野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2021年08月

今回のブログは、6月5日の明大土曜会での講演である。
 東日本大震災による福島第一原発事故から10年。
原発事故被災者の支援を続けている「福島を救え!大震災義援!ウシトラ旅団」の平田誠剛さんから、ウシトラの10年の歩みを振り返りつつ、被災者支援の現状と課題についてお話をいただいた。

お話をいただく前の前座の話。

1

平田
ウシトラは最初はボランティア団体として立ち上げて動いたんですけれども。あまりやることがなくて、避難者のところにどうやって入り込むのかということが課題で。その頃、整体師の先生が協力してくれていたので、彼を先頭に避難者のところに入っていくという方針を取りました。
雇用促進住宅、生活保護などを受けながら暮らしている人たちがいるいわき市の施設ですが、そこに避難者の人たちがある程度入っていた。そこと繋がろうということで、この整体師の先生を先頭に私たちが行く、サロンも一緒に開く、それをやりながら入っていきました。技術も頭もない私たちは、子供たちと一緒に遊ぶということをやっていました。
この子たちなんかに話を聞いて、結構避難者の人たちがどうやっているのか、ついこの間まで居たけれども、放射能のことが怖くて他県に引っ越していった。この子たちは、浜通りの方の強制避難で来ていた子なのか、前からここに住んでいた子たちなのかはわ分からないですが、子供たちの様子をそんな風に聞いていました。
パワーポイントを作るのに、少し昔の資料を見直ししていたんですけれども、結構いろんなことをやってきたなというものあるし、苦労もあったなと思い出しました。反省と情けないなという思いに囚われながらやっていました。

司会:土曜会との最初の接点はいつ頃だったかな?四大学共闘が出来た時には、近くにはいた?

平田
付かず離れず・・・。

福島の子供たちのサマーキャンプが始まって、川西町の「おもいで館」で一緒になった。それまではそれぞれ別個に活動していた。

平田
たぶん13年の夏だと思います。私たちがキャンプをやったのは12年の7月ですが、その時は全然関係なかったと思う。2年続けて同じところでやって、その時にスイカだかメロンだか半田さんが抱えてきてくれた。

12年の(原発事故1周年)の県民大会で土曜会と知り合ったたわけです。一方でその後、東京都内の(反原発)デモに行くと、ウシトラのでかい旗があって、見ると知っている人がいる。それで下北沢で結成1周年集会というのがあって、その頃から接点を持ち始めた。

司会:そういう感じの?がりがあるので、平田隊長にウシトラ10年の歩みをよろしくお願いします。

【「福島原発事故被災者支援の現状と課題」平田誠剛さん(ウシトラ旅団)
―東日本大震災による福島第一原発事故から10年 ウシトラ旅団の歩み】
(パワーポイント使って説明していただきました。)

1.「ウシトラ旅団」とは?

2

「ウシトラ旅団」の旅団長であり、公認のNPOだった頃には理事長でした。今、公認NPOではありませんが、ボランティアでも勝手にNPOを名乗ってもいいということになっていますので、NPOと言っています。
ウシトラというのは、いろんな風に言われました。「赤い旅団」だとか「風の旅団」だとか言われましたが、全然そういうのではなくて、要するに東北地方、つまり丑寅の方向に行くぞと、これが「七たび旅してわれら丑寅の義兵とならん」というところです。東方の方にボランティアで行くぞ、という意思表示でした。一番最初から勝手にこういうスローガンを作って、仕事仲間に声をかけて動き始めました。
今、私は一人でいわき市に住んでいます。いわきに住むようになったのは、支援の関係で関係が深くなってきた富岡の人たちの最後を見たいという気持ちでいましたし、それから浜通りがどういう風になっていくのかという気持ちでもありますし、そこに少しでも役に立つことが出来れば、と思っています。

2.福島の復興と避難者の現状
まず現状からお話をして、ウシトラがやってきたことを振り返りつつ、今、何を考えるべきなのかというお話をさせていただきます。
結成の経緯は今言ったような感じです。震災があってすぐ、3月末か4月頭には友人と私はいわきに行っていました。それは友人のところに差し入れを持っていくということとして、ごくごく小さな個人的な形で関係を作っていったということです。そこから始まりました。
3

(福島の)今ですが、20キロ圏内が警戒区域ということにされて、この警戒区域が翌々年に3分割される。3分割されて、帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の3つに分かれました。今、居住制限区域と避難指示解除準備区域はとっくに解除されて無くなりました。要するに住んでいいということになったんですね。帰還困難区域はまだ残っていますが、解除が進んでいます。
その解除がどうなったかという現状を見ていきます。私たちが主要に付き合ってきたのは富岡町の住民の人たちでした。でも避難者の人たちというのは、富岡のように原発の立地町、富岡というのは福島第二原発があるところですね。それからその周辺のところ、例えば広野町、第一原発で言えば立地は大熊町、双葉町それから浪江、南相馬、相馬市という風になっていて、このあたりも(原発)事故によって大きく汚染された。このあたりの避難者がいる。それから自主避難者と呼ばれる人たちがいる。震災の時の5月か6月に20ミリシーベルト問題というのが起きました。年間20ミリシーベルト以下だったら避難しなくてもいい、要するに補償もしないということです。そういうことで、浜通りからの避難者がやってきたいわき市とか、中通りの郡山とか福島とか、そこら辺でも実は20ミリシーベルを超えるところは金銭補償があって避難することができた。そうでない人たちももちろん避難したわけです。ということで、そこの人たちがいる。
4

避難者はどういうものかというと、復興庁は、住居を移転して元のところに帰るという意思を持っている人というのが、定義であるらしいです。ところが、福島県から外に出た人たちのところにはうまく伝わっていない。それぞれの自治体でカウントされない。カウントされないから新聞の取材で逆に増えてしまうという話になる。それから強制避難になった町村の方は、出て行った人たちを名簿でカウントしていますから、今、全部で7万人くらいいる。ところが、福島県のカウントのし方が違っていたり、福島を出て自治体でカウントされている数が違ったりして、実際のところはよく分からないという状態になっています。
しかし、人は生きているわけで、そこで苦労しながら避難先で生きている。そういう人たちも全て避難者であると私は思っている。
今どうなっているか。
5

ツアーに行った人は覚えていると思いますが、夜ノ森の桜のところまでは行けたが、そこから先はダメだった。常磐線を仙台まで通した時に、夜ノ森の駅もキレイになって、そこに行ける道だけが通れるようになった。
しかし、その周りは帰還困難区域ですから、バリケードの向こうに誰も帰れない、住めない家が建っている、という状態が続いています。
6

自主避難者という人たちは補償がない。強制避難になった人たちはどういう風に暮らしているかというと、避難先で新住居を持っている。いわきであれば新しい家がたくさん建ちました。それは補償金で建てたものです。県の復興公営住宅に入った人たち、その他に少数ですが帰った人たちもいます。その人たちの精神的損害賠償、それから自分たちが持っていた財産の補償が基本的に終了しています。これもいろんな噂があります。「まだあるんだ」とか「裏で何かあるんだ」と言われますが、私は基本的に終了していると思っています。「まだ金貰っているんだろう」といわきあたりでも結構言われます。そいう意味での嫌らしい感じは続いているんすが、そういう人たちが去ったところは、さっきの写真のように解除と復興という形で進んでいる。復興が何なのかというのは、よくよく考えてみないとマズい問題です。政府と避難した自治体もなかなかそれに逆らえない。その路線に乗っかるという形でしか自分たちを維持できないという形になっています。
やられているのは、スモールタウンと言って、ちっちゃな街を作るのが続いている。もう一つは政府側が一生懸命進めているイノベーション構想というやつ。一言でいえば、原発の廃炉に向けていろんな技術を作り出すということなどをメインにして、そこで町の復興を図る。言葉を変えて言えば、原発と一緒に生きてきた町が、廃炉という中でもっと深く東電との関係が出来ている。ある人に言わせると、原発で儲けることが出来なくなったので、廃炉事業で儲ける、それを輸出産業の基礎にすると考えているのではないか。その可能性はあると思います。
北は双葉町から南は富岡、楢葉くらいまで誘致合戦をやる。これで雇用が出来ると言っていますが、そんなことはないです。
7

このこぎれいな建物が大熊町役場です。その向こうの建物はシェルターみたいです。大熊町は原発事故が起きた時も、指揮を執れるようにオフサイトセンターを作っていたが、全然役に立たなかった。今、それは楢葉町にあります。大熊町がどういう風に要求したか分かりませんが、事故が起きた時に立て籠もれる建物を作った。ただし、これは人から聞いた話なので、たぶんそうだろうなという話です。
右下が住民が今住んでいる、大河原にある復興住宅です。要するに大河原を中心にして町の復興をやろう、前の町長が住んでいた地区です。そこにこういうキレイな家がずらっと建っていて、写真には出ていませんが、東電のもっとキレイな家もずらっと建っている。
つまり、東電の社員や原発で働らく人たちと、前から住んでいて戻ってきた人たちによって町を再建しようということです。それがイノベーション構想の一つの軸でもある。

8

これも大熊です。こうやってまだどんどん汚染物が出てくるのを溜め込んでいる状況もあるし、この写真は大野駅から見た写真ですが、震災でダメージ゙を受けた家が、まだこうやって残っていて、要するに手がつけられていない。、ここは帰還困難区域だから最終的に壊していくんでしょうけれど、こういうのがたくさん残っているという状況です。ですから復興だと言っている町のモダンな感じと、周囲のこういう感じが大熊には一緒にあるということです。
9

これは富岡町。富岡町の駅前に復興住宅が建てられています。これがスモールタウンの軸の一つです。帰る人たちというのは、だいたい年寄りですね。避難して避難先に10年近く暮らすと、三世代で住んでいた人たちは子供や孫が新しい暮らしの中にスッポリ入ってしまって、新しい仕事にも就いている。全然そういう経験を持たない人たちは行き場が無い、というわけでこっちに戻ってくる。それはちょっと町からのサポートもある、ということなんですね。ですから帰らざるを得ない人たちも結構いるということです。それでそこでしか買い物ができないようなスーパみたいなのが2つか3つくついたモールがすぐそばにあって、駅は土日は、ここを見たいという人たちが来ています
10

(帰らずに)残った方は、県営の復興住宅にいます。棟ごとに各町の人たちが入っている。入り混じっているところもある。いろんな形でもめ事が起こっています。
ここは昔から水がよく出るところで、家は建っていなかったらしいです。昔の写真を見ると田んぼだったところで、そこにたくさん家が建って、いわきに住むと決めた人が住んでいる。
11

警戒区域、その周辺の人たちは棄民化が進んでいます。なんだかんだ言っても、補償が終わったということにされているし、孤立している人たちが、生活苦と、とりわけ精神的な傷を負って生きている。うつ病になっている人たち、それが自殺に結び付く人たちがどんどん出てきている。さっきの復興住宅で言うと孤独死。誰にも分からないまま、孤立した中で一人死んでいく。亡くなってから数ケ月後に発見されるということも起こりました。
この右の写真は、富岡町の人たちが中心になってやっているカフェです。泉玉露の仮設住宅でやっていたものが、仮設がなくなって、そこの支援者だった牧師さんのところ、教会に場所を移して続いています。この人たちは、よくお話をそれぞれしているので、それほど精神的に追い詰められないということです。勝手なことを言ってよく喧嘩になります。
左の写真は手だけ写っていますが、1歳か2歳の時に、転々としていわきにたどり着いた子です。私なんかが偉そうに先生と呼ばせてお勉強を見ている子です。もちろん故郷のことは知らない。避難者の人たちにとって、子や孫に勉強させることはとても大事な事なんですね。それで塾に来ている子が多いです。

3.原発事故をめぐる裁判
12

裁判です。何で裁判が問題なのか、やるのかというと、自分たちの要求をまとめて、政府と対峙しながら交渉して、となかなかならなかったんですけれども、それを今まとめているのはたぶん裁判です。裁判を起こしている人たちというのは、東電との1対1の交渉で妥結しなかった人です。交渉に不満があって、もっと金をよこせと裁判を起こした。もちろん彼らは金が欲しくてやっていないと見えますし、ただ、そういう喧嘩のし方というのは、民法上は金を要求することでしかできない。そういうのが、全国で30くらい起こされている。
それから刑事裁判訴訟。東電のトップ3人を被告にして刑事責任を問う。ようやく起訴まで持ち込んで、1審では負けました。結果が負けたというですが、実はその裁判で進んでいることが、その他の裁判に大きな影響を与えています。そこに出てきた証拠が使われて、(国と東電の責任を認めた)仙台高裁の判決になっています。他にも再稼働を止めろという裁判。これは私たちが関わっていますが、東電の中で起きた過労死事件が裁判で進められています。
判決で言えば、損害賠償の判決で言うと東電の賠償金は低いし認められる。しかし、国の責任で言うと半々になっている。私たちが考えていた原発労働者がどうやって生きていくのか、というところとはまだ残念ながら繋がれていない。
こういう活動の中心にいるのは、いわきで三里塚闘争をやった人たちです。三里塚というのは偉いです。こういう人たちが生き残りました。

4,「ウシトラ旅団」が目指し、やってきたこと

13

のこのことウシトラ旅団も入ってやりました。泉玉露の仮設住宅に入りました。富岡町の人たちが避難してきたところで、いわきでは一番大きな仮設住宅でした。そこで6~7年付き合っていました。今はそこは解体されていますが、そこの支援をやりました。子供と一緒に遊びながら、イベントをやり、キャンプをやり、いろいろ活動をやってきました。
それから避難をしてきた人たち、私たちが付き合っている人たちの話を、東京の人たち、全国の人たちに繋ぐ。(下北沢の)「音蔵」でやった(ウシトラの)記念集会もそうですし、ある意味「シュレディンガーの猫」(の公演)もそうでしたね。
ウシトラ旅団はボランティア団体ですが、ちょっと他の団体とは違うと分かってくださればいいです。
14

私たちは泉玉露の仮設住宅で活動する。具体的に言うと、イベントのお手伝いや自治会の運営について、表には出ませんがやる。避難者のまとまりを作る。彼らが意識的に生きていくために一緒に進むことを考えていました。具体的に言うと、専門家を連れて行って、放射能というのはこういうことなんだという話をしてもらったり、それから一番関心のある自分の土地や家がどのような基準で評価されるのか、専門家を派遣して勉強会をやる。それから自治会のおばさんたちといい関係を作ってもらいながら、実質自治会の動きを支えている女性たちの活動を(支援)していました。それから、総会にも端っこにいたりしていました。総会の決議の中身をこちらで準備して、これで行こうかみたいなこともやっていました。「かっちょい」と言うのは、活動調整委員会のことで、自治会の役員とボランティアの3者、ウシトラ旅団、テモテというキリスト教団体、グレース教会に参加してもらってもらいました。素晴らしいデザインの自治会新聞も作りました。
これが私たちがやってきたことです。
15

私たちが大きく関わることになったのは「餅つき」からです。(2011年の)9月に500人くらいが暮らせる仮設が完成して、そこに皆さん集まってきた。1万4千人の町民が集まったが、知っている人があまりいない。シャッフルされたわけです。だから集まった人たちが自分たちで新しいコミニティを作らなければいけない。全然わからない人たちがどうやってまとまっていくのか。「餅つき」ってすごいですね。何が大変かというと、準備が大変。準備が大変だとみんな仲良くなる。それをやって、旗を持ち込んで「賑やかし」をやっていました。茨城から獅子舞に来ていただくこともやりました。
15-1

これが重要です。
(写真右上は)テントを畳んでいる最後の撤収のところですが、この人は「いわき自由労組」という小さな労働組合のメンバーです。港で働いていますが、原発労働者や除染労働者の支援や組織化をやってきた人です。そういう人も私たちが繋ぐ。ここから港の労働者や社民党の人たちとの?がりができている。
初めての「餅つき」は大変だったけど楽しかったです。いわきの泉のビバリーヒルズといわれている高台に住んでいるケーシー高峰さんも降りてきて、一緒に楽しみました。さすがにプロですね。話がめちゃくちゃ面白い。
こういうことも重要なんですが、支えているのはおっかさんたち。あまり表には立たないし目立たないけど、実質を握っている。いざとなったら男どもが言っていることを、全部一瞬にして粉砕します。それだけの力があるということです。
「どうせ男どもは杵を付くことと食うことしか考えてないだろう。私たちに任せなさい。」と言ってやる。「その代わり貴方たちは、私たちの言うことをちゃんと聞かなければいけません」。強烈でしたね。こういう存在がいたというのは。
16

16-1

これが全景です。一人暮らしの1部屋だけのところもあるし、2DKのところもある。これ(写真右上)が総会で決議した中身です。要するに自分たちでどういう要求をするのかということを公然と言っていないんですよ。つまり大衆運動的に表現される形で言っていない。それを何とか見える形にしたいと思って5つにまとめ、総会で決議しました。
17

政府は生活保障を行え
東電は被害に応じた補償を直ちに行え
富岡町当局は、国、東電に補償実現を要求する先頭に立て
国、県、富岡町は双葉郡住民のための暮らしと健康を守る施策を直ちに実施せよ
双葉郡は一つだ ともに力を合わせて困難を生き抜こう

これが2012年の4月の総会で決議されました。それで、集会場の入口のところにずっと張られていました。東電と賠償の交渉に行くときは、まずこれを読ませろ、と住民の人たちは言っていました。口ではそう言ってもやらせられない。後になって、仲良くなったおじさんが「この中身を本当は一斉に福島県中に建っている仮設住宅に行って、この決議をさせて動かなければいけなかった」と言っていました。
これ(写真左下)が2012年の3月11日の合同慰霊祭。富岡町の役場は郡山に行っていたが、郡山よりいわきの方が避難者が多かった。いわきの方でも合同慰霊祭をやりましょうという話になって、この仮説住宅の人たちが自分たちで準備して、そこに仮設住宅に入っていない人たちもやってきて、一緒に慰霊祭をやりました。ところが聞いてみると、この年、郡山でやってないという話でした。ということは、富岡町で、住民自身で行った唯一の慰霊祭になります。面白いのは、富岡町のお坊さんが総力動員でみんな来ている。それからテモテ(キリスト教団体)の神父さんが聖書を開きながらお経を聞いている。そういう状況で合同慰霊祭が行われました。
18

これがその年のお花見です。住民が「お花見したい」と言うんです。富岡町の人たちは夜ノ森の桜を毎年楽しみにしていたんですけれども、「行けない」と私たちが言っても、「いや行きたい」と言って、どうしようか、いざとなったらバスを借りて希望者を乗せて回ってこようと思ったんですけれども、良識が勝ちました。結局、いわきの高台にあるところでお花見をやりました。なかなかいい花見でした。
19

20

これが子供のキャンプです。これも私たちが送った横断幕です。旗は大事ですね。これに味をしめて、熊本に行く時の横断幕など作りました。
私たちにとっての3年目のキャンプです。基本的に、子供たちは大事にしないということを考えていましたので、自分たちで火をおこして、自分たちで魚を釣らないと食えないというところに追い込んでやりました。立派に出来ました。子供たちのそういうところを引き出せたかなと。私がモンベル(アウトドア・メーカー)から帽子を取り寄せて、みんなに渡すから並べと言ったら、大きい子たちはちゃんと小さい子を前に並ばせて、ものすごく礼儀正しくて統制がとれているんですね。でも思いましたね。ずっとそうやって強制されて生きてきたんじゃないのかという、ちょっと辛いものがありました。
21

22

「シュレディンガーの猫」(の公演)を皆さんの協力を得てやらさせていただきました。会津の大沼高校の演劇部の人たちがやっている演劇を観て、どうしても東京でこれをやらなきゃと思ってお願いしました。たくさんの人たちの協力を得て実現することができました。ものすごく話題になりました。お陰様で、今も全国の中学校、高校で演じられ続けています。この翌々年の中学校のコンクールでは、「シュレディンガーの猫」をやった学校が優勝しました。シナリオがとても優れている。
23

あと、現地ツアーも何回かやってきました。「タオルのゾウ」(花咲かせるゾウ)もメーデーに売りに行きました。私たちが作った富岡町の横断幕を飾って、人の流れをせき止めて買っていただきました。
24

現状から先を考えると、昨年、廃炉ロードマップが破綻していることが明らかになって、今年度からデブリを取り出すと言っていたはずなんですが、誰もそんなこと思っていない。取り出せないから廃炉どころの話ではなくて、自分がやっていることは本当に廃炉なのかというのが現場で働いている人の実感だし、取り出せないということがはっきりしてくると、あそこにデブリがある傍で暮らすことになりますから、不安ですよね。避難者の人やちに聞いてみると分かりますが、もう1回あれが起こったらどうなるんだ、あの大混乱の各地を転々として避難をしてくことをやれというのか、という不安を実は持っています。
だから戻るということに踏み切れない、大きな心理的なものですよね。
2年後に、政府が汚染水を薄めて流すと言っていますが、本当にやれるのか?いわきでも漁業の本格操業をやり始めている。風評被害とか言っていますけれども、言い方は二つあって、一つは実際は核種がいろんなものが入った水が流れるんじゃないかという話と、そのことによって魚のブランドが一気に崩れ去ることになるだろう。「あんこう」で食っている茨城も大変ですよね。にも関わらず、政府が復興という空虚なスローガンを掲げてやる。それに対して原発で避難した人たちの地元の自治体は、発想が昔と変わらない。おそらく支配的な関係がずっと続いていると思うんです。そうじゃない、こういう方法があるだろうということは出てこないし、相変わらず国から出る補助金をどうやって取るのか、それからイノベーション構想に引っかかるような箱物をどうやって持ってくるのか、というようなことを考えている。考えているものしか私たちには見えてこないという状態にまだあるということです。

5.これからは主体づくりが問題の核である
25

半田さん(明大土曜会:故人)とその辺の事を話したことがあります。半田さんも私も、今言った政府や、それに忖度を重ねざるを得ない自治体やらではなくて、自分自身の要求をちゃんと掲げて通すという、そういう住民の勢力をどう作るのかというところは核になるだろう、そこがポイントだと沖縄の話やら水俣の話をしました。やっぱりそういう主体が作れるというのは時間がかかる。今のところ、主体が鍛えられていく過程というのは、裁判の過程で進んでいく、と考えるべきではないかと思っています。すごくいい人たちなんだけれども、政治を嫌うみたいなものがある。政治的発言が出来ないというような。
それは「こんなこと言ったら大変になるぞ」という公然たるものもあるんだけれども、もっと心の奥に鍵は掛かっているようなところがある。
26

今年の10年目の慰霊祭ですが、教会でやりました。教会でやったということもあるんでしょう。ちょっとしたアトラクション、おっかさんたちがフラダンスを踊ったり、太鼓をやったりしながら、それぞれの発言を受けるということになりました。私も発言しました。
私はこのように言いました。
27
「熊本の行動(熊本地震被災者慰問)に行った時も思った。確かに皆さんいろんな苦労をしてきた。だけどその苦労というのは、熊本に行ったら、今そういう地震で仮設住宅で暮らして苦労している人たちにとっては、全部、つまり自分の全存在をかけて語ってもいいし、助けてもらってもいいと思う。それって大変なことなんだ。皆さん、そういう風にあなたたちは選ばれてきている。そういう力をあなたたちは持っている」という話をしました。ちっとポロッとする人もいたんですけれども、そういう自信を彼ら自身が持つこと。、それを信じて一緒に動いていくこと、彼らを忘れずに、彼らを力のある人と認めて一緒に歩むこと、というのが大事なことなんだろうと思っています。
28

この写真は、熊本で避難者の皆さんと、ただジャンケンをするだけでも大盛り上がりという様子です。彼女たちに対しても(熊本の)この人たちは、本当に甘えるようにして自分の辛さを話すことができるというのは、すごく大事なんだろうなと思いました。

6.恒久補償要求と医療体制が急務
29

今、ウシトラ旅団が考えること。
補償がやはり必要です。何でか?生活が大変だからです。それから精神的にも追い詰められているからです。さっき言ったように「うつ病」になる人がとても多い。
これはAさんという相馬市の先生です。後発性PTSD(心的外傷後ストレス障害)が浜通りにも出てきている。それは、お互い話せない、腹を割って話せない、篭る、生活が変わってくる、ますます精神的に追い込まれていく、というようなことが続いて、孤立し、生活破綻し、精神疾患を患う、そういう人たちを青木さん(新聞記者)がA先生につないで何とか命をとりとめている、という話が最近の(青木美希さんの)本に出ています。
そういう状態に今なっているので、恒久補償はすぐに出るとは思わないけれど、言い続けなければダメだと思います。これは言って当然だと思うし、ここの部分は、裁判でいうと、過去の精神的な損害賠償をしろというレベルでしかないんですが、本当は、「ここから先お前ら全部面倒みろよ」と言って当然だと私は思います。そういう風にしなければいけないと思うし、精神的に追い詰められている人たちのために医療体制を作らなければいけない。
30

長谷川さんは、福島県全体の復興住宅のサポートをやっている「NPOみんぷく」のトップです。今、曲がり角に来ている。とても難しいところに来ている。でもどうやって自分たちの経験を生かし避難者をサポートしていくのか、その展望を考えなけれないけない。
つまり、政府が金を出さなくなってきているから、自分たちで助け合う共助をしなければいけないと強調していました。
どうするのかというと、一般的なあちこちで今問題になっている限界集落の問題や若い人たちの貧困や老人介護、護を支える若い人たちが少なくなっている問題を含めて、自分たちがやってきた経験を合わせて、ここに取り組む。つまり避難者の支援をやってきたことと、今ある一般的に問題になっているものと合わせて前に進むんだ、ということを(長谷川さんは)考えていました。実際に食料配布を始めるということからやる。
また、富岡町に戻って、ひどい状況の中に落ち込んでいる人たちのために働くという人がいました。彼の心の内には、自分がお金を持っていて死んでいってもしょうがない。自分の身体は動かなくなる。動かなくなる人が富岡に帰るのはよくあること。ただし、自分は千坪ある宅地と畑に新しい建物を建てて、そこで富岡の人たちのために使ってもらうと考えている、どうだと。その時に、長谷川さんがこんなことを言っていると言ったら、ほとんど俺の考えていることと同じだな、ただ自分は富岡の町の小さな一人のやり方でやりたい、と言っていました。
長谷川さんの言うことも、この人の言うことも、国やら県が言っている復興ではない、自分たちの力で作りましょう、ということだと思うんですよね。
私たちは、ここを信頼して一緒に進みたいと思っています。
以上です。
31

平田さんからは1時間20分に渡ってお話をしていただいたが、10年という歳月は語り切れるものではないだろう。
明大土曜会も開催から61回目となり、10周年となったが、「ウシトラ旅団」も10年。ウシトラ旅団とは福島の「おもいで館」での子供の保養や現地ツアーなど、連携して多くの活動を共にしてきた。そういう意味では明大土曜会の10年は「ウシトラ旅団」の10年と重なる。
32

平田さんのお話の後、明大土曜会のYさんが「ウシトラ旅団」への思いを語った。
「明大土曜会は元々反原発のために作った集まりではない。2011年2月に第1回目を開催したが、翌月の3月11日に東日本大震災が起き、原発事故が起こった。昔の学生運動に関わった人たちのサロン的な集まりだったが、3・11を契機に、ここまできたらもう一回元気を出して旗を揚げるんだ、ということで四大学共闘を作り、『祭』が中心的な場所になった。そのうち経産省前テント村が出来て、結果として反原発のための土曜会みたいな形になった。当時は福島の人たちの運動を支えていかなければいけないという意識があったが、1周年くらいで福島の人たちの運動の勢いがなくなる中で、自分たちで何が出来るか考えた。反原発の集会にも行ったが、それだけでは福島の人たちの中に入り込めない。半田君は福島の子供たちの保養を確保したいということで、山形県の川西町の『おもいで館』での保養を金銭面を含めて支える活動をしてきたが、それ以上は入り込めない。ウシトラはいわきの避難者の仮設住宅に入り込んでシコシコやっているので、このグループと繋がらなければいけないと思った。
やはりこの問題は福島、特に双葉郡の人たちに入り込めない。そういう中で平田さんはよくやっていると思う。今後も貴重な体験を聴かせてもらいたい。
当事者にはなれないので、どうやって中に入り、中の人たちの闘いを支援していくのか。押しかけることも必要だが、押しかけることによって、中から何か引き出せればいい。
そういう意味でウシトラに敬服している。」

平田さんは、明大土曜会での話について、「ウシトラ旅団」のフェイスブックで以下のような感想を書いている。
「震災、原発事故からの10年、いま被災者が直面している問題について、私達の考えを話してきました。
久しぶりに皆さん方のお顔を拝見。10年を彼らに助けられながら、私達の活動は続けてこられました。
問題意識を共有しながらの模索の年月。こんな先輩やそこにやってきた若い人との存在に心から感謝しています。
たいした提起もできませんが、ここからまたともに歩んで行きたいと思います。」

(終)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
img738_1
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は9月10日(金)に更新予定です。

重信房子さんを支える会発行の「オリーブの樹」という冊子には、重信さんの東日本成人矯正医療センター(昭島市)での近況などが載っている。私のブログの読者でこの冊子を購読している人は少ないと思われるので、この冊子に掲載された重信さんの近況をブログで紹介することにした。
当時の立場や主張の違いを越えて、「あの時代」を共に過ごした同じ明大生として、いまだ獄中にある者を支えていくということである。

今回は「オリーブの樹」153号に掲載された重信さんの獄中「日誌」の要約版である。(この記事の転載については重信さんの了承を得てあります。)

img778_1
<独居より 2020年11月11日~2021年2月5日>
11月11日 快晴が続きます。南向きなので陽が入るのですが、ベランダ運動は北向きなので、やっぱり寒い。今日は、10月分の報奨金の告知がありました。7円30銭から10月分は1時間9円40銭にアップ。10月の合計は705円でした。(中略)

11月12日 昭島の最高は15度、最低5度と、だんだん冬暦になりつつあります。
点呼後、大谷先生からお便り。私の方から紙千切りの刑務作業について中止を求めて苦情申し出をしており、解決しないなら法務大臣宛の苦情か裁判かと、大谷弁護士に相談したためです。東拘の初代視察委員会委員長として「この分野は、専門です。苦情処理の代理をします」と力強いお便りと、委任状の用紙を送って下さいました。でも、「紙千切り作業報告その2に代えて」と、11月9日付の日誌で、記したところでした。つまり、私の当センター長への「苦情申し出」は「未決定」で却下、「自分の考えを述べたものにすぎない」との回答でしたが、懲役作業としては、5ミリの紙千切り作業は中止されました。そして、「だるま作成作業」に戻り、すでに工房通いが9日から始まっているので、一旦更なる法務大臣への申し出や、裁判は、とりやめることにしました。大谷先生の心強い援護を、ありがたく受け、委任状は、まだ未交付ですが、記入の上、返送しておこうと思います。今後のためにと思っています。(中略)

11月24日 連休明けて今日から急に寒くなりました。久しぶりに和尚の法要面会の機会を得ました。読経も声が朗々として気持ちが良いです。今日は経産省前テントでの祈祷団の祈りの日。これから向かうと、大忙しの和尚です。「法要の話のみ許可」と念を押され、土曜会の話も出来ないけれど、土曜会の気持ちも交流させ、楽しい一時を過しました。(中略)
Uさんからは11/7の新宿ロフトのよど号HJ50周年トークイベントのMさんの報告を伝えて頂きました。「帰国問題以前に、何故HJやったのか?赤軍派の闘いの教訓を除いて帰国問題語るのは疑問あり」とMさんは提起したようです。第二部では、蓮池透さんの発言が良かったとか。「拉致問題は解決できない。関わっているのは日本会議らすべて安倍政権の補完組織であり、政権は解決しないで引き延ばすことに意味があるのだ。朝鮮が敵国であり続け、拉致被害者の家族が死んでしまうのを待っているのだ」と。国交正常化からしか拉致問題は解決しないのは自明です。また、この間私の「20年目」の記事が出ていたと、送ってくれたとのことでチェックしてみます。今週受け取れるか不明ですが。
(中略)

12月1日 もう師走。(中略)
12月1日夕方、宅下げ予定の昔の文章を「許可を得ずに、書き加えた」として不許可。「どこ?」と見たら、「12月1日に出すこと~」などの記入があったためとのこと。これは2017年12月初めに送り、その後2018年9月に戻してもらった原稿の一部。12/1の偶然の一致の書き込み。多分3年前に発送前に書いたらしいのですが、3年後と日付が今と一致で「嘘」のようにとられて、不愉快でロッカー中引っ掻き回して証明しようとしたけど、2017年の日誌はすでに宅下げしてない……。この原稿を出所まで保持することになってしまいました。

12月2日 寒くなりました。最高12℃、最低4℃。今日は検査のため終業2時間前に工房を出て部屋に戻り、着替えて待機。2時間半前から静脈への針入れ(造影剤投与時の分)、その後レントゲン胸・腹部、エコー検査、それからCT,その後心電図の検査、3時半ごろ終わりました。
 この頃いろいろまた、処遇が厳しい。来年2月1日からエンピツ使用禁止。「なんとか令」(?)によるみたいなので、全国的かも。ようは鉛筆削りを回収したいためのようで、色エンピツ含め不可。シャープペンのみに。腱鞘炎で4Bエンピツ使っていたのも、来年からは使えません。また、私の手紙の字が小さすぎて、規定の字数にそって書くようにと「指導」を受けました。
(中略)

12月7日 金曜日に医務からインフルエンザと肺炎ワクチンに関する説明文を渡されていました。読んだ上でさきほど「ワクチンを接種します」に署名。押印しました。
届いた資料の中にマラドーナの死去の特集があり、「マラドーナがパレスチナ支援していた」という話に、へえー!と思いつつ読みました。なぜなら1982年ベイルートがイスラエル軍に包囲された最中のことです。丁度ワールドカップサッカーでイタリアチームが優勝しました。当時世界の良心がイスラエルの侵略を非難し、パレスチナに連帯を表明していた時です。イタリアチームはこの優勝カップを、パレスチナの抵抗の闘いに連帯して、勝ったら贈ると宣言し、実際その通りPLOに贈り、包囲下の私たちを喜ばせました。その時、マラドーナはイタリアチームと対立していたのか「我々が勝ったらイスラエルに贈る」と表明して、ベイルートで悪評でした。「貧しい時にユダヤ人に助けられたらしい」という人もいましたが。後にカストロと親しくなって心酔したせいか、パレスチナ支持なのでしょう。
(中略)

12月14日 だるま製作は順調です。今日は12月の花が届きました。赤いカーネーション1本とスプレー状の赤いカーネーション1本、それにクリスマスで松ぼっくりをシルバーに塗ったものに変わった葉の茎など。でも松ぼっくりは、不許可で一見の上、廃棄でした。(中略)
味岡さんから「流砂」18・19号も届きました。18号を捲っていたら味さんの「続・全共闘白書」の「書評」が載っています。その中で、味岡さんは、私のアンケート回答に触れつつ、「読みながら、僕は彼女がある歌誌に寄せていた歌を思い出した。『マルクスやトロツキー読み吉本読み、わたしはわたしの実存で行く』(歌誌「月光」62)。この歌はいつごろのものかわからないが、一瞬にしてあの時代のことを思い起こさせたのだ」と記しているのを見つけました。あ、味さんも「月光」歌誌を読んでいるのかと驚き、また、この一首に注目して下さったことは何だか嬉しい。もちろん「あの時代」のことです。(中略)

12月16日 今日は和尚の除夜法要。面会室に入ったら、なんとパナソニックの性能の良いマイクが設置されていました!前には設置要請したのですが、却下されました。コロナ感染対策で通話用の小さい穴をふさぐ結果、みな聞きとり難いからでしょう。和尚のお経朗々のすばらしい除夜法要。和尚も私の声がよく聞こえてまるで仕切り壁がないよう!と喜んでいました。今年の法要面会のお礼、そして新年良い年に!と、ガラス越しの握手で別れました。

12月17日 今日はインフルエンザの予防接種をしました。12月のCT,エコー、レントゲン、心電図の検査結果も今日の診察で伝えられ、すべてOKでした。これで今年の診察、検査は終わりですが、あと肺炎の5年に1度の予防接種がありそうです。いつも管理されている状態の中にあり、他のひどい刑務所医療と違って、医師・検査士・看護師の集団が検討しシステム化して電子カルテで管理する普通の病院のような医療体制があるので、高齢の私にとっては助かります(その運用の点で星野さんの件のような医療ミスの批判はあるとしても)。(中略)

12月21日 冬至は快晴。友人が“今”の風がどんな風に吹いているか知られるようにと「ハルメク」「婦人公論」「AERA」を送ってくれました。リラックスして読める本でありがたいです。「『AERA』の『時代を読む』は必読です」と、ホームレスの女性のことに関する記事。友人は「亡くなった時の所持金は8円。胸、痛くて痛くて」とあります。失業・孤立・生きよう働こうとしても生活出来ないコロナ時代の日本の厳しさに思わず“殺されしホームレス女性の手持ち金たった8円哀しい日本”と雫れます。「ハルメク」はていねいに読者の声と往復していて、こういう本が売れるのでしょう。
 送られた「かけはし」「思想運動」「解放」など読み、ブンドが失った国際主義・連帯が紙面に溢れていて改めてブンドの解体を実感しています。「党組織」でないということは、こういうことだ……と。

12月27日 明日朝この手紙発信です。12/28は仕事納めです。7月27日から始まった懲役刑務作業は二度の中断で、社会参加の第一歩は計画通りに進まず。度々の中断は社会では通用しない獄中社会生活でした。ふりかえると今年一年コロナ禍で無花果の葉が剥ぎ取られた人間社会だったようです。そんな中友人たちの協力支援でパレスチナ解放闘争史を書き上げ、入力編集を終えられたのは、私にとってはありがたいことで、感謝ばかりです。新年、オリンピック・デジタル一元化管理・コロナと危機管理が進み、政府の強権はさらに進みそうです。「桜」も「学術会議問題」もあまりに強引、あまりに民の声を聞かない菅政権はもつでしょうか。オリンピックを止め、コロナ被害者への税金の分入六配を!と願う新年です。来年は年を越えるとまた出所が近づきます。良いお年を!と祈りつつ。

12月31日 溜っている資料学習したり、「シオニズム」について2016年に書いた文章をリベラシオンに送ろうかと、手直ししたり、気付いたら、もう大晦日の点呼も終わりました。(中略)
夜は丁度半世紀ぶりの「紅白」をTVで見る夜です。1970年、大晦日、紅白が終わるころ自宅に戻って家族と年越しそばとみかんで年越し。71年正月から会議続きで2月末には、ベイルートへ。丁度、50年目直にTVで見る紅白です。うーん、踊りと歌のシャウトのテンポと理屈っぽい詩のような歌詞、情熱的な割に無機質。こんな長くTVを見るのはやっぱり苦痛です。時代遅れの後期高齢者としては……。

2021年元旦 新聞が届き、選者らの「新春詠」が載っていて、永田和宏さんの日本学術会議の二首が心に残ります。“明かされぬ理由は誰もが考へるよおーく考へろよと睨まれるごと”“あのことを許したのがすべてのはじまりとわれら悔ゆべし遠からぬ日に”と詠んでいます。私も一首“嘘だった「アンダーコントロール」「モリカケ」も「改ざん」もありて長期政権”。
東拘のように正月のごちそうは、出ませんが、元旦には、一年に一個のみかん、ごはんは白米になります。昼膳に小さなお節料理が添えられました。15センチのパックにとっても小さな1~2㎝の超ミニの13種(①いもきんとん②やさい浸し③かまぼこ④カズノコ⑤伊達巻き⑥昆布巻き⑦筍⑧椎茸⑨さやえんどう⑩黒豆⑪麩⑫湯葉⑬なます)です。
友人たちからの賀状もたくさん頂きました。ありがたいことです。「コロナ禍の新年」「来年の出所に向けた新年」、「去年のパレスチナ解放闘争史完成快挙!」など、みんなの声に励まされる新年です。
夜は、去年をふりかえり、又、来年の出所のことを考えました。今年は様々に学びたい。社会に出て、半世紀のギャップにまごつくことばかりでしょうが、ここで出来る準備を心掛けようと思っています。

1月2日 今日はリラックスの一日を決めてTVで箱根駅伝、切れ切れですが楽しみました。
夜は短歌、凡作ばかりですが。“新年のコロナ拡大人類の変革迫る神の福音”コロナは戦争にたとえたり、打倒するものというよりも、より大きな人類の危機を知らせてくれた福音だったと、一世紀後の人々は、感謝するかもしれません。人類がグローバル資本主義の悪弊から脱しようとすればですが。“福笑い何度やっても哀しい顔コロナ自粛の独り遊びは”、自粛の今の気持ちを一首に託しました。

1月4日 今日は、仕事始め。期待とはずれて、室内個別作業でした。新年には……と言っていたのですが、年末からずっと個室作業。粘土もペンキも禁止のため、他で作ったダルマのペンキ塗ったものを濡れ布でみがいて、ペンキのムラをスムーズにし、その後乾いた布で光らせます。あまり上手な作品でないので、ペンキのムラをとろうとするとペンキがはげたり、形が歪んで、製品としてはどうか……というのが多い。腱鞘炎なのでなかなかむずかしい作業です。
丁度今、夜7時前、賀状やお便りを頂き感謝しつつ読み始めたら高校時代の友人から新聞で住所を知って55年ぶりのお便りあり。びっくり嬉しく読みました。「転校して来て不安な中あなたが明るくやさしく接してくれたこと感謝でいっぱい」と。そんなやさしかった? 気立ての良い仲良くしてた友人の一人。民生委員をやっているのは彼女らしい。友情はありがたいことです。お便りに励まされつつ今届いた賀状なども友人の顔を浮かべつつ読む至福の一時です。
 
1月6日 再び緊急事態宣言の気配。オリンピック中止し、まず補償を厚くしてから緊急事態を宣言してほしい日本です。核家族社会どんなに多く人が生存の危機に方途もなく立ちすくんでいることでしょうか。今日は12月クリスマスの頃送って下さった資料などが届きはじめました。遅ればせにその同封の手紙、メリークリスマスの絵も受け取っています。
資料PFLPのサイトで、旧友アブドウルラヒム・マル副議長の逝去を知りました。ファタハやハマスまで彼を「偉大な民族的戦闘者として、彼の死を深く追悼する」と、称賛しています。私が彼と出会ったのは、71年のジュラシ山岳地帯の解放区です。若松監督や足立監督と一緒に映画作りで、ゴラン高原からヨルダンのジュラシ──パレスチナ戦士の最後の砦──へ入った時です。のちにPFLP議長となるアブアリ司令官の下、文官や軍人参謀たちが10代の若者から40代のコマンドまで統率して、対ヨルダン軍、対イスラエル軍と対峙していました。彼は「マンローハ」と呼ばれていて、軍の前線を仕切っていたカードルでした。明るく戦闘的な若者。その後ジュラシは壊滅させられ、多くが絞首刑に晒されたPFLPのメンバーのうち、マンローハたち少ない人数が逃げのび、数が月後ベイルートに入り再会しました。以来マンローハは南部で指揮をしたり、対ヨルダン戦線作りに奔走していました。アブアリがPFLP議長として西岸地区で活動するために祖国入りを決めた時、彼はまたアブアリの下で闘い続けました。被占領下アブアリがイスラエルに暗殺され、その報復として、PFLPがイスラエル観光相でシャロンの盟友のセエブを殺害したことで、次の議長になったサアダトがパレスチナ刑務所からイスラエル領内に拉致されてしまいました。そのためマンローハは西岸地区でずっと議長の役割を担っていました。彼はまたアッバース大統領らのカドウミPLO政治局長追い落としに抗して、PLO執行委員としても闘ってきました。大切な柱を失ってPFLPも衝撃でしょう。祖国の外で副議長の任にあるアブアハマド・ファードも当時からの友人ですが、同世代の同志を亡くして厳しい状況の中どうしているでしょう。若い世代、当時、みな結婚し子どもを授かり、代を継いで解放を、と覚悟していたのを思い出します。きっと息子、娘たちがすでにその任を継いでいることでしょう。また、PFLPの去年12月10日のH・Pに「パレスチナの空で星になった日本のコマンド」の記事があり、リッダ闘争3戦士の戦いと岡本公三さんのことを記しています。岡本さんがPFLPの仲間の支援、レバノンの友人たちの支援で元気な様子、うれしいです。

1月8日 さっき点呼後の「お知らせ」で「1/7~2/7の約一ヶ月の『緊急事態宣言』を受けましたが、当センターでの変更事項はありません。通常通りの受刑生活を送って下さい」と放送されました。面会などの中止は無いので安心しました。(中略)

1月12日 連休明け。全国大雪の中、今日は雪がこちらには降りませんでした。午前中に和尚の新春法要。元気に年を共に越えたことを喜びました。土曜会も代表して面会下さっているのですが、旧友たちの話は出来ません。Hさんの店のこと気にし合いました。1月7日遠山さん50回忌、そして3月12日は命日として墓参を考えているとのこと。
刑務作業に戻り12月分の報奨金1時間13円30銭で898円とのことでした。
(中略)

1月15日 去年12月に出版された「『恋と革命』の死・岸上大作」読みました。60年安保・ブントと共に立って詠んだ歌が多いのを、この本で福島泰樹著者の解説で知りました。良い好きな歌が多いのは、全共闘運動の時代の情熱と共通する歌が多いからでしょう。 “意思表示せまり声なきこえを背にただ掌のマッチするのみ” “血と雨にワイシャツ濡れている無縁ひとりへの愛うつくしくする” は有名ですが、ブントの側にたった歌には、“闘わぬ党批判してきびしきに一本の煙草に涙している” “血によりてあがないしもの育まんああまた統一戦線をいう” “うつむきしまま列を組む洗われて五月の樹々は瞳(め)に痛ければ” “プラカード雨に破れて街を行き民衆はつねに試される側” “胸郭の内側にかたき論理にて棍棒に背はたやすく見せぬ” “もうひとつの壁は背後に組まれていて<トロッキスト>なる嫉視の烙印” “地下鉄の切符に鋏いれられてまた確かめているその決意” “学連旗たくみにふられ訴えやまぬ内部の声のごときその青” “装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている”など。観念に殉じて予定に沿って自裁し、「ぼくのためのノート」が自死の実況記録のように絶筆。岸上が今も「生きている」のは、同時代の仲間たちの彼の本の出版や、福島さんら「無様な生き方」をした彼への共感と愛情、そして彼の歌の力です。読んでいると心に滲みます。
昨日から屋外運動は中止です。室内で体操30分も、刑務作業も。でも空調で寒くありません。14日から、ダルマ不良品修正のための粘土も室内に入るようになりました。磨き作業と並行してやっています。腱鞘炎には粘土作業がベターでよかったです。
(中略)

1月29日 今日から刑務作業に、ダルマの白ペンキが房内に入るようになりました。これで工場と同じように鍾付けまでの作業を除いて、粘土でダルマを正確な型につくり(この、工程が下手だと、不良品になる)その上で白ペンキを4回塗り更に濡れ拭きでペンキのムラや筆の跡をなくなるまで拭いた上で、乾いた布で磨いて完成です。それが出来るようになって「意欲的」です。唯、工場でもやっていたのですが、不良品の修正のみです。粘土のやり直し、ペンキ済みの不良品の修正、ペンキがはげたものの修正など完成させる作業が多い。鍾付けからやって自分で作るのとはちがいますが、不良品再生の「敗者復活」は、それなりに工夫できて、かえって「楽しい」。
(中略)

1月31日 早くも一月尽。50年前のこの頃、アラブ行きを決断して奥平さんと計画を立て、国際部のアメリカ組(「日米同時蜂起」のペンタゴン突入を、どう米国革命グループとやるか)と、最後の打ち合わせをしていた頃です。アメリカ組の東大の加藤くんは、どうなったのだろう……と思わず思い出しました。壮大な夢に小さな自分たち。挑む感性は、やっぱり大切にしたい。もちろん、パレスチナやラテン米、東欧の友人たちが驚き「ファンタスティック!?」と大笑いした「ペンタゴン突入」という意味ではないです。
そして今の、学生たちの動向を分析した「平成・令和学生たちの社会運動」(小林哲夫著・光文社刊)を読んでいます。「2010年代から2020年代へ学生が訴える」の第一章では、どんな風に学生達が社会運動、学園での活動に関わっているか、個々のエピソード風に触れています。コロナ禍のキャンパスで事業料返還を求めたり、環境、黒人差別などずいぶん自らの決心でたちあがり活動している学生たちがいます。私が驚くのは、激しい過激ともいえる大学側の管理統制の常態化です。東洋大の学生が竹中平蔵批判のビラを撒いたが、10分とたたず大学事務室に職員らにとりかこまれてつれられ、退学の脅し。「表現の自由には責任が伴うので何らかの処分で責任を取ってもらいます」と。ビラを撒いた船橋さんは、反論し、すぐSNSで事態を発信、マスコミに拡散され、東洋大など支援が、集まったが、学生たちからは声がかからない。若い人の多くは、そういう教育の中で小学校から大学まですごしているのでその結果でしょう。「駅前や集会を聞いたり、大通りをデモしたりするのは犯罪じゃないんですか?」と学生に言われたある大学教員の驚き。「お上に逆らってはいけない」という風潮。60年代から、70年代の全共闘・反戦運動のラジカルな闘いを再現させまいと政府、公安警察、マスコミ、大学に至る教育のすさまじい結果を見る思いです。
また民青の現在の活動と日共との関係の変化も興味深い。かつて20万人いた民青メンバー推定一万人弱らしい。でも、おかしいことをおかしいと声をあげるシニアが居る限り、継続的に若い人々は影響を受けつつ批判もし、様々に闘いつづけているようです。私たちも先達を批判しつつ、問題意識を開花させて闘ったのですから。この本でていねいに個人、SEALDs、民青、いわゆる”過激派”独自グループなどをフォローして生の声を中心にまとめているので現実を知り、考えさせられる一冊です。
(中略)

2月4日 今日は追い立てられる気分で№599を投函に提出しました。「オリーブの樹」153号のため、一月末までの日誌と「一月の歌」のまとめを送ったところです。歌の方は何かと気忙しく思考を集中して詠めず凡作ばかり。もっと自分と向き合って捉えつつ詠もうと反省。二月のお題は「浮遊」です。こんな一首を詠みました。
“三陸の波にたゆたう魂魄の叫びに寒月海に落ちたり”
2/1付の歌で“「浮遊」という妙な御題を頂きて浮遊浮遊で一日暮れる”などという歌が雫れて書き留めたのですが、安易にすぎ反省。そして「浮遊」という言葉と向き合っているうちに、今日「たゆたう(たゆとう)」として詠んでみたいと、三陸の一首が生まれました。海に写したような寒月は私の叫びで、地中海に落下したように思えた、ある冬の日を想い三陸と重ねて読んでみました。今日受け取った12月の歌会の資料に刺激されたせいもあります。吉村先生「パルチのサソリ」と言われた彼にふさわしい一首をそこに見つけました。福島泰樹さんの一首です。
“冥福は祈らず星よ霧の夜の外灯漏れて瞬くよ友よ” そう、冥福よりも連帯の挨拶こそふさわしい。前に友の逝去を詠んだ一首ですが、私も一首“獄窓の落暉を赤旗替わりとし歌いて葬送(おく)らんインターナショナル”
 (中略)

2月5日夜、島崎さんの文庫本新著「だからここにいる─自分を生きる女たち」受け取れました。安藤サクラら12人の中で最年長が私みたい。そのオムニバス。婦人公論2007年11月から2008年1月まで掲載されたものとありますが、当時は公判でバタバタしていたためでしょう、始めて読む感じで、うーむと赤面しつつ読んでいます。他の人よりずいぶん長い。文章はこう書くのか……というような読ませる文。私のように1から10までダラダラ書くのではなく、1と5と10を書いて全体を読者が想像するような。また、数時間のインタビューも数行の生きたコメントだけ使う。何十人もの人から聞きとり。でも、え?!がいくつか。誰かの証言「パレスチナは通説と違い重信さんが奥平さんに逆オルグされたんだよ」と、それはないけど。また「カダフィから第四夫人になってくれとプロポーズされた」云々。誰が言ったのか……カダフィは第一夫人しかいない……。いろいろあるけど噂話、嫌な話含め読ませる文です。一カ所だけミス「レバノンとヨルダンの国境に接するジュラシマウンテン」ではなく「ヨルダンとパレスチナ」の国境です。

(終)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』2021年1月19日刊行!
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
「語り継ぐ1969」
糟谷孝幸追悼50年ーその生と死
1968糟谷孝幸50周年プロジェクト編
2,000円+税
11月13日刊行 社会評論社

img738_1
本書は序章から第8章までにわかれ、それぞれ特徴ある章立てとなっています。
 「はしがき」には、「1969年11月13日、佐藤首相の訪米を阻止しようとする激しいたたかいの渦中で、一人の若者が機動隊の暴行によって命を奪われた。
糟谷孝幸、21歳、岡山大学の学生であった。
ごく普通の学生であった彼は全共闘運動に加わった後、11月13日の大阪での実力闘争への参加を前にして『犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ』(日記)と自問自答し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じた。
 糟谷君のたたかいと生き方を忘却することなく人びとの記憶にとどめると同時に、この時代になぜ大勢の人びとが抵抗の行動に立ち上がったのかを次の世代に語り継ぎたい。
社会の不条理と権力の横暴に対する抵抗は決してなくならず、必ず蘇る一本書は、こうした願いを共有して70余名もの人間が自らの経験を踏まえ深い思いを込めて、コロナ禍と向きあう日々のなかで、執筆した共同の作品である。」と記してあります。
 ごく普通の学生であった糟谷君が時代の大きな波に背中を押されながら、1969年秋の闘いへの参加を前にして自問自答を繰り返し、逮捕を覚悟して決断し、行動に身を投じたその姿は、あの時代の若者の生き方の象徴だったとも言えます。
 本書が、私たちが何者であり、何をなそうとしてきたか、次世代へ語り継ぐ一助になっていれば、幸いです。
       
【お申し込み・お問い合わせ先】
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト事務局
〒700-0971 岡山市北区野田5-8-11 ほっと企画気付
電話086-242-5220(090-9410-6488 山田雅美)FAX 086-244-7724
E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp

【お知らせ その3】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は8月27日(金)に更新予定です。

↑このページのトップヘ