野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2021年01月

「1960年代と私」は、重信房子さんが大学(明治大学)時代を回想した自伝的文章である。この「1960年代と私」は三部構成となっており、第一部は明大入学の1965年から1966・67年の明大学費闘争まで、第二部は1967年から1969年にかけての砂川闘争、10・8羽田闘争、神田カルチェラタン闘争など、第三部は「赤軍派時代と私」として1969年の赤軍派結成から赤軍派崩壊、そして連合赤軍への道が描かれている。
「1960年代と私」の第一部は、既に私のブログで公開しており、2017年5月に公開を終えている。
現在、第一部に続き第二部を公開中であるが、第二部は今回で完結する。今回は、第二部第二章(10)と(11)である。

【1960年代と私  第2部 高揚する学生運動の中で】
第2章 国際連帯する学生運動
1.高揚する街頭行動と全学連 (2019.9.13掲載)
2.三里塚闘争への参加 (2020.1.24掲載)
3.68年 高揚の中の現思研 (2020.1.24掲載)
4.初めての御茶ノ水・神田カルチェラタン闘争へ1968年6月(2020.4.17掲載)
5.三派全学連の分裂―反帝全学連へ(2020.4.17掲載)
6.ブントの国際反戦集会(2020.9.18掲載)
7.全国全共闘の波(2020.9.18掲載)
8.現思研の仲間 遠山美枝子さんのこと(2020.11.27掲載)
9.現思研・社学同とML派の対立(2020.11.27掲載)
10.69年東大闘争(今回掲載)
11.新しい経験と4・28闘争(今回掲載)

第2章 国際連帯する学生運動
10. 69年東大闘争
68年ベトナム人民の民族解放闘争に呼応し、ベトナム反戦闘争は国際的に各地で激しく闘われていました。パリには北ベトナム政府・南ベトナム解放戦線代表らが、海外本部を置いて政治解決を求め、アメリカ政府の侵略を糾弾して対峙していました。
 アメリカ本土でも欧州でも、米軍のベトナム侵略反対行動が、ベトナム本土の解放の戦いと連帯して広がり続けました。
 後に、海兵隊出身でアメリカ国防総省の分析官ダニエル・エルズバーグが「嘘で戦争は勝てない」と、国の過ちを正そうと、アメリカ国防総省の最高機密文書(通称ペンタゴンペーパー)7000ページをメディアを通じて暴露し、ニクソン政権の政策を転換に追い込むのは71年3月の事です。
 この68年・69年は、まさにアメリカの公式発表の嘘の陰で、虐殺・拷問・出鱈目な侵略戦争が幅を利かせていた時です。世界はベトナム反戦運動の広がりの中で各国各地の様々な戦後秩序の行き詰まり、再編成が始まっていました。
日本でも68年は大衆的な反戦運動、東大・日大を頂点とする学生運動が、全共闘運動として、もっとも高揚した年です。
 大学では、各地で全共闘の闘いが生まれ、党派もまた、自らの指導権を確保しようと競合が激しくなっていました。
68年7月、ブントは三派全学連から分裂した反帝全学連結成へと進みました。そして、8月には「国際反戦集会」を主導して「プロレタリア国際主義と組織された暴力」の旗を掲げるブント・社学同は、独自の歩みを始めました。防衛庁突入闘争もそうした中で、戦われました。社会全体から見れば、少数の学生層のそのまた一部に過ぎないのですが、私も含めて当時は、「正義」「使命感」に駆られていました。
 戦う事が、解放感に充ち、自己解放が「同志」と結び合って、新しい変革に結びついていると言う充実感がありました。戦いに参加した動機は各々違ってても、街頭行動で知らない者同士がスクラムを組み、連帯し合える空気が溢れていました。
 今後の人生への影響に悩み葛藤しつつ、覚悟して運動に関わった人がいるかも知れないし、気軽に友人に誘われて加わった人もいたかも知れません。偶然の出会いが、運動の中で化学反応を起こし、逮捕や党派闘争といった喜ばしくない事件を背負いながらも、なお闘い続けたのは、使命感や希望と言った楽天的な未来がどこかに繋がっていたからだと思います。
 こうした反戦闘争、全共闘運動のピークとして、69年1月の東京大学安田講堂の攻防戦があります。
 東大闘争は、既にこれまで戦って来た医学部学生が68年、医局長を缶詰にしたとして、17名の不当処分を下された事で、大学全体の問題となりました。処分撤回を求め「七項目の要求」として、大学の在り方を問い「大学の自治」の幻想を暴露し、学生としての自己の特権的位置を「自己否定」しつつ戦います。
 自分たちの実存を問い、資本主義的価値としての「学問の自由」や「自治」を否定しつつ、普遍的で根源的な労働者階級が求める人間解放の闘いとして、自己をも復権させる方向性を目指していたのだと思います。東大全共闘のリーダーであった、山本義隆さんはこんな風に語っていました。「ぼくたちは、王子や三里塚の闘争に参加した。しかしデモから帰ると平和な研究室があり、研究出来るというのは、たまらない欺瞞である。研究室と街頭の亀裂は、両者を往復して埋められない。では研究をはやめるべきか。それは矛盾の止揚ではなく、矛盾からの逃亡ではないか。徹底した批判的原理に基づいて自己の日常的存在を検証し、普遍的な認識に立ち帰る努力をすること。そうして得られた認識に従って社会に寄与し、労働者階級に敵対している自己を否定し、そこから社会変革を実践する。抽象的にしか語れないが、結論らしいものはこうしかない」(『攻撃的知性の復権』69年・朝日ジャーナル~『知性の叛乱―東大解体まで』前衛社収録 69年) と語り、「自己否定」の観点に立って社会参加を果たす事を方向づけています。
 良心に基づく、ストイックとも言えるこうした思索を、全共闘運動の哲学としつつ、このラディカルな知性を持って、東大当局を告発して行きます。東大全共闘側の処分撤回を含む大学改革要求に対し、大学側は拒否し、国家権力と一体に機動隊導入(68年、東大医学部全闘委・医学連の安田講堂占拠にも、6月17日当局は機動隊を導入)した為に、学生側と東大当局は、非和解的な戦いが続きました。11月大河内一男総長の辞任に伴い、総長代行となった加藤一郎氏は、69年に入ると1月14日「機動隊を導入しても入試を実行する」と宣言し、学生の要求を再び拒否しました。
 日本共産党・民青系勢力は、一部教授会と共同して、ストライキの解除を目指しました。
1月に入ると、東大学全共闘の戦いに連帯し、学生たちは全国から東京・本郷の東京大学校内に結集し、ストライキを支援しました。1月9日には、「東大闘争勝利・全国全都総決起集会」が開催されました。この集会で、民青系の全学連勢力と全共闘(三派系も含む)の間で大きな衝突が起きました。東大全共闘を支えつつ戦ったのは良くも悪くも党派です。そのための東大支援体制は、党派別の参加という形が取られていました。
 当時三派全学連は、すでに分裂して中核派の全学連と反帝全学連に分かれています。その分、東大闘争連帯行動でも、明治大学でも大学割でなく、「社学同」や「ML派」など、各党派として参加する形となっていました。
 党派的な勢力が、自治会を把握している全国各地の大学は、明治大学同様、全共闘運動という形でなく、各党派の「決死隊」として戦闘部隊を結成して、東大決戦に加わったようです。もちろん、党派ではなく、個人として東大闘争に連帯し、東大全共闘に呼応、参加する学生もいました。その一方で東大全共闘と共同しながら党派同士のヘゲモニー争いが続いていました。特に民青系、革マル系、三派系で対立し、三派系の中でも更に中核派・ブント系・ML派などが競合し合って、東大防衛隊勢が取られて行きました。

1


東大安田講堂の攻防戦に社学同の行動隊長として参加した米田隆介さんは、「私が69年東大安田講堂に入った時、明治大学には全共闘はなかった。私の意識としては、明大の中執委員長としてではなく、社学同の一員として入った。東大闘争は、全共闘運動という意識は全然なくて、三派系全学連の宣伝合戦、70年安保に向けて、自分たちの勢力をどれだけ増やしていくかというのが、主題の戦いであった」と、当時を回想しています。
東大入試阻止、処分撤回と大学改革を求める東大全共闘に連帯し、党派は各々の70年安保闘争に向けた戦いの前哨戦としても、戦術的に徹底してラディカルな政治宣伝戦として東大闘争を位置づけていたのです。
 米田さんは、東大闘争のブント・社学同の関わりを次のように語っています(2015年3月「明大土曜会」でのスピーチ)「69年1月16日、ブント政治局から社学同の指導部、委員長の荒岱介、ブントの学対部長の高原浩之に『機動隊の導入が近いと、革マル派から連絡が入った。彼らは法文3号館から出ると言っている。社学同も安田講堂から出ろ』と言ったらしい。
 高原さんが『出ろってなんや。学生は皆死ぬ気でやっとるんや。敵前逃亡しろと言うのか?!』と言うと『政治局の決定に従えないなら、すべてお前らの責任だ』と、大喧嘩になった。対外的には社学同だけでやる。ブントの政治局の許可を得ない。社学同の勝手な判断でやったという形になった。
当時の社学同の委員長は荒さん、ブント学対がのちの赤軍派の高原さん。北海道から(のちに東大教授で小泉首相のブレーンの一人となった)山内昌之さん、中央大学の久保井拓三さん、明治大学の昼間部はトップが池原さん。明治大学は学費闘争後、上の世代がいなくなったので、当時30人くらい。池原さんは68年10月逮捕され、社学同キャップになった両川(敏雄)君も11月に逮捕された。私(米田)は中執委員長だったが、やる人間がどんどんいなくなる中で、しょうがないから行くか・・ということで安田講堂に入った。
1月18・19日に到る過程は、1月15日の安田講堂前で行われた『東大闘争勝利・労学総決起集会』に向けて、ブントは同志社大学中心に関西からも200名くらい動員して集まった。
 当初は全員籠城という意気込みだったが、結局指導部レベルでは荒、高原、山内、久保井、村田も全部入らず、米田が入れと言うことで入った。関西も100人くらいは人選して、半分帰した。関西50人東京50人で、100人位が入ることになった」と述べています。
 ブント仏(さらぎ)指導部は、逮捕者を減らす方針を持ちつつ、実力闘争を戦う学生たちの要求を受け、社学同としての戦いの決断を認めたようです。

2

 東京大学の何処を占拠して対峙するかでも、各党派の競合があり、結局、安田講堂に向かって左がML派が担当する工学部列品館、その隣が中核派の法学研究室、その奥が革マル派が守るはずだった法文2号館。ブントは、68年6.15で医学連が安田講堂を占拠した実績を訴えて、東大全共闘の防衛隊長今井 澄さん(後の日本社会党参議院議員)に話して、安田講堂に入り込んだとの事です。社学同隊長として安田講堂に入った、米田さんの話によると、1月18日から機動隊は導入され、すぐに午前7時30分には、青医連が立て篭もっていた医学部図書館の封鎖が解除されて22人が逮捕されたとの事です。
 立て篭もった部隊への支援で外から、8時過ぎには正門の警備の手薄な所を縫って300余名のデモ隊が安田講堂まで連帯をアピールし、銀杏並木を一周して機動隊に押し出されました。
 こうした行動は、立て篭もり組には、「悲壮感はあったが、やる気になった」と米田さんは語っています。
 革マル派も、法文2号館にいて12名が逮捕され、列品館では明治大学二部ML派中心に、火炎放射器と火炎瓶で抵抗戦を戦い、安田講堂から見ていても凄い攻防で、38名がそこで逮捕されたそうです。中核派は、法学研究室で徹底抗戦し、屋上でもゲバ棒で機動隊と最後まで渡り合い、そこに第四インター系の人たちもいて、合計167名が逮捕されています。
 機動隊の18日の占拠解除の攻撃は、この攻防戦が最後になったようです。
真冬の中、機動隊は放水で蹴散らすように攻撃していましたが、5時すぎには放水も終えています。この18日、安田講堂は中心的攻防とならず、安田講堂の正面玄関は3階になっており、裏側から機動隊が1階に入って来たが、この日は引き上げて行きました。
 1月19日は、安田講堂に対する総攻撃が放水と共に、朝から本格化しました。
屋上には、各党派の旗を守る人材が配置され、ブントは上原さんが担当して最後までブントの旗を振り、一番最後の逮捕となって「共産同」の旗が落下して行きます。

3

安田講堂内には、6階に中核派、5階に社学同の関東部隊の50名が左側に、解放派の40余名が右側、4階には東大全共闘の全闘連と青医連グループが30人位、3階の後側には東大全共闘40人位、3階正面には関西の社学同が50名と第四インターのグループがいました。
 1階には誰も居ず、1階から入った機動隊が階段を上がって来るのを阻止する2階に中核派がいて、攻防を繰り広げていました。バリケードの隙間から火炎瓶を投げて抵抗しています。

4


社学同は、3階から火炎瓶をどんどん投げて、侵入を阻止するため、機動隊側はそれをかい潜る、鳥かご状の防御具に隠れて侵入を試みるが、一升瓶の火炎瓶の学生の抵抗になかなか正面からは入れなかったと米田さんの話です。
機動隊は、それでも後ろの1階からは、少しずつバリケードの机などを除き、火炎瓶を消火器で消しつつ迫ってきます。「2日間も真冬に放水を間断なく浴び、びしょ濡れで体力も消耗し、特に3階の社学同関西部隊はメタメタにやられた。この時点で、東大の防衛隊長の今井さんからは『抵抗するな』という指令が出た。午後2時位には、実質的に抵抗は終わった。4階まではちゃんした階段はあるが5階から上は、人が一人くらいしか通れない階段なので、そこでバリケードを作って抵抗すれば、1日でも2日でも持ったと思うが、下の部隊が降服しているので上階の部隊も止めようという事で、抵抗は終わった。

5


 機動隊は、外側に仮設の階段を作って5階に入って来た。5階では抵抗せず、インターを歌いながら逮捕された。逮捕されたのは5時頃だった。僕たちの部隊は、殴る蹴るの暴行は受けなかった。と言うのは、新聞社も従軍記者みたいな形で来ていたので、手で殴る事が出来ず足で蹴ったりしていた。とにかく、凄く寒かった。放水の効果があったという事。とくに私たちの部隊は、5階のバルコニーに出て、火炎瓶とか敷石を投げる役割だったので、出れば必ず上のヘリコプターから放水を浴びる。水の中に催涙液のような薬品が入っていて、私も2か月ぐらい足首に火傷したような炎症があった。逮捕されたのが682名。起訴されたのが474名。起訴され無かったのは、未成年の人だと思う。
大学別では、東京大学が一番多くて83名、次は広島大学で29名、東北大学14名、芝浦工業14名、京都大学13名、山形大学9名、九州大学6名、全国82大学から参戦した」と、米田さんは当時を述べています。
当時、安田講堂は、東大全共闘が占拠して以来「解放講堂」と呼び、そこには、学生たちの間で有名な「解放放送局」と言われた「時計台放送」がありました。東大の責任者として代表して安田講堂に立て篭もった今井澄さん(後の参議院議員)は、あの1月19日、最後の放送を行っています。

6

 東大全共闘機関紙「進撃」は、次のように記しています。
「『われわれの戦いは勝利だった。全国の学生・市民・労働者のみなさん、われわれの戦いは決して終わったのではなく、われわれに代わって戦う同志諸君が再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します』-そして、同志たちは澄みきった声で高らかにインターを合唱し、機動隊の暴力に屈せず、最後まで戦う決意のシュプレヒコールをしたあとで、うずくまるように肩を抱き合って逮捕されたのだった」と。
私たちは、1月に入ってから毎日のように東大本郷構内へと、連帯のために参加しました。
正門には「造反有理」という字が掲げられ、東大全共闘の闘争委、青医連、全闘連に加えて、各党派を主張した立て看板が、あちこちに置かれ、安田講堂前は集会広場として連日の抗議とデモが行われていました。
解放区の構内には、近々の大学の全共闘や党派で活況を呈し、党派間のもめ事を東大全共闘の山本さん、今井さん中心に捌いていて、東大全共闘の自立した精神とそのヘゲモニーは、全体を統制していました。
「東大の戦いに私たちは、如何に呼応連帯して戦うか、東大で戦っている仲間以上の動員と解放区闘争によって、東大安田講堂の攻防戦を支援する」
これが周辺大学が自発的に考えた方針です。社学同の委員長荒さんは、中央大学と明治大学を行ったり来たりしながら、みんなと意志一致し、機動隊の東大への導入が行われたら、すぐ反撃する準備を整えて行きました。
当時の全共闘運動に対して、ブントは「コンミューン的団結」として評価し、安田講堂攻防戦を「帝国主義的再編に対する戦いを全人民的政治闘争へと転化させ、同時に「バリケード戦」「解放区」を全人民化するもの」として、1月18日の安田講堂攻防戦に呼応して神田、御茶ノ水地区バリケード市街戦・カルチェラタン闘争の総力戦で支える戦いを方針化していました。
1月18日早朝8時過ぎに機動隊が動き出したと、明治大学学生会館にいた私たちにも連絡が入りました。学生会館前広場では、赤ヘルメットと角棒を持った数十人が集会を開き、9時過ぎには中央大学の仲間と合流して、約50人のデモの隊列を組みながら御茶ノ水駅前交番へ向かい急襲。広報掲示ガラスや窓を破壊し始めると、すぐに100名以上に膨れ上がり、これを合図に御茶の水・神田カルチェラタン闘争が始まりました。

7


東大本郷包囲の機動隊は、指令を受けて次々と駆けつけ、御茶ノ水駅や、明大の旧学生会館前の「中華味一番」の方から路地に部隊を配置しようとします。が、どんどん膨れ上がった学生や市民に、明治大学前通りばかりか、背後の中央大学からのデモや投石のために、挟み討ちとなり慌てて、機動隊は聖橋の方に退去せざるを得ませんでした。

8


「機動隊は帰れ!」のシュプレヒコールやデモ、更に数百人に増えた赤ヘルメット部隊は、再び御茶ノ水駅前交番を制圧し、近くの日本大学などからも駆けつけて、学生は1000名を越し、小川町交差点下から一帯を「解放区」としました。そして、「本郷キャンパスに向けて突撃しよう!」と、本郷側に退却した機動隊に、投石、バリケード対峙します。機動隊側は、順天堂大学、医科歯科大学前にずらりと陣を取り、また駿河台下からも催涙弾を発射し激しい攻防が続きました。

9


 2時過ぎには、(国鉄)総武線・中央線も電車がストップする事態になっています。激しい陣取りの攻防が続き、学生が催涙弾に退却した隙を狙って、明治大学に不法乱入した機動隊は、旧館の学生会館を荒して行きます。
明治大学新聞で、その時の機動隊の暴挙を次のように記しています。
「18日午後3時30分ごろ。機動隊50人が本学旧学館に乱入、本紙本部を始めサークル室のドアを軒並み蹴破り、物品を荒すなどの乱暴を働いた。機動隊は(新館にある)学生会、学苑会室まで侵入したが、学生のゲバ棒・投石の抵抗にあって退却、その折3人が逃げそこなって学生に捕まり殴られた」「また、午後6時学生に“逮捕”された私服警官を取り戻しに、第四機動隊100人が、再度本学中庭に侵入、ガス弾を連射し、1・2階を制圧『帰れ、帰れ』の大合唱の中を、私服を取り戻し引きあげた」と記しています。
この日は、東大闘争に連帯し、夜10時過ぎには、東大本郷の休戦に合わせて学生部隊は、二部の授業の終了頃に引き上げていました。でも、数千人の市民たちが、祭のように解放区を楽しんでいました。
 党派と共闘している東大全共闘の山本義隆代表は、18日夜9時過ぎに神田の日大理工学部で記者会見し「安田講堂の防衛と本郷キャンパス奪還のため、19日にも18日以上に大規模なデモを行う」と表明しました。
 19日は早朝からの、安田講堂攻防戦が始まりました。「今日が最後となるだろうと」と荒さんは話していました。朝から中央大学で「東大闘争勝利・東大奪還集会」が開かれ、前日を超える反日共系の全学連各派と反戦青年委員会などの労働者らも加わり2000余名の集会が開かれました。
東大の山本義隆代表や日大全共闘、中大全中闘や、各党派が演説し、再び昼前から駿河台下から御茶ノ水駅まで十数カ所のバリケードを築いて解放区を拡大しつつ、「東大本郷キャンパス奪還闘争」へと御茶ノ水橋を越えて進みました。主力部隊は、本郷二丁目交差点で、3500人の機動隊と衝突し、投石し本富士湯島交番を破壊し、催涙弾の攻防で一時後退しつつ、学生たちは順天堂大学、医科歯科大学前のバリケードを強化して、防戦しました。機動隊も解放区を破壊する威力は無く、市民、学生たちが歩行者天国のように、明治大学前通りに群集となって集まり、本郷への進撃を支援します。
明治大学前通りの店も開いていて、いつも学生に協力的な店主がテレビが見えるよう道路向きにしてくれたので、安田講堂の攻防も夕方6時前には、終わったらしい事が判りました。それでも、みんな意気盛んに1万人を超える学生、市民、野次馬も含めて戦い続けます。
 社学同などは、10時頃には闘争終了宣言して、各大学に戻りました。その頃から、東大安田講堂落城で、一段落した機動隊が攻勢に転じたため、群集は再び戦闘に入り深夜までこの攻防は続きながら、東大闘争は、この日全て一旦解除され制圧されてしまいました。
東大闘争では「大量逮捕」という大きな被害を被りながらも主張を通じて、その原則に沿って戦った事で、全共闘運動は更なる全国の大学の闘争へと波及して行きます。
東大当局は翌20日、69年の東京大学の入学試験実施を断念しました。そして、入試の中止決定と共に、警視庁は山本義隆全共闘代表の逮捕状を請求し発布したのです。
この69年、東大安田講堂落城と東大入試中止、山本義隆代表への逮捕状の出された日、米国ではニクソンが大統領に就任し、世界の反戦闘争は更に広がり続けて行きました。
東大当局の入試中止決定を踏まえて、2月21日「東大闘争勝利・労学市民連帯集会」が行われ、逮捕状の出ている山本義隆代表が、権力の監視を潜って参加し厳しい包囲の中、戦い続ける意志を鮮明にしつつ進んで行きます。
この日、山本代表が壇上に姿を現すと会場を揺るがす拍手、咆哮が続きました。

11.新しい経験と 4・28闘争
東大闘争後、私は政経学部に学士入学する事に決めていました。69年には、3月に文学部史学科は卒業してしまうのですが、ストライキ中で論文提出を自ら放棄した教職過程に関わる単位を取得するつもりでした。学士入学で政治学を学びつつ、教職の単位も取ろうと思ったためです。
69年教育実習の三木教授の指示を受けて、私は他の明治大学生二人と共に、中野区の中学校に派遣されました。
この時私は、中学三年生の「三権分立」を教える社会科担当の「教生」となりました。教生は、毎日が素晴らし日々です。
 生徒のために私は、毎回、「試験に出そうなところ」を纏めたレジュメを夜、学生会館で作業しては生徒に配り、授業は時間の始まりには、もっぱら「天声人語」などの新聞の一面下のコメントや「社説」を学生に読ませ、感想を聞きました。そして他の生徒がまた感想を述べて討論するというやり方を重視していました。
「三権分立」と民主主義の関係、歴史的にどう始まり、今の日本ではどうなっているのか?などを語りました。
私の教生としての教育実習の期間に、学生会館に機動隊が乱入して、準備した生徒用のプリントが破損され使えないことがありました。また、この翌日の「天声人語」を担当した中学生が「学生の暴力は、幼稚園児にも劣る」と言うような事が書かれていたとして「幼稚園児にも劣る大学生と言うのは考えられない。意味があってやっていると思う」と発言し、そこで討論もやりました。
その記憶から、私は、私の教育実習をやったのは「東大闘争の時」と記憶していたので、そのように『日本赤軍私史』(河出書房新社2009年)にも書いていたものですが、当時の中学生と一緒に撮った写真が見つかり、春の服装なので、もしかしたら4・28闘争前後の記憶違いかも知れないと思い直しています。
いずれにしても、私は社会科の先生には不足している自分の能力を政経学部で学び直そうと思っていました。また、この時の教育実習について三木教授へのレポート提出は、ストライキ中で提出しない事にしました。三木教授から「教育実習をやったのにレポートを提出しないと、単位は落第『不可』となります」と赤字のペン書きの手紙で警告が来ました。
私は「私の自らの信念に基づいてストライキに参加したものです。それを自分だけ取りやめて、単位を得る考えはありません。単位不可でも結構です」と記し、但し「教育実習」がどんなに素晴らしい経験であったか、子供たちが新しい教生を困らせようといろいろ工夫する妨害に対峙して乗り越える楽しさ、それが生徒と逆に結びつく事になったことや、三木先生の言う「文部省や組合の方を見て教えるな、生徒の方を見て教えよ」と言うのが、とても良く実感出来たなど、機会を与えてくれたお礼と共に、単位は再挑戦する旨の手紙を送りました。
ところが、これが三木先生らしいのですが「君の手紙を読みました。君は教育実習合格です。君のような人が教師になるべきなのです。住所を見たら、君の家は私の〇〇駅に近いじゃないか。遊びに来なさい」と、今度は赤インクでは無く、青インクのお便りを頂きました。
でもそのころ私は、丁度「党活動」に初めてコミットし出したのです。三木先生とはお会いして話したかったまま、それっきりに失礼してしまいました。
でも教育実習は、それでも私にとっては、やっと希望の先生に近づいた一歩でした。生徒たちの思いを、先生がどう受け止めるか、受け止めようとしないか、いろいろ短い間に学びました。初めて教室に入る前に、担任の先生から要注意の生徒を何人か名簿から知らされました。でも付き合って見ると、彼らはつまらない御仕着せに不満を発する正直な中学生たちで、ちっとも「問題児」ではありませんでした。また生徒らちは手ぐすね引いて教生を待っています。とくに女性なら泣かせたり、男性なら立ち往生させるのを、生徒たちは楽しんでいます。
そんな悪戯は、教生期間の初めのころ教生を値踏みするように起こします。私も中学時代は、みんなでそんな悪戯をしたので良く判ります。私の場合は、2日目位に始まりました。「先生!ここん所が、読めないので教えてくれますか?」と、一番後ろの席の生徒が手を上げ、教科書を指差しながら求めます。私はニンマリして「OK、君が先生の所にいらっしゃい!教えてあげるから」と言うと、みんなニヤニヤし彼も困った様子。
「いらっしゃい!先生はね、このクラスのスパイのネットワークがあるの」と言うと「本当?!」「嘘!」と大笑い。「大丈夫、嘘よ。先生もね、あなたたちより一つ若い中学2年の時に、教生の先生にやった歓迎の悪戯だから判るのよ!」と言うと、みんなゲラゲラしながら「オイ!教壇まで行けよ!」と一番後ろの男の子を促します。彼はシブシブ、ニヤニヤと前に進んで来ます。「みんな!彼のために拍手!」と、冷やかします。もう、彼の学生服の左右は真白です。生徒たちは、机の通路側側面を、白墨で真白に塗って、少し通路を狭くして置くのです。そして、教生を教壇から後ろまで歩かせて、スカートやズボンを真白にさせて「わ~い!」と楽しむのです。こんな他愛もない、楽しい悪戯です。
またある日、一緒の期間に教生をやっていた青山学院大学の英語の教生が、本当に泣かされたようです。泣かされていると隣の教室からご注進が来たので、私は乗り込んで行こうとして、担任の生徒に「先生やりすぎ」と笑われ止められました。
昔と違って授業後の校庭はロックアウトされて屯することは出来ず、近所の公園で生徒たちにも話をせがまれ十数人で語り合っていたら、見回りの先生にバッタリ。翌日の職員会議で注意されました。時間が足りず、生徒の相談に乗っていると切りがないのです。今の先生たちも生徒の方を向いてしっかりやろうとしたら、多忙すぎて出来ないでしょう。
最後の授業には、「私が大統領または首相になったら」と作文を書いてもらいました。とても良い眼で、教育の在り方を記している者が多かったです。「必ず文集にするから待っててね」と約束したのに、それを果たせませんでした。活動にのめり込み、すぐに「7・6事件」になって以来、何も出来なくなり、何度も何とかそれだけは・・・と思いつつ、果たせませんでした。本当に申し訳ないことをしました。
 最初に私が69年11月に逮捕された時には、生徒が大学に連絡して、差し入れを申し出てくれたりしました。
教生経験は、「教師になりたい」と言う、私の願いの良い側面だけを増大させました。
69年3月に文学部を卒業する頃には、仲間たちの救援ばかりか大学にも活動が忙しかったし、また友人の歌手を手伝って「付き人」的な事をやったり、暇を見つけて、友人の伯母の銀座のバーのアルバイトにと忙しい頃でした。
4月には、現思研に新入生の新しい人材が参加してきます。
そんな中で、教育実習を日々やっていたの前後のことです。3月頃には友人に付き添って、京都の祇園会館の公演に京都に行きました。公演の合間の空き時間を使って、丁度バリケードストライキ中の京都大学に連帯行動をやってみようと考えました。当時、荒木一郎が出演料を取って大学で歌ったというので、連帯は自ら代償を得ずボランティアとして始める事だと、二人の歌手と私の三人で、京都大学のバリケードの中に入り、ギターを弾きながらキャンパスで歌い始めました。人々が集まり、雨が降り出したので、全共闘の学生の誘導で西部講堂だったと思いますが建物に入って、そこで自然発生的にみんなと歌で交流しました。学生たちに私たちもリクエストし「ワルシャワ労働歌」を歌ってもらったり、何だか知らないけれど盛り上がりました。
 二人の歌手の横にいる私にも「歌手じゃないの?歌って」と言われて、思わず私は「4.28沖縄闘争、霞が関で会いましよう」と言いました。わっと盛り上がり、最後インターナショナルを肩を組んで歌いました。
 その内数人は、宿泊している宿屋にも来て、みんなで好き勝手にしゃべりました。京都大学バリ祭∞の連帯です。人と人が出会い、そこで感性を確かめ合い、何かを創るそんな時代でした。
そんな風に私も、時には楽しんでいました。また、(雑誌)『女学生の友』に、交換日記などの話をアルバイトで書いたりと好きなように生きていました。そしてゆっくり教職の資格を取って小学校か中学校の先生になりたいと思っていました。父は私が教師になると言って大学に進んだあと「房子が教師の居ない離島の先生になったらいいな。父さんは毎日釣りを楽しんで一緒に行くことにしよう」などと珍しく一度だけ、そんな事を言っていました。
69年3月頃か4月か、前ブント議長だった佐野茂樹さんから、「東大闘争を質的に超える戦いの準備のために、4・28闘争に向けて、ブントの軍事委員会の書記局を手伝ってくれないか」と要請を受けました。学生会館4階の現思研の部屋にいつも気軽に、彼は出入りしていましたが、その調子で私も引き受けました。
私はブントや社学同に加わっていても、心情的な関わりで、私の頭は観念的な理論を受け付けられないし、何が出来る訳でもありません。でも東大闘争で、多くのメンバーが逮捕されて人材不足なので声が掛かったのだろうと、出来る事はやろうと思いました。
佐野さんは、新橋に「劇団青天井」という事務所を借り、そこを拠点にして、4・28闘争、銀座・新橋へのデモや実力闘争の準備に入りました。そこに、仏徳二さん、松本礼二さんも出入りして、4・28闘争の戦術をめぐって、何度も討議していました。情勢論、ロシア革命の戦術、10月革命の話など論争しつつ、「だからやろう」と言う佐野さんと、「だから止めるべきだ」と言う松本さん、仏さんは「う~ん」と考えつつ迷っているようでした。既に佐野さんの指示で「試作品」が作られ、その性能についても議論され、結局断固反対の松本さんに仏さんが同調して、「試作品」は廃棄される事になりました。
それと共に、大衆的実力闘争の最大化に向けた準備が始まりました。
「霞が関占拠」を公表していましたが、どう戦うかはゲリラ戦で決めるとしていました。
どこに角棒を保管するか、投石をどうするか、などなど。
私は、ナップザックを大量に買う様に指示され、秋葉原だったか、御徒町だったかの問屋街で、大いに買い叩いて、安く大量にナップザックを買えて意気揚揚でした。
当時の私は、初めて学園闘争を超えて「党活動」に貢献する事に好奇心が一杯でした。
警察側は、東大入学試験も中止になり、学生たちがこれまで4・28は「最大の安保の前哨戦」として「最大の沖縄闘争」を呼びかけており、大学で政治ストライキを次々と実行しているので、危機感を募らせていました。そして、ついに破防法(破壊活動防止法)の適用を決定しました。
この4・28闘争に向かって、新宿での騒乱を教訓に、東京駅や新橋など、金網や様々な防御態勢を取っています。霞が関には警備が1万人以上と言われていました。実際には、学生の宿泊をさせないように大学当局に呼びかけていました。
そして、4・28闘争前日に、中核派のリーダー革共同の本多延嘉書記長を逮捕しました。
「24日に2000人の学生労働者にむかって『沖縄デーの当日は、首都制圧し霞が関一帯占拠して騒乱状態を作ろう』と扇動した」という疑いという理由が新聞で公表されました。
私のアルバイトしていた銀座のバーは、社用族ではなく、社用の接待を終えた「社のトップ」がアットホームに最後に立ち寄るようない小さなバーです。有名人、文化人も来る所で、国鉄の首脳陣や日本通運のトップなども来ます。国鉄の幹部も、私が活動している事は大ぴらにしていたし、ママから聞いているので、「おい、全学連」などと、いつも言ってからかっていました。また、外務省の幹部も来ます。スイス大使は、娘が学生運動に踏み込んでいるが、どうしたら良いかと相談されたりしました。「それは人間の良心であり、とても良いことです。本人の選んだ道を支援してあげれば良いのよ」などと、私は気軽にアドバイスしていました。
この4・28闘争の前には、国鉄幹部は「オイ、全学連、君たちのリーダーに会いたい。君たちに荒らされると金がかかる。この金は税金だぞ、いくらでもカンパするから、荒す所は決めてくれと言いたいんだ」などと、本気とも冗談とも言えないような事を真面目に話しかけて来ました。
「残念でした。私はペ-ペーの下っ端。リーダーも知らないし、楽しくデモやっているだけよ」と言ってやりました。でも、国鉄幹部は、金網などの費用だけでも大変だ、大変だとしきりに愚痴っていました。
この4・28闘争に向けて、中核派は法政大学、社学同も全国から首都圏に学生を集め、明治大学、中央大学、医科歯科大学に泊まり込み体制を取る事になりました。4・28前日は、出撃拠点は東京医科歯科大学に決定し、付属病院の正面玄関も封鎖し、赤ヘル部隊は、27日午後800人の社学同の総決起集会を開きました。社学同の他に解放派、ML派も共同しています。
このあと、何百人が午後5時すぎ、歯学部2号館中庭の鉄棒など持ち出し、病院の玄関、1、2階ロビー、院長室なども封鎖したため、学長が夜7時過ぎ、学外者の退去命令を出しましたが、何百人の学生は退去せずに泊まり込んだと、当時の新聞にも書かれています。
この病院には約600人の患者が居たそうですが、もちろん、それらの病棟には影響を与える訳ではありません。中央大学、日本大学は、大学側のロックアウトで学生が入れず、明治大学の社学同の百余人以外の社学同の他大学生は、全て東京医科歯科大学を出撃拠点としています。大学病院内の公衆電話の番号を知っている者がいて、外からのレポや連絡を盗聴されているとしても、ましな公衆電話で受ける体制も整えました。
一方で警視庁は、まず革共同中核派を狙い打ちし、4月28日午前5時には、法政大学に捜査に入りました。東京医科歯科大学は病院のため、そういう緊急捜査は取れません。警察は、凶器準備集合、傷害、暴力行為、破防法40条容疑で、法政大学に入り角材などを押収し、また破防法容疑で、革共同政治局員で反戦青年委員会世話人の藤原慶久さんを28日朝逮捕状逮捕しています。
同じ日、この4・28沖縄デーには社会党・総評系と日本共産党系の団体が初めて統一行動を取る事を決定し、東京代々木公園で統一中央大会が開かれています。
東京ばかりではなく、全国45都道府県318ヵ所に警視庁調べでも14万9千人が参加して、沖縄返還を訴えました。沖縄那覇でも、戦後最大の20万人の県民が参加して即時無条件全面的本土復帰・米軍基地の即時撤去・沖縄県民の国政参加・米国のベトナム侵略・B52常駐・原潜寄港抗議を行い、大会決議で日米安保条約破棄・米軍基地の即時撤去を訴えています。
当時、沖縄の本土復帰を求める本土側、沖縄側の人々の声は、この4・28沖縄デーに集約されていました。4月28日は月曜日で、仕事を終えた後、東京の統一中央大会も6時夕刻から始まっています。
また、社学同を中心に集まっていた東京医科歯科大学に対して、警視庁は出動した警備1万2千人のうち、霞が関、神田を中心に機動隊、私服警官を午後から配備し、その内の数千人を御茶ノ水の東京医科歯科大学に向けました。
学生たちは、午後から行動を開始し、赤ヘルメットの約200人が、世田谷の佐藤首相私邸に押しかけて抗議行動を開始。丁度帰宅していた首相の警備陣100人が催涙弾で応戦し、駆け付けた300人の機動隊で防衛。これまでの、正規デモ陣型を転じて、学生たちは同時多発ゲリラ攻撃作戦に出たのです。
御茶ノ水での解放区、新宿・品川・渋谷などでもゲリラ戦を行います。

10


東京医科歯科大学の中にいた社学同や解放派が動き出すと、機動隊は催涙弾で攻撃。3階の病室を直撃したため、患者を避難させる騒ぎになりました。大学側は「ここは病院で病人がいます。注意して下さい!」とスピーカーで訴えます。
各党派の部隊は、数百人ずつ機動隊を突破して東京駅へ向かいました。「霞が関占拠」という学生の前宣伝の主張に合わせた警備の布陣の裏をかき、学生らは東京駅から逆に線路を伝わって新橋から銀座に出て、銀座カルテェラタン闘争へと戦場を広げました。
そのために、新橋にブント軍事委員会を置いていたのです。幾つもの、数百人のヘルメット部隊が晴海通りでジグザグデモを繰り返します。又、学生たちのゲリラ戦に呼応した市民や群衆が銀座・有楽町一帯で、交番や機動隊に投石し、夕方からイタチごっこの攻防ゲリラ戦と逮捕が繰り返され、新幹線や国電も止まりました。

11


夜11時過ぎになって、山手線も復活しましたが、それまでは銀座は、御茶ノ水、神田のカルテェラタンのような攻防が続いていました。丁度、その真中にあった銀座のバーの私のアルバイト先の店の前を機動隊に追いかけられて逃げて来た人をママは「赤ヘルメットの人、いらっしゃい」と守って匿い、二つヘルメットを預かって、後に私に渡し、当日の凄い攻防を語ってくれました。
私は、当日あっちこっちから入る情報を集約したり、部隊のゲリラ的移動と集結、更にどちらに行くようにと言う軍事委員会の指示をレポとして伝えたりしました。中央大会に集まった1500人の反戦青年委員会の労働者たちも、デモに参加しつつ、連帯を示していました。
全国で、この日1000人を超える学生・市民が逮捕されました。被逮捕者に新入生が多いのに警察も驚いていました。権力側は、68年の10・21の新宿騒乱罪の時よりも、警備を万全に予防的な破防法適用を行いつつ、抑え込む事には失敗しました。
4月29日には夜、警視庁は公安部は、革共同中核派の事務所前進社、ブントの戦旗社、ML同盟のレボルシオン社、社青同解放派の現代社や革マル派の解放社などや幹部リーダーたちの居住地で捜索を行っています。
こうして戦った者たちは大量逮捕・起訴を強いられた訳です。
4・28沖縄闘争は「騒乱状態」を作り出しましたが、こうした戦いから、どのような展望が切り開けるのか?この戦いを巡って、4・28闘争を「勝利」として新しいゲリラ的な実力闘争と、各地の戦いの継続を求める戦い方に疑問が提起されました。この4・28闘争でより急進的な「党の軍隊」による新しい武装闘争を提起して来た関西を中心とする人々は、この4・28闘争を「敗北」と総括しました。私自身は、初めて党の機関である軍事委員会書記局に加わり、いわば言われた事を次々とこなしていただけでしたが、この騒乱は、押さえ込まれ大量逮捕をもたらしたけれど、それ以上では無かったという思いが強かったので、当然敗北として総括し教訓とすべきと思いました。
もっとメディアを味方につけられないのか?もっと楽しめるような戦い方は出来ないのか?といった、きっとブントの幹部たちの敗北の総括と私の「敗北」は、相いれない感想だったかも知れません。
それでも、ベトナム反戦・沖縄闘争が一つになり、戦えば戦う程、広がりを持つような戦い方は、どうしたら出来るだろうと考えていました。この4・28闘争の総括として世界の革命と連携する世界党・世界赤軍を主張しうる「ブントの革命」を求める声が強まりました。党の軍事力の育成、軍事を担いうる「党の革命」が必要だと求める、関西の上京組の塩見孝也さんらが、強く主張し始めていたようです。
ブント・社学同は、この4・28闘争を経て、大いに揺れ、論争が深まって行きました。それは後に「赤軍フラク」と呼ばれる関西派を中心とする主張を巡って、ブントが分解して行く始まりとなって行きます。
ブントは、もともと日本共産党に反対し、60年安保闘争を指導的に闘った共産主義者同盟を継承して様々なグループが集まって出来たものです。もともと統一戦線党の内実(もっと言えば、大衆闘争機関の質)しか、持ち合わせずに来ました。権力問題に安易に結びつける政治主義的な関西派の主張にブントは混乱していきました。「権力闘争」をアプリオリに運動戦や行動の急進化戦術に一面化して、進む方向に引っ張られていったと思います。
社会的な生活経験の乏しい関西の学生運動のリーダーの生活・社会実践の欠けた政治力学的構想が、より広いブントを「純化」しようとした事で、ブントの連合的多様性の良さも、また失われて行く事になります。
この後、4・28闘争の敗北の総括を世界党・世界赤軍・前段階蜂起を実現する党の革命を引っさげて、69年5月、6月から「赤軍フラク」が活発に動き出して行きます。
 私自身を振り返る時、当時の運動の中で、社会全体から俯瞰的に自分や自分たちを対象化しえない未熟なまま闘っていました。見通しよりも「今をより良く」と、心情的に運動の関わっていたと思います。4.28闘争で初めて軍事委員会書記局を手伝ったことで、党中枢の意外な貧弱さも知りました。私は大学に入る以前に正規社員として一旦会社勤めをしてきたので、その目から見ると、システムや原則の無さ、指揮系統の人脈依存、カードルたちの構想する世界と、現実の生活力の落差に驚かされました。
 その一方で、真っすぐ理想に生き、そこにすべてを賭ける人々の生き方に魅力もまた感じました。もっとブントを社会から認められる存在にしたい、その一員として私も社会を変えたいと「ブント愛」も湧きました。つまりもっと闘いたいと思ったのです。
 そこに「赤軍フラク」への参加を誘われました。4・28闘争を闘った佐野さんがフラクのリーダーなのだろうと思っていたので、4・28闘争の延長のように、誘われるままに実務的協力を引き受けたりしていました。
 それが、69年7月6日ブントの分裂を決定的なものとする「内ゲバ7・6事件」に遭遇します。事件を起こしたのは、赤軍フラクのリーダー塩見さんたちです。赤軍フラク活動によって、ブントから一方的に除名されると危機感を持ったことが発端です。当時のブント議長仏(さらぎ)徳二さんらに除名の考えを改めさせようと自己批判を迫り、暴力をふるいました。そしてその直後に赤軍フラクが拠点にしていた東京医科歯科大学を今度は、ブントの中大グループ(のちの叛旗・情況派の人々)に襲撃されて、塩見さんらが拉致拘留されるという事件が発生しました。
 私は赤軍フラクの襲撃の場にはいませんでしたが、話を聞いて、何ということを・・・もうやってられないと反省と共に思いました。ところが、中大グループに襲撃された時にはちょうど居合わせて、殴られ、消火器の噴射で泡だらけに討ちすえられる側にいました。さっきまでの反省はどこへやら。憤怒に変り、このままで終わらせることは出来ない、もっとも困難な時に引くわけにはいかない、拉致された仲間を取り戻し、革命の芽を摘まれた赤軍フラクを助けねばという心情が優りました。そして、これまで考えてもいなかった「党的な活動」に一歩踏み出したのです。 「先生になる」それは捨てきれない夢で、赤軍フラクの活動の後には、いつか先生になろうと思い定めて、現在へと至っています。心情と好奇心の強い私は、時代の流動の中で(今から考えれば)、誤った日本における武装闘争へと活路を求める道へと進みます。反省をこめて、この1969年を捉え返しています。
 なお、この1969年4・28闘争以降のことは、第三部「赤軍派時代と私」の中で記すことにします。

(終)
※ 次回から第三部を掲載していきます。

【お知らせ その1】

9784792795856


『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html


【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
2020年11月13日刊行 社会評論社

img738_1

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は2月5日(金)に更新予定です。

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。

今回は「オリーブの樹」150号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

img754_1_1


<独居より 2020年2月3日~2020年4月30日>
2月3日 今日はN和尚が新春法要に来てくださいました。新年の法要と節分の法要を兼ねて読経。今日は法昌寺毘沙門講にとって、最大の行事である「寒行」の日で、夜、お題目を唱えながら団扇太鼓を打ち鳴らして、戦災、天災、人災で亡くなった方々の供養をして、約5Kmも練り歩くのだそうです。また、3月には遠山さんの四十九回忌も友人たちで準備されているとのこと。多忙の中、旧友たち(私や遠山さんや)のケアに忙しい和尚です。感謝。

2月4日 立春。今日は少し頭痛で、めずらしく運動のベランダを辞退し、ベッドで読書。昨日と今日届いた、監獄人権センターのニューズレターや「被収容者を支える人のためのヘルスケアサポートガイド」を読んでいます。「刑務所医療改革」受刑所の実情(各刑事施設視察委員会の意見に対して刑務所がどんな措置をとっているか?)今回、熱中症対策・寒冷対策の実情が載っています。多いのは、空調設備や対策の予算不足で「上級官庁に予算上申検討中」です。圧倒的に予算不足です。医療改革では、弁護人が獄内の医療情報にアクセスできないこと、医療内容について外部監査がないことを根本問題として改革を求めています。仏などの刑務施設医療の厚生省管轄を紹介しつつ、医療の独立制や医療保険の適用によって、受刑者も一般制度に加入する実情を示して、日本の刑務所医療の改革を語っています。本当に。特に歯科は保険が適用され、きちんと治療できれば、獄中者はもっと健康に過ごせるはずです。また、東日本成人矯正医療センターができてから、病気などで「執行停止」になることが減じて、センターに収容されているとか。刑務所医療には制約と限界があり、執行停止の拡大こそ望まれます。
うっすらと花の香りが……立春!
(中略)

2月26日 今日は人民新聞2/5号を交付されました。あ、これですね。1706号の8面、「獄中者への人権侵害」というタイトルの、Tさんの私への手紙一部、黒塗りに抗議する、という欄のところが「一部抹消の上交付」の理由でした!編集部の文はそのままで「──手紙本文」の一段から三段目が全部再び黒塗りでした。Tさんのコメントはそのまま載っていますので、元気なTさんの様子がちょっと見えます。心意気はよく理解しています。とってもありがたいサポートに感謝しています。

2月28日 今日は青空の起床時です。そっと西の方に黙祷。49年前に日本を発った日。奥平さんらを思い出したからです。25才だった当時の決断は、やっぱり今でも輝いて振り返ります。つまずきも過ちもあったけれども。

3月3日 友人からの便りに「反知性主義」を批判する側の内に潜む「知的エリート主義」を左派や言論が自覚変革なしに新しい状況を切り拓きえないと、米国・日本の現状への論評。その点で、反対や批判者とこそ対話し、変革・豊富化をめざす山本太郎を評価して論じています。獄では動画もないし、リアルポリティックスはコミットできませんが、その論拠を考える資料も今後送って下さるとのこと。学習してみたいです。
今日、昼膳にひなまつりのあられ(8g)が添えられていて何と小さな「楽しい気分」を味わいました。

3月 6日 朝目覚めると、花瓶に刺した枯枝のようだった固い、ところどころにあった殻が割れてうす緑だったものが、クリーム色と薄紅の蕾の姿を現しました。当初は風雪に晒されたようなコブのような殻が咲くのか…と思いましたが、その殻を今朝は殻を振り落として姿を現わしました!何だか希望の印のようで嬉しい朝です。
運動のベランダに出ると、「あなたのことわかっちゃった!」「下の名前ふさこさんでしょ?!」などと複数の人にニコニコ言われました。胸にみな姓の名札をつけていますが、下の名前の方は記されていません。「え?!何で?!」と言うと、「わかるわよ。きのう男が廊下でがんがん怒鳴って原稿がどうのとか丸聞こえよ!」「姓字でもしやと思ってたけど原稿なんか書くのはやっぱりね」etc。そうなのです。他の刑務官は病室に入って穏やかに注意指導しますが、昨日の処遇主席は、廊下から室内に入らず食器口に向けて長々大声。「業務妨害って怒ってたね!」と大笑い。業務に支障をきたしていると怒ってたのですが。話題を避けようと「走ってくるね!」と走りだしました。
病室に戻るとすでにうす紅の入ったクリーム色のシクラメンのような花が開きかけ! 花弁を数えると9枚。ああこれは白蓮! 辛夷なら6枚の花弁です。ビャクレンともハクレンともまた、玉蘭ともいわれる美しい花! 
(中略)

3月10日 「続・全共闘白書」を送って頂き感想を求められていましたが、読めば読む程一人一人の人生の重さを感じ概括することがむずかしい。25年前にも同様の質問アンケートをとって一冊にしていたことは当時知りませんでしたが、今回は、469人の回答を得、446通を有効解析対象として巻末にアンケート集計を示しています。男性回答が400人、女性回答が46人で10.3%約一割強です。当時の学生運動の参加比較も、女性は、一割以下、5%位だったのでは?と思います。全体的に、全共闘運動が多くの人のその後の生き方を大きく規定し、また、その良識や価値観を貫いて生きてこられたことを感じます。当時の私が視野も狭く知らなかったこと、学習しつつ当時の激動の中に身を置くと、もっと良い闘い方ができなかったこと身につまされます。今に至る激しい時代を導いた流れの一端の責任を(不遜な感じ方かもしれないと思いつつ)実感しつつ読んでいます。また、京大の一人の人が、思い出に残る闘いとしてリッダ闘争をあげていて、最も好きな国パレスチナ、キューバ。とあって注目。うれしくなりました。その上、トランプ批判には「パレスチナ支援拠出金停止や、米大使館エルサレム移転入植地問題などでイスラエル右派にべったり」とあり、京大の奥平さん、安田さん、山田さんの世代の人だからきっと心に刻まれているのだろうと読みました。私の書いたアンケート分は、5月だったので、獄にはまだ山本太郎のことは聴こえていませんでした。
(中略)

3月13日 今日午前中は「コロナ」の影響かハンディーなサーモチェックの小さな器具を各患者の額に近づけて熱を(体温)チェックしました。Uさんの便りが夕方届き、訃報を知りました。蔵田計成さんが3月1日、逝去されたとのことです。お悔やみ申し上げます。蔵田さん程「ブント愛」で一貫して文章を書いておられた方をあまり知りません。1950年代の早稲田の学生運動、ブント、安保闘争を闘い、以降もブント再建も支援し、また、第二次ブントの分解・セクト各派が生まれる中でも「ブント愛」で、どの分派にも暖かい目で記述しておられました。それを知ったのは、公判準備や「日本赤軍私史」執筆で、不在中の70年代以降のいろいろな本、資料をあれこれ乱読した時です。また、2002年2月、獄中の私たちに連帯し東京で檜森さんと共に反弾圧集会を開いて下さったのも蔵田さんです。資料書籍なども送って励まして頂きました。出所が叶えば、ブントの歴史についてあれこれ伺いたいと思ったものです。体調を崩しておられる中、執筆された本も送って頂きました。ブントを総括し、記録を残そうと冷静な歴史観で記しておられ、それらは過去を知る大きな助けとなっています。支え励まして下さった感謝と共に、哀悼の気持ちを記します。大切な先輩を失いました。秋雄さんはきっとお別れに参じたことでしょう。

3月14日 少し寒い。外を見ると隙間から雪! みぞれのような雪が午後ずっと降っている昭島です。ラジオでやはり都心みぞれの中、桜、東京の開花宣言! 統計をとりだして一番早い開花宣言とのこと。“みぞれ降る不夜城の外眺めれば東京の桜開花とラジオが”
“友よりの手紙開けば訃報ありブントを愛した蔵田計成”
改正特措法成立の記事。
“コロナ危機想定外から特措法あっという間にコロナファシズム?”
(中略)

3月20日 春分の日! 昨日から直線で300m位離れた昭和記念公園西端の森の一本の木の白い花がちらほらと咲き始めました。今日は、七分咲き位に花盛り。太陽にその桜木がきらきらと輝いています。ほんの少しの森と花見が心を浮き浮きさせます。今、新聞届いて読んでいたら訃報を知りました。松田政男さんの訃報です。87才だったのですね。私が松田さんにお会いしたのは69年です。赤軍派結成後のころです。文章作業で「世界革命運動情報」誌のバックナンバーを入手できないかと塩見さん、山田孝さんに相談された時のことです。大学の友人の教育研究会のKさんが、レボルト社事務所にも出入りして、その雑誌を読んでいたのでKさんにバックナンバーを貸してほしいと頼んだのです。彼は全部持っていないので持っている友人を紹介すると言って紹介してくれたのが松田さんです。初対面で「失業革命家の松田政男です。40歳までに、革命に命を滅する覚悟で生きてます」というキザな科白にびっくりしました。その際、赤軍派の話をすると、「ブントの擬制的な組織は分解純化すべきで大賛成だ」と「何でも協力したい」と支援を申し出られたのです。以来、多くの人脈、財政、アジトと、いろいろ協力して下さいました。
71年秋に「赤P」のフィルムを持ってベイルートに訪れたこともありました。今は亡き、大島渚さんが電話してきて、「松田さんがユニコーン(当時のみんなの溜り場)でもう帰ってこない。あっちで骨を埋めると騒いでるけど迷惑だろうからさっさと送り返すように!」などと言っていました。その電話もユニコーンからのようで陽気に友人らが次々とTEL口に出て励ましてくれたものです。ベイルートで有意義な日々のあと、信原さんや、丁度居合わせた浅井信雄さんらも松田さんに帰国を説得。私も浅井さんのフィールドのカイロまで行って見送りました。その後丁度第四次中東戦争の73年、若ちゃん、守さん、北沢さんらと松田さん合流して大討論。ベイルートからパリへ。パリを拠点に「赤P」上映から革命文化戦線構築の準備へ。ところが74年の「パリ事件」で関係ないにも拘らず仏DSTに逮捕され暴力をふるわれ国外追放で帰国を余儀なくされました。こんな風に様々に協力して下さったのに迷惑のかけっぱなしのまま、直接のお詫びできないまま永別を知りました。謝罪・感謝と共に次々と、いろいろなエピソードが浮かびます。合掌。
最後にお会いしたのは2001年、私の公判に証人として出廷して下さった時です。昔とちっとも変わらず意気軒昂に検事とわたりあっていました。その後、Oさんから松田さんが火災に遭ったり、体調を崩しておられることを時々伝えて頂きました。「パレスチナに献花を!」と檜森さんOさんらと活動をはじめ、檜森さんが自決した後も、あの「かもめの噴水」のところで、松田さんOさんらが、時々の集いを行っていたことを思い出します。Oさんの吹く楽器の曲が聞こえるような春分の日和、一本だけ煌めく桜にむかって惜別の哀悼を捧げます。“春彼岸新聞開けば黒い縁君の訃報に出会い息呑む”“初対面黒サングラスに黒づくめ「失業革命家」と君宣いき”そんな姿を思い出します。
(中略)

3月29日 昨夕から桜の花が満開に咲きました。花は80くらいあります。小さな花ですがきれいに咲き、フリージャ、チューリップも盛りです。起床前の早朝、うす明かりに雪!どんどん降っています。フリージアの香を受けつつ雪見です。雪は午後2時頃まで降り、少し隣のビルの機械や屋上にも積もっています。

3月30日“パレスチナ土地の日なれば闘いの死傷者逮捕者の数案じらるる”と、思わず零れます。コロナが感染し始めている中東で、パレスチナの人々はそれでも闘わざるを得ず、「土地の日」の今日恒例となっている抗議が被占領地、隣接国のパレスチナ難民キャンプで行われているでしょう。今日受け取った資料で、レバノンでも3月19日現在で感染者は158人と保健省の発表。欧州と密接なのでこれから広がるのでは……。また、今日は檜森さんが自決して19回忌です。毎年Oさんらと日比谷公園のかもめの噴水の桜の下で、この日を弔っておられた松田さんも逝去されています。今年の桜は様々に記憶に残るでしょう。安倍首相、コロナ、雪など。

4月1日 雨で寒い日。エイプリルフール。ふと檜森さんのことを思い出していました。自死の知らせを受けたのは、エイプリルフールだった……と思いながら。点呼直前に、再びこの日驚きの悲報が届き呆然。泉水さんが亡くなられたとは……。
 ああ何もできないまま泉水さんを逝かせてしまった……と、無念と申し訳なさと司法当局への怒りが溢れます。これまで安田・山下弁護士らや、水田ふうさん、Fさんをはじめとする多くの方々が、何とか泉水さんの仮釈放の道を開こうと努力して下さっていました。泉水さん自身も刑務所や検察側のやり方に抗して毅然として国賠訴訟を闘い続けていました。社会に還り一日でも過ごしてほしかった……。私ばかりかみんなの願いでした。
泉水さんとの出合いの頃が浮かびます。泉水さんは、若い頃の悪事(強盗殺人共犯)で「兄貴分」に何も知らされず付いて行ったのですが、泉水さんが待っている間に惨事を兄貴分が起こし、つかまると、泉水さんも関わったように供述調書を作られて共犯として、「無期懲役刑」を科されます。(兄貴分は病死)
母に詫び真面目な服役態度で仮釈放も決まっていたのですが、千葉刑務所が囚人の病気を放置しており、いつも泉水さんがフォローしていたので、自分が居なくなったら、どうなるのか……と思い詰めていました。病気が重篤になったのは医療措置をきちんととらないためだと憤り、一人で決起しました。自分が問題を起こして外の社会に非人間的な現情を訴えることで病人を救おうとしたのです。同囚だった民族派の野村秋介さんが出所間近で、泉水さんと打ち合わせて、出所後このニュースを社会に知らしめました。泉水さんは旭川刑務所に移監されますが、病囚は、八王子医療刑に移され治療を受けることができました。
このニュースを私たちはアラブで知りました。国内の友人たちからも釈放を! との声がありました。その結果、77年ダッカ闘争で指名、泉水さんは「人質を助ける為なら自分はどうなってもかまわない」と奪還に応じたのです。左翼には何の共感もあった訳ではありません。泉水さんは率直な人で、「殺しや、タタキが革命の名で許されるなんて、革命なんて便利なもんだな」と、むしろ批判的でした。出合い、率直に語り合いました。弱く貧しい立場に置かれた人たちが誰も差別されずに公正に生きられる社会をどう実現していくのか、パレスチナ難民キャンプや戦場で語り合いながら、人間らしく、義理や人情のある差別のない社会、こんな革命なら一緒にやってみたいと一歩ずつ進みました。
泉水さんの演歌や民謡は、パレスチナの友人たちとの5・30パーティーや戦場での娯楽の集いなどで披露してはやんやの拍手。ある国の革命家は泉水さんと「義兄弟」の間柄でしたが、それは相手が泉水さんの義理堅い、行動から大いに気が合って申し出たためだそうです。言葉の壁を越えて友人になることのできる人です。
泉水さんはまた、刑務所で印刷技術を習得していたし達筆だったので、編集機関で活動し、当時80年代初期まで国内に向けた「人民通信」を発行し、表題も泉水さんが担当しました。
その後、丸岡さんとアジアでの活動中逮捕され送還されました。検察は「人質釈放」の77年には「超法規的措置」として泉水さんに協力を求めながら今度は「一般刑事犯のくせに」と、意地の悪いフレームアップをマスコミに流しては、不当な拘束弾圧をつくりあげました。
泉水さんは唯、旅券法違反の普通は執行猶予の付く刑ながら、検察は昔の無期懲役刑を復活させて「一生獄から出さない」という報復的重刑処遇を科しました。こうした国家的な旧日本赤軍に対する政治的報復は、丸岡さん他、日本赤軍メンバーでない友人にも及びました。何としてもこうした弾圧を正そうと、弁護士、友人たちが泉水さんと共に公判闘争を闘い続けて下さったこと、哀悼と共に感謝を捧げます。
また、泉水さんがアラブでくり返し慈しみを語った小さかった姪御さんと獄中ではあれ、交流が復活したこともとても嬉しいことでした。
共に考えたり、悩んだり語り合った泉水さんの70年代、80年代の姿が浮かびます。「人の役に立てることはほんとうに嬉しい」と優しい笑顔で話していた泉水さん。フィリッピンでも日本でも窮地を助けられないままに永別を迎え心苦しいです。
いつも困難に立ち向かってくれてありがとう。共に闘ってくれてありがとう。感謝と共に謝罪が浮かびます。「赤軍罪」の重刑攻撃を死ぬまで背負わせてしまいました。頭の上がらない大好きな「おふくろ」と、彼岸で最愛の夫人と共に波乱の境涯を語り合っているでしょうか。ふうさんにも会えたでしょうか。どうか重荷をおろして、安らかにおすごし下さい。御冥福を祈ります。3月10日が誕生日の泉水さんに彼岸での再会を期して、おわかれを告げます。
 “またしても友の訃報の届きこし 快晴の天裂く光よ”

4月6日 東京はコロナウイルス感染者日々更新が「最高」。今日の新聞では5日は143人だったとのこと。昭島は1人。そのせいか、今日告知放送で「今日からマスクを1枚配布します。1週間に1枚。食事、就寝、点呼以外は装着のこと。マスクの洗濯は洗濯時間(18時)に水洗いしたい人は許可する」とのこと。自費で、医師の許可でマスクをつけている私は、先週「もう在庫は購入不可。洗って使用するのは許可します」と言われました。自費購入のマスクを持っている人は、それが全部なくなってから週に1枚もらえると今日言われました。大阪拘置所でのコロナ感染も出て、全国的に対策強化しているのでしょう。

4月7日 今日は全員マスクでベランダ運動です。今日の新聞では昭島の感染者2です。午後聴力検査がありました。点呼後、告知放送で緊急事態宣言が発せられた場合、大型連休まで受刑処遇の変更を行うとのことです。宣言が解除されるまで変更は続くとのこと。懲役労働の働き方の変更などが告げられていました。また患者にも関わることとして、面会が原則不可になるとのことです。
和尚のそれを危惧した判断で、すでに4月3日早めに法要を済ませていて良かったです。運動、入浴はこれまで通りに行われること。購入物品は入手不可になったり、入手期間が遅くなったりすることがあるとのことです。

4月9日 新聞では次々と様々な職種が閉店や中止して、町は人通りが少ない様子です。みんなどうしているのでしょう。私のところでは朝から9時就寝まで、食事、点呼以外はマスクをずっと装着義務となって息苦しい。ベッドで安静の時くらい外してもよさそうなものですが、それもダメと注意されます。効果を考えれば、あまり安静中マスクをしなくてもいいと思うのですが……。面会も禁止ですが、運動と入浴は治療もこれまで通りです。
コロナニュースで新聞の国際面には他のことがほとんど載りません。レバノンのデフォルト、イスラエルの組閣など新聞からは知ることができません。丁度点呼後に資料が届き、パレスチナ占領下のコロナ感染に対して、いかにイスラエルが人種差別的な処遇を行なっているか、が記されています。4人のパレスチナ拘留者がコロナ陽性反応を示したが、5000人もいる拘留者への釈放などの措置はとられていません。ガザでは人口の80%が何らかの形で外国からの援助に依存せざるを得ないイスラエルの封鎖包囲下にあり、水の97%は飲料水となりえず、子どもたちの10%は栄養失調。NGOによれば1000人当たりの病院のベッド数は1.8~1.58、医師は1.65~1.42人、看護師は2.09~1.98人だそうです。その上イスラエルの輸入禁止措置で、X線スキャナーや医療用X線スコープなどの機器の購入が制限されていて、パンデミックとなれば停電や機器の不足で大変なことになりそうです。
また、フォックスニュースによると、米海軍横須賀基地停泊中の空母「ロナルド・レーガン」の乗務員2人がコロナに感染。他の空母ルーズベルトもすでに明らかに。米国は戦争準備より、中国と協力してコロナ対策で貢献すべき時でしょう。

4月14日 今日は歌誌「月光63号」を読みました。まだ読み続けている途中です。(中略)歌人たちの歌のことばの使い方、語彙の豊富さに、いつも圧倒されつつ歌誌「月光」を読み学習している私です。そんな私ですが、私の歌も載せて頂き、初めて自分の歌を批評して頂きました。「月光歌涎」として前号作品評で、2人の歌人が評して下さっています。一人はWさんで、“秋匂う九月になったそれだけで雲の象が変わりはじめる”と“立ち漕ぎの自転車、風の肩車われら振り切り兄は逝きまし”をあげて、一首はイベント(クリスマスやハロウィン)で季節を感じさせ、消費を促そうとする世の中で、制限された生活故に敏感に感じている点、二首目は幼い時の兄と大人になって以降の兄を重ね、郷愁に心を強く打つ歌と評して頂きました。二首目は添削もあって「風孕み」が「風の肩車」となって私も好きな歌です。もう一人は、Kさんの深い批評です。“曼殊沙華逆縁の子に会いたくて会いたくていく燃える畦道”を「前号で一番好きな歌」と選んで批評しておられます。
評されるということは己の潜在的な悟性から理性の回路ではなく魂のひだを対自化させるような新しい自覚をつくりだすようです。自分のことばの表現の凡庸性では届かない意味付与を与えてくれて、その深さの中で、歌を再び対象化させてくれます。批評されることは初めてだったので驚きでもあります。批判、論評、添削によって歌は、よりその本質を光らせるものなのでしょう。私自身は、十代から詩を書いてきて、二十代のころは、日記のようにもてあます情念を詩に吐きだしていました。でも10・8羽田闘争後から詩を書くことを意志的にやめました。2000年の逮捕を経て、心に疼く想いを言葉にしたくて、でも詩を書くにはエネルギーがいるので、公判にエネルギーを注ぐので、それはできないと思いました。でも短歌なら想いを一息に吐き出すのでやってみようと思いたちました。でもことばの使い方も、文法も、土台のないまま雫れるままに詠み現在に至っています。「月光」でみて下さるのを知ってから雫れた歌をそのままにせず読み直したり自分で添削したり、少し気取って。そして「月光」の歌人からの添削・批評を受けてより歌を磨いてみたいと欲が出てきた74才の初心者の私。歌を批評される楽しさを知りました。でも今号の「十二月の歌」は、こうして歌人たちの歌誌の中に置いて対象化してみると、ことばの使い方の弛緩や無駄がめだちます。深みや技量は欠如していますが、それはそれとして日記のように心を自分の回路で晒しながらもっと他者に感応できる歌を素直に作っていきたいと思います。
(中略)

4月28日 4・28闘争は昔のことで、そんなことを思い出すのは、私みたいな暇な人か……。パレスチナの資料を読むと、イスラエル政府のパレスチナ人に対するコロナ対策はひどいです。約5000人いるパレスチナ政治犯に対し、看守や調査官の感染が確認されているにのに対策無く、囚人の家族面会禁止。7万人の西岸地区からの毎日の労働に移動するパレスチナ人に、境界封鎖、イスラエルに残るか、西岸で過ごすかと。パレスチナ人を分離隔離するのが、イスラエル政府のコロナ対策。NGOなどは、刑務所内のコロナ検査を、国際的に中立な医療団体に求めています。日本で友人たちは大丈夫なのでしょうか。まだ近い人々が、コロナに感染したという話は届いていません。でも、糖尿病や透析、癌既往症の友人など、感染しませんようにと祈ります。

4月30日 世界中でコロナが暴いた弱い人びとへの各政府の政策が、はっきりと見えています。日本の立ち遅れが明白です。文明国らしくない。医療現場、労働現場で働く人、職を奪われる人らや、学生、外国人労働者、切り捨てではなく、これまで以上に給料を良くし、消費税も水道、電気なども学費、奨学金やローンも大胆な「徳政」こそ必要では?早く!緊急事態宣言と共に発すべきだったでしょう。5月を明るい5月とするために。


【お知らせ その1】
hakusho_cover_1127_page0001_1_1

白書副読本チラシ_ol_1105_page0001_3_1
『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊
予約受付中(チラシ参照)

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  


【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。



【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。



【お知らせ その2】

「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

img738_1


本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp


【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は1月22日(金)に更新予定です。

↑このページのトップヘ