も認めないでしょう。でもイスラエルはそれで構わないのです。占領と併合を、米承認と国内法で合法化して、現状維持を続ける腹です。国際連帯が今こそ問われているパレスチナです。
新聞では、ゴーン弁護団に対して東京地検が捜索。国際的には日本の司法が敗北しました。全体主義国家並みの検察独裁で、起訴有罪率99.6%から始まって、取り調べに弁護人が同席できない、妻との面会も禁止など人権が抑圧され、あらゆる話は欧米市民社会には、ジョージ・オーウェルの世界です。私の公判で、パリに終身刑で収監中の、ジャッカルことカルロスと私の弁護士が会った時、カルロスがポケットチーフの紳士姿で葉巻をくゆらせつつ登場したので、「カルロスの弁護人かと思った」と驚いていました。日本の貧しい人権無視の司法とは違います。あとは、政治力で日本政府は勝利することができるか? こちらも今のところ難しい。要は仏政府の判断が左右するでしょう。レバノンの民衆デモも、富裕特権を糾弾しているので、カルロス・ゴーンも居辛いとしても、大統領からして盟友なので、今のところレバノンで悠々でしょうか。
(中略)
1月31日 汚染水を海洋放出する利点を示す案が経産省からまとめ案として示されたとの記事。アンダーコントロールはどうなったのでしょう。
 今日は主治医の居ない金曜日ですが、診察に呼ばれて診察室に行くと、初めての医師が待っていました。MRIの頭部検査に異常は見当たらなかったが、(後頭部のしびれ感と痛みを先週の診療時に話したので、MRI検査となった)他に問題はないか診察にみえたとのことです。ありがたいことです。まず問診し、その上、身体のバランスや反射神経などのチェックをして下さいました。問題はありませんと、結論づけて下さったのでホッとしています。DRも言うように、年齢によってあちこちこれまでにない痛みや感覚を味わうようです。
(後略)
(終)

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」好評発売中!

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A5版720ページ
定価3,500円(税別)
情況出版刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com 

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。

【お知らせ その2】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)
●基金振込先
<銀行振込の場合>
みずほ銀行岡山支店(店番号521)
口座番号:3031882
口座名:糟谷プロジェクト
<郵便局からの場合>
記号 15400  番号 39802021
<他金融機関からの場合>
【店名】 五四八
【店番】 548 【預金種目】普通預金  
【口座番号】3980202
<郵便振替用紙で振込みの場合>
名義:内藤秀之 口座番号:01260-2-34985
●管理人注
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月26日(金)に更新予定です。

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