野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2021年04月

今回のブログは、元青山学院大学全共闘の黒瀬丈人氏からの寄稿第4回目である。
生い立ちから高校時代、大学時代、そして現在に至るまで、それぞれの時代の流れの中でどう社会と向き合って生きてきたのか、ということが書かれている。
全体で9万5千字に及ぶ労作なので、何回かに分けて掲載していきたい。
第4回目は本章の青山学院大学時代(1969年の闘い)である。

【青学全共闘への軌跡】
ひとには、魂の時間、というものがある。50年、100年を経ても、それは鮮烈なマグマとして魂に深く痛いほどに閃光として刻まれている

黒瀬丈人
元青山学院大学全学共闘会議・法学部闘争委員長 全共闘行動隊

<目次>
1 前書き  「青春の墓標」そして-香港の若き魂たちよ!―自由・自発・自主の尊厳
2 序章   第一節~第三節(1949年―1967年)
「団塊の世代」時代の情景からベトナム反戦闘争に至る過程とは? 
1960年安保闘争の記憶/樺さんの死~反戦高協/10.8羽田闘争
3 本章   第一節~第三節(1968年―1970年)
烽火の記憶~青山学院全学闘から全共闘と70年安保・ベトナム反戦闘争
4 終章   1971年以降 青学全共闘/中核派からアナキズムへ 早稲田―1972年虐殺糾弾・
アンダーグラウンド演劇
5 あとがき  鎮魂、そして闘いは終わっていない

3 本章 □1968年 青山学院全学共闘会議(青学全共闘・前身~全学闘)の闘い
第二節 《1969年》

●青学全共闘―流山児祥副議長を先頭に、唐十郎「腰巻お仙」新宿ゲリラ公演防衛隊
1969年1月3日
年を越した1969年1月3日、新宿西口公園で、当時、花園神社を追い出された状況劇場の唐十郎、李礼仙、麿赤児たちは、『腰巻お仙』上演を強行し、公園法違反事案として、都職員と機動隊200名が彼らを包囲、弾圧介入を行った。詰めかけた観客も多数いた。青学全学闘の流山児祥副議長と劇研を中心とする全学闘メンバーは、新宿西口に駆けつけ、彼らの演劇活動を防衛したのである。流山児祥は、もと状況劇場の団員として所属していたことがあり、彼に状況劇場が危ない、という連絡が入ったそうである。結果、唐十郎たち3人が公演後、公園法違反で逮捕されたのだが、おそらく、全共闘運動でこれほど直接的に演劇現場に関わった大学全共闘は青学だけではないかと思う。私は残念ながら、「助っ人」部隊には入っていなかった。バリケード封鎖破壊、を心配していた。下記に、その当時の状況を記した『大久保風土記』ブログがあるので、引用させていただいた。扇田昭彦氏の批評と、横尾忠則氏のインタビューで語られていることそのものが、全共闘運動の底流と、つまり水脈、水源が同じなのではないか、と私は感じた。
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《以下、引用》①″唐十郎と状況劇場は、この伝説的な戸山ハイツ公演の後、新宿の花園神社にテントを張り、いわゆ「紅テントで」での公演が始まる。いわば、蟹川をさかのぼって、歌舞伎町にたどり着いたのである。実際、花園神社は、蟹川からほど近い場所にあって、内藤新宿の総鎮守であり、歌舞伎町もその昔は、蟹川の源流を中心に抱く巨大な沼地であった。

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《状況劇場・『腰巻お仙』『由比正雪』公演ポスター/ネットより転載》
状況劇場と水との親和性は、これだけにとどまらない。
「腰巻お仙」の3年後の1969年に、状況劇場は「新宿中央公園事件」を起こしている。
唐十郎と状況劇場は、そのアナーキーな活動のため、拠点である新宿で広がっていた、官民一体の「浄化運動」の対象となり、花園神社を追放されてしまう。その逆襲として、唐十郎は、当時完成したばかりの新宿中央公園に赤テントを張り、ゲリラ公演を決行するのである。機動隊200人が出動し、テントを包囲されるという緊迫した騒乱状態の中で芝居は続けられたが、終演後、唐たちは都市公園法違反で逮捕されたのである。
「赤テントにつめかける観客の側にも反権力的なエネルギーへの熱い共感があり、舞台と客席はいわば親密に共振する関係にあった。」(「日本の現代演劇」岩波新書 1995)と、扇田昭彦は書いている。
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②横尾忠則は、「失われた新宿」というインタビューの中でこんなことを言っている。
「客が車座になって酒を飲んでいると、芝居をやっている役者はこっちを向いて怒っているわけです。『お前ら何しにきているんだ!』と。でも、全員無視して芝居を観ている人は一人もいない。本当に演劇が好きというより、そういう場が好きだったんだね。そういう場から演劇ではない演劇が、ゴーレムが立ち上がってくるように、ガーッと何かが立ち上がってくる。そういう演劇性というのか、現実が演劇に、演劇が現実に変わっていくダイナミックな空間が好きだった。『腰巻お仙』は、途中で警察が来て大騒動になったから、あれを観た人は正確には一人もいませんね。テント芝居にも行ったけれど、知り合いがいたらずっと話していて、舞台なんか観ていない。」
 (「あゝ新宿 スペクタクルとしての都市」早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 2016)
横尾の指摘は、唐十郎の狙いを見事に捉えている。
ここでの芝居は、純粋な観劇、つまりは、台詞ひとつひとつや、役者の一挙手一投足を見守ることではなく、それらを含めた、この特別な空間に身を置くこと、巻き込まれていくこと、ひいては自ら参加すること、が目的であるということだ。そして、その磁場を作り上げたのが、他ならぬ、戸山ハイツであり、箱根山を中心とした異空間であった。″
《大久保風土記ブログより引用―註:ゴシック部分は本稿筆者による》
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奔流するエネルギー、運動性、異空間と異時間、ダイナミズム~それは、全共闘運動そのものが持つ本質性である。
ひとりひとりの学生、人間がその千差万別な個的状況から、それらに飛び込んでいったのである。私はそう思う。
「この特別な空間に身を置くこと、巻き込まれていくこと、ひいては自ら参加すること、が目的であるということだ」「・・現実が演劇に、演劇が現実に変わっていくというダイナミックな空間」、そして、そこに共感する仲間たちがいる、ということ、激しく敵対する勢力がいるということ、生か死かの瀬戸際で自ら道を選び、選んだら迷いながらも突き進む、それがわたしの実存だった。
アングラ演劇~状況劇場(唐十郎氏)、天井桟敷(寺山修司氏)、黒テント(佐藤信氏)、早稲田小劇場(鈴木忠志氏)を頂点とする演劇エネルギー、映画(新宿ATG、若松孝二、ほか)、テレビドラマ、写真、イラスト、舞踏(土方巽など)、劇画・漫画、文学・詩、あらゆるジャンルの音楽、生活風俗~今ここで論ずるには膨大すぎる奔流のエネルギーが、全共闘運動と全く無縁の世界の出来事ではないということは、確かなのだと思う。当然、それらを指弾し、破壊し、抑圧しようとする国家権力、体制擁護右翼、突っ込めば日共、既成の左翼、評論家、知識人層、なども存在していた。私は、ロシア革命1917年~20年のわずか3年間に怒涛のように開花したロシアアバンギャルド芸術を想起した。彼らは、そのほとんどが20代であった。

●1969年1月バリケード封鎖解除―「六項目要求」桜井学長代行が容認―安田決戦へ
1月18日東大闘争/安田講堂を中心とする攻防戦の前後、全学集会において、学長を退いた大木に代わった桜井学長代行を前面に、全学闘の「六項目要求」が受け入れられた。(後に、大木はこれを認めず、反故にするー日大と同様)全学闘は8号館バリケード封鎖を解いた。その後、学生会館を拠点に活動を続けた。全学闘として組織的に行動したのではないが、東大安田講堂を中心とする攻防戦に、私は、お茶の水へ行き、日大芸術学部闘争委員会が構築した、これもいわゆる「神田解放区」での闘いに参加した。東大へ続く道路は、機動隊が逆に石積みのバリケードを作り、全共闘部隊と党派の混成部隊で、東大へ向かって進み、あと300m、夢中で投石を行った。未明の空が明けてゆく神田で私は、安田決戦の仲間たちを思った。その後の、機動隊の暴虐テロ、リンチは言語を絶する。佐藤の尖兵として暴虐の限りを尽くしたのである。佐々敦行氏(当時の警備責任者)が後年、機動隊の負傷の多さを佐藤に訴えて、予算を大幅増額してもらった、東大の無給医局員に同情した、学生が安田講堂から落ちないか、死なないかと心配した、と述べている。しかし、催涙ガス入り放水、ガス銃水平撃ち、大盾で滅多打ち、殴打足蹴り、テロ・リンチ行為は永遠に消えるものではない。これはむき出しの殺人行為であることを忘れてはならない。日共民青と加藤学長代行も許してはならないと。

●右翼学生のテロ 1969年封鎖解除前後―右翼学生連合のバリ破壊襲撃未遂
1月「6項目要求」が全学集会(団交)で桜井学長代行により、承認された。のちに右翼「民主化連合」は、「七項目要求」を出し、全学闘の要求に対抗してきた。この全学集会(体育館講堂)の途中だったと記憶するが、右翼学生連合約100名が、8号館バリケードに向かって、全員白い軍手をはめ、集団攻撃をかけてきた。われわれもそれを阻止すべく約100名で追いかけ、双方にらみ合いになった。その時、青学教授会の先生たちが、右翼学生の方に向かってスクラムを組み、衝突を回避しようとした。右翼学生連合は、8号館前広場から銀杏並木の正門方向へじりじりと詰め寄ってくる。私は、屈強な右翼と殴り合いになることを覚悟し、全員が緊張状態にあった。新聞会のKが、大型マイクで、「これ以上近寄れば、ゲバルトを行使する!!」と大声で威嚇。結局、教授会の先生たちは一歩もひかず、白兵戦にはならなかった。8号館に向かっていた右翼学生連合一部部隊は、8号館守備隊が浴びせる放水、投石でひるんだ。8号館バリケードまで、20mまでしか近寄れなかった。私は、後日、いずれこの右翼連合と暴力的に激突せざるを得ないな、と覚悟を決めた。
封鎖解除後、学生会館を拠点に活動を続け、ある日、文学部闘争委員長のY君と深夜、食料の買い出しに出た。青山通りを左に入ったところに屋台のおでん屋があり、Y君ととにかく腹が減っていたので、注文していた。ところが、その場に学生服を着た右翼8人が寄ってきて、私とY君を襲撃してきたのである。私は、右顔面を強打され、ほんとにあの時、火花が出た。顔が倍に膨れ上がった。うつぶせに防御しているところを、足蹴りを何回も受けた。Y君も滅茶苦茶に殴打されていた。その時、おでん屋の親父が呼んできたのだろう、警官が来て、割って入り、右翼学生は姿をくらましてしまった。私とY君は、警官に被害届を出すなんてことはもともと考えにない。腫れあがっている顔を抑えながら、学生会館の仲間たちに告げ、50人ほどがヘルと角材でその周辺をドタドタと深夜、右翼学生たちを探索した。しかし、どこかに隠れたらしく、発見できなかった。救援対策部の女子に手当してもらったとき、鏡を見て、自分でびっくりした。顔が自分ではなかった。あの手刀と蹴りはおそらく、拳法部か空手部だと推測できた。学生会の一般学生ではないし、深夜だいたい青学周辺をうろついてはいない。その後、私は、防御のため、小刀をポケットに仕込むことにした。
その以前、社研の部室の謄写版一式とビラ、椅子、机が破壊されていたことがある。破壊された直後だったので、発見した私は、すぐ階下まで追いかけると、右翼学生(おそらく3~4年生)-短髪の空手をやっているようながっしりした背の低い男―が逃げるところだった。「おい!待て!」と叫ぶと、こちらに向かってきそうだったが、こちらも身構えるとまた踵を返して逃げ去った。こういう小さな妨害行為はよく見られた。
体育館で右翼学生(「民主化連合」)が集会を開いたとき、早稲田の齋藤(日学同委員長)が来ていて、文学部闘争委員長のY君を見て、追いかけ始めたので、青山真理会メンバーの角刈りの右翼学生に、「あいつはなんだ?」と聞いたが、「わからない」との答えだった。いずれにしろ、日学同外人部隊が学内集会に入り込んでいることは明白だった。あとで、Y君に聞くと、何か因縁があったとのことである。
クラス学友のK君(ブント)も、前年、右翼学生に頭を殴られ、頭にグルグル巻きの包帯をすることになった事件があった。彼も、その後、鉄パイプを三分の一に切って、紐を括りつけた自家製鉄パイプを所持していた。ジャンパーのなかに肩からつるせるようにしたもので、それを真っ赤に塗っていた。その後、その右翼学生が彼女らしき女子と「シャンソン・ド・パリ」(渋谷・喫茶店。通称シャンパリ)でコーヒーデートしているところを見つけ、声をかけたところ、その学生はうつむいて何もできなかったそうである。K君も敢えて復讐の反撃はしなかったそうである。優しい男だった。
当時、喫茶店「シャンソン・ド・パリ」は、われわれ全学闘(のち全共闘)メンバーもたむろしていたが、一般学生も、民青も、右翼学生も来ていた。不思議な喫茶店だった。壁には落書きがいっぱい書かれていて、それでも店主は文句も何も言わなかった。時読、詩の朗読会もあった。現在は、カラオケになっている。こういう喫茶店がいまはほとんどなくなってしまった。シャンソンライブ喫茶というのは、銀座、新宿や自由が丘にはわずかに残る。文化遺産として残したいものである。

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(写真:今はなき通称「シャンパリ」喫茶店マッチー筆者撮影)
     
●1969年2月 右翼妨害活動活発化―緊張関係、中核派同盟員へ、フラクション参加(慶大)
6項目要求が通り、8号館バリケード封鎖を解除したのち、入学試験・卒業式などの時期に入った。その頃から、学内右翼(全国学協・生長の家学連・日学同・体育会系右翼学生、勝共連合を主体とする)の妨害行為、彼ら自身が突き付けた学内民主化などの「七項目要求」(大学側への要求)が、顕在化してきた。彼らも学内で集会を持つ。具体的な組織として記憶しているのは、①青山を良くする会②青山真理会③学生懇談会であり、それらがやがて、「青学民主化連合」という組織糾合となる。その実態は、上記右翼組織のメンバーである。
これら妨害活動に対し、2月~3月の一般学生が不在のなかでも、一触即発の場面も現出した。大学側は、大木が前面から隠れ、桜井学長代行から、村上学長体制へと移るなかで、学部長会と村上学長も、全共闘の6項目要求対応と、右翼の七項目要求の板挟みになる。大木は、背後から、右翼妨害活動をバックアップし、この1969年秋には、自治会設立準備委員会の予算凍結、という措置を行う。その間、機動隊導入の常態化、ロックアウト体制、右翼のバリケード襲撃など、強権支配をあきらめず、むしろ、頑固に推進しようとした。
青学の学協・生学連メンバーは中心人物が2名で、内1名は女子だった。長崎大学/椛島のような組織力はほとんどなく、ビラマキ程度の活動で、独自集会も開催していなかったが、民主化連合の一翼であった。それに早大/斉藤を中心とする日学同と、右翼体育会系学生が加わり、こちらのほうが、暴力的で、「過激」だった。ちなみに、青学では民青はどこにいるのか、というほど活動をしていない。(キャップはY)
勝共連合は、笹川良一と兒玉誉士夫、文鮮明・統一協会が、中心となって1969年に発足した反共組織だが、宣伝カーが来ることもなく、学内集会・ビラまきなどもなかった。おそらく背後で進出機会を狙い、暗躍していた。
1969年バリ正門への火炎瓶攻撃などはおそらくここの実行部隊か、大木と関連する○○建設系暴力団の仕業かと推察する。上記推測の根拠は、1970年以降、大木はこれら統一協会系(原理運動)の学生を大量に入学させ、青学を文鮮明大学(反共の砦)にしようと画策してきた。このような腐敗を世の人びとは知らず、憧れの青山通りと渋谷に近いお嬢様お坊ちゃん大学、と思っている。
近年他界した佐々淳行氏(当時警視庁警備部幹部)回想で、日大使途不明金(20億円―今で換算すると200億円位)による日大闘争過程で、教授の部屋の袖机から1億円が捜索で発見され、すわ不明金の一部か?と思ったところ、当該教授申告により、入学等に関わる私的な「裏金」だったことが判明した、とある。ひとりの日大教授でさえ、1億円の裏金を隠していたのだから、推測だが、青山学院院長であれば、何十倍もの縁故と依頼による裏金が大木のもとに入っていたことは想像に難くない。院長の「ひと声」は絶対だからである。独裁とはそういうものに他ならない。(註:○○建設―大学・短大・高等部などの設備改装・メンテナンス・新規建設など、多数受注していた会社。多額のリベートが大木に入っていたと推測できる。また縁故入学は当たり前であり、推薦という名で多くの体育会系右翼学生が、入学=子飼い、していたと思われる。その謝礼金なども併せて大木のもとに集約されていただろうー但し、証拠は把握できなかったので推測とする)
私は、2月になって、法大チューターの推薦で、池袋「前進社」に出向き、「革命を成し遂げる」決意書に署名し、マルクス主義学生同盟(中核派)同盟員となった。最初は、慶応大学でのフラクションに参加、青学の右翼妨害活動とそれに対して闘うこと、6項目要求貫徹すること、などを報告。さらに、千駄ヶ谷で行われた同盟集会の防衛隊として、動員された。「前進社」防衛の泊まり込みも行った。岡山大学や広島大学、そのほかいろいろな先輩たちと知己を得た。当時は、70年代における対革マル派戦争は、まだなかった。いわゆる党派間抗争はあったが、殺戮戦ではなかった。主に公安に対して、監視を行うのが主任務だった。1968年春~夏、青学ブントで闘ったが、ブント同盟員としてではなく、今まで反戦高協で組織戦としてよりも、個人として三派全学連の大学生、労働者、農民、市民とともに参加していたから、三派のブントでも違和感はなかった。ただ、革共同全国委員会のひとたちの熱い人間性を体感していたので、闘争するならば、中核派が自身に最適だと直観したからである。
この頃、法大チューターから、日学同などの右翼系学生と中核派学生のテレビ討論会企画があり、出ないか?という話があったが、そんな余裕はなかったので、断ったことがある。
30年前だろうか、テレビで秦野章(元警視総監?昭和元禄猿芝居″と世相を揶揄で有名)、松崎明(革マル派副議長―元JR東日本労組会長)、小沢一郎(現・立憲民主党)が鼎談する番組を見たことがある。メンバーがメンバーである、何だ?これは?と思って記憶に残っている。国労動労の背骨を叩き負った中曽根へのオマージュだろうか、おぞましい感覚を持った。2002年、その後、小泉と竹中が、全逓労働組合の背骨を叩き負った。大量の派遣労働者を作り、日本を未曾有の階級差別社会に変質させた。この頃から、パラサイト、親子殺し、少子化、DVなど社会と人間を崩壊させる事態が本格化したのである。大学は骨抜きにされ、細分化され、かつての「全学連」はもう存在できなくなった。戦後政治の総決算、とは、内実は闘う労働組合、闘う学生組織、闘う農民・市民の依拠する社会的成り立ちそのものを破壊させていったのである。大学立法など不要な大学ばかりになった。かつて20万人と豪語した民青組織も、東京・港地区民青動員でも20名そこそこである、と筆坂氏(元日本共産党NO.4)も述べている。
しかし、生学連・学協の発展的組織=日本会議、統一協会が、日本の政治中枢にまで食い込み、社会を腐敗させ、国民を貧困に陥れている。それが現下の日本政治である。だから、この時の闘いが、より点検・総括されるべきだと思う。それが責務である。コロナ対策の無策を見ても国民殺しの政府テロと言わざるを得ない。消費税は下げない。財務省には250兆円の財政投融資資金がうなっている、とされる。
青学全学闘は、1969年4月から青山学院全学共闘会議へ組織を改編、各学部へのオルグ活動を公然化した。2代目議長は青学ブントのK君となった。それまで全学闘は、個別闘争委員の集合体で、文連各部・同好会、一部体育会、新聞会、一部学生会、また主体的な個人としての参加に依拠していた。その中核となっていたのが、青学ブントであった。その構造は、変わらなかったと思う。自身の思いでは、各学部に組織重点を全面的に移すことはできなかった、結果として、であるが、むしろ、この頃から本格的に党派に集約されていったのではないか。ブント以外には、青学では、ML派、社青同解放派、革マル派、フロント、中核派、が公然化してきていた。もちろん、闘争の中心メンバーとして、であり、それに対して、右翼も結束を強めていた。
駒沢大学で、中核派の同志から支援要請があったのもこの頃。駒沢大学の社青同解放派と問題が起き、支援要請があった。青学では、私、S君(後のリーダー)、K君、T君、W君の5人で駒沢へ深夜向かった。同志が立てこもる校舎に入ると、ブント赤ヘル2名(内1名はブルブル震えていた)と5名ほどがいた。屋上に上がって見張りをしていると、大きな懐中電灯を持った2名の右翼学生が様子を見に来た。私は威嚇のため、ビンを投げつけた。彼らはその場を去った。右翼学生が相手ではなかったのだが。同志から聞いたのだが、社青同解放派の方では、「青学から20名応援部隊が入った!」との情報。こちら5名なのに、なぜ20名なのかはわからないが、情報というのは不確かなものである。現認、が大切なのだ。明け方になって、撤収した。私自身、社青同解放派にはシンパシーを持っていたので、あまりゲバルト戦はしたくなかったが、来るならやろう、と思っていた。民青、革マル派とのゲバルト戦は慣れていたから。
また、反戦高協の後輩(都立大付属高校)が青学に来て、ヘルメットを借りに来たことがある。高校卒業式闘争(いわゆる「卒闘」)遂行のためである。「毎日ニュース」映画で、雪の中、都立大学の学内をデモ行進する白ヘル高校生部隊を見て、おォ!と心の中で叫んだ。われわれのときは、自主卒業式と称して、全都全国から清水谷公園集会とデモを行ったが、1年後には各地高校において卒闘が勃発していた。1969年秋には、全国高校全共闘が集結するほどになっていた。

●明治学院全共闘・連帯の闘争1968年~1969年―武藤院長暴力支配(大木の盟友)との闘いー
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明治学院大学は、五反田駅前の坂道を登っていく白金・高輪付近にあり、所轄は高輪警察署だった。青学に近い大学は、むしろ国学院大学(革マル派が主流、学内右翼も強力)、実践女子大学(青山高等部に近い)などだったが、同じミッション系として、上智ほど距離的に遠くなく、長老派基督教で、戦前は青学商業学部を吸収したという歴史もある。ヘボン神父の「ヘボン塾」が発祥。シンパシーが青学全共闘にはあった。
武藤院長という、大木院長の子分といっても言い過ぎではない、権力者の大学支配が蔓延していた。構造は、やはり日大古田体制・青学大木体制と同じである。応援団を中心に体育会系右翼学生が、一切の政治活動や表現を抑圧、学内規則で禁止していた。明治学院大学全共闘は、1968年10月大学校舎占拠行動を行い、1969年2月に解除する。その後、同年6月約300名の全共闘部隊が、ヘボン館(同大で最も中枢となる棟)など全学バリケードを構築する。勇気ある教授に天沢退二郎氏がいた。彼のアジ演説を何度も体験した。素晴らしい詩人でもある。2月の段階で、青学の学生会館を拠点に活動を継続していた青学全共闘に、明治学院の全共闘部隊の何人もが合流していた。青学右翼と2月に一触即発のゲバルト戦になりそうなとき、明学部隊も少数だったが、いっしょに角材や丸太を持って、準備行動を取ってくれた。同じように上智や立教の部隊ともやりたかったが、毎日の激務と緊張のなか、そこまでの余裕は実際上なかったのが、今でも残念な思いがする。中核派フラクションでも、上智の同志がいたが、運動の高まりをどうしたら獲得できるか、真剣に悩んでいた。同様の悩みは、二松学舎大学の同志も持っていた。
1968年、明学全共闘がバリケード封鎖を行ったとき、青学全共闘の流山児祥副議長をリーダーに、支援行動を行った。中枢棟ヘボン館の強力なバリ封だった。中に入ってみると、一階部分が迷路になっており、ヘボン館最上階に行くまで、機動隊・公安も相当苦労するだろう、と実感した。青学の8号館バリケード封鎖より、強固だった。日大の学友が指導したわけではなかったが、素晴らしいものだと素直に思った。
ある日、応援団の学ラン姿と体育会系右翼学生が、8人ほどバリケード前広場に現れた。明学大の学友とともに、青学部隊も角材を林立させて、座り込み、立ち上がっていた流山児祥副議長がひとり、勇敢にも8人相手に応援団の恫喝に屈せず、激しく論争し、脅しに屈せず、結局彼らは諦めて三々五々去って行ったことがある。そのあと、流山児祥副議長に聞いたら、「(相手をするのが)なんで俺ひとりだよ」とぼやいていたのには、素直に申し訳ない、と思った。角材旗竿で彼らを躊躇することなく、殴りつけ、放逐すべきだったな、と今でも悔やんでいる。しかし、応援団・体育会系右翼も、後ろに角材と旗竿の80名ほどの部隊がいたら、ちょっとは手が出なかったろうとは思う。
明学大に泊まり込みもした。ある深夜、大学周辺を6~7人でヘル・覆面と角材・鉄パイプを持って、パトロールしていたところ、不審な乗用車が1台、道路脇に止まっていたので、バラバラっと駆け寄って、車を取り囲み、車内を見ると4人の公安刑事らしき者たちが不安そうな目でこちらを見ていた。恫喝して、彼らを引きずり出し、車の確認と、彼らの身分証から高輪警察署公安と判明した。その間、彼らは何も抵抗するそぶりもなく、言われるままに突っ立っていた。身分証などを取り上げ、「見張りをやめて早く帰れ!」と、30分ほどで彼らを解放したことがある。こうしたことは、青学でも夜間パトロールのとき、大学周辺を1~2名で公安が歩き回っていることがあり、大声で「おい!お前!」と威嚇すると、あたふたと逃げたことが何回もあった。10.21新宿闘争のときも、鉄パイプを振り上げて向かって行ったら、もんどりうって公安刑事は逃げた。彼らも人間であり、家族もいる、「暴力学生」に滅多打ちされてはかなわない、という気持ちもあったのだろう。われわれは、その時は、「優しい一般学生」だった。のちに、明学大に高輪警察署公安と機動隊が復讐のため、夜間急襲し、バリ徹底抗戦する間もなく、一列に並ばされ、顔見分を公安刑事が目をぎらつかせて、必死にしていた。私は、ヘルを10個ほど入れた大きなズダ袋をもっていて、機動隊員が「なんだそれは、お前、武道でもやるのか?」とほざいていた。その公安刑事は、われわれが「臨検」した公安のうちのひとりだった。頭がちょっと薄く、背が低いずんぐりした目の鋭い男だった。結局、私を見抜くことなく、全共闘部隊は五反田駅まで走って、青学へ退避することになった。その後、青学学生会館には、明学全共闘メンバーも常駐するようになった。明学大全共闘は、1969年6月にバリケード闘争に再度決起する。《写真:明治学院大学HPより転載引用》

●4.28沖縄闘争へ突進―死を決意―"特攻隊の心境″
1969年2月に中核派同盟員加盟とともに、勢力拡大を画策する右翼連合(「民主化連合」)との情宣戦、オルグ戦に集中。6項目要求を院長団交で確約させるという方針(1月/学長代行としては要求を受け入れていた)、来る4.28沖縄闘争への決起・情宣を全力で展開していく。2月~4月、全共闘の会議、中核派のほとんどすべての決起集会とデモに参加。数えきれないほどであった。着た切り雀の、飢えたる日々だったが、魂は高揚していた。1月に右翼テロを受けてから小刀を持ち、全共闘のなかでも決死・突進していくメンバーを、全共闘のなかでは「気違い部隊」とひそかに呼んでいた。法大チューターのTさんも、私を見て、「怖いなあ!」と評していた。自分では神風特攻隊のようにすでに死を決意して行動していたから、そういうオーラが出ていたかもしれない。流山児祥副議長は、武闘訓練のとき、ベルトの背後に鉈を差し込んでいた。青学正門前の赤レンガに、「首都制圧 首相官邸占拠」のステッカーを「4.28」の文字で形取って、青山通りを通行するすべてのひとびとにアピールした。青学ブントも、「霞が関占拠」のステッカーで全学を覆いつくした。毎日情宣とビラマキ、朝から夕方まで死力を尽くして、アジ演説を続けた。ほとんど食事らしいものを口にしていなかったが、カンパでもらった「浄財」で、学食のうどんや、パンで生きていた。相変わらず、下着など替えていない。ML派、社青同解放派のグループも、革マル派グループも「4.28 」に向かって走っていた。破防法適用の恫喝が現実となりつつあった。

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《写真:新橋ガード下を進軍する混成部隊―ネットより転載引用》
4.28に向けて、4月に20歳になっていた私は、明日をも考えない、いまこのとき、死んでも構わないという気持ちでいた。前述の神風特攻隊員のようなものである。高校時代の好意をもっていた女子の家に、4月27日深夜、彼女に会いに行き、ほとんど何も話さなかったが、最後の別れと思った。お互い少し会話をして、目を見あって、沈黙のときを過ごした。彼女は上智大に進学していたが、察知して、黙って玄関で見送ってくれた。
4.28当日、青学全共闘部隊・ブント部隊・中核派部隊、東京駅に集結。ML派、社青同解放派、中核派各部隊と各大学全共闘部隊も合流、アジ演説と極度に緊張した時間空間のなかに、凄まじいエネルギーが沸騰していた。
「首都制圧・首相官邸占拠」-これが戦術目標である。公安機動隊の鉄のような防御態勢が構築されていた。
デモ行進は、東京駅から線路を全軍行進に移る。先頭部隊は新橋のほうまで行っただろうか、周りのビルには黒山の見物があった。しばらく行軍すると、有楽町駅手前から、機動隊が押し出してきた。投石、投石、投石。部隊は、押し込まれて、青学全共闘部隊は、一部が橋げたから下に落ちて、後日、アイビールックが似合っていたN君に聞いたら、腰をコンクリートの地面に打って、負傷した、とのことだった。たくさんの学友があのガードから落下させられたという。私は、機動隊員が走って押し出してきたので、投石で抵抗したが、ガードの細い鉄柱をたどりながら下におりた。近くに投げ捨てられていた樫の棍棒を拾って、有楽町駅の西銀座交差点へ向かった。青学中核グループのK君とそこで合流できた。夕暮れが近くなっていた。K君も棍棒を持っていた。歩道の群衆のなかに、公安刑事が2名いたので、K君と「こらあ~!」と大声をあげて威嚇、追いかけた。棍棒の先が少しかすったが、その逃げ足が速く、「逮捕」はできなかった。残念だった。4丁目銀座交差点手前の一つ手前の交差点に、警官がいたので、多分50~60m離れていただろうか、棍棒を横手に持ち、じりじりと迫ると、すると警官はもんどりうって身をひるがえして逃げ去った。回りは群衆の波である。群衆は注視していた。早く、首相官邸に向かわねば、とK君と西銀座方面へ戻ると、時間が経過するとともに、機動隊も押し出してきた。激しい投石、放水の応酬(有楽町駅前)。何発投石しただろうか、数えきれない。有楽町の交番は破壊されていた。そんな攻防戦が数時間深夜まで続いた。私は、K君と青学へ帰路についた。破防法が発動された。
4.28沖縄闘争の全国総決起、沖縄での25万県民の決起、ものすごい戒厳令防御態勢を敷いた公安・機動隊の防御は崩れ去った。首相官邸は占拠できなかったが、ほぼ勝利と言っていいと思ったが、自身は官邸に突入し、そこで自決する決意だった。それが、今でも悔恨である。
また、本闘争の総括の違いから、ブントが三派に分裂(大まかに、関西ブント・戦旗派・叛旗派)したが、残念なことだと素直に思った。青学ブントは中大、明大を中心に、三上氏・神津氏の下で、叛旗派に属した。叛旗派については、吉本隆明氏の共同幻想論や、呼号する「汝ら 我らの終わり候ところ 目を開いて見よ」(大塩平八郎の乱)、戦闘団の形成、ボルシェビキ・レーニンの組織論否定(レーニン主義的前衛党建設の否定)などユニークな組織論を持っていた。日比谷公園での、ブント三派の抗争では、関西ブントと戦旗派が戦っているうちは手を出さず、戦旗派が勝利、態勢を立て直すのを待って戦う、という一種の潔さがあった。荒さんも戦旗派のひとたちも、その辺は、悪罵を投げつけるというようなことはせず、ある意味、潔よし、と思っていたのではなかろうか。いずれにしろ、ブントが分解したという客観的事実は、敵権力・日共民青・革マル派にとっては、客観的に言えばだが、利を得たと思う。

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《写真:戦旗派ブログ記事より転載引用)
後日、渋谷駅ハチ公前で、4.28沖縄闘争の報告をあわせて、青学全共闘が、情宣とカンパ活動を行い、沖縄闘争のパンフレット販売活動を行った。反響は大きかった。私は、アジ演説を腹から絞り出すように続けた。当時、渋谷ハチ公前に噴水広場があり、旗のポールが3本立っていた。西銀座で一緒だったK君と、中核グループのS君とで、そのポールのうち、2本に中核旗と、全共闘の旗をスルスルと掲げたことがある。渋谷ハチ公前のポールにふたつの闘う旗がひらめいていた。渋谷を通行していた市民もびっくりしたことだろうと推測するが、渋谷警察署/交番の警察官は何も言わなかった。この時のアジ演説最中に、マンドリンクラブリーダーのNさんが親しげに前に来て、声をかけてくれたので、私もアジ演説を中断して、話をした。Nさんはそのとき、「音楽活動を続けてプロにならないか?」と優しく声かけしてくれたのだ。ちょっとホロッときたが、当時の状況でそれは無理だった。Nさんは卒業後、CMの作曲など活躍され、有名人だったが、今は鬼籍におられる。ご冥福を祈りたい。

●1969年5月右翼学生自己批判(「リンチ事件」報道)以後、右翼一掃
4.28以降、日々の学内ビラマキ、クラスオルグ、院長糾弾・6項目要求団交の活動を死に物狂いで続けた。この時点で、右翼「民主化連合」は、学協/学生懇談会/青山真理会が表立って、集会やビラマキを行っていた。彼らも桜井学長代行後、就任した村上学長に対し、「学内正常化=民主化」等の「七項目要求」を突き付けていた。クラスオルグで文学部闘争委員会のDさん(女子/上級生)と新入生クラスに入ったことがある。教授に開始15分時間をもらい、自治会設立と全共闘への結集を訴えた。Dさんは青学でも、NO.1の「マドンナ」と言われるほどの美人で、おそらく新入生たちも「う~ん」と見とれていたと思う。男子も女子もである。
6月に入って、右翼が、凝りもせず、チャペルで集会を開いた。彼らの暴力的組織的妨害・バリ破壊などの学内活動をこれ以上許さない、と全共闘メンバー約50人で、彼らの集会が夕方終了した時点で、チャペルに押しかけ、自己批判要求を突き付けた。問答をしているなかで、学生会館ホール2階に連れて行き、それぞれ目隠しをして、手を縛り付け、口頭で話した内容で自己批判書に署名させた。右翼中心メンバー7~8名だったと記憶する。夜通しである。これが、いわゆる報道で「青学リンチ事件」として言われるものである。彼らは、肉体も屈強で、右翼活動の中心メンバーだったので、われわれもゲバルト棒と、鉄パイプ、金づち、などの武器を持って、彼らを学生会館まで「拉致」したのである。
深夜になって、暴力団が押しかけ、「おい!坊ちゃんを返してくれよ!」と正門前で大声をあげた。全共闘革マル派リーダーのFさんが対応し、追い返した。右翼メンバーのひとりは、神奈川方面/暴力団組織○○会の幹部が親で、その息子だったと思われる。翌朝、彼らを解放した。自己批判書は、文学部闘争委員長(2代目)のB君が立て看板と、ビラにして、青学生にその本質を明白に知らしめた。「民主化連合」は、大木子飼いの右翼組織であること、自由と自治を決して認めず、破壊する意図をもつこと、などである。彼らの拠点が大学に近い青山の某ビル内にあることも判明した。これ以降、学内での右翼活動は鳴りをひそめたが、学協の2名(男女各1名)がこの「リンチ事件」糾弾のビラを学内で巻いていたのを発見し、私は彼らを詰問、ビラとカバンを取り上げ、二度と学内に来るな、と約束させ、放逐した。学協は、現在の日本会議である。彼らもそれ以降、学内に顔を出せなかった。右翼学生連合も、姿を見せなくなった。青学全共闘は、彼らの組織的継続攻撃を暴力的に粉砕したのである。
この頃、ブントで、クラスメイトだったK君が、逃げた右翼を追いかけ捕まえたという事件があった。のちに渋谷警察公安は、彼を「逮捕罪」名目で逮捕勾留・起訴した。懲役10ヶ月ということだった。結果、後年、執行猶予がついたが、襲ってきた右翼は罪なし、である。
私は、この「リンチ事件」で文学部闘争委員長Y君、B君とともに、全国指名手配となり、実家と自宅にも公安が捜索に入ることとなった。しかし、私は、全共闘の活動と政治闘争に没入していった。ほとんど学生会館が寝泊まりの拠点になり、同時にS議長、流山児祥副議長にも指名手配がなされた。結果として、7月に私とY君、B君が逮捕勾留されたが、ほかのひとたちは無事だった。S議長、流山児祥副議長ともその後、逮捕をまぬがれた。

●国学院全共闘、学内右翼のテロ襲撃で学外へ放逐さるー青学へ避難・革マル派けが人多数援助、革マル派キャップと話合い
国学院大学で、右翼体育会系学生と全共闘(革マル派主体)が衝突する、という事態が起きた。革マル派が放逐され、多数のけが人が出て、青学に避難してきた。救援対策部を中心に、けが人の手当(流血・打撲多数)を行ったことがある。国学院大学革マル派キャップと話をつけ、党派対立は別にして、救護する、ということで話をつけた。このときに、青学革マル派Fさんも間に立った。全学闘全員と救援対策部チームが救護に当たった。国学院大学は、神道を中心とする大学で、右翼体育会系学生・応援団などが強力な勢力を持っていた。右翼に反撃に向かうかどうか革マル派キャップと協議したが、けが人手当が優先、ということでそのときは鉾を収めた。
     
●1969年5月―6月大学立法粉砕 全学バリケード封鎖闘争貫徹 
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村上学長を盾に、大木は6項目要求と団体交渉を拒否しつづけた。右翼妨害活動を制した青学全学闘は、6月20日全学無期限バリケードストライキに突入した。6.15、6.23安保総決起デモを貫徹しながら。学内総決起集会でアジ演説を行い、各学部闘争委員長、各派から激しい決意表明がなされる。嵐のような日々だった。バリケード構築は、全共闘部隊約200名、手際よく、路面に水をまきながら、椅子と机を正門前に積み上げて行った。
 6.23デモの際は、明治公園から青山通りを横切り、片側規制の機動隊ともみ合いながら、進んだ。後続部隊が、旗竿を槍ふすまのように突出し、機動隊規制線をはねのけて、進。夕刻、逆方向からブント反帝全学連/赤ヘル部隊が旗を林立させて、デモ行進してきたのが見えた。そのまま反対側を通り過ぎるか?と思ったが、ブント部隊は踵を返して機動隊へ旗竿を突き付け、一斉に突進してきたのである。胸のすく思いがした。機動隊の片側規制は打ち破られた。われわれも、機動隊を押し戻し、四散させた。旗竿部隊の突撃、投石、後退する機動隊。何台かの駐車していた車のうち1台が横転され、バリケードとなった。通りは解放区となった。そのあとがどうも記憶にない。デモは機動隊の規制をはねのけて、貫徹された。赤坂御所のあたりで、公安刑事が学友を引き抜こうとしたので、背後から思い切り、尻を蹴り上げた。公安は誰に蹴られたかわからず、目を吊り上げて、あちこちの学友に突っかかっていた。機動隊員は正面の敵だが、この歩道から逮捕を狙う公安私服刑事が、私は大嫌いだった。単純に素直に、極めて卑怯だからである。
この5月から6月の青学全学闘のバリケードストライキと学内集会・デモの現況を、青学大学院生だった先輩が、8㎜フィルムでドキュメンタリー映画を製作していた。タイトルを『わたしの翼は飛び立つ用意ができている』というものだ。主演は私にオファーがあり、了解し、一部ドラマ仕立ての場面もあった。もうひとりの主演は、仏文科の女性だった。ここに写っている学内デモは圧巻で、校舎の上階から撮影していて、銀杏並木を通して、うねりのような約1000名の青学生たちの情熱が立ち昇っている。後日、映写会が学生会館ホールで行われ、多くの全共闘と青学生が見た。また、1969年度の卒業アルバムには、青学全共闘の闘いが、多数掲載されているそうである。実際に入手しようとしたが、できなかった。映画も院生先輩の手元にあるだろうか、不明である。
バリケードに対し、右翼あるいは暴力団と推測される火炎瓶攻撃が夜間なされた。正門バリを炎上させようとしたのだろう。追いかけたが、車で来て、車で逃げた。火炎瓶を使う、というのは、民主化連合の学内右翼ではなく、プロの右翼か、まず暴力団と推定可能かと思う。全共闘部隊は、警戒を厳重化して当たった。7月2日、青山通りを夜間、通行中の一般人を、右翼と勘違いして殴る、という事件が起きた。極度の緊張状態から起きたものである。一般人には申し訳ないことをした。その時、現場にはいなかったが、謝りたい。新聞の四コマ漫画で、通行人が横断歩道をわたるのに「通行人」という小旗をもっていく、という揶揄漫画が掲載されたのを覚えている。
 
●バリケードの中の「自主講座」-"カオス(混沌)のなかに 叛逆の軌跡を″
(1969年青山学院大学・学園祭テーマ)                                          
このバリケードのなかで、「自主講座」を企画、竹中労氏、中嶋誠氏、などの講演会、討論会などいろいろな活動も行われたことを特記しておきたい。映画「十三人の刺客」(工藤栄一監督)上映会も催された。この映画はなぜ記憶にあるかというと、白黒映画ながら凄まじいリアルな剣と剣の白兵戦が描かれていたので、ものすごく空気が入ったからである。「気違い部隊」としては、最高の映画だった。近年、このリメイク版が上映された。
また、院長独裁体制への抗議闘争のなか、秋の青学祭では、たしか、1969年のテーマが「カオスのなかに 叛逆の軌跡を」だったと記憶している。各界の専門家、斉藤龍鳳氏講演、コンサートでは浅川マキ、大木康子、その他ロックバンドなども企画され、多彩だった。文連を主体に各部、同好会の自由な雰囲気、規制のないなかでの「青学祭」は、政治・文化・教育・理系研究など、自由に企画し、発表できること、楽しめること、真に根本的に重要だと認識した。

●7月機動隊導入・体育会Aが手引き、逮捕さる
7月中旬、突然早朝200名の機動隊が、南側裏門から侵入してきた。機動隊導入。理工学部に次いで、2回名となる。そのとき、学生会館部室に学友数名といた私は、学館の奥の部屋に逃げたが、そこに、文学部闘争委員長(初代)のY君、B君(2代目)も来て、公安刑事3名がナチス棒を持って、3人とも逮捕された。学館を出るとき、多数のマスコミが撮影とフラッシュを浴びせた。マスコミのことを、ブルジョア新聞帰れ、とよく呼号していたが、実感として、警察とつるんでいることがはっきり分かった。手錠で、3人とも渋谷警察署に連行、調書を取られ、留置された。この機動隊導入に関して、体育会の幹部Aが手引きをしていたことが後日判明。落書きにも、「伝統ある青山学院体育会の名を汚したA糾弾!」と体育会の人間があちこちに大書していた。武道にしろ、スポーツにしろ、警察につるんで内部情報を流すスパイ行為は、スポーツマンとして下劣そのものであった。体育会メンバーにも多くの良心があった。ある日、Aを見つけた全共闘シンパのA君(現在の三遊亭円楽氏)が、「おい、待てよ、オイ!」と追いかけたが、彼はこそこそ逃げ回っていた。Aは、小太りの小さな男だった。
拘留は、23日間。去る7月14日中核派同志のS君は、中核派デモ指揮者として、解散地新橋で、逮捕されており、同じ渋谷警察署に留置されていた。青学全共闘が4名、渋谷警察署にいたことになる。
逮捕容疑「監禁致傷・強要」。そもそも、7~8名の右翼学生を私ひとりが、監禁・致傷させ、自己批判させ、強要できるわけがなく、黙秘を貫いたから、調書上、起訴できる要件を満たしていなかった。Y君、B君も同様である。従って、8月初旬に「起訴猶予」で釈放(パイ)になった。その2日前には、中核派同志S君(公務執行妨害)もパイになった。
留置場では、雑居房で、50歳位の詐欺のおじさんが2名、窃盗の20代男1名、スリ現行犯45歳位男1名、がいた。詐欺のおじさんのうちひとりは、指名手配されていたが、富士吉田市の自宅にいても警察官と遭遇しても何も摘発されたことがなく、ながらく日常生活を送っていたそうだ。逮捕のきっかけは、交通違反をしたとき、照合され、詐欺犯指名手配とわかり、収監されたと言っていた。このおじさんは、刑事訴訟法に詳しく、20歳の私に「最低、刑事訴訟法は全部知っておかないとダメだよ、にいちゃん」と教えてくれた。「監獄法」は明治時代のものが、そのまま準用されていて、これは改正の必要がある、代用監獄もやめるべきだ、と持論を話してくれた。大いに参考になった。
彼は、戦時中は、中国戦線で兵士として従軍していて、国民党軍や八路軍より、中国のひとたち/民衆は日本軍が来ると、安心していたそうである。軍紀がものすごく厳しく、銃殺・収監されるため、略奪や殺戮などあり得なかった、と言っていた。歴史の授業で聞いたのとずいぶん違うな、と感じた。スリのおじさんは、エレベーター内で尻ポケットから掏ったが、なんとチリ紙の束だったそうで、ものすごく悔しがっていた。スリは現行犯逮捕が主なので、刑事から監視されていたのだろう、とよく、分析していた。それぞれ、その道で稼ぎをしているから、それなりに、警察や刑事のこと、法的なこと、監獄での生活をよく知っていた。みな初犯ではなかった。
取り調べは、毎日行われた。雑談には応じたが、このときに、10,8羽田闘争に動員された刑事の話、など聞いた。私の渋谷駅頭での情宣、アジ演説を聞いた刑事は、「こいつのアジは一流ですよ」と先輩公安に話していた。また、過激派のデモがあるときは、催涙ガスを多めに充填する、とか。「ふ~ん、そうなのか」と思った。救援対策部から差し入れがあった。
ある日、父が面会にきた。父に会うのは、5年ぶりだった。父は、「法律に基づいて、やらなきゃだめだぞ」と。父は、新橋で運輸省の同僚と飲んでいたところ、7月21日夜のNHKニュースを飲み屋のテレビで見て、同僚が「あれ、息子さんじゃないですか?!」と言われて、びっくりしたそうだ。そして、渋谷へ飛んできたのである。内心、うれしかった。テレビには、私とY君、B君が手錠姿で学館出口から連行されるところが、放送されていたそうである。
そして、8月21日、中大に続いて全国で2番目となるバリケード破壊のための大学治安法先取りの、機動隊200名導入がなされ、61名逮捕/バリケードは破壊撤去された。その後、ロックアウト体制が続く。後述のロックアウト粉砕闘争も継続していく。

●中核派全学連大会・本多延嘉氏の熱いこころ
1969年の中核派全学連大会は、ざっと1000人の各大学同志が集まった。そのなかで、本多延嘉氏の檄は、今でも忘れない。高校3年の革共同政治集会での秋山勝行委員長と並んで、感激した。全体は覚えていないが、「明治自由民権運動のとき、10万の竹やり部隊が、首都に向かって怒涛の進軍をした」と、自由民権運動の決起に触れた部分が、なぜか、こころに残っている。「安保粉砕・日帝打倒」戦略、大学をその砦に、安保粉砕闘争に決起せよ、との檄。1970年代に本多さんが革マル派の謀略でアジトが判明し、極めて陰惨なやり方で虐殺されたことは、残念の極みであった。(足に釘を打ち込む、というような・・もはや内部のゲバルトではない)革マル派は、それを機関紙に漫画イラストで「ポンタ殲滅」と書いていた。もし、黒田寛一が虐殺されたら、『前進』紙上に、漫画のイラストなど、中核派は書かない。腐敗している、と私は感じた。「遺体損傷」という行為がある。大東亜戦争における米兵の日本兵に対する遺体を凌辱する行為が多数あった。豪州軍が捕虜になった日本兵を、空輸中に突き落とした、という事件もあった。捕虜にするのが面倒くさい、という残酷な理由からである。ナチスも、GPU(ゲぺウ)も捕虜や死体損傷を平気で行った。中共八路軍でも、満州国での通州事件でもあった。それらは、戦争行為のなかでも条約で禁止されている犯罪である。日本軍が「生きて虜囚の辱めを受けず」というのは、虜囚に対する虐待・凌辱行為が必ずあったからだ。革マル派のこの心情は、上記に同じ根源をもつ、許されない行為である。~社青同解放派の中原さんも同様である。革マル派の下手人たちが報復により打倒されたのはいいとしても、トップリーダーの黒田寛一、NO.2松崎明が、追及を逃れてその命をベッドの上で果てたのは、何故だろうか。隠れるのがうまかったのか、防御が堅固だったのか、わからないが、革命運動にとって、本多さんと中原さんの死は、大きすぎる損失だったと思っている。リープクネヒトとローザの死にも匹敵する。
10.7羽田闘争前日の中核派の社青同解放派への「リンチ」行為は、許されるものではない。が、本多さんは、熱血の血潮たぎるような革命家だったし、おおらかな人柄、戦略的思考、力強いアジ、にほんとうに素晴らしいものだったと思う。

●12月糟谷君人民葬―革マル派とのゲバルト戦
糟谷君人民葬が12月に日比谷公園で開催された。記憶では、ことのとき、革マル派と集団戦になったかと思う。
このとき、最初、革マル派が公会堂向かって左手に押し込んできた。私は突進してきた革マル派学生と渡り合い、今度は彼らが逃げたので、細い竹竿だったが、それを片手に追いかけた。回りにあまり仲間がいなかったが、公会堂に向かって、右手にひとかたまりの革マル派メンバーがいた。ヘルがひとり、その周りに女子学生が4人身を寄せるように固まっていた。身をすくめて。一瞬、可哀そうだ、と思い、そのまま見過ごした。
内部ゲバルトと言えば、ML派の諸君とも日比谷公会堂でぶつかったことがあった。檀上の一番前にいた私は、向かいの相対するML派のなかに、青学のメンバーが2人いた。お互いに目があって、双方こりゃあちょっとな、と正直思ったので、適当にぶつかったことがある。だいたい、ML派とは、共によく機動隊と戦闘したし、革マル派以外はシンパシーを持っていた。日共民青はまったく別物の敵だ。意見や方針が違うといって、すぐ実力行使するのは、サルでもできる。俯瞰すれば、大敵は、だれか、ということだ。そこを自分はわきまえたかった。
青学の総決起集会でも、各派それぞれが挨拶と決意表明するが、マイクを独り占めせず、公平に順番でするのは、常識というものだ。後年、フロントメンバーだった学友と、タイのバンコクで再会したことがある。62歳のときだ。一緒に酒食をしながら、回想で彼が話したのは、決起集会のときに、ブント、中核と次にフロントだったが、マイクを長く独占せず、回してくれた、あの時は感心した、と42年後に語ってくれた。そういうものか、と思ったが、みな大敵と闘う同志なんじゃないのか、と私は考えていた。
党派の特徴というか、傾向というか、日共民青は別として、革マル派はどこか陰湿で、閉鎖的な感じがした。その組織論も、戦闘的大衆運動を背景に戦闘的革命的に運動展開する、よりも、自派のサークル的同心円的拡大と防衛、革命的マルクス主義的人間の創出、というもので、なにか、統一教会とか、創価学会・顕正会に似ている気がする。どちらも謀略に長けている。 
日共民青は一般大衆にはソフトな顏を見せるが、内部には陰湿かつ攻撃的な体質を持っていた。全国のバリケード破壊に公安/機動隊と並んで、最も「貢献」したのは、彼らである。一般学生や右翼学生ではない。何度も反すうして振り返るが、彼らがもつ民主化棒(樫の棍棒)・角材・ヘルは、絶対に国家権力には向けられない。問題は、彼らが、「共産主義の前衛党」という名称をもつからだ。これは、「国家社会主義労働者党」(ナチス)と同じ構造である。1970年代の革マル派が、もはや、共に戦った1967~8年の党派とは異質な、同じ戦線の内側にいる党派ではなく、日共民青やナチスと同じになったのと同じである。「革命的な共産主義」の「革命的なマルクス主義」の党、とは。「八派解体」「他党派解体」「ウジ虫・青虫潰し」を激しく呼号するスターリン主義の党だったのだ。国家権力も欣喜雀躍しただろう。うれしくて。自分たちの手を汚さずに、民青や革マル派が掃除をしてくれる、というのだから。トロツキーを暗殺したスターリンと、本多さん・中原さんを暗殺した黒田寛一と、どこが違うというのだろうか。そして、その中核派も1980年代三里塚で、第四インターへ陰惨なテロを行うこととなった。大きな誤りである。条件派の公団土地売渡ももちろん糾弾すべきことは付記する。
渋谷駅頭でのカンパ活動中、駒場の民青幹部3人が論争をしかけてきたことがある。鋭い眼つきで睨みつけながら。彼らは、革マル派からゲバルトを受けたことをだいぶ根に持っていた。彼らには、革マル派も中核派も同じ打倒対象だったのだろう。われわれにもしつこく絡みついてきた。今度はその論争の周辺に右翼らしきものたちが集まりだし、大きな人だかりができた。言い争いは、だんだん収拾がつかなくなり、民青はいなくなり、今度は右翼や反全学連のサラリーマンや学生たちと論争になった。われわれは絶対に退かなかった。暴力で倒す、殺すのは決意すればある意味簡単であったが、口角泡を飛ばす論争・言い合い、はそれ自体面白かった。私が、青学学内右翼を駆逐したのは、彼が、論争など一切しない、当初から白軍手隊100人でバリ破壊活動と運動妨害、テロを行ってきたからである。そういうものには、鉄槌しかない。ものごとにはすべて過程というものがある。

●10月~11月 ロックアウト粉砕闘争、10.10-10.21闘争から11月佐藤訪米阻止闘争
8月の機動隊導入/ロックアウト攻撃から、その粉砕闘争とともに、政治闘争として10.21、11.16佐藤訪米阻止闘争が続いた。青学の状況は、年初の6項目要求は完全に反故とされ、右翼民主化連合の妨害行為が奏功しないことが、明確になると、大木は本格的な「外人部隊」機動隊を後ろ盾とした「大学立法を最初に体現させた大学」として青学を国家権力管理大学と化した。

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《写真左:ロックアウト体制実力粉砕の全共闘部隊、右:青山学院新聞1969年11月号「検問体制を堅持」「青学を圧殺の砦に」》
すなわち、下記6点において強権圧政を率先して遂行したのである。
① 自治会設立準備委員会への予算凍結、
② ロックアウト態勢下での全共闘ほか反対派学生の締め出し
③ 教授・職員を総動員した検問協力強制(年老いた教授も何も関係なし)
④ 反対行動には機動隊と公安私服刑事(逮捕弾圧)
⑤ さらには右翼学生へのてこ入れ(資金・OB動員)
など各大学でなされた権力支配を先取りして体現させたのである。5月の時点で、大学に関する臨時措置法(大学立法=大学治安維持法)に反対する青学生3000名が、正門前から青山通りに、雪崩を打ってあふれ出し、文部省霞が関へデモ行進したその意志を踏みにじって。(註:青学は約8000名の学生在籍。無関心層が多数と言われた青学生の38%が 自然発生的にデモに加わった)
私は、ロックアウトへの抗議行動を続けるとともに、10.21闘争と11.16佐藤訪米阻止闘争へ入っていく。公安は、前年の轍を踏まないように、鉄壁の武装支配体制を組んだ。この武装した強権支配抑圧体制は、国家権力の恐怖と裏返しのものと思う。それほどに先鋭化していた。
10.10の前段決起集会では、周辺をギラギラした眼差しで、公安が監視をしていた。あの眼は血走っていたように思える。10.21総決起集会は、機動隊の臨検から始まり、徹底的に抑圧する、というものであった。デモは完全に抑え込まれ、火炎瓶と鉄パイプによる各地ゲリラ行動は果敢に闘われたが、多数の逮捕者を出した」。11.16では蒲田から羽田へのデモで、ゲリラ行動はやはり果敢に遂行されたが、多数の仲間が、逮捕された。


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《写真左上下:ロックアウト体制実力破壊攻撃を行う丸太を持った青学全共闘部隊。右上:青山学院大学新聞/1969年年11月号「70年代への飛躍をかち取れ」―右下:「全共闘運動総括への一視点」》

青学の同志S君は、5月の新橋と7月に逮捕されて後、10.21高田馬場戦闘で逮捕されたから、1年で3回逮捕されたことになった。彼はそのとき、19歳だった。渋谷署で一緒に留置されていたとき、タバコ時間があったが、彼は可哀そうに未成年ということでタバコは吸えなかった。11月、蒲田周辺では同志のM君と行動をともにしていたが、バラバラにされて、薄暗いなか、何百人もの群集となっていた。弾圧に阻まれて行き所のないうっ憤のなかにいた。多数の学生、労働者のなかに、明らかに私服と思われる公安がいた。首に白いタオルを巻いて、「根性だよ、根性!」と叫んで、グレーのパンパンに、きつそうなズボンで空港方面へランニングしていたのである。誰が、全共闘部隊や党派部隊のなかで、「根性」なんていう言辞を吐くだろうか。一発で、公安私服とわかった。しかし、こんなのが自由に跋扈しているようじゃ、ダメだな、と一瞬思った。明学支援闘争のときのように、「臨検」してやろう、という気持ちもわかなかった。この公安刑事も今は80代だろう。M君は2018年に病のため、先に逝ってしまった。享年69歳だった。後年、彼は、敬虔なクリスチャンで、青学高等部同窓会長をしていて、人望が厚かった。私が大手物流会社に勤務していたときも、証券会社に勤めていて、ふらっと足を運んで、ふたりでお茶をしたものだ。奥様も青学生である。ご冥福を祈りたい。
私もこの秋の決戦に至る間に、足かけ4年の闘争生活となった。20歳であった。


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《写真上:正門前の機動隊指揮官。下:青山学院正門前の弾圧部隊―機動隊1969年》

※「青山学院大学新聞」と「青山学院大闘争資料」は、以下のサイトでご覧いただけます。
1968-70全国学園闘争図書館
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

(つづく)

【お知らせ その1】
映画「きみが死んだあとで」4月17日(土)より公開開始!!
1-1

『きみが死んだあとで』
1967年10月8日。すべては第一次羽田闘争=きみの死」から始まった。青春だけが武器だった、あの異常に発熱した時代は何だったのか 。
半世紀を越えた記憶と歴史のはざまで、伝説の学生運動を3時間20分に圧縮した長編ドキュメンタリー。
4/17(土)~ユーロスペース他全国順次公開
東京:ユーロスペース 4/17~
北海道:シアターキノ 
神奈川県:横浜シネマリン
群馬県:シネマテークたかさき
長野県:松本CINEMAセレクト
長野県:上田映劇
愛知県:名古屋シネマテーク
大阪府:第七藝術劇場
京都府:京都シネマ

『きみが死んだあとで』特別対談第2弾は、日本大学芸術学部学生有志の皆さんと代島治彦監督。現在二十歳前後の彼らにとっては祖父母にあたる世代のお話。既に記憶ではなく歴史の一ページですが、映画に映る同じ年ごろの青年たちの熱量に圧倒されつつ、現在の若者たちの間に蔓延する“同調圧力”と当時の学生たちにもあったであろう“同調圧力”を指摘する鋭い意見も。1960~70年代の若者たちの戦いと、2020年代の今を生きる自分たち自身の日常の戦いについて話が拡がりました。

日本大学芸術学部学生有志×代島治彦監督 スペシャル対談

【お知らせ その2】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html

【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その3】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その4】
ブログは隔週で更新しています。
次回は4月30日(金)に更新予定です。

今回のブログは、元青山学院大学全共闘の黒瀬丈人氏からの寄稿第3回目である。
生い立ちから高校時代、大学時代、そして現在に至るまで、それぞれの時代の流れの中でどう社会と向き合って生きてきたのか、ということが書かれている。
全体で9万5千字に及ぶ労作なので、何回かに分けて掲載していきたい。
第3回目はいよいよ本編、青山学院大学時代前半(1968年の闘い)である。

【青学全共闘への軌跡】

ひとには、魂の時間、というものがある。50年、100年を経ても、それは鮮烈なマグマとして魂に深く痛いほどに閃光として刻まれている

黒瀬丈人
元青山学院大学全学共闘会議・法学部闘争委員長 全共闘行動隊

<目次>
1 前書き  「青春の墓標」そして-香港の若き魂たちよ!―自由・自発・自主の尊厳
2 序章   第一節~第三節(1949年―1967年)
「団塊の世代」時代の情景からベトナム反戦闘争に至る過程とは? 
1960年安保闘争の記憶/樺さんの死~反戦高協/10.8羽田闘争
3 本章   第一節~第三節(1968年―1970年)
烽火の記憶~青山学院全学闘から全共闘と70年安保・ベトナム反戦闘争
4 終章   1971年以降 青学全共闘/中核派からアナキズムへ 早稲田―1972年虐殺糾弾・
アンダーグラウンド演劇
5 あとがき  鎮魂、そして闘いは終わっていない

3 本章 □1968年 青山学院全学共闘会議(青学全共闘・前身~全学闘)の闘い
―「権門(けんもん)上(かみ)に奢れども 国を憂うる誠なし 
財閥富を誇れども 社稷を思う心なし」(三上卓「青年日本の歌」)-
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《写真:作詞者・三上卓》

 第一節―《1968年》
■4月~9月 青山学院入学(法学部)から全学闘結成へ

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《写真:左・1958年学長就任以来、独裁体制を敷いた故・大木金次郎氏(1969年より院長)。右:故・大木金次郎氏作詞の青山学院大学校歌、下:現在の青山学院大学正門~青山学院HPより転載》(以下、敬称略)

□闘争経過(概略)~1968年以前 
1958年 大木金次郎学長就任
1960年6月17日 大木学長「三公示」(政治的社会的自由の表現・活動禁止)、以後政治的無風状況
1966~67年 芝田進午氏(法政大/哲学・社会学者)講演会開催者処分
 学食値上反対運動
 備品点検問題発生
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1968年4月~9月 青学ブント初の学内デモ行進(約50名) 全学闘結成準備活動
          10月 全学闘結成→大木「三公示」の公示のみを撤廃(実態変わらず)
   11月 第一次8号館バリケード封鎖 全学集会・大木「(建学の精神に反するものは)大学より 出て行け」発言
      この間、理工学部機動隊導入・弾圧
           12月 第二次8号館バリケード封鎖 右翼学生封鎖解除襲撃
                      全学闘6項目要求(処分撤回、機動隊導入自己批判、自治会設立等)
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1969年1月 6項目要求貫徹(桜井学長代行) バリケード封鎖解除 (大木院長へ 桜井学長代行体 制)
   2月 右翼活動(青山を良くする会、青山真理会、青学学生懇談会、青学学生協議会、その後、民主化連合結成・7項目要求)活発化 
   4月 全学闘から全共闘へ組織再編 (大木院長、真鍋理事長、村上学長体制)
   5月 学内右翼自己批判(リンチ)監禁 全学バリケード封鎖 
      大学立法反対/青学生3000名が国会へ抗議デモ 
   6月 バリケード封鎖解除
   7月 村上学長・全学部長辞任 機動隊介入・弾圧・ロックアウト・通行証体制 (真鍋理事長+大木院長+大平学長体制)/渋谷警察署・公安・ 機動隊強権抑圧体制
   8月 抗議行動に機動隊導入・弾圧
    10月 誓約書強制・ロックアウト体制(教授会・職員強制動員) 
    11月 ロックアウト粉砕闘争(警備小屋焼討、機動隊へ反撃)機動隊導入・弾圧
      自治会設立準備委員会予算凍結
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1970年1月~「大学立法体制」への闘争継続
    6月 安保粉砕闘争へ決起、以後闘争は続く・・
※上記のように、1968年学長から1969年院長へ:桜井学長代行→村上学長→大平学長(註:院長は、小中高大の全学を支配、後、幼稚園も併せる)この2年間だけでも、私兵/右翼妨害活動と機動隊・公安に依拠した強権発動が多発していたことがわかる。
多くの大学全共闘運動への反対者として登場する日共・民青は青山学院大学ではまったく登場しない。ただむき出しの右翼・機動隊を尖兵とした強権支配だけがあった。

■解説:
闘争開始/公然化以降、大木学長(院長)は自治会設立を決して認めず、一切の表現の自由を許さず、「私兵」右翼学生、暴力団、統一教会、生長の家学連、日学同を動員、渋谷警察署・公安・機動隊をもって反対闘争を圧殺することに終始する。
桜井学長代理→村上学長→大平学長+真鍋理事長を統括する「絶対君主」指揮命令者として、一切の全共闘との合意事項を無視・破棄した。その最終支配体制が、むき出しに暴露されたのが、1969年以来の大木院長独裁体制である。それは、日大古田支配体制をミニマイズした、同じ構造であり、キリスト教系大学(キリスト教学校教育同盟理事長でもあった)に隠然たる影響力を持ち、明治学院大学/武藤院長ほか、私大強権支配者たちの「ドン」とも言えるものであった。結果、1969年~1989年までの20年間、人間のもつ基本的権利は青山学院大学内では一切封殺されるという青学アウシュビッツを現出させた。
その間、大木は院長に居座り、金と利権と暴力支配にまみれ、政治権力と癒着、本来の研究分野でもある「経済学者」としての能力を、民衆の幸福のためではなく、「金と権力」に発揮し、文部省(当時)・私学連盟などにおいて重職を歴任し、公然たる「ドン」として君臨した。校歌において「神」「愛」「真実」「平和」を語りながら、その魂と行為はヒトラー、スターリン、習近平に匹敵する。佐藤栄作はもちろん、中曽根康弘に至る国家権力は、大学立法体制をいち早く確立した大木院長の弾圧体制に賛辞を惜しまなかっただろう。
そして、1977年神学科は廃止された。英語教育と基督教建学の精神も、旧教の腐敗と闘ったマルティン・ルターも、至上の愛と平和を説き、実践したイエスキリストも大木体制の青学では死んだのである。
1989年急性心不全により、85年のその悪名高い生涯を終えた。大木の死後、深町院長体制で、徐々に学内民主化が始まったのである。その具体例が、1977年神学科廃止以来、同窓生・卒業生が「青山学院基督教学会」を興し、研究・啓発活動(「基督教論集」発行など)を継続していたことに対し、大木は「(青山学院の)名称を使うな!」(いわゆる「名称訴訟」)を起こし、その後学会に対し、会長への追訴訟・学会自体への追々訴訟を起こし、良心的基督教者への攻撃を、その死の当日まで続けたのである。(1986年~1989年まで)青山学院は、その名称さえ大木の私物だったのである。その訴訟は、独裁者の死とともに、「青山学院大学同窓会基督教学会」と名称を変えることに決し、3つの訴訟も取り下げ、となった。
いかに権力を振るったかは、下記、歴任した重職をご覧いただきたい。
歴任:日本国際問題研究所理事、文部省教員養成審議会会長、私大連盟会長、全私学連合代表、文部省私大審議会会長、私大退職金財団理事長、全日本私立幼稚園連合代表、青山学院大学院長、青山学院幼稚園長、従三位、勲一等瑞宝章、藍受褒章受章。
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
《イエス・キリストの言葉/マタイ伝4章》―
欺瞞的名誉とカネと権力権勢に生き、弾圧体制を築いた大木に象徴されるものこそが、われらの敵であり、学生・保護者・教授・職員たちの幸せと、世のひとびと、苦しみ喘ぐひとびとの心の救いこそが、我ら青山学院大学全共闘運動に突入していったわたしの初心であり、その源泉を失ってはならない、と深く思い致す。しかしながら、既に故人となった大木氏に対しては、合掌冥福を祈念し、来世には私利私欲でない真のキリスト者として再生を願う。
   
●青学に入って感じたこととは?―自治会が存在しない?学生会会長が学長?―
《1968年》
1968年4月青山学院大学(以下、青学)法学部に入学した。
大学受験は、早稲田/社会科学・国学院/文・法政/経済と、青学/法を受け、全て合格だった。
青学を選んだのは、単純に、自宅から近い、キャンパスが美しい、なじみの渋谷が近かったからで、ほんとにこれも直感で決めた。早稲田政経は、受験勉強で特化していなかったから、諦めた。入学の書類を、早稲田、国学院、法政にもらいにもいかなかった。母親が、合格したのだから、一応もらいに行きなさい、と言っていたが、行かなかったので、母親は自分でもらいに行った、と後で聞いた。
ところが、事前の勉強不足だったため、入学して知ったのだが、大学には自治会がない、という。高校にもあった生徒会のような組織もない。
学生は、文化団体連合(文蓮)と体育会、応援団、教授によるアドバイザーグループ(通称、アドグル)、ゼミ、学友会などに所属し、それぞれふつうの日常を送っていた。なんと学友会の会長が大木金次郎学長、だと知った。さらに、「大学三公示」という60年安保以後、出された学長公示、というのが徹底されており、ほとんど「政治的社会的無風状態」にあった。
青学は、前身が、東京英学校で、それが、東京英和学校+東京英和女学校になり、それぞれが、青山学院+青山女学校、最終的に青山学院となったのが、1927年の頃である。
その影響があったのだろう。キャンパスの雰囲気は、世間一般が思っている通りで、1968年当時のアイビースタイル(平凡パンチ創刊号表紙のような)の男子学生、華やかなファッションショーのような女子学生たち、それに伝統の応援団・体育会、武道系、スポーツ系、技術系のゴルフ部や自動車部など、文連の音楽系サークル、英語研究や茶道華道、研究系などのほか、ごく一般にある同好会も含めて、極めて華やかで盛んだった。そのまま、社会や国際情勢に関係なく、青学の「無風」、つまりは政治的無関心・趣味と娯楽享楽・10年一日の勉学一本、4年間過ごせば、そのまま企業へ入り、企業にビルトインされる。そうして政治的社会的異議もなく、無傷無風状態で生活していく。大多数の学生(全学約8000人)はそのような「華やかな」雰囲気のなかで、見かけだけは羊のように生きていた。私の感覚で言わせてもらえば、である。ミッション系では、ICU,立教、明治学院、上智、なども同じような状況だったと思うが、如何せん、「自治会」がない、というのは、単純におかしい、と思った。経緯を省いて言うと、現在でも青学には「自治会」が存在しない。そして、牧師養成のかなめであった文学部神学科は、キリスト教(プロテスタント)の大学とは裏腹に、1977年廃止されたのである。

●「学長三公示」と大木独裁体制の腐敗
当時の学長・大木金次郎(当時の理事長は真鍋)の「学長三公示」とは、1960年安保闘争のさなか、そうした活動を学内で「制圧禁止」するために掲げられた「青学における弾圧」公示である。学内での政治的行為・行動・活動一切を禁止する、ということを骨子として制定された「大木独裁体制」の象徴であった。したがって、①自治会設立は認めない、②一切の政治的活動は学内外で禁止、③これに違反した学生は退学等処分対象とする、というものである。のちに、この三公示は撤廃されるが、その骨子である政治的社会的活動は禁止(処分対象とする)する「体制」はしっかりと残された。
青学に入学試験で入ってくる学生たち以外に、推薦でほぼ無試験で入学している学生もたくさんいただろう。これは、聞いた話であるが、高等部から上がってきた学生は、その成績によるが、文学部英文科以外は、無試験で入学できた、と聞いた。成績能力により、希望する学部にストレートで入れるわけではなく、振分けされた、と聞く。体育会においては、スポーツ系の成績を高めるため、また、単に縁故などにより入学するものも多数いたであろう。大木が、配下の職員、教授会、理事会、学生会、体育会、文連などに絶大な支配力を持っていたことは、全学闘から全共闘運動展開の過程で、常に右翼体育会、暴力団、学外反共勢力が妨害と攻撃を強めて行ったことに端的に見ることができる。これは、「小さな日大の古田」である。のちに、連帯していく明治学院大学においての武藤もそうだった。ミッション系のおとなしい羊たち、華やか大学風景、その一方で支配構造を形成する大木独裁構造があった。その裏には、膨大な資金留保/集金システム・大手銀行・大手建設会社・各種納入業者・縁故関連の、大木を中心とする利権構造があったのである。私の敵は、こいつだ、とそのときは漠然として、まだ確信に至らないが、感覚が芽生えていた。4月である。

●歴史研究部とマンドリンクラブ
入学式のあと、にぎやかで、華やかな各クラブや同好会の新入生勧誘の場が、メインストリートの銀杏並木にずらっと並んでいた。私は、二律背反のように、歴史研究部(以下、歴研)とマンドリンクラブの2つに入部。歴研部室には、ブントの先輩たちがいた。同じクラスになったK君(故人・2歳年上)は、私が歴研部室で先輩たちと話をしていたら、部室のドアをバッと開けて、「ここは、ブントの部屋ですか!」と入ってきたのには驚いた。彼は二浪して青学法学部に入学してきた。体格が良く、筋肉質で、ハンサムな男らしいやつだった。その後、彼といっしょに、クラスで檀上から、自治会をつくろう、という呼びかけをした。彼は忘れられない仲間だった。
4月には、自身、王子野戦病院反対闘争に、またひとりで、参加していた。ブントとともにやる、という決心がなかなかつかなかったが、以後行動は歴研とともに、社会科学研究部(以下、社研)を中心とするブントの先輩たちも併せて一緒に活動を展開していく。
マンドリンクラブは、ギターが好きだったので、ギターパートとなり、ここで親友のM君と出会った。彼は実家が中目黒の靴屋で、よく、喫茶店で長時間いろいろな話をした。今も連絡は取りあっている。唯一、「学生時代」(ペギー葉山)のような時間を送ったのが、このマンドリンクラブの7月千葉の岩井で行った合宿、秋の定期演奏会のための練習、である。リーダーは中村さん(指揮者4年生)、といい、のち、CM作曲で有名になる。おおらかで、明るく、渋谷でアジ演説をしていた私のもとにスタスタと寄ってきて、話しかけてくれた。思わず私もヘルを脱いで敬意を表したものだ。もしこの嵐のような激動に身を投じなかったら、中村さんのもとで音楽活動をしていただろう。中村さんとクラブの先輩たちと同期で、渋谷の喫茶店にいったとき、いかつい国士館の数人の学生がきて、隣の席に陣取った。こちらは女子が多かったので、うらやましかったのか、ちょっかいを掛けてきた。ちょっとこわかったが、彼は気さくに彼らに声をかけ、しばらくして彼らも笑顔で、仲良くなった。そういう才能のあるひとだった。ひとの警戒を解いて、おおらかにさせる何かを持っていた。このクラブの活動は、5月と7月がメインで、あとは、闘争に入っていった。私のいわゆる学生時代らしき一瞬の光は、このときだけである。もうひとつの閃光が待っていた。
このマンドリンクラブでも、のち全共闘運動に参加したT君がいた。M君もシンパシーを持ってくれていた。
    
●ブントに参加―民青との激突、東大・明大闘争支援
◆民青都学連行動隊
・東大闘争支援のデモ、銀杏並木―安田講堂を前にして、民青の妨害を受けながら、行った。もちろん、赤ヘルである。のち、東大闘争支援の構内デモ後、150名ほどが泊まり込みをしていたとき、民青都学連行動隊200名ほどが深夜、デモをかけてきたことがある。みな起き上がって、対抗態勢を取った。自分は、2階のベランダから、民青のデモ隊めがけて、牛乳瓶を投げつけた。民青はその後、撤収した。遠くからシュプレヒコールを上げていた程度のもので、彼らも怖かったのだろう。大したことはなかったが、深夜の寝こみに、こちらも「安眠妨害」されたので、角材で突っ込んでやればいいのになあ、と思っただけである。ブント指揮者からはそういう指示がなかった。
・別な日に、明大闘争支援の動員デモも夜間行った。ブント上部からの通達で、「学生服を着たものには手を出すな」と言われたので、小競り合いはなかったが、ビンを片手に、何かあれば、これで殴り合いをしよう、と思っていた。右翼学生と思しき数名が、こちらをにらみつけていたことを覚えている。

◆千代田地区民青―あかつき行動隊
・激しかったのは、昼間、明大における千代田地区民青(通称:あかつき行動隊)との闘争である。これが、地区民暴力部隊との初戦であった。今でもはっきりと覚えているが、ひげ面で、どうみても30代以上と思われる、黄ヘルをかぶって樫棒を持った民青がいた。明大の校舎を占拠していて、ブント部隊もそれを突破しようとしていた。1階中庭部分に突き出た校舎で、ブント部隊2名がバリケードを組んで放水している地区民青2名とやりあっていて、それを応援した。投石はきかなかった。とにかく放水でずぶ濡れになった。その後、2階部分の通路から突撃してこようとした3名の地区民青に、めちゃくちゃに投石をして撃退。へとへとになった。民青都学連の学生と、地区民青とでは鍛え方が違う。後年、宮崎学氏の「突破者」という著作で知る。1970年以前、新左翼同士の内部闘争とは異なり、「殺す」ことをも辞さない武装と結束があった。ご承知の方も多いと思うが、「あかつき」というのは、日共の「あかつき印刷所」から由来している。実際は、○○地区民主青年同盟、である。とにかく鍛え上げた労働者である。総括集会を行っていた時も、校舎の1階から3~4名が突撃してきたので、私は白兵戦をして、ほんの1m手前の地区民青を石で殴りつけ、1階出入口へ逃げ込もうとするので、大声でわめき威嚇して、追いかけた。私は身長が178㎝あり、大きかったので敵も怖かったのだろう。逃げるのも早かった。それから突撃は止んだが、今度は、4階の窓から投石してきたので、私も投石して反撃した。しばらくして、どっと疲労感が湧いた。手強い相手だった。
・当時1966年の頃だろうか、青学で「食堂値上げ反対」「備品点検問題」の抗議活動があった、と聞いた。それには、民青(キャップをYという)、ブント系のひとたちが、少数で集会とシュプレヒコールを上げる程度の動きはあったそうだ。なので、本格的な民青との闘争は彼ら青学ブントの先輩たちも経験したことがなかったと思う。青学の民青は、少数かつ非常に静かで、外人部隊を入れることもなく、運動の過程でも妨害者として正式に登場はしていなかった。むしろ、右翼系の組織が眼前の主敵だった。この民青キャップのYは、東大駒場で行われていた民青の大会を、偵察にいったとき、焚火をしていた数名の民青の見張りに声をかけられ、応えに窮して「Y君と会って話したいので、呼んでもらえる?」と逃げたところ、本当に、Yが見張りのひとりだったやつと一緒に、50mくらい手前に来た時、その見張りに、吐き捨てるような小さな声で「トロだ!!」と言ったのが聞こえたので、一緒に偵察しにきた文学部闘争委員長Y君、法学部I君、あと一人の4人で、脱兎のごとく逃げたことがある。民青の連中が「こらあ、待て~!」と大騒ぎしていた。多分、大会も混乱したことかと、推測できる。このYは、当時の市川染五郎に若干似ていた。青学構内では、民青の看板もビラも、集会も何もなかった。私が激闘したのは、本体の日共・民青部隊だった。

●6.7ASPAC粉砕闘争(赤坂見附)から神田カルチェラタン闘争
―1968年6月21日―初の逮捕
カルチェラタン闘争の前段、6月7日、清水谷公園でASPAC粉砕決起集会とデモに参加した。溜池交差点を出るあたりから、機動隊の盾がずらっと押し寄せてきた。左手の霞が関方面から、中核派のデモ隊が規制を受けながら、降りてくるのが一瞬見えた。この頃、「激動の7ヶ月」を過ぎ、中核派も疲弊の極にあったようで、規制をはねのけることができなかったのだろう。ブント部隊約1000名、私は同クラスのK君と最先頭にいて、機動隊に対して、投石・投ビンをもって、弾圧と規制を押しのけようとしていた。
私、K君、ほか1名が最先頭だった。機動隊は少しずつ後退していたが、とにかく夢中で投石を続けた。その後の記憶がどうしても思い出せないが、ほんとうに夢中だったのだと思う。逮捕はされなかった。K君も無事だったが、その後の機動隊の反撃で、喫茶店に逃げ込んだI君や、相当数の学友が逮捕された。
溜池交差点を通ると、あのときが甦る。フランス5月革命が大激動にあった。欧州全域、ドイツでも、イタリアでも、米国でも世界の学生と労働者、市民が、ベトナム戦争反対を基軸に、スチューデントパワーを中心に、怒りを奔流させていたときである。米国では、ウェザーマン、ブラックパンサー、マルコムX,非暴力学生調整委員会が有名で、私の耳にも入って来ていた。同時にソ連のチェコ人民弾圧に抗議する闘争も燃え上がっていた。自由の抑圧、弾圧にもう黙っていなかったのである。


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《写真上:中大から出撃した藤本敏雄反帝全学連委員長率いるブント部隊―1968年6月21日、ネットより転載》

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《左上:コロンビア大学学生の闘争のなかの姿を描いた『いちご白書』/右上:ソルボンヌ大学から始まったフランス学生叛乱「5月革命」-労働者ストにも波及―ネットより転載引用》

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《1968年2月5日、米大使館の前で、権威の象徴である同大使館に対して抗議運動を指導するルウディ・ドチュケ氏》(©/AP/Press Association Imagesより転載引用)
                                                                                                                                                         
6月21日、ブントは、中大中庭で約3000人の部隊(赤ヘル)を集結させ、藤本敏雄全学連委員長の激しいアジ演説のもと、角材とヘルで武装し、駿河台通りに机といすを持ち出し、バリケード封鎖を試みた。
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《写真:私の第一番目逮捕後、反撃に転じたブント部隊。白い丸印部分が青学文学部闘争委員長Y君(故人) 》
これを神田カルチェラタン闘争(ASPAC粉砕闘争)《※ASPAC=帝国主義首脳会議、現在のG7に当たる》という。青学ブント部隊も、中大に集結、自分もその一員として参加した。中大に到着、総決起集会後、校舎の机といすを、無我夢中で運びだし、駿河台通りに並べた。歩道の敷石を夢中で割った。他の2~3名の学友も。自分はノーヘルで角材もなかった。報道が写真を撮っていた。いくつかの破砕された石が並んだ。同時に、駿河台通りに、お茶の水駅方向から、機動隊のジュラルミン大盾、投石防止ネットが、びっしりと押し出してきた。距離、100mほど。これも夢中で自分のこぶしの2倍あるだろう重たい石を投げつけた。すると、大盾が前のめりにガツンとなった。数度投げた。怖いという感覚はあったが、夢中だった。砂川闘争、10.8羽田闘争で経験はしていたが、この大盾とびっしり押し寄せてきた機動隊の厚みと圧力を自分の眼前で受けたのは、初めてであり、正直怖かった。「権力に全実存をさらす」(小野田譲二)というほど恰好をつけるものではなかった。隣でひとり投石していた仲間が逃げたので、ふと、後ろを振り向くと、ほとんどの仲間が逃げ去って自分ひとりだけが、ポツンと残され、通りの中央、机といすの斜め脇にいたのである。まさしく権力の前にひとり全実存をさらすことになった。思わず、逃げようと走ったところ、歩道にいた公安刑事がタックルしてきて、私は初の逮捕者となった。その公安刑事は、背が小さく。ズボンがタックルしたため、破れていて、ケガをしていた。年はどう見ても当時で50代だった。変な話だが、今にして思うが、そんなに無理してタックル、ケガして何になるのか、哀れみを感じた。ズボンは奥さんに直してもらったのか、など変なことを考えていた。
今はもう鬼籍にいるだろう。この逮捕容疑は、「往来妨害・公務執行妨害」であった。往来妨害罪など聞いたことがなかったが、確かにそうだな、とつまらないことを後日思ったものだ。
警察署の道場に連行され、持ってもいなかった角材を無理やり持たされ、かぶっていなかった赤ヘルをかぶせられ、写真を撮られた。(繰り返すが、私はこの闘争にはノーヘル、角材なし、だった)その後、久松警察署へ留置され、弁解録取書を取られ、黙秘します、と答えて、4泊5日で放免となった。地検の取り調べがあったが、長椅子にほぼ終日座りっぱなしで、検事に呼ばれて第一声言われた。「お前、反戦高協にいたな・・」、即座に「そんなこと関係ないでしょ」と答え、検事をにらみつけた。調べの詳細はほとんど覚えていない。とにかく黙秘します、だった。ところが、自分のミスで、青学の学生証を持っていたので、身元がバレてしまった。放免されたあと、学生部長に呼ばれ、注意処分となった。停学・退学処分にはならなかった。理由はわからない。逮捕された他のひとたちも同じだったと思う。敢えて聞いたこともない。
この闘争で、39名の逮捕者が出たが、うち4名が青学ブントだった。うちひとりが、流山児祥氏(現・演出家協会理事長、アングラの帝王、と評価)、のちの初代文学部闘争委員長Y君(2020年春他界、奥さんの実家「○○の卵」販売に携わっていた)、のち革マル系シンパとなるY君(10数年前に他界、元大手サラ金会社取締役)、わたしの4名である。その時のことを、救援対策の女子学生が、「三つ柳にひとつ藤」と語っていたそうである。 
母は、父との離婚後、ずっと働いていた。1965年、義父との再婚後も、である。青学入学後、母のために、少しでも自分自身でお金を稼ごうと思い、5月から朝5時に起きて、牛乳配達のアルバイトを始めたのだが、この闘争で突然逮捕されたため、牛乳配達のアルバイトはそれで中断してしまった。母にも牛乳屋にも、迷惑をかけた。母が牛乳屋に紹介してくれたからである。自分は第6コースという配達ルートを担当していたから、その分、負担となってしまったと思う。ちなみに、後に革マル派シンパとなったY君は、父が警察官だった。
後日、家庭裁判所に呼び出され、19歳未成年者であったため、母も仕事を休んで同行しくれた。家裁審判は、「審判不開始」-つまり、少年審判手続きには入らない、というものであった。母にはすまない、と思った。
放免となった翌日、6月26日反安保統一行動総決起集会デモに、青学ブントの赤ヘルで参加したが、地下鉄構内で、向かいのホームに私服公安刑事3名が、下を向いてバレないようにお互い距離を置き、歩きながら監視しているのを発見。バレているのになあ、とふと哀れみを感じた。久松警察署の監房で、担当の警察官(50歳位)が、出房のときに、わたしが着ていた紺のヤッケをみて、「乱闘服か?ケガするなよ」と言って笑いながら話かけてきた。ふつうのおじさんだった。優しいひとだった。

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《写真:ASPAC粉砕/神田カルチェラタン闘争・1968年6月―写真下の一番左に小さく写っている白い丸印が、ノーヘル・角材の黒い服が筆者》

●1968年春~1969年、青学で出会ったひとたち
◆藤本敏雄氏は、青学ブントのフラクション学習会か何かがあったとき、青学に来られて、膝を交える近さで、 いろいろな革命談、特にキューバ革命、チェ・ゲバラ(医師・ゲリラ軍リーダー)、山谷・釜ヶ崎(現・あいりん地区)などの権力の力が及びにくい地区を拠点にゲリラ的に権力に攻め上る、というような独創的な話を、してくれた。とても面白く、魅力的な方だった。存命ならもっと興味ある話を聞きたかった。

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《写真:若き輝きを放つ故藤本敏雄氏-ネットより転載引用》》
◆三上治氏も経験豊富な鋭い革命観を話してくれた。ブント叛旗派の精髄を体現している。真摯な行動力あふれる人間。ほんとうに革命ができる、と思った。 反戦高協のときの、革共同の中心メンバーたちが眼前にいた時と同じく、運動の中核にいるひとたちには、それぞれの熱情・覚悟・革命観と意志が感じられ、高校生から青学生になって、こうしたある意味、「人間性・熟練・手練」に優れたひとたちに出会えたのは、財産といっていい。
◆ブントにはまた多彩な先輩たちがたくさんいた。荒氏もそのひとりである。翌年、中大か明大か忘れたが、日大・東大全共闘を中心に沖縄闘争勝利の決起集会があったとき、中核派の全学連副委員長・水谷氏がアジ演説をしているその下で、荒氏が「お前ら、反帝愛国青年だよ~!」と野次っていて。自分は演壇近くにいて、中核の白ヘルをかぶりつつ、なるほど、変に感心していた。(中核派は、沖縄奪還闘争、を呼号していた)-次に、ML派のリーダーが、演説していた。その時も、彼は「お前ら、毛林(もう、と、りんぴょうのMとL)派だよ~」と野次っている。また、なるほど、と思った。頭の直観力が優れていて、かつパワフルな面白いひとだった。砂川闘争で見た、警官を指弾して立ち往生させていたのを、彷彿とさせた。
◆名前は忘れたが、歴研の部室にその日、一人でいた時、明大ブント幹部のひとがブラっと入ってきた。
何を論争したのか忘れたが、ちょっと喧嘩のようになったことがある。自分も19歳の若輩だったから、反発心が強かったので、粋がったのだろう。もっと話をじっくり聞ける自分だったらよかった、と後年思った。
◆中大ブントに飛田氏がいた。彼の奥様は、私の家内の親友である。大きな目をして真っすぐにひとを見て、誠実な人柄で、いろいろな話題が豊富だった。「全共闘白書編集委員会」の前田氏と飛田氏は、最近お聞きしたのだが、中高での友人だった、と聞いた。不思議な縁である。飛田氏から聞いた話で、「連合赤軍の森な、あれ、あんなになるなんて、はじめのころは思っても見なかったよ」と後年、語っていた。飛田氏の祖父は、「侠骨一代」(映画)モデル、血盟団/井上日召の朋友でもあった義侠のひと、と前田氏の『情況』稿にある。
各氏に共通していたのは、独創的な自身の革命観、優しい包容力、人間的魅力がある。しかし、対敵においては、妥協を嫌う断固とした闘争心があふれていたことである。藤本氏、荒氏、飛田氏もすでにあちらに逝ってしまった。惜別のことばを贈りたい。

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《左から:『夢の肉弾三勇士』『天使の爆走』―当時の劇団女優/田根楽子(らっこ)、赤星エミ、北村魚(とと)/左:1976年再演時チラシ~敬称略》
◆全学闘の副議長だった流山児祥氏は、その後、1970年に「演劇団」を立ち上げ、私も縁があったのだろうか、その後1975年ごろまで、音楽(劇中歌)を担当したり、ちょっとだけ出演したり、深く関わることになった。この頃の代表作が、『夢の肉弾三勇士』である。ほか、多数の作品を矢継ぎ早に打った。凄まじいほどのエネルギーだった。この演劇団の活動から、演劇を志向して、1971年早稲田大学第二文学部に試験を受けて入学することになる。初代議長のS氏も演劇団メンバーとなり、その後関わっていくようになる。今でも、企業活動で長い間交流が中断していたが、60代になってから再交流するようになった。彼の処女作を、『花びら雫』(1970年5月)という。
ブント赤軍派の日本航空―「よど号」機ハイジャック事件、その年の11月、三島由紀夫が市谷自衛隊本部で、国軍創設を訴え、自らの命を捧げて、森田必勝とともに、割腹自殺した。歴史的大事件が多発していた。
◆その後、全学闘から1969年4月全共闘へ組織改編を行っていく過程―1969年の弾圧体制との闘いで、全共闘へ参加あるいは、シンパとして知り合ったのが、石原信一氏(現・作詞家協会理事―当時、青山小劇場主宰)、夏目房之助氏(アニメ評論家・夏目漱石の孫)、ねじめ正一氏(直木賞作家・詩人)、伊達氏(青学中核派/現・MXテレビ社長)、三遊亭円楽氏(全共闘シンパ/落語家)、及川恒平(演劇団/歌手/小室等の六文銭)などで、多彩な人々とも知己を得ることになる。ひとり、文連委員長だった山本寛君は、中核派同盟員で、1980年代の浅草橋放火事件で全国指名手配となり、ながく交番などの指名手配ビラが目を引いた。その写真は、彼が逮捕されたときの写真で、若かった。風貌がチェ・ゲバラに似ていたので、みんなが「ゲバラ」と呼んでいた。今はどうしているだろうか、革命軍にいるのだろうか、それはわからない。彼が主宰していた同人誌『阿礼』『櫓人』には、高野庸一氏(評論家)、ねじめ正一氏も寄稿していた。同人の集まりは、新宿ゴールデン街の「石の花」というスナックだった。彼は忘れられないひとりである。

●9月立川基地突入闘争参加、中核派として進む決意固める
前述のように、7月にマンドリンクラブの合宿に参加して、唯一、学生時代、という思いをした。キャンプファイア、伝統の先輩後輩入り乱れての取っ組み合い、交流、トイレと入浴・食事以外は練習、という合宿は楽しかった。8月の夏休み期間中、いろいろな本を読み、闘争のことを考えていた。反戦高協の経験、ほんの3月まで活動していたことの括り、けじめ、青学ブントとの関わり、どの道を行くのか、など。9月になって、自分の行く道は、革共同全国委員会(中核派)ではないか、と思うようになった。秋山氏や北小路氏、本多氏、山村氏(「前進」編集人)、丸山氏、ほかの戦闘的な熱情あふれるひとたちの顏が浮かんだ。実際に、マルクス主義学生同盟に加盟するのは、1969年に入ってからだったが、夏休み後、9月22日立川基地突入闘争に決意を決めて参加した。相当数の学生、反戦青年委員会の人たちが逮捕されたが、基地突入はなされた。機動隊に追われ、自分と参加学生の3人は、立川市民の方の民家の台所にかくまわれた。市民はその当時、学生をかくまってくれたのである。王子闘争でもそうだった。
青学にいた高等部出身の中核派(加盟はしていなかった)シンパ~と言っていい、グループに会った。それが、高等部出身のK君、S君(1970年以降リーダー)、T君、である。のちに、小学校時代のクラスメイトI君もいた。1969年春段階で、中核派グループは、15人ほどだっただろうか、革マル派グループも同じくらいだったと思う。青学ブントは闘争を主導していた「老舗」で、30名ほどだったと思う。1968年の春、5月頃だったろうか、突然、学内にブントの旗を掲げて、赤ヘルデモが行なわれた。「三公示体制」への明確な挑戦である。そういうデモが準備されていたことを、自分は知らなかったが、正直、感動的だった。
「三公示」が、初めて実力で粉砕されたのだから。

●10月全学闘結成大会―「三公示体制・大木独裁粉砕・自治会設立」の小さな烽火
10月6日全学闘争委員会結成大会の前日、渋谷センター街を150mほど行った角を左に曲がったところに、シャンソン喫茶「シャンソン・ド・パリ(通称;シャンパリ)」に、副議長流山児祥、法学部I君、文学部Dさん、Kさん(のち、女優)、文学部闘争委員長初代のY君など10名ほどが集まり、立て看板防衛、結成大会などの準備、意志一致、話合いを行った。ブントの他のメンバーはなぜかいなかったが、今はその理由はわからない。とにかく、準備がすすんでいた。結成大会は、中央銀杏並木~チャペル前のキャンパスに、大きな立て看板を据え、机を並べて、始まった。S議長のアジ、副議長流山児祥のアジに続いて、私がアジを行った、と記憶する。その前に、学生会館前の広場で、結集を呼び掛けるアジを私は行った。
結集呼びかけのアジ演説は、その後ほとんど私がすることに、成り行き上なってしまい、「三公示」の不当性を訴え、自治会設立の必要性を中心に行ったのだが、シュバイツァーの「人間はみな兄弟」、ガリレオ。ガリレイの「それでも地球は動く」というようなことも訴えた。

同盟登校と自主討論を追求いよう!1968.10.17_page0001

《法学部闘争委員会ビラ》

今から思うと、幼く素直なアジだったが、学生も青学で人間として自由に生きるべきだ、集会・結社などの自由は揺るがない、というようなことを訴えたかったのだろう。結成大会が、別の校舎で行われた。正式に議長Sさん、副議長流山児祥、私が法学部闘争委員長、Y君が文学部闘争委員長、ほか経営学部、理工学部、経済学部、神学科のリーダーが決定され、それぞれ決意表明がなされた。その最中、革マル系シンパ3名の野次が後方であった。同クラスK君(いつも行動を共にしていた)と、駆けつけてみると、翌年、革マル派リーダーになるKさん、Oさん、Fさんがいて、野次をやめろ、というと、黙って睨み返した。その時は、それで終わったが、妨害行為をするのが、右翼学生ではないことに違和感を覚えたものだ。Kさん、Fさんとは、70年代、親しい友人となった。結成大会は、予想していた職員や右翼学生・体育会系反対派などの妨害行為もなく、デモ行進も行われた。渋谷警察署の介入もなかった。
この日から、青学全共闘の闘いが、セクトの示威行動・主張のみではない、青学生を糾合していく端緒となったのである。全学闘・全共闘運動は、セクト(ブント)の人間を核としたが、その運動はセクトの主張を実現する運動ではなかった。そういう在り方もあったのは事実だが、その源泉にあったのは、大学の枠内に閉じ込められ、社会や政治や世界の動きとは強制的に隔絶される「三公示体制」、その打破、全学生が大学においては主人公であり、主権者であり、人間として自由であること、それらを圧殺する一切の弾圧に反旗を翻し、闘ったのが全共闘運動のほんとうの姿である。創造する学問、教授と学生がカリキュラムの消化、不毛の一方通行の教学過程ではなく、共に意見を交わす、研究・研鑚。学問をしていく、そのような生き生きとした大学を目指すものだった。
そして、全共闘運動/個別学園闘争の一点から、それは全面展開していくエネルギーを内包している。(社会主義青年同盟解放派全学連―「一点突破全面展開」テーゼ)-学生抑圧体制の根幹を突き詰める活動をしていくと、国家・政府権力機関・構造―強権支配構造に突き当たるのである。それは、市民、労働者、農漁民、知識人、老若男女、人種、民族を問わず、すべての人間において同様な意味をもつ。故に、その運動は真理にもとづく普遍性をもつのである。支配するものをも含む普遍性である。革命はひとつのありようとしてだが、国家権力を支えた軍隊・警察が革命側についたことにより、成功する、また、彼らが情勢において瓦解する、ということもあり得る。何故か?このことは、普遍的真理において人間すべてが平等なのだ、ということではないのか。「善人往生す、いわんや悪人においてをや」(親鸞聖人)-右翼、警察機動隊、公安刑事、現場で尖兵として働かされている彼ら自身こそ救われなければならない、ブッダも、イエス・キリストもまたそう教えている。だが、そういう思いを底辺にもちつつ、厳然たる眼前の敵は、彼らだったのである。彼らは私と仲間を襲撃し、逮捕拘束し、傷つけ、運動を破壊したからである。

●影響を受けた本とは?
19歳~20歳のこの頃、読書がなかなかできなくなっていたが、それでも、「前進」「解放」(革マル派、解放派)、「共産主義」(ブント)、「前衛」(日共)などの機関紙誌や様々なパンフレット、政治ビラなど以外に時間があれば、読んで「栄養補給」し、影響を受けた本がある。

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それは、小野田譲二「遠くまで行くんだ」、サルトル「実存主義とは何か」「存在と無」、ロープシン「蒼ざめた馬」(サビンコフ).カミュ「正義の人びと」―カリャーエフ(詩人)―、「マフノー運動」(アナキスト連盟)である。
小野田譲二氏の”遠くまで行くんだ″というフレーズは、こころに響いた。セルゲイ大公を暗殺したロシア社会革命党戦闘団カリャーエフの行為と思い(「正義の人びと」)も響いた。彼は、大公の孫たちが乗っている馬車には、爆弾を投げなかった。大公がひとりで乗っていた時に決行し、のち逮捕後、死刑となった。白軍、ボルシェビキ赤軍と戦ったマフノー運動の正義性、トロツキーに殲滅されたクロンシュタット水兵軍団の闘いも。実際の闘争のなかで、胸に染み入った。戦闘団のサビンコフの闘いも、である。圧政圧殺するものは、誰であろうと敵ではないのか、教条的な「思想」にとらわれてはならない、生きている自分と、生きている人間の苦しみや悩みや、現実の人びとのなかで、闘う実存性こそが、自分の道だと。

●10・8新宿第一波米軍タンク車阻止闘争、10・21第二派阻止闘争(騒乱罪適用)最先頭へ  
~シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を 流れに求めて 
 ときの流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと 戦うため~「(世情」中島みゆき)

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《写真左:新宿駅東口広場を埋め尽くす約2万人の反戦・学生・市民/右・下は構内を席捲する学生部隊、この中に私もいた―10.21新宿米軍タンク車輸送阻止闘争。機動隊約3600名を圧倒、この闘争はベトナム人民を勇気づけた。ちなみに、10.21は学徒出陣の日にあたる》―ネットより転載―

1968年10月8日、私は中核派部隊の一員として、白ヘルを装着、新宿駅―米軍タンク車輸送阻止の第一次新宿闘争に参加した。ブント、ML派、解放派などとともに。解放派のメンバーが、機動隊に逮捕されそうになったので、救出したことがある。(逮捕者144名)米軍タンク車は、1967年8月に新宿駅構内で衝突事故を起こし、大炎上、米軍がベトナム戦争で使用するジェット燃料が積載されており、70~120両の列車が連日、新宿から立川基地・横田基地へ輸送されていることが、暴露されたことに由来する。10.21国際反戦デーを前に、私もまだ同盟員ではなかったが、中核派ヘルメットをもらい、この前段闘争に加わったのである。青学全学闘結成の2日後である。ちょうど、67年10.8羽田闘争の1年後となる。
その後、10.21新宿米軍タンク車輸送阻止闘争に加わった。決起集会後、国鉄(現JR)代々木駅に到着した電車を降り、ホームから線路に飛び降り、新宿駅方向へ線路を、鉄パイプを持ってデモ行進した。右手遠くに、公安私服刑事1名を発見したので、角材を振り上げて追いかけたが、もんどりうつように逃げ去った。
新宿駅東口広場は大群衆が取り巻いており、映画か何かの看板があり、私は中核派の最前列にいた。構内を仕切る鉄板柵を、リーダーのアジ演説後、最先頭にいた他の仲間2名とともに、闘いの狼煙・太鼓のように、ガンガンと叩き、めくれ上がった下の端をさらに破壊し、ひとが通れるように鉄板をさらに破壊した。その突破口から、続々と侵入が始まった。中核派以外に、革マル派、ML派、第四インター、フロント、共学同、民学同、社会党協会派(反独占)、反戦青年委員会各地区、それを大群衆がびっしりと東口、西口を埋め尽くす状況だった。構内の第四機動隊ほか、5機団を投石で追いかけた。彼らは、だんだん南口階段方向へ引いていき、階段上で固まっていた。投石を振り絞って無数に夢中で投げた。10.8羽田闘争では丸腰の高校生部隊だった。1966年10月の反戦デモ以来、サンドイッチで機動隊に挟まれ、脅迫・暴言・暴力リンチを受けながらのデモ行進だった。傷だらけだった。10.8新宿闘争から第二弾へ続く、この日は夢中ながらも、こころが嬉しく弾み、死んでも構わないと思って全力で闘った。あの第四機動隊が逃げたのである。(※騒乱罪適用/749名逮捕、機動隊制圧時、テロ・リンチ行為が多発した。多くは、党派の仲間もいたが、地方動員の仲間、一般市民である)ベトナムのひとたちを殺す戦闘機、爆撃機の燃料輸送は止まった。危険な高揮発性ジェット燃料を密集した都民の間を通過させることを止めた。

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《写真:「10.21とは何か」より転載引用。中央白ヘル3名のうち1名が私自身であるー中核派最先頭だった》

今でもどうしても思い出せない。どのように撤収したのか思い出せない。夢中だった。
後年50代のころ、企業の仕事でベトナム/ハノイ駐在時、仲良くなったベトナムの友人(50代くらい)に、昔こういう闘争に参加した、と話したことがある。彼は覚えていて、右こぶしを高く上げて、感激、手を熱く握りしめてくれたのである。ベトナム駐在時、いつもついてくれたドライバーのクンさんが、小学校時代、ハノイ爆撃のとき両親と逃げ回った、怖かった、と話してくれた。また、現地合弁企業の副社長タオさんは、中越紛争時従軍経験があり、もうひとりのドライバーだったチュンさんは、ポルポト軍と交戦経験があった。山本義隆氏が、ハノイで数年前、ベトナム反戦連帯のイベントに招待されたことがある。この新宿米軍タンク車輸送阻止闘争は、おもに60代以上のベトナム人は、記憶しているのである。そしてそれはしっかり語り継がれている。当時、ベトナム航空の副社長もミグ戦闘機パイロットだった、と聞いた。ベトナム民族(キン族)が日本人を大好きなのは、単に観光地や食べ物、風景・古都、などもあるかもしれないが、究極の闘いで連帯してくれた国だからではないかと思う。佐藤栄作がゴジンジェムと握手したからではないのである。2005年当時、50代以上の男性がベトナムでは非常に少なかった。フランス、アメリカとの戦争でその年代が戦死多数だったからである。
青学ブントは、この日、六本木/防衛庁突入闘争に全力で突進していた。果敢であった。軍隊の本部へ向かったのだから。さらに、社青同解放派は、国会へ突入していった。また、生産性本部、などへも突入闘争が行なわれ、「別個に進んで、共に撃つ」(レフ・トロツキー)が見事に結実したな、我ながら納得し、振り返って追想する。こういう闘争こそ本来の人民大衆のための人民による闘いである。日共・民青はそして何もしない、「暴力学生」「挑発分子」「トロ」、こういう人間は、ベトナムで子どもたちや妊婦やおじいさん、おばあさんが焼かれているのが平気な人たちなのだろうか。実力で戦争協力を粉砕しないで、何をもって反戦というのだろうか、そういう思いが湧いた。
 この10.21闘争を機に、右翼「関東軍」が結成された。

●日大芸術学部への右翼襲撃、度重なる弾圧の嵐と不屈の決起~日大全共闘への熱い共感があった

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”11. 8 スチールパイプ、角材、スチール制のタテ等を持ち、完全武装の「関東軍」日大、拓大、東海大の応援団・体育会、「皇道会」ヤクザなどの右翼暴力団約400名が江古田芸術学部を襲撃。午後全学総決起集金。白山通り武装デモで制圧。このデモの中に日本愛国党の宣伝カー突入しデモ参加者を負傷させ、さらに愛国党員がオノをふりまわして学友数名を負傷させた。″(「日大闘争年表」より引用―ネットより転載)
このニュースをテレビと新聞で知って、愕然とし、日大の学友へ心から連帯したい、と思った。むき出しの暴力攻撃。青学の比ではない。青学は右翼学生、機動隊程度のものだが、襲撃してきたのはゴリゴリの武装右翼学生連合と暴力団、鉈を持った右翼団体である。彼らは、古田の私兵であり、いわば右翼過激派に他ならない。日大の学友が負傷しながらも、これらを打ち破ったことに喜びを覚えた。1971年早稲田大学第二文学部へ入学したときの、クラス親友O君はこのとき、芸術学部の全共闘部隊だった。彼はML派だった。             
●11.22東大・日大闘争勝利全国総決起集会~真実の連帯行動―民青へ突撃した青学全学闘

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 あの時、安田講堂の総決起集会で、私は安田講堂の前、中核派部隊の真ん中にいた。
日大の全共闘部隊が登場したとき、心底、うれしく、連帯の熱い気持ちが込み上げてきた。青学全学闘の部隊は、集会の前に東大に到着していて、真っ先に教育学部に籠る民青の都学連行動隊(日共が与えた民主化棒所持)に突っかかっていった。反帝学評、ML派、革マル派部隊、その他の党派部隊も、いた。とにかく気が早い。民青も日共中央が指令した外人部隊だった。そのあたりの東大民青部隊の思いと、日共中央の指令の齟齬が、川上徹氏(故人)『査問』にも触れられている。
東大民青は、医学部学生への不当処分に対しては絶対反対であり、そういう意味では東大全共闘とも目的は同じ関係にあったのではないか。戦術としてのバリケード、ヘルと角材による「自衛武装」には反対(「暴力学生」粉砕」)だったのだろうが。

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川上氏によると、日共外人部隊は突然現れた、という意味の記述がある。民青の都学連行動隊については、宮本委員長が後に議会主義へ方向転換していくなかで、民主化棒と黄色・白色ヘルメットで全共闘・党派部隊とゲバルトで渡り合う一連の行動を粛清していった。(いわゆる1971年「新日和見主義事件」の首謀とされた川上氏以下の民青部隊こそ敵ながら哀れに感じる。
彼らは、1958年の全学連が、共産主義者同盟へと自立し、60年安保闘争を果敢に闘った如く、またその後の構造改革派三派のようにはならなかった。静かに、沈黙し、当時知らぬ者のなかった川上氏が『査問』という著書でその実情の一端を語ったのみである。作家・宮崎努氏が弔意を表している。宮崎氏は、あかつき行動隊長(日共「あかつき印刷」から由来)で、われわれの手ごわい敵として行動していたそのひとである。(著書『突破者』が有名)
《写真:上:マルクス主義学生同盟中核派機関誌、下:11.22全国総決起集会・東大安田講堂前―最前列中核派部隊に私はいた。日大全共闘が登場した瞬間、感動だった。》  

●11.26第一次8号館バリケード封鎖―11.30全学集会での大木の「出て行け」発言、右翼学生との対峙
11月26日、青学ブントを主体とする全学闘一部部隊が、事務棟中枢の8号館を占拠、封鎖する行動に出た。このとき、右翼学生も集結し、緊張する事態となった。実は、私は、この行動のことを事前には知らされていなかった。記憶では、8人ほどの決起だ、と聞いた。この封鎖行動は、大木のみならず、職員・教授、一般の学生たちに衝撃を与えたようで、11月30日体育館で全学の学生を集めて、全学集会が行なわれることになった。
この11.30全学集会での大木学長の発言が、問題を引き起こす。要は、建学の精神に合わないもの、意見の異なるものは、(青山学院から)「出て行きなさい!!」と檀上から大声で言い放ったのである。
この発言は、ほんとうに「大学の学長」が言い放った言葉である。
①まず、「学問」とはその名の通り、「問うて学び、学んで問う」=研究・研鑚することであり、研究課題・問題に対して意見や見解は異なるのは、当たり前である。学問はそのようにして継承、発展してきたのだから。万人いれば、万人の意見がある。それを討議や講義・ゼミなどの言論を通して、アウフヘーベンしていく、それが、大学であり、大学院である。一方通行の知識詰め込みではない。
②「建学の精神」とは、キリスト教の愛と平和を世に実現し、その使徒を育成し、国際的に通用する英語を駆使した国際性・愛・真実・平和を標ぼうするものである。旧教の腐敗を告発し弾圧を受けても闘ったマルティン・ルターなどの、いわゆるプロテスタントが青山学院の精神である。プロテスト(反抗叛逆、闘う)、つまり「プロテスタント(闘うもの)」の意味する通りのものである。
③「学長」というものは、大学のすべての人々のリーダーであり、すべての人びとの意見・見解・思想・哲学を 認め、受容しつつも、それらをより良き方向へ導くことこそが、使命である。より良き方向とは、社会に愛と平和と真実、キリストのことばを実践していくことであり、そういう「多くのキリスト者」をうみだしていくのが使命のはずである。意見や見解、思想・哲学が異なるものでも、強権で抑圧するのではなく、認め、討論によってお互いの立場を深めてゆくものである。
大木の発言は、上記とはおよそ真逆であった。さらには、右翼学生と機動隊をもって、自らは安穏の場所にいながら、尖兵として彼らをも使う、という、もはや「教育者」「研究者」を束ねる学長の尊厳を、自ら放棄したことを意味する。そもそも、大木がそのような理想的学長ではないことは、「三公示」によって明確であったが、改めて私的権力者としての醜悪な実態をさらけ出したという意味をもつ。全学闘は抗議の声を上げ、右翼学生は抗議の声をつぶそうとした。体育館内は、一触即発の緊張状態に陥ったのである。実際、乱闘戦にはならなかったが、眼前で彼らと対峙した。彼らの目も、おそらくわれわらの目もお互いにギラギラして映っていただろう。殺気、とはこのことを言う。大木はそれからどこかへ遁走してしまった。卑怯な人間である。自分の尖兵たちが戦おうとしているのに、だ。権力者は常に尖兵の陰に隠れてカネと武器を与える。この全学集会以降、1970年7月退学届をだすときまで、私は大木の顏を見ることはなかった。団交には登場せず、身代わりの桜井氏、村上氏、大平氏を表に出し、自身は隠れ通した。正々堂々と全学闘と議論を戦わせるほどの、度量があったとは到底思えない。

●第二次8号館バリケード封鎖 12.12決起と6項目要求提起―貫徹へ
その後、私は、11月7日中核派全学連の安保粉砕抗議行動に参加した。この時、機動隊の規制も、公安の監視も何もなく、白ヘルと角材を林立させたデモ行進を日比谷から都内を貫徹させた。こんなことは初めてだった。よほど、10,21新宿闘争の影響が大きかったのだろう、と推測した。また、全学連大会にも参加し、各大学での闘争、その火柱、東大・日大を頂点とする全国に燎原の火のごとく広がっていく報告を聞いて、全身に力がみなぎった。
12月12日全学闘総決起大会が、200名ほどの結集で、夜間行なわれた。私は、S議長、流山児祥副議長、につづいて、全身を振り絞って、「本日結集されたすべての同志諸君!~」と決起の演説を行った。各闘争委員長が続く。演説が終わって、任務部隊ごとに、逮捕された場合、弁護士「591-1301」(獄入りは意味多い)を覚えるように、任務分担などを話していたが、実は、朝から何も口にしていなかったため、声が出なくなってしまったのである。後に代わってもらい、教室を移して、ヘルと角材、バリケード封鎖の道具などを集め、決起部隊に次ぎのことを教えた。①右翼学生に囲まれた場合、まず角材を離さず、頭上でブンブン振り回し、寄せ付けないようにする。②右翼学生の弱そうな人間を見つけ、そいつを狙って大声で振り回しながら突進する。③ひとりにならず、3人チームで必ず行動する④機動隊導入・弾圧で逮捕された場合、完全黙秘+弁護士に連絡してくれ、とだけ言い、貫徹する、など。これも全身振り絞って伝えた。
総決起集会後、ただちに行動に各自分担通りに8号館バリケード封鎖を決行したのである。
1階のバリ封行動のとき、私は、神学科闘争委員会と一緒に、机椅子を固く結束、積み上げて、8号館に出入りする場所をそこだけに特定した。隣と通路橋で連絡していた6号館との間にも頑強なバリを構築した。1階での行動の際、左の薬指を骨がみえるほど負傷した。バリが落ち着いてから、翌日、外に出て、救援対策部の女子に外科に連れて行ってもらったところ、看護婦が「まあ、ひどい」と言ったのだから、重傷だったのだろう。この傷は今でも跡になっている。血がポタポタ滴っていた。
そして、この日、救援対策部の女子たちが差し入れてくれたオニギリ1個と小さな唐揚げ1個を初めて口にしたのである。うまかった。とにかく水1滴飲んでなかったから。死んでもいい、と思ったら、こんなことできたのだな、と今さらながら感じた。朝から、ビラマキ、集会、会議、アジ演説、呼びかけ、デモ、その連続で休むなんてことは考えにもなかった。とにかくいつも無我夢中だったのが、真実である。明日は「ない」と思っていた。
全学闘は、自治会がそもそもないところから始まっている。従って、文化団体連合各クラブ・部や同好会、体育会、学生会、新聞会など、組織のあるところからはそこから、なければ個人で参加する形態だった。青学ブントは、社研・歴研・新聞会・放送研など、副議長の流山児祥は、劇研、議長のSさんは流山児祥の高校時代からの友人、という具合で、大体100名、がコアの部隊だった。バリケード封鎖後、大きな立派な会議室があり、そこで全体会議を毎日行った。情宣・防衛・要求の再確認、それぞれ任務分担した。
右翼学生たちは、大木恩顧の私兵で、どうしても縁故による無試験入学・推薦入学が多数いただろうことは推測できる。空手部、拳法部、柔道剣道など武道系、と応援団は、上位下達が徹底しているので、1年生は4年生の命令に絶対服従であっただろうから、人数は多かった。ふつうで、動員数150名~200名はいただろう。(「4年天皇、1年奴隷」とは当時全国の応援団の合言葉だった。武道系は特にその傾向大)全学闘でそんなことをしたら、とっくにみんな四散している。われわれは、自主自発、個人の決意によってのみ、闘ったからである。誰からの命令指示によるものではない。結果責任も自分自身が負うのである。いわゆる「ケツ持ち」(ヤクザ用語・後々の面倒は見る、ということ)してくれる権力者などいない。高校3年には、68㎏あった体重は、55㎏になっていた。

●食事、健康のこと―バリケードの生活―
バリケード構築後、毎日、広い立派な会議室で全体会議が行なわれた。「6項目要求貫徹」、任務分担、問題の抽出・討議、日々の方針と実行、情宣展開、バリの防御、右翼の動向、などである。教授の部屋には手をつけなかったが、ひとつ、空手部顧問の教授の部屋はみなが滅茶苦茶に落書きをしていた。電気、水道はつながっていた。バリケードの食料調達班を担当したH君は、オラトリオソサエティという男性合唱部所属で、バリトンの素晴らしい声で、いつも背中に四角いリュックを背負っていた。みんなから?食料班H,H″と親しまれていた。経済学部闘争委員長のM君は、理論家、ケインズからマルクスまで経済学とブントの理論については必聴に値する弁舌の持ち主だった。経営学部闘争委員長S君は、体躯がしっかりしていて、面構えが鬼瓦のようで、なんだか便りになりそうな感じがした。そして文学部闘争委員長Y君は、長髪で細面の優しい男だが、闘争のこと、革命理論のことになると、M君同様、なかなかの理論家だった。弁舌は優れていた。彼は、この闘争もろもろで、6~7回逮捕されている。からだは細かった。S議長は真面目そのもの、年長だったので、信頼が厚かったが、アジ演説は何を言っているのかわからない、との評判だった。日大の秋田議長のアジより?難解″だったかもしれない。秋田議長のインターは朴訥な調子はずれなインターだったが、誠を絵にかいたようだった。「いわば~~」というのが最初の出だしである。流山児祥副議長は、弁舌豊かでひとを「扇動」するアジテーターとしては、一流である。体躯もしっかりしていた。頭は当時、もしゃもしゃの髪だった。食事は、ほんとに貧しいものだったが、この解放された自由な空間と、同志・仲間がいること、交流、非日常的時間が楽しかった。全体集会で、約100名が結集、それぞれリーダーがあいさつしたことがある。青学ブントの先輩や仲間は、ブントでいいが、わたしは、中核派の○○、とあいさつした。実際、同盟員ではなかったが。この頃の全共闘には、そういう自称○○派が多数いたのだと思う。一度、クリスマスのころ、パーティーをやったことがあった。久しぶりに若干の差し入れの酒もあり、食べ物も救援対策部が差し入れてくれ、シンパの学生からも支援があった。外はおそろしく寒かった。風呂は入らず、禁欲生活で、まるで修行僧のようなバリ生活だった。    
およそ、その頃の食事といえば、学食での60円のうどん1杯、Bランチ80円、菓子パン、差し入れのオニギリ、水、そんなもので、当然、「パンのみに生きる」わけで、そうかと言って美味い物を食べたいなどの思いは全くなかった。空腹を満たせれば何でも良かったのである。楽しみは、秋までは、青山通りにあった「三和」という喫茶店に午前中みんなで集まり、コーヒーとケーキがついたサービスセットと、渋谷センター街にあった「シャンソン・ド・パリ」で時々食べるナポリタンとトーストぐらいのものだった。ご馳走は夜、青山学院の向いにあった「パンチ」という名のラーメン屋での熱いラーメン、これがご馳走である。みんな声はガラガラになるし、痩せていた。学友の下宿で、安酒をまわし飲んで、キャベツに塩をかけて食べた。バイトで稼いできた者がいたら、バイト代はみんなで飲み食いしてしまった。横浜で、みんなでチラシ配りのバイトをやったこともある。ビラ配りは得意だった。とにかく金はなかった。カンパと差し入れで何とかしのいでいたのだ。それに比べて、右翼体育会系学生は、普段から鍛えているし、栄養のある食事も摂り、酒も飲み、院長大木とその人脈、公権力である渋谷警察署と機動隊がバックにいた。肉体的には強かったと思う。問題は、志操堅固・思想と哲学、実存をさらして個として決起し、団結したのが、全学闘である。死んでも闘う、と学友I君がビラで書いた通り、死を決意していた。右翼体育会系学生で、死んでも構わない、と思っていたのは、いたとしても極めて少数だったのではないか。おそらく、日本学生同盟(彼らは?ガクドウ″と言っていた)の一部人間は、ヤルタ・ポツダム体制打倒、核拡散防止条約反対、を呼号していたから、ある意味、現支配体制に叛旗を翻す思想があった。だが、彼ら以外(生学連、全国学協、右翼体育会系学生など)は大木独裁体制擁護であり、上からの命令と自己保身、将来の就職・栄達、が主眼だったと思う。おそらくおおかたの彼らの動機はそんなものだったのだろう。
ひとの生は、赤子から老人になり、その生を終えるときまで、明日の見えない暗い穴を手探りで歩くようなものだ。弘法大師空海は、それを次のように語った。いかなる人間もこの冥途への道をすべて知るものはいない。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、死に死に死に死んで死の終りにくらし」(『秘蔵法鑰』)そして、右翼体育会系学生に対して、いつも思い至るのは、批判は内在的であること、ということだ。彼ら人間が、自由・自立・自治を求める運動に反対し、破壊策動を行い、妨害行動をすることは、見せかけの物資的利益のためである。ほんとうの財産、とは、こころにある。絆、仲間たち、自由、自発なのだ。彼らを心底では、憐れむことが内在的批判である。しかしながら、現実には彼らの暴力には実力で対峙しなければならなかったのだ。
私は、いつの間にか中心メンバーのひとりになっていたので、極度の緊張の日々が続いていたし、東大・日大ほか、全国で決起していた学友の闘いに励まされた。高崎経済大学の『圧殺の森』(映画)を観て、あのような地方都市でお手製の目だし袋をかぶって5人ほどでデモしなければならなかった学友に強いシンパシーを感じていた。また、三里塚や砂川、東富士の農民のひとたちの心情・負けじ魂、水俣のひとたちの強大な企業に「蟷螂の斧」だとしても立ち上がって糾弾する痛切さ、行政権力が強制する基地強化、ゴミ処理場建設、ダム建設など、自然破壊を強行する行為、何よりも全世界で闘われていたベトナム反戦運動、反差別運動、チェコ動乱(ソ連の弾圧介入抗議)など、闘うひとびとがいる、ということに励まされていた。自身がベトナム反戦で闘ってきた行いが正しい、と強く感じていた。その意志は貫いたのだが、衛生面では相当酷い状況にあって、まず歯がボロボロになってきた。やせ細って、下着も1ヶ月つけたままだったし、風呂も入っていなかった。19歳の冬、いっぱしの闘士になってきた。
いみじくも、東大総長だった大河内氏が、「太った豚より、痩せたソクラテスになれ」と言ったとおりになったのである。打倒対象の大木は、太った豚だった。「己有を知らず 貧これに過ぎたるはなし」(己のなかにある仏性を知らない、これこそ貧しいということに他ならない)、大河内総長が大木院長を見たら、そのように評したであろうか。キリストを説きながら、カネと権力に固執する、この姿は何ぞや、である。

(つづく)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!

全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)

『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は4月16日(金)に更新予定です。

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