野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2022年11月

今回のブログはシンポジウム「全共闘白書2019」の記録である。このシンポジウムは、3年前の2019年11月23日に、東大のサークル主催で東大駒場祭の企画として開催されたものである。
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シンポジウムでは、刊行前の『続・全共闘白書』(情況出版2019.12.25刊行)について、白書のアンケート結果の概要説明とともに、「続・全共闘白書」編纂実行委員会のメンバーや回答者が闘争への関わりなどについて発言し、参加者からの質問に答えるというものであった。参加者は25名ほどであったが、熱心な議論が交わされた。

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(続・全共闘白書)
諸般の事情で公開が遅くなったが、以下、その記録である。

【シンポジウム「全共闘白書2019」 東大駒場祭2019.11.23】
●主催者からの企画の説明
主催者(発言の概要)
まず最初に、全共闘と言ってもいろいろと説明がありまして、ここでは60年代後半から70年初頭の急進的な学生運動と定義しています。世界的な「反乱の時代」の中に発生した運動でして、特に西側の諸国では、全共闘運動に代表されるような若者たちの急進的な運動というものが広がっていったという風に理解していただいていいと思います。
ただ全共闘と言ってしまうと、学生とか、さらには学生の中の更に一部という感じで括られることがあるので、より全般的な状況を指して、「68年の運動」などと呼ばれることがあります。
全共闘運動の背景ですが、背景もいろいろな説明があります。例えば教養で習うような教育論がありますが、ベビーブーム世代の大学生が入った時に、大学側がそれに対応できず、学生側から全共闘運動というのが勃発したというような教育制度論的な説明があったりします。それから社会現象としてはベトナム戦争への加担への反発。これは特にアメリカが徴兵拒否の運動があったりして、ヨーロッパの方では米ソの中距離核弾頭の範囲内であるという危機感から運動が起こったりしました。日本では沖縄の基地からのベトナムへの出撃が加担ということで、そういうものへ反発した反戦意識が高揚した。そのような混沌とした状況から68年の社会運動が生まれてきたという説明もあります。個人個人によって様々な背景があると思います。
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次に東大闘争ですが、これも異論があると思いますが、とりあえずこの場では第一次機動隊導入から安田講堂攻防戦までにしたいと思います。これの個別の背景としては、医学部のインターン闘争というのがあって、医学部の学生たちが当時、自主勉強と称するインターン、実際には無休労働という状況を改善するためにインターン闘争というのが行われた。この中で学部長に団体交渉を要求するというところで、暴力問題があって、その時にその場にいなかった学生を処分してしまった「誤認処分問題」というのがあって、それへの反発があって全共闘が安田講堂を占拠する。占拠した後で大学側は機動隊を導入して、「警察権力を入れるな」ということで、かなり広範な運動が出来上がった、と理解していただければと思います。それからもう一つ要因として挙げられているのは、ベトナム反戦運動の学内への浸透があります。68年の前年の10月8日、羽田空港で大規模な学生側と警察の衝突があって、学生側から1名の死者が出たというショキングな事件があって、その1ケ月後の駒場祭では、それをやっていた勢力がもう1度羽田に突撃するということで、この駒場に公然と現れたということがあります。これを機に、割と急進的な学生運動というのが始まっていくわけです。封鎖が行われた後には全学ストライキが提起されて、様々な学部でストライキが可決されて、大学全部が機能を停止させるというような状況になりました。ただ封鎖ばかりしていると授業ができないので、単位が取れない。次第に封鎖解除派の民青の人たちが優勢になっていくということがあります。
その後、有名な安田講堂攻防戦があって、そこから何度か機動隊の導入があって、全学的な急進運動は収束していくことになります。
「叛乱の時代と現代」ということで説明してきましたが、この68年の運動というものは、いくつか社会的にあるいは思想的に大きな転換がなされて、有名なのが科学史観。それまでは科学というのは工業化を押し進めるということで人は豊かになる、こういうような発想があったんですが、それに疑問を付すような形で環境問題だとか、当時大問題になっていた公害に対する反対の声があがる。それから反権威的な運動ということで、それまでの手が届かなかった地域医療の運動も広がっていく。それから人類の進歩というものに対する疑問の中から、文化人類学それから男性中心の社会というものを暴き出すということで、フェミニズムの運動も広まった。このような流れで、お互いに相関しながらいろいろな社会的、思想的運動がありました。
一番学生に分かりやすい例で言うと、例えば今、ここの教室は固定式の机と椅子になったんですが、それはバリケード封鎖出来ないようにそうしたということがあります。高校の方でも急進的な運動があって、それの結果、進学校によくありますが学則、校則がゆるいということがあります。
個人レベルでの学生運動との関わりはいろいろあるということを説明したいと思います。
まず、68年69年あたりの時に、学部生だった院生だった助手だった研究者だったかによって、かなり対応が分かれている。それから個別の大学の問題だとか、あるいは学部学科になると、学問の内容自体に問いかけを発するとか、そういうような関わりが多くなる。それから党派に属していたか、無党派だったのか、そういうのでまた関わり方が違う。その後の人生、その後の生活にどういう風に活きていたか。これにはまた肯定的にしろ否定的にしろ、何かしらの影響があったと思います。
ということで、関わりにはいろいろあるということで、当事者の方からいろいろ聞くと言うのが重要かと思います。当事者の方にこちらに登壇していただいて、自分はこういう風な大学闘争を体験した、というのを語ってもらいたいと思います。

●4名が登壇 自己紹介と闘争体験を語る
主催者
それでは登壇者の方に自己紹介を交えながら、自分の闘争体験を語っていただきたいと思います。
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I
Iといいます。1948年生まれで、一浪して1968年東大理一に入りました。68年は東大闘争が6月から盛んになってくる時期で、実質大学で勉強したのは3ケ月です。
その後のことは、また後でゆっくりと話します。

H
Hと申します。1946年生まれで、東大に入ったのは1966年です。だからどちらかというと、東大闘争の関わり方は、最初から党派の活動家として運動を組織していくという立場です。だから後から参加してくる学生の皆さんとだいぶ意識が違うかなと思います。
7年駒場におりまして、その間7回警察に捕まって、あしかけ3年中野刑務所に拘置されていました。
それで安田講堂(攻防戦)には東大の学生はいないとか、当時言われたんですけれども、41年(入学)の文Ⅰの2Eで、1年生の時に25人いたんですが、落第し続けた私と、東大生協の専従をやって中退したY君という民青の活動家がいるんですが、彼はその後日本生協連の専務理事になりますが、その2人を除いて23人が本郷の法学部に進学したんですが、そのうち3人が安田講堂に入りました。基本的に安田講堂に入るのは本郷の学生だったので、23人中3人入っているので、かなりの確率で入っている。
三鷹の寮の寮委員長もしたんですが、三鷹寮の連中も、本郷にいた連中は結構安田講堂に入っています。
とりあえずそれまで。
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Y
Yと申します。私は1966年に明治大学に入学しました。1967年の9月、2年生の時に全学の自治会の委員長になりました。
東大との関わりで言いますと、1969年1月の安田講堂(攻防戦)の時に、私は社会主義学生同盟という党派の隊長として、当時は東京から50名、同志社大を中心とした関西の部隊50名、この100名の部隊で安田講堂に入りました。
そういう意味では、10年前の(駒場祭の)立花ゼミ(のシンポジウム)でも言ったんですが、自分は全共闘だとは思っていない。当時の三派(全学連)、新左翼系の運動をやっていた人間というつもりで、今もそれがあります。
そういう意味ではちょっと齟齬がありますが、同じ時期にやっていますので、まったく別とうことではないんですが、ちょっと立場が違うということです。
安田講堂に入って逮捕されて、凶器準備集合罪、不退去罪、公務執行妨害、この3つで1審の判決は(懲役)2年6ケ月でした。当時、列品館で火炎放射器をやった明治のT君は7年でした。あれが一番長いですね。あとは行動隊長をやった今井さんも含めて、指導的な立場の人間は2年6ケ月というのが当時の相場でした。
70年の1月に出てきて判決を受けたんですが、当時、巨大な全共闘運動に対して党派は対応できなかった、今から思えば。他の党派は知りませんが、私がいたブント系の学生組織である社会主義学生同盟はいくつかに割れました。武器を持ってエスカレートしていくしかないんだという塩見さんなどのグループ、赤軍派。あと、武器の先鋭化ではなく、より大衆の中に入っていく、という叛旗派と言われるグループを作っていく。それに対して安田講堂に入っていた僕とか荒君は、ちゃんとした党がないから指導できないのではないかということで党を作ろうという、大きく言えばこの3つのグループになったんですが、その結果、皆さんご存じのように内ゲバ、いわゆる党派間のゲバルトから連合赤軍の粛清の問題とか、72年頃から出てきたわけです。
そういう中で私としては、もう自分が機動隊に殺されるとかだったらまあいい。ただ、あれを殺してこいというようなことは出来ないと思って、東大の1審の判決で2年半というのがあったので、控訴を取り下げて、静岡刑務所に72年6月に入って勤めを果たした。その後は直接は党派の運動はしないという形できました。
そういう意味では全共闘運動は知っていますが、むしろ全共闘運動を作って来たという意識です。ただ、それが全共闘運動のあの大きなうねりを指導できずに、結果としてこうなった。そういう意味で一言いいたいのは、連合赤軍とか、その後の革マルと中核の内ゲバとか、そういうものは全共闘運動そのものの結果ではないんですよ。全共闘運動を指導しようとした党派の限界であった。この点は、はっきり分けて皆さん学んでおいて欲しい。何となく全共闘運動をやっていくと連合赤軍になったり、党派の殺し合いになったりというのは絶対違うというのだけは、今日きっちり皆さん確認して欲しいと思います。

M
私はMと言います。Yさんからお話があったのと丁度逆の立場ですが、前田さんから声を掛けていただきました。
私はノンセクトでしたが、クラスの中にセクトの人もいたので、一緒に行動することはありました。東大の場合、全学的に全共闘が始まったのは1968年の6月くらいからです。その前は私は全然活動家ではなかった。ただ、平和主義的な思想というか考え方を持っていて、ベトナム戦争には反対していました。「わだつみ会」というサークルがありまして、私はそれに入っていて代表もやっていたので、戦争体験を語り継ごう、というような穏健なタイプの人間でした。
ところが全共闘が始まって、医学部の運動が、医者が社会の中でどういう役割を果たすのかという問いを孕んでいることを知ったわけです。あるいは専門技術者が社会の中でどういう役割を果たすのかとか、という問いです。この背景には水俣病のような公害の問題もありましたが、医者の場合には、例えば精神神経科の医者にとって大変だったのは、病気になった人を治して社会に戻すとまた病気になってしまう。そうすると、医者は何をやっているんだという問いがあったんですね。それがどれだけ全共闘参加者に共有されたかどうか、私にははっきり分からないのですが、少なくとも私の友人の医学部の学生たちは、そういうことを語っていて、私はその影響をかなり受けたわけです。
それからノンセクトであり、暴力に対して私は否定的でした。ですから機動隊だから殴っていいという考え方にあまり同調できなかったですね。もちろん内ゲバには否定的でした。機動隊に暴力をふるわれたから反撃してもいいという考え方があるわけですが、何故私が否定的だったかというと、私は機動隊にリンチされたときに、私を救ってくれたのは別の機動隊員でした。それが2回ありました。そういう経験もあったので、暴力というのは何と言うのでしょうか、相手に変な傷跡を残すという印象がありまして、暴力には否定的だったのです。そういう意味では内ゲバというのはとんでもないことであるという気持ちがありました。
私はそれから全共闘からだんだん離れて、べ平連、ベトナム戦争に反対する運動をやりました。それから3年ほど環境問題の住民運動をやり、その後就職して労働組合も3年ほどやりました。
その後いろいろ転職しながら、いろいろ社会の中で、どういう生き方をしたらいいか考え続けてきました。今でも課題があります。沖縄の問題を取材して、その延長線上で教育とかメディアリテラシーなど取材して、時々記事を書いています。
Yさんに刺激されて話し過ぎました。
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前田和男
前田と言います。
僕は東大1965年入学です。皆さんに自己紹介していただきましたけれど、彼らも含めて、東大だけじゃなくて、あの時学生運動、それからいわゆる全共闘運動に参加していた約500人近くにアンケートを取りまとめまして、それを集計しているところです。
それを説明して、概略を理解した上で、登壇の皆さんと議論していただきたいと思います。
(集計結果は省略。詳しくは「続・全共闘白書」参照)

●主催者からの質問に答える
主催者
私の方で質問を用意させていただきましたので、答えていただければと思います。
「自分が学生運動、闘争を始めるにあたって、どのような経緯があったのか」

I
実は僕は入学してすぐ、「東大駒場新聞」、サークルの名前としては教養学部新聞会、一高新聞の伝統を引く新聞会でして、東大新聞と普通言われる東大新聞は帝大新聞の流れですが、駒場にはそういう教養学部の新聞会があって、「東大駒場新聞」というのを出していて、僕が入った1年生の時にオリエンテーションに顔を出して、そのオリエンテーションをやっていた人が前田さんで、3学年上かな。その時は前田さんは編集長から降りていて、次の人が編集長をやっている時代でしたけれども、それでオリエンテーションで僕は新聞会と部落研に顔を出したかな。それで新聞会のいかにも駒場の学生の吹き溜まりというような雰囲気が居心地が良さそうだということで、新聞会に入りました。
今日、参考のために68年5月25日の駒場新聞のコピーを持ってきました。「医学部ストは何を暴いたか。医学部ストライキ中間総括」というのを、医学部自治会書記長大西という、これはペンネームで児玉さんと言う方ですが、その後彼は医学部共闘会議の議長をやって、安田講堂(攻防戦)の時は、医学部本館に立て籠った。彼は医学部本館で捕まって被告になりますが、5月段階でそういう文章を載せるような新聞でした。
51年前の1968年の駒場祭も11月23日24日なんです。実は11月22日は東大闘争の中で大きな意味を持っている日でありまして、東大全共闘と日大全共闘の大合流の日だということで、安田講堂前に1万数千人、東大日大だけでなく全国から集めて、初めての大学を超えた共闘の集会をやった日なんですが、実はそこは強調されるんですけれども、あまり強調されていないのが、その時全学封鎖という方針を全共闘は出していた。教養学部で言いますと、11.4の代議員大会で「無期限ストライキ体制続行」「全学封鎖」という決定を出して、それを民青、クラ連の人たちは「採決に不正がある」とかなんとか言って、認めないと言ったんだけれども、圧倒的ではないけれども、きちんと過半数で可決して、その後、駒場のいくつかの建物の封鎖も実行するんですけれども、民青というか共産党の本部が方針転換して収拾の方に入るとなっていましたので、学内の力関係は僕らの全共闘派の方が圧倒的に強かったんですが、11月に初めて全都の民青の部隊が導入されて、スクラム戦でどーんとぶつかったとたんに、周りで見物していた学生がわーっと向こうの側について、何だこれはという形で負けたのが11.14。6号館とか3号館の研究棟を封鎖するということで、彼等はかなり危機意識を持ったということもあると思いますが、全共闘派の方も無茶な学生だけに任せておくわけにはいかんというので、実はその何日か前に(封鎖を)やるということになっていたのを、最首さんという助手が話に来て「助手共闘という形ではっきりと組織を作るから、君らが封鎖した後の自主管理は助手共闘が責任を持ってやるから、その体制を整えるので何日間か待ってくれ」ということで、11.14になったということなんですが、11.14に民青にみごとに負けて、向こうがそういう全都の態勢で臨んでくるのであれば、我々の側も大学を超えた連帯の運動を作っていかなければということで11.22が準備されて、11.22はそういう意味では全学封鎖、民青もそれなりに動員していて、全面衝突不可避というような状況だった。ただ、民青はギリギリのところで引くということになっていたという話を、後で何十年も経ってから民青の指導部の人に聞いたりもしましたけれども、ただその時に全共闘の中でも意見の乱れがあって、最終的に全体で全学封鎖にはならずに、いわばカンパニアだけに終わってしまうという、僕らは実行派ですから残念な日なんですけれども、何故今その話をし出したかというと、駒場新聞の11月25日号で、「22日全国学生1万数千決起す」と書いて「全学バリケード封鎖に向けて運動の再構築を」という闘争報告のところに小見出しが付き、その横に「全学バリケード闘争への決起を全ての学友に訴える」という東大C新聞会の声明がわざわざ半分載るというような、25日の新聞なんですけれども、その記事は22日の夜に書き直しています。
実は東大闘争の過程で、学館の中にあった新聞会の部屋は、当時の学館運営委員会、民青系の人たちに撤去され、業者の人たちに駒場新聞はゴミとして全部捨てられてしまって、個人個人が持っているいくつかのものしかないというふうになりました。最近、山本さんが東大闘争のDVDを作るということで、その集まりの中で4つ5つの新聞が出てきました。
ちょっと脱線しましたけれど、何故(闘争を)始めたかというのは新聞会に入ったのがきっかけなんですが、いくつかのことで皆さんが誤解しているというか先入観を持っているところがあると思うので、言っておきたいと思いますが、その頃、東大というのはベトナム反戦とか時代の雰囲気である種騒然としていたというのは全然誤解で、シーンと沈んでいたんですね。
4.28というのは沖縄闘争の毎年のスケジュールですが、それに向けて4.21自治委員会が設定され、その数日後に代議員大会が設定されますが、僕は自治委員にも代議員にもなっていましたけれども、(定足数に足りずに)成立しない。代議員大会は成立しないのが当たり前なんですが、自治委員会は成立したりしなかったりなんですけれども、僕が最初に出た自治委員会は定足数に足りず自治委員集会という名前になって、大会決定を持たないというような会議になって、そういうごくありふれた日常の駒場の風景で、もっと言えば、入学式がちょっとショックだったのは、安田講堂の前で医学部の学生が座り込みをしていたんですね。別に入口を塞いでいるわけではなくて、入学式どうなるんだろうと思ってブラブラ最初は歩いていたけれど、高校の仲間と一緒に座って待っていようかと座り込みの中に座っていたら、こっそりと職員が新入生を誘導して、声をかけて裏口から入れていて、気付いたときには半分くらい入って入学式が始まっていて、「えーっ何なんだ」と裏口に押しかけてという、大学当局が、そういうこっそりとしたことをするとは思ってもいなかった。公然と入学式をやるから新入生は入ってくれと呼びかけるものだと思って、いつ声がかかるかんだろう、どうするんだろうと思って、座り込みに参加するというより、どうせ待っているんだったら一緒に座って大学からの指示があるまで待っていようと思っていたら、そういうこそこそするのかというのが、一番最初の入学式の時の大学当局に対する失望感というか愕然としましたね。そういうことはありつつも、ほとんどの駒場の学生は無関心というか知らないという状況が(1968年の)6月まで続いたと思います。
でも6月15日、16日に駒場にクラス決議の立看板が乱立するんですよね。各クラスでベニヤ板1枚あるいは2枚使って、党派のところに「立看板貸してくれ」と借りに来たりとか、サークルは自分の立看板を持ったりしていましたから、そういうのがわーっと並ぶんですよね。
長くなりましたが以上です。
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H
久しぶりにI君のアジテーションを聞いたような感じです。私はI君より2年早く1966年に入っているので、何で学生運動を始めたのかということですが、私は高校が秋田の能代高校というところで、出身の町が五能線という有名なローカル線があるんですけれども、秋田の一番端っこの岩舘という駅なんですね。私自身は特定郵便局長の息子で生まれ育ったので、どうにか貧しいながらも食べるのに困るということはなかった。ただ、どちらかと言うと漁村だったので、親父が飲ん平だと、綿の入った敷布団がなくて、ワラシベというマットレスみたいなものをワラで作って、その上に綿の敷布団を敷いて寝るんですけれども、その綿の敷布団がなくて、ワラの上に寝ている家とか、自分の家に今日食べるお米がないからお米を借りに来るとか、銭湯があるような村じゃないので、お風呂がそれぞれの家にあるはずなんだけれども、ない家があって、お風呂をもらいに来るというか、それで湯船に入ると気にして、寒いところなんだけど体だけ洗って帰るとか、そういう貧しい状況があったものですから、たまたま東大に入ってしまって、しかも法学部に入った。もうちょっと勉強すればよかったんだけれども、この資本主義社会が階級社会であることを全然気が付かずに、もっぱら文学少年できたもんだすから、大学に入って初めて資本主義社会が階級社会だ、そういうことに気が付いて、じゃああの貧富の差はどうやって起きるんだとか、自分はこのまま文Ⅰから法学部に行って役人になったりしてエリートコースを走ったら、あの出身の村の貧しい人たちとはどういう関係になるんだと、敵対することになるんじゃないかと考えるようになりまして、やはりそれは出来ないということで、階級のない社会、皆が豊かで平等な社会を作るべきだ、という考えに至りまして学生運動を始めるんですけれども、資本主義を倒して社会主義にしたところで、今のソ連や中国はどうなんだという、そういう疑問もまた出てくるんですね。そうしている時に毛沢東が文化大革命、魂を変える革命という社会主義になっても革命は必要だ、連続革命だと言うんですね。それでそれに飛びつきまして、新左翼の中の中国派というか、俗に言うML派になりまして、少数派だったんですけれど、革命運動にまい進するということになって、さっき活動家と一般学生という話がありましたが、我々活動家にとっては東大闘争は党派を増やす、革命運動を大きくしていくためのいいチャンスだというので、それまで三鷹の寮は遠いのであまり学校に行かなかったんですね。それで東大闘争が始まってからは毎日精勤しまして、三鷹寮で作ったビラを駒場の駅の下で撒いて、それで立看板作ってアジテーションンしてクラス回りして、夕方また三鷹寮に帰って部屋回りをして、舛添要一君なんかも三鷹寮に居たもんですから「舛添君、明日デモなんだけど一緒に行こうよ」なんて言うと、彼は「僕は民社党支持だから」と。民社党というのは社会党の右派が分かれたところなんですね。それでよく勉強していました。まあそんな感じで、とにかく大学闘争が始まってからは毎日駒場に来て、おまけに三鷹寮の活動もあったものですから、両方昼夜兼行で活動して、ただ活動していてすごく面白かったというか、クラス討論をするんですね。さきほど最初に入った文Ⅰのクラスが25人で、そのうち23人がストレートに本郷に進学して、そのうち23人のうち3人が安田講堂に入ったと言いましたが、ただクラス討論するたびに意識が変わっていくんですね。それで、最初は全共闘派が3分の1で、民青が3分の1で中間が3分の1で勢力が拮抗しているんですが、中間の3分の1が全共闘に付いてストライキに入る。だんだん秋になって、進級がどうなる?卒業がどうなる?ということになると、この3分の1が民青の方にくっついてストライキを解除する。さきほどの11月の時に、突然一般学生が民青の方にくっつくというのは、そういうことだったと思うんです。いろいろ変わって、また元に戻ってというダイナミズムが面白かったというと語弊があるかもしれませんが、充実した毎日を過ごしました。
その結果として9年も大学におりまして、ただ長く大学に居て、三鷹寮だったり学生運動だったり、いろんな局面でいろんな人間とたくさん知り合ったものですから、今は役所に行ったり会社に入ったりした人間がみんな偉くなって、偉くなった人間にぶら下がって、営業コンサルタントをしています。そういう役所の仕事をしたり、JRの仕事をしたり、NTTの仕事をしたり、ほとんど忖度の世界なんですが、そういうところで生きています。

Y
運動に入った経緯ということですが、私は新潟県の三条市出身で、高校生の時に親父が共産党だった友達と仲が良くて、当時高校2年生くらいから赤旗の日曜版は読んでいました。そういう意味で、東京に行ったら何かやるんだなという意識はありました。もう一つは、60年安保の時、中学生だったと思いますが、先生が週末になると東京に行く。東京に行ってケガしてくる、そういうのがあって、東京に行くとそういうことやるんだなと思って、明治大学に入りました。
1966年というのは、ちょうど明治大学で学費を値上げすることを決めた。(文科系は)当時年間5万円を7万円にするというので、「2万円も上げるのか。それはちょっとひどいのではないか」ということで、大学に入ってすぐクラスで2人学生委員を選ぶので、すぐ私は学生委員になりました。値上げについて学校側と大衆団交をやって、値上げの根拠は何だというような話をしまして、そういうのが学生運動に入る契機です。
たまたま明治の学生運動の指導部的なグループが社会主義学生同盟で、これは60年安保の残党グループみたいな形で、明治では独立社学同と言いましたが、そういうグループがいて、これから全学連を作るというムードの中で学費闘争があったので、この闘争を契機に活動家になった。あとベースにあるのは、ベトナム反戦というのが大きな要因になっています。
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M
さきほどかなりお話しましたので、補足だけします。
「わだつみ会」の話をしましたけれど、これは戦没者記念会という会で、『聞け、わだつみの声』という本をもとにした会です。この本は基本的には戦没学生、特攻隊を含めて亡くなった学徒兵たちの手記、日記や手紙を集めたものなんです。私はその本を高校の時に読んでいました。もともとは割合保守的な人間だったんですが、段々ベトナム戦争のこともあり、65年から66年にかけて浪人していた際の予備校の世界史の先生の影響もあったんですが、「ベトナム戦争はけしからん」と思うようになった。
「わだつみ会」は勉強会だけやっているような非常に大人しい会で、あまり行動しなかったんですけれども、ベトナム戦争の問題と医学部への支援スト、全学ストを巡って、「わだつみ会」の中でいろんな議論がありました。このサークルには教員の顧問が9人いたんですね。それが割れまして、多数派の教員はストに反対だった。非常に権威主義的で、「学生のくせに生意気だ」みたいな態度がすごくあって、結局「岩波文化人」という言い方があったんですが、今で言う革新系・リベラル系の人たちなんだけれども、その頃の「進歩的文化人」あるいは革新系・リベラル系知識人は非常に権威主義で、学生の言うことは未熟なので聞く必要はないというような、そういう雰囲気があった。そういう人たちが顧問に何人かいたわけです。一番中心の人物が最もひどかった。そして上級生にもそういう人たちがいた、ということがあって、それに対する反発、反権威主義みたいなものが「わだつみ会」のメンバーの中にあったと思います。
私は小さい頃、茨城県の石岡というところで育ったんですね。その地方は非常に貧しかったんです。チベットの方には申し訳ないんですが、茨城県はその当時「関東のチベット」と言われていまして、最後まで蒸気機関車が走っていたという、鉄道の電化が非常に遅れた場所で、ものすごく必死になって、知事や県出身の政治家が鹿島開発をやり、筑波山麓の学園都市開発をやり、東海村の原発の実験炉の導入などをやっていた非常に貧しいところだった。だから貧しさというのは、その時代の一つの共通の記憶として、特に地方から来た人たちはたくさん持っていたのではないかと思います。それが全共闘運動の背景にあったのではないか。
それからベトナム戦争というのが非常に大きくて、朝日新聞を中心にかなりいろいろな報道がされたり、映像がずいぶん流れてきまして、全く正義のない戦争という感じで、「これに立ち上がらないでどうする」という機運もありました。
それからフランスで五月革命というのがありまして、この影響がすごくありました。それともう一つ、さっきHさんが文化大革命の話をされましたが、この影響もあったと思います。ただ文化大革命は、どちらかと言うと、今から思えば「つるし上げ」を正当化する運動であって、非常にマイナスの面のあった運動だったと私は思っていますし、その影響が全共闘にかなりあったと思います。正義のために暴力を肯定するような雰囲気が若干文化大革命から来た面もあるという意味では、権威を否定するという点で積極的な面もありましたけれど、思想を絶対化したり、暴力を正当化するという意味では後で禍根を残すことにもなったのではないかと思います。
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●会場からの質問に答える
主催者
ここで会場から質問や発言をお願いします。

質問者1
当時の時代背景を聞いてみたくて、さっき60年安保の話が出たときに中学生だったということですが、全共闘運動は1968年から72年くらいの話です。ということは10年後、70年安保との関係はあったんですよね。
71年に「よど号」ハイジャック事件があって、「我々はあしたのジョーである」という有名な言葉があります。新聞の話は出ましたが、雑誌とかマンガ、少年マガジンとか朝日ジャーナルとか読んでいたんですか?それらの影響を受けているんですか?

Y
朝日ジャーナルの件で言えば、当時ベトナム反戦の件でクラス討論をやる時の資料は、ほとんど朝日ジャーナルの記事を使っていた。マンガはあんまり読んでいないね。

質問者1
あと平凡パンチとか。

Y
それはちょっとエロい感じで読んでいましたけど。(笑)

I
マンガは普通に読んでいただけで、それで影響を受けるとかはない。

Y
「あしたのジョー」とかみんなで読んでいました。

M
白戸三平の「カムイ伝」は人気があったと思う。弁証法的に味方がいつの間にかだんだん敵になったり・・・。

前田和男
「平凡パンチ」とか、もっとエロいのは「アサヒ芸能」とか、スケベな話を書いているんだけれど、実はその中に小田実とかの対談もあって、うっかりそこを読んでしまう学生もいたんですよ。「あしたのジョー」だって梶山一騎、どちらかと言うと右寄りの人だけど、あれは寺山修司が「面白い」と言って報知新聞に書いて、みんな「そうか読んでみようか」という話になったんじゃないかな。
さっき質問者が言った「我々はあしたのジョーである」は田宮が言ったと思うんだけれど、それくらい影響力はあったと思いますよ。

I
東大闘争と「朝日ジャーナル」ということで言えば、駒場寮に取材で入り浸っていましたよ。僕らはあまりマスコミと話をするのが嫌だったから、「うるせえ、帰れ」と言って、丁寧に扱っていなかったですけれども、本当に話を聴きたがりに来ていて、その意味では僕らのところだけではなくて、取材はして回っていた。

質問者1
あと、こういう運動の話を聴くと10・8とか言いますが、今でも大きな震災があると3・11とか言われますけれども、言われないものもある。原爆投下の日とか阪神大震災の日とか・・・。

I
だけどそれは戦前から5・15とか2・26とか言うじゃない。だから左翼文化じゃないと思うよ。

質問者1
だけどそれが多すぎて何をやってんだろうと・・・。(笑)
その人にとっては重要な日付なんだろうけど。

Y
この辺の人たちは10・21は何だとか4・28は何だとか共通性があるけれど、たしかに50年も経ったらそれを全部やっていたら、その間9・11とか3・11があったりいろいろするわけだから、それはゴチャゴチャになると思うけど、当時はせいぜい5年かそこらの世界の中での話だから共通性がある。

H
60年安保と言ったら6・15とかね。

質問者1
60年安保の影響もあるんですか?唐牛さんという人が活躍したと聞くんですが、結構恰好よかったと聞くんです。(笑)

I
全共闘運動には直接の影響力はない。

M
たぶん60年安保というのは政治闘争ですよね。安保に焦点を当てた政治闘争たった。それに対して、全共闘の場合はどちらかと言うと社会運動的なものも持っていたわけです。その分、引きずったんです。60年安保と言うのは要するに岸内閣打倒で終わるわけです。政治的な決着がついたので、その後はほとんど無風状態になる。61年から数年間は、学生運動は活発ではなかった。ところが全共闘の場合は、ある面で生き方が問われたところもあったので、長い間引きずった人がたくさんいる。それから犠牲もものすごく多かった。僕は逮捕歴がなかったけど、逮捕歴があり裁判を抱えた人、失明した人、自殺した人もいました。、僕の親友も1人自殺していますから、それをある面で背負っているみたいなところがあって、ベトナム戦争のような政治的な面ももちろんあったんだけれども、社会的に生き方を問われるということを、ずっと引きずっていったというところはありますね。

I
時代背景ということで、ベトナム反戦とかよく言われるけど、もう一つ教育の場面で言えば、理工ブームというのが大きい。日本資本主義の高度成長を受けて、理工教育を強化しなくてはいけないということで、僕も理科系に来ましたけれど、東京の人たちは東大というのは官僚養成の法学部があることを知っているが、田舎の人たちはそういうことは知らない。理工ブームで、地方の高校で優秀な人は理工系に集まり、理工系に進む。

H
定員が増える。

I
僕らの時も2倍3倍と増える。圧倒的な理工ブームで、東大闘争もさきほどMさんが言われたけれども、医学部だし、医学部に次ぐ運動拠点は工学部なんです。大学院も建築とか都市工とか原子力も拠点になりましたから。学生とは何者なのか、卒業して何者になっていくのかという問いを含んだ学生運動論というか、それが60年安保の時代と違う全共闘時代の特徴だと思う。

質問者2
お話ありがとうございます。本郷の日本史の院生です。『続・全共闘白書』について形式的なことを伺いたいんですけれども、どうやって回答を促して用紙を送っていらしたのか?
回答者に若い方、50何年生まれの方もいらっしゃいますが、その方はあとの時期まで高校での運動をされていた方なんでしょうか?どういった運動をされていた方という基準はあったのでしょうか?
それから北朝鮮まで送ったということですが、回答用紙の送り方も教えていただければありがたいです。
あと、前回25年前の『全共闘白書』の調査と比べて、回答者の方が当時特に熱心だった方に送ったということはあるんでしょうか? 
前回よりも記憶が美化されているところがあるのでしょうか?
11

前田和男
『続・全共闘白書』はトータルで3,000くらい送っていると思うんです。
一つは、25年前に『全共闘白書』というのをやったんです。私も呼びかけ人で、東大だと今井さんも呼びかけ人で、当時としては有名人な人たちを呼びかけ人にしてやりました。その時はまだ全共闘関係の集まりがあったり、名簿が残っていたので、僕の記憶では5,000通くらい送ったと思う。5,000通くらい送って520~530人の回答があった。
その名簿が25年経って、送っても回答してきた人間が500なんぼだけれども、アンケートが届いている人はもちろんいるわけで、私たちの手元に3,000あって、その3,000が今回の基礎でした。ところが回答した526人のうちの、宛先不明などがあるので、届いたのが200人くらい。そのうち回答してきたのが100人くらいです。それが一つ。
もう一つは友達の輪で、答えてきた人に友達を紹介してもらうことをやりました。
それと25年前と違うのは、この25年間でSNSが圧倒的に発達したので、それで拡散してもらった。なおかつ回答もWebを立ち上げて、そこから回答できるようにしたので、数的には前回と同じくらいの回答があった。これが一つ。
それから回答者の要件は年齢ではありません。あの時、中学生であれ高校性であれ大学生であれ大学院生であれ、場合によっては教官であっても、全共闘および全共闘に関連するような運動に関わった人というのが対象です。ですから最首悟さんも回答しています。ですから上は最首さんのような人から、若い人で言えば当時麹町中学で内申書反対の運動をやった人まで、年齢の幅は相当あります。ただ、あくまでも全体のボリュームゾーンは68年69年の東大闘争、ベトナム反戦闘争などに主要に関わった年代であることは間違いないということです。
北朝鮮は25年前に送っている。「よど号」メンバーにも送ったが、小西が代表して書くということで回答をもらい、今回も送りました。そうしたら3ケ月か4ケ月かかって送り返してきたということです。
記憶の美化というところは分かりません。ただ美化というよりも、やっぱり濃密に、むしろ忘れるのではなくて、あの時関わったことは30分単位で覚えているわけですよね。記憶がもっと濃密になっていくような、鮮明に思い出す人たちがいることは間違いない。時間というのは伸びたり縮んだり濃縮されたり、たぶん記憶というのは単に薄れていくものではなくて、濃縮される可能性があるということは今回感じました。なおかつ、みんなある意味で死期を前にしているので、前回に比べれば今回明らかなことは、自由記述の部分は前より3倍4倍も書いてきている。そこは美化するというよりも、最後にこれだけは言っておきたい、言う前に死ねないという感じはしますね。

主催者
時間の関係で、まとめて質問を受けて回答していただくようにしたいと思います。

質問者3
私も今日のパネラーと同じくらいの歳で、特にベトナム戦争が自分の人生を形成していったと思います。1967年10月8日の羽田闘争で京大の1回生の山﨑博昭君がそこで亡くなったわけですけれども、その当時僕は大学生で「赤旗」を購読していた。翌日「赤旗」はどう報道していたか、それを見て唖然としてあいた口がふさがらなかった。その同じ日に狭山湖畔で赤旗祭をやっていた。羽田闘争のことは1面の一番下に小さく書いてあって、それまでベトナム戦争を知りたいので「赤旗」を購読していたけれども、それ以来「赤旗」の購読は止めました。
パネラーの中で、これまでの70年を超える人生の中で、もし今の若い世代の人に1冊これを読んで勉強してくれという本があるか、それとも他に何かあれば教えてください。

質問者4
党派の中で、他党派や警察のスパイ問題はありませんでしたか?

質問者5
小熊英二の本『1968』に対する印象は?
この本が自分の印象と違うと思ったら、当事者の体験を語っていかなければと思ったのか?

質問者6
駒場なり本郷で籠っていた時に、とある小説で水の確保に苦労したということが書かれていた。2階3階に立て籠っていて、1階を民青に取られて、水をどう確保するかみたいなことを書いていた小説があった。当時、立て籠っていた中でしか体験できなかったことというのはあるのか?思い出とかあれば伺いたい。

質問者7
こういう本ってだいたいどのくらい売れるものなんですか?(笑)
12

前田和男
25年前はダイジェスト版というのを出したんです。新潮社が出したので4万5千部も売れました。その印税で完全収録版というのを作って回答者に全部配って、お金はそれで相殺されたということでした。売り方次第ということです。今回は情況出版なので、そんなに売れるとは思いません。

H
耳が遠くてよく聞こえなかったんですが、1冊の本ということであれば、やはり『共産党宣言』ではないかと思います。僕らの頃はマルクスを皆読んだんだけれども、今の学生諸君はあまり読まないのかな?読むのかな?もし読むとすれば社青同解放派の諸君は『ドイツ・イデオロギー』だとか言うんだろうと思うけど、何故かと言うと、社会主義、共産主義の原理というのは、『共産党宣言』、48ページくらいのそんなに厚い本じゃないんですけれども、その中にマルクスが考えていたのは、革命というのは世界革命で、ただその時の世界は資本主義が発展したイギリスとフランスだけなんですね、ドイツもたぶん入っていない。ところがマルクスが世界だと思っていないロシアで革命が起こったんですね。しかも第一次世界大戦、レーニンがプロレタリア独裁と計画経済で乗り切ろうとするんだけれども亡くなって、スターリンが天下を取ると、今度は独裁と計画経済が社会主義みたいに定式化されて、世界が二分されていく中で、ロシアよりさらに遅れた中国で革命が起こるという形で、結局「社会主義」は失敗してしまうんですけれども、マルクスが考えていた社会主義の条件は、資本主義が発展してきてるし、コンピューターで仕事が簡易になっていく、ある意味客観的条件は少しづつ出てきているんじゃないか。だから社会主義はまだ生きていると僕は思うんですけれども、マルクスが考えていたのは資本主義的な生産の発展と、民主主義の発展の先に社会主義を見ているんだけれども、どうやってやるかということは、彼は語っていなくて、それは今生きている人間の課題だと思う。そのような感じで『共産党宣言』を読んで欲しいと思います。

I
(質問者6の小説は)藤原伊織の『テロリストのパラソル』。彼も第八本館にいた人で、僕は直接の知り合いではないけれど、僕も第八本館に閉じ込められたんですけれども、それこそ民青に1階を占拠されて電気も水も止められてというのは実際の話です。

H
もうトイレはてんこ盛で、手で掃除しましたよ。

I
それである日の夜中に、党派の指導部、自治会委員長のフロントの今村と革マルの〇〇が2人でそっと下りていって、水道の元栓を開けて、皆でトイレ掃除をやったのは実話です。
駒場の場合は、例外的に安田講堂に1名紛れ込んでいたという話もあるけれども、全体としては1月15日に安田講堂前で集会があるというので、駒場も代表を送り出し、駒場に第八本館を守る部隊を残してという時に、民青が下を押さえてしまって缶詰状態という風に1月15日からなって、だから僕らは第八本館の中で安田講堂攻防戦をラジオで聞いて、「一晩持った」と拍手喝采してという状況だったので、安田講堂には駒場はほとんどいない。
ただ1月10日に秩父宮ラクビー場で七学部集会というのがあって、駒場のかなりの学生が逮捕されたので、戦力が細っていた。
小熊英二の話が出ましたが、僕は読んでいない。読む気がしない。「ちゃんと読んでちゃんと反論を書いてくれ」と言われるけど、「そんな分厚い本を読む暇はない」と断っています。

Y
本なんですが、いろいろあるんですが、安田講堂に関しては島泰三さんの『安田講堂1968―1969』、これは私も中に入っていたけれども、全体が見えないわけです。これはよく調べています。安田講堂はどうだったかという話をするときは、客観性を持たせるためにこれを読んで、安田講堂の中で自分の闘いの位置を確認している。
あと党派にスパイがいたのかということですが、実際に居たと思いますよ。さっき話した明大学費闘争の時にずっと居て、何故か情報が洩れるし、いざとなったらそいつは居なかった。あと、デモの指揮をやるとなると必ず居なくなる。ある意味見え見えにある程度送り込んでいたと思う。他党派というより公安が全部やったと思う。もちろん公安の方も私にアプローチしてきましたよ。それはそういう時代ですから。

M
私の方からあまり申し上げることはないけれども、1冊の本ということであれば、残念ながら無い。無いというのはどういうことかと言うと、さきほど『共産党宣言』の話が出ましたけれど、確かに今、新たな階級社会になりつつあるという感じがする。これは非正規雇用の問題があって、新しい産業構造というのは、僕は沖縄を見ているので強く感じるんです。沖縄では、ものすごく非正規雇用が多い。43%が非正規雇用。カップルが2人とも非正規雇用で子供も育てられないケースも多い。彼らには夢がないんですね。非正規の状態から逃れるのは難しいからです。それでDVが多い。離婚してシングルマザーになるというような問題というのは、今沖縄だけでなく、日本中、世界中に広がっている、あらゆる国で広がっているんですね。この問題について、ある政策通と言われる政治家に質問したことがあるんですけれども、答が無いんです。新たな産業構造の変化に対する処方箋というか政策というかビジョンを書いている本はたぶんないだろう。一部の問題について書いた本はたくさんあると思います。ただ、この問題は大変大きな課題なので、我々も頑張らなくてはいけないというのが一つ。
それから、安田講堂に籠っていないので、その話は私にはできないですが、(1968年)11月22日に1万数千人が安田講堂前に集まった時、やはり力を感じるわけです。すごい数で埋め尽くすわけです。サーチライトが7つくらい安田講堂を照らして、革命前夜みたいな雰囲気があったんだけれども、それがあるところから内部分裂もあり、対立があり、しぼんで行って、1月15日に安田講堂に籠る前に全国集会をやった時には3千人くらいしか集まらなかった。1万数千人が3千人になった時に、僕はこれはダメだな、負けたと思った。潮が引き始めた時は誰も止められない。その経験がありまして、僕は他のところでも同じような経験があったんですけれども、盛り上がる時はすごくガーッと行くんですけれども、駄目になる時というのは本当に誰も止められないというような経験をしました。
それからもう一つ、小熊英二さんの話というのは結構いろんなところで聞いていて、私はIさんと同じで読んでいませんが、研究者や学者の人たちの一つの問題は、文書に頼るんですよね。活字化されたものに頼る。資料に頼る。僕は沖縄の取材をしていますが、文字化されているものは10分の1くらいしかない。いろんな人の話というのは潜っているわけで、全共闘も同じだと思います。いろんな人がいて、いろんな形で関わって散っていった。最後まで頑張って残っていた人もいるけれど、時間が経つにしたがって散っていって、社会のいろんなところで生きていった、という物語は、膨大にあるわけで、犠牲もものすごく払っているし、そのいろいろな思いとかは簡単に文字だけで整理できるものではないと感じます。
僕はそういう思いもあって今度の『続・全共闘白書』で長々と書きましたが、そういう意味では、小熊英二さんに対しては、私は読んでいないのでちゃんとした批判は出来ませんが、文字化されたものに頼るのは危ないと思います。
それから島泰三さんの本はすごくいいと思いました。非常にありありといろんな事実が書かれていて、生々しいというところで、よく書かれている本だと思いました。
それからスパイの話ですが、これは必ずあるわけです。必ずスパイを送り込みます。そういうことはいくらでもある。そのような問題は、党派なり運動をやる人たちが見定めながらやっていかないとしょうがないだろうと思います。

主催者
ありがとうございます。
これで閉会させていただきます。
最後になりますが、登壇者の方に拍手で締め括りたいと思います。(拍手)

(終)

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/gakuen.html

【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は12月16(金)に更新予定です。

2022年10月8日は、1967年の10・8羽田闘争から55年目となる。この日は羽田・弁天橋での黙祷、萩中公園近くのお寺での法要、そして蒲田で記念集会があった。
前回のブログでその参加報告を掲載したが、今回は、前回省略した記念集会の詳細を掲載する。

1
記念集会は以下の内容であった。
1.主催者挨拶                        
2. ドキュメント『プロジェクトの歩み』上映        
3.発起人紹介と挨拶 「プロジェクトの8年間を振り返って」 
(休憩)
4.若い世代からの発言                       
5.プロジェクトの会計報告と今後の活動について 

記念集会は休憩を挟んで前半と後半に分かれるが、今回は前半部分を掲載する。

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【10・8羽田闘争55周年記念集会】
大田区消費者生活センター2階 大会議室
2022年10月8日(土) 午後6時~午後8時30分
「10・8羽田闘争55周年―山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの」
3

司会:佐々木幹郎(詩人、大手前高校同期生)
10・8羽田闘争55周年「山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの」を開催します。
今日11時半に、たくさんの方が集まっていただいて、弁天橋で黙祷し、そして橋の近くにある、私たちが「山﨑地蔵」と呼んでいる小さなお地蔵様、これは発起人一同がお金を集めて建立したものですけれども、そのお地蔵さまにお参りをし、そして14時から福泉寺で55回忌の法要を済ませました。そしてまた、福泉寺の境内にある墓碑に向かって全員がお祈りをするということを済ませ、そののち、今日のこの集会に至ったわけです。
朝から参加しておられる方は、かなり疲れておられるだろうと思いますけれども、1日に55年目の山﨑博昭を思い出す、そして10・8羽田をもう一度蘇らせるという、この会の願いはたった一つ、「戦争に反対する」という単純な一つの叫びを実現するためには、山﨑博昭の生と死が示したように命がけであるということ、そして今現在ウクライナも含めて起こっている、そしてこれから起こるであろう戦争に対しても、私たちは一人ひとり、その心構えを持つということを、もう一度このプロジェクトを通して皆さんで確認したい、そのことが今日の大きな目的であります。
今日の集会ではいくつもイベントを抱えていますが、代島監督がこれまでの山﨑プロジェクトの8年間の歩みを、20分近くの映画『プロジェクトの歩み』にまとめてくださいました。それを上映させていただいた後、今日参加されている発起人に壇上に上がっていただいて、さまざまな8年間の思いを語っていただき、その後、若い人との討論ということで進めていきたいと思います。
最初に山﨑建夫さんから挨拶をお願いします。

【主催者挨拶】
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山﨑建夫(山﨑博昭兄)
本当に朝から皆さんお疲れ様です、ご苦労様です。
今日の夕刊に載っていましたが、岡山の陸上自衛隊「日本原演習場」の中で牛を飼っている内藤秀之さんの映画(『日本原 牛と人の大地』黒部俊介監督)ができたんです。
監督は初めての作品という若い青年ですが、その方たちと僕たちは出会ったことがあるんです。粕谷プロジェクトというのが出来る時に相談を受けて、糟谷孝幸、69年の11月に大阪の扇町公園で殺された、その糟谷君の知り合いであった内藤さんがその事をきっかけに、50周年になるので、山﨑プロジェクトがやっているように糟谷君を何とか追悼し伝えたいということで、「一緒にやらないか」ということで、僕らがやってきたことを全部お話しました。
それで立派な本(『語り継ぐ1969 糟谷孝幸追悼50年ーその生と死』社会討論社)もできたし、彼らなりの50周年が終わって解散したんですけれども、このプロジェクトをやってきて、そういう風に糟谷君の事にも役に立ったということはすごく嬉しかったです。よかったなと思います。

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(『日本原 牛と人の大地』チラシ)
映画は見に行くつもりだったんですが、「山崎さん、あんたも出ている」と言われて映画を観に行きました。粕谷プロジェクトの立ち上げの時の場面で、チラッと映っていました。
この『プロジェクトの歩み』を観ていて、こつこつやってきたけれども、すごいことをやってきたんやなと思ってびっくりしています。中でもベトナムに行けたことが大きいし、今度も糟谷プロジェクトと繋がることができたし、外につながっていったことがすごく嬉しいです。
今後とも頑張って行きたいと思いますので、よろしくお願いします。

【ドキュメント『プロジェクトの歩み』上映】
司会:佐々木幹郎
次は代島監督による『プロジェクトの歩み』の上映です。

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代島治彦
代島です。『プロジェクトの歩み』をまとめたんですけれども、僕が正式に映像を撮り始めたのが2017年の(50周年の)建碑式からで、その前は撮っていないんですね。ですから、その前の映像はないんです。2014年の7月から始まって、その後、いろんな方が講演したところは映像では抜けております。
映画にはなっていません。映像の記録です。よろしくお願いします。
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【発起人からの挨拶と発言―プロジェクトの8年間を振り返って】
司会:佐々木幹郎
今日来ている発起人の方、壇上に上がってください。
この8年間、このプロジェクトを続けて、そして自分自身がどういうような思いを持ったのか、短い形でそれぞれ喋っていただければと思います。
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(写真:左から山本義隆、水戸喜世子、北本修二、新田克己、福井紳一、代島治彦、三橋俊明、辻恵、小林哲夫の各氏)

山本義隆(科学史家、元東大全共闘代表、大手前高校同窓生)
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山本です。この8年間を振り返って、めざしたものがあって、さっき佐々木君がプロジェクトは3つの目的をめざしたと言って、3つというのは何かと言うと、たぶん記念碑を作る、記念誌を作る、それからベトナムの展示会をやるということになっていたと思うんやけどね、僕が入った時は違ったですよ。
僕が最初に誘われて入った時は、3つの目的というのは記念碑を作る、記念誌を作る、もう一つは10・8の真相究明だと、そう言われたんです。その真相究明と記念誌を作るのが一緒になったと思うんです。それで3つ目のベトナムでの展示会というのは、これは事実を言いますと、佐々木君と辻君が(ベトナムの)戦争証跡博物館に行って、せめて山﨑君の遺影を展示してもらいたいという話をした時に、館長さんから「日本でそんな運動があったのは知らなかった。いっそのことここで展示会をしなさい」と言われて帰って来たのが始まりなんですよ、本当の事を言うと。
それでその話を聴いて、これは本気出してやらないとできないなと思いました。それで僕は駿台(予備学校)に勤めているんですが、駿台の若い日本史科の先生と話し合って、まず資料集めから始めました。それで実際に立川、相模原、大泉等の闘争をやった人に会いに行って、話を聴いて、資料をもらってきて、そこから始めたんです。
それで僕は出来っこないと思いながら、日本で展示会をやれないかと言い出したんですよ。出来っこないというのは、画廊を借りるのが大変で、画廊を1日借りたらだいたい10万円、1週間借りたら7~80万円かかります。それでとても出来ないけれど、出来たらいいなという感じで言ったら、救援連絡センターの山中幸男さんが「画廊はあるよ」と言って、救援連絡センターの関係で彼がその画廊を使っていたことがあって、(台東区)谷中の画廊をオーナーさんの好意でタダで使わせてもらいました。

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(谷中での「ベトナム反戦闘争とその時代」展)

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(展示された資料の一部)
それで1週間やって、僕は毎日行って、正直言って楽しかったです。毎日朝から行って、みんなで集まってワアワアガヤガヤして、いろんな思いがけない人が訪ねてきて、その感じが昔バリケードの中で生活したその感じそっくりだったんです。それを何十年ぶりかで思い出して、闘争というのはこういうことなんだと。皆で寄ってたかって力を合わせていろんな作業をやって、そんなに難しい入口なんかないですよ。久しぶりにその思いがしたんですよね。実際にいろんな方が訪ねて来られて、いろんな人に会うことが出来ました。
更にそれが京都精華大で拡大して出来たんですよね。京都精華大の時はすごかったですよ。だいたいこの広さ、これよりまだ広かったかもしれんくらいの画廊を全部使ってやれました。それで、その事でベトナムでやれるという感じを持ちました。

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(京都精華大学での展示)

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(京都精華大学での展示)
それでベトナムの事についてもうちょっと言っておきますと、それから300点近く資料を集めて、それをベトナムに送るために全部英文で説明文を書いて送ったんです。実際にベトナムでは70点くらいしか展示できませんでした。何でかと言うと、これは誤解されている面もあるんですけれども、実力闘争の部分を撥ねられたとか。そうじゃなくて、早い段階で目録を送れと言われて、その時に出来ている70数点の目録を送ったんですよ。後から増やせばいいと思っとったんですよ。そしたら向こうでは「その目録を基にしてホーチミン市の人民委員会がOKを出した。だからその目録に書いているものしか展示出来ない」と言われて、えらいこっちゃなと思ったんですけど、結局300点全部は展示できなくて70数点しか展示できなかったんですけれども、そういう点では官僚国家なんだな。ただ館長さんがおられたらもっと別の判断をされたと思います。たまたまその時館長さんがおられなかったんですよ、だから杓子定規になった。ただ、山﨑君の遺影だけは目録に入っていなかったんだけれど、さすがにそれは置いてくれました。

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(ベトナム戦争証跡博物館)

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(博物館での展示の様子:関西運営委員会FBより転載)
それでさっきの映像でベトナムのアオザイを着た若い女性が山﨑君の写真を指してベトナム語で説明していたでしょ。あれは何かと言うと、ベトナムでの展示会のオープニングの集会の後だったと思うんですけれども、オープニングに来ていた日本領事館の領事とか、ホーチミン市の人民委員会のお偉いさんもいたんだと思うんです。それから越日友好協会の会長さんとか、そういう10人くらいを引き連れて「今から説明しますから」と言って、博物館の職員が言った内容は、おそらく「日本の青年山﨑が、アメリカのベトナム侵略と、それから日本政府のベトナム訪問に抗議して殺された」という説明をしたと思うんです。その時、僕は「ああやってよかった」とつくづく思いました。
だから僕はずっと展示会をやって、展示会をやった時の気分が、何て言うですかね、バリケードの中の生活を思い出して、東京と京都でやって、いろんな新しい人、知らなかった人に会えて話が出来て、それでベトナムまで行ってベトナムであれをやり切ったというのは、率直に言って僕は自分でもよくやったと思います。(拍手)最後のベトナムの展示会でベトナムの女性があれをベトナムの偉いさんに説明した時に、「ああやってよかった」とつくづく思いました。だから8年間を振り返って一番印象に残っているのはそれです。何か自分勝手なことばかり言いましたけれど、まあそんなんで。(拍手)

水戸喜世子(十・八羽田救援会)
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今の続きで言いますと、私は精華(京都精華大学)の展示会に行ったんですね。そうすると本当に来る人が、50年間言いたいことをずっと胸の中にしまっていたということを吐き出すように喋ってくれるんですね。本当に私も場の雰囲気というか、みんな10・8以来こういう場がなかったがために、みんな一人ひとり胸の中にしまい込んでいたんだなって、あれは本当に私も感動して、あの展示会をやってよかったんだなという思いを強く持ちました。
あの展示会は山本さんがいなかったら絶対に出来なかったことで、山本さんというのは、自分の身体で枠を作って注文するところから全部なさるんですね。足りなければ人の手をお借りになるんでしょうけれど、本当にあれは山本さんの作品だなという思いを強くしました。
私はと言えば、2014年にこのプロジェクトが始まったんですよね。2014年に実は私は福島の「子ども脱被ばく裁判」に関わっていまして、それが2014年、ちょうど同じ年なんですね。私は山本さんに手紙を書いて口説いて、(プロジェクトに)入ってくださいとお願いして、山本さんが入っていただいて、そして私の念願だったお墓(墓碑と記念碑)も出来て、私はもう役割は終わったと思いまして、私は専ら原発にその後突っ込んでしまって、裁判は今年8年目を迎えているので、今高裁段階ですけれども、子どもをとにかく被ばくさせるなというで始まった裁判なんですけれども、その裁判が来年の3月に原告がいなくなっちゃう。ということは、義務教育を受けている子どもを原告にしたものですから、8年の間にみんな小学校、中学校を卒業しちゃって原告がいなくなっちゃうから、訴えられていた行政、郡山市とか福島市とか、訴えられた人たちはもう弁解する必要が無くなる、罪を背負う必要が無くなってしまう。ということで、もう大変な事態、8年間何であったのか、そういう事態を迎えて、実は「子ども人権裁判(行政訴訟)」という義務教育の子どもが原告になっている裁判と、もう一つは国家に無用の被ばくをさせられたことに対して損害賠償しろという国家賠償訴訟(「親子裁判」)との抱き合わせの裁判だったんですね。それを分離させろという闘いを始めました。その時、弁護団は全部諦めていたんですね。打つべき手を全部打ったけれども、その裁判長(仙台高裁)は受け入れなかったんです。だから弁護団は全員が悲観的であきらめていた。私はそこで諦めなかった。とにかくここで諦めたら元も子もないじゃないか。

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(「子ども脱被ばく裁判」支援チラシ)
私はやっぱりその時、山﨑君の絶対にこの橋を渡らせてはいけない、ここで守るんだ、命を懸けても守るんだというその思い、やっぱり10・8精神みたいなもの、私は絶対にこの裁判は最後まで継続させるという思いを強くしたんですね。それで皆さんからいろんな知恵を借りて、いわゆる普通のお手紙ではなくて、一人ひとり住民の思いを4,500枚、その訴えを出して、それで私たちの要求が全面的に認められて(裁判の)分離が行われて、来年には(「子ども人権裁判」の)安全なところで義務教育を行わなくてはいけないということに対する判決が出る。それから11月14日には「親子裁判」、福島県知事とか教育委員会だとか、子どもを無用に被ばくさせた直接の責任者を法廷に引っ張り出して尋問をするということを来月やるんです。ですから皆が本気になれば市民の力で変えられるんだということを体験しました。
やっぱり山﨑君の思いというのは私の中で生きているし、そういう闘いをこれからもしていかなくてはいけないと思っています。(拍手)

北本修二(弁護士、大手前高校・京都大学同期生)
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北本と申します。55年前の10月8日ですけれども、山﨑君と一緒に弁天橋の橋の上で戦っていました。60年代というのは今振り返ってみると、壮大な時代だったと思うんです。日本でも山﨑君の死と戦い、10・8闘争がきっかけになりまして、東大、日大を始め全国で学生たちの動き、反戦と世の中の改革をしようという動きがありました。でも、これは日本だけではなかったんです。この山﨑プロジェクトでもアメリカからマーク・ラッドさん(元米学生運動リーダー)に来ていただきましたけれども、世界中で同じような若者の叛乱が起きました。フランスでも5月革命、アメリカでも大学占拠闘争がありましたし、ドイツでも起きているんですね。60年代の社会運動というのは、その後、70年代に収束していったと一般的には言われるんですけれども、しかし歴史を考える時には、非常に重大なものとして残していく、あるいはこれから残らなければいけないと思っています。

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(来日したマーク・ラッド氏)
ところが2014年、このプロジェクトを始めた頃、日本の現代史の中で60年代の社会運動というのはあまり触れられていなかったんですね。発起人になっていただいた福井さんが日本史の専門家ですので、日本史の本の中で60年代闘争の事を触れていただいていますが、ほとんど消し去られていたというところがありました。
しかし、この山﨑プロジェクトの動きをきっかけにしまして、改めて60年代に日本社会であるいは世界で起きたことについて振り返ってくる、改めて歴史の中に刻み込むというようなことが(出て来たのは)、私たちの運動が関わった一つの成果なんだろうと思っております。
個人的に言いますと、山﨑君が亡くなったのは18歳、私も18歳でありまして、その後55年間何をして生きてきたんだと言われますと、恥じ入るばかりでしかないんですけれども、自分の能力とか気力とか出来る事は本当に限られて恥じ入るばかりなんだけれども、それでも今の時代、再び反戦平和という問題が本当に現実の問題になってきて、ひょっとしたら世界が滅びるかもしれないという時代が、今目の前に来ているわけです。
改めてこの10・8闘争の意義をもう1回刻み込み、私たちの個人的な追憶だけではなくて、社会の記憶として残していくということについては、大変意義がある運動ではないかと思っています。そのために、古い仲間たちとか、多くの先輩たち、若い人たちが集まってくれて、こうやって集まる場が出来た、そういう中で、山本さん、水戸さん、私たちの先輩が先頭になって動いていただいていることについて、大変感謝しております。
55年目になりますが、山﨑君の闘いは歴史の記録に残していきたいということで、何らかの事は続けていきたいと思っております。ありがとうございました。(拍手)

新田克己(予備校講師)
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新田です。山﨑博昭君が羽田で殺された時、僕は同じ京大の2回生でした。京都では2年生と言わずに2回生と言いますが、1年先輩にあたります。僕は意識の低いノンポリの学生だったんですけれども、山﨑博昭君が殺されたというのが非常にショックな出来事でした。
55年前の10月8日、確かその5日後だったと思うんですけど、京大の時計台の下にあります大教室で山﨑博昭君追悼の全京大学生葬というのが行われて出席しました。非常にたくさんの人が集まって山﨑君を追悼した、そのまま初めて街にデモに出た、そんな経験がありました。
それからほぼ半世紀経って、この10・8山﨑博昭プロジェクトに出会いました。何か運命的なものを感じて、ご一緒に活動させていただくことになって、今関西のプロジェクトの事務局長という役をさせていただいているんですけれども、晩年になってから有意義なことが出来ているなという意識で、非常にありがたく感じています。戦争を無くすために命を懸けた山﨑博昭の志を後世に伝えていく、引き継いでいくということが我々の役割だろうと思って活動をしております。
少し関西の話をさせていただきたんですけれども、さきほどから京都精華大学の展示会が話題になっていました。非常に広いギャラリーをお借りして、実はそれも無料でお借りしました。ただ、その無料には条件が付いていまして、山本先生、僕は駿台(予備学校)の後輩にあたるので、山本先生と言う方がしっくりくるので山本先生と言っちゃいますけれども、その山本先生の講演を大学主催でやらせていただきたい、それを条件にしてギャラリーは自由に使ってください、という申し出がありまして、山本先生にお願いしたら喜んで引き受けていただいて、展示会の最中に1日取っていただいて、一番広い部屋でしたね、そこで山本先生の講演、500人超えていましたね。ちょっとした事件という雰囲気だったです。
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(山本義隆氏の講演告知看板)

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(山本義隆氏の講演会)
さきほどおっしゃったように、展示会も毎日出て行って、いろんな方のお話を聴いたり、展示物を直したりというのがとても楽しかった。学校で学園祭でいろんなことを楽しむような気持もあって、その後なんですが、京都大学の11月祭にプロジェクトとして参加させてもらおう、それを手伝てくれる京大の方もおられたので、3年前の京大の11月祭で部屋を借りて、「ベトナム反戦闘争とその時代」の展示会をやりました。
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(京大での展示会:関西運営委員会FBより転載)
その時、とても楽しい思いをして、是非これは続けたいと思っていたら、次の年からコロナでできなくなってしまったんですけれども、そんなことで関西は関西独自の活動を続けて、関西は関西、東京は東京じゃなくて、一つのプロジェクトとして一緒にこれからも頑張っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。(拍手)

福井紳一(予備校講師)
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福井と申します。ベトナム戦争は僕にとって小学校から大学まではずっとベトナム戦争でした。そして60年代、70年代のあの時代の、ある意味で激動なのか、あるいは既成の価値観が崩れていくのか、新しいものが出てるか、そういったものは結局そういう空気というものが、結局この歳まで一生自分を捉えていて、そして今に至っているという感じがします。
樺美智子さんのお父さんが祖父の友人だったので、あの樺さんが殺された時の家の空気というのは子どもの時から非常に大きな印象としてありました。そしてまた、歳の近い叔父が京大全共闘だったので、夏休みに遊びに来る度に非常に楽しい話をいっぱい持ってきてくれまして、早くそういうところに行くんだ、早くヘルメットを被って街頭に出たいということだけを考えていましたけれども、そういう中で1970年に、1年上の先輩たちが全国の戦う中学生の共闘会議、全中共闘を作って、それで翌年から合流していくという形で現在に至るという形になってしまいます。
日本の近現代の思想史を研究しているんですけれども、そんな中で自分の生きた時代というものを、もう一度この山﨑博昭プロジェクト、そして山﨑さんの死の衝撃というものを、僕は自分の人生の中で一つのきっかけだという形でも感じられていました。それで作業が出来てよかったと思います。
さっき山本先生がおっしゃっていたんですが、佐々木さんと辻さんがベトナムに行って、山﨑さんの遺影だけじゃなくて展示会までやれるかもしれないという話を持ってきたというので、それで山本先生が来て「これ大変なことになった。本当にやるなら腹をくくってやらなければ。俺は腹をくくった」という話をして、僕も駿台(予備学校)で日本史を教えていますけれども、日本史の若手の人たちを動員して協力してもらって、山本先生と一緒に「60年代研究会」というのを作って、様々な諸闘争、相模原とか立川とかベ平連の活動とか、直接話を聴いて、新たな認識と経験をさせていただきました。

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(「60年代研究会」の皆さん:谷中での展示会場前にて)
山本先生なんですけれども、実は非常に器用な方で、展示会のパネルとかほとんど山本先生一人で作ってらっしゃる。気が付かないうちにいつの間にかパネルとか作ってらっしゃる。それの少しでもお手伝い出来たと思っています。
それで『日本原 牛と人の大地』の映画なんですけれども、黒部夫妻、旦那さんが監督、奥さんが製作をやっていますけれども、奥さんは教え子なんですね。映画を観ましたけれど、とてもいい映画で、牛との生活の中で学生時代の友人の死と自衛隊問題に向き合った、それを淡々と、そして温かい目で撮っている映画なので、是非観ていただければと思います。(拍手)

代島治彦(映画監督)
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代島治彦です。僕は第2ステージから発起人に加えていただき、そのお陰で『きみが死んだあとで』という映画を2019年に撮影して2021年に公開することが出来ました。僕自身は福井さんとあまり年齢が変わらないんですが、あの時代の空気を吸って中学校、高校と育っていったんですけれども、福井さんとは違って何もせず、闘争もせず、大学に入った時は、ちゃんとシラケて生きてきました。

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でもずっと引っかかっていたのは、何で自分が就職した会社を辞めて、ルンペンというかフーテンみたいな生活を60過ぎるまでしてきたのかなと思うと、やっぱりあの時代の空気を吸っていたからで、そういう風に自由に生きたいと思ったことを貫いてしまったんだなと、組織には絶対に属したくないと思って生きて来た、その原因を突き止めるためにというか、お兄さんやお姉さんにこのプロジェクトで出会ったから映画を作ったというところがあります。
やっぱり山﨑博昭さんが、当時高校を卒業して京大に入って弁天橋に向かう時に握っていたバトンというのは輝いていたと思いますね、時代のバトンが。それが70年代に入って何で血に染まってしまったのか。僕ら遅れてきた世代は、その血に染まった汚されたようなバトンは拾わなかったんですね。そのバトンが次の世代に手渡せなかったことによって、山﨑さんが切り開こうとした60年代の運動の地平、そういうものまで見えなくなってしまっている。『きみが死んだあとで』という映画を作りながらずっとそのことを考えていましたし、このプロジェクトで第2ステージ何ができるだろうと考える時も、いつもそんなことを考えてやってきました。
実は今、次の映画を作っておりまして、その映画は内ゲバをテーマにした映画なんですけれども、それもやっぱりこのプロジェクトに参加し、山﨑博昭さんの死とちゃんと向き合った結果、そこに向かって行っているんだなと、何故山﨑博昭さんが握っていたバトンが血で汚されてしまったのか、そのことをちゃんと、当時の言葉で言うと総括と言いますか、説明が出来ないと、山﨑博昭さんが握っていたバトンを今の若者たちに手渡すことはできないんじゃないか、そんなことを考えています。それで今映画を作り始めて、来年公開するつもりで、今編集に取り掛かっているところです。
(この映画は)樋田毅さんが書いた『彼は早稲田で死んだ』という本を入り口にして作っているんですけれども、その本のタイトルのままになるか、まだ分かりません。プロジェクトの皆さんや山本さんやいろんな人と出会いながら『きみが死んだあとで』という映画を作りましたけれども、何かやっぱりやりながら、皆さんは社会の悪い夢を食ってくれる獏(バク)のように見えたんですね。だから獏というのが付くタイトルにしようかなとも思っていまして、社会の悪い夢を食い過ぎて腹を壊してああいう事態になってしまったのかなとか、いろんなことを考えながら作っています。(拍手)

三橋俊明(文筆家)
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日大全共闘の三橋と申します。第2ステージは、隣にいます代島監督の『きみが死んだあとで』という映画に取り組んだわけですけれども、『きみが死んだあとで』の「きみ」が山﨑博昭さんのことであることは皆さん同じように思いを一つにしていただけると思うんですが、日大全共闘にとっては、この「きみ」は山﨑博昭さんであると同時に中村克己のことでもあるんですね。
少し中村克己の話をさせていただくと、中村克己は日大の商学部の学生で、日大全共闘として日大闘争を戦いました。68年に始まった闘争が70年になった時、70年の2月25日ですけれども、京王線の「武蔵野台」という駅で全共闘のビラを配布している時に、右翼から襲撃を受けて重症を負います。そして3月2日に亡くなりました。22歳でした。
私はこの25日の襲撃で中村克己が重症を負ったこと、そして3月2日に亡くなったことを、府中刑務所の独房の中で、日大全共闘の救対が私に打ってくれた電報で知ることになります。僕は中村克己の友人でもあったので、その後はとても辛い日々でした。今でも独房の中で中村克己が死んだという電報を受け取った時の光景というのは忘れられません。

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(中村君虐殺弾劾日大全共闘葬)
中村克己のことは、その後、3月11日に日比谷公会堂で日大全共闘葬を行い、次の年に八千代台に墓碑を建立いたしました。その墓碑の前で集まりを持って以降50年間、50回墓参を続けてまいりました。その墓参を50回で終えて、今は有志の墓参として続けているんですけれども、昨年の山﨑プロジェクトの秋の集会で、中村克己君墓碑委員会の方から、今お話ししたようなことを含めた報告をさせていただきました。大変ありがたいことだったと思っています。
これからも、山﨑博昭さんの反戦への思い、また中村克己の日大闘争勝利への思いを一人でも多くの方に伝えていきたいと思っております。(拍手)

辻 恵(弁護士・大手前高校同期生)
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大手前高校で山﨑博昭君と同期だった辻恵です。私は中学時代は皇国主義者みたいな、たいした思想的な深みがあるわけではないんですが、神戸の湊川神社に毎年正月にお参りに行くとか、「楠木正成頑張れ」みたいな感じでやっていたんですけれども、大手前高校に入って、周りからいろいろ刺激を受け、高校2年くらいの頃からいろいろ考え始めていたというところだったんですけれども、当時は自分は勉強を本分にすべきだみたいに思っていたので、自分としては競争相手として山﨑博昭を意識していた、というようなとろこがありました。
高校3年で社研の動きとかいろいろ耳にして、山﨑も参加しているらしいということで、僕はその時「大学に入ったら学生運動に突っ込むんだろうな」とかなり傾いていたんですけれども、参加はしなくて、横で佐々木なんかを見ている、お互い口も利かないでガンを付け合うというような、そんな高校時代でした。
大学に入って、三派全学連で砂川からずっとデモとか行っていて、10・8は僕は行けなかったと言うか、このまま行くと深みにはまるんじゃないかと思って、ちょっと一呼吸置こうということで旅に出て、仙台の駅前で朝、朝刊を見たら山﨑が死んでいるということがあって、僕は大衝撃で一生忘れられない、ここを外れて自分は生きていけないなと思ったのがあります。
2014年の3月8日に、初めてこの山﨑博昭プロジェクトを作ろうという動きの集まりがあって、弁天橋に行ったりしたんですけれども、その時僕が思ったのは、やっぱり10・8とは何なのかということを、もう1回自分なりに振り返りたいし、日本の中で、歴史の中でもっともっと知ってもらいたいというか、残したいというか、何だったのかというのを、もっと自分で突き詰めて、しかもそれを残していきたいという思いがありました。
だから積極的に関わろうと思って、私の法律事務所を連絡先にして、プロジェクトの預金口座を作ったり、いろいろなことを僕はやっていたんですけれども、その時に思ったのは、一つには「轢殺だ」みたいなことに社会的にはされてしまった真相について、はっきりさせたいと。これはその後の闘いもそうだし、60年安保の樺さんも殺されたに間違いないわけだから、そういうような真相究明をちゃんとやるということ、このプロジェクトの活動の中で出来る範囲のことをやっていきたいと。それで事務局の方が中心となって、僕もそれに少し関わらせていただいて、真相究明をある程度進めることが出来たのが、一つの成果だったと思っています。

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あと、僕は山﨑プロジェクトに関わろうと思った時に感じていたことは、10・8羽田の闘いが我々の世代にとっては記憶というか、ショックの現象だったということになっているんですけれども、それはそれ以降の72年の連合赤軍事件とかの中でグチャグチャにされて、もう終わったものだという風にされていることについて、やはり復権したい。実力的に戦おう、実力闘争で戦おうというのが10・8羽田だったと僕は思うんですね。単に賛成とか反対ということで留まるのではなくて、やはり押し留めることのできない怒りというか、それが歴史を動かすんだという、そういう実力闘争のあり方を、さまざまなその後の、僕は間違いとかいろいろあったと思うから、それを教訓化しながら、その中に最初の萌芽が10・8の闘いの中にあったんだということを、もっともっと解明していきたいし、そこを感じておられる様々な人との繋がりを是非創り出していきたい。それを後世の世代に残していきたいと思ったというのがあります。
第2ステージは、10・8羽田闘争50周年の記念誌を作り上げたから3つの課題を成し遂げたということがあったんですけれども、やっぱり当時の闘いは72年の沖縄闘争までが一つの区切りだったということがあるから、記念誌を作って終りにするのではなくて、72年(の50周年)まで第2ステージとして山﨑プロジェクトを活動しようという話が事務局の中であったし、皆の確認になっていた。
日本の当時の学生運動に留まらない、実力闘争が持っていた普遍性というか、そういうものが伝わっていくような闘いがその後広がっていった、その前からもあったと思いますけれど、そういう人たちとの関係を山﨑プロジェクトとしては意識的に広げていきたいと思っていて、マーク・ラッドさん(元米学生運動リーダー)に来てもらったのも、その一環だと僕は思っているし、在日の人たちや沖縄の問題について、もっと正面から関わらなければいけない。これはまだ緒に就いたばかりなんですよね。やっぱりそれを、私としては山﨑プロジェクトのチームのみんなの中で取り組んでいきたいと思っています。
そしてもう一つは、若い世代に継承していきたいということで、一番最初の取っ掛かりは、若い世代とうか下の世代の研究者の人たちとシンポジウムで関係を持って行ったということがあって、そこから学生の皆さんとの繋がりも出来つつある、というようなことがありますので、ここは大切なところなんじゃないかと思います。
山﨑博昭だけではなくて、さっき出た中村克己さんもそうだし、糟谷孝幸君もそうだし、今関西で考えているのは、東山薫さん(1977年成田空港反対闘争の中、機動隊の催涙弾の直撃を受け死亡)について、ちゃんと思い起こして、掘り起こして一緒に検証していくみたいな、殺された仲間をもう1回歴史に取り戻すみたいなことがやれればいいなと思います。韓国の200人の烈士みたいな形にはなかなかいかないかもしれないけれども、それが日本のどうしようもない、なかなか権力と戦わないような流れを、少しでも変えていくような、そのベクトルに向かうように、山﨑博昭プロジェクトを何か機能させることが出来ればいいなと僕は思っているんですね。
僕は内心忸怩(じくじ)たるものがありますけれども、2003年に国会議員になって、2期国会議員になって、最初は民主党だったけれども、離党して「日本未来の党」に行って、今はこの間の衆議院と参議院の選挙に「れいわ新選組」から出て、どちらも落ちましたけれども、自分としては筋は曲げていないつもりなので、やはり日本の政治を変えていきたいと思って、日本の政治を変えることが出来たら、(韓国の)ムン・ジェイン(文在寅)がクアンジュ(光州)蜂起を正義の闘いだったということで検証しているというような、そういうような日本の当時の闘いを検証できるような政治に日本も変えていきたいなと思っています。以上です。(拍手)

小林哲夫(教育ジャーナリスト)
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ジャーナリストの小林哲夫と申します。この間の安倍晋三元首相の国葬の時に、武道館と国会の前に行ってきました。反対の声を上げる方はやっぱり年配の方が多いのですが、その中にも大学生、高校生、そういう若い方もいます。このことについて、僕はずっと注目というか気にしていました。
2010年代、反原発運動、特定秘密保護法、安保関連法案で国会前に集まる方々はやっぱり年配の方が多いのですけれども、若い方もいます。その方々に話を聴くと、やっぱり「おかしい」と。16歳、17歳の高校生、18歳19歳の大学生がいます。「声を上げたいけれども、どうしたらいいのか」と言う方もいました。
山﨑さんは18歳、今の18歳の学生で考える方もいます。僕はすごくここにこだわりを持っています。10代で物心が付いて、初めて社会と向き合って、疑問を感じて、考え、議論して、アクションを起こす。生まれてから初めてそういう行動を起こした10代の人たちの運動を、私はフォローしてきました。

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(2021年秋の東京集会で「高校生と大学生が語る―いまやっていること、やりたいことー」の司会をする小林哲夫氏)
彼らと話をしていて、やっぱり学生運動を含めた社会運動の歴史を知りたい、10・8羽田を知りたい、10・21新宿反戦デーを知りたい、騒乱罪を知りたい、安田講堂を知りたい、連赤も知りたい、運動の歴史というものを知りたいという10代の方がいます。その方々にできるだけ、まだ元気でいらっしゃる方々の話を、辻さんは「継承」という言い方をされたんですけれども、なかなか言い方が難しいんですけれども、運動を引き継ぐということではなくて、まず基本的にどう伝えたらいいのか、事実関係はどうなのかということと、何故社会と向き合い、そういうアクションを起こしたのか、もっと言うと何で石を投げたのか、その辺のことは10代の人は全く理解できないと思います。その辺の理解できない部分と、それを当たり前のようにやってきた世代の中に、少しでも私が入ればいいなということで、私はこのプロジェクトの中で、できるだけ多くの高校生、大学生に声を掛けてきました。それは引き続きこれからもやっていきたいと思いますので、若い方に対して期待していいです。よろしくお願いします。(拍手)

司会:佐々木幹郎
どうもありがとうございました。ここで10分間休憩を取ります。
(休憩を挟んで後半に続く:後半は12月9日に掲載予定です)

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【お知らせ その1】
11月23日 渋谷ロフト9で開催!
Z世代と団塊世代、雨宮処凛、全共闘が「私たちに迫りくる戦争」を徹底的に語り合う!
シンポジウム「私たちはいま 戦争にどう向きあえばいいのか」
「ロシアのウクライナ侵略戦争」・「北朝鮮の核ミサイル」・「台湾有事」・「領土問題」」を理由にして「防衛費倍増」・「アメリカ軍との核共有」・「憲法9条改正」に世論を導こうとする日本政府。世界に蔓延する「ナショナリズムの拡大」・「軍拡」の嵐の中で「反戦・非戦・不戦」の松明を私たちは掲げることができるのか!
私たちはどのような未来を提案・創造することができるのか!
【第1部出演者】
雨宮処凛(格差・貧困問題に取り組む「反貧困ネットワーク」世話人 「週刊金曜日」編集委員 「公平な税制を求める市民連絡会」共同代表)
糸井明日香(高校生時代に校則・制服問題に取り組み、大学生時代には学費問題に取り組む 現在は社会問題をビジネスで解決する株式会社ボーダレスジャパンメンバー)
中村眞大(ドキュメンタリー映画「北園現代史」監督 校則問題・社会問題をテーマに映像発信する大学生ジャーナリスト)
安達晴野(ドキュメンタリー映画「北園現代史」に出演 校則問題や政治問題について発信する大学1年生)
吉田武人(2015年安保に反対した「T-nsSOWL」に中学1年生で参加 現大学2年生)
伊集院礼  (元 未来のための公共・2015年安保に反対した「T-nsSOWL」メンバー)
【第2部出演者】
三宅千晶(1989年沖縄県那覇市生まれ。被爆三世。早稲田大学卒業(水島朝穂ゼミ)。弁護士。日本弁護士連合会人権擁護委員会基地問題に関する調査研究特別部会員)
元山仁士郎(1991年沖縄県宜野湾市生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程。「辺野古」県民投票の会元代表。SEALDs/SEALDs RYUKYU立ち上げ・中心メンバー)
船橋秀人(来春から京都大学大学院生 規制緩和による非正規雇用者の増大をもたらした竹中平蔵による授業、そして実学偏重の大学に反対して抗議活動を行う 反戦運動アクティビスト)
田中駿介(「旧土人部落」と呼ばれた地区で中高時代を過ごす。2014年「北の高校生会議」発起人。東京大学大学院生 慶大「小泉信三賞」、中央公論論文賞・優秀賞を受賞)
 塩野谷恭輔(宗教学・旧約聖書学研究者 第5期「情況」編集者 第6期「情況」編集長)
【ファシリテーター】
金廣志(元都立北園高校全共闘メンバー・元赤軍派メンバー・塾講師)
安田宏(元都立上野高校全闘委メンバー・元慶應大学日吉自治会副委員長)
渋谷LOFT 9
渋谷区円山町1-5 キノハウス1F
11月23日(祝日)
OPEN 12:00 / START 13:00(END 16:00予定)
[会場チケット] 
前売¥1,800 / 当日¥2,000 / 学割前売¥800/ 学割当日¥1,000
(飲食代別 1ドリンクオーダー要)
[配信チケット] ¥1,000
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/loft9/233437

【お知らせ その2】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その3】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は11月25(金)に更新予定です。

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