今回のブログは、『情況』2023年秋号(11月号)に掲載された1969年の北海道大学での闘争の記録である。北大闘争を闘った岡戸孝氏から寄稿していただいた。

【「インター」は聞こえたか―北大1969年】

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(写真  11・8 北大本部)
極北の闘い「北大闘争」
「東大・日大闘争」は聞いたことがあっても、「北大闘争」は聞いたことがない人が多いはずだ。どこの政党や党派に属さない「ノンセクト」と呼ばれた二十歳前後の学生たちが、「三派全学連」と呼ばれた学生たちと一緒に、50年以上も前に北海道大学(北大)で行った闘争だ。闘争ではなくただの揉め事だということで「北大紛争」と呼んだ人もいた。
東大闘争や日大闘争に関する本はたくさん出ていて、記録も残っているが、それ以外の大学闘争の記録は少ない。それに北大闘争は起きたのが遅かった。おそらく「全国で一番遅く起きた学園闘争」で、またこのノンセクトの学生たちは、「全国で一番ゲバルトの弱い全共闘」と呼ばれていたくらい「弱かった」。まるで「周回遅れのどん尻ランナー」言っていい。しかし、「どん尻」を走ったおかげで、先頭を走っていると見えない、とても大切なことが見えたようだ。
この「『インター』は聞こえたか」は、全国でおそらく最後になった「バリケード死守戦」で北大本部に立てこもった五人の学生の一人岡戸孝が、死ぬ前にどうしても書き残しておきたいと思い、名古屋の同人誌『象』に書いた自分史を抄出したものである。北大闘争の全共闘側の記録はあまり残っていなかったのだ。
また、文中の写真は写真集『北緯43度、荒野に火柱が』のものである。写真を撮ったのは三人の学生たち。この地方の一大学の闘争だけの写真を集めた全国でもあまり例のない写真集を自主制作した。しかしこの写真集も今はほとんど残っていない。彼らは1969年4月、入学式会場である体育館が学生たちに封鎖された時「北大でもきっと何かが始まる」と感じて、急いで借りてきたカメラで全共闘側からの写真をたくさん撮った。「写真に撮っておかないと、何もなかったことのように絶対に握り潰されてしまう」と思ったからだ。北大では当時「紛争」など絶対起きない不思議な「民主的な統治」の仕組みができていたのだ。
北大闘争はわずか七か月間の闘いのように見えた。最後は3000人の機動隊の導入によって一旦終わった。北大闘争を闘った若者たちは、今はもう七十歳をすぎた老人である。またすでに鬼籍に入った者もいる。半世紀前の若者に代わって、そのころの若者たちと同じ年齢の世代に「『インター』は聞こえたか」を贈ろうと思う。もし君たちが同じようなことに悩み、苦しむことがあった時、書かれたことと、写真に残された彼らの表情を思い出してほしい。そこにいる「若者たち」はきっと喜ぶに違いない。闘いは七ヶ月では決して終わっていなかったのだ。
(記述に出てくる政党名や組織名は50年以上前のものである。この50年間でほとんどの組織が組織方針を大きく転換し、組織名を変更、または組織そのものが消滅している場合がある。闘いの中で倒れ、傷つき、そして死んでいったあの時代のすべての若者たちと、今を懸命に生きる「若者たち」にささげる)

1969年4月10日 入学式闘争
1968年(昭和43年)4月、北大の入学式は、教養部前の体育館で厳粛に行われた。
正面の壇上には「日の丸」が掲げられており、この大きな日本国旗は、これほど規模の大きな式典に、おそらく生まれて初めて出席した若者たちを圧倒した。体育館の周辺には新入生の父兄も数多くいる。ほとんどが畏まった服装をしており、一様に誇らしげな表情である。 北大は、北海道に住む人々にとって光り輝く「最高学府」だった。

翌1969年(昭和44年)の北大入学式は「粉砕」された。
30名ほどの学生たちが、4月10日の入学式当日、早朝6時10分くらいから入学式会場である体育館を占拠し、当直者を追い出して机や椅子で封鎖してしまったのである。占拠した学生の半数以上は、一年前に北大に入学し教養部二年になったばかりの学生たちで、各クラス毎に闘争組織を作り、その連合体「クラス反戦連合」としてこの占拠闘争を行なった。
不意を突かれ大学当局は慌てた。「封鎖を解いて直ちに退去しなさい」「君たちの要求は何だ」と学長らしき人物が、入学式のために準備した大きなマイクで、体育館に立て篭る学生達に呼び掛け、話し合いを求めてきた。しかし、しばらくたって中から?さなハンドマイクでされた答えは素っ気ないものだった。
「退去は拒否する」
「我々の要求は我々の行動が示している」
当時、全国の大学や高校では入学式や卒業式が学生達の抗議活動で中止になることが頻発していた。「学問の府」と思われていた大学での研究や教育が、現実の社会で果たしている役割が根本的に問われていたのである。学問のための学問はもはや存在せず、研究や教育 の多くは大企業や国家の利益追求に寄与するためであり、大学は格差や差別の上にふんぞりかえり、教育を通してむしろそれを補強する役割を果たしている。そして、そのことを覆い隠しているのが「学問の府」という一部研究者の幻想である、という主張である。何も知らず、考えずに入学し卒業する学生に問題を提起したい、というのがこれらの活動や闘争の根底にあった。
この主張は多くの北大の学生や教職員の気持ちに寄り添っていた。 特に昨年入学した教養部二年の学生は、一年間の大学生活を通じて、 北大が教授会・職員組合・大学生協・学生自治会の「大学人」によって巧妙に「支配」され、異論が排除されているように感じていたのである。この支配を支えているのが北海道の研究・教育の頂点に君臨し、北海道における「最高学府」としての北海道(帝国)大学に所属する選ばれし者たち=「大学人」による「大学の自治」という不思議な理念だった。全学生のほぼ半数を占める道外から入学した者にとって、それまで身近ではあまり聞くことがなかった「大学人」という言葉が、北大の自治会活動家たちの中で踊っていた。
当時、北大の学生自治会は全て日本共産党の青年組織である民主青年同盟の学生達によってほぼ牛耳られていた。学生自治会は「全員加盟制」で、入学手続きでは大学の職員が、新入生から有無を言わさず授業料などと一緒に自治会費を徴収していた。 新入生には自治会と大学当局は一体のように見えた。

1969年の入学式は中止になり、新入生たちは教養部本館内で分散して堀内学長の「聞き取りにくい祝辞」を聞いた。体育館を占拠した学生たちは三時間半後、入学式の中止を確認して自ら退去したが、この占拠闘争の間、 北大三派と封鎖に加わらなかったノンセクトの学生たちは、体育館前で自治会系の学生や職員の包囲の中で集会を開き、実質的なピケットラインを張っていた。
4月10日の「入学式闘争」は、おそらく、この間しばらく、北大では誰からも発せられることがなかった、言いたくても言えなかった「異議申し立て」だった。

4日後、堀内学長は告示を出し、入学式闘争を、「頭の弱い学生たち」が「教条的な間違った革命理論」に影響されて、「学問の府」を破壊しようとした行動、と断定した。そして二週間後には「今北大では、一部の学生集団がバリケード封鎖をする動きをみせています。このような行動は大学の自治にとって危険であります。全学の教職員の団結によりかかる行動が未然に防止されるよう祈念します」という告示を出す。最後の部分は当初「全学の教職員、院生、学生の団結により、かかる行動が排除されることを祈念します」だった。実質的な「暴力学生」への一方的追放宣告が下され、北大闘争が始まった。

1969年夏 教養部バリケード封鎖と「中間総括」
北大闘争、特にその発火点となった「入学式闘争」は、北大当局と自治会系の人々にとっては許すことのできない「大学の自治」に対する「破壊活動」であったが、それ以外の北大関係者の多くは、この闘いを「教養生の未熟な行為」と受け止めていた。だが、この闘いのどこが、どのように「未熟」なのかを、闘った学生たちに直接指摘した人は数少なかった。「権威」以外の方法で、彼らに影響を与え、動かす方法をそれまでの世代はおそらくまだ誰も知らなかったのだ。「入学式闘争」を闘った彼らの多くは「権威を疑う」ことを教えられ「権威あるものでも間違っているなら従う必要はない」と信じたおそらく最初の世代だった。不思議なことに、この「入学式闘争」を反発も含めて、真正面から受け止めたのは、むしろ北大に入学したばかりの新入生たち、そして北大を目指しながら入学できなかった浪人生たちだった。
しかし、入学式闘争を契機に一気に流動化した北大学生戦線で最初に動いたのは、さまざまな「革命党派」だった。
1969年6月28日未明、大学本部や主要学部から遠く離れた教養部の建物が、60名ほどの部隊によっていきなりバリケード封鎖された。封鎖したのは赤ヘルメットの「社会主義学生同盟(社学同=『ブント』)」の部隊であった。全道から動員された北大以外の学生や高校生、浪人生、そして労働者も含まれていた。
実はこの封鎖には「背景」があった。ブントを含む革マル派以外の三派は、5月に行った本部建物のカンパニア的(象徴的)封鎖を、日本共産党およびその青年組織である民主青年同盟(『日共民青』)の 「軍事組織」に実力で解除され、「駆逐」されていたのだ。
 この本部封鎖解除に対して、クラス反戦連合が母体となって生まれた教養部闘争委員会(『C闘委』)や学部共闘会議 (『学部共闘』)は、三派の学生たちと共に、「武装」では各段の差があった日共民青の「軍事組織」と戦った。C闘委にとっては初めての本格的な「ゲバルト」だったが、無鉄砲にもその先頭で戦っていた。この戦いでは多くの負傷者が出たが、その多くはC闘委、学部共闘の側だった。北大で登場したことがなかった「盾」がこの時初めて登場した。投石も容赦がなかった。これまでのように威嚇的に投げる小石ではなく、レンガなどが顔面を狙って投げられた。
本部封鎖解除はC闘委の学生たちにも大きな衝撃を与えた。「理性的な話し合い」を拒否した五派連合は「大学に存在する必要はないし、又社会的にも抹殺される以外にない」という日共民青の姿勢は、大学当局の本音をあからさまに表現している、とあらためて確信さ せた。実際封鎖解除した屋上には、自治会系の学?たちだけでなく、明らかに大学当局者と思われる人物が並んで立っており、全共闘系の学生を見下ろしていた。そしてその横では、抗議する学生たちに石を投げ下ろす人物もいたのだ。「封鎖解除」は当局公認であり、目的は単なる封鎖の「解除」ではなく異端者の「追放」と「抹殺」なのだ。
C 闘委のノンセクトの学生たちは自治会系の封鎖解除に対してクラス討議を組織し、大差で弾劾決議をあげていった。また一体となっている大学当局への抗議をストライキ決議として表現した。ほとんど成功することがなかった教養部の学生大会が成功し、民青が牛耳る自治会執行部はリコールされた。C闘委は、問題提起型の「入学式闘争」から脱皮する手がかりが初めて生まれたと感じていた。
しかしその中でブントによる教養部の封鎖強行が一方的に行われた。党派の横暴や「引き回し」に失望し、闘いの現場から去って行く者が何人も出てきた。一方で、自治会系の意図が「追放」と「抹殺」であるなら、それと直ちに立ち向かう以外ない、躊躇はできないと考える者もいた。議論はすぐにはまとまらなかった。
一方、ブントの単独封鎖は教養部内を徐々に変え始めていた。教養部の教室や教官室が「荒れ」始めていたのだ。特に「外人部隊」の狼藉は目に余った。C闘委は何度も議論をし、「直ちに合流し、封鎖に責任を持つこと」を決定した。
C闘委は、合流した後、まず教養部の「自主管理」を始めた。また「バリケードにいる者なら誰でも参加できる自由な議論」の場を設定した。「全体会議」と言われたこの話し合いは、ほぼ毎日続いた。ブントは「全体主義会議」と揶揄し、いつも単独の秘密会議を行った。外人部隊を主力とした社学同の部隊は少しずつ減り、夏休み明けには教養部からほとんどいなくなっていく。

C闘委は夏休みに入って10日間、集中的な「理論合宿」を行なった。これまでの闘いをどう捉えて今後どこへ進むのか、真剣で生真面目な議論を行なった。そしてこれを「北大闘争中間総括」と「自主講座運動」の二冊のパンフレットにまとめた。
この二冊のパンフレットは発行された数も少なく現存していないので詳細は不明だが、レーニン が引用したゲーテ『ファウスト』一節で終わっていることは確かである。
「ねえ君、理論は灰色で、緑に萌えるのは、生命の黄金の樹だ」(レーニン)
C闘委のノンセクトの学生たちは、ここでも、自らの闘争の総括をレーニンの言葉で飾ろうとした。本当は、何も飾らず、レーニンでもゲーテでもない自ら自身の言葉で、「今ここにある問題」として語らなければならなかったのだ。C闘委もいつの間にか「マルクスレーニン主義の亡霊」を見ていた。革命を目指さない「大衆」と呼ばれることを「恐れ」、必ずしも「マルクス・レーニン主義」を完全には信じていない自分を「弱い闘争主体」と感じていたのだろうか。
この「中間総括」に対しては、一部の無党派で当局に批判的な教養部の教官たちが応えた。当局はもちろん、当局に批判的であっても、学部の教官や何らかの形で党や党派に関わっていた教官たちはほとんどこれを無視したようだ。「未熟な入学式闘争」を行なった教養部の学生たちの「未熟な言葉」で書かれた総括には興味がなかったのだろう。「東大・日大闘争に比べて質がおちる」と言い放つ教官もいたようだ。「権威」はここにも陰をおとしていた。

ヘルメットとバリ祭
北大教養部は広い大学の北端にあった。本部、農学部、理学部の重厚な建物や、文系四学部、工学部の当時としては近代的な建物とは違って、三階建ての安易な作りの校舎で、大学というより高校のそれに近い、ただ広いだけのコンクリート造りの味も素っ気もない建物だった。この教養部に全学生の半数近くが「収容」されていた。各教室だけでなく、教官たちの部屋も簡素なものだった。教養部は、北海道大学のイメージとはかけ離れた、まるで大きな予備校のような存在に見えた。実際、この教養部の成績で、移行できる学部が決定した。就職に有利な人気学部に移行するにはまた競争して「勉強」しなければならない。「大講堂」と呼ばれた体育館のような大きな教室ではまるで大手私立大学のような「マスプロ教育」が行われた。
広い教養部建物の「封鎖」を維持するには大きな「力」が必要となった。しかし夏休みに入って帰省する者が出てきたこともあって封鎖に加わる者は減ってきた。また、バリケードの維持に汲々とする活動は、これまでのC闘委の活動スタイルを大きく変えてしまった。クラス討論やクラス決議を重視し、批判はもちろん、参加するかしないかも自分で決める、かって「クラス反戦」の活動スタイルは大きく変わり、そのことに嫌気がさして、闘争から距離を置く者も出てきた。自由闊達だった「クラス反戦」は崩壊しようとしていた。教養部の入り口に作られたそれほど強固でないバリケードは、クラスという開かれた空間の中で生き生きと活動していたC闘委の活動家たちを、異なる価値観や意見ともはや出会うことのない、狭い「閉ざされた」空間に閉じ込めてしまった。
また教養部の党派の活動家にも大きな変化が出てきた。全国の学園闘争の「陰」で、凄惨な党派間、及び党派内の抗争が始まり、それは後戻りできないほど激化していたのだ。東大安田講堂の攻防戦の前後、駒場で行われていた革マル派と解放派の主導権争い「青解・革マル戦争」は、この後新左翼党派を破滅させる「内ゲバ」の凄惨さと虚しさの始まりであった。安田講堂の攻防戦という輝かしく見えた「光」の後から、深い「陰」がやってきた。

バリケードにC闘委が加わってしばらく後、理学部にたてこもる自治会系の学生たちが教養部にデモをかけてくるようになった。黄色いヘルメットを被り、角材などを持って、「ふーさ(封鎖)解除」「ふーさ(封鎖)解除」と掛け声をかけてやってきた。人数は教養部に泊まり込んでいる「防衛隊」より多く、「武装」の質もC闘委のそれを上回っていたように思えた。C闘委はバリケードを防衛する三派の活動家と共に、この封鎖解除部隊と対峙した。北大闘争に火炎瓶が登場したのはこの時からである。
バリケード封鎖が長引くにつれ、バリケードに泊まり込む者はだんだん減ってきた。北大の三派活動家に中には、北大闘争だけでなく、党派の活動そのものから離れていくものも増えてきた。C闘委はいつの間にか、これまで党派の活動家が担ってきた「政治闘争」の部分まで背負うことになった。C闘委のビラに、少しずつ「安保粉砕」というような勇ましい文字が踊り始めた。
しかし、教養部の封鎖闘争には「陰」の部分だけではない、眩しい「光」の部分があった。封鎖闘争をきっかけに様々な動きが出てくる。特に教養部に新たな「場」ができたことで、「自主講座」などのこれまでできなかった新しい動きが始まった。
またC闘委の学?たちの中に、これまでの党派の運動にないような全く新しいスタイルの動きを始めるものも出てきた。何の規制のない自由な自主学園祭は「バリ祭」と名付けられた。しかし、北大で開かれた最初の自主学園祭、「バリ祭」の資料は残されていない。
入学式闘争を闘ったノンセクトの学生たちはこの自主講座運動を中心で担った。

ノンセクトの学生たちの多くは当初ノンヘルでデモや集会に参加したが、 同じ色のヘルメットを揃えるクラス反戦が出てきた。党派の色ではない色を考えて白色の市販ヘルメットに、カラースプレーで色を塗った。主要な色は党派が使っているのでピンクとかオレンジ、トリコロー ルのヘルメットも登場した。アナキストの色とされた黒色のヘルメットも多かったが、結局使う色がなくて黒色にした場合が多かった。書かれている文字も多様だった。「反戦」が一番多かったが、「N O N」とか「叛」も多かった。いずれにしても、クラス反戦やC闘委の隊列は、いつもカラフルで「華やか」だった。クラス反戦やC闘委の隊列が「華やか」だったのにはもう一つ理由があった。党派の隊列に比べ女子学生が多かったのだ。おそらく当時の女子学生の比率(10%)と同じかそれ以上の比率だった。
C闘委のヘルメットの色はやがて黒一色になった。そして、ヘルメットは闘いの「象徴」になり、いつの間にかそれは「権威」の象徴になっていた。
批判も自由、闘争や行動に参加するかしないかも自分で決める、したがって行動のたびに参加者が変わり、人数は増えたり減ったりしたC闘委の参加メンバーは次第に固定化し、ほとんど「指導部」と言える存在がなかったC闘委に「核」になる部分が生まれたのはこの頃だった。同時にC闘委が、徐々に北大闘争の「核」にならざるを得なくなっていたことを、C闘委の誰もまだ気がついていなかった。ブントの封鎖強行以来、党派との関係も大きく変わり始めていた。気心のしれた教養部の三派活動家たちと一緒に、C闘委のメンバーがあれこれ議論しながら闘争方針を決めることはなくなり、C闘委が一つの「党派」として扱われ始めたのだ。

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(写真 「事業再開策動粉砕闘争」理学部前)
「日本で一番ゲバルトの弱い全共闘」
「夏休み」が終わり、大学当局は日共民青の「力」を後ろ盾に教養部の「授業再開」を目指した。学生自治会だけでなく院生協議会、職員組合、生協などの力と日共民青が掌握している理学部などの建物を使って、教養部の授業を再開しようとしたのだ。「単位」を餌にし、「留年」を脅しにすれば「一般学生」は授業を受けに戻ってくる。そこには「一般学生」を巻き込んで全共闘を孤立させた東大闘争での「成功体験」があった。
しかし北大では必ずしも成功したとは言えなかった。屋上に黄色いヘルメットの日共民青の防衛隊がいる建物で授業を受けようとする学生は少なかったのだ。またそれ以上に、これまでの大学当局のやり方や日共民青との癒着に、学生ばかりでなく教官たちも辟易していた。そして全共闘、C闘委の学生たちの果敢な「授業再開策動粉砕」の闘いの影響は大きかった。農学部では公開の学部長との「大衆団交」が行われ、再開授業の会場にしないことが確約された。理学部以外のその他の学部でも再開授業の受け入れをせず、ほぼ唯一残ったのは自治会系の学生たちに「占拠」され、完全にバリケードで封鎖された「砦」のような理学部だけになった。
理学部前で繰り広げられた「授業再開策動粉砕」の闘争は、北大闘争の中でも最も「暴力的」な闘いの一つになった。自治会系の学生は、これまで一般学生の前では見せることのなかった自らの「暴力性」と「革命性」を白昼堂々と開示するようになった。「大学の自治と学問の自由を守る」という大義名分だけでなく、自らの「日本革命」の展望をかけて自治会系の学生たちも高揚していたに違いない。「トロツキスト」から大学を守るという彼らの逆バリケードは、自治会系の学生たちをも非日常で異形な「閉ざされた」空間に閉じ込めてしまった。消火用のホースを使った強力な放水だけでなく、屋上からは投石器を使ったと思われるような威力のある投石が行われた。おそらくC闘委の活動家たちがゲバ棒から鉄パイプに持ち替えたのもこの時期だった。
一方で全共闘・C闘委は討論集会を頻繁に行った。不思議なことに自治会系の学生たちはそれを「批判」し、自分たちの勢力圏ではこういった「討論集会=話し合い」を陰湿に妨害した。それだけではなく、勢力圏には全共闘系の学生の「立ち入ること」さえ許さなくなった。理学部の前を通り掛かっただけで自治会系の学生に取り囲まれ、拉致されそうになったC闘委の活動家もいた。頻繁に行われる討論集会の一方で、虚しい「陣取り合戦」が行れた。8月17日には文系4学部が封鎖され、北大は全共闘と日共民青のどちらかの「占領地」のようになっていった。機動隊導入前の東大がそうであったように、全国の学園闘争、そして北大闘争は、殺気に包まれ、荒み始めていた。
9月25日、医学部でも民青の自治会執行部がリコールされ、医学部の一年生(M一)は無期限のバリケードストに入った。5月24日国会に上程されたいわゆる「大学立法」は自治会系の学生たちは最も大きな政治的課題としていたが、全共闘やC闘委にはそういった一つ一つの政策をめぐる具体的な政治的課題に目を向ける「余裕」はなくなっていた。三派などの党派は秋の闘いを「政治決戦」と位置づけ、「10・21闘争」目前の目標とする「70年安保闘争」の大きな波のようなうねりにC闘委は飲み込まれようとしていた。日共民青と並ぶ北大学生運動の一方の主人公、革マル派もこの時期 「全学闘」を結成し「北?闘争」に本格的に「参加」する宣言を行った。革マル派は大学本部の近くにある大学図書館を単独で占拠していた。夏休みが明けると同時に、北大学生運動の全ての「役者」が揃い、「北大闘争」は何処かに向かって一気に動き出した。

この頃からだろうか、北大全共闘は「全国で一番ゲバルトの弱い全共闘」と言われ始めていた。確かに、頑丈な建物に向かって届きもしない投石をし、圧倒的な放水の中、脅しにもならない火炎瓶を投げ、畳を担いで、投石の雨の中を無謀なデモをするような全共闘はいなかったに違いない。暴力の本質は相手を殲滅するか屈服させることなのだ。自らの組織のため、運動のヘゲモニーを握るためには手段を問わない「革命党派の本物の暴力」にC闘委は無自覚に対峙していた。

1969年10月21日 「大衆叛乱」のまぼろし
東大・日大闘争から始まった全国の学園闘争は徐々に、そして確実に終焉を迎えようとしていたようだ。秋の「政治決戦」を前に「敗北」の雰囲気が全国の学園闘争を覆った。それを振り払おうと9月「全国全共闘連合」が結成され、その結成集会が全国規模で行われたが、北大から集会に参加したのは党派の活動家が中心で、C闘委などのノンセクトは少なかった。そして、参加した数少ないC闘委の活動家たちは、この集会で高揚感をではなく、重苦しい焦燥感や重圧感を感じて帰ってきた。北大全共闘は10月になってやっと正式に結成された。そもそも「全国全共闘連合」の結成に合わせて、党派の主導で急遽作られた「全共闘」だった。臍の緒を首に巻いて生まれた赤子のように、北大全共闘は生まれながらに窒息しようとしていた。
闘いや運動を「窒息」させようとしたものは、当局の陰謀や排除だけでなかった。三派を含む「革命党派」のほとんどは、どのような闘いにも「正しい理論」に基づく「正しい方針」、そして何よりも間違いを犯しそうな「大衆」を「指導」し、大衆運動を支える強固な「組織」が必要不可欠だとしてきた。当然「指導」する者は理論や方針を決して間違ってはならない。それはいつの間にか、間違いを犯す者は真の「指導者」ではないということになり、それぞれ内と外で理論や方針の「誤り」や「違い」を見つけ出すことに汲々とし始める。「正しさ」を競い始めるのだ。相互の批判は際限なくエスカレートしていく。北大の革マル派も、これまでしばらく抑えていたノンセクト・C闘委に対する「批判」と「介入」を本格的に開始する。
クラス反戦がほぼ単独で行った体育館占拠から始まった北大闘争は、今ひとつの到達点を迎えようとしていた。それは「外」に向かうだけでなく、もう一方で自らの「内」に向かっていった。それぞれが何らかの決断を迫られていた。様々な言葉や文章が、棘のようにそれぞれの胸に刺さっていった。
新左翼と呼ばれた政治党派のほとんどは69年秋を「決戦」と位置付けていた。党派の活動家は「決戦」に向けて命懸けの戦いを組織から求められ、又それを「大衆」にも求めた。自他に命懸けの戦いを求める異様な「空気」が外からも内からも、北大闘争と全共闘・C闘委を覆い始めていた。

札幌における「10・21闘争」は全国的にも特筆される大規模な街頭闘争になった。中心部の大通り公園で3,000名の集会を行った後デモで北大に戻り、夕方から再び中心部に向かって「武装」デモを開始した。北大から札幌中心部に向かうためには札幌駅横の陸橋を超えなければならなかったが、陸橋上に阻止線が張られた。この機動隊の阻止線を突破しなければ中心部に向かうことはできない。
北大全共闘の部隊はこの街頭闘争の中核を担った。C闘委・学部共闘のノンセクトの活動家だけでなく、浪人共闘や他大学のノンセクト学生が加わり、党派に匹敵するかそれを超える数の部隊だった。数多くの逮捕者だけでなく、多くの怪我人を出し、陸橋上の阻?線を突破しようとした市街戦は深夜を超え明け方まで続いた。
北大全共闘の多くの活動家たちは、10・21に「カルチェラタン」のまぼろしを見たのかもしれない。確かに、あの日の機動隊は、催涙弾を打ち尽くし、疲れ果てた様子で早朝引き揚げた。100人近くの逮捕者を出した闘いだったが、正門前には一瞬だけ「解放区(カルチェラタン)」が生まれ、何よりも我々の本部バリケードは「大衆の叛乱」によって守られた。またもや北大に過去の亡霊があらわれたのだ。「亡霊」たちは「カルチェラタン」というまぼろしをも見せた。北大闘争の「最後の砦」本部バリケードを守るために「カルチェラタン」を再び出現させなければならない。そのためにそれぞれができる限りのことをするのだ。「亡霊」は一人一人に、呪文のような問いかけをしていた。
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(写真 「日本で一番強固なバリケード」本部前)

「10・21」以降、本部バリケードを強化する作業が再び突貫工事で行われ始めた。誰かが計画し、指示するのではなく、それぞれが思いつく限り、できるだけのことをした。本部正面のバリケードは部共闘の学生がコンクリートで固めた。土が必要で掘られた穴は、いつの間にか本部正面を守る深い塹壕になり、塹壕の前にもバリケードが作られた。一階から屋上までの階段のバリケードは思い思いに手が加えられ、さらに強化された。階段バリケードに機動隊が簡単に解除できない細工をしたという仲間もいた。本部のバリケードは「日本で一番ゲバルトの弱い全共闘」の様々な「想い」が込められ、おそらく「日本で一番強固なバリケード」になった。
本部前にある大きな樹を切り倒そうとした仲間もいたが、それはみなに止められた。たしかに、大学当局にあっても本部前の古木に「罪」はない。
この時「カルチェラタン」を再び作り出そうとする動きも始まっていたようだ。「本部決死隊」に決まっていた者たちには、おそらく「これ以上負担をかけない」という配慮からだろう、これらの計画はほとんど知らされていなかった。「必ず連帯の闘いをするから屋上から見ていてくれ」、まだ高いビルが少ないこの頃、本部の屋上からは札幌のテレビ塔が見えた。

1969年11月8日「インター」は聞こえたか
入学式から7ヶ月後の1969年11月8日、北大に3000人の機動隊が導入され、本部に立てこもって抵抗した五名の学生が逮捕された。
機動隊の導入と本部及び各学部のバリケード解除によって、北大闘争は程なく終焉するだろう、と北大の大多数の学生や教職員は思った。確かに、バリケードが解除され、北大から「暴力学生」が排除され、授業が再開されれば、かつての秩序が戻るのかも知れない。「全大学人」の団結によって、「学問の府」「学術の最高峰」は守られ、「北大の権威」は戻るのだろう。しかし、少なくともそれは「今ではない」、本部で闘っていた学生たちと、その戦いと連帯して闘おうとした全共闘の学生は思った。なぜなら、「我々はまだ、今闘っている」からだ。
早朝始まった11月8日の攻防は昼までに終わらず、本部のバリケードは機動隊に突破されていなかった。内部に厳重に積み重ねられていたバリケードからは黒煙と紅蓮の炎が出ていた。
北大闘争は終焉するのか、それはいつなのか、この時それがわかっていた者はいなかった。又わかろうとした者も数少なかった。

北大封鎖解除の記事は、地元の『北海道新聞』夕刊に五面にわたって掲載された。地元の新聞だけあって、当日の攻防については「市街戦」を含めて詳しく報道されている。本部にたてこもる5人を守るために、北大全共闘とC闘委は力をふりしぼって、できる限りの規模の「市街戦」を闘った。
広く知られているように、こうした「公安事件」の報道内容は概ね警察が流す警察発表によっている。「北海道新聞」だけでなく「毎日新聞」など各全国紙も、当日の夕刊に11月8日の北大封鎖解除の詳細な内部状況をほぼ同じ内容で掲載した。どうやら、警察には既に詳細に描かれた「解除のストーリー」があったようだ。内部にいた者にしかわからないその詳細な状況を、各紙は警察発表の「ストーリー」通り記事にしたと思われる。
もちろん、五人の学生たちは、新聞が本部闘争を新聞がどのように報道するかなど知る由もなかった。本部闘争の状況、本部建物から出火した時の状況は、新聞記事とは全く異なっていたが、それを知っているのは、逮捕されバラバラに分断された五人の学生たちだけだった。

<逃げながら市街戦 学生道路にバリ築き抵抗>
放水車、装甲車を先頭に、押し寄せる機動隊。学生たちは投石で立ち向かったが、圧倒的な“戦力”の前に、たちまち本部前に追い詰められ、さらに門外へー。そして落ちのびた先々で市街戦騒ぎを繰り広げ、執ような抵抗を続けた。
機動隊の主力は、クラーク会館横と南門、北門の三ヶ所から、北大構内に突入した。南門での投石、放水の激しい攻防も一時間半。突破口を開いた機動隊は、一挙に学生たちを追い散らし、大学本部前でデモ、投石で抵抗した一隊とともに、正門の西五丁目電車通りにしめ出した。
ここでまず最初の“市街戦“。門外に出た警官隊に、北九条、西五丁目北の二方向から、罵声と投石の雨を浴びせ、一進一退を繰り返し、乗り入れたパトカーを転覆させるなどひとしきりあばれ回った。そのたびに、歩道を埋めつくした見物人たちが大きな声をあげる。しかし、次々と新手を繰り出す機動隊の猛攻に、八時すぎに西四丁目以東まで後退、中には観衆の中に逃げ込む学生もいた。
電車通りを北に追われた北大ベ平連などの学生は、途中、ゴミ箱などで道路にバリケードを築き、機動隊の急襲を食い止めながら、午前十時前、北一三~一四条付近、北大病院前交差点で、構内から次々出ては波状デモ。一隊が引き揚げると、学生たちが一斉に『機動隊粉砕』のシュプレヒコール。

<投石、火炎びんの雨 機動隊 窓ぶち抜く放水>
封鎖派学生の拠点となった大学本部での衝突が、この日の最大の攻防戦となった。
放水車を先頭にした機動隊が南門入り口に到着したのは午前六時ちょっと前。門内側のバリケードのかげから投石で抵抗する学生たちに放水で応酬。やがて教養部の解除を終えた機動隊も学生の背後から攻め立てて、正門から西五丁目の電車通りに追い散らし、どっとなだれ込んだ機動隊員約六百人が、本部をぐるりと取り囲んだ。
しかし、午前六時半すぎ本部の周囲にめぐらせた古材や切り倒した木の枝に火が放たれ、それが一~二メートルの炎をあげて、まるで“火炎バリケード”。それに加え、電車通りに出た学生らが、投石の援護作戦に出て、すぐ排除作業にかかることができない。
午前七時五十分、警察の装甲車に乗った北大の吉田事務局長(学長代理)が『封鎖中の学生諸君、すぐ退去しなさい』とマイクでしぼるような声。しかし、屋上や周囲からの投石、火炎びんに放水の応酬で、一時間以上にもわたって一進一退を続けた。
午前九時四十分過ぎ、三台の放水車が一斉に水柱を吹き上げ、本部の窓が『バリバリ』とくだける。鉄板を組んだヤグラに十数人の機動隊員がはいり、建物に向かって一歩一歩前進する。屋上から間断なく火焔びんが投げ落とされ、『バーン』というさく裂音とともに燃えあがる。屋上の学生めがけて放水という激しい攻防戦の末、十時半すぎ、本部北側に待機していた機動隊員五人が、裏側の一階窓ガラスを打ち破ると、建物内部にはいり込んだ。
『ウラをかかれた』と学生がひるむすきに、正面の窓からも機動隊員がどっとなだれ込み、直ちに排除にかかったが、屋上への侵入を防ぐため学生が三階のバリケードに重油をかけて火をつけ、それが黒煙を吹き上げて燃え続けるなど、学生の抵抗は最後まで続いた。
(『北海道新聞』1969年11月8日第八版 夕刊)

本部の三階から炎と黒煙が吹き上がった後、学生たちは屋上で肩を組んでインターを歌った。それは「北大」に向けたものではなかった。全く正反対にある「市街」に向かって、何よりもテレビ塔に向かって、インターを歌った。このインターは、それぞれ自分にとって大切な何かを賭けて闘った仲間たちに向けられたものだった。テレビ塔の方向からやはり火柱は見えなかったが、炎は仲間たちそれぞれの「内」に灯った。それこそが「まぼろし」ではない、本物の「炎」だった。
(終)

「インターは聞こえたか」は岡戸孝の個人史『記憶を紡ぐ』(同人誌『象』連載中)の「第一章」を、著者自身が抜粋し若干の加筆を行ったものである。また「はじめに」は現在進められている「北大闘争記録プロジェクト」編集委員会の呼びかけ文の一部を引用させていただいた。

【『極北の全共闘-あの時代と私たちの55年』制作カンパのお願い!!】

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50年以上前の1960年代後半、日本中で若者による闘いが巻き起こり、「極北の地」札幌で始まった北海道大学での闘争(北大闘争)は、全国学園闘争のおそらく「最後のランナー」になりました。主に19歳、20歳の教養部の学生たちを主力として、学部生・院生・助手たちが、それまで北大を全国に誇る拠点として維持してきた日本学生運動の二つの潮流に「反逆」し、神経を逆撫するような実力闘争を行なったのです。しかしこの闘いは、1969年11月、大学当局が警察の力を借りてこの学生たちを学外へ追放することで一旦終わりました。
この闘いの中で傷つき倒れた者は多かったのですが、お互いが傷つけ合い殺し合うような「内ゲバ」をすることは決してありませんでした。機動隊の導入に備えて皆で力を合わせて作った大学本部のバリケードは、おそらく「日本で一番強固なバリケード」になりました。3000人の機動隊でもバリケードは撤去できず、本部の周辺で一緒に闘った多くの人々と共に、立てこもった5人の学生たちを最後まで守ってくれました。
北大闘争はその後、本部のバリケードに立てこもって逮捕された学生たちの「裁判闘争」に引き継がれました。この裁判闘争もとてもユニークでした。権力が最も成立させたかった「現住建造物放火罪」への反証はほとんどせず、北大教官であった特別弁護人とともに北大闘争の「正統性」をあくまで主張し続けました。証人として呼ばれやむなく証言した学長は、被告たちの追及に全く反論できず、裁判長から「まともに答えなさい」と注意される有様だったのです。少なくとも裁判の場では「民主的」北大学長と北大当局は完全に敗北しました。
このユニークな北大闘争の記録と記憶を残したい、それがこの本の第一の刊行目的です。北大闘争の記録、特に全共闘側の記録はほとんど残されていません。
この本には写真集『北緯43度 荒野に火柱が』の写真がほとんど収録される予定です。この写真を撮ったのは当時の3人の若者たち。彼らはこの年の4月、入学式会場である体育館が学生たちに封鎖された時「北大でもきっと何かが始まる」と感じて、急いで借りてきたカメラで全共闘側から闘いの写真をたくさん撮ったのです。「写真に撮って記録しておかないと、何もなかったことのように絶対に握り潰されてしまう」と思ったからですが、この写真集は、国立国会図書館や米国議会図書館にデジタル化され残っているとはいえ、ほとんど現存していません。
もう一つ刊行の第二の、そして最も重要な目的があります。それは、若い世代に、この闘いの「続き」を伝え、その中でわかった「大切なこと」をつないでいきたいということです。
当時の学園闘争を、単に「日共系と反日共系学生の争い」「内ゲバで自滅した未熟な革命運動」としてだけ後世に伝えられるのは大変「危険」なことだと思います。この闘いのことを知らないまま、若者が新たな闘いに挑み、いつの間にか時代の波に飲まれてしまう事態はなんとしても避けたいのです。
あの時代の若者たちが光り輝く夢を持ち、その夢を必死に追い、困難な中でも夢を見続けようと闘ったことを、そして、今なお夢を追い続けている者がいることを、現在の若者たちに伝えたいと思います。人々が諦めず、それぞれの夢を見続け、追い続ければ、「権威」や「力」による支配から解放された、人間と人間、人間と自然の多様な関係を基礎にした、真に豊かな社会の誕生という本当の「夢」が叶うに違いないと信じています。
この本がそんな夢を叶えるために少しでも役立つことを願って、私たちは今本の制作に全力をあげています。多くの皆さんのご協力をぜひお願いいたします。
『極北の全共闘』編集委員会 

『極北の全共闘-あの時代と私たちの55年』
 目 次
「北大全共闘の軌跡」
写真集『北緯43度 荒野に火柱が』
北大1969年
「インターは聞こえたか 北大1969年」
北大闘争はいつ終わったのか
資料:「北大闘争年表」
「本部裁判とその後」
本部裁判闘争をめぐって
資料:「判決」「最終陳述」「北大裁判年表」
「かつて若者だった私たちはこう生きてきた」
全共闘とは何だったのか
写真集『闘いは続いていた 11・8本部闘争の後から』
北大全共闘 それぞれの闘い
炎は広がった 他大学・高校での闘い
伊達闘争
北大闘争のオマージュ
(2024年6月出版予定 A5版 400ページ程度)

●カンパについて
1 一口 5000円(何口でも結構です)
2 発行された時に本書を一冊送ります。
3 カンパの送り先は以下のところです。
★三菱UFJ銀行 丸の内支店 店番002
口座番号 0003452
名義 高野博三
4 本の送り先(住所・氏名)をメールでお知らせください。
★takano194902@gmail.com

【『パレスチナ解放闘争史』の紹介】
重信房子さんの新刊本です!
『パレスチナ解放闘争史』(作品社)2024年2月緊急出版予定!
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【『はたちの時代』の紹介】
重信房子さんの新刊本です。絶賛発売中!
『はたちの時代』(太田出版) 2023年6月16日刊行
はたちの時代

前半は66年から68年までの明大学費闘争を中心とした時期のこと(この部分は私のブログに「1960年代と私」というタイトルで掲載したものです)。
後半は69年から72年までの赤軍派の時期のことが書かれています。
定価 2,860円(税込

本のアマゾンリンクはこちらになります。

「模索舎」のリンクはこちらです。

江刺昭子さんによる本の書評(紹介)です。(47ニュースより)

「あとはき」より
『ここに書かれた記録は、ごく日常的な私自身の身の回りで起こったことを率直に書き記したものです。その分、他の人が書けば全く違った関心角度から違った物語がこの時代のエピソードとして描かれることでしょう。私は獄に在って、何度か癌の手術を繰り返していました。生きて出られないことがあっても、支えてくれる旧友や、見ず知らずの方々にお礼を込めて、私の生き方、どんなふうに生きてきたのかを記録しておきたいと思ったのが、この記録の始まりです。私がどのように育ち、学生運動に関わり、パレスチナ解放闘争に参加しどう生きて来たのか、マスメデイアでステレオタイプに作り上げられた私ではなく、生身の私の思いや実情を説明しておきたくて当時を振り返りつつ記して来ました。獄中と言うのは、集中して文章を書くのに良いところで、ペンをとって自分と向き合うと過去を素直に見つめることが出来ます。楽しかった活動や誇りたいと思う良かった事も、間違いや恥かしい事や苦しかったことも、等しく価値ある人生であり私の財産だと教えられた気がします。(中略)どんなふうに戦い、どんな思いをもって力を尽くし、そして破れたのか、当時の何万という「世の中を良くしたい」と願った変革者の一人として、当時の何万と居た友人たちへの報告として読んでもらえたら嬉しいです。また当時を若い人にも知ってほしいし、この書がきっかけになって身近に実は居る祖父や祖母たちから「石のひとつやふたつ投げたんだよ」と語ってもらい、当時を聴きながら社会を知り変えるきっかけになれば、そんな嬉しいことはありません。
いまの日本は明らかに新しい戦争の道を進んでいます。いつの間にか日本は、核と戦争の最前線を担わされています。そんな日本を変えていきたいと思っています。決して戦争をしない、させない日本の未来をなお訴え続けねばと思っています。なぜなら日本政府が不戦と非戦の国是を貫くならば日本の憲法には戦争を押しとどめる力があるからです。はたちの時代の初心を忘れず日本を良い国にしたい。老若男女がこぞって反戦を訴え支える日本政府を実現したいと思います。』

目次
第一部 はたちの時代 
第一章 はたちの時代の前史
1 私のうまれてきた時代/2 就職するということ 1964年―18歳/3 新入社員、大学をめざす
第二章 1965年 大学に入学した
1 1965年という時代の熱気/2 他人のための正義に共感/3 マロニエ通り
第三章 大学生活をたのしむ
1 創作活動の夢/2 弁論をやってみる/3 婚約/4 デモに行く/5 初めての学生大会/6 研連執行部として

第二部 明治大学学費値上げ反対闘争
第四章 学費値上げと学生たち
1 当時の牧歌的な学生運動/2 戦後民主主義を体現していた自治会運動/3 話し合いの「七・二協定」/4 田口富久治教授の嘲笑   
第五章 自治会をめぐる攻防
1 スト権確立とバリケード――昼間部の闘い/2 Ⅱ部(夜間部)秋の闘いへ/3多数派工作に奔走する/4 議事を進行する/5 日共執行部案否決 対案採択
第六章 大学当局との対決へ 
1 バリケードの中の自治/2 大学当局との激論/3 学費値上げ正式決定/4 収拾のための裏面工作/5 対立から妥結への模索/6 最後の交渉と機動隊導入  
第七章 不本意な幕切れを乗り越えて
1 覚書―二・二協定の真相/2 覚え書き(二・二協定)をめぐる学生たちの動き

第三部 実力闘争の時代
第八章 社学同参加と現代思想研究会
1―1967年 一 私が触れた学生運動の時代/2 全学連再建と明大「二・二協定」/3 明大学費闘争から再生へ 
第九章 社学同への加盟
1 社学同加盟と現代思想研究会/2 現思研としての活動を始める/3 67年春、福島県議選の応援/4 今も憲法を問う砂川闘争/5 あれこれの学内党派対立/6 駿河台の文化活動
第十章 激動の戦線
1 角材を先頭に突撃/2 10・8闘争の衝撃/3 三里塚闘争への参加/4 68年 5月革命にふるえる/5 初めての神田カルチェラタン闘争―1968年6月/6 68年国際反戦集会の感動 

第四部 赤軍派の時代 
第十一章 赤軍派への参加と「七・六事件」
1 激しかったあの時代/2 1969九年の政治状況/3 4・28縄闘争/4 赤軍フラクション参加への道/5 藤本さんが拉致された、不思議な事件/6 7月5日までのこと/7 69年7月6日の事件/8 乱闘―7月6日の逆襲/9 過ちからの出発
第十二章 共産主義者同盟赤軍派結成 
1 女で上等!/2 関西への退却/3 塩見さんらの拉致からの脱走/4 共産同赤軍派結成へ
第十三章 赤軍派の登場と戦い
1 葛飾公会堂を訪れた女/2 「大阪戦争」/3 「東京戦争」/4 弾圧の強化の中で/5 支えてくれた人々/6 前段階蜂起と組織再編/7 大敗北―大菩薩峠事件/8 初めての逮捕――党派をこえた女たちの連帯
第十四章 国際根拠地建設へ
1 前段階蜂起失敗のあと/2 よど号ハイジャック作戦/3 ハイジャック闘争と日本委員会/4 深まる弾圧――再逮捕/5 思索の中で

第五部 パレスチナ連帯と赤軍派との乖離(かいり)の中で
第十五章 パレスチナ連帯の夢
1 国際根拠地パレスチナへ/2 赤軍派指導部の崩壊/3 森恒夫さん指導下の赤軍派/4 パレスチナへの道
第十六章 パレスチナから見つめる
1 ベイルートについた私たち/2 統一赤軍結成/3 アラブの私たちー―赤軍派との決別/4 新党結成の破産/5 アラブから連合赤軍事件を見つめて/6 連合赤軍の最後とアラブの私たち/7 新たな変革の道を求めて

【お知らせ その1】
「続・全共闘白書」サイトで読む「知られざる学園闘争」
●1968-69全国学園闘争アーカイブス
このページでは、当時の全国学園闘争に関するブログ記事を掲載しています。
大学だけでなく高校闘争の記事もありますのでご覧ください。
現在17大学9高校の記事を掲載しています。

http://zenkyoutou.com/yajiuma.html

●学園闘争 記録されるべき記憶/知られざる記録
このペ-ジでは、「続・全共闘白書」のアンケートに協力いただいた方などから寄せられた投稿や資料を掲載しています。
「知られざる闘争」の記録です。
現在16校の投稿と資料を掲載しています。


【お知らせ その2】
ブログは概ね2~3週間で更新しています。
次回は来年1月26日(金)に更新予定です。