野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2021年03月

2020年11月3日、大阪市中央区の「エル・おおさか南館大ホール」で、10・8山﨑博昭プロジェクト主催による秋の大阪集会「きみが死んだあとで」上映とトークの会が開催された。今回のブログはその会のトークの様子である。
「きみが死んだあとで」は、「三里塚のイカロス」の代島治彦監督の最新長編ドキュメンタリー映画で、4月17日から東京・渋谷の「ユーロスペース」を皮切りに全国で上映される予定である。

東京:ユーロスペース 4/17~
北海道:シアターキノ 
神奈川県:横浜シネマリン
群馬県:シネマテークたかさき
長野県:松本CINEMAセレクト
長野県:上田映劇
愛知県:名古屋シネマテーク
大阪府:第七藝術劇場
京都府:京都シネマ

以下の映画の公式ホームページで予告編を観ることができるので、ご覧いただきたい。
『きみが死んだあとで』公式HP

1


また、映画のチラシ配布や前売り券販売に協力する「応援団」を募集しているとのこと。詳しくはホームページを参照していただきたい。(ホームページを開くと予告編が自動的に上映されます。予告編を観た後、画面右上の×印をクリックして予告編を閉じれば、ホームページを見ることができます)

今回掲載のトークは、冊子『奔』No6(2020年12月刊行)に掲載されたものであるが、編集発行人である望月至高氏のご厚意により転載させていただいた。この冊子は、残念ながらNo6をもって無期休刊となったが、再刊を期待したい。

2

<トーク参加者>
総合司会:辻 恵(大手前高校同学年/弁護士)
登壇者
代島治彦監督
1958年埼玉県生まれ。「三里塚のイカロス」(2017年監督)で毎日映画コンクール・ドキュメンタリー映画賞受賞。他の映画作品に「パイナップルツアーズ」(1992年製作)、「まなざしの旅」(2010年監督)、「オロ」(2012年製作)、「三里塚に生きる」(2014年監督)がある。著書に「ミニシアター巡礼」など。
山﨑建夫 (山﨑博昭の兄)
水戸喜世子(十・八羽田救援会)
赤松英一 (大手前高校先輩)
島元健作 (10・8羽田闘争参加者)
山本義隆 (大手前高校先輩/元東大全共闘代表)
岩脇正人 (大手前高校同学年)
北本修二 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
島元恵子 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)
黒瀬 準 (大手前高校同学年/10・8羽田闘争参加者)

(写真は望月至高氏からの提供及び大谷行雄氏のフェイスブックからの転載)

【 10・8山﨑博昭プロジェクト主催 2020大阪秋の集会
代島治彦監督『きみが死んだあとで』上映会とトークの会 】
                       監修 山﨑建夫 ・ 編集 奔編集室
 総合司会  辻恵(つじ めぐむ・弁護士)
上映会司会 代島治彦(だいしま はるひこ・映画監督)
◆辻司会 2014年に発足した山﨑プロジェクト秋の関西集会、今日で6回目の開催になります。今日は代島治彦監督の『きみが死んだあとで』の映画の上映とトークということで、五時までお付き合いいただければと思います。それでは最初に代表の山﨑建夫の方から挨拶をいただきたいと思います。

3


◆山﨑建夫 2014年―6年前からプロジェクトを立ち上げ三つの事業を行ってきました。記念碑を建てよう、羽田の傍にお寺を借りながら記念碑を建てました。ベトナムの戦争証跡博物館に弟の遺影と当時のベトナム反戦闘争の闘いの写真を展示しよう―これもできました。代島監督はその時も同行してくださいました。そして記念誌もできあがりました。一冊が大部ですが、それが二冊になりましたので、作るのは大変だったのですが、賛同人や沢山の方の応援で出すことができました。本当に感謝しております。
 第一回講演会を東京で始めたとき、講師は山本義隆さん、映画は『現認報告書』(註1)でした。今日は新たに50年後の当時の若者たちということで、代島監督の映画『きみが死んだあとで』です。
『きみが死んだあとで』―本当にそうなのです。彼が死んだ後いろんなことが起こった。三里塚、羽田、佐世保、王子―で弟は当然だけれどもそのことは全く知らない。運動が盛り上がっていくかどうかというときに、その端緒に彼は消えてしまった。で、私たち家族は、その後のいろいろな闘争をテレビの画面を通じて知るわけです。赤軍派がハイジャックして北朝鮮へ行くようなときでも、はらはらしながら観ていました。その学生たちの姿に弟の姿を重ねながら観ていました。その学生たちが、10・8の弟の死をきっかけに、さらに闘いを強めるんだ、あるいはそのようなこととは無縁な学生生活を送っていたが、いやこれではいかんと生活を変えて闘争に参加しだした。映像のなかの沢山の学生たちがそうであった。そういうことを知ったのは僕自身かなり経ってからです。特にこのプロジェクトで、仲間に話を聞いたり、そういう人が多かったんだということを知るわけです。
で、今年の9月末に素敵な話が飛び込んできました。二年前に中央大学の学生がインタビューしたいと。東京で話をしたら中央大学の理論誌(註2)に載せることになった、それで彼は東京の上映会に来てくれます。そしてプロジェクトにこれからも注目している、これからも行事があれば参加しますというふうに言ってくれるんです。もうひとつは、関西大学の女子学生がかつて自分たちの大学でも学生運動があった、そのことについて興味をもって、今の学生と当時の学生とどう違うのだろうと、映像製作をされて、その映像が「地方の時代 映像祭」(註3)に入賞したという知らせを受けました。この2月2日に映像祭があって、さらに優秀賞とか奨励賞とか選ばれるようです。これにも招かれているんです。(注記、奨励賞を受賞しました)
 去年アメリカの映画「いちご白書」のコロンビア大学のマーク・ラッドさんを招いて講演会を持ったのですが、彼女らはインタビューを試みました。彼女らは「何に対しても怒りなど感じたことはない」と言うと、マーク・ラッドさんは、「まるで砂漠の砂に頭を突っ込んで危険を見ないようにしているダチョウと同じだね」という風に言われたんですね。ひどい侮辱のはずです。彼女たちはその場面をそのまま映像に残しています。ひどい侮辱だと思うんですが、そのまま映像に残しています。この場面はゼミでも話題になったそうで、それでちょっと視点を変えて、ではどうするんだということを自分自身に問いかける姿で終わっているんです。そんなにたいしたものじゃないかもしれないけど、ゼロからの出発が少しずつ動き出していく、そういうきっかけを感じさせてくれる話です。
 最後に賛同人にまだなっておられない方がおられましたらぜひ賛同人になってください。こういう講演会やったり、映画を作ったりするのに、沢山お金が要るんです。ぜひ応援していただきたいと思います。賛同人になっておられる方は、年会費を納めていただきたいと思います。また記念誌も用意しております。ぜひ買って読んでいただきたいと思います。宜しくお願いします。
 註1 映画『現認報告書 羽田闘争の記録』監督小川伸介。1967年10月8日羽田、佐藤栄作首相の南ベトナ
ム訪問阻止闘争の記録。羽田空港に通じる周囲の衝突と山﨑博昭の死亡をめぐる記録映画。
  註2 評論集。総合政策学部四年袴谷直樹著『ベトナム戦争と日本人』所収「10・8羽田闘争―兄が語る弟山﨑博昭」。
  註3 「地方の時代、映画祭」は地域のドキュメンタリー作品から年間の優秀作品を権限するもので、今回40回目。放送局、ケーブルテレビ、市民学生、高校生の4部門がある。今年の応募作品は、全260作。そこから各部門薬10作品が選ばれれ、さらに優秀賞と奨励賞が授与された。

◆辻司会 上映開始の前に代島治彦監督にご挨拶いただきます。

◆代島監督 この映画を創りました代島です。この映画を思いついたのが一昨年の11月ぐらいで、詩人でこの会の発起人にもなっています佐々木幹郎さんに、大手前高校の卒業アルバムをみせていただきました。そのなかで、いわゆる社研に20人もいてビックリして、これみんな社研なんですかというと、いや社研のシンパが多くて、前5人ぐらいが社研の部員なのだということを仰って、そのシンパのなかに山﨑博昭さんがいらっしゃった。その他佐々木幹郎さんやいろんな方がいて、山﨑さんが亡くなったあとで、みんなどうしていたのかな、会ってみたいなというという感じでインタビューを始めて、結局14人の方々に話を聞いてこの映像にまとめました。自分でも思いがけず長い映画になってしまいまして、3時間20分あります。前半が96分、後半が104分です。間に休憩が入って小説みたいな上巻下巻みたいな構成にしました。丁度編集している最中に村上春樹の『ノルウェイの森』を何度となく読んでいたんですね、それでこの映画も上巻下巻でいいかってこの形にしました。村上の『ノルウェイの森』は、死というものが生の対極にあるのではなくて、生の一部として存在しているということがテーマですね。それでちょっと『ノルウェイの森』っぽい映画になっています。ぜひ観てください。

◆上映◆

4

◆辻司会
 皆様のお手元にアンケート用紙があります。ぜひご記入の上お帰りの際には受付の方にお渡しいただければと思います。併せて、わたしたち10・8山﨑博昭プロジェクトは、今第二期の活動をやっておりまして、10・8の闘いがやはり1972年沖縄闘争まで続いたんだという意味で、1972年の50周年の22年までは、あと2年間活動は継続しようと考えています。その賛同人を募集しておりますのでぜひ賛同人をお願いできればありがたいです。またプロジェクト、映画に対するカンパをお願いします。
 東京で午前の部午後の部、会場は100人収容と狭かったので、2部制に分けて延べ151名の方に映画を観ていただきました。今日関西では120数名の方にご参加いただいています。当時山﨑博昭と闘ったその時代の同年代の記憶を次の世代にしっかり記憶してもらおう、そしてさらに記録に残してその意味を問いかけるということで、代島監督がこの映画を創ってくださったということで、代島監督からインタビューを受けてくださった皆様方の声を聞かせていただくことにします。では代島監督、宜しくお願いします。

123688073_10218896839636395_3603694979445883171_o_1

◆パネラー登壇
◆代島監督司会 今日沢山の方に来ていただいて、ありがとうございました。今日、出演者の方が9人集まってくださいました。全部で14人でしたので9人はすごいです。では山﨑建夫さんからどうぞ。

◆山﨑建夫 とても恥ずかしかったです。

◆水戸喜世子 今日はありがとうございました。この子は(膝に抱いたコアラ母子のぬいぐるみのこと)博昭君のお母さんの春子さんが私の家を訪ねてくださったとき、我が家のこどもたちにプレゼントしてくださったものなのです。いつもは私と二人だけで過ごしているので、今日は沢山の方が集まるところにぜひ連れてきたいと思いました。皆さん宜しくお願いします。

◆赤松英一 少し喋らせてください。映画のなかでも触れられていたように、山﨑君の世代から二つ上で、彼らが運動に立ち上がるきっかけになったということと、それから、他の出演者の方と違って彼が死んだ後も30年近く中核派で活動を続けていたということから、反戦闘争の中におけると山﨑君の死というだけではなくて、あの中核派をはじめとする革命的左翼、新左翼の闘いが何であったかという総括を話さなければならない責任を感じながらこのプロジェクトに参加してきたわけです。個人的生き方の問題としてではなく、やはり少し広い観点で話す必要があると思っていたもので、東京の集会では、当時の運動の根本的な問題はなんであったかというと、国家権力とか国家とか資本主義とかを倒した後いったいわれわれはどういう社会を創るのかという構想、単なるビジョンとか理論とかでなく、それをいかに現在から創り上げていくのかという実践がなかったことにあるという話をしました。
今日はもう少し運動に沿った、しかも今日のフィルムのなかで僕が一番長い間口ごもった、あの革マル派との戦いについて、一言だけ話をしたい。出演者の方々がそれぞれの契機で参加しながら止めていった理由として、いろいろな問題―暴力であったり、党派の問題であったりするんですが、やはり今の日本の社会運動がここまでダメになって、安倍や菅といった人たちをのさばらせていく最大のきっかけになったのは、やはりあの内ゲバ、および内ゲバというものを超えた革マル派との戦いだったと言わなければならない。そのきっかけになったのが、やはり12・4(註4)であり、そしてそれに対するわれわれの反撃ということのなかにあった。当時の新左翼の内ゲバという初期の在り方自体に本当は問題がありました。セクト主義であったり、未成熟な若者の暴力的な傾向があったわけですが、しかし革マル派というのは、そういうものと違った存在として出てきたのです。つまり冷静に真っ向から党派というものを根絶するということを目的として、組織のすべてをかけてやってきた。そういう時にどうするかということが問われて、われわれはそこから逃げることはできないと思って対決したわけですが、それは党派の新聞にもあったように、警察・革マル連合とか、あるいは反革命とか、つまりそれを権力と同等の回し者として規定して戦ったのです。
で、今になって、明確に言わなければならないのは、完全に間違っていたということです。やはり革マル派っていうのは、本人の主観的存在においてだけではなくて、ある種の革命党派なんですね。あれは革命党派でなくて反革命だからこういう戦い方でいいんだとして、彼らと同じ水準になった。歴史的にいうと、トロツキーなどを帝国主義の手先だとして葬ったスターリン主義だとか、あるいは新左翼に対してスパイの手先といった日本共産党と同じ過ちに、当時の新左翼が陥ってしまったということだと思うのです。
さらに、日本の社会運動がなぜここまでダメになったのかというときに、新左翼という革命党派としての可能性をもっていたものがダメになったということと、もう一つ、やはり総評―地区労に代表される戦後の革新運動を完全に解体させてしまったということを思わざるを得ない。もちろん総評とか社会党というものは社民そのものだったのですが、しかし同時に戦後の民衆が作り上げてきた抵抗のひとつの形であって、特に地区労といったものに根を張ったものが、運動の基盤だった。それが今一掃された。なぜかといえば、明らかに国労解体から始まる総評の解体であり、それが可能だったのはやはり革マル派という党派が、JR総連を通じて自分の伸長のためには社会党総評・地区労など民衆運動の基盤を解体しても構わないというところに踏み切ったからに他ならないのです。それがなぜ彼らはできたかというと、革マル派は60年安保闘争で大衆運動が高揚したけれども革命党派がなかったから運動は成功しなかったという総括から、前衛党がなかったら大衆運動だけでははダメだよとやっていたんですが、そこから発展して党は何やってもいいんだ、党があればあとは何とでもなるんだという思想になったのですね。(司会から発言時間を注意されて)時間がないので、納得してもらうことは難しいと思うのですが切り上げます。本当は、別の闘い方、民衆と一緒になって戦うやり方があったはずですが、そのためには、自分の党の在り方を徹底的に自己批判しながら、闘う必要があった。それができなかったということを、単に歴史的な問題として反省するのではなく、今からの人生のなかでも考えていこうと思っています。(註5)
(註4) 1971年12月4日、関西大学千里山キャンパスにおいて中核派と革マル派の内ゲバが発生。中核派の京大生Tと同志社大生Sの2名が鉄パイプで撲殺された。
(註5) 赤松英一氏の内ゲバと映画感想については、個人サイト『RED PIINE&VINE』に詳しい。

◆代島司会 ありがとうございました。赤松英一さんで検索すると赤松さんのホームページがでてきますので、そこに結構赤松さんがいろんな論を書かれています。ぜひ読んでみてください。

◆島元健作 片隅でそっと見ていようと、また見てもいたのですが、映像が昔の闘争場面が出てくると血がたぎりまして、ちなみに今さら自慢してもしょうがないのですが、あそこに映っている闘いには全部参加していました。ただそれだけで話は終わるつもりですが、ちょっと赤松さんがああいうことを言われましたので、それならちょっとー。それならね、赤松さん含めてね回想記だされた水谷含めてね、なんで海老原問題に謝罪しないんですか。あるいは闘って正しかったなら、なぜあれこそが革マル派との戦いだったと表現しないんですか。未だに曖昧でしょう。あれだけ悪辣なね、あれだけ軍事力のある党派に、ああいううかつなちょっかいを出すような戦いを始めたことがそもそもの間違いなんですよ。戦争のやり方は全く間違っているでしょう。あのときの軍事責任は誰がとったんですか。そういうことを当時の人たちは誰も未だに言及していません。(異議なしの声)それで反省もクソもないと思います。赤松さんね、昔ながらのこういう限られた場のなかで何を今更アジテーションしているんですか。もっとやることがあると思います。(拍手)

◆代島司会 山本義隆さんです。東京から来てくれました。

◆山本義隆 今日佐々木君が来ていないのですが代わりに東京の集会で佐々木君が語ったことを言っておきます。この映画フィルムだけで10時間あるんですよ。それだけあるフィルムをね、監督が全部文字起こしして文章化してそれを読んで編集したんですよ。大変な作業だったと思います。文字起こしは大変ですよ。それを監督はやられた。これはぜひ知っといてもらいたい。(拍手)

◆代島司会 10時間ではなくて80時間です。(笑・拍手)

◆山本義隆 それで僕の感想はもっとレベル低いんですけども、東京でも喋ったんですが、その山﨑君にしても、佐々木君にしても向さんとか全部67年に大手前高校を卒業しているんです。大手前高校はすぐそこです。都庁の横の元女学校ですけども、(府庁と訂正の声)そう府庁、で、僕はその7年前の60年にその高校を卒業しているんですけども、たった7年であれだけ高等学校の雰囲気が変わったのかと。これやっぱりショックでした。僕らの頃と全然違っている。その7年の違いっていうのは、ものすごいこと。
それは60年から始まっているんですね。60年の6月20日からです。国会前で徹夜して、その安保改定阻止闘争は6・15で終わって事実敗北ですよ。それで6・20何をしていたかというと、自然承認を待っているだけですよ。たまらんですよ。そして一晩徹夜して次の朝総評の宣伝カーが10年先に闘いましょうと言っているわけだ。要するに安保は10年たったら日米どちらからでも破棄を通告できると。それ言うとる方でもリアリテイーないんだけど、僕ら大学入って一年生ですよ。60年に入っていますから、そのーまあ、純情な子供たちですよ、そういう風に言われると刷り込まれるんですね。そうか僕は10年後にはやらなければいけないのかと。それでね、真に受けたのが三派全学連だと思います。10年たったらやる。そんなこと日本の歴史になかったんですよ、10年先の政治課題が決まっているなんて。今では1年先だって分らんでしょう。
60年代は70年にやらなきゃあいけない。それもね、60年は負けた、それを上回る闘争をやらなければいけないということが初めから決まっていたのです。三派全学連はそのために出来たようなものです。そうすると何が起きるかというとね、60年は負けたけど、60年はブントが指導した運動である、では70年はどの党派が60年安保でのブントの役をするかということになっちゃうわけですよ。僕はずっと見てたけれども、党派的な対立はそういうところから始まったんじゃないかなと思っているんです。そのこと自体は当たり前というか、党派的な競合・対立があること自体は当然でしょうが、わが党派だけが絶対に正しい、自分たちだけが闘っているみたいな言い方はやはり思い上がりですよ。僕はそもそも安保闘争の後、真の前衛がなかったからだという総括の仕方は、分んなかったから、そんな風に考えなかったんですけどもね。実際には何かやらなければいけないと、そういう風に思っていたのが数多くいたわけで、それがでてきたのがベトナム反戦闘争だったと思います。その引き金が10・8だったと思います。映画の中で三派全学連についてゆけない学生諸君が多くいたと言いましたが、それは実力闘争についてゆけないという意味ではなく、政治党派の排他的な指導についてゆけないという意味なのです。
いずれにしても60年代末の運動は学生だけでなく、本当に(映画のなかの)水戸さんの話にもありましたが家庭の主婦が警察に差し入れに行ったり、いたるところで反安保の声が出てくるとか、普通のサラリーマンが家に脱走米兵をかくまったりとかしているわけで、こういう運動の盛り上がりは日本歴史になかったことだったのです。それはものすごく重要なことと思います。学生が自分たちだけが闘ったと思っていたら間違いです。一人ひとりが言いたいこともあるだろうし、間違ったこともあるし、あるけども、そのことはちゃんと伝えていかなきゃあいかんと、そんな風に僕は思っています。よくこの映画を創ってくれはったと、それは一番感謝しています。

◆代島司会 岩脇正人さんはすごく映画好きなんですね。映画評論書いていらっしゃり、家にいくとなん百本という映画をコレクションしていたりする方なので、一番感想が怖いんです。

◆岩脇正人 映画は8千本持っています。それはともかく、それぞれ年をとって、50数年経って、思うことはいろいろあると思うんです。私については、このプロジェクトの文集の第一巻に私の50年間の想いを「山﨑君への手紙」という題で書きました。字数が限られていたのでほとんど箇条書きみたいな文章ですけども、そこに言いたかったことは全部書いてあります。やはり箇条書き的な文章になってしまったので、私の説明を聞かないと判らないことも結構あったと思いますが、ご質問があったらいつでも答えますし、山﨑君が死んだ後の50年を嫌なくらい忸怩たる挫折感みたいなものを抱えていたんです。私はね、そのことを吐き出して一応決着をつけたと僕は思っています。終わりだと思ったら代島さんから映画に出ろと言われて、当時のリーダーがいなかったら映画にならへんと言われたので、責任はもたんといかんと思ってもう一度責任とらなくちゃと思って映画に出た訳です。
映画については私の考えは観るまえと観た後で心が震えたり、映像に衝撃を受けたりいろんなことがあると思うんですけど、どんだけ自分が変わったのかということが、私の映画に対する評価です。評価の軸です。もちろんドキュメント、取り扱っている主題、映像のすごさ、全部映画の評価は変わってくるのですが、一番大事にしたいのは今のことです。だから映画を観てなんや全部知っていることやとか、自分の知っていることを再確認するーそんな見方はカスです。それだけは止めて欲しい。
それともう一つ。一緒に共演していた赤松さんですが、さっきの話を聞いてもうすごい遠いところへ離れ離れになってしまったなという感慨は持ちました。以上です。

◆代島司会 ありがとうございました。では残り時間が少ないので、3分程度ずつどうぞ。

◆北本修一 北本修一です。映画を観て私は感動いたしました。映像の美しさ、代島さんよう頑張ったなと思いました。映画を観て、知らなかった事実が一杯ありました。50年前、その場の近くにいたにもかかわらず、知らなかったことが。たくさん出てきました。
 私は弁護士になって、40年以上、色々な人々の様々な社会運動を手伝う仕事に関わってきました。 余り思い出したくないこともあるのですが、私が生き、活動することについて、高校生から大学生の間の体験が柱になっていると改めて認識した次第です。

◆代島司会 ありがとうございました。

◆島元恵子 話すことを考えていたんですけれども、結局まとまらなくて、思いつくままにちょっと時間をいただきます。考えていることは岩脇君と同じで、『私たちに鎮魂歌がうたえるかあるいは50年後の追悼とは何か』(「かつて10・8羽田闘争があった」・合同フォレスト・2017年)のなかにまとめてありますので読んでいただけたら嬉しいです。一所懸命書いたので読んで共感してもらえる人が少しでも多かったらいいなと思います。
話は代わりますが、うちの父は103歳でまだ元気でいるのですが、東大闘争のときに、兄が一年間拘置所に入っていて、家族会を立ち上げるグループでやっていて、関西の家族会の北本君のお父さんとか一緒になってかなり頑張ってやっていました。この前、父のいろんなものを片付けていたら、その頃に父親宛にお父さんお母さんがよこした手紙の束が出てきて、これを何とかしたいと思いながら体調が悪くてできていないのですが、それからいろいろ考えて、1967年の反戦闘争のその時は、私たちの親たちの世代―大人たちは戦争の記憶がまだ生きていた時代だと思います。だから市民のなかにもやっぱり戦争はいけないというものが強くあったために、そういう人たちが皆亡くなってしまって、(私たちは)その頃の親以上に70歳を超えた歳になってしまっているので、いろいろ考えるんですけれども、反戦というのは、今の私にとって私は何をすべきなのかというのが一番のイメージです。
これだけは言いたいことは、戦地へ兵隊で征った人たちが中国や朝鮮やアジアの国にやったことについてはほとんど口を閉ざしたまま墓場まで持っていってると思います。あるいは、聞いていることもあるかもしれないことかもしれないですが、人というのは酷い目にあったらあんなことがあったこんなことがあったと一杯話すけども、どれだけ残虐なことをしたかということについては、言いにくいことだし、なかなか話せないことだと思うのです。でも親の世代のそういうものを引き受けて次世代にキチッと伝えていかなければ、まるで何もなかったかのような、アジアの人々に対して日本は何をしたかということを全然知らないままに子供たちは大きくなっていって、そういうなかで戦争は悪いといっても何もいってないのと一緒だと思います。私は一所懸命考えているんですが、気力体力も衰え何もできない状態ですが、こういう場で発言することも一つの行動かなと思い喋らせていただきました。

◆代島司会 ありがとうございました。最後ですので一曲歌っていただけますか。映画のなかの「北上夜曲」の替え歌をぜひ。

◆黒瀬準  ♪ぼくは生きるぞ いきるんだ
       きみの面影胸に秘め
      想いだすのは 想いだすのは
                  弁天橋の碧い空
                   (満場の拍手)
◆辻司会 まだまだ議論を深めたいのですが、時間の関係で今日は終わらせていただきます。
10・8が何だったかということを取り上げてずっと資料を検索したり考えるチャンスを作ってきました。この映画がさらに大きなきっかけとなって議論が深まっていけばいいなと思っています。来年の6月、東京で集会をやりますが、樺美智子さんと山﨑博昭君と糟谷孝幸君とそれから日大全共闘で亡くなった中村克己君の死を考えるということで、時代をもう一度議論しようと。60年安保当時の長崎浩さんに講演をしていただく企画をしています。6月か7月の末には関西でも同種の企画をしたいと思っておりますので、来年またぜひ皆様とお会いできたらと思います。今日はありがとうございました。(拍手)

◆代島監督 来年6月ぐらいに大阪、京都の映画館で公開できると思いますので、その時にはまた応援してください。
             
※2020年10月4日に、東京・渋谷の「ユーロライブ」で開催された秋の東京集会午前の部のトークは、以下のアドレスでご覧になれます。

「きみが死んだあとで」上映とトークの会(東京)

(終)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

img738_1

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は4月2日(金)に更新予定です。

今回のブログは、前回に続き元青山学院大学全共闘の黒瀬丈人氏からの寄稿である。
生い立ちから高校時代、大学時代、そして現在に至るまで、それぞれの時代の流れの中でどう社会と向き合って生きてきたのか、ということが書かれている。
全体で9万5千字に及ぶ労作なので、何回かに分けて掲載していきたい。
第2回目は高校時代後半(1967~1968反戦高協の闘い)である。


【青学全共闘への軌跡】

ひとには、魂の時間、というものがある。50年、100年を経ても、それは鮮烈なマグマとして魂に深く痛いほどに閃光として刻まれている

黒瀬丈人
元青山学院大学全学共闘会議・法学部闘争委員長/全共闘行動隊

<目次>
1 前書き  「青春の墓標」そして-香港の若き魂たちよ!―自由・自発・自主の尊厳
2 序章   第一節~第三節(1949年―1967年)
「団塊の世代」時代の情景からベトナム反戦闘争に至る過程とは? 
1960年安保闘争の記憶/樺さんの死~反戦高協/10.8羽田闘争
3 本章   第一節~第三節(1968年―1970年)
烽火の記憶~青山学院全学闘から全共闘と70年安保・ベトナム反戦闘争
4 終章   1971年以降 青学全共闘/中核派からアナキズムへ 早稲田―1972年虐殺糾弾・アンダーグラウンド演劇
5 あとがき  鎮魂、そして闘いは終わっていない


2 序章
第三節―■1965年~1967年 烽火あがり 燃えさかるー高校時代~反戦高協・砂川・紀元節・ベトナム反戦・10・8羽田闘争に決起~
□反戦高協の闘い―1967年~1968年春まで
◆反戦高協議長・U君、H君との出会い
今現在、その出会いは都立大付属高校だったと思う。何がきっかけだったのか思い出せない。当時(1966年)の反戦高協初代議長U君/都立新宿高校《現在、哲学者。里山保護活動を実践、著書多数》に出会った。印象的だったのが、出会って立ち話をしていたなかで、「サテンで話そう」と言われて、私はその時、「サテンって?」と思わず聞いた。「喫茶店だよ」と答えた。私は、「サテン=喫茶店」という意味を知らなかった。翌年、1967年2代目議長は、H君(高校名は思い出せないが、新宿高校かと思う)で、彼は1967年8月革共同全国政治集会で、檀上で激越な演説を行った。「70年安保闘争を闘うのはわれわれ(この時点で高校生)である!」と。満場割れんばかりの拍手と「異議なし!」の声が満ち溢れた。まさにその通りになった。
私の記憶では、この頃反戦高協(主に都内)に結集していた高校は、戸山、日比谷、新宿、都立大付属、西、九段、大崎、武蔵、上野、白鳳、武蔵丘、立川、青山、北園、私立麻布などのいくつかの高校、そして長野(諏訪清陵など)、大阪近畿(天王寺など)、九州(修猷館―しゅうゆうかんーなど)、中国(広島など)、ほぼ全国にわたっていた。都内では、新宿と都立大付属が拠点ではなかったか、と思う。都内での結集部隊は、おおよそ100名。1966年10.14反戦デモ参加以来、本格的に反戦闘争に私は、参加していった。当面の大きな闘争が、「砂川基地拡張反対闘争」である。1960年以前の砂川闘争は有名だが、1967年冬~夏に参加した闘争は、主に三派全学連が主体となり、激しいデモを展開し、砂川基地拡張反対同盟とともに、抵抗運動を展開していった。(この間の記録が映画にもなっている。激しい投石と防石ネット・警官隊の攻防場面がある)

◆砂川基地拡張反対闘争(1967年1月~7月)
 ―”土地に杭は打たれても こころに杭は打たれない″(故・青木市五郎氏・砂川基地拡張反対同盟第一行動隊長)~忘れ得ぬ魂のことば~


1

《写真:1955年頃の反対闘争、ネットより転載》
記憶にある決起集会・デモは、2月2日、2月26日、3月8日、3月28日、5月28日、7月7日である。《2.26、5.28、7.7以外、日付が違っているかもしれないが、概ね記憶による》
当初は、1200名(2.2決起集会デモ)ほどだったが、経過とともに、2000名、3000名と参加人員は増大していった。
当時、革共同「前進」を毎号購読していたので、次回集会の決起を訴える呼びかけを見ていた。その情報を得て、自身の決断で、ひとりで参加していった。高協の仲間と示し合わせて参加した記憶はない。
現在の昭和記念公園ののどかなニュースを見ると、考えられないほど、当時は原野のようななかに、米軍基地の鉄のフェンスが続いていた。真冬は荒涼とした感じがした。警官隊が遠巻きに取り囲むそのなかで、旗をひらめかせて、農民、学生、市民が肌を寄せ合うように決意を固めている。のちの三里塚闘争を彷彿とさせる。
3月か5月のデモの時かと思うが、警官に当時着用していた学生服(※学生服で参加していた)のボタンを全部引きちぎられ、顔面を殴打された。唇が腫れあがったが、翌日、仕方なく高校へ行ったが、自分だけ、シャツ姿で、口が赤く腫れあがって、ただクラスメイトたちは敢えて「どうした?」とは聞かなかった。母にボタンをその後つけてもらったことがある。母には心配をかけた。
この頃は、まだヘルメットも角材・鉄パイプ、火炎瓶の武器もない。冬は寒かった。徒手空拳である。集会ではいつも反対同盟の宮岡政雄さんの落ち着いた、しかし、力強い決意表明に、若年の私は、逆に勇気づけられたものだ。権力に屈しない態度と姿勢を見た。今でも尊敬している。各派の決意表明、闘うのは、密集したデモと、弾圧には、投石だった。反戦高協として部隊形成した参加はまだなく、高校生は、各個人が結集していた。三派全学連のひとたちも、各派に分かれることもなく、密集体形でデモをしていた。警官たちは居丈高で、凶暴だった。
荒(あら)氏(1969年ブント分裂以後、ブント戦旗派指導者=荒派ともいわれた)を見たことがある。警官に「説教」するように、指を向けて激しく怒っていた姿が記憶にある。警官よりも背が高かった。警官はだまっていた。「すごいな」と感じた。「高社同」の赤い大きな旗を持つ高校生もいた。(「社会主義高校生同盟」)
7月の闘争のときは、立川駅前で座り込みを行ったが、若干の雨で路面がぬれていた。商店街の歩道で、大学生数人が、バケツに水をもって、警官隊に浴びせかけたことがある。警官隊も「逆放水」にひるんでいた。「コラッ!」と叫んでいたが、痛快だった。
この頃の警官隊の装備は、乱闘服・樫の警棒・折畳み式小楯・投石防止ネットが主で、放水車・ジュラルミン大盾も、鉄内蔵の小手・脛当て、催涙ガス銃・弾もなかった。鉄製カブトの投石よけシールドもなかった。いわゆる悪名高い機動隊も装備がそれなりであったのだ。それでも、規制弾圧は凶暴だった。学生、農民をなめていた。ただ、投石だけは手に焼いたようである。
1968年米軍は横田基地に機能移転を判断、拡張計画は断念された。宮岡さん(副行動隊長)は、その後、三里塚・芝山連合空港反対同盟の戸村一作さんと秋山委員長をつなぐ。そして、1977年米軍は立川基地を日本に全面返還したのである。多くの血を流した同盟と学生、労働者、市民の魂に深く祈りを捧げたい。

◆新聞部―ベトナム戦争特集―1969年後輩たちがバリケード封鎖闘争へー
1年生のとき、迷わず新聞部に入部した。先輩たちが、学校生活の行事など、日常の出来事を記事にしていた。なので、1年生のときは、それに従って、原稿の清書、校正や割り付けの手伝いをしていた。2年生から、自身で裁量できる、つまり、新聞づくりが自身の考えでできるようになった。学校行事等(文化祭、体育祭、教師紹介、他校訪問など)も記事にしたが、一面にベトナム戦争問題を大きく取り上げたり、学校群制度導入批判、外国人学校法反対の論説、も取り上げ、食堂が大混雑していたので、ルポ「食堂」も企画したりした。
ベトナム戦争を取り上げた時は、顧問教師は何も「指導」はしなかったが、主体的行動を促す別の論説には、「没主体的」は難語だから使わないように、など指導介入があった。
当時は、制服はしっかり決められ、夏のシャツ着用に、2㎝四方の桜の模様が入った「校章」を縫い付けるようにとの生徒指導O先生の一方的指導があり、反発が多かった。校則も厳格に運用されてきた。おそらく、1967年入学生は、新聞を見て、まずはベトナム戦争―最大の兵站基地は日本―という見出しと記事に驚いたのではないだろうか、と推測する。1969年春、桜町高校でも、なんとバリケード封鎖闘争が闘われたからである。この闘争主体は、1966年~1967年入学生たちだった。自身の1~2年後輩たちで、白ヘルをかぶっていた。この封鎖闘争から、校則の管理的な側面は実効性がなくなり、生徒指導も柔軟になり、制服も廃止、自由な私服での通学となったのである。
反戦高協に参加していた私のもとに、同学年のK君、1年下のSさん、Kさんが集まり、シンパの同クラスH君もいた。なので、桜町高校反戦高協支部は、私を入れて5名だった。クラス仲間ともよく論争した。政治活動に高校生は入るべきではない、勉学に励むべきだ、という生徒も多かった。しかし、私はベトナム戦争反対のバッジもつけていた。自分の信じる道を行く、と。ベトナムでは民衆が虐殺されている。デモはいつも警官隊に暴行されていた。政府はやりたい放題だった、羊は狼に食われっぱなしだったのである。
新聞づくりの印刷所が、駒沢近くの世田谷通り・真中(まなか)にあった。当時は、玉川電車(路面電車―現在の新玉川線)が走っていて、用賀駅から真中駅まで乗って往復していた。検版に行くようになった時、同印刷所では、「先駆」「黎明」などのブント系機関紙の印刷所としても使われていたので。いつもゲラ刷りが放置してあった。拾い上げて、センセーショナルな決起を促す見出しや、記事をよく読んだ。過激なアジ演説をそのまま紙面にしたような紙面だった。1966年10月デモ以来、「前進」は1967年初頭から読んでいた。

◆革共同全国政治集会(8月)-秋山勝行/三派全学蓮委員長アジテーションー
1967年8月初めに、九段会館で「革共同全国政治集会」(全国委員会)が開催された。受付で、いろいろなパンフやビラを受け取り、集会が始まった。そこで、三派全学連委員長となった秋山勝行氏のあいさつ、実際は激しいアジ演説を受けた時、またまた衝撃を受けた。民青と革マル派の全学連に対し、また国家権力の支配体制に対し、激しく糾弾する、渾身の火炎を帯びたような演説だった。その眼、その体全体から炎が吐き出すようだった。その炎が魂を焼き尽くすようだった。本当に、私自身の衝撃はそのようなものだったのだ。その後の私自身のアジ演説は、このときの秋山さんから受けた衝撃をバネにしているのではないか、時々振り返ってそう思えるのである。10.8羽田闘争の2ヶ月前で、三派全学連がまだ機能していたこともあってか、三派の関係は対敵権力に統一して闘う内実を持っていた。

2


同時に、反戦高協の二代目議長となったH君のあいさつがあり、前述の通り、「70年安保闘争はわれわれが主体となって闘う!」~に会場割れんばかりの拍手と「異議なし!」の唱和があった。その通りだ、と自身深く胸に誓った。安保闘争で死んでも構わない、と。来賓として、第四インターのひとのあいさつもあったかと記憶しているが、「極東アジア解放革命」を呼号していた。
10月8日羽田闘争後、テレビニュースで、秋山委員長が、インタビューに「われわれは現体制を認めない、したがって、その法律も認めない!」と答えた。そうだ、その通りだ、と深くうなずく18歳の私がいた。安保条約を強行し、政治闘争を弾圧し、大学と学生自治を警察力で蹂躙し、樺さん、和井田君、山﨑君を殺害、公安・機動隊を尖兵とし、自らは安穏な場所に隠れ、多くの労働者や学生、市民を傷つけて、ベトナム戦争に加担する政府。そういう国家体制を認めることはできなかった。
公安条例も破防法も騒乱罪もみとめることはできなかったのである。
《写真:ネットより転載引用》

◆合宿(8月)~「白鳥(しらとり)論文」/関西学友の反論、自由な討議があった~

3


《1967年反戦高協・長野県委員会パンフレット。ネットより転載引用》
 夏休みに、都内三田のある寺で、都内の高協仲間が集合して、合宿が行なわれたことがある。記憶が定かではないが、20人ほどだった。そんなに多い人数ではなかった。当時、「白鳥(しらとり=ペンネーム)論文」(長野諏訪清陵高校の仲間が著した論文―パンフレット)のこともテーマにあがり、反論として著した関西の高協仲間の論文、双方について討議したことがある。高協のなかで、お互いの主張や見解を論文として全国の仲間に発信し、それを真摯に話し合い、分析する、どう考えるか、そういう作業はとても楽しかった。諏訪清陵は、反戦高協の老舗である。都内拠点校の新宿とともに。福岡の修猷(しゅうゆう)館高校での闘いについても、パンフを読んで、学んだ。
この合宿のとき、私は、「全国政治新聞―高校生版」の緊急必要性を述べ、仲間も異議なし、ということで、その後、『奔流』というタイトルの新聞が発行されるようになった。その後、『腕―かいなー』という高校生版全国機関誌も発行されたと思う。レーニンの主張した「新聞は大衆の組織者」という言葉をそのとき述べたのである。自身の高校の問題(生徒規制管理強化、政治活動禁止など)、個別の問題も重要である。だが、全国の共通する闘いの対象、問題の共通項をはっきりさせ、政治闘争(安保、ベトナム)とのつながりをどう対応するのか、学園闘争と政治闘争の連関、その主体(高校生の全学連の必要性)、そういう問題意識が芽生えた。この問題は、現在でも全共闘運動と全国政治闘争との連関、政治党派と全共闘(個別学園闘争の課題)として多くの論が必要だと考えている。また、大衆的実力闘争と党の防衛、という側面から、党の防衛に特化した路線を、後に徹底した革マル派(黒田寛一=山本政広議長)が、1970年以降、新左翼諸党派解体、を呼号して、国家権力との実力闘争を闘うものを罵倒し、襲撃してきた歴史にもつながっているのではないか。(少なくとも1969年1月東大闘争までは、彼らも権力に対し、共に闘う革マル派だったのである)日共・民青が、アリバイデモと裏腹に陰湿な「トロ虐殺」を呼号、襲撃する姿にかぶってくるのである。

◆横須賀原潜反対闘争~約80人の全学連隊列の中で~
同年8月15日、横須賀原潜寄港問題が起きたなかで、反対集会・デモがあった。社共統一集会が横須賀の公園で開催された。安保条約では事前協議、とされていた原子力兵器(原爆搭載ミサイル)持込を、不問とし、公然と横須賀基地に寄港する、という事態。翌年のエンタープライズ佐世保寄港につながる許しがたい暴挙であると思った。反対闘争の集会デモに、目黒から駆けつけると、社共の大集会があった。私は三派全学連の隊列を探した(註:約80名の少数部隊だったと思う)。この時も砂川闘争と同じく、反戦高協としての組織的取り組みはなく、ひとりで参加してい(当時、各高校での闘いも組織的にはまだ全面展開されていなかった。組織力がまだ途上だったのだ)社共の集会に参加していたが、民青の何人かが近くに来て、「高校生?」と聞いてきた。うなずくと、納得したように去っていったが、行き際に、「まさかトロじゃないよな」と聞いてきた。そうだ、なんていうわけない。違う、と答えた。その後、三派全学連の隊列を見つけ、それに加わったが、そのときの動員人数は約80人。秋山さんもいたと思う。デモも警官隊の規制が厳しく、デモにならず、歩道に押し上げられ、デモにならない固まりになって歩く、というひどい状況だった。それでもシュプレヒコールはあげていた。
1966年10.14デモは組織としてあったものの、反戦高協としての本格的組織的取組は、1968年2月紀元節復活反対闘争からではなかったか、と記憶する。なので、諸闘争への参加は、必然、自身ひとりで参加していた。つまり、三派の大学生たちの隊列で私は「鍛えられた」のである。18歳のころだ。

◆10.8羽田闘争/山﨑博昭君の「殉死」―自衛武装の必要性―反戦高協・徒手空拳の負傷デモ
 山﨑博昭君に捧げる
―「功名いずれ夢のあと 消えざるものは ただ誠」 (土井晩翠「天地有情」より。明治32年3月)―

4
5

《写真:1967年10月9日朝日新聞、下は筆者と反戦高協が向かった穴守橋―ネットより転載》
ベトナム戦争激化のなか、南ベトナム政府(ゴ・ジンジェム政権)のもとに、佐藤栄作首相が訪問する、という報がもたらされた。10月8日この訪問を実力で阻止すべく、萩中公園(羽田)に結集、という方針で、私は、京浜急行に反戦高協の仲間たちと乗りこんだ。その車内では、労働者、全学連(主に中核派)のひとたちが、即席で作ったようなプラカードを持ち、目が血走り、ただ一点、羽田空港へ、決死隊のような異様な雰囲気で、今にも突撃しそうな空気が満ち溢れていた。緊張の極み、雷が立木を引き裂くような激越な雰囲気は、よく覚えている。萩中公園に到着するかしないか、のうちに、全学連部隊は弁天橋方向へ脱兎のように突撃していった。
ヘルメットをかぶっているひとも、そうでないひとも、プラカードの柄の部分を「角材」として全力で空港へ。私たち反戦高協の約100名の部隊は、萩中公園から穴守橋(反戦青年労働者も穴守橋へ)へデモ隊列で向かって行った。このころはノーヘルで武装もしていない、徒手空拳の部隊である。先頭の旗がゆらめいている。橋へ向かう大通りを進むと、なんと警官隊から多数の投石があり、こぶし大の石が、私の隊列のひとつ後ろの女子高校生の仲間の頭を直撃した。女子高校生は思わずその場にうずくまってしまった。怒りが奔流のように沸き上がったが、それから1~2分後、警官隊が隊列を襲撃してきた。警棒と小楯で、警棒の乱打。私はそれをよけようと、左腕を思わず頭の上にかざしたところを、警棒が直撃。左腕が動かせなくなった。隊列は、乱れ、脇道へみな逃げて避難したが、警官が1名追いかけてきた。思わず、空き地にあった石をその警官に3mほどの距離から投げつけたところ、ひるんだので、さらに大声をあげながら、投石を続けた。夢中だった。近くにあった拾った棒切れも持った。警官隊はその後、突出しすぎたと思ったのか、深追いはしてこなかった。佐藤栄作はその間に飛び立った。弁天橋攻防戦で、山﨑博昭君が虐殺されたのはこの時である。私と同年18歳だった。たまたま彼が大学生で、私が高校3年だった。私が大学生だったら、弁天橋で死んでいたかもしれない。
同時刻、稲荷橋では革マル派が、鈴ヶ森ランプ(高速道路)ではブント、社青同解放派部隊が、進軍・突撃し、その後穴守橋へ合流していた。ブント部隊の鈴ヶ森最前線の写真が、のちに「理論戦線」の表紙にもなった。警官隊がひるんで、先頭の警官を角材で首のあたりを直撃している写真だった。ささやかな自衛武装の闘いが、今までデモにさえならなかったサンドイッチ規制と、歩道に押し上げられたり、囲まれたまま「拉致」誘導されたりした局面を、ほんとにささやかに切り開いた。
驚くべきは、歴史的に拭いきれない犯罪的事実がある。この日、日本共産党は、羽田から、はるか遠い場所で「赤旗まつり」を催し、ピクニック気分で「ベトナム戦争反対」を叫んでいた。ベトナムの民衆が日々殺戮され、南ベトナムでは政治犯が「トラの檻」に収監、拷問と殺戮、ナパーム弾やパイナップル爆弾でベトナム民衆が焼かれ、殺され、痛み苦しんでいる。その南ベトナム政府を支援するために日本の首相が「日本を代表する総理大臣」が、訪問する、という日。その日に、何をお祭りする、というのか。ベトナムのひとびとが、それを知ったらどう思うのか、日本共産党と民青にはそれがわからなかったのだろうか。「唯一の前衛党」はもっとも?後衛“にいたのである。私は、このとき、民青に行かなくて良かった、と後日、つくづく思った。自分も「犯罪行為」を行うところだったからである。おまけに、「トロの挑発に乗った暴力学生糾弾!」まで叫んだ。恐るべき「唯一の前衛党」の感覚。
1969年7月に私が拘留されているとき、渋谷署の若い公安刑事が、当時この警備(空港)にあたっていて、彼が取り調べ の雑談のとき、「あのときは、驚天動地、見たこともない(ヘルメットと角材による自衛武装のこと)のが突然現れて、びっくりして血の気が引いた」と本音を教えてくれた。あまりに危機意識をもったのだろう。11月佐藤訪米には、鉄製の小手、軍靴、ジュラルミン大盾、放水車、催涙ガス銃弾、防石ネットを完全装備して、国家予算をふんだんに使って現れたのである。
私たち反戦高協は、まったくの素手であった。そのため、けが人が多数出た。武器などないのである。砂川闘争も、それ以前の砂川も、多数の血が流された。少数部隊のデモは、ほとんど道路でのデモ行進などできず、歩道に上げられた。サンドイッチ規制~警官隊(機動隊)の方が多いとき、デモはできても、1人~2人で一列、ただ走るだけの、追い立てられる「デモ行進」だったのである。大学生の隊列のなかで、私は、それをもう嫌というほど経験した。デモの最中、突然のひじ打ち、足蹴り、殺すぞ!などの威嚇、オラオラ早く行け!この赤野郎!など怒声悪罵、殴打、ほとんどリンチと言っていいものだった。私はいつも、警官隊と隣り合わせになる側、つまり隊列の外側にいた。17歳でそれを体験し、18歳のこの日、左腕を負傷しながら、隊列の女子高校生仲間の頭の裂傷を想起しながら、「自衛し、武装する」ことの必要性をからだで感じた。規制を打ち破り、デモ行進を行い、リンチのような警備をさせないため。ヘルメットといっても合成樹脂製「安全帽」(警官隊は鉄カブト)であり、武器といっても、角材(樫・鉄の棒ではない)程度のものでも、隊列の最低限の身体的安全を守るため、必要だったのである。ブントが言う「組織された暴力」というほどのものではない、と思う。また、10.8ショック、といわれたものの、私にとってみれば、これは最低限身を守る「武装」だと思った。しかし、それでも公安・機動隊はビビり、驚いた。その後、問われたのは、明らかに大衆闘争と軍事、党派と大衆運動の連携・連帯だった。先駆性論は、少なくとも何十万という大衆の支持がなければ、花火のように華やかだが、永続しない。党派の潰しあいなどは論外である。党派間の鉄の結束と、それを広く大きく支える国民大衆のうねりこそが、国家権力の真の脅威なのだ。どちらか、ではなく、両方全部なのだ。キューバ、バチスタを打倒したのは、広い大衆の支持を受けたカストロの軍隊だった。それは、サンバの陽気なリズムとともに進軍したのだ。ホーチミンはホーおじさんとベトナム全土の子どもたちから慕われる優しいおじさんだったが、ベトナム民族独立を支持する何千万の国民が味方だった。国民全部を殺戮しないと勝てない、というのであれば、それは米軍の負けである。国家権力が、日本国民のうち1千万人を弾圧・逮捕・拘留しないと制圧できない、というのであれば、それは国家権力の負けである。暴力革命ではなく、解放の力(中核派/黒川透氏)なのである。
振り返って、山﨑博昭君の虐殺の1年前と記憶するが、日大生・和井田史郎君も、大腿負傷のまま、治療をされることなくパトカーで拉致され、その後死に至り、警察に殺されている。1969年11月の糟谷君もそうである。公安・機動隊の負傷を大々的にマスコミは報じたり、物的被害の大きさなど言われたりする。が、彼らを凌駕するほどの負傷者がいたことを忘れない。「10.8羽田闘争」は、自衛武装の画期的転換点となった。高校の担任教師K先生は、1967年10.8の翌日、自分を呼んで、「昨日、羽田に行ったのか?」と聞いたので、「はい、行きました」とはっきり答えた。政治闘争に参加することへ、K先生は、禁止する、とか、ダメだ、とは言わなかった。ただ、心配はしてくれた。そして先生は、翌年3月、大学受験合格を聞いて、「4つ(早大・青学・国学院・法大)とも受かったのか、良かったな」と言ってくれた。やさしい先生であった。ひるがえって、警察と連携し、生徒を管理対象として「指導」(規制)したのが、生徒指導部のO教師だった。鋭い眼をして、いつも眉にしわを寄せていた。英語の教師である。その後、1968年3月清水谷公園の自主卒業式デモの際、遠くではあったが、O教師が警察公安とともにいたことは忘れていない。
11月佐藤訪米阻止闘争では、それが本格化したが、弾圧者機動隊も、ジュラルミン大盾、小手脛当て(鉄製)、ガス銃で武装を強化してきたのである。そして、公安私服刑事が隠し持つナチス棒(折畳式鉄棒)。国家権力は収奪した血税を吸って、常に凶悪凶暴の相貌をもっている。
   
◆外国人学校法反対闘争・紀元節復活反対闘争から「自主卒業式」デモへ
 ●1967年都交通局抗議デモ~11月外国人学校法反対闘争
その後、「外国人学校法」が制定され、外国人差別(主に在日朝鮮のひとたち)と規制が強化された。私は、ひとりで全学連部隊に加わりデモを行った。とにかく、反戦高協としての独自のデモや集会は、その都度行われていなかったし、全国規模での組織展開/活動/集会デモは散発的で、生徒会というなかでの制約、全高連も結成途上、個々人の事情もあり、私の場合、そうせざるを得なかったからである。デモは、その日のテレビニュースで放映された。びっくりしたのは、私も映っていた。人数はそれほど多くなかった。100名ほどだろうか。日比谷公園で集会を行ったが、革マル派50人ほどがプラカードを持ち、集会の周りをデモしていたところ、突然、集会に襲い掛かってきたことがある。プラカードは角材となり、武器となった。三派部隊は何ももっていなかった。散り散りになったが、再結集して集会を続行、デモ行進を行った。10.8や11月佐藤訪米阻止の参加人数は、別として、当時、横須賀もそうだったが、三派でも折々行われる集会、デモの参加人数はだいたい100名くらいだったと記憶する。日付は忘れたが、おそらく1967年7月、東京都交通局合理化に反対する抗議集会とデモが行われたとき、抗議行動のはずみで、都庁の正面硝子を割ったことがあったが、翌日の新聞に、壊された正面玄関のガラスの写真に「これでも学生か!」という社会面見出しの記事が出たことがある。革共同分裂時、学生部隊はほとんどが革マル派全学連として承継されていたため、三派系学生部隊は非常に少数だったことが多い。10.8以前はそうだったのが現実である。都庁抗議の際、丸山淳太郎氏が公安刑事に体当たりしたのを目前で見た。激しい意志の固まりだ、と思った。
秋山勝行氏、丸山氏、北小路敏氏、清水氏、陶山氏、青木氏、吉羽氏、黒川氏、山村氏を始め、革共同の中心メンバーが、当時、私の参加するデモにたくさんいたと思われる。中核派、ブント、社青同解放派の先輩たち、その戦闘的意志と行動が、即、私の「教師」となった。弾圧に負けない、闘いの意志を曲げない、ひるまない、少数でも戦闘的コアとして行動する、そういう魂が好きだった。それが「中核(コア)」だと思った。後に、中核派を革マル派が揶揄して、”ケルンパー″(確固とした組織を築かず、大衆闘争に引きずられている、という意味と解する)と侮蔑しているが、よく革マル派以外の党派のひとたちが、その言葉を使った。それは言葉の意味と由来を理解していないな、と思った。それとは異質に、戦闘的大衆運動と革命運動、その中核になり、挺身して闘うものたちへ、その闘いに悪罵を投げ、反対する(「暴力学生」を大合唱)日共・民青が大嫌いだった。革マル派は70年代、悪罵以上のレッテル?ウジ(ウジ虫のこと)″と呼んでいたから、これではヒトラーの秘密警察がユダヤ人や有色人種、ロマ、ロシア人などを人間として認めない、侮蔑した、その腐った心情と同じではないか。自分の知っている革マル派は共に戦うが、別な考えと道を行くものたちだった。敵は共に国家権力だった。第四インターのひとたち(現「かけはし」のひとたち)の内ゲバ主義反対を貫いた姿勢は尊ぶべきものである。近年、1967年10.8羽田闘争の前日、中核派の政治局員たちが、全学連社青同解放派のひとたちをテロ・リンチしたことを知ったが、闘う鉄の意志をもつこと、それを実践することと、少なくとも三派で団結し、意志を討論によってルールに基づいて、共同戦線をもって、敵と統一して闘うことを連鎖することを断絶させてしまった私の「教師たち」(中核派指導部)の責任は大き過ぎる。荒さんが中大の国家権力・破防法適用を恫喝されていた4.28前の集会で、革マル派に対し、「共産主義の前に革命的とついて、マルクス主義の前に革命的とつく革マルの犯罪性・・」とアジ演説をしていたことがある。闘いの中核になるべき党派が、連帯する他党派を重大な闘争前日にテロ・リンチする、という行為はそれこそ反革命的反共産主義的ではないのか、と。だいたいマルクスがバクーニンにそんなことしないだろう。白軍と戦うためなら、N・マフノーだって、ボルシェビキと話合い、統一戦線で戦ったし、ボルシェビキも話し合いにきたマフノーを拉致してリンチなんかしなかった。その時点のボルシェビキには多数の古参・良心的なひとたちが、まだいた。レーニンの死後、他党派を殲滅したのは、スターリンそのひとであり、ボルシェビキの多くの有能果敢なひとたち、前衛芸術家、文化人・知識人を殺したのもスターリンだった。その数、2000万人といわれる。山村さん(白井氏)が革共同中核派の民主化を訴えて、結果、財産の強奪・テロによって、その命を絶たれたのは、こうした10.8前夜の中核派指導部の本質的誤謬・エゴイズムに萌芽がある。近年、水谷さん、岸さんが『革共同政治局の敗北』を著したが、その思いは実に痛切に満ちたものだ。だが、1967年10月7日にその種はまかれていたのだ。常に大衆のために、大衆とともに、その前衛となって闘う、その点で一致した者たちと熱く連帯し、別個に進んで共に撃つ、これが正しい運動のありようだと、痛切に思うものである。党派はそのために死んでもいいのである。党派は目的そのものではなく、手段である。目的は国家権力暴虐体制の打倒と国民大衆の幸福を永続的に実現し、その絆と暮しを豊かに保障していくものである。そのために組織=党派が必要(結束)なのだ。
    
●1968年2月、紀元節復活反対闘争
     ~日本国憲法と建国記念日(紀元節の日)の矛盾~

6
7

《写真:上・反戦高協が開催した講演会講師―羽仁五郎氏、下・皇紀二千六百年記念切手、ネットより転載》
「建国記念日」創設に対し、2.11旧紀元節(皇紀)の日が法律制定されることに抗議して、反戦高協独自の集会、デモが行なわれた。
記憶では、羽仁五郎氏講演会と、『西部戦線異状なし』の上映会が別途に行われた。反戦高協では、たびたび、集会の都度『圧殺の森』『砂川闘争の記録』などが企画上映された。
羽仁五郎氏の講演会のことばで、記憶に残っているのは、”オブスキュランティズムではいけない″(曖昧模糊とした概念のこと)ということばで、科学的見識・分析によって対象を補足することが正しい、という風に私は理解した。「建国記念日」=2月11日、というのは、大東亜戦争以前の「紀元節」の日そのものであった。日本国憲法と矛盾する、と思った。
日本国憲法発布の日、11月3日ならわかる。大日本帝国憲法であるなら、2月11日神武天皇が日本を治めた日である。
デモ行進は、清水谷公園からだった。デモ行進のシュプレヒコールを私が行なった。警備は、高校生部隊のみであったのか、方面機動隊で、殴打や悪罵、蹴りを入れる、押し込める、という強圧的な警備ではなかった。高協の仲間が、デモの前日、母親に青い反戦高協の旗を作ってもらった、と持ってきたことがある。母親が作ってくれた、ということに、私はなにか暖かいものを感じた。のちに、大学時代、渋谷のカンパ活動で、彼に会ったとき、「共産主義じゃダメなんだよ」と、彼がつぶやいたことがある。困ったような、静かなその表情をいまでも覚えている。反戦高協の仲間たちが、そのまま、中核派に行く、ということは1967年当時なく、個的な考え・思想・見解やおかれた状況その他で、自ら選んだ道をそれぞれ飛翔していった、というのが本当のところではないかと思う。そんなゴリゴリの高校生などあまりいなかった。みな柔軟で自分自身の思いや考えで参加し、結集していた。自主自立、自発だった。それが素晴らしかった。指示命令、規律や強制で参加などしていない。後年の、坂本龍一(音楽家)や、塩崎泰久(元厚労大臣)、U君(哲学者・里山保護活動)、D君(映画・映像評論家)、西城秀樹(歌手・故人)、蟹江敬三(俳優・故人)など多彩でそれぞれの分野で活躍しているひとが多い。革マル系「反戦高連」やブント系「高社同」、解放派「反帝高評」、ML派「高校解放戦線」、アナキスト系高校生、その萌芽のころは、そういう高校生が多数だったと思う。むしろ、ゴリゴリの考えに固まっていたのは、民青の高校生、右翼の高校生(国士館に代表される)だったのではないだろうか。日共中央の命令・指示が至上だったから。自身の頭と心で感じ、考える、ということが今でもとても重要だと思う。右翼の高校生も徹底的上位下達で、先輩の命令通りに「尖兵」として動いていたのではないだろうか。それは不幸なことである。
   
●初の白ヘル「反戦高協」
記憶が定かでないが、いつかのデモで、私と数人だけが、「反戦高協」とマジックで書いた白ヘルをかぶっていたことがある。警官隊のうち、ひとりが、私めがけて突進してきて、腕をつかまれ、デモから引き離されそうになった。仲間たちが引き留めてくれた。ヘルは、羽田闘争で無茶苦茶に殴られ、警官隊の投石で多数負傷させられた経験から必要だった。
また、「反戦高協」という強いアピールの意味もあったが、警官隊は目の敵にしていた。「高校生のくせに!」という思いがあったのだろう。だが、高校生は義務教育ではない。高校の主権者であって、自主自立自発、という教育の主体者である。後年1971年早稲田大学第二文学部に入学したわたしのクラス友人のM君(首都大学東京教授)は、こうした主権者教育を提唱している。そのような考えは私も当時から持っていた。

●自主卒業式闘争(清水谷公園)~反戦高協の組織的登場~
―(高校生も)自らのことは自らが決める、与えられたものじゃないー
3月末、反戦高協として第二弾となる本格的な組織的集会デモを行い、都庁(教育庁)までデモを行った。100名ほどの反戦高協仲間が集結した。この集会には、多数の各高校生徒指導部の教師たち、公安刑事が遠巻きに集結していた。彼らは連携していた。混然一体となって固まっていた。写真を取り、情報収集していたと思う。1969年春に多くの高校生が決起したいわゆる「卒業式闘争」(卒闘)の第一波、はしりだった。この仲間たちが、同年、大学入学に伴い、全共闘運動・70年安保闘争に核となって、突入していっただろう、と思う。
デモ隊列の警備は、また方面機動隊だった。大盾の警視庁機動隊ではない。都庁で座り込み抗議を行い、中教審路線と高校の生徒規制・しめつけ、政治活動禁止など、高校生の自立自由を訴え、その後、東京駅構内をデモ行進した。多数の新聞社が取材に来ており、翌日の新聞には、「これが俺たちの卒業式だ」の三段抜き(と記憶する)タイトルで、東京駅構内デモの写真が掲載されていた。(朝日新聞など各紙)私は、母校の卒業式には参加しなかった。新聞の見出し通り、「これが自分自身の卒業式だ」と確信に近いものがあった。母校での卒業式(セレモニー・儀式)に意味を見出せなかった。青山学院に入学後、それから3ヶ月後、神田カルチェラタン闘争(1968年6月)で逮捕勾留されたとき、東京地検の検事が、「お前、反戦高協にいたな・・」と冒頭の調べで話し、私は即座に「関係ないでしょ」と返した。それから何も検事は言わなかった。高校生徒指導部と警察は直接、情報連携していたことがよくわかった事例である。現在の高校生規制の酷い実態をニュースで見聞きすると、この時代より、格段に悪辣で人権無視・自由はく奪が加速している、と思える。下着の色や、髪形・色まで規制するところもある。持ち物検査は日常、など、特に私立で酷いものがある。高校生も人間であり、「教育」の名の下に「管理飼育」されている刑務所のような現状、人間を取り戻し、それらを破壊・打倒するべきだ、と思う。闘いは終わっていない。
    
●3月王子闘争へ、同期K君と参加


8

 3月の「卒闘」を前後して、王子野戦病院阻止闘争へ、桜町高校の同学年K君とともに参加した。3月8日、28日だったと思う。たしか、デモ行進が禁止となったときである。デモは、高協の仲間たちも参加していたと思うが、組織として明確に参加はしていない。中核派のチューターのひとが、デモのとき、機動隊から顔面を鉄製小手で殴られ、転倒したのを見た。それを見た沿道の市民たちが、「なんてひどい!」と怒っていた。市民は、全学連、反戦青年委員会の味方だった。
抗議行動は夜間まで続き、野戦病院の周辺は騒然となっていた。K君と投石など、機動隊への対抗行動を取った。逃げた機動隊の残した投石防止の緑色のネット(これは持つと非常に重たい)を奪取して、K君と担ぎ、デモ隊の後方へ持ってきたとき、みんなから大歓声が沸いたことを覚えている。このネットは川に捨てた。残念なことに、K君とは大学入学より、70代の現在まで一度も会えなかった。しかし、彼もどこかの全共闘、あるいはベ平連、反戦闘争の渦のなかにいたであろう、と信じている。このころ、由比忠之進さんが抗議の焼身自殺をしていた。南ベトナムで、僧侶が自らの身を焼き、抗議していた。
《写真:当時のキャンプ王子野戦病院正門―ネットより転載引用。現在、北区立中央公園》

●ジャズ喫茶、本、ギター~渋谷の喫茶店での読書三昧~
前述の「青春の墓標」「音高く流れぬ」は、生き方の方向に大きく影響を受けた本だが、日常においては、私もふつうの高校生のように、ギターを覚え、自学で、いくつかのフォークソングやクラシックを弾いたりする時間はあった。
渋谷の百軒店(ひゃっけんだな-昔の遊郭、道玄坂の途中を右に入った一帯を言う)は、今でもラブホテルや飲み屋、スナック、風俗店、ストリップ劇場で有名な「道頓堀劇場」がある。ここには、当時、ジャズ喫茶が何軒かあり、よく通った。「スウィング」「SAV(サブ)」「ありんこ」の3店、ロックでは「ブラックホーク」があった。また、渋谷の街には、いわゆる純喫茶というクラシックを流す喫茶店があり、「十戒」「ウィーン」「ランブル」「ライオン」を覚えている。なんと「ライオン」は今でも頑張って営業を続けているが、3階まであったフロアは、今は1階だけで営業している。神田の「丘」「さぼうる」、新宿の「DIG」(ディッグ)、「DUG」(ダッグ)も時々行った。歌舞伎町にあったクラシック喫茶店は数年前に閉店したそうだ。ところが、高校クラス仲間とよく通ったのが、渋谷の「谷間」という店名の甘味屋だった。酒は飲んでいなかったかわりに、お汁粉を食べていたのである。みんな腹が減っていた。                                                                                                                       本は毎日1冊読破していた。山がすきだったので、新田次郎著作は高校時代から続けてほとんど、文学(日本、海外)、そして「共産党宣言」「賃労働と資本」「資本論」「経済学批判」「ドイツイデオロギー」(マルクス)「国家と革命」(レーニン)、「社会観の探求」「現代における平和と革命」(黒田寛一)。「唯物論と主体性」(梅本克己)、「第三階級とは何か」(シェイエス)、「資本論の経済学」(宇野弘藏)、「ローザ・ルクセンブルクの手紙」(ルイーゼ・カウツキー)など、なんでも読んだ。
読むことが楽しく、ジャズを聴きながら、コーヒー一杯で、喫茶店に4~6時間たむろしていた。
喫茶店は、それでも何も言わなかった。好きな曲は、J.コルトレーンの「至上の愛」(ラブ・シュープリーム)、マイルス・デイビス。ロックでは、ジャニス・ジョプリン「ジャニスの祈り」、レッド・ツエッペリン「What A Lot of Love」(「胸いっぱいの愛を」邦題)のイントロ、J.エアプレインなどだが、レッド・ツエッペリンは、デモ行進の前に聞くと、空気が入ったものだ。小田実の「何でもみてやろう」という本があったが、そのフレーズが気に入っていた。
とにかく、貪欲に何でもやってみる、見てみる、という姿勢が、好きだった。

9

《写真:今も営業を続けている「喫茶店ライオン」ネットより転載引用》
 
(つづく)

【お知らせ その1】
9784792795856


『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会(担当・前田和男)
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

img738_1


本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は3月19日(金)に更新予定です。

↑このページのトップヘ