野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2021年06月

2021年6月12日、東京・四谷の主婦会館プラザエフで10・8山﨑博昭プロジェクト主催による6月東京集会「60年代の死者を考えるーレクイエムを超えて」が開催された。
今回のブログはその報告(記念講演除く)である。

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コロナの緊急事態宣言が延長され、開催が危ぶまれたが、当日は90名の参加者があり、用意された椅子がほぼ埋まり盛況であった。
コロナ禍ということで、会場受付での検温、手指の消毒、参加者のマスク着用、椅子は会場定員の半分とするなど、十分な対策が取られていた。集会は当分このような形での開催が続くのだろう。
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集会は、プロジェクト発起人の佐々木幹郎氏の司会で始まった。
最初に山﨑建夫代表の挨拶が予定されていたが、体調不良のため集会に参加できず、司会の佐々木幹郎氏が挨拶を代読した。

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「弟の事を語り継がねばという私の見果てぬ夢を、映像の世界で代島監督が実現して下さったこと、ありがたいことです。どなたかが代島監督をドン・キホーテと呼ばれていましたが、弟もまたかつてドン・キホーテと呼ばれていました。6月5日、大阪上映会の挨拶で水戸喜世子さんが光と闇について話されていました。光と闇は一人の人間の中にもある。時代は大きな闇だが、無数の小さな光がやがて闇を討つ。ドン・キホーテは一つの光、小さくとも、あちらでもこちらでも光を放っています。山﨑博昭プロジェクトもそういう光の一つでありたいと思います。」

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続いて、プロジェクト発起人の辻恵氏から活動経過報告があった。
「山﨑博昭プロジェクトは2014年7月に発足して、2017年の50周年に向けて3つの課題を設定しました。一つは墓碑墓石を作ること、二つ目は50周年の記念誌を作ること、三つ目としてベトナムのホーチミン市の戦争証跡博物館に山﨑博昭の遺影と10・8羽田闘争の資料を永久展示する。この三つを実現しようということで活動しました。
20名弱の高校とか大学のゆかりの者が発起人となって、600名余りの方に賛同人になっていただいて、第一ステージということで2018年の10月まで活動をやり切りました。
このまま終わらせるのも一つの選択だが、当時の闘いは1972年の沖縄返還を巡る沖縄闘争まで続いたということで、沖縄闘争50周年までやろうということで第二ステージを始めました。来年の5月15日が沖縄返還50周年ですが、それまでの間どうするかという時に代島監督の映画が出来ました。代島監督に2017年のべトナムのホーチミン市の戦争証跡博物館での映像を撮っていただいたのがきっかけになって「きみが死んだあとで」という映画が出来たので、第二ステージの一つの成果というか、大きな反響を呼んでいることはありがたいことだと思っています。
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60年の樺美智子さんから67年10・8の山﨑博昭、そして津本忠雄さんや糟谷孝幸さんや中村克己さんという闘いの中での死を私たちは決して忘れないし、この私たちのプロジェクトは当時の思いを、いろんな闘いの中での死の意味を時代に繋げていくために頑張っていかなければいけないと改めて思っています。
沖縄問題は簡単に連帯と言えるものではないし、沖縄での戦いにも学び焦点を当てながら、来年に向けて更に活動を掘り下げていきたいと思っています。
今後も皆さんのご協力を是非ともお願いしたい」

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記念講演は山本義隆氏の紹介で、長崎浩氏が「樺美智子と私の60年代」というタイトルで約1時間話をされた。
講演を受けて2名の方から質問があった。
(講演の詳細及び質問は後日掲載しますので、ここでは省略します)

これで前半を終了し、休憩に入る前に参加者の一人から、去る2月1日のミャンマーでの軍事クーデターとたたかうミャンマーの人々を支援する署名の訴えがあった。

休憩を挟んで後半は、映画「きみが死んだあとで」公開報告、若者からの問題提起と協力団体からの挨拶があった。
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●映画「きみが死んだあとで」公開報告(代島監督)
長崎先生のお話は樺さんが亡くなったあとの時代、60年代でしたが、僕の映画は山﨑博昭さんが死んだあと、68年、69年、そして70年代、そのあと、さきほど1987年大学入学の方の質問にもありましたけれど、そのあとの若者の運動がどうなっていったのか。60年代のあとはすでに惰性体だと長崎先生は仰っていましたけれども、その惰性体がどうやって現在までこの国に続いてきたのか、そんな事を問いかける映画として作りました。
映画の公開にあたって加藤登紀子さんと映画について話しました。加藤さんはこの映画を3回観てくれて。3度ともはまって2回泣いたと言っていました。加藤登紀子さんはどちらかと言うと60年安保世代です。高校3年生の時に60年安保だったそうです。お兄さんたちは皆ブントの活動家で、家はブントの巣窟だったようなことを言っていました。長崎先生は60年安保は一つの革命だったと言っていましたけれども、加藤登紀子さんも、あれは“いっときの夏”だったんだと、そういう“いっときの夏”という体験を国として持つというか、国民として持つということは非常に大事なことなんだ、ということを話しました。その映像を観ていただきたいと思います。(ユーチューブの約9分の映像です。)

加藤登紀子(歌手)×代島治彦(本作監督)スペシャル対談
https://youtu.be/dgFo1EWNpeE

僕としては「きみが死んだあとで」という映画で、山﨑博昭さんが亡くなったあと、“いっときの夏”、輝いた光となった時代があった、でも来年浅間山荘、連赤の事件から50年を迎えますけれども、なぜ夏が冬に、光が闇に代わってしまったのか、なかなか解けない課題ですけれど、そういうものを観た人に自分で反芻していただいたり、若い人にはこういう時代があったんだというのを感じてもらったりしたいと思っています。
今大阪では公開は続いていまして、もうすぐ宮崎市で公開で、今週末から札幌で公開が始まったり、山形、福島、仙台は公開が終わっていますが、日本全国ミニシアターが中心ですけれども、これからも公開が続きます。あとは東京での公開がコロナの緊急事態宣言下だったものですからなかなか動員が進まなくて、5週間で打ち切りになりましたけれども、コロナの緊急事態が落ち着きましたら、ユーロスペ-スでアンコール・ロードショーをやろうということになっていますので、是非また応援してください。

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●若者からの問題提起
現在、東京大学の修士課程に所属しています大学院生の田中駿介と申します。このプロジェクトを最初に知ったのは、4年前文京区・根津で展示会をやっていた時に友人と行って、もともと高校時代に予算の問題とか校則の問題とかに取り組んでいたとか、私の出身が北海道のアイヌの人たちが強制的に住まわされていた地区ということもあり、学生運動の歴史にも関心があったし、自分自身も運動に関わってきていたということから、いろいろな縁があり、こうして関わりを持たせていただいています。
代島監督の「きみが死んだあとで」を巡って、さまざまな人の意見を聴きたいということで、60年代の学生運動やそのあとのセクトの話とか、そういう問題を必ずしも知らないような10代20代の人たちがこの映画を観てどのように捉えたのかということを話を聴いて、それをこの場で共有してほしいと佐々木さんと10・8の会からありましたので、私から報告させていただきます。
今回、代島監督が大阪からZOOMで参加していただいて、学生も東北、東京からということで、全国同時中継という形で行いましたので、その一部を流します。

(6月6日開催の「映画を語る会」の録画映像が流れる)

今回4名でお話をして、そこに監督が3時間もお付き合いいただきました。
こうした運動の歴史を語り継ぐということと、今抱えている人権の問題だとか貧困の問題だとか、平和を巡る闘いにどう結び付くのかもっと示してほしい、という提起がありました。また、この映画を通じて当時の運動を知ることができてよかった。これからどうやって歴史を継承していけるか、自分の問題として考えていきたい、というお話もありました。
本当に活発な議論が出来て、さらに単にこの映画を観た感想だけではなくて、このあと自分たちがどうやって運動や大学やそれぞれの現場でこういった話を共有していくかということが提起できて、非常に意義深い会議になったと思います。
長崎先生からあった樺美智子さんの死、国民運動という問題がありましたが、あの被害の戦争を繰り返さないとされた60年安保から、67年10・8というのは単にそれだけでなくて、自らの加害性であったり、ベトナム戦争に加担しているんだということで学生たちが立ち上がったものだと思います。
日本人にとってベトナムという地がどういうものだったのか、改めて考えなければいけないと思います。会議に参加した女性は技能実習生の支援活動に関わっています。今の日本の社会、資本主義のシステムが農業であったり工業であったり、ベトナムの安い労働力に頼って彼ら彼女たちを搾取する形で成り立っている、こうした状況というは、ベトナム戦争とは全く違う形かもしれませんが、やはり自らも加害性の当事者であるということは提起できると思います。当時の運動というのが、単に歴史的事実ではなくて、今の運動、今の問題に関わっていくことだということを訴えて共有していきたいと思います。


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このあと、集会に参加していた「映画を語る会」参加者船橋秀人さんから発言があった。
「2019年に東洋大学で竹中平蔵反対アクションで闘いました。
代島さんもこの映画の中で仰っていましたが、どうしてもこの時代が闇に覆われてたものとして描かれてしまっていて、光が描かれていないところを問題視していたと思います。それはすごく僕も同じですし、60年代を闘った皆さんを含めて、それが最終的に全共闘運動になる、自己批判と言われる中で結実していくものは、生きた証人として僕に受け継がれていますので、その点皆さんは自信を持っていただきたいですし、ちゃんと語り継いでほしいと思います。)
加害性だったり自己批判だったり、自由を求めた運動だったり、見せかけの権威に対する疑いだったり、そういたものは確実に僕に受け継がれていますし、この映画ですごく印象的だったのが、山﨑さんという具体的な個人が死んだということで、皆さんすごく重く受け止めて考えざるを得なかった。先生がどうだ世間がどうだじゃなくて、何よりも自分自身がそれについて考えざるを得なかった、そこが重要だと思っていて、そういった中で皆さんその後の人生を歩んでこられた。たぶん逃げたこともあったでしようし、前に進もうとしたこともあったでしょうし、そういう事も含めて伝えてください。伝えない事はいい事ではありません。
今の若い人が運動しているのはどうしても限界があるなと見受けられます、運動していくにあたって、60年代の皆さんが提起した問題というのは今も続いている。そういった時に歴史というのが必要になってくる。私たちはどうやって生まれてきて、どこに向かっていくのか。そういった意味でこの運動というのは意義深いものだと思いますので、是非継承していただきたいし、僕も受け継いで自由を求める一個の人間として生きていきたいと思いますので、是非皆さんよろしくお願いします。(拍手)」

●協力団体からの挨拶
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1,「声なき声の会」
「声なき声の会」の世話人をしています細田といいます。
「声なき声の会」は60年安保闘争の中で生まれた市民の会です。中学校の教員だった小林トミさんという方が、安保のデモに参加したいがどこにも入るところないということで、自分でプラカードを作て歩き始める。それが発端になって始まった会です。それが61年続いています。
僕自身はベ平連の運動に関わって、その関連で新宿にある「模索舎」の創期に関わりながら「声なき声の会」に関わってきた者です。
樺さんが亡くなって次の年の6月15日、小林トミさんは追悼の集会に大勢の人が来るだろうと思っていたら、実際に行ってみたら本当に少なくて、そのことがすごくショックだった。それで6月15日、樺美智子さんを決して忘れない、その集会をとても大事なものとして「声なき声の会」は取り組んできました。
私自身は1970年の中くらいから「声なき声の会」に関わりますが、小林さんが亡くなったあとも、遺志を継いで献花と集会を開いてきました。去年、60周年で大きな集会を計画しましたが、コロナの影響で中止せざるを得ませんでした。今年も高齢の方がいらっしゃるので残念ながら中止しました、ただ献花は続けています。今年も6月15日の午後7時から献花を呼び掛けています。
今日、このようなコロナ禍の中で集会を開いていただいた10・8山﨑博昭プロジェクトの方々に敬意を表しまして「声なき声の会」からのご挨拶としたいと思います。

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2.「糟谷孝幸プロジェクト」
糟谷プロジェクトの世話人の白川真澄と申します。
糟谷孝幸が1969年、大阪の地で殺されて、ちょうど半世紀を経て、彼の思いを語り継ぐ本を出したいということで、皆さんの協力を得て、昨年11月に「語り継ぐ1969」という本の出版にこぎつけました。
本の出版や糟谷プロジェクトの立ち上げについては、山﨑プロジェクトの方々、特に山﨑さんのお兄さんに大変お世話になったり、貴重な助言をいただき大変感謝申し上げます。
この本の出版記念ということで、シンポジウムを今年の1月に企画しましたが、コロナの影響で中止せざるを得ませんでした。今年の11月までには、もう一度オンラインを含めてシンポジウムを企画したいと思いますので、皆様の参加をお願いしたいと思います。
シンポジウムで議論したいことはいろいろありますが、本の編集をしてみて、60年代の運動、67年から70年に至る運動をきちんと総括して語り継ぐ上で、残されている論点がいろいろあるということに気づかされました。その一つが暴力の問題ということだと思います。
現在、世界における人々の闘いは、ミャンマーの闘いもそうですけれど、基本的には非暴力直接行動で展開されているわけですが、この67年70年の闘いというものを考えてみると、基本的は大衆的実力闘争という形を取ったと思います。路上に座り込んだり、石を投げたり、あるいは角材を用意するとか、火炎瓶を投げるとか、鉄パイプまで行くということであったわけで、これは紛れもない暴力であったわけですが、私はこれは非暴力直接行動の延長線上にあった、つまり自分の身体を使って権力に抵抗するという闘いというものが本質にあったと思います。つまりそこには民衆の暴力というものが、ある種の限定性、あるいは防衛性、あるいは抵抗性というものがあって、これは相手を殺しもいいんだ、殲滅するんだという戦争の論理と自分たちの暴力というものを区別しようという意識がどこかで働いていたんじゃないかと思う。私はそういう暗黙のルールが、大衆的実力闘争の中にはあったと思います。
当時、これは新左翼運動全体で言えば革命的暴力という言葉で括りました。これはある意味便利な言葉で、革命戦争ともつながるし、あるいは重火器を使った武装闘争ともつながるということで、そこに民衆の暴力の持つ抵抗性、限定性というものと、権力を取るための攻撃性、あるいは相手を殺すための闘い、そういったものとの区別が意識的にされていなかったということがあったと思います。私はその点はきちんと総括しなければいけないと考えています。そういう民衆の暴力の限定性、あるいは抵抗の暴力であるという限定性を持たなかったということが、その後の暴力の堕落を招いた。それは内ゲバの問題、これを直視しなければ後世の人たちに、この闘いをきちんと語り継いでいくことはできないだろうと考えています。
もう一つは、そういう暴力あるいは戦争、毛沢東は銃口から兵力が生まれると言いましたが、そういった革命戦争の中から生まれた国家というものが、どのように変質するかということを、私たちは半世紀を経てまざまざと見ているわけで、中国の現実を見た時に、若い人たちにこの事を語る時に、やはりベトナム戦争を含めて、当時の暴力という問題がどうであったかということを、きちんと私たちが総括して伝えていかなければ説得力がないと思います。
そういう意味で、現代の新しい社会を考えていく時に、暴力の問題というものをどう考えたらいいのか、ということを抜きにしては将来を考えることができないのではないかと思います。非常に大きなテーマでありますけれども、糟谷プロジェクトでは討論の一つとして、シンポジウムでも取り上げていきたいと思いますので、よろしくご参加をいただきたいと思います。
山﨑プロジェクトのご協力に改めて感謝申し上げて終りたいと思います。

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3.「中村克己君墓碑委員会」
墓碑委員会の鈴木淳夫と申します。
中村君の墓碑委員会というのは現在は無いわけですが、構成してきた我々にとってはずっと続いておりまして、中村君虐殺に関するお話をさせていただきたいと思います。
1970年2月25日、府中市の京王線「武蔵野台」駅頭でビラまき中に右翼体育会系学生の突然の襲撃があって、その混乱のさなか、当時日大商学部の学生だった中村克己君が亡くなりました。
当時日大闘争は、69年の終わりから、当局は疎開授業という形でバリケード封鎖されているところから離れたところで授業をしようという企みがありまして、特に1年生については、文理学部は世田谷に校舎がありますが、府中市旭町に鉄条網で囲まれたプレハブ校舎を建てて、そこで1年生の授業を始めたわけです。70年の2月ということで、1年生の試験が行われる。学年末でそこで終了するということで、文理学部闘争委員会が1年生に対するビラまきを始めたわけです。そこへ体育会系学生が、近所に飯場がありまして、そこで鉄筋の棒とか角材を用意して突然襲ってくる、そういう経過があったわけです。その中で中村君が倒れて、3月2日に亡くなります。亡くなると同時に警視庁は、電車事故による自損行為であるという形で発表して、右翼の暴力はまるでなかったという形で真相を隠蔽した。一方、襲われた部隊は29名が逮捕されて、その中の一人の高橋成一君が起訴されて裁判になるわけです。その裁判も、そもそもは傷害、暴力行為、凶器準備集合という罪名だったんですが、裁判の時は凶器準備集合だけになります。凶器準備集合というのは、凶器らしきもの集めただけで対象になる。ですから、当日右翼が襲ってきたこと、乱闘があったこと、そういう闘いがあったことが一切抜け落ちているわけです。言ってみれば、それを隠蔽しようということで、当局は凶器準備集合だけで裁判をする。そういう経過があって、極めて不当なものです。裁判は4年続きますが、何と判決が罰金5万円でした。29名が逮捕されて、高橋君が1ケ月以上拘束されて、そういう事件の裁判だったわけです、ところが交通違反じゃないですよ。罰金5万円です。その辺の政治的匂いがする裁判だった。それとは別に告発闘争をやりましたが、結果としては裁判闘争が終り、現在に至るような感じです。
中村君が3月2日に亡くなって、1年後に千葉県八千代市の霊園に中村君の墓(墓碑)が作られて、墓前祭を行って、その後毎年墓参を続けてきました。当初は真相究明委員会を作り、後にただ真相を探っていてもしょうがない、闘わなければいけないということで、糾弾委員会と名前を変えて、中村君虐殺糾弾委員会という形でずっと活動を続けてきました。ところが告発闘争も終り、裁判闘争も終り、墓碑の維持管理ということで中村克己墓碑委員会と改めてずっと続けてきたわけです。墓碑は中村家の墓と併設して作られましたが、2012年に中村家の墓が中村君の遺骨とともに別のところに移ります。そこで、墓碑委員会の責任で(墓碑を)処分することになりました。2020年2月の墓参を最後として、記録として墓碑を拓本として残しました。2012年に最後の墓参をして、去年4月に墓碑は撤去し、11月には墓碑委員会も解散になります。ただ解散と言っても、中村君虐殺の運動はこれからもずっと続けていかなければならないことですし、糾弾委員会、墓碑委員会としてやってきた者としては、ずっと続けていくことだと思っています。
最後に一つだけ話をさせていただくと、本日は60年代の死者を考えるということで、樺さん、山﨑さん、糟谷さんと権力に虐殺された人たちの死を追悼するということでやっておりますが、中村君もそういう闘いの中で亡くなりましたが、私どもからすると、ちょっと違うなという感じがあるわけです。それは何かというと、中村君が戦ったのは機動隊が相手ではなくて、右翼体育会系学生で二十数名でしたが、十数名は特定されている。顔が分かるんです。そういう中で今日まで続いてきたのは、私からすると非常に重い。引きずっている。個人的には死ぬまで抱え込んでいくしかないと思っています。
樺さん、山﨑さん、糟谷さんと一緒にこういう問題に取り組んでいけるというのは、非常に心強い気がします。本日、こういう機会を与えてくださって感謝しております。

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4.「津本忠雄君追悼のメッセージ」(司会:佐々木幹郎氏が代読)
津本忠雄は関西大学の学生でしたが、1969年の9月に京大闘争に参加し、京大の近くの百万遍の交差点近くで、街頭での機動隊との衝突の中で、火炎瓶の炎に全身焼かれて死亡するという、そういう歴史を持っています。
関大の仲間だった高木敏克さんからメッセージが届いています。
<メッセージ>
津本忠雄について。
津本忠雄は、1949年4月7日に生まれ、1965年に富山県立高岡高校に入学した。すぐに政治経済クラブに入部して民青に入ったが、1966年8月から疑問を持ち脱退した。この時期、政治闘争から思想闘争に目覚めたのが、新左翼と呼ばれる全学連であり、この運動に自らの哲学の樹立を目指して、彼は富山県における反戦高協の結成に努力し、一浪生活を大阪で過ごしながら全学連の政治集会に参加し、詩を書き続けた。
1969年、関西大学に入学すると、彼は全学連マル学同中核派の闘争に参加し、理論家を目指した。当時の関西大学中核派の拠点は哲学研究会であった。ここでも中核派と革マル派の部員の白熱した論争が続いていた。この革命的共産主義者同盟の内部の葛藤は、初期の段階では奥浩平の遺稿集「青春の墓標」で象徴されるように、自殺した学生の遺稿文学として話題になっていて読まれていた。初期には政治と哲学の間の自己矛盾と乖離という大きな問題意識が、他方で政治と文学の矛盾と乖離という問題意識として、主に京都の各大学で進展して行ったことは興味深いことでもある。自己疎外的状況が哲学で行き詰まるのに対して、文学は時代状況を切り拓き、多くの文学作品を生み出したように思える。逆に政治と哲学の疎外関係は停滞し、このことがその後の内ゲバ問題に発展していったのではないか、と私は思っています。哲学的課題を残したまま文学に流れて行ったグループは、この時代の根深い謎を止揚していったのではないか。以外と思われるかもしれないが、現在史とは、その批評精神が無意識的な流れの中で思考停滞を止揚して、その後の文化基盤を拓いているのではないか、と私は思う。
京都を死に場所に選んだ詩人津本忠雄は、そのような流れの中で一人沈黙したが、私には語り続ける存在である。

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協力団体からの挨拶とメッセージの代読が終り、最後に辻恵氏から今後の活動計画について説明があった。
「皆さん、お疲れ様です。関西でも長崎浩さんにお越しいただいて、同じような形式でシンポジウムをやる予定にしております。
秋の集会は10月に東京で、10月末に大阪でやります。2014年から数えると8回目、大阪は7回目になりますけれども、どういう内容で、どういう人に来ていただいてというのはまだ議論の途中ですので、夏過ぎまでにはご案内できるのかなと思っています。
2014年の7月から2018年の10月までを第一ステージということで、プロジェクトの活動をやってきました。第二ステージで2022年の10月までやろうということを決めて何をやってきたのかというと、一つは、次の世代にどういう風に引き継げるのかということで、若者との連携ということで、関西を中心に若手の研究者が歴史の題材として三里塚闘争や当時のいろんな闘いを扱って、横のネットワークで100人近い若手研究者の人たちが、60年代70年代をいろいろ研究されているということで、山﨑プロジェクトの側としては、そういう人たちをお招きして、今まで集会をやろうとしてきました。第二ステージの発起人にも、若手研究者の人たちになっていただいていいます。そういう若手研究者の方々との連携をどうしていくのかということと、一方で本来の運動で頑張ろうとしている若い人たちとの接点も何とかしていきたい、ということで活動しています。
2019年の京大11月祭に、初めて山﨑博昭プロジェクトの企画を京大の大学院生、学生が設けてくれて、4日間シンポジウムをしたり企画展をやったりしました。その時は、京大の吉田寮が廃寮攻撃で募集を中止したということで、明け渡し訴訟を起こされているんですね。それを支援しなければいけないということで、京大の吉田寮を訪ねていったりということもやりました。そういう意味では、若者にどう広げていくのかということ、次の世代にどう残していくのかということ、50周年記念誌は非常によかったと思いますけれども、さらに具体的に声を発信していきたいと思います。
50周年集会の時も、ウィリアム・マロッティさんという日本の60年代の学生運動を研究しているアメリカの学者さんが、ビデオ・メッセージで参加してくださいましたが、その後、当時のアメリカのコロンビア大学の学生運動のリーダーで、爆弾闘争をやって8年くらい地下に潜っていた後自首して刑務所に収監された後、現在も気候問題などの社会運動を続けているマーク・ラッドさんをお招きして、東京でもシンポジウムをやり、大阪でも大きな集会をやり、京都の円山公園の音楽堂で行われた反原発集会で発言をしていただく、というようなこともやりました。我々はアメリカで68年から50周年だから盛り上がると思っていたんですが、なかなかパッとしなかった。
そういう中で「きみが死んだあとで」という映画が、ものすごく大きなインパクトになって、もう1回大きなうねりが作り出せればうれしいなと思っているところです。
映画を観て、賛同人がボチボチ増えているという状況で、700人近くになっています。

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私たちはもともと、発起人と賛同人が一緒になっていろんなものを作り出していきたいということで、発起人と賛同人の意見交換で今後のプロジェクトをどのように進めていくのかということを考えていく機会を今まで3、4回設定しましたが、なかなか機能していませんが、とりあえずホームページでいろいろな方からのご意見をお寄せいただいて、そこを議論の場にしながら当時を考える、山﨑プロジェクトの今後も考えるという活動で来年まで継続していきたいと思っています。山本義隆さんのリニア新幹線の論考をホームページに載せたところ、大きな反響があって、それを受けてみすず書房で出版になったということもありますし、代島監督の映画の書評をホームページで紹介していることを通じて、いろいろな方から声が寄せられています。
それに限らず、当時のこんな事をもっと議論しようじゃないか、というような事をホームページやネット関係で皆さんからご意見をいただいて、700人近い賛同人と一緒に考えながら、来年の10月までを第二ステージにしていますけれども、その後どうするのか議論していきたいと率直に思っています。
2022年まで何で第二ステージを伸ばしたのかというと、沖縄(返還)50周年ということがありましたから、沖縄の問題を我々はどう考えていけばいいのか、というところなんです。本土側から何か言うだけでなく、沖縄でどうなんだというところが非常に問題なので、当時の琉球新報とか沖縄タイムスとか、当時の沖縄での反応、マスコミ的状況はどうだったのかということや、いろいろ研究し考えていきたいと思っています。
その辺の議論を深める場として、10月の集会はもっと若者から企画を出してもらって、半分くらい若者が仕切ってもらうような集会の持ち方もあるのではないかと思っていて、今日お集まりいただいた皆さんが、ご意見なりお感じになったことをご指摘いただいて、一緒に今後のこのプロジェクトを作っていければいいな、と思います。
以上、経過報告と来年に向けた事務局としての議論の現段階をお伝えさせていただきました。
皆さんよろしくお願いいたします。」

これで集会は閉会した。今回は、コロナの緊急事態宣言下ということもあり、いつものようなプロジェクト関係者と参加者を交えた懇親会は開催されなかった。皆さんと情報交換などができなかったのが残念である。
6月26日(土)に大阪で同じ内容で関西集会があるので、盛会を期待したい。

※ 長崎浩氏の講演は、後日ブログに掲載予定です。
(終)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html

【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月9日(金)に更新予定です。

今回のブログは、昨年(2020年)12月に開催した明大土曜会での土屋源太郎さん(伊達判決を生かす会)のお話である。参加者からの質問を基に土屋さんが答える形で、砂川闘争の裁判や安保・沖縄問題などについて語っていただいた。

【明大土曜会】2020.12.5
司会「今回の明大土曜会は第60回になります。2011年2月に第1回の明大土曜会を開催し、その時も土屋源太郎さんを呼んでお話を聴きました。来年で10年目になりますが、60回目の記念の会ということで土屋さんに来ていただきました。
今回は講演ではなく、こちらから質問してそれに土屋さんが答えていただくという形式でやります。」

【土屋源太郎さんとのフリート-ク】
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「伊達判決(注1)の最高裁跳躍上告(注2)の時に、何か裏工作があると思っていたか?」
(注1:1957年7月、米軍立川基地拡張に反対するデモ隊の一部が柵を壊し基地内に侵入したとして日米安保条約に基づく特別措置法により逮捕・起訴された。東京地裁の伊達裁判長は、日米安保条約に基づく駐留米軍は憲法違反であり、デモ隊の行為は無罪であるという判決を出した。)
(注2:第1審判決に対し、控訴を経ずに最高裁判所に申し立てを行うこと。)

土屋「伊達判決が出て翌々日くらいに跳躍上告なので、何かあるとは思っていた。伊達判決が出たことによって、日米安保条約の交渉に相当影響していることは分かっていた。結局、弁護団も我々もそれ以上の追求はしなかった。そこには何かがあると思っていたが、それほど深く考えなかった。司法の独立という幻想を持っていた。」

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「伊達判決が出たのが3月30日。当日の新聞夕刊記事に砂川闘争の伊達判決を報じた記事とともに、もう最高裁への飛躍上告の記事が出ている。かなり新聞社としてもこの問題についての蓄積があったのではないか。」

土屋「当時の砂川闘争については、新聞社もずっと取り上げていた。3月30日の判決当日だけでなく、何日もいろんな形で取り上げていた。それだけ反響があったということは、駐留米軍が違憲という判決は初めてだったから。それと砂川闘争というのは、千人からの負傷者を出した『流血の砂川』と言われるような闘争だということが、多くの人に知られていた。」

「60年安保改定を前に、伊達判決は喉に棘が突き刺さったようなものだったので、権力側としてはありとあらゆる手を使って伊達判決を撤回して、安保は合憲としたかった。それに対して土屋さんを含めて被告になっていた側の闘いは大きな弁護団を作ってやっていましたが、裁判そのものは盛り上がっていましたか?」

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土屋「58年の初めころから安保改定交渉が始まる。安保改定の目玉は、日本が攻撃された時に駐留米軍がそれに対抗する行動を取るという条項を入れることだった。それまでは国内の騒乱があった時には駐留米軍が対応するという条項はあった。
57年から下交渉があって、58年から委員会で協議して59年春に改定安保条約を国会に提出する予定だった。その前の3月にこの判決が出て大慌てになった。それで日本側として早期に潰すという流れの中で、砂川裁判があった。59年の12月に最高裁で判決が出て、60年早々に安保条約改定に入っていく。全部アメリカ政府の中で、そのスケジュールが組まれていたということ。」

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「統治行為論の判決は米軍が合憲だとか判断しない、裁判所として高度の政治的なことは判断しないとなる。一方、沖縄県の辺野古訴訟では政権に都合よいところは政治的に踏み込む判決を出している。この59年から60年の判決はどのように位置付けられるのか。」

土屋「この問題は非常に重要。伊達判決は、米軍駐留は日本の要請で基地提供の資金を日本が出している。そういう状況の中で指揮権・管理権が日本側にないとしても、仮に米軍が戦争に巻き込まれた場合、当然日本国も基地があることによって巻き込まれる。だから明らかにこれは日本における戦力と同じものである。だから憲法9条に違反するという趣旨。最高裁の判決は、米軍駐留については、日本は自衛をする権利はあるが、自衛をするだけの力がない。力がないから米軍に駐留を許している。さらに指揮権・管理権が日本にないから日本の軍隊ではないし戦力ではないので米軍駐留は認める。ただし、安保条約のような高度な政治性のあるものについては、司法が介入すべきでないという統治行為論。
ところが、今年、この統治行為論についの最高裁の調査官メモが発見された。調査官はいろいろな資料を集めたり、伊達判決の内容を解明する仕事をしていた。
その中で、驚くべきことは統治行為論については、15人の裁判官のうち6人か7人しか賛成しなかった。少数意見だった。むしろ多数は使うべきではないという判断だった。
ところが最終的に田中裁判長の判断で結果的に採用することになった。だから最高裁判決を読むとすごく矛盾している。安保条約に基づく駐留米軍があるにもかかわらず、安保条約に関する審議はしない。

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安保交渉の背景があるので、伊達判決を早く破棄するのが最高裁の中心の課題だったと思う。結果として訳のわからない無理筋の判決を出した。ところが、この統治行為論があるために、いろんな所の裁判が統治行為論で出口で全部シャットアウトされている。非常にこれが問題。本来なら統治行為論について見直しをすべきだ。
この問題は非常に大きい問題なので、マスコミもなかなか取り上げない。朝日新聞くらいだ。これを今度の裁判で追及していこうと思っている。」

「米軍を巡る下級審の裁判では統治行為論が呪縛をもたらしている。去年4月に沖縄の安和桟橋に行った時に、普天間基地爆音訴訟の団長が那覇地裁での判決についてマイクを握り、『基地爆音という住民の切実な願いに司法は全く目を向けようとしない。この国にこういう司法判断がある。我々としては、みっともない裁判である』ということを言っている。」

土屋「爆音訴訟の問題に関連して話をすると、砂川裁判の最高裁判決で統治行為論が出ると同時に、そこで暗黙の判決の趣旨としては、安保条約に触れないということは、安保条約は日本の憲法の上位にあるということを実質的に認めた。そのために米軍駐留について日本の国内法を適用しないことが問題になっている。だから今、訴訟があった場合、爆音によって被害が出たものについては被害の補償をする。ただし夜間飛行の停止とかそういうものについては、日本の国内法を適用することはできないということで、自衛隊の夜間飛行は禁止する、米軍の夜間飛行は依然として停止もしなければ低空飛行も禁止はしない。その上で横田空域の管理は米軍がしている。それすらも止めにできないというのが実態としてある。それは全て砂川裁判の最高裁判決の統治行為論などがいろんな形で影響している。
そこにもってきて、今度の安保法制で安倍政権が砂川最高裁判決で集団的自衛権を認めるなんて馬鹿なことを言い出して(注3)、それもあるから我々は裁判にもっていった。今回の再審請求もそれがあるからぶつけた。イタリアでは国内法が適用されて、米軍が出動するにしてもイタリア側の許可がいる。日本とは全然違う。フィリピンでさえ基地を一時撤去させたからね。何も触れないでそのままずっと占領のような状態を維持しているのは日本だけ。安保条約は10年経過したら毎年変更協議ができることになっている。1回もやったことがないけれど。」
(注3:「砂川最高裁判決が集団的自衛権行使の根拠になりうる」という発言)

「11月に屋良朝博議員(沖縄3区・立憲)と勉強会をやって、普天間問題の見解を聞いた。屋良さんは、安保条約がどうこうではなく、普天間基地の返還はアメリカの事情で実現できる。その根拠は普天間の機能として一つは空中給油機の配備がある、これは岩国に移転している。二つ目はいざという時のアメリカから派遣される応援米軍の受け入れ。これは福岡と宮崎の自衛隊基地で受け入れの準備が進んでいる。三つ目はオスプレイの訓練の問題。これは佐賀と岩国で受け入れる可能性がある。日米安保を前提とした上で、県外移設を進めれば基地問題は解決する。そのことを実現するためには政権交代が必要という論理だった。
また小川和久(注4)は県内でうまく回せば普天間基地はすぐ返せるという主張をしている。キャンプハンセンにもともと飛行場あったので、その飛行場をもう1回作り直せばOKだということ。彼は一時自民党のブレーンをしていた。
このような発言は、安保条約の有り無しに関わらず、安保条約を認めた上でも出来るという考え方だが、そういう考えについてはどうか。」
(注4:軍事アナリスト)

土屋「その考えは非常に重要な問題。この間静岡で『沖縄を語る会』があり、オンラインで前泊さん(注5)を呼んだ。彼は非常にはっきりしている。彼は『辺野古移転問題は単に普天間基地の代替施設を作ることに対する反対ではない。基本的な本来の考え方は沖縄から基地をなくすという考え方。ところがオール沖縄にするためには、そこまで出すとまとまらない。しかし現実にはいろいろな矛盾が出てきた。玉城デニーになって、基本的には玉城さんも安保条約は賛成。だから基地をなくせという発想ではない。基地を辺野古に作ることは反対なので、そこに問題がある』と言っていた。だから問題はそこなんだよ。沖縄の中でも安保条約に反対だから辺野古の基地はダメということと、単に普天間基地を辺野古に移設して膨大な費用をかけることに反対するということがあり、共闘体制での内部がガタついていることも事実。
そこの難しさがあり、当初はあまり言わなかったが、『独立論』が出てきている。このまま日本で交渉させても、安保条約がある以上交渉は進まないだろう。そうではなくて沖縄は独立して直接アメリカと交渉することによって、安保条約を含めた全体的な交渉ができるということ。沖縄の中でもいろいろ出てきている。
玉城知事の親分は小沢一郎。その辺が微妙に働いているのも事実。
本来は、まとめて行くためには、安保の問題も大事だが、まず辺野古移設を止めるのを第一目標にする必要がある。」
(注5:前泊博盛・ジャーナリスト・沖縄国際大学大学院教授)

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「南西諸島のミサイル配備問題については。」

土屋「自衛隊が今、配備を進めているが、玉城さんは反対していない。黙っている。地元では反対運動があるが、それには触れない。現実には相当作られてしまった。」。

「石垣島の反対運動の人に話を聞いたことがある。社民系と共産系、さらに本土から移住してきた人と土着の人が足の引っ張り合いをしている間にどんどん基地ができてしまっているという状況がある。宮古島もゴルフ場だったところが均されてフェンスができている。安保の問題を言わないで反基地だけを言うと、自衛隊基地ならいいのかという問題になってしまう。本来そうではないと思っているので、その辺をどう訴えていくのか。」

土屋「そういう意味でも、できればこちらから沖縄に行って交流すると同時に、現地の若い人たちと、こちらの若い人たちと交流をやって、どういう考え方を彼らが持っているか知る機会を持つ必要があるのではないか。」

「県民投票をやった元山さんと話したことがある。『沖縄の運動を沖縄の人だけでやってナショナリズムの話にしたら負けるだろう。だから普遍的な平和主義とかそういう問題で巻き込んでやった方がいい』という話をしたら、『それは違う。沖縄人によってやらなければいけない』という話をされていた。玉城さんの主張は『イデオロギーよりアイデンティティ』。最終的には平和主義とか、そういうイデオロギーでやっていかないと、結局日本国家とかアメリカ国家とか、そういう巨大なアイデンティティに勝てないんじゃないかと思っている。沖縄で運動をやっている若い世代の人は、沖縄人としての自覚みたいなところから運動に関わる人が多いような気がする。そこをどうすり合わせていけるのか分からない。」

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「1950年代当時、砂川だけでなく全国で基地反対闘争が盛り上がっていた。その闘争との交流や影響はあったのか。」


土屋「内灘とか基地反対闘争があって、交流があった。その人たちも砂川に応援に来た。いろいろな交流があり、全国的な運動として広まった。というのは、50年代は日本の基地は8割が本土、2割が沖縄だった。60年代以降になってどんどん沖縄に移していく。それで7対3という逆転現象を起こしていく。
もう一つ今年になって分かったことがあった。それは砂川基地の拡張について我々は冷戦があって、近代兵器の大型のジェット機を飛ばすために滑走路の延長が必要だと考えていた。ところがそれにプラス、どういう問題があったかというと、52年に朝鮮戦争が終息を迎える。47年頃からベトナム民主共和国の独立運動に対しフランスが闘って戦争になっていた。米国はそれに対して資金的な援助はしていたが、フランスが敗けて押されてくる。それと朝鮮戦争の終結の目途が付いた。そこで米軍がベトナムに介入することを決める。それを決めることによって、米軍立川基地をベトナム攻撃のための基地として使いたい、そのための延長ということが背景にあったようだ。それから原爆を小型化して地雷にする。その原爆地雷を積み込んで行くという計画があったらしい。でも軍の内部で対立があって、結果的にそれはやらずに枯葉剤になった。それは今年の春、アメリカの資料で発見された。
今年はこの件と統治行為論の調査官メモが新しく発見された。歴史ってすごいね、これだけ経ってもそういうことが分かってくるんだから。」

「砂川事件国賠訴訟(注5)で国側はアメリカ政府公文書の存在についてどうのように主張しているのか。」

土屋「再審請求が却下になって国賠訴訟をすることになった。この裁判でひどいことは、国側は最初に何と言ったかというと『公文書の文章は不知』と言った。そればかりか、この文章はアメリカのマッカーサー大使が一部捏造したのではないか。また、通訳が入ったり、タイピストに打たせたりしているので、真意が伝わっていないと同時に大使の私見も入り込んだ形で文章を出しているのではないかということまで言い出している。それに対して我々は、公文書館に直接国側が文章を取り寄せろと主張した。裁判所は国に文章の調査を求めた。もし調査をしなければ、しないなりの理由を出せと言った。ところが国側からは『公文書について捏造したというようなことは今後触れない』という回答だけが来た。公文書がないとかではなく、触れませんという回答だけが来た。今度の裁判はこれが非常に大きな問題になる。
また皆さんに裁判への協力をお願いしたい。」

(注5:伊達判決の一審判決を覆す最高裁判決を出した当時の田中耕太郎最高裁長官が駐日米大使らに、審理進行中の裁判情報を漏洩・提供していたことは憲法37条が定めた「公平な裁判を受ける権利」を侵害するものだとして、砂川事件元被告人ら3人が、2019年3月に国を相手取り東京地裁に国家賠償請求訴訟を提起した。)

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(沖縄意見広告 朝日新聞朝刊2021年6月6日:土屋さんは「沖縄意見広告運動」の共同代表です)

※フリートークの前半はこれで終了しました。
後半は明大の自治会と全学連の話になります。後半は今後ブログに掲載予定です。

(つづく)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は6月25日(金)に更新予定です。

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