野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2021年07月

2021年6月12日、東京・四谷の主婦会館プラザエフで10・8山﨑博昭プロジェクト主催による6月東京集会「60年代の死者を考えるーレクイエムを超えて」が開催された。
No572でその報告(記念講演を除く)を掲載したが、今回は長崎浩氏の記念講演を、その前後の講師紹介と質疑を含めて掲載する。
なお、記念講演の部分は、10・8山﨑博昭プロジェクト事務局のご厚意により、プロジェクトのサイトから転載させていただいた。

【長崎浩氏記念講演 「樺美智子と私の60年代」】

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司会:佐々木幹郎
それでは記念講演に移りたいと思います。今日は長崎浩さんをお招きしています。
実は私は20代の始め、まだ大学生の時ですけれども、半世紀以上前、恐れ多いことですが、長崎浩さんと対談させていただいたんですね、日本読書新聞というところで。ですからそれ以来半世紀以上超えて、今日2度目にお会いしております。
長崎さんの紹介を山本義隆から、よろしくお願いします。

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●講師紹介 山本義隆氏
山本です。長崎さんは60年代、60年安保闘争以来ずっと闘ってこられて、その後も60年代のいわゆる新左翼運動について、一貫して鋭い論評をしてこられた方で、だからそういう有名な方で、改めて紹介することもないんですけれども、若干個人的なことを言うとくかなと思います。
実は長崎さんは東大の物理学科の出身で、僕の4年先輩なんですよね。だから僕はもちろん大学院の時から知ってましたけども、いろいろ教わって頭が上がらなかったですけど、今でもそんな感じですけども。ある意味、学生時代そうだったと言うのは歳取っても変わらんですね。
一つだけ、いろんなこと長崎さんから学んだんですけど、64~5年頃かな、6月15日に大学の中で6・15記念集会があったんですよ。その時に長崎さんが講師だというので聴きに行って、何を言われたかというと、60年安保闘争というのは国民会議、社会党とか総評とか共闘会議なんですね、やったのは。共産党は確かオブザーバーだったと思いますけれども、全学連も共闘会議の一員だったんです。それで全学連は他とどう違ったかということを言われたんです。他のすべての団体は、皆さんがやるなら私もやります、そういうことを言った。全学連だけは他がやろうとやるまいと俺たちはやる、と言った。その話を聴いて、政治というものはそういうものなのかと。それが我々の「連帯を求めて孤立を恐れず」という東大全共闘の闘いのスローガンになったんだと思っています。そういう意味で本当に長崎さんにはお世話になってきました。
僕は本当に長崎さんの話を聴くのは何年ぶりかで、今日、その意味で非常に楽しみにしてきました。だから僕の話は簡単でいいと思うので、長崎さんの話に入ってもらえればいいと思います。よろしくお願いします。

<長崎浩氏プロフィール>
1937年生まれ。東京大学理学部卒。東京大学物性研究所、東北大学医学部、東京都老人総合研究所、東北文化学園大学に勤務。政治思想・科学技術・身体運動論を専攻。1960年、全共闘運動高揚期に『叛乱論』にて登場。以降。80年代にいたるまで、政治思想状況にコミットしつづけた。90年代以降は、環境問題やリハビリステーションの分野でも治作活動を続ける。

●長崎浩氏講演 「樺美智子と私の60年代」
▼講演する長崎浩さん 
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▲いずれも1960年6月15日、国会前
 今日の集会のテーマ「六〇年代の死者たち」にそって、昔のことをお話しします。若い世代の皆さんにはまたかと思われるかもしれませんが、ご容赦ください。

私の六〇年代
 さて、私には『1960年代 ひとつの精神史』(作品社、1988)という著作がありますが、1968年から始まる日本と世界の同時的な若者たちの叛乱には触れていません。私はわざと67年10・8羽田闘争と山﨑博昭さんの死をもって私の六〇年代を閉じています。この最後のところを少々引用してみます。
 十月八日 日曜日、夕食後河宮の電話があって、羽田デモで京大の学生が死んだことを聞く。夕刊休みで、それまで全く知らなかった。すぐ石井暎禧に電話して事情を聴く。
(この後に、当日の党派事情について記していますが、略します。)
 殺された者の持つ絶対の権利。自分が彼の仲間でないときは、常に、彼を殺したのはわれわれのせいなのだと思わねばならない。安保の六・一五も、他の多くの人びとはそう思ったに違いない。
 夜中にまた音楽と落語。 
 当時は深夜ラジオで音楽と落語ばかりを聴いていたようです。それはともかく、ここで言う六・一五とは1960年の6月15日、安保闘争の国会デモで樺美智子さんが亡くなった日です。私はこの国会デモを指揮した者の一人でした。すると、樺美智子の死から67年の10・8山﨑博昭が亡くなった日までが、ちょうど私の六〇年代ということになります。68年以前に、私には固有の六〇年代があったということです。私の二十代に当たります。
 私もまた若かった。

まだまだやることがたくさんあった
 樺美智子は当時東大文学部国史科の四年生でした。日本史専攻ですね。卒業論文の準備に取り掛かっており、安保闘争にはデモのときだけ参加だと言っていました。その6・15の当日、国会正門前で東大のデモ隊に向けて、私は断固国会突入だとアジ演説をしたのですが、部隊の後ろの方から一人「意義ナーシ」という樺さんの声が聞こえました。これが最後です。当時は女子学生はデモ隊の最後尾に配置するという配慮をしていたものです。とはいえ機動隊によって国会構内から追い出されるときになれば、もう前後ぐちゃぐちゃになってしまいました。
 数年前のことですが、安保闘争6・15の五〇周年とのことで西部邁と対談したことがあります。私は冒頭で6・15には大学から樺さんたちを引率して国会に向かったと切り出しました。わざと「引率して」という言い方をしました。これには西部が敏感に反応して、樺美智子は普通の女子学生だったのではない。ブント(共産主義者同盟)の同盟員であり、ブントとしてデモに行ったのだとわざわざ私に念を押させてくれました。「引率して」などという私の言い草にたいする気配りです。西部邁という人はこうした人間関係の機微にやけに過敏な人でした。当時の全学連には器質的な敏感さが政治的なカンの鋭さになって現れるような人が結構いたのですね。
 それはともかく、樺さんはブントが共産党を割って出た当初からブントの事務所に座るなど、いわばブントの確信犯でした。
 その樺美智子が亡くなったとき、詩人の茨木のり子さんが言いました、「彼女にはまだやることがたくさんあったのだ」と。もちろん、彼女はまだまだ若かった、ということではありません。安保闘争が終わった後の一九六〇年代に、時代と自らのブント経験を反芻しながら取り組むべき課題が、ずしりと残されたはずだということです。一口にいって、ブントはマルクス・レーニン主義の革命的復興を掲げて出発したのですが、その理論と経験から解放されること、自らを解き放つ作業が残されたはずです。
 実際、一般に言えることですが、六〇年の安保闘争はそれまで理論や思想の営みを縛ってきたマルクス主義という重石が取れて、知識人を解放することになります。良し悪しは別にして、振り返ればこの解放は大きな出来事でした。例えばアカデミズムの世界でも、哲学や歴史学などを始めとして、それまでは学問の規範としても作用してきたマルクス主義の縛りが解けていきます。後は学者のただの自堕落ということにもなるでしょう。後に全共闘運動から批判された通りです。しかし他方では、ここから自由で新しい学説が作られていきます。ポストモダンの思潮が流行することにもつながります。例えば、明治から昭和までの戦前日本の歴史を読めば、戦後の論調の多くが一新していることに気づかされます。樺さんと同学年の坂野潤治の日本近代史を読めばこれが分かります。樺さんが卒業論文を完成してその後学者の道に進んだとしたら、彼女の日本史も数々の新機軸を打ち出したはずです。新たにやることがたくさんあったはずです。

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▲いずれも1960年6月18日、国会周辺
樺美智子の送葬
 知識人だけのことではありません。六〇年の安保闘争をきっかけにして、日本の国体とでも言うべき社会と国民の在り方が大きな転機を迎えます。私はまずここで樺美智子の国民葬のことを想起してみたいと思います。
 御存じでしょうが、安保闘争では全学連の跳ね上がり行動が、安保条約改訂阻止国民会議の構成団体やマスコミから一斉に弾劾非難されていました。ところが、安保闘争の終わりから幾ばくもなく樺美智子は「国民葬」を以て送葬されることになったのです。国民葬など後にも先にも吉田茂の葬儀ぐらいのものでしょう。
 主催は「樺美智子国民葬」葬儀委員会で委員には時の代表的政治家、宗教家、知識人、芸術家が名を連ねています。社会党からは浅沼稲次郎、なぜか共産党の野坂参三の名まであります。総評議長・太田薫と全日農委員長・野溝勝、それぞれ労働者階級と農民運動の代表です。その他仏教界とキリスト教教会、さらに法曹界の代表、文化人は青野季吉文芸家協会会長を始めとした知識人、大学教授たちでした。さらに葬儀の演出担当が松山善三、音楽監督が芥川也寸志でした。当時、安保国民会議には全学連を含めて1,633もの諸団体が参加していたのですから、国民会議主催の葬儀としては不思議なことではなかったかもしれません。葬儀が終わると遺影と遺骨を先頭にして国会南通用門まで大規模なデモが出発した。
 以下は江刺昭子さんの著書『樺美智子 聖少女伝説』からの引用です。
沿道では道行く人びとが立ち止まって、頭を垂れながら行列を見送り、周辺のビルの窓からも多くの顔がのぞいて手を合わせた。首都の中心でこんな送葬行列が見られるのは、天皇の送葬のとき以外にはない。
 樺美智子はこんな風に送られたのです。10・8の山﨑君の場合と対照してみてください。このように安保闘争は国民運動として終了しました。国民運動がこんな風にその勝利を演出し、同時に樺美智子とともに何かを送葬し何かを忘れたのです。続く六〇年代への通過儀礼が見事に演じられたのです。江刺さんの本を読むまで、私はこの葬儀のことはすっかり忘れていました。

経済高度成長とTVの普及
 樺美智子を国民葬として送葬した国民運動は、安保闘争を通過儀礼として、ではどんな六〇年代をもたらしたのか。
 安保闘争は五五年以降の戦後政治過程に特徴的な国民動員方式の頂点でした。つまり、平和と民主主義をめぐって国会では与野党の対決、これに呼応して総評社会党主導の統一行動が組織され国会へ向けてデモが行われます。このモデルがその後ピタリと終わりを告げます。そしてその足元で、御存じの経済高度成長と大衆消費社会が盛りを迎えていました。「所得倍増」などという池田勇人首相の?のような約束がどうやら本当らしい。当時私自身、大学助手の月収が二万円、それが六年間に確かに倍増以上になってびっくりした覚えがあります。ここでまた、先の私の著作『1960年代』から引用します。
 この年(1960年)の六月から三か月ほど、私は家に帰れない事情に置かれていた。岸内閣が倒れ代わって池田内閣が成立し、私がはじめて深夜家に帰ったとき、家にテレビが入っているのを発見した。それまでは私鉄の駅前広場に据え付けられたテレビの前で、黒山の人だかりにまじってプロレスなどを見ていたのである。だからこの私の帰宅の夜から、「高度消費社会」「所得倍増」の十年がまさに始まったのである。私には、自分たちが期せずして高度消費社会の水門を開いたのだという唖然たる思いが、その後長くつきまとった。
 哲学者の梅本克己の証言もあります。一九六三年の『現代思想入門』から引いてみます。
テレビの普及はついに一五〇〇万台を突破したそうだが、わが家にテレビがはいったとき、私は女房の軽蔑を物ともせず西部劇ばかりを見ていた。

六〇年代の絵柄
 いずれも、自分たちが購入したのに、当時はテレビがわが家に「はいった」などと言っていたのです。
 私はまた次のように六〇年代のプロフィールを描いたこともあります。例えばテレビ(白黒)など家電製品の月ごと、あるいは年ごとの販売台数つまり普及速度を見れば、速度の鋭いピークが六〇年代の真中で起こって前後の年月を隔てています。東京オリンピックが一九六四年のことです。以前にはテレビがなかったし、以降はテレビのない家庭はなくなるからいずれも速度はゼロです。そして付け加えますが、六〇年安保闘争はテレビの普及速度が急激に立ち上がるその裾野にあり、他方で全共闘運動はピークを挟んで反対側の裾野に位置しています。安保闘争の国民が大衆消費社会の到来する予兆に突き動かされていたとすれば、1968の若者たちはこの社会に最初の不適応を起こしてその自己欺瞞に反抗したのだと思います。私には経済成長速度のピークの反対側から、それぞれ時代と社会の変化に突き動かされている青年たちの姿が見えます。二つの運動があたかもその発端と終焉のようにして六〇年代を連結し、かつ分離している。そういう絵図です。
 樺美智子の送葬とともに始まった一九六〇年代とはどんな時代として経験されたのか。私は今テレビの急速な普及を例に挙げて、大衆消費社会の到来という絵柄を提示しました。当時安保の直後に、「黄金の六十年代」の到来だとも言われていました。
 とはいえ、こうした日本社会は、戦後復興と経済の動向から自然にやって来たものではないのです。日本国民と知識人たちが安保闘争に勝利したことによって、大衆消費社会をそれこそ大衆的に解禁したのです。先に私は「蕩児の帰宅」ならぬ安保闘争の闘士の帰宅のその夜から、高度大衆消費社会が始まった、我々は期せずしてこの社会へと水門を開いてしまったのだと、当時の感想を紹介しました。安保闘争の先端を走ったつもりの一人が、まさしくその勝利の帰結として思いもかけない社会の渦中に放り出されたのです。この奇態な六〇年代を後の世代に伝えたい。私が物を書いてきた動機の一端がここにありました。

キシヲタオセ
 ここで、六〇年安保闘争の経緯と性格について、少しばかりですが私の見方をお話しておく必要があります。
 安保改訂阻止国民会議は一九五九年に結成されました。政府が「もはや戦後ではない」と宣言したのが五六年のことでした。それから、安保闘争は国民会議の主導の下に延々十九次にわたる統一行動を展開します。ところが、安保闘争が労組と全学連など国民会議のスケジュール闘争から、名実ともに国民運動の様相を呈するようになるのは60年、それも5月19日から6月19日の最後の一カ月のことでした。五月十九日深夜には岸内閣と自民党によって、安保条約改定は衆議院で強行批准されました。その一か月後に新条約は自然成立します。岸内閣としては後は待っていればいいのです。しかしあにはからんや、この最後の一カ月になると、首都圏では連日群衆が国会周辺を埋め尽くして身動きも取れない状態が出現します。もう国民会議の統制を離れて国会周辺が叛乱状態を呈するようになりました。全学連の動員する学生たちも急進化しました。当時東京大学新聞がルポして「乗り越えられた前衛」と書くような状況です。「乗り越えられた前衛」とはもちろんブントなど新左翼が共産党に投げかけていた悪口ですが、それが今や夫子自身に向けられるという始末です。
 国民運動の大衆的急進化だけではありません。「アンポハンタイ」から「キシヲタオセ」へと、スローガンが一夜にして一変しました。竹内好がこう宣言しました。「民主か独裁か、これが唯一最大の争点だ。そこに安保をからませてはならない。安保に賛成する者と反対する者が論争することは無益である」。このスローガンの下に、国民会議に属さない大勢の戦後市民、さらには荻窪の商店街組合などまでが首都圏では国会に詰めかけてきました。
 岸信介首相が安保条約を改定して米国からそれなりの独立を目指し、ブント全学連がこれを日本資本主義の自立と捉えて対抗したとすれば、岸とブントとが置いてけぼりを食った形です。安保改定などそっちのけで国民運動が日本を席巻したのです。

国民運動の勝利
 経過を追うことはここでは省略しますが、結果として新安保条約は成立しました。とはいうものの、岸内閣は総辞職を余儀なくされました。「民主か独裁か」に安保国民運動が勝利したのです。たかが一内閣が倒れただけのこと、というなかれです。考えてみれば、日本の歴史で大衆運動が内閣を打倒したのは、日露戦争後に桂太郎内閣が日比谷暴動で倒れた例があるくらいのものです。そればかりではありません。岸内閣としては安保改定によって対米従属から一歩自立するとともに、憲法改正と再軍備に取り掛かる展望を懐いていたのですが、これが挫折しました。岸信介を始めとした戦前からの政治家が総退場して、自民党と新内閣の性格が一変します。政治的には「低姿勢」をスローガンとする所得倍増政策の十年がこうして始まります。大衆消費社会の十年が始まります。
 安保国民運動に国民は勝利したと私は言いました。ここで国民とは誰のことでしょうか。戦後のこの時期までは日本社会はそれなりに階層的に構成されていました。今日の社会構成とは全く違います。労働者は総評傘下の労働組合に属していました。農民は農協に組織化され、学生もまた当局公認の学生自治会の一員でした。私のころには、入学したときに学費とともに自治会費を納入したものでした。自治会費を差し出しながらちょっと誇らしい気持ちでしたね。自治会は大学ごと、全員参加の学生版ユニオン・ショップだったのです。安保国民会議とはこうして階層的に組織化された一千余の諸団体から構成され、文字通り国民的組織を標榜していました。私は六月四日の総評のゼネストの声明に驚いたことがあります。「労働者も国民の一員として安保闘争に参加することに、遠慮はないと考えます」と、総評は訴えていました。安保闘争は階層的に組織されたが階級闘争ではなく国民運動だったのです。
 そして六〇年代も末になれば、大衆消費社会の中で国民の階級的構成自体が溶解していきます。労働組合も学生自治会もにわかに形骸化する。国民は地域ではただの住人に、都会では市民に、国民は一人ひとりばらばら、政治的にはそれこそ「誰でもないただの人」として存在するようになります。選挙になれば各政党は組織を介してというより、「砂のような」地域住民の一人ひとりと直接に対面せざるをえなくなります。学生ももう選ばれた少数エリートではなくなる。国民構成のこの変化の底流が一九六八年の学生叛乱つながります。全共闘運動が当局非公認の闘争委員会を組織して一人ひとり自主的に、というか勝手に闘うようになりました。全共闘は時に「ポツダム自治会粉砕」を唱えましたが、これは民青の支配する自治会の粉砕、ということだけではなかったのです。
 世界的にも一九六八年の叛乱は、「私が発言するようになる初めての革命だった」と言われることがあります。全共闘運動でもこれは顕著な事実だったことは御承知の通りです。安保闘争のころは学生も自治会の一員として参加していたのであり、発言の主語は私でなく我々だったのです。ただし、東大全共闘などで見られたことですが、学生という身分の階層性がまだ解体途上にあったことも指摘できます。ストライキの決議も、その解除も、学生大会の議論と決議に依っていました。この学生大会の頻度と時間と参加人員がまた半端でなかった。自治会規約にもとづく学生大会であり、同時に随時の全学集会の様相を呈することになります。これは東大闘争の見方としては欠かせない点だと私は思います。そこでは一個人の内で「私と我々」が相克します。私はもうセクトなどが唱える我々の大義名分などには容易になびかない。といっても、この私なる者の主体性はもう十分に壊れていることも自覚しているのであり、セクトの前衛党主義によって浮遊するこの私を拘束したい。こういうアンビバレンスを経験しました。当時、ハイティーンの少年少女たちまでが唱えた「自己否定」とはこういう事態の表明でした。

充たされた生活
 ところで、石川達三に『充たされた生活』という小説があります。一九六一年の刊行です。主人公は二八歳の新劇女優であり彼女が充たされた生活を追う過程を、ちょうど六〇年安保闘争の経過に重ねるようにして日記体で綴ったのがこの小説です。それまで政治に何の関心もなかった彼女が、新劇人会議の一員として次第に安保デモに参加していくようになる。そして、安保闘争の6・15で負傷して入院している劇作家を、ヒロインは付ききりで看護するようになっています。この小説の終わりが六月二十日の日記、つまりは安保国民運動の終わりの日です。一部を引用します。
 六月二〇日
 今朝午前零時、安保条約改定は自然成立となる。日本中をあげての反対運動も政府を動かすまでには至らなかった。
 午前十一時、私は付き添いの小母さんに後をたのんで、外へ出る。街はまだ安保反対デモの人々で、渦まくような騒ぎだった。いそいでアパートに帰り、四日ぶりで銭湯に行く。私はいそがしかった。私の日常生活の基準はこんていから破壊され、破壊されたことを私はうれしがっていた。久しく眠っていた私のからだのあらゆる機能が、一度に身ぶるいして眼をさまして来たような、爽快な気持ちだった。私はそのことに、自分のエゴイズムを感じていた。しかしそれは自分でもどうするわけにも行かない、本能のようなものだった。
 どうですか。安保闘争の後の社会に触れる時、私は小説のこの個所を引用紹介する誘惑にかられて、いつも抗しがたいものがあります。事実何度か著作に引用してきました。入院中の劇作家は樺美智子の死について、「俺たちがみんなで殺したようなもんだ」と述懐しますが、「そこまで考えなくていいのではないか」とヒロインは思います。怪我をした劇作家「彼の不幸が私にとっては幸運」と感じる彼女は、このちょっとしたエゴイズムに自責の念を感じています。けれど、にもかかわらず、安保闘争終結のこの朝、初夏の眩しい日差しの中へ出て行く湯上りからだから、身ぶるいして眼をさます爽快な、本能のような力の感覚はいかんともしがたい。さあ、私はいそがしいのだというわけです。  
 『充たされた生活』のこのヒロインたちが、こうして安保の国民運動から街に散っていきました。その先の「いそがしい」社会、それが大衆消費社会であったに違いありません。安保闘争の先端を走ってきたつもりの全学連の私などが、期せずしてこの社会へと堰を切ってしまったのです。かのヒロインと違って、私などは唖然とし呆然自失している。彼女ら国民運動の同志市民たちの、これは裏切りであろうか。実際、国民は皆爽快な身ぶるいに身を任せて、心置きなく出て行ったようなのです。エゴイズムという自責の念を振り切って、身ぶるいして眼を覚ます本能のような力に促されてです。私は先に上げた『1960年代』で、『充たされた生活』のヒロインの日記とちょうど逆に、私などが日々追い詰められていく一種デスパレートな気持ちを対比して並べるという工夫をしました。
 要するところ、全学連の私などは、あたかも唐突のようにしてその後の社会に放り出されていたのです。学生運動も底をついた感がありました。かつての同志市民の裏切りは小気味のいいほどのものに思えましたが、同時に孤立無援の感には著しいものがありました。そこに怨嗟(逆恨み)の感情がなかったとは言いません。けれどもこの時私などが直面していたのが、世界史的かつ大衆的な意味で、近代というものであったとしたらどうでしょうか。大衆消費社会という形をとった近代の初めての到来、これにどう向き合い距離をとればいいのか。私には、そして安保闘争に勝利した国民と日本の知識人にも、この経験に備えというものがまるでなかったのです。

明治百年の国民革命
 さてこうして、安保国民運動の渦中に翻弄されたものとして、振り返って私は安保闘争とは一個の革命だったのだと思うようになりました。明治百年の歴史を総括する国民革命です。この革命に勝利することを通じて初めて、国民は戦争と貧乏とを忘れて、いわばあとくされなく大衆消費社会の享受へとなだれていくことができました。安保闘争は敗戦後の国民が再び国民として受肉するための通過儀礼となった。私はこういう言い方をしていますが、受肉とは観念が無意識にも身につくということです。
 当時同志社大学の一学生だった保坂正康氏(歴史家)が後に書いています。
 いまの私の率直な感想をいえば、あのときの安保闘争とは、岸首相への嫌悪感に代表される太平洋戦争への心理的決算と、敗戦から一五年を経ての戦後民主主義そのものの確認の儀式、といった趣があったように思う。
 これは一九八六年の『六〇年安保闘争』という著書からの引用です。これは保坂のデビュー作だったはずですが、安保闘争とは一般にこんな感じだったなあと思わせる穏当な本です。その保坂が、安保闘争はすぐる戦争の心理的決算、そして戦後民主主義の再確認の儀式だったと言うのです。私の感想も同様です。
 そして今では、この国民革命の遺産が重い惰性となって国民の言動を縛っています。右であれ左であれ、どんな重大な政治決断もできないほどにこの惰性体が政治の重石として働いています。それが「日本の平和」です。早くも一九六八年の全共闘運動が「戦後民主主義批判」を唱えたとき、そのターゲットとなったのもこの惰性であったに違いありません。
 同じことは戦後憲法についても言えることです。安保国民運動に勝利して、戦後憲法体制もまた定着するようになります。米軍から押し付けられた戦後憲法が、それと気づかずに国民に受肉されるようになりました。だから以降、憲法ことにその九条の改正が今日に至るまでタブーになるのです。岸内閣の下では、世論調査でもまだ改憲賛成が30パーセントと、反対20パーセントを上回っていました(1955年、朝日新聞)。安保闘争後に、この比率が圧倒的にひっくり返ります。以降は、自民党の政治家でも敢えて改憲を唱えるのはタブーになります。ようやく最近では、改憲の賛否の比率が三対二と半世紀ぶりに再度逆転するようになりました。それでも、本気で改憲を進めようとする政治家など一人もいません。世論調査でも、九条改正となると賛否は二対三のままです。繰り返しますがこれが「日本の平和」なのです。
 思えば皮肉なことでした。樺美智子とブントはその革命観念と似て非なる国民革命の、そのまた先端を走ることになりました。そして、大衆消費社会の真中に放り投げられたのです。この新社会に対する備えというものが、当初私たちにはまるでなかったのです。樺さんにはまだまだやることがたくさんあったとは、この新奇な社会に直面して、自分を立て直す孤立無援の闘いがあるはずだったということです。

戦後唯一のナショナリズム
 安保闘争という国民運動については、もう一点指摘しておきます。ナショナリズムのことです。振り返ってみれば六〇年代の高度大衆消費社会の到来とは、明治の開国以降の我が国の近代化の完成でした。時あたかも明治維新百年がこの意味で祝われたのです。言論の世界では「近代化」が改めて合言葉になった。左翼は恨みがましくこれを「ケネディ―ライシャワー路線」と呼んでいました。米国ではすでに高度大衆消費社会が到来しており、今後はどこへいくのかと、ロストウが六〇年に問うています。「赤ん坊か、倦怠か、三日の週末休暇か、月世界旅行か」と(『経済発展の諸段階』、1960年)。ここで赤ん坊とは国民が子だくさんになるという選択です。実際、アメリカ国民はその後この「路線」を取ったのだといいます。
 ただし、日本の近代化とはイコール対米従属の強化ということではありませんでした。かえって、大衆消費社会をそれこそ初めて大衆的に経験することを通じて、日本国民は敗戦以来初めて「中学生程度」であれアメリカを卒業することができたのです。だいたい、安保闘争は米国では反米の「東京暴動」と呼ばれていたのです。なにしろ米国大統領の訪日をダメにしたのですから。
 また先の『充たされた生活』を引用しますが、これも安保闘争のピーク、五月二十日の日記です。ヒロインは時間が空いたので街の映画館に入る。「街という街は、旗やプラカードをかついだ人たちで一杯だった」、そして、
 映画館にはいってみたが、私はおちついて映画が見られなかった。いま見て来たばかりの、ずぶぬれの大群衆が眼にうかび、気持ちがさわいでいた。アメリカ映画の派手なラブ・シーンなどが馬鹿くさく見えて、何の共感もなかった。私はやはり日本人であり、日本の民衆のひとりだった。民衆の憤りが、いつの間にか私の心にも火をつけていたようだ。
 それに、社会学者の吉見俊哉氏によれば、六〇年代を通じて「消費社会型のアメリカニズム=ナショナリズムが確立していく」と指摘されています(『親米と反米』、2007)。家庭生活の電化が進んでその主体として「主婦」というものが構築された。他方で男たちは、メイドインジャパンの工業技術を誇り、ナショナル・アイデンティティを再構築することができたのだといいます。アメリカニズムが同時にナショナリズムであるという奇怪な等式が経験されました。安保闘争は日本の戦後史で唯一、ナショナリズムの発露を意味したのです。ただし、安保闘争以前、五六年の砂川闘争を始めとして米軍基地反対闘争が各地で行われていました。全学連が政治運動を始めるのも砂川闘争が契機でした。それが結果的には沖縄に米軍基地を集中させることにもなります。こうして、基地反対闘争とは切れたところで六〇年安保闘争のナショナリズムが経験されたのです。

先生方と手を切る?
 さて、戦後知識人のことです。安保国民革命に国民と知識人が勝利したのだと私は言いました。その国民が大衆消費社会へと傾れて行ったとして、安保闘争で活躍した戦後知識人たちはどうなりましたか。小熊英二氏が指摘しています(『<民主>と<愛国>』、2002年)。鶴見俊輔は「矢玉をうちつくして」鬱病になり、竹内好や丸山眞男は研究室に戻り、若い世代の江藤淳はアメリカに渡ったと。これでは文字通り話にならない。総じて、彼ら戦後知識人たちは安保闘争の後、日本史上初めての大衆消費社会の到来に直面し、この大衆的近代に立ち向かうことから逃亡したのです。それでいながら、彼らはその後もこの国の文化権力として影響を保ち続けていきます。これもまた安保国民革命の勝利の現れでした。安保闘争後の六〇年代に私などが孤立感を深めていたのも、知識人たちの動向と左翼文化権力の成立にたいする不和の感がもたらしたことでもあったのでしょう。
 そういえば、すでに福田恆存が警告を発していました。「私とは全く反対の立場にありながら、私が最も好意を持つ(全学連)主流派諸君に忠告する。先生とは手を切りたまへ」、と(「常識に還れ」、1960年)。全学連は国民運動の功労者であると同時に邪魔者であり、同行者の暴行は否定しながらその成果だけは貰い受けたいというのが、「文化人の日頃の流儀である」からだと、福田恆存は警告するのでした。
 けれども後の祭り、御存じの通り先生方と手を切るごとき運動を始めるのは、一九六八年の全共闘になってからのことです。いずれにしてもそれ以前、日本における高度経済成長社会の到来のことを、私は「戦後最大の思想的事件」と呼んでいます。私に固有の六〇年代に私はこの事件に遭遇したのであり、その気持ちは今も変わりません。安保闘争あるいはその後の全共闘運動もさることながら、両者の間に挟まれた時期、この思想的事件が私の六〇年代のメルクマールということです。

革命の可能性と不可能性
 安保闘争は一つの革命だったと私は言いました。けれども、樺美智子や私などが思い描いていた革命とは、それこそ似て非なる革命だったのは言うまでもありません。敗北とか挫折とかの言葉がはやった所以です。マルクス・レーニン主義の革命を復興することが、ブントという「新しい前衛」をめざす私たちの盟約だったからです。安保闘争はそのほんの一里塚、手段のはずでした。これら二つの革命像のコントラストは小気味のいいほどに対照的でした。ですから革命というコンセプトのこの齟齬を埋める思想的な課題が、当然のことながら六〇年代に残されました。マルクス主義の再学習と、次なる時代の新たな帝国主義論の模索といったところです。しかし六〇年代も半ばになり、これまで縷々申上げたようなポスト安保闘争の社会の真中で、これではだめだ、何かが違うという気持ちが起きるのをもう無視することができなくなります。そんなころに、次のような言葉が脇からど突くようにして響いてきました。
 嘘だ嘘だとおもわずには、どんな言葉もうけとめられないし、書いた瞬間から、言葉を嘘だとおもわずにはいられない失禁感があるとすれば、それがまぎれもなく思想の現状を占う深い資料になっている。
 これは吉本隆明の「自立の思想的根拠」(一九六五)からの引用です。次いで、三島由紀夫が書いていました。 
 二五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おそるべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。 (「私のなかの二五年」)
 六〇年代にはこのようにしてマルクス主義の「理論」という言葉が、「思想」というタームに置き換わっていきます。そしてこの思想なるものも、その内容自体というより、思想の態度を問うようなものなのでした。「この世に思想というものはない、人々がこれに食い入る度合いだけがあるのだ」(Xへの手紙)とは小林秀雄の言い草です。文芸批評のこの流れから思想というタームも戦後に受け継がれたのだと思います。こうした呼びかけは一種の思想的脅迫のようでもあり、同時にまた、私の思想の態度の転換にたいして「そうだ、これでいいのだ」と、自ら納得するよすがにもなりました。
 とはいえ、思想の態度でなく思想そのもの、土俗であれモダンであれ、その内容自体が自立してどうしていけないのか。七〇年代に入れば、私は思想でなく思想の態度という思想の在り方を「思想という魔語」として嫌うようになります。それで恩を仇で返すようですが、吉本さんの死去に際して、「思想の自立を妨げた思想家」と題する弔辞を書きました。
 さらに、マルクス主義の陣営では、「世界は変わった!」というイタリア共産党書記長トリアッチの呼びかけに応えて、日本でも古参党員たちが共産党を離れて構造改革論(コウカイ派)の論陣を張るようになります。ソ連邦を中心にして今や社会主義世界体制が成立していること。この体制のますます発展する影響力のために、レーニンが予想したような世界戦争は不可避でなくなり、両体制の平和共存が必要でありかつ可能だ。そして我が国でも、民主主義的改革を通じて、社会主義的革命の平和的移行が可能である。これが構造改革派の新しい革命路線の提唱でした。
 構造改革派の登場は当時私には「真に差し迫った問題」と受け取られました。けれど本当のところ、彼らの新理論と新路線の可否いかんということではなかったのです。そんなことならこちらもいくらでも議論ができます。そうではありません。当時構造改革派の主張を通して響いて来た無言の呼びかけは、今や革命は不可能だという声でした。この声が私を脅かし追い立てていたのです。これ以降、革命の可能性はその不可能性の問いと等価のところで、問われなければならなくなります。

最後に
 さて、初めに私は言いました。「彼女にはまだやることがたくさんあったのだ」と。最後になりますが、ここで私自身のことを少しだけお話ししておきます。私は一九六八年に「叛乱論」を書いて評論活動を始めます。「叛乱論」の発表は全共闘運動に触発されたものですが、中身は「私の六〇年代」です。私はこれを発表することによって、それまでのマルクス主義による革命論を切断してしまったようです。革命とは独立に、「近代にたいする大衆叛乱」があるのだと私は言いました。「近代」という言葉遣いによって、資本主義の矛盾から危機に至るという革命の因果を断ち切りました。叛乱の主体を「大衆」だとして、労働者階級プロレタリアートの革命独裁というマルクス・レーニン主義を棄てました。同時に、マルクス・レーニン主義の革命論とその歴史から叛乱(論)を自立させることを意図しました。そこから出直して「革命の問い」を近代への大衆叛乱から始めるとして、これはどのような革命と革命過程につながるものか。「叛乱論」は革命と政治の問いを、前衛党とプロレタリアートでなく、アジテーターと大衆の関係にまでリセットしています。では、アジテーターとしての「この私」は、つまり大衆叛乱はどのような政治の遍歴を歩むことができるのか。私が自らを追い込んだ迷路です。
 おかしな話ですが、六〇年ブントの時期には新左翼という言葉は自他共に使われていませんでした。ブントは新しい前衛を目指すと言っていました。背景には一国には唯一の前衛党があるべきだと信じられていたのです。ついこの間まで、共産党の宮本顕治が公言していたことです。するとブントとしては共産党の代わりに、広く言えば安保国民会議のうちで、唯一の前衛党に成長すべしという組織路線を取るほかないと思われていました。これが二〇世紀初頭の第二インターの分裂以来の、「左翼反対派」という立ち位置です。ところが1968になりますと、全共闘もセクトも新左翼の運動と呼ばれるようになります。しかし、もう国民会議はないし共産党民青は初めから敵です。労働組合の体制化は自明の前提です。セクトで言えば、旧左翼に対抗してでなく、他の新左翼諸セクトにたいして唯一の前衛党はこっちだと主張して党派闘争を展開する羽目になります。しかもそれでいて、安保ブント由来の労働者左翼反対派という自己規定は暗黙の前提でした。第二次ブント、とりわけ革共同両派にとってはそうです。新左翼諸セクトどうしの党派闘争が内ゲバになりやすいのも、セクトが同じく左翼反対派としてあったからであり、各セクトがこの左翼反対派の陣営内部でまた左翼反対派、つまり唯一の前衛党であろうとした配置にあったと、私は思っています。歴史的にいって、旧左翼と左翼反対派の関係がすでに暴力沙汰、つまり内ゲバになりがちでした。加えて、新左翼どうしの内ゲバは言ってみれば内・内ゲバという近親憎悪に内攻して、外ゲバという「戦争」になりえなかったのです。戦争なら戦争しないこと、途中でやめることが可能です。内ゲバを止めるには旧左翼にたいする左翼反対派という枠組みを壊さなければ、したがって新左翼という性格を棄てなければ駄目だというのが私の考えです。そこに、安保ブントの、なかんずくその潰れ方が残した禍根があったと思っています。
 さてこうして、樺美智子の死から山﨑博昭の死まで、私の一九六〇年代に、私にもまだやることが残されていたというわけです。そして直後に、私は全共闘運動あるいは日本の1968に遭遇することになります。六〇年安保闘争からの問いを持ち越したまま、日本の1968を迎えました。全共闘運動がなければ「私の六〇年代」という経験は完結しなかった。私はそう思っています。
 樺美智子さんが生きていればどうだったか、時にそう思います。
以上


8

●質疑
司会:佐々木幹郎
どうもありがとうございます。
たくさんのお話をしていただいて、これまでのプロジェクトの講演会の中で、1960年安保の時代から68年に至るまでのプロセスを、これだけ丁寧に振り返っていただいたのは、たぶん初めてだと思います。とても面白かったです。
長崎さんの今のご講演に対しての質問がありましたら、お手を挙げてください。
僕からいろいろ心に留まったことをお伝えしたいと思います。
後段のところで長崎さんが、60年代前半の理論という言葉を使っておられたのが、60年代後半に至って思想という言葉に自分の中で変わっていったと、こういう発言を僕は初めて聴くんですよね。

長崎
そういうことはありませんでしたか?皆さんは、理論って使っていなかった?

司会:佐々木幹郎
僕の学生時代の時は、理論という言葉は、そう言えば古びた言葉だと。『現代の理論』という雑誌があったでしょ。あれが古びた雑誌だという風に。

長崎
理論という言葉自体が・・・。

司会:佐々木幹郎
それを思い出したんですね。ですから、吉本さんが「思想」という言葉でずっとやられてきた時代は、そうか60年代の中期あたりで変貌していった言葉なのかということが初めてわかりました。面白かったですね。
それから、60年安保のことを本当に具体的に樺美智子さんのことをお伝えしましたけれども、その外側からの見方として、まさか石川達三の小説『充たされた生活』が引用されるとは僕は思いもしなかったので、あれはあの時代には、あれは1961年に出た小説ですよね、かなり評判を呼んだ小説だったんですか?

長崎
どうだったでしょうかね。

9

司会:佐々木幹郎
例えば、長崎さんのように全学連の闘士があれを読んで、同時期に今回引用されているような形で読めた?

長崎
『1960年代』という私の著作に引用されています。実は、あの小説はすぐに映画化されまして、監督が羽仁進、主演のヒロインが有馬稲子。それでひょんな縁がありまして、私この映画に声の出演をしているんです。

司会:佐々木幹郎
え~、そうなんですか。

長崎
と言いますのは、羽仁進から直接じゃないんですが、脚本を書いたりしている清水邦夫という劇作家がいまして、彼から来た話で頼まれて、実はこのヒロインのアパートの隣の部屋に全学連の学生が下宿しておりまして、いつも議論ばっかりして壁から聞こえてきてやかましいという場面があるんです。それで「全学連風議論を実演して欲しい。それを録って壁の向こうから聞かせたい」(笑)という注文が来まして、それで哲学者になった加藤尚武と2人で出向いて行きまして、全学連役を演じた山本豊三さんに安保闘争の解説をした上で、2人で論争を交わすやつを録音して出演したんです。

司会:佐々木幹郎
そうですか。なるほど、これは面白いな。
映画のタイトルロールに長崎浩さんの名前出るんですか?

長崎
いや、出てないですよ。(笑)

司会:佐々木幹郎
それはちょっと聞かないとわからないです、その話は。

長崎
それから「思想」ということについてですけれども、さきほど「思想」の中身ではなくて「思想という態度だ」と言いました。それもそうなんですよね。最初に「思想」という言葉が入ってきた時に、小林英雄が「思想というものなんかないんだ。我々が思想に食い入る態度があるだけなんだ」ということを言っていますけれども、それを受けて吉本さんもまた言う訳ですね。それが私ぐらいの世代だと、ど~んと響いてきたという風になります。だけど、どうして「思想」の内容が自立しちゃいけないんだ、という風に私は70年代になってから思うようになりました。(中略)
吉本隆明さんの私の次の世代に対する影響力というのは、甚大なものがあったと思いますけれども、それも功罪相半ばで、多くの人たちは「思想」の中身ではなくて、「思想」というものについての向き合い方とか態度とか、そういうことに、やはり憑りつかれたというところが、もしかしたら全共闘もそうかもしれませんけれども、強いのではないかと思っていて、それで吉本隆明さんが亡くなった時に、「思想の自立を妨げた思想家」という追悼の辞を発表しました。

司会:佐々木幹郎
そうですか。
他に質問がある方おられますか?

10

●会場からの質問
質問1(女性)
すみません。お話を十分理解してないかもしれないような質問なんですけど、先生のお話の中で「マルクス・レーニン主義の再興」という言葉があったんですけど、その当時、その人たちも「マルクス・レーニン主義の再興」はどういう考え方だったんですか?
それを知りたいんですけど。

長崎
もちろんそれを全部話したら長い話になるんですけれども、「当時のブントはマルクス・レーニン主義の再興を目指した」というそれですね。

質問1(女性)
そうです。

長崎
これはそうですね、端的に言いましょうか。まずは共産党という前衛党が指導する、それで革命の主体は組織された労働者であると、組織された労働者の蜂起とそれを指導する共産党という前衛党がタイアップすることによって、資本家階級から権力を奪取して、労働者が独裁する国家を作りだす、そういうことが言ってみればマルクス・レーニン主義の革命論のエッセンスです。そういうことが果たして可能なのか、いつ可能になるのかというところで、帝国主義論の勉強をするとか、マルクスのその人の勉強をするとか、ということになります。でも、ここで私が言ったマルクス・レーニン主義というのは、労働者階級の革命と前衛党との革命路線のこととして申し上げました。その中身は勉強してもらうしかない。(笑)

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質問1(女性)
それで、先ほど先生は「理論じゃなくて態度なんだ」という言葉がありますけれど、それがそういうことですか?
「マルクス・レーニン主義の再興」を考えていない人たちも60年安保(闘争)をやっていますよね、たくさんの人たちが参加しました。その人たちの中で、ブントとかいろいろな組織、セクトに入っていない人たちもやっていたわけで、先生が先ほど仰った「態度なんだ」というはそういうことですか?
何故マルクス・レーニン主義を再興しようと思うのかという、その中に含まれている思想的なものとか、その中に含まれている、それを目指す者の思想の中に「態度」というのが確かにあると思うんです。「態度」というか「意図」、「指向性」ですね。そういうことでしょうか?

長崎
私が言っている「態度」というのは、あくまで知識人問題として言っております。ですから、知識人が何を考えるかという理由に関して、「マルクス・レーニン主義の復興」というのは、私は2つ使い方しましたね。もともと安保(闘争)に参加するときに、ブントが盟約していた「マルクス・レーニン主義の復興」ということと、それから安保が終わった後にもう一度、復興するとしたら何が問題なのかをもう一度、60年代の前半に問い直すという意味での復興と、両方あるわけです。今「態度」と言ったのは後者、安保闘争の後でもう一度マルクス・レーニン主義を勉強し直すという意味での復興、それにかまけていた時に、横やりから「思想の態度」という風に、「君たちがやっているのは、思想の態度がおかしい」という風に横やりから来た、そういう意味での「態度」と申し上げました。ですから、少し限定して、デモに参加した人たちの「思想の態度」ということではありません。

12

質問2(男性)
すみません。全然違う質問なんですけれども、簡単に行ってしまうと、私は1968年生まれで、1987年に大学に入学して、新左翼運動とか労働運動、市民運動をやってきた者なんですけれども、樺美智子さんの死、60年安保闘争というものがその後の運動にどう繋がっているのか、またはどう断絶しているのか、ということを簡単にはお話できないかもしれませんが、お聴きしたいんですが。
私の記憶では、87年に大学に入学して、私が関わった党派の新聞などを当時読んだんですね。1970年前後の集会でも、樺さんのお母さんが連帯の挨拶をしているとか、すごいなと、87年入学で当時運動していた私のところには樺さんの名前をまったく聞かなかったけれども、70年前後というのは、まだ60年安保とそういう風に繋がっていたのか、樺さんの死を記憶しながらこの運動を闘うんだという思想があったんだということを感じたんですけれども、そこでそれが繋がらなくなったのかとか、それでも繋がってきたのか、断絶してしまったのか、ということを教えていただければ。

長崎
実は今日の話は60安保とブントに繋がるセクトの話をまったくしませんでしたが、端的にセクトの問題だと考えていかれるのが、一つの道だと思います。それ以外に、先ほどのマルクス・レーニン主義ではありませんけれども、ブントはどういうマルクス・レーニン主義の理解をしていたんだとか、ブントの綱領的理論は何だったのかとか、そういうことを中心にして紹介する人もいますけれども、そちらはあまり大した問題ではありません。
そうじゃなくて、ブントというセクトと、しかもこれが三派くらいに分裂して、60年安保のすぐ後に分解して、あっという間に無くなってしまったこと。が、完全にゼロで無くなればまだスッキリして良かったんですけれども、分派の流れがその後の68年あるいは現在まで続く、いわゆる新左翼セクトに、さまざまな形で継承されていく。例えば第二次ブントもそうですし、とりわけ革共同がそうですし、革共同が割れて中核派と革マル派になっていく、そしてそのセクトが1968年に独自の運動を作っていきながら、全共闘運動と一緒に相互浸透して、日本の68年を作っていく。そういう意味では、68年の日本における新左翼セクトというのは、社青同解放派みたいなものもありましたけれど、基本は、そのルーツを訪ねていくと、60年ブントとその潰れ方ということになる。そこの?がりをどう見るか、どう見直すかというのは、ここに居る皆さん全員が関連していることだと思いますけれども、そこの継承関係で見たらどうなんでしょうか。
中身に踏み込むのは、ちょっと大変ですね。私がこの次出す本で内ゲバのことも含めて、少しセクトのことも真正面から書くように努力はしておりますので、本が出たら見ていただければと思います。

司会:佐々木幹郎
どうもありがとうございました。これで質疑の時間が終わりましたので、記念講演の第一部を終わります。

(終)

【お知らせ その1】
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『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社
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本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は8月6日(金)に更新予定です。

今回のブログは、昨年(2020年)12月に開催した明大土曜会での土屋源太郎さん(伊達判決を生かす会)のお話である。
No571でお話の前半部分(砂川闘争の裁判や安保・沖縄問題など)を掲載したが、今回は後半部分を掲載する。
「明大の自治会と全学連」について語っていただいた。

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【土屋源太郎さんとのフリート-ク 後半】
明治(大学)の自治会とか全学連について、少し話します。
そもそも全学連というのはどうして出来たかというと、1945年が敗戦。1947年に国公立大学の授業料値上げの動きがあった。その値上げに反対する闘争が自治会で起こって、その国公立大学の授業料反対のための全国協議会ができた。それまでは全国組織がなかった。授業料反対の闘争があって、授業料値上げを阻止できて、それを契機に全学連が結成された。だから当時の全学連は東大中心で国公立で作った。47年の翌年に全日本学生自治会総連合の結成大会があり、組織ができた。だから明治は当初は全学連に入っていなかった。
明治が全学連に加盟したのは1953年。それまでは会員ではないが、行動は共にしていた。血のメーデー(注:1952年5月1日、第23回メーデーの日。皇居前広場周辺でデモ隊と警官隊が衝突、騒乱罪に問われた事件)にも参加していた。なんで明治が(全学連に)参加できたかというと、明治大学というのは、昔はひどかった。不正入学が横行していた。それで俺が(明治に)入った1953年の7月1日に、「7・1スト」というのをやった。昔は明治大学は各学部に学生会があって、その上に中央委員会があるんだけど、その上に会長というのが居た。それは大学側の教授。それが最高責任者だった。自治会じゃない。そういう問題があったりして、1952年くらいから自治会と理事会が交渉していたがなかなか応じない。昔は理事会に大学教授が参加していない。それで教授会からもいろいろ意見が出て、7月1日に明治大学始まって以来の全学ストになった。
(土屋さんのコメント
1953年7月1日、明大全学ストは学園の民主化、自治・学問の自由の闘いでした。
この闘いのもう一つの特徴は、教授会の全教員も共にストライキを行ったことです。
そこで得られたことは
①暴力団体など利権に汚れた悪質理事を追放し、理事会を正常化したこと。
②評議員会に多数の教授が参加することが決まり、学生、教授の声が届くようになったこと。
③学生会の上にいた教授の会長制を廃止して、学生自治が確立し、全学連加盟もなされたこと。
④授業料と学生会費は学校側が同時に徴収することにしたこと。
⑤集会やポスター張り、チラシ配布を許可制から届出制にしたこと。集会の自由。
⑥大教室の詰め込み授業の改善。何年に渡っても同じ教科書を使い、学生に買わせる授業はやめさせる、などの改善。
⑦大量入学、裏口入学をやめさせた。理事会に認めさせた。
⑧文科系の部活(サークル)が、部室も狭く部室もない状況を改善し、部室を獲得し、文連通りを作り、社研、民科、論潮、アソ研、朝鮮研、学生新聞などに活動家が集まり、明大の学生運動の拡大が出来たこと。
などなどです。
しかし現状はこの姿がまったく無くなったこと、残念です。)
それが俺が学生運動に入る一つのきっかけにもなった。「7・1スト」があって、全学集会があって、その時に大学側の会長を廃止して、全学連加盟も決めた。そこから全学連、都学連に加盟することになった。それまでは明治大学は自治なんて名前だけという状況だった。学生大会の代議員枠を体連が3人、応援団が2人、文連が2人、理科連が1人出すことになっていた。体連と応援団は反自治会派なので、大会ごとに特別決議ということで全学連脱退を出してくるが否決されるという状況があり、絶えず右の勢力との対立があった。当時、法学部は伝統学部なので自治会の中で一番右寄りだった。それが「7・1スト」で分解してしまう。それで我々が新しく自治会の執行部を作った。その後、俺が法学部自治会委員長から中央委員会の委員長になっていく。
我々は授業料と合わせて学生会費を学校側に徴収させることをさせた。学生会費がきちんと入ってくるようになった。全学連からすれば、ある意味で明治大学が金庫として非常に大事だった。学生会費の分配もやらなければいけない。体連とか応援団、文連などと分配する会議をやった。それと理事者との年2回の会談もやった。最初の理事会との懇談会に出た時に、昼食にうな重が出た。こんなに美味いものはないということで、学生部長に「理事会の時の昼食は必ずうな重にしてくれ」と言ったら、必ずうな重が出た。(笑)うな重を食べる機会がなかったからね。当時は中心になっていたのは法学部、文学部、経営学部だった。工学部とか農学部は右寄りだった。オルグをかけるのも生田に行くのも大変。雨が降ると道路が舗装していないから滑って転んですごいんだよ。何しろ絶えず対立があった。
商学部は反対派の中心だった。明治の自治会の歴史は面白い。

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Q:土屋さんは大学に何年おられたんですか?

6年。俺がちょうど6年になって、6年の卒業の時期の3月に学部長が呼んでいるということで、学生部長と学部長のところに行った。そこで学部長が「総長が会いたいと言っている」と言うので学長室に行った。(学長が)何を言うかと思ったら「土屋君、そろそろ卒業しないか」と言う。卒業しないかと言われたが「僕は単位不足です」と言った。卒業しないために、ちょうど必修のドイツ語の単位を2単位残しておいたから。実はその前年の夏に、長崎に原水爆の関係で行くためのオルグに行ったら、たまたま俺が落としていたドイツ語の補習授業をやっていた。その補習授業に知らないで行って、オルグをやるために少しの間、後ろで聴いていた。それが分かったんだな。(学長が)「土屋君、補習授業に出ているじゃないか。単位を取る気があるんじゃないの」と言う。「単位を認めるから卒業してもいい。担当教授もそう言っているから、この際、卒業しませんか」と言われた。
ところが、俺の全学連書記長としての任期は59年の6月までなので、それまでに卒業したら学生でなくなる。当時、森田(注:森田実)が学生の資格をなくして相当問題になったことがある。それもあるので、卒業したらヤバイと思った。「1週間検討させてください」と言って持ち帰った。当時、学連内部でいろいろ議論があって、6月で若手に交代するということになった。それでこの際だから卒業も考えるかということになり、革共同の専属でやろうと決めた。
学校に行ったら「土屋君、どうですか」と聞かれたので「卒業します。ただし、条件があります」と言った。「何でもいいから言って」と言うから「実は3月卒業はマズいので、6月卒業にさせてもらえませんか」と言った。「6月に本当に卒業するのか」と言うので「6月に卒業します」と言って6月に卒業することになった。それで6月の任期が終わって、唐牛や清水丈夫たちが指導部になった。
それで6月に学校に行って、学生部長のところで「卒業します」と言った。総長室の金庫から総長が俺の卒業証書を取り出して、そこで読んで卒業した。だから不正卒業みたいなもの。卒業証書の日付はまともな3月の日付になっていた。当時は、卒業する時に校友会費を取られて名簿に登録されるが、俺はまともな卒業ではないので名簿に載っていない。それで校友になっていない。お陰様で明治大学ではいろんな勉強をさせてもらいました。

Q:56年から全学連が砂川現地に常駐するようになるが、全学連が砂川に関わるようになった経過はどのようなものか?
砂川闘争は55年から始まっている。ところが55年は全学連は参加していない。なぜ参加しなかったかというと、全学連中央執行委員はほとんど共産党員だった。基本的な三役人事も共産党の学対で決めていた。それで六全協(注:共産党の第6回全国協議会)があった時に学連内部がガタガタになった。それで55年の時は、そのガタガタを収めるために組織的な再建の途中だった。もう一つは、当時、米ソの対立から平和共存が謳われるようになって、「歌って踊ってより良き学生生活を」をスロ-ガンに、国際学連もその方針を出していたし、そういう方向に行って運動になっていない。そういう運動だったから、55年の時には(砂川闘争に)参加していない。それと、全学連というのは何となく暴れん坊が集まっているのではないかという印象が一つと、もう一つは55年の時は共産党も参加していない。それは六全協の前に非合法化して山村工作隊を作って山村に潜り込んでいった。砂川の反対同盟の場合は土地が取られるということで、地主が中心。ところが、その地主たちは山村工作の時代に共産党にやられていた。彼らにすれば共産党に協力してもらいたくないという気持ちがあったから、共産党にも(支援)要請しない。

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55年はどういう闘いをしたかというと、反対同盟の人たちと、三多摩の労働組合協議会の人たちが戦った。これは予備測量だったために、ほとんど測量をやられてしまった。杭を打たれてしまった。「土地に杭は打たれても 心に杭は打たれない」というスローガンがそこから始まった。ところが、翌年の56年は本測量があるということが分かっていた。反対同盟の中で、「このままでは闘えない。そういう状況であれば総評、東京地評、全学連というところにも呼び掛けて支援を要請することが必要だ」と、当時の行動隊長の青木さんとか事務局長の宮岡さんが中心となってそういう計画を作った。
当時、各地で基地反対闘争があったので、学者、文化人が基地に反対するための「基地問題懇談会」というのを作っていた。その懇談会の議長が清水幾太郎だった。総評の岩井さん(注:岩井章・事務局長)と清水さんに、反対同盟から、全学連に会える状況を作って欲しいという申し入れがあって、当時の(全学連の)共闘部長だった森田が会った。我々も55年の闘争があった時に、ニュースで知って、こんな闘争があったのに何もしないという反省もあったから、全学連として支援することになった。俺は当時は明大の中央執行委員長兼全学連の執行委員だった。森田は、東京都の学生を中心に全国の学生三千人動員という大法螺を吹いた。実際にはそれ以上集まったけれど。それで56年闘争に入る。当時は地主が中心だから、ほとんど全員が町の権力者だから、夏休みに入ると砂川中学の講堂を開放して、ムシロとか古い毛布を引いて我々学生が寝泊まりできるようにしてくれた。それで泊まり込みができた。今では考えられないけど。それで(全学連が)参加するようになった。実際に闘争に参加したのは56年、57年なので、55年は参加していない。それで56年の時に、我々が青木さんと宮岡さんにお願いしたことが一つある。「この際、いろいろわだかまりもあるでしょうが、共産党も政党として参加させてください。それを考えて欲しい」という提案をして、宮岡さんたちも「それは分かった」ということで、共産党が参加できるようになった。ところが実際は、当時は三多摩で社会党が影響力が強かったので、社会党が前面に出るから、56年の闘争が終わった時の総括で、全学連内部で共産党との間の軋轢も生まれた。

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その後、セクトができるきっかけとなったのは砂川闘争だった。何かというと砂川闘争の評価をめぐってだった。当時全学連の書記長だった早稲田の高野秀夫と都学連委員長の牧衷、これは留守部隊だったが、闘争になると森田たちが派手にいろいろなところに出てくるので、やっかみもあったんだろうが、彼らから砂川闘争は全学連は孫悟空が手のひらで踊らされたと同じように、総評にうまく利用されただけではないかという批判が出て、そこで内部論争があって、最終的に高野一派が(執行部から)排除される。ところが共産党はそれ(高野一派)を支持した。彼らも社会党へのやっかみがあったから。そこが共産党と我々の軋轢の始まりになる。それが独立思想につながっていく。本来は都学連委員長というのは東大の駒場から出るというのが原則だった。ところがそのゴタゴタがあったから、東大から出せなくなった。当時は共産党の学対の協議で人事を決めていたが、そこで早稲田や教育大の反対派を含めて、俺が(都学連)委員長ならばOKという話になって、俺が委員長になった。それまでは都学連委員長は全部東大だった。書記長も私大からは高野と俺の2人しかいない。書記長は京大とか国立系から出ていた。それで「6・1事件」(注:1958年6月1日の第11回大会での学生と共産党本部員との衝突事件)というのは、そういう背景が積もり積もって、共産党の本部の集会で乱闘になって、俺らが処分になった。

Q:それまでは土屋さんは共産党員ですよね。
俺は首になるまではバリバリの共産党員。明治の細胞の責任者だったので、その上の千代田地区委員会の中央委員だった。大学1年の時に入党した。だから俺の処分は新聞に出た。「6・1事件」の査問にかけられて、「赤旗」に土屋源太郎君がああ言ったこう言った、と本名で出た。というのは、俺が6・1の議長になるということに対して、中央から鈴木一郎が議長になるということで大もめして、俺が議長になって議事進行を進めたから。


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Q::代々木側としては、「赤旗」に学生の名前を出すというのは、将来を潰すということがあったのか?
将来を潰すというより、当時、早稲田、教育大、神戸大その他いくつか(の大学)が反対派としてあった。一番問題なのは、全学連大会、都学連大会で「アメリカ帝国主義打倒」というスローガンが一番最初に出てくるが、それに対して反対する。共産党もそうだった。何故かというと、平和共存の時代に「アメリカ帝国主義打倒」というのは非常に過激なスローガンだということ。それからデモも蛇行デモをして非常に過激だった。絶えず警察と衝突する場面があった。そういう行動が要するに極左的だということで、大会の度に必ず反対派との間に対立があって、反対派が議長席を奪おうとしたり、いろんなことがあった。結局、それを収束させるという名目で、反対派を擁護するという狙いで、6・1は党の中央が我々を招集した。それが分かっていたから、議長を中央に任せたらいいようにやられてしまうということで、こちらは前の晩にセクト会議を開いて、俺が議長になることを決めて、それで乗り込んでいった。それでこちらが議長を宣告したら、案の定、中央が学対責任者の鈴木一郎を出してきた。そこから議題に入る前にぐちゃぐちゃあって、最終的に「共産党けしからん」ということで、当時の共産党の中央委員会幹部全員の罷免決議までやった。それもあったからなおさらだよ。
それまでは我々は共産党の中を変えられる、変えていける、変えていこうという努力をいろいろやった。ブントの書記長の島を、共産党都委員会の執行委員に票を集めて当選させた。そこまでやって党改革をやろうとした。だから「6・1事件」の時は、あえて島は関わらなかった。
もし何かあった場合、島までやられちゃうとまずいから、そこまでやった。島は処分にはならなかったけれど、結局ブントを作ることになった。ブントを作るのと、革共同が出来たのは基本的に何が違うかというと、トロツキーに対する評価だった。我々(革共同)はトロツキーがロシア革命の中心であったが、スターリンによって疎外されたという考え方。それが正当だと考えた。ところが、ブントの彼らにしてみれば、トロツキーは必ずしもそうではなくて、トロツキーの思想は過激である。「反帝反スタ」ということで彼らは共産主義者同盟を作る。我々の革共同は半年前に出来ていて、その後ブントが出来た。だから当時はブントと革共同で一緒にブントを立ち上げるということで、我々もブント結成大会に参加して執行委員にもなった。ところが3ケ月ももたなかった。左翼運動というののダメなところ。そこでも俺らは除名になった。革共同は細っていったよね。というのは基盤が自治会にもないし労働組合にもないから。俺も(革共同の)専従でやったけれども、1年もたなかった。食えないんだから。明治も最初は革共同が強かったけれども、俺らが手を引いたので、ほとんどブントと代々木になった。

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Q:ブントが60年安保闘争で主導的にやっていたと思うが、その後崩れていく。その時、革共同はどうだったのか。
結局、革共同も分裂した。クロカン(注:黒田寛一)と一緒にやっていたが、彼がスパイ活動みたいなおかしなことをやっていたので、俺らが追い出した。今度は京都の連中と一緒になって運動をやったけれども、闘争課程の中で京都の方から問題が二つ出た。一つは59年に教育三法問題があって、奈良女子大とか和歌山大の教育学部などがものすごい闘争をやった。それを我々が指導した。それに対して京都側から、それが過激だという話になった。冗談じゃない、お前らは現場を知らない、という話と、もう一つは、当時ソ連共産党が革命勢力を拡大する時に、社会党に加盟戦術をとった時期があって、それに倣って、革共同の組織拡大のために社会党の青年部内に潜入して党員になって、そこから党勢拡大をしていく、それに対して俺らは、冗談言うな。小判ザメじゃあるまいし、小魚がでっかい魚に吸い付いていいかげんな事をやろうという、こんな馬鹿な話はどこにあるんだ、ということで俺はケンカになった。それもあって、革共同はだんだん力が無くなっていった。だから60年安保の時は、革共同はそんなに影響力がなかった、やっぱりブント中心。ところがブントが中心となって国会突入して樺さんが殺される。あれだけの大デモをやったけれども強行突破されて、安保条約が成立した。その総括でブントの中で対立があって、それを契機に島なんかも嫌気がさして組織から離れた。と同時に、当時、そういう過激な活動をやったために逮捕者がものすごく出た。国側は逮捕者をどんどん増やして保釈金をどんどん出させれば、組織を財政的に締め付けができる。その狙いもあって、やられちゃった。その隙を狙って昔共産党員だった田中清玄が仲介に入って、ブント全学連の財政担当に20万円金を渡した。それを契機に唐牛(注:唐牛健太郎)たちがそっちにくっついた。それでブントが再分裂していく。君らに伝えておきたいことがいっぱいある。

Q:塩川(注:塩川喜信:全学連委員長)さんはそのまま大学に戻った?
塩川は大学に戻ったけれど、あいつは大学院を出て(東大農学部)助手になった。ところが東大闘争の時に助手共闘が団体交渉に入った。団体交渉がうまくいかなくて、総長を缶詰にした。その時の闘争の中心に塩川がいた。そのために塩川は万年助手だった。塩川は(総長を)缶詰にした時に逮捕された。保釈金が当時で30万円。一緒にやってぃた鬼塚(注:鬼塚豊吉)から電話があって「塩川がとっ捕まって保釈金が30万なんだけど、20万は集まったけれど。10万何とかならないか」ということだったので、しょうがないから俺が10万出して塩川が出てきた。塩川に「助手をいつまでもやってどうなるんだ」と聴いたことがある。塩川は「生活は全然困らない」と言う。「何でだ」と聴いたら、東大は国家公務員だから公務員としては給料が上がっていく。教授と公務員の給与はべらぼうに差があるわけではない。要するに名誉だけの話だから助手だっていいんだ、ということだった。塩川は東大を定年退職した後、神奈川大学に行った。ところが神奈川大学は代々木系が強かったので、一部で「塩川を入れるな」という反対があった。最終的に仲介する人がいて、塩川は神奈川大学にずっと専任講師で居られた。塩川は大変な家柄で、父方の祖父は塩川男爵。母方の祖父は日本商工会議所会頭の足立正。だから大変な名家だった。
残念だけれど、当時都学連で活動していた5人組が4人死んで俺1人になった。残っているのは俺1人。こういう話が出来るのは俺と森田くらいで、何しろ砂川闘争の時に「車で柵に乗り入れた」なんてことを言うんだよ。向こうからジープが2台、重機関銃を積んで出てきた時に俺に何と言ったかというと、「おい土屋、やばいから少し引かせた方がいいんじゃないか」。俺が指揮の責任者だから「馬鹿言え、ここで引いてどうするんだ」と突っ込ませた。森田いわく「我々はトラックをもって柵に突っ込んだ」。
冗談言うなと言うんだよ。時々あいつはいろんな法螺吹くから。清水丈夫は元気でいるみたいだけど。

Q:由井(注:由井格;中大自治会)さんはいる。
中央大学は非常に活動家が多くて、学生大会の度に全学連加盟が却下されて、最後まで全学連に入らなかった。なぜかと言うと反戦会議の組織の中心に中大がいたから。そういう形で全学連との協力を持っていた。由井たちは正式に全学連執行部などに参加することはできなかった。ただ千代田地区委員会の委員に俺と由井はなっていた。由井はその後のことは詳しく知っている。伊達判決を生かす会でも一緒にやっている。

(終)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊
(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
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「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは隔週で更新しています。
次回は7月23日(金)に更新予定です。

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