野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2022年02月

全国学園闘争の記録シリーズ。今回は東京外国語大学である。
東京外語大闘争の発端は、学生寮の新設にともなう管理運営問題である。
以下、当時の新聞記事を中心に闘争の経過を見てみよう。
なお、記事中に全共闘支持の明らかにしたとして辞職勧告を受けた安東次男教授(詩人・評論家)のことが書かれているが、定年まで勤めて退官したとのことである。

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68.12.18  東京外語大、学生寮の自治を巡って学生と大学側が徹夜の団交。

68.12.23  東京外語大全共闘が二号館校舎をバリケード封鎖。

【読売新聞 1968.12.24】(引用)
外語大全面封鎖
紛争中の東京外国語大学の全学共闘会議は、23日午後、アジア・アフリカ言語文化研究所(A・A研)がある2号館をバリケード封鎖した。同大学には1号館と2号館があるが、1号館はさきに封鎖されており、これで全学封鎖されたわけ。
これは18、19日両日の徹夜の大衆団交で、大学側が「23日大衆団交を開く」と約束しながら「監禁される恐れがある」と拒否したためとみられる。

68.12.27 東京外語大教授会、全共闘支持の立場を明らかにした安東次男教授に辞職勧告を決議。

69.1.6 東京外語大、学長を委員長とする入学試験実行委員会を設置。

69.1.20 東京外語大の学生大会に全共闘系学生400人が押しかけ、警備の機動隊と衝突。学生は講堂内に入り演壇を占拠。

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69.2.25 東京外語大でスト解除派の集会にスト派学生200人が押しかけ、乱闘となり数人が負傷。機動隊100人が出動。フランス語学科教員全員が全共闘の主張に共感する声明を発表。
「全共闘の具体的戦術については批判がないわけではないが、要求の基盤にあって、それを支えているものは、人間的自由と品位を求める根源的要求であり、大学を真に人間的な創造の場にしたいという正当な要求だ」

【毎日新聞 1969.3.11】(引用)
教授陣も真っ二つ
東外大“最後の交渉”つぶれる
入試を13日後にひかえ、150日ストが続く東京外語大学(小川芳男学長)では10日午後、全学共闘会議(反日共系)が提起した7項目要求を議題として公開交渉(大衆団交)を開く予定だったが、流会となった。
この集会は、紛争解決への「最終的な公開集会だ」と大学当局も全共闘も認めていたもので、これが流会になったため、小川学長は同日夜、「重大な決意をしなければならない」と語った。これは機動隊を導入してバリケードを撤去、学内の”正常化”を図ったうえで入試を実施する意味である。また同集会の流会で学内の、特に教授会内の対立が一層むき出しとなった。
 公開交渉は全学共闘会議と大学当局の間で①教官の身柄を拘束しない②ゲバ棒を持ち込まない③正門のバリケードをゆるめ教官、学生らが自由に通行できるようにする、などの合意が成立し、10日午後1時から開くことになっていた。しかし、大学当局は①全学共闘会議が全教官に送った集会への招請状は内容からみて脅迫状ととれる②正門バリケードをゆるめる約束を守らないばかりか、構内に入る学生をチェックしたーなどを理由に、全共闘に対して「交渉断念」を通告した。

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 このため全学共闘会議はただちに講堂で「流会弾劾集会」を開いた。同集会には約720人の学生が参加し、教授、助教授、講師ら13,4人も加わった。
 岩崎力フランス科助教授ら3教授は壇上に立って発言。集会終了後には小野協一(英米科教授)篠田浩一郎、岩崎力、渡瀬嘉朗(フランス科助教授)河島英昭(イタリア科講師)田中克彦(モンゴル科助教授)安東次男(国文学教授)吉沢豊明(音声学助教授)山之内靖(経済史助教授)の9教官が連名で「全共闘の提起した問題の重要性を認識し、これと正面から取組むことなしに事態の本質的な解決はあり得ない。しかるに執行部(教授会の)代表委員会は、学生との最後の対話の機会さえも自ら葬り去った。かかる無責任な行為に断固抗議し、執行部、代表委の即時退陣を要求する」との声明文を発表した。
 学生大会の開催を要求して署名運動を展開しているクラス連合、日共系など5、600人の学生たちは「この日の公開交渉は学生大会開催への妨害となるものだから認めない」と主張。その一方で全学共闘会議に集まっているのも6,700人になるなど、学生が真っ二つに割れ、教授会内部の対立表面化を合わせて、東京外国語大の紛争は大きなヤマ場を迎えた。
 なお入試会場については、受験生約7千人を分散収容する東京都内の予備校など4ケ所ほどをすでに確保、受験生には14、5日ごろ郵送文章で各人に通知する。

69.3.16 東京外語大に機動隊導入。占拠中の全共闘学生は学内デモ後、構外に退去。

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【毎日新聞 1969.3.17】(引用)
東外大に機動隊
学長要請 5ケ月ぶりに封鎖解く
「紛争の経過
東京外語大は、学生寮の管理運営、学費値上げ反対などをめぐって、昨年10月11日にストに突入、正門、一号館などが封鎖され、11月2日には二号館などにもバリケードが構築された。大学当局は自主解決を唱えて、学生たちとの交渉にあたっていたが、東大、日大に劣らぬ激しい大衆団交が行われるなど、事態は好転のきざしもみえず、10日に開く予定だった最終公開交渉も流会となり、教授会内部も全学共闘会議を支持する教授たちが出て真っ二つに割れた。
このため小川学長は機動隊導入もやむを得ないという強い決意を固め、13日に教授会を開いた結果「過半数で執行部が信任された」として、14日午後、警視庁を訪れ、警視庁導入の打ち合わせを行った。大学側は15日、学生に退去命令を出した。」

国立二期校の入試を1週間後に控え、ドロ沼の紛争が続いている東京外国語大学=小川芳明学長=東京北区西ケ原4の5の3=は16日朝、小川学長名で警視庁に機動隊の導入を要請、警視庁は午前8時、制私服警官300人を動員、占拠学生を排除、5ケ月ぶりにバリケードを撤去した。
占拠学生たちは警官隊の導入時前、学外に退去したが、最後まで座り込みで抵抗した学生ら4人が不退去罪、公安条例違反の現行犯で検挙された。大学当局は同日から当分の間、キャンパスをロックアウト、学内の正常化に努める。

警視庁は午前8時一斉に正門などから構内に入った。本館前では警官隊の再三の退去要求にもかかわらず、3人の学生が座り込んだため、不退去罪の現行犯で検挙された。この他には大した抵抗もなく、警官隊は正門や本館、二号館などに築かれたバリケ-ドをくずして片づけた。
学長室はじめ各研究室は比較的保存され、長期紛争校としては荒廃は比較的少なかった。
しかし、図書館にあった新刊本数十冊がなくなっており、また竹内与之助助教授の研究室内の机の引き出しにあった現金6万円も消えていた。
泊り込んでいた約150人の学生は午前7時半ごろに学外に退去、国電巣鴨駅前までデモをしたが、警官隊に北区滝野川の公園まで規制され解散した。この際、指導学生1人が検挙された。
この日のバリケード排除で、大学当局はできるだけ早い時期に4年生の授業を再開し、遅くとも4月1日までには授業再開したいとして、17日午後開かれる教授会で10日ないし2週間の警官隊の学内駐留、夜間体制を決める模様。
小川学長はこの日「学生諸君へ」と題し「学生の中には機動隊導入が大学の自治を侵害するとして反対する人もいるようだが、この55ケ月間の状態こそ大学の存立をおびやかすもの。今後学生と協力して外語大の再建に当たりたい」との学長声明を郵送した。
また、この警官導入に対し、安東次男教授(国文学)篠田浩一郎助教授(仏文)ら執行部批判派の7教官は同日夜、小川学長に「機動隊導入は学園紛争解決を放棄したもの」との抗議文章を手渡した。

【読売新聞 1969.3.17】(引用)
東京外語大にも機動隊
(中略)
山積みの難問抱えたまま
東京外語大は16日、機動隊の“力”によって5ケ月ぶりにやっと物理的には正常な状態を取り戻した。だが完全に立ち切られた全共闘との話し合い路線、未解決のままの安東次男教授(国文学)への辞職勧告―山積した難問は片付く気配がない。
 昨年10月、全学が無期限ストに突入した直後、3週間のアメリカ出張から帰国した小川学長は「今浦島の感じだ」と変わりように驚いた。だが、完全自治寮建設要求はすでに6月から出されていた。学校はその後、学生への提案で「夏休みと重なり、十分な連絡がとれなかったことも紛争の一因だ」と放任を反省、注意していれば”今浦島”にならなかったことを認めている。11月の全共闘との大衆団交では一方的につるしあげられ、あげくは全共闘のカタを持った安東教授に対し、教授の規律を乱したと”離縁状”をたたきつけた。
1月20日、ノンセクトの学内正常化委が集会を開き、学校側は最後の望みを託した。全共闘はこれを「学内の分断工作」と”フンサイ”、学校側と学生の対話は完全に途切れたかに見えた。この間、学校側は手紙戦術で学生に訴え、全共闘は再び学校側との話し合いを求めてきた。
両者は新宿のバーや池袋の喫茶店、神楽坂のビルなどで、ある時は1~2名、ある時は数人で予備交渉を続け、話し合いのいくつかの条件を決めた。最後の望みをかけた3・10交渉・・・。しかし、全共闘が約束した条件、バリケードをゆるめる、全学生を自由に入れるなどの約束を守らず、ついに流会して、この日を迎えた。
学校側は全共闘を「信義を踏みにじった。われわれには東大、東教大のような“失政”はなかった」といい、全共闘は「管理者的発想から一歩も踏み出せない」と非難、断絶は深まるばかりである、

69.4.10 東京外語大で学内立ち入り禁止解除。全共闘学生が通用門を突破して学内に乱入。機動隊が出動し、学生128人を逮捕。

【毎日新聞 1969.9.10】(引用)
東京外語大 試験場に機動隊
全共闘派の35人を逮捕
“紛争重症校”の東京外国語大学(東京北区西ヶ原、鐘ケ江信光学長代行)は10日からロックアウト状態のまま、残っていた43年度前期試験を機動隊つきで始めたが、5教室で全共闘派学生が「試験粉砕」を叫んだため、大学側が機動隊を教室にいれ混乱、ロシア語、仏語、ヒンズー語の3教室が試験中止となった。
また、学外でも試験反対のデモがあり。機動隊と衝突、正午現在、35人が威力業務妨害、公務執行妨害で逮捕された。
学生が教室に入ったのは昨年10月に全学ストに入って以来11ケ月ぶりだが、ものものしい警戒と厳しい検問に、学生の表情は複雑で、大学方にせきたてられた“紛争自主収拾”路線のかげりが見えた。
この日行われたのは旧1,2年生の各語科総合試験。旧1年から3年までと、単位未修了の旧4年生の計1,471人が受験票を提出した。これは全学生の90.5%にあたるが、なかには全共闘派の活動家学生からも受験票提出があったので、大学当局は大学構内のゲリラ活動を警戒、初日の日程を1,2年生を午前、午後の入替え制として実施、滝野川署に警官出動を要請していた。
午前中の1年生の試験は定刻どおり10時から始まり、受験票を提出していた522人のうち429人が教室に集まった。しかし、1階1214番教室のロシア語科、2階1309番教室の中国語科など5教室では全共闘派の学生が「われわれの闘争はなんだったのか。試験を粉砕しよう」と呼びかけ、討論集会に切り替えた。
このため午前10時15分、坂本定忠学生課長が「試験はできないから全員出るように」と通告、ただちに機動隊の出動を求めた。
入れかわりに門外に待機していた機動隊員が校舎内に入り、ロシア語、中国語、仏語の3教室にいた全共闘派とみられる学生11人を検挙した。
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この騒ぎでロシア語、仏語、ヒンズー語の3試験は中止。中止の試験は19日までの全試験日程が終わったあと改めて行うことになった。
また大学側は正門内側に「試験場内の秩序を乱す行為などは法律による規制にゆだね、受験票を没収して試験無効とし、処分することもある」との警告を掲示した。
一方、受験を拒否していた全共闘派学生ら約100人はヘルメット姿で国電大塚駅に集まり、午前10時半すぎ大学から200メートルほどの西ヶ原四丁目交差点までデモをしたが、待機していた機動隊と衝突、けちらされて24人が公務執行妨害などの疑いで検挙された。
午後の部は午後1時から始まったが、うちロシア語科で2人がアジ演説して強制退去させられ、数人が試験を拒否し、うち1人が答案用紙を破った。

【毎日新聞 1969.9.26】(引用)
キャンパス情報
試験も終わり“重症”脱出へ
<東京外語大>
19日午後、ロックアウト状態のままで、10日から機動隊の警戒で行われていた43年度学年末試験を終えた。大学当局はこれで紛争の自主正常化の“ひとヤマ”を越えたとみており、文部省から“紛争重症校”に認定されて大学法の剣が峰に立たされていた教授会はホットひと安心。6ケ月にわたるロックアウトも早ければ25日には解きたいと言っている。大学側の発表によると、受験票を出していた旧1年~4年の1,471人のうち約70%が試験を受けた。

69.10.13 授業再開。

(終)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は3月11(金)に更新予定です。

今回のブログは、「重信房子さんを支える会」が発行している「オリーブの樹」147号と148号に掲載された重信さんの「私の1969年」というタイトルの手記である。
この手記は、1969年から50年が経過し、重信さんが1969年の出来事と自身の体験とを重ね合わせながら回想したものある。
私のブログでは、すでに「1960年代と私」第一部・第二部(重信さんの高校時代から明治大学入学、そして1960年代後半の激動の時代の中で、社学同加盟を経て赤軍派として活動するようになるまでの経過を、さまざまなエピソードを交えて回想したもの)という重信さんの手記を掲載済みであるが、その中でも69年の出来事にも触れており、一部内容が重複するところもある。しかし、今回の「私の1969年」には、未公開の「1960年代と私」第三部(赤軍派時代と私)の内容も含まれている。
なお、「情況」誌2022冬号「連合赤軍半世紀後の総括」の中に、この第三部の抄録「赤軍派崩壊と連合赤軍―私が森指導部と決別した頃」が掲載されているので、こちらもご覧いただきたい。
(「1960年代と私」第三部は、重信さんが今年の5月末に出所した後、書籍化を含めて何らかの形で公開される予定である。なお、「1960年代と私」第一部・第二部計17回はブログの最後にある「お知らせその1」の「全国学園闘争アーカイブス」の中にリンクが貼ってあります。
そこでまとめて読むことができます。)

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1. 1969年という時代
1969年は、ベトナム反戦運動、全共闘運動などの学園闘争、更にそれらと密接に結びついた新左翼諸党派の活動や競合もまた、ピークに達していた年として記憶されています。68年には、学生運動は全国に広がり、大学、高校でもストライキや占拠が続きました。68年の9月30日、日大全共闘の3万5千人を集めた両国講堂での団交から、69年1月の東大安田講堂へと攻防は引き継がれていました。当時の国立大75校中68校、公立大34校中18校、私大270校中79校がバリケードストライキで闘う状態でした。
69年には、ストに突入した学校は165校、全大学の43%にあたります。更に、この68年と69年には、50万人を超える学生、市民が、10月21日の国際反戦デーに参加し、全国で一日に逮捕者がいずれも1,500人を超えることが記録されています。(流動77年8月号「フレームアップと治安弾圧」より)こうした学生運動を基盤にして、新左翼党派は、政治的街頭行動や三里塚など、現地闘争を担い、先陣争いを党派闘争として運動を先鋭化していきました。
一方、権力側は、68年日大闘争、69年東大闘争など学生側の問題提起を解決せず、警察権力の             
介入、各大学の指導的学生の逮捕非合法化、犯罪者化によって、大学紛争を全国的に抑え込もうと             
動き出しました。68年の日大全共闘の学生側の勝利に対し、時の佐藤首相は10月2日、「日大の大衆団交は認められない。政治問題として対策を講じる」と発言すると、日大・古田理事長らは呼応して辞任を撤回して居直ります。そして10月5日には、警視庁は秋田明大議長への逮捕状を発します。加えて、69年1月18日、東大も機動隊導入で激しい学生の抵抗戦が闘われ、攻防の末600人を超える逮捕者を出して、19日、東大のストライキは制圧されます。その翌日、東大当局は69年の入学試験の実施断念を発表しました。そして同じ1月20日、警視庁は日大同様、東大の山本義隆全共闘代表の逮捕状を発して指名手配します。このような警察、大学当局の連携に抗した学生たちの闘いの最後のピークを迎えたのが69年です。
 69年9月5日には日比谷野外音楽堂に2万5千人を集めて、全国全共闘連合の結成大会を行っています。こうした高揚の中、権力の暴力に対し、より飛躍したラジカルな闘いを求めて、「武装闘争」が語られ始め、ブンド(共産主義者同盟)の中から4・28沖縄闘争を経て、赤軍派が登場するのもまた、69年8月のことです。
 この69年の激動の中で、私は教職を目指す23歳の一人の学生として、生きがいと好奇心をもって行動していきます。自分に忠実に生きた69年の出来事は、私を教師への夢から革命への夢に導いていきました。69年のめまぐるしい私の経験を辿ってみます。

2.東大闘争支援
 私は、68年には卒論を仕上げ、69年には教育実習を行い3月には文学部史学科を卒業して、4月から政経学部に学士入学しています。元旦には、69年は教員となる準備の一年としよう、そんなふうに考えていました。卒論を書き終えた69年1月から、東大闘争の攻防が本格化します。私自身は、67年に社学同(ブンドの学生組織)に加わり、仲間と共に社学同系サークル「現代思想研究会(現思研)」を創って活動してきましたが、当面の人生の目標は教師になることが第一で、その範囲で社学同の活動や文学サークルでの創作活動に関わってきました。69年1月の東大闘争の激化で、社学同からの参加要請が伝えられ、現思研の仲間の何人もが東大安田講堂に立てこもることになりました。そしてまた、安田講堂攻防戦の当日は、中大と明大の学館を出撃拠点として東大立て籠りに呼応して、お茶の水一帯を「解放区」として、東大本郷に向けて連帯の進撃が計画されました。「解放区」作戦は、68年のパリ・カルチェラタンの闘いに倣い、車などの立ち入りを禁止し、自由の空間を確保して自主管理し、大通りでデモや踊りなど行動できるようにすることです。68年以降、すでに何度も行われていました。1月18日、私たちは明大学生会館から、抗議集会、デモを繰り出し、たちまち群衆と共に明大通りを小川町まで「解放区」としました。そして、お茶の水駅前交番の人員を退去させ、お茶の水橋を超えて本郷方面を目指しました。

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橋を超えた先には、東京医科歯科大学があります。医科歯科大もストライキ中で、ここは青医連(青年医療者連合・ブンド系の人が中心)の拠点校でもあります。これまでの文部省、大学当局の攻撃や対応の過ちに抗議し、ストライキ中の校舎のマイクから、デモ隊に向けて東大闘争連帯の挨拶が響いています。本郷交差点を超えると、その先は機動隊に封鎖されていて、その辺りで攻防が続き、機動隊とのゲリラ的な前進後退が繰り返されます。この日か翌日だったか、警察側も攻撃に出て、明大学館にまで機動隊が突入して自治会を荒らし、破壊しています。


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 1月19日、東大安田講堂では、機動隊の制圧・破壊の中、学生たちは今井澄行動隊長の指揮に従って抵抗を終え、「インターナショナル」を歌いながら全員逮捕されて闘いは終わります。安田講堂の屋上から、現思研の仲間が放ったブンドの旗が、最後に投光器に晒されて、光の中落下するシーンを私たちはその夜テレビで口惜しくて何度も見ました。逮捕覚悟で闘った仲間たちに続こうと、気持ちは高揚していました。それから仲間たちの獄中救援も始まりました。これまでの拘留と違って、68年10.21闘争から大量逮捕者への厳罰化・長期拘留が科されるようになっており、皆、お金や時間を融通し合って救援体制をとりました。大学の日常性はそんな中にある69年です。

3.教生として
 こうした学生運動に関わる一方で、私は69年、待ちに待った教師になるための「教育実習」に入ります。(これが何月何日だったか記憶は曖昧です。)実習先には新宿駅にも近い中野坂上にある中野区立中学校です。明大からは、私と一緒に2名の男子学生、他に青山学院から英語の担当の女子学生2名の計5名が赴任しました。私は、社会科社会の3年生を教えることになり、クラス担当も体験しました。
 私がちょうど赴任した時の授業は「三権分立」の原理的理解と、日本の三権分立を教えるものでした。私は三権の分立度が高い程、民主主義の度合いが深く、日本の場合はどうだろうか?と、みんなの討論を組織したり、「天声人語」を授業の始めに一人の生徒に読ませ、感想を述べさせて、みながまた、それに感想を述べるなど、かなり自由な討議を中心に授業を行いました。
 生徒たちは、教生にいたずらをして泣かせたり困らせようと手ぐすねを引いて待っているものです。私も中学時代に赴任して来た教生たちにいたずらする遊び心を体験しているので、楽しく逆襲しつつ仲良くやっていました。学校側からマークされている数人の「問題児」は、率直な良い子たちで、本当は悩みを聴いて貰いたいのだと判ります。昔の私たちの中学時代には、放課後も教室や校庭で先生と自由に遅くまで語り合えたのに、この時代、授業が終わると3時頃にはロックアウトして校庭が使えないのです。そのため私は彼らと放課後公園で話し込んでいてみんなで補導されそうになって、「先生、ここやばいんだよ」と言われたりしました。ああ、こんな風に、こんなに率直な生徒たちと向き合って語り続けたい、そんな思いで短い教生期間を、毎日心が晒されるように有意義に過ごしました。たった短い期間なのに泣いて別れる生徒も居て、こちらも涙がこぼれてしまいます。先生になる!強く思いました。のちに私が「赤軍派」として逮捕されたことを新聞で知った生徒の何人かが心配して明大に訪ねて来たり、協力を申し出てくれる生徒もいました。遠い胸疼くような大切な小さな記憶です。

4.京大闘争に連帯
 教生の時にも、夜には生活、活動のために銀座のバーでアルバイトを続けていました。知人の伯母がやっている小さなバーで、社用接待を終えた後に、企業のトップがくつろいで2、3人で立ち寄る店で、活け花の家元や外交官も来ます。私はバーでも学生運動の話しもするし、自然体ですごしていました。スイス大使だったTさんは、娘が学生運動に関わり困っているというので、それが人間としてどんなに良いことか力説したりしました。夜7時過ぎから11時までで11時半には学館に戻り、生徒用のプリント作成や現思研の活動で多忙です。
 加えて友人が歌手になって間もないので、時々、こちらの時間があるときには、手助けしていました。そんな一環で69年3月に、歌手の友人と2人で京都に出掛けたことがあります。祇園会館で歌うことになったためです。当時の新聞には、東大の次は京大だと書きたてていて、京大もストライキ中なのを私たちは知っていました。週刊誌で歌手の荒木一郎が京大に呼ばれて歌い、10万円のギャラを得たという話しを読んで、私たちは学生への連帯はノーギャラでやらなくちゃ、と、ちょっと憤慨しました。祇園会館の出演の合間に京大バリケードに、こちらから押し掛けて連帯しよう、そこで自然に歌うことが連帯だよね、と私たちは語り合いました。京大の闘にも興味があります。丁度居合わせた高石友也さんも「やろう」と賛成してくれました。そんな訳で友人はステージがあったので、高石さんがまず早目に京大キャンパスに入り、ハプニングのように歌い始めるところに、友人と私が合流することに決めました。

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 翌日計画通りにステージを終えて京大に着くと、塀には∞無限大のマークと、「バリ祭実行中」と大書されています。校内に入ると、小雨が降り出していましたが、学生たちが目敏くみつけて寄ってきます。私たちは連帯したくて歌うために、京大のバリケードキャンパスに来たと伝え、高石さんは?と聞きました。「彼はバリケードのキャンパスで歌い出したら雨が降り出したので講堂の方に居る」と導いてくれました。こうして歌手2人がギターを弾きながら次々と歌い始めると、バリケードの中に居たたくさんの学生たちが集まり、次々とリクエストし、2人は応えて「連帯のために歌いたくて来た」とエールを送りました。学生たちにもこちらからリクエストして革命歌や校歌を歌ってもらいました。そのうちに一緒にいる私も歌い手と思ったのか、歌えと言われたので「ごめんなさい、私は歌手ではありません。でも4・28霞が関で会いましょう!」と言うと、わっとみな拍手しました。「ブントだね」と声が上がりました。当時ブントが「4・28霞が関占拠」を掲げていたからです。学生たちと一緒に最後はインターナショナルを歌い楽しい連帯を終えました。学生の数人は宿舎まで来て一緒に飲みながら京大闘争の現状についても話しをしてくれました。
 この時の後日談があります。アラブに居た時のことです。74年在欧の日本人仲間が、バクダッドの我が家に見知らぬ人を連れて訪れました。警戒しつつ庭の扉を開けると「あ、やっぱり君だったんだ。バリ祭の時君は名乗らなかったけれどもしかして……と話しをしていたんだ」と、よくみると当時のバリ祭実行委委員長の彼です。それでなつかしく酒盛りしながら当時のことなど語り合いました。
 ところが、何年か後に、彼は「不正な方法で赤軍に協力し、日本からアラブに人を送り出した」として「旅券法違反事件」の一人として逮捕されました。その後、何十年を経て私が日本で逮捕された後、検事は彼の供述書を証拠として私も昔の旅券法違反事件の共謀として起訴しました。私とは無関係な起訴でしたが、供述書にはバリ祭の京大連帯行動や歌手のことなど、すべてが検事の手で記されていました。検事は法廷で「歌手とはどういう知り合いなのか?」と質問までしてきました。「ただの中学時代の友人です。」と答えながら、若さで思い立ったらすぐ楽しんで行動するあの時代のバリ祭の連帯が蘇り、心の中でニンマリしてしまいました。 

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5. 4・28沖縄闘争から赤軍フラクへ
 活動も教生も文化活動もバーのアルバイトも、そして本来の大学生としての授業も楽しんでいた69年、私はブントの前議長だった佐野茂樹さんから、4・28沖縄闘争のためのブント軍事委員会の書記局を手伝ってほしいと頼まれました。
 当時、明大学館には、関西から上京していたブントの藤本敏夫さん、高原浩之さん、佐野さんらが拠点にしていて、学館4階の現思研の部屋に、いつもあれこれ実務や仕事を頼みに来ていました。そんな関係で、人材不足もあって私に頼んだのでしょう。大学外でのブントの活動を手伝ったのは、これが初めてです。
 新橋に借りた劇団を模した事務所に詰めて、あれこれ手伝いました。そこでは、元ブント議長の松本礼二さん、現議長の仏徳二さんと佐野さんで、4・28闘争の具体的戦術を巡って大激論していました。武器のエスカレートを主張する佐野さんに対して、松本礼二さんが断固として反対し、仏さんもそれに同意し、結局これまでの実力闘争レベルで闘うことになりました。闘争の前日には、破防法が適用され、大学や事務所が捜索される程激しい弾圧です。前日の大学捜索を免れた病院を併設している御茶ノ水の東京医科歯科大に、ブントら中心に集結し、当日出撃態勢をとりました。警察側は、出撃を阻止しようと病院にまで催涙弾を撃ち込み、病棟は混乱、病院は警察側に抗議しました。ブントは突撃隊を組織し、霞が関を制圧している機動隊の裏をかいて、新橋・銀座へと東京駅から線路伝いに移動しました。そして、銀座・新橋でデモと、解放区化を図り、群衆も加わって夜遅くまで攻防が続きました。


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 私のアルバイト先のバーもその内側に入り、バーのママは、私がブント、赤いヘルメットと知っているので「逃げてくる赤ヘルメットの子だけ助けたわよ!」と匿ってくれたそうです。この4・28闘争を「敗北」と総括した人々が「赤軍フラク」をその後結成し、「党の革命」を企てるのです。これまでの人脈に誘われる形で、私も「赤軍フラク」に招請されました。
 当時は、後の赤軍でリーダーとなる塩見さんも知らず、佐野さんがフラクのリーダーなのかと思っていた位で、現思研では、ブントの派閥や対立があることすら、この頃まで知りませんでした。ただ、前年の68年ブントが主導した欧米の革命的勢力を招いた国際反戦集会を引き継ぎ、また、チェ・ゲバラの呼びかけた「二つ、三つ、更に多くのベトナムを!それが合言葉だ」と訴える国際主義を進めうるのは、この人たちなのだろうという思いがありました。それで現思研の仲間共々、この「赤軍フラク」に協力しました。それでも私は、教師の道を目指しており、「職業革命家」を自認するブントの先輩たちの人出が無いのを手助けするという意識でしかありませんでした。 
 ところが、69年7月6日、事件が発生し、引くに引けない事態に至りました。
 赤軍フラクの者たちが、ブント指導部が自分たちを除名するらしいと、その動きに抗議するつもりで、7月6日朝、明大和泉校舎に押しかけたのです。そしてそこに居たブント議長の仏さんとそのグループの人々を糾弾し、はずみで暴力をふるいました。議長を骨折させ重傷を負わせたばかりか、警察に包囲され破防法の逮捕状が出ていた、この仏議長を護り切れず、逮捕させてしまったのです。
丁度、医科歯科大にいた私は、緊急に有り金をもって来てくれというので、和泉校舎に入り、すでにとんでもない事件を赤軍フラクの者たちが起こしたと聴き唖然としました。
 「こんなの革命じゃない!」これでは最早闘えない。希望が萎れていく気持ちで、当時の赤軍派の拠点、お茶の水の医科歯科大学の515教室に戻りました。ところが、515教室に塩見さんが戻ってきて、すぐに今度は赤軍フラクは、ブントの他の中央大学を中心とするグループから教室で襲われました。
 和泉校舎で赤軍フラクが仏議長に暴力を振るったと聴いた時にはひどく動揺し、加害の強い反省に打ち拉がれていました。ところが中大グループに襲撃され、消火器の泡を浴びながら、床に倒され応戦し、破られ床に倒され、仲間が拉致されたことで、今度は逆に被害者感情に支配されていきました。襲撃された中にいた私は、襲撃で頭を割られ怪我した数人を階下の診察室に連れて行きながら思いました。「これで終わりにはさせない。塩見さんら目の前でリンチされ拉致された仲間を取り戻すのだ」と、私は一歩前に進みました。
 この7月6日に起こった二つの「7・6事件」によって、私は今更、赤軍フラクをやめる訳にはいかないと思ったのです。私自身、政治内容も希薄だし、展望があったわけでではありません。ただ、あまり赤軍フラクには人材もいないし、困難な状況にあり、助けるべきだと思いました。好奇心も、これまでの活動の解放感もあり、その延長に新しい経験に身を置いてみたいと思ったのです。この赤軍フラクの窮状を克服できたら、私自身の目標である教師の道にまた進もうと思ったのです。この「7・6事件」をきっかけにして、私はこれまでの活動スタイルを一変させ、教師の夢を脇に置いて、人材不足の赤軍フラクの中で、専従して活動する道を選びとりました。

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6. 赤軍派としての闘いと逮捕
 赤軍フラクは、自らの不正な暴力によって仏議長を敵権力に逮捕させたことで、ブントの党の革命を頓挫させました。その上、ブント中央委員会で赤軍フラクの関係者への除名決定は免れえないと判断し、不本意ながら分派し、共産主義者同盟赤軍派として進むべく、69年8月下旬、赤軍派の結成総会を開きました。
 私は4・28沖縄闘争で初めて党活動を担った程度で、党活動の基準や方法も知りませんでしたが、当時の赤軍派の人民軍事委員会(CPA)と人民組織委員会(CPO)のうち、CPOの書記局員として活動を開始しました。
 そして、すぐ9月5日の日比谷野外音楽堂で開かれる予定の全国全共闘連合結成大集会に焦点を当てて、9月4日の初の赤軍派政治集会の準備に入り、葛飾公会堂の会場を借りに行きました。機関紙発行準備の財政や人材確保、会場準備とCPO活動に尽力しました。9月4日の政治集会は満員の数百人の人々が集まり、気勢をあげました。

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 翌9月5日の日比谷野音の集会では、入場を拒むブント系のかつての仲間たちの阻止戦を突破した赤軍派の部隊が会場に入ると、期せずして拍手があちこちから起こり、好意的に迎えられました。こうして、赤軍派は登場しました。当時は、大学は全国的に「秩序回復」の名で、右翼や機動隊にバリケードを撤去され、当局との厳しい攻防が続いていました。その条件もあって、武装闘争を主張する赤軍派の登場に、一部でしょうが、喝采する雰囲気がありました。赤軍派は「秋の前段階蜂起」を公然と宣言していました。そして、勢いに乗ってすぐに「大阪戦争」「東京戦争」「10・21闘争」と、厳しい弾圧に直面しつつ活動していきました。武装闘争を担いうる組織も経験も準備も不足したまま、裸のまま、警察との闘いが続き、次々と仲間が逮捕されました。69年11月には、「首相官邸占拠」の前段階蜂起のために、山梨県大菩薩峠の山中で、訓練が行われていることが発覚し、急襲されて11月5日、50余名が逮捕されて、赤軍派は壊滅的打撃を受けました。
 この時、大菩薩峠に居る仲間と都内の塩見さんら指導部を中継していた私は、11月12日初めて逮捕されました。逮捕状は、10月に開催した赤軍派の2度目の政治集会の会場を借りた際の「都公安条例違反」という口実の別件逮捕でした。消防か警察などへの届出を怠った、という理由です。しかし、それはこれまで合法だった慣例を覆した別件逮捕だとして、当時の「ジュリスト」に載ったとのことです。この逮捕に、私は憤然と抗議しました。私の方こそ、この会場となった北区の滝野川会館を借りる際に、「警察や消防などへの届出義務はないのか」と尋ね、会館側が不要だと行政指導していたからです。この逮捕があまりにこじつけだったのか、2泊3日で「釈放する」と言われて警察署の外へ出ると、案の定その階段の下には赤軍班の刑事が待っています。そして今度は「4・28沖縄闘争」の「凶器準備幣助罪」という罪名の逮捕状で再逮捕拘束されました。この罪名の理由は、4・28闘争当日、学生たちがナップザックに石を詰めて新橋や銀座などで投石したため、そのナップザックを大量に購入したのが私だとつきとめたとのことでした。「ナップザックが凶器か?」これも抗議しました。これらは別件逮捕で、公安警察側は実際は「大菩薩峠事件」の取り調べや、一見活動家と無縁なこの女は、何を考えているのかと掴みたかったようです。当時の日本社会の「常識」なのか、刑事らは女性差別観を自覚していず、女は好きな男のために助けているに違いない、という思い込みの取り調べです。話題がない分、刑事は警察の日常や上司への愚痴を語り、下っ端は大変だな……と、心の中ではですが、気の毒に思ったりしました。こちらは学習気分でいっぱいです。同房となったスリや、売春で逮捕された人たちの人生や、仕事の仕方も学び、助け合っていました。獄は人間の本心がそのまま出るところだと思いました。私自身は、逮捕の不当性に抗議しつつ、好奇心いっぱいで、「今年の予定は教師の準備だったけど、随分違った道に踏み込んだなあ……。まあ、それもいいか。こちらもやり甲斐があるし……」などと考えていました。
 数日すると、丁度11月の佐藤訪米阻止の街頭行動で逮捕された女子学生たちが、私の居る菊屋橋署に収監されてきて満員になりました。皆、すぐ仲良くなりましたが、その中で東京女子大の学生たちから、「大阪では岡山大生が山﨑クン同様警棒の乱打で殺された」と教えてくれました。警察側は暴力で何人でも殺す気ではないか……。慄然としました。私は佐藤訪米出発当日朝、抗議を呼びかけました。「シュプレヒコール! 佐藤訪米を許さないぞ!」「許さないぞ!」「許さないぞ!」と、スリや売春の同房者も誘って、一緒にシュプレヒコールをあげました。そして、各房スクラムを組み、インターナショナルを歌い抗議しました。闘い虐殺された人々を思いつつ、口惜しさに泣いている人もいて、私も涙を抑えるのに困りました。また、当時流行していた「黒ネコのタンゴ」の歌と踊りは体操がてら、毎日全員で楽しんだりと、騒々しい獄です。そんな獄中で知り合った学生たちの中から赤軍派に協力を約束してくれる人もいました。また、再会を約して、のちに会ったりサポートしてくれた人もいます。
 獄中体験は悪くない日々で、私のやる気を増殖させる結果になりました。結局私は不起訴で、12月初めに釈放されました。初の獄中体験を経て家に帰り、家族に心配をかけたことを詫びつつ、「私、先生は置いてこのまま革命の道を今は続けるつもり。やり甲斐もあるし、この道を究めたいの」と伝えました。
 家族もつい最近まで、教生をやって、教師の道をまっしぐらだったので、驚き戸惑ったかもしれません。でも自分の選んだ道に進むことは認めてくれます。子供時代から我が家では、人間として正しいと思った道に進むことは良いことであり、間違ったらまたそこから学べるのも自分だと教えられてきたので、心配はしたでしょうが、反対されませんでした。
 家族・友人に恵まれた私は、この69年、23歳から24歳の時に、自分でも思いもしなかった「革命の道へ」と、人生の舵を転ずる年となりました。
(終)

【お知らせ その1】
9784792795856

『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』
全共闘運動から半世紀の節目の昨年末、往時の運動体験者450人超のアンケートを掲載した『続全共闘白書』を刊行したところ、数多くのメディアで紹介されて増刷にもなり、所期の目的である「全共闘世代の社会的遺言」を残すことができました。
しかし、それだけは全共闘運動経験者による一方的な発言・発信でしかありません。次世代との対話・交歓があってこそ、本書の社会的役割が果たせるものと考えております。
そこで、本書に対して、世代を超えた様々な分野の方からご意見やコメントをいただいて『「全共闘」未完の総括ー450人のアンケートを読む』を刊行することになりました。
「続・全共闘白書」とともに、是非お読みください。

執筆者
<上・同世代>山本義隆、秋田明大、菅直人、落合恵子、平野悠、木村三浩、重信房子、小西隆裕、三好春樹、住沢博紀、筆坂秀世
<下世代>大谷行雄、白井聡、有田芳生、香山リカ、田原牧、佐藤優、雨宮処凛、外山恒一、小林哲夫、平松けんじ、田中駿介
<研究者>小杉亮子、松井隆志、チェルシー、劉燕子、那波泰輔、近藤伸郎 
<書評>高成田亨、三上治
<集計データ>前田和男

定価1,980円(税込み)
世界書院刊

(問い合わせ先)
『続・全共闘白書』編纂実行委員会【担当・干場(ホシバ)】
〒113-0033 東京都文京区本郷3-24-17 ネクストビル402号
ティエフネットワーク気付
TEL03-5689-8182 FAX03-5689-8192
メールアドレス zenkyoutou@gmail.com  

【1968-69全国学園闘争アーカイブス】
「続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。


【学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録】
続・全共闘白書」のサイトに、表題のページを開設しました。
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
知られざる闘争の記録です。


【お知らせ その2】
ブログは概ね隔週で更新しています。
次回は2月25(金)に更新予定です。

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