2022年10月8日は、1967年の10・8羽田闘争から55年目となる。この日は羽田・弁天橋での黙祷、萩中公園近くのお寺での法要、そして蒲田で記念集会があった。
No604で記念集会の前半の詳細を掲載したが、今回は、後半の詳細を掲載する。

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記念集会は以下の内容であった。
1.主催者挨拶                        
2. ドキュメント『プロジェクトの歩み』上映        
3.発起人紹介と挨拶 「プロジェクトの8年間を振り返って」 
(休憩)
4.若い世代からの発言                       
5.プロジェクトの会計報告と今後の活動について 

記念集会は休憩を挟んで前半と後半に分かれるが、今回は後半部分を掲載する。

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【10・8羽田闘争55周年記念集会】
大田区消費者生活センター2階 大会議室
2022年10月8日(土) 午後6時~午後8時30分
「10・8羽田闘争55周年―山﨑博昭プロジェクトがめざしたもの」
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司会:佐々木幹郎(詩人、大手前高校同期生)
これから始まりますが、左右に壁に北井一夫さんの『過激派の時代』(平凡社)という写真集から、10・8羽田闘争の記録の写真が飾ってあります。
では小林さん、よろしくお願いします。
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●若い世代からの発言
小林哲夫(教育ジャーナリスト)
それでは始めたいと思います。
若い方を今日は2人呼びました。簡単に紹介します。私に一番近い方が中村眞大(なかむらまさひろ)さん。都立北園高校から明治学院大学に入学して、今、心理学部の2年生です。都立北園高校時代に制服問題を提起する動画を作りまして、それが大変話題になりました。今はさまざまな運動について、取材活動ということでカメラを回して、必ず国会前にいらっしゃっています。それからもう一人、那波泰輔(なばたいすけ)さん。1989年生まれ、33歳。大学の非常勤講師をされています。専門は「わだつみ会」関係の調査をずっとされていて、社会運動に関して関心を持っていらっしゃいます。中村さんは2002年生まれで19歳です。この中で、一番山﨑さんが亡くなられた歳に近い方です。
今の20代、30代の方の話を聴いてみてください。
早速ですが、山﨑さんが1967年、55年前に18歳で大学生として亡くなられたという歴史的事実、史実になるんですけれども、それをどのように受け止められ、それをどう自分たちは考えたらいいのか、一番年代の近い中村さんからお願いします。

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中村眞大(都立北園高校→明治学院大学19歳)
中村眞大と申します。今、小林さんがおっしゃっていたように、一番山﨑さんと年齢が近い人間になるわけですけれども、正直に申し上げると、私はまだ生まれていなかったので、本当に歴史的事実というような捉え方をしています。
僕は日本史で(大学を)受験したので日本史を勉強していたんですけれども、幕末の志士だとか、そういった中で、十九歳とか二十歳で亡くなった方を見ると、自分と似たような歳の人で、こんな活躍をして、こういう風に若くして亡くなった人がいるんだという感じの、ある意味で衝撃を受けたんですけれども、山﨑さんの話を伺った時も似たような衝撃を受けました。
世の中に、社会に声を上げるという活動の中で、若くして亡くなったという点では、幕末の志士の人と、僕は歴史的事実として捉えてしまっているので、同じような感覚として捉えてしまっているんですけれども、僕も社会運動を取材したりしいてく中で、今の令和の社会運動というのは、人が死ぬというのはあまり想像できないですけれども、世界に目を向けてみると、香港であったりとか、あと社会運動ではないですが、アフガニスタンやウクライナで若い世代が戦争であったりとか、香港であれば大学の中で立て籠って警察と戦うということが行われて、亡くなった方もいるわけです。そういったことをニュースで見たりすると、急に自分ごととして捉えられるようになるというか、歴史的事実として見ていたものが、世界に目を向けてみると、似たような状況の国とか、似たような状況の同年代の人がいっぱいいるじゃないかと感じて、急に自分ごととして捉えられたのが、最近のことです。

小林哲夫
ありがとうございます。那波さん、お願いします。


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那波泰輔(大学非常勤講師33歳)
那波泰輔と申します。今日はこのような場にお呼びいただきありがとうございます。私も中村さんと同じように、一つの歴史的出来事として最初は感じていたんですね。でも、今日こうやって写真を見たり、弁天橋の方に行って、その場所を歩いたりしていると、歴史的に見えた、遠くに感じた人が、同じ人間として同じ土俵に立っているような感じがしたんです。
映像とか、同じ学園生活を共にした人の話を聴くと、その人が浮かび上がってくる感じがしたんです。ですから、こうしたプロジェクトでいろんな世代の人に、どういった人物だったのかを伝えていくというのは、歴史的な人を身近な人に感じさせる、非常にいい試みで素晴らしいと思います。今日はよろしくお願いします。

小林哲夫
ありがとうございます。山﨑プロジェクトですが、これからいろんな事が考えられると思います。この10・8羽田を残すことについて、継承なのか引き継ぎなのか伝承なのか、非常に難しいんですけれども、これを後の世代に伝えるというその考え方を、若い世代がどう受け止めたらいいのか、那波さんからお願いします。

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那波泰輔
私は「わだつみ会」という団体を研究としているんですが、「わだつみ会」というのはどういう組織かと言うと、『きけわだつみのこえ』という戦没学徒の遺書集があるんです。その遺書集を編集している団体が「わだつみ会」と言うんです。「わだつみ会」には「わだつみのこえ記念館」という記念館があって、そこには遺書集に掲載されている遺書が生で展示されています。そこに来る来館者のアンケートとか拝見しているんですね。そのアンケートを見ると、『きけわだつみのこえ』という著書自体は知っているけれど、読んだことがないという人がほとんどなんです。彼らはたぶん、『きけわだつみのこえ』そのものに興味があるというよりは、生の史料が展示されているからという関心で来てくれるんです。そうした中で、『きけわだつみのこえ』遺書集に興味を持って、そこからいろんな運動をしていこうという人もいるわけです。
なので、こうしたプロジェクトに限らず、全共闘の運動の史料を一ケ所に集めたり、ネット上でもいいですが、そういう場所を作ることによって、ちょっと関心を持っている人が、より関心を持ってくれるようになるんじゃないかと思っています。なので、皆さんのこうした取り組みとか史料というものをデータ化していって、アーカイブのようなものが出来たら非常にいいんじゃないかと感じています。

小林哲夫
ありがとうございます。中村さん、お願いします。

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僕が50年以上前の学生運動に興味を持ったのは、僕が在籍した都立北園高校で50年前にバリケード封鎖があったということを、全校生徒に配られた90年記念誌に小さく載っていたのがきっかけで、自分の通っている学校で50年前に、生徒がバリケードで学校を封鎖した、そんなことがあったのかとすごく衝撃を受けて、ほとんど資料が残っていなかったので、どういったことなんだろうと当事者の方に取材をしたりして、興味を持ちました。
そういった知るきっかけというのは、やはり高校で配られる記念誌であったりということもあると思うんですけれども、もう一つ大きいにはインターネットだと思うんです。例えばインターネットで、ウィキペディアに書いてあることから興味を持って、そこから図書館で調べたり、インターネットの専門のサイトで調べたりということが、今の若い人が何かについて調べる時のプロセスになると思います。なので、記録に残していくということで、本というのも非常に大事だと思うんですけれども、インターネット上に情報を記録しておく、それで誰でも24時間アクセスできるような状態にしておくと、山﨑博昭さんの存在を知って詳しく調べてくれるきっかけになると思います。

小林哲夫
ありがとうございます。そのアーカイブ、記録を掘り起こして映像で観た時に、羽田もそうですし、その後の闘争の中で石を投げたりする。それは今の世代の人からすると考えられないことで、何で石を投げたのかとよく聞かれます、大学生に。それについて、当事者はちゃんと答えなければならないと思っていますが、その辺り、石を投げたり、暴力性、ある意味で規範を無視した行動について、60年代の学生運動の在り方についてご意見を伺いたいと思います。

中村眞大
今の令和の社会運動と言いますか、10代20代が行っている運動というのは、主に気候変動であったりフェミニズムであったり、僕が関わるきっかけとなった学校の問題、学校のブラック校則と言われている理不尽な生活指導も含めて、そういったことであったり、様々です。貧困支援もありますし、入管問題もありますし、本当に様々です。石を投げたりということはしていない。SNSで発信をしたりとか、路上でパレードという形でデモ行進をしたり、あとは政府とか役所に署名を持って行ったり、意見書を提出して記者会見をしたり、そういうような形で自分の声を社会に届けるといったやり方が多いです。
私たちの世代から見ると、もちろん過激だなと思うんですけれども、ある意味では、それくらいのエネルギーがあったというのはすごく羨ましいなとも思っていて、今、羽田で首相がベトナムに行くのを止めるために、あれだけ集まって、エネルギーを持った若者を集めて運動が出来るかというと、怪しいところなんですね。あそこまでの元気がたぶん今はないし、人数もそれほど集まらないと思うんです。社会に関心を持っている若い世代だけれども、すごくいろいろなことを勉強して考えていたというのは、本当にすごいことだと思う一方で、学生運動というものの失敗、内ゲバで連合赤軍事件というものがあって、負の歴史というところも歴史に残ってしまったということで、最後シラケ世代というものが生まれてしまって、学生運動に嫌悪感を感じる人たちも出てきてしまったというところは、今は若い世代はあまり気にしていないですけれども、若い時に運動を見たちょっと上の世代の人たちが、「何だ学生運動か」みたいな否定的な見方をしてしまう原因となってしまったという負の側面もあるのかなと感じています。

小林哲夫
那波さん、学生が運動に参加する上でのハードルの高さ低さということについて感じるところがあったらお願いします。

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那波泰輔
私より中村さんの方が詳しいと思いますが、私が今感じていることを話させていただきます。今は、運動をしようという面ではインターネットがあって、近場に共感者がいなくてもインターネットを通じて共感者を募集することが出来るという点で、環境的な面での社会運動をするハードルは下がっているような気がするんですね。だけど、ある意味、社会運動をすることのハードルは上がっている感じがするんです。何故かと言うと、私は89年生まれですが、その世代でも結構規範的意識が強いというのもあって、人に対して迷惑をかけてはいけないとか、そういうのがあって、それはたぶん暴力はいけないというのにも繋がっていくと思うんです。石を投げるなんてとんでもないみたいな思考にも繋がっているんですけれども、そういった世代は規範意識が強いので、社会運動の心理的な面でのハードルが高くなっている気がするんです。実際に行動しなくても、ハッシュタグからやっていくというのも一種の社会運動という気がするので、運動面でのハードル、行くだけでなくてネットでいろいろやることも社会運動だと提示していくことで、運動することのハードルも下げていけるのではないかと感じています。

小林哲夫
ありがとうございます。中村さん、さきほどの話の続きとして、運動に対するアレルギーみたいなものがほとんど無くなっているんじゃないかというお話がありましたが、その辺りを具体的にお願いします。


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中村眞大
例えば、何か社会に対して声を上げるとなった時に、今の若い世代は、それが学生運動のトラウマと直結しないんですね。もしかしたら、ちょっと上の世代は、例えば学生が声を上げるとなった時に、「何だ、昔の学生運動の内ゲバの歴史か」みたいな感じで連想してしまう人もいるかもしれないんですけれども、2000年代の僕らの同世代の学生は、そもそも50年前の出来事を断片的にしか知らない。例えば浅間山荘事件という事件があって、それを夕方のバラエティの昔のニュース特集で観たことのあるぐらいの知識しかないので、ある意味では、いい意味で社会に向けて声を上げるということが学生運動と直結しないんですよね、僕らの世代では。なので、学生運動の負の側面という部分は、私たちは全く意識はしていないと思います。今、気候変動をやっているグループだったりとかも、昔の学生運動の事はほとんど知らない。それがいいことなのか悪いことなのかは置いておいて、知らないということはあると思います。

小林哲夫
ありがとうございます。さきほど司会の佐々木さんが、羽田闘争というのは戦争に反対するということを何度もおっしゃっていました。那波さん、今の若い世代の戦争への捉え方、受け止め方、それに対するアクションというのは、ご自身を含めてどう考えていらっしゃいますでしょうか。

那波泰輔
私は歴史学入門ということで、大学1,2年生に歴史学、ペリー来航から教えているんですね。私が教えていて思ったのは、歴史というと自分とどこか違う、遠くに感じているという学生が多かった。その中で実際、コロナが起きたりして、今でも激動の時代ですよね。コロナ禍以前は、日本の中では平穏な時代が続いているというイメージを持っている人が多かったんですけれども、コロナ禍が起きてから、学生も自分たちも激動の時代に生きている一人なんだと意識するようになったという感じがします。
今、戦争についてどう若い世代に伝えていくかとか、一緒に運動していくかとか考えた場合、やっぱり(ロシアによる)ウクライナ侵攻の中で人々が泣き叫んだり、反対している映像が流れるわけですね。そういった映像を観ながら一緒に共感しながらやっていくことが大事なんじゃないかという気がします。どこか遠い出来事で終わらせるのではなくて、自分の生活とリンクさせることで、そうした戦争反対の意識とかアクションというものを促していけるんじゃないかなという気がしております。

小林哲夫
いま、歴史教育、歴史の話が出ました。今から50年100年後の日本史の教科書に「10・8羽田」が出てくるかどうか、ということを時々私は考えることがあります。
中村さんにお尋ねしたいんですが、運動の歴史というのは、歴史教育の中でどう位置付けたらいいのか、もっと言うとどう教えたらいいのか、その辺りを学生としてお願いします。

中村眞大
僕は日本史Bを高校で取っていて、それで学生運動というのはちょっとだけ教科書に載っていたくらいだったと思います。樺美智子さんのお名前が出て来たかな?というくらいで、それでもかなり載っているなという感じではあるんですけれども、それでも部分的なことしか分からないので、それこそ山﨑さんを含めて市民だったり学生がこうやって声を上げたんだよ、ということは絶対に学ぶ必要があると思います。そこから、こういう成果もあったし、こういう負の歴史もあるというように、いい面、悪い面というのをしっかり学ぶ必要があると思っていて、例えば昔の米騒動であったり百姓一揆であったり、庶民が声を上げたことで何かこうなったということが、いつの時代でもあると思うんですね。そこから共通してくる部分もあると思うので、例えば今の若い世代の運動でも、やり方は違うけれど、組織の作り方であったり、リーダーを置くか置かないであったり、そういうやり方ではない部分、共通してくる部分は50年経っていてもあると思うので、そういうことをもっと次の世代に繋げていくためにも、もっと歴史の教育で市民運動、百姓一揆とかも含めて大きな枠として庶民の運動というものを教える必要はあると思います。

小林哲夫
ありがとうございます。那波さん、今のテーマで補足があれば。

那波泰輔
確かに教科書に載るというのは、人々の記憶に残りやすいことではあると思うんですね。載らなかったとしても、教科書という国が決めた歴史をある意味突き崩すものとして、市民の中で編んだ歴史というものを提示するという方法もあるとは思うんですね。必ずしも教科書に載らなかったとしても、人々が生きた歴史として、こうしたプロジェクトでもいいですが、皆が集まって教科書的なものを作っていく、ある意味で国が提示した歴史を崩していくというがあってもいいと思いますし、これまでの市民の運動をここに入れていってもいいのではないかという気がします。

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小林哲夫
すみません。いろんなことを聞きたいんですけれども、時間が来ましたので、最後に山﨑プロジェクトに望むこと、こういう風にして欲しい、こうすれば私たちにもっと伝わるし、伝えたいなということで、厳しい意見を含めて、注文を山﨑プロジェクトにお願いしたいと思います。

中村眞大
注文というと恐れ多いんですけれども、まず歴史に残すとうことはすごく大事なことと思うので、今の若い世代が学生運動を知るきっかけになるのはテレビ番組なんですね。テレビ番組はどういった内容のものが多いかというと、学生運動が怖いということだったり、あとは女子大生がテロリストの首謀者みたいなことで、煽るような内容のものがあって、コメンテーターの人たちも「怖いですね」で終わってしまうようなテレビ番組がありますが、そういうので学生運動を知ってしまうと、やっぱり悪いもの、怖いものと捉えられてしまう。もちろん怖い面もあったし、そこはちゃんと教えていかなければいけないと思うんですけれども、それだけじゃなくて、もっと学ぶべきところがある、自分事として捉える必要があるということも含めて、何があったのかということを歴史として残していただきたいと思うことと、あとは、当事者の方がお元気なうちに証言を残しておいていただいて、それをもし出来ることであればSNSなどで若い世代に直接届けられるような発信をしていただけると、わたしたちにも届きやすいのかなと思います。もちろん私もこういった機会をいただいたので、こういったプロジェクトがあるということを、周りの人にもシエアしていきたいと思うんですけれども、是非そういった活動を続けていただければと思っています。

小林哲夫
ありがとうございます。那波さん、最後に同じ質問でお願いします。

那波泰輔
私は「わだつみ会」をやっていまして、戦争体験の研究が専門です。戦争体験では語り部の方がいらっしゃいますが、修学旅行で高校生とかが聴きにいったりするんですが、若い世代だと、その話がつまらないという意見もあったりします。もちろんそれは若い世代の聴き方が悪いと思う人がいるかもしれませんが、「語る」ということは、一方向から語るということになりますので、どうしても聴く側はずっと受け身で聴いていることになってしまう。それでつまらないと感じてしまうのかなというのもあると思います。
あと戦争体験の語り部の方は、こうした語りをして下さいと指定されて、指定された課題の中で語っているので、それがたぶん若い人からすると面白くないと感じる時もあると思います。
戦争体験の継承から考えてみると、一方的に語るというよりは、語って議論することが重要なのではないかと思います。語った後に、「ここはどういうことなんですか」という質問する場があるといいと思います。なので、語り伝えるというよりは、議論する場があるといいのかなと思います。「何で石を投げたんですか」とか、気軽に質問する場があると、議論になってお互い気づく面があって、お互いウインウインになるんじゃないかという気がしています。

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小林哲夫
ありがとうございました。何か最後に訴えたいことがあれば、中村さん最後に一言。

中村眞大
いろいろと生意気なことを申し上げたかもしれないんですけれども、本当に山﨑さんという方がいたということを、次の世代に繋いでいきたいなと思っていて、僕も『情況』という雑誌で編集スタッフにちょっとだけ関わっていたこともありまして、来年1月に若い世代が編集主幹になって復刊することが決まりまして、若い世代で雑誌を作っていく中で、そういった50年前の出来事をいかに若い世代、同世代に繋いでいけるかということも考えながらやっていきたいと思っています。
今日は貴重な機会をありがとうございました。

小林哲夫
那波さん、最後にひとつ。

那波泰輔
今日はこのような場、ありがとうございました。皆さんの伝えていこう、記録に残していこうという気持ちの強さに私も圧倒されて、私も自分のインタビューというものを残していって、それを後世の人がいろんなことを感じられるようにしていきたいと思っています。今日は本当にありがとうごじました。

小林哲夫
どうもありがとうございました。

●各団体からのメッセージ
司会:佐々木幹郎
ここで、糟谷孝幸プロジェクトの世話人である白川真澄さんから発言をお願いします。
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白川真澄(糟谷孝幸プロジェクト世話人)
みなさん今晩は。さっきの山﨑さんの最初のお話とか、水戸さんのお話で、糟谷プロジェクトのことをずいぶん言っていただいて、本当にありがとうございます。私がわざわざ喋る必要もないんですけれども、ちょっとお時間を借りて話をさせていただきたいと思います。
山﨑君が亡くなってから2年後の1969年の11月13日、大阪扇町公園の闘いで岡山大学の糟谷君が機動隊に頭をやられて、逮捕されて、全く治療放棄のまま、次の日の朝に亡くなるというのが糟谷君の虐殺事件ということであります。その時に糟谷君を一緒に連れていったのが日本原で牛飼いになった内藤秀之という青年だったということで、その内藤君が呼びかけて糟谷プロジェクトを立ち上げようということになって活動を始めました。
その(活動の)立ち上げに際しては、特に山﨑さんからいろいろアドバイスをいただいて、会議にも出ていただいて、そのお陰で立ち上ることが出来ました。
やはり糟谷のことについて、ほとんど記録が無いということで、膨大な裁判記録はあるんですけれど、そんなものは一般の人は読まないということで、共に戦った人たちの声を集めて本にしようということで、コロナがあって大変苦労したんですが『語り継ぐ1969』という本を出版することが出来ました。

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(『語り継ぐ1969』社会評論社)
今は、さきほどから紹介されていますように、プロジェクトに加わっている黒部俊介監督が、『日本原 牛と人の大地』という映画を作って、今全国で上映しています。是非観ていただきたいと思います。
ちょっと問題提起をさせていただきます。一つは、さっきから私たちの闘いを語り継ぐということが言われていましたけれども、最近、佐藤優さんと池上彰さんが書かれた『日本左翼史』という本が出ています。私はこれを読んで、当時の闘いがこういう総括のされ方、語られ方をしていいんだろうかということに大変疑問を持ちました。何故私たちが、あの時、それこそベナム戦争に加担することに反対して、体を張って戦ったのか、その思いとか、その戦いの質とか、そういうことについて私の観点から見るとほとんど問題にされていない。こういうことでは語り継ぎにならないんじゃないかと思います。是非、この問題は検討していただきたいと思います。
二つ目は、半世紀前に私たちは、ベトナムの人たちがそれこそ武器を取ってアメリカと戦ったということに対して、これに熱烈に支援をし、連帯しました。今、ウクライナではロシアの侵略に抗して戦っているわけですけれども、これに対する共感というか連帯の意識というものが日本の中では非常に醒めているという風に思います。私は非常にこれはピンチじゃないかなと思っているわけです。何故、ウクライナの人に対する対応が冷たいのか、そういう問題を考えてみた時に、一つはこの戦争がロシアの侵略に対するウクライナの民衆の抵抗戦争だという側面と同時に、米国やNATOとロシアとの代理戦争である、大国間の代理戦争である、覇権争いの戦争であるという性格を持っていて、しかもその色合いが非常に強くなってきているということがあって、非常に戸惑いを感じてしまうという問題があると思います。
もう一つは、武器を持って戦うということに対して、ベトナム戦争の時代にはほとんど違和感がなかったわけですけれども、今、かなりそのことについての違和感があるということがあると思います。つまり、このウクライナの人たちの軍事的な抵抗というものを支持すれば、私たちが日本でやろうとしている「非武装・非軍事」の道、あるいはそういう闘いと矛盾してくるのではないか、ということから躊躇してしまうという問題があると思います。私は、突然軍隊が自分の住んでいるところに入り込んで来て、無抵抗の住民を片っ端から殺してそれを墓場に放り込む、こういった行為が行われていれば、人々が怒って武器を取って戦うということは私は当然のことではないか、止むを得ざる選択ではないかと私は考えています。それと同時に、軍事的な抵抗だけでウクライナが勝てるかと言ったら、それはやっぱり無理だろうと思います。特に軍事的な抵抗によって勝利した様々な社会変革というものを考えていると、毛沢東の言う「銃口から生まれた政権」というものは、中国やベトナムを見ても、非常に抑圧的な社会になってしまう。そこにやっぱり軍事的な抵抗が持っている根本的な限界というものがあるのではないかと思います。
そういう問題を含めて、現代に繋がる問題として私たちは半世紀前の闘争というものが何であったのか、ということを更に議論を深めていく必要があるんじゃないかなと思います。
そういう意味で、議論していかなければいけない課題は非常にたくさんあるのではないか。できれば私たちも山﨑プロジェクトに尻を叩かれながら、何とか活動を進めていきたいと思います。ありがとうございました。

司会:佐々木幹郎
最後にもう一つ、「声なき声の会」の細田伸昭世話人からメッセージが届いております。今日は細田さんが参加できないので、福井さんに代読していただきます。
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「声なき声の会」のメッセージ代読(福井紳一)
10・8羽田闘争55周年の記念集会に参加された皆様、「声なき声の会」の世話人細田伸昭です。本日は所用があり、記念集会に参加できませんので、メッセージを送らせていただきます。
山﨑博昭プロジェクトのホームページを時々拝見しております。トップページには「ふたたび戦争を繰りかえさないために」という言葉が掲げられています。それは、山﨑博昭さんをベトナム反戦闘争に駆り立てた熱い思いだったと思います。この言葉こそ、今こそ重みを持って語らなければならないと考えます。ロシアがウクライナに軍事進攻を開始してから8ケ月、戦争は長期化し終結の気配は見えません。プーチンはあろうことかロシアの軍事的劣勢に対して、核の使用を仄めかしています。軍事的な決着が付き、一方の国が戦争に勝利したとしても、それが平和をもたらすことではないということは歴史が証明しています。ロシアや中国の動き、北朝鮮のミサイル問題を受けてのこの国の反応は、軍事力の強化、敵基地攻撃能力の獲得という風に、戦争を準備する方向へ向かおうとしています。これは短絡的で危険な発想と考えます。
唯一の被爆国を主張する日本政府が、プーチンの核発言に何の対応もしない一方で、法的根拠のないまま、閣議決定だけで安倍晋三の国葬を強行しました。国葬による安倍の神格化と戦争準備の策動は政権の目論見であったと思います。憲法の解釈変更、安保法制決定、安倍政権の遺産は国会での議論を避け、閣議で何でも決定するという立憲主義の破壊でした。「森・加計・桜問題」に見られる政権の私物化、反対する者を敵に見立てる国民の分断、菅、岸田と続く自公政権は、安倍政権と同様に立憲主義を破壊し、国民の分断を助長してきました。安倍の死をきっかけに明らかになった、自民党と統一教会の癒着関係は、自公政権がカルトに牛耳られている実態を明らかにしつつあります。こうした状況に反対の市民の声が大きくなったことで、国葬を巡る政権の目論見は大きく失敗しました。
健全な民主主義は、市民の声が無くてはなりません。歴史に学ぶ姿勢が無いといけないのです。記録や記憶を疎かにしてきた自公政権に対し、私たちは記録も記憶も大切にして対峙し、再び戦争を繰り返させないために、声を発していく必要があると思います。
本日の記念集会に引き付けて言えば、1967年10月8日に羽田で何があったのか、山﨑さんをベトナム反戦闘争に駆り立てたものは何であったのか、そうしたことをしっかりと後世に伝える活動が重要な意味を持つと考えます。山﨑博昭さんの墓碑の建立、10・8羽田闘争を記録した2冊の本、記録も記憶も大切に活動されてきた10・8山﨑博昭プロジェクトの皆さんに、改めて敬意を表します。「声なき声の会」も微弱ではありますが、安保闘争の歴史と、樺美智子さんの死を忘れない取り組みをしていきたいと思います。
本日はメッセージを送る機会をいただき感謝いたします。記念集会が盛会になりますよう祈念しております。共に頑張りましょう。
2022年10月8日
「声なき声の会」世話人 細田伸昭

●プロジェクトの会計報告と今後の活動について
司会:佐々木幹郎
ここからもう少し時間があれば、会場の皆さんとの自由討論という風に続けたいんですけれども、ここの時間がギリギリに迫っております。懇親会でそれぞれ話が出来ればと思います。
辻さん、お願いします。

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辻 恵(弁護士・大手前高校同期生)
プロジェクトの会計報告と今後の活動についてということで、時間の範囲内でご説明をさせていただきます。
山﨑基金ということで、今まで税理士さんにも入ってもらって、毎会計年度に会計の決算書を作成しています。ただ、この3年間は完成には至っていないんですけれども、今日までの間にほぼ完成できているということで、要約的になりますけれども、お伝えをしたいと思います。
2014年の3月8日から、第1期は8月31日まで。第2期は同年の9月1日から、翌2015年の8月31日までということで、今回まで9期に渡っています。2018年の10月8日まで第1ステージで、そこから第2ステージということですから、2018年の8月31日までが第5期になって、それまでの第5期までの合計、そしてそれ以降、6期、7期、8期、今年の8月31日まで9期、第2ステージが4期あります。
会費収入が第1期から第5期の5年間で16,127,864円。これは1人1万円で会費を払っていただくということで、ただ100万円単位でのカンパをしてくださった方も数人いらっしゃるというようなことです。第2ステージは4期で、1期分3千円で4期で12,000円だけれども、4期一括で払えば1万円でということにして(注:これは事実誤認。後で訂正)、4,721,727円。合わせて20,849,591円です。ですから、会費で2,084万円、多くの皆さんが本当に支えていただいたということがあります。
それ以外にイベント収入、カンパ等で、これまでの8年間で合わせて3,782,780円。記念誌の収入が第1ステージの第1巻が1,701,902円。第2ステージは第2巻を中心に1,342,108円で、合わせて3,404,010円ということです。一応、第1巻も第2巻も2,000部印刷して、1,000部をプロジェクトの側で売って、1,000部を出版社の側で販売をしたということになっていますので、トータルの売り上げで、第1巻も第2巻もあまり残っていません。是非お求めいただければと思います。
収入の合計が全部合わせると27,677,329円ということで、山﨑プロジェクトに2,767万円の財政的支えがあって、ここまでやってこられたということです。
もし疑問があれば、また報告する機会を持ちたいと思いますけれども、とりあえずそういうことで、きちっと今までやって来たということをご報告させていただきます。
これまでの会計報告について、皆さん拍手でご承認いただけますでしょうか?(拍手)
ありがとうございます。

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(記念誌『かつて10・8羽田闘争があった』)
今後の山﨑プロジェクト(の活動について)、第1ステージは2冊の記念誌を作り上げるまでということで、2018年の10月8日までやってきて、だけど私たちの当時の闘いというのは、やっぱり沖縄返還のところまでが一括りだろうということで、2022年10月8日まで第2ステージということで、関西は11月20日に集会をやって、一応第2ステージの締めくくりという風に予定しています。
その後どうするのかということは、東京の発起人会議、関西の関西運営委員会でも、それぞれ十数人が集まって毎月いろんな議論をしています。まだ具体的に「これだ」とまとまっている訳ではないんですけれども、少なくとも毎月8日の月命日に弁天橋に集まって、平和地蔵にお参りし、そして福泉寺にお参りしてその後懇談をするということを続けていますので、これは山﨑プロジェクトの一番根っこのところにある行動ですから、ずっと続けていこう、それは続けていくんだということを確認しています。
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(月命日の様子2022.11.8)
その上で、このような公開のシンポジウムを開くとか、意見交換会を開くとか、他の催し物をするとか、出版をするとか、ということについては、これから詰めていく話です。関西ではイベントは毎年やっていきたいという意見が強くて、今議論になっているのは、沖縄闘争50周年というところまで第2ステージをやってきたのに、沖縄を課題としたイベントを具体的には開催することが今まで出来ていない。そこを一つとっかかりでやっていきたいということで、勉強会をするとか講演会をやることを視野に入れて、シンポジウム、集会を来年やっていきたいと、関西では話をしています。
元々、700人の方が賛同人ということでカンパをしていただいておりますので、何とか発起人・賛同人会議ということで、皆さん方からのご意見も頂戴しながら、議論をしながら進めていくということを基本的な姿勢として、オープンにやってきたつもりなんですが、まだまだ不十分な点があったということはあります。ですから、今日お集りの方及び今日の集会に関心を持たれた方からご意見を頂戴し、場合によっては一緒に意見交換をするような場も開きながら、今後プロジェクトとして月命日はやる訳だし、ちゃんと墓碑もあるわけだし、記念誌も残っているし、ベトナムの戦争証跡博物館で永久展示という連続展示という山﨑博昭の遺影もあるわけですから、私たちの少なくとも3点は残っている訳ですから、それを基本にしながら、もっといろんな緩やかな関係も含めて広げていければいいなと思っていますので、具体的に何らかのお伝えをして、こういう会をやるから集まるということを東京の方でもやるかもしれませんし、少なくとも関西では来年必ずやると考えていますので、一応そのことが現在のプロジェクト全体の到達点というか、最大公約数の合意事項ですので、皆さんにお伝えをし、皆さんからまたいろいろご意見を頂戴できればいいなと思っています。
まだ終わっていないということで、共に頑張って進みましょう。ありがとうございます。よろしくお願いします。(拍手)

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司会:佐々木幹郎
今の話の中で一口3,000円を4口、12,000円を出してくださった方には10,000円にしたというお話がありましたけれど、それはしていません。事務局の方から話がありまして、12,000円出してくださった方には記念誌1冊をお渡ししたということです。
皆さん、どうも長い間ありがとうございました。これで今日の集会は終了します。

(最後に、11月23日のシンポジウム「私たちはいま 戦争にどう向きあえばいいのか」の案内がありました。)

(終)

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。


●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在12校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新していますが、年末年始が入るので、次回は来年1月13日(金)に更新予定です。