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全国学園闘争の記録シリーズ。今回は大阪市立大学である。
大阪市立大学は大学のサイトによると『大阪市立大学は、1880年の大阪商業講習所設立に始まり、日本で初めて市立の大学として発足した旧制の大阪商科大学を経て、今日まで続く長い歴史と伝統を持つ公立大学です。公立では数少ない総合大学であり、高い水準の多様な学問研究を基盤とする研究大学として歩むとともに、「理論と実際との有機的な連結を重視する学風」や市井の精神に発した自主独立・自由進取の気風を重んじて、大阪の発展や日本と世界の未来を担う人間を長年育成してきました。』とのことである。
大学のサイトを見ても、1968年から1969年にかけての大学闘争のことには全く触れられていない。歴史から抹殺されようとしている個別大学闘争の記録を残してくのが、このブログの使命でもある。
では、当時の新聞や雑誌の記事から、大阪市大闘争の様子を見てみよう。

東大全共闘機関紙「進撃」1969.3.10
【運動貫く拒否の思想 医学部問題が発端】

昨年10月、大阪市立大学医学部は三項目要求を掲げて闘争を開始し、2月14日本部封鎖を大衆的に決行し、入試阻止闘争に向かおうとしている。
医学部の三項目要求は次のとおり
1. 講座制=教授会独裁体制解体
2.教授会の公開性、枠の拡大を実施し学生、青医連、大学院生の対等参加を認めよ。
3.教授、教員選考の際、全構成層の参加を認めよ。
このような医学部の闘いの前に、大阪市当局、学校=当局は一度は屈し「医学部民主化委綱領」を締結した。
この「医学部民主化綱領」は、大学の自治=教授会の自治に対する批判、製薬資本の大学運営への介入拒否、無給医、差額ベット等国家の医療行政への批判を骨子としたものである。
しかしながら市大医学部教授会は、一度は「医学部民主化綱領」を締結したものの、この決定を二転三転させるというハレンチな挙に出、実質的にこの「綱領」の空洞化を図ろうとした。
このような医学部教授会の無責任、無方針の背景には、市大内の阪大閥と京大閥の派閥抗争があるといわれている。
闘争以前、医学部主流派は完全に京大閥に掌握されていたが、反主流派を形成する阪大閥は学生の運動を有効に利用しつつ、学生の要求を大幅に受け入れ、当時の医学部執行部(京大閥)に大打撃を与えた。これに対する京大閥からの巻き返し、阪大閥の反撃などの力関係から、その後の医学部教授会のジグザグ路線が展開され、その無責任性が明らかにされたもの。
これに対し学生の運動は「拒否権」の思想を軸に展開されている。この「拒否権」とは単に大学=当局が打ち出してくる学生管理案を拒否するという制度的な意味を持つだけでなく、学生自身が自らの存在基盤を問い直し、自らの学生存在をも拒否していく権利を保有するといった論理を含んだものである。
市大のある指導者が語っていたように、この「拒否」の思想を持ってはじめて自立的な自己統合集団としての学生運動も形成されるだろう。
現在、大阪市立大学では入試阻止を政治焦点として、この「拒否」の思想を軸に大衆的な運動が形成されつつある。」

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朝日ジャーナル 1969.9.21(引用)
【苦悩する個別学園闘争 関西から】
東大の原型を残し 大阪市大

機動隊がいつ入っても、もう不思議はないといわれているのが大阪市大です。昨年11月、医学部ではじまった大阪市大の闘争は、その後他学部にも飛火し、教養部三号館、経済研究所、病院西館(部分)など現在かなりの建物が封鎖されています。もっとも、基本的には依然として医学部闘争、病院闘争の色彩が濃厚です。
 附属病院のベット数1,100というのは大学病院では西日本随一、全国でも慶應病院についで二番目ということです。ところが教授は学外に“逃亡”して姿を見せず、助教授以下の全教官層で構成している教員会は無期限当日直拒否(実際は他に入院患者の診察にあたるものがいないので、部分的にしかおこなわれない)、院生、無給医はことしの2月から診療拒否の無期限ストといったぐあいで、現在入院患者は約300、さしもの大病院も閑古鳥が鳴くような状況です。学生はもちろん1月末からストに入っています。教授会に対して、学生から助教授にいたるまで総スカンという例は、おそらく全国でも、この医学部以外にちょっと例がないでしょう。
もとはといえば、昨年11月、医学部教授会が、学生、大学院生、無給医、青医連で構成している医学部民主化共闘会議(現在は“民主化”をとってしまって、単に医共闘と呼んでいる)との間に到底実行できる自信もなかった改革案―民主化基本綱領を認めてしまったからです。
その内容は①全教員で構成する最高決定機関で学部を管理運営、学生はこの機関に発言権のあるオブザーバーとして参加、公開とする、②同機関に提案する議案は学生、青医連などの諸自治機関で合意したものに限る、③拡大教授会の決定に対し、自治機関の一つでも拒否すればその決定は白紙に戻し、合意に達するまで協議する、というもので“学生参加”の点から見れば、これほど徹底した綱領はないでしょう。要するに学生たちがノーと言えば、何ひとつ実行できない仕組みになっているわけです。
医学部教員会も、この綱領は絶対拒否権の思想や大学解体論の立場をとるものではない、運動戦術論はお互いの立場を尊重するなど4つの付帯事項として認めた上で綱領全文を支持することを決めました。
理工系を除く他の学部は早くから拡大教授会に助手を含むなど民主化が進んでおり、大阪市大全体としても機構の民主制を標榜してきました。その中で最も遅れていたのが医学部だといわれていたのですが、そこに民主化運動が起こっただけによけい激烈な形をとってあらわれたともいえるでしょう。
ところで協議会(他大学の評議会にあたる)の基本綱領に対する態度は微妙で、学生の拒否権を全学的なものとして認めるわけにはいかないが、医学部教授会が学生と約束したことについては、信義の問題として守るべきだというのです。
だが、医学部教授会はその後、基本綱領を実施する努力はみせず、これが学生たちや教員会の目に背信行為とうつり、「あきれはててものがいえない」とあいそをつかされ、全員総辞職の不信任をつきつけられて、学外に“逃亡”せざるをえなくなったのです。
大阪市大はもちろん、大学措置法による“重症校”にはいっています。大学当局が措置法の指定をうけたくなかったら、まず教授会が学内に戻ることが先決で、そのうわさも強く流れているのですが、いまの状況からみたら、それは機動隊に守られてのご帰館以外にちょっと手がないでしょう。
医共闘の学生も、長期のストでさすがに疲労の色はかくせませんが、それでも主な活動家たちはストが解除されても、闘争委員会方式(全共闘方式)をとっても闘うとがんばっています。市大にもプロ学同、社学同、ノンセクトなどの活動家が集まった大阪市大全共闘はありますが、自治会組織にのっかっている医共闘はいちおう別組織になっています。医共闘には構改派の小セクト統一共産同系の学生が少数いるほかは、セクトらしいセクトがいないといわれていますが、にもかかわらず、これだけ長期の闘争を持ちこたえています。これは、昨年末までのセクトを乗越えて闘ってきた東大闘争の原型が残っている珍しい例といえるでしょう。」
大阪市大にも、ついに機動隊が導入された。その時の新聞記事である。
毎日新聞がその時の様子をよく伝えている。

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毎日新聞 1969年10月4日(引用)
【大阪市大も機動隊導入 時計塔を水攻め】 

<ろう城学生 火炎ビンで抵抗>
全国の公立大学で唯一の“紛争重症校”大阪市立大学は4日朝、大阪市住吉区杉本町の本部キャンパスに機動隊を導入、9月30日早朝の医学部の封鎖解除につづいて全学バリケード封鎖解除に乗り出した。
前年秋以来、医学部民主化をきっかけに泥沼紛争で、あくまで“話合い解決”を主張し続けた渡瀬譲学長も大阪市議会の激しい突き上げや大阪府警の赤軍派(社学同関西派)の手入れなど大学内外の諸情勢に抗しきれず、3日午後全共闘側に“最後通告”を出し、警察力による封鎖解除に踏み切った。しかし、一部学生は徹底抗戦を叫んで同キャンパス本部時計塔に“ろう城”、火炎ビンで激しく抵抗し〝京大時計塔抗戦”につづいて“大学の象徴”時計塔をめぐり警官隊との攻防が繰り広げられた。
学長は4日午前8時半、杉本町キャンパスを封鎖している反日共系学生に対し退去命令を出し、大学側の要請で待機していた大阪府警機動隊員ら600人が学内に入り、本館、工学部、教養部などの封鎖を次々に解除した。
これに対し学生ら数人が赤旗、黒旗を掲げ本館時計塔屋上にたてこもり、火炎ビンを投げて抵抗した。このため時計塔真下に積み上げたイス、机のバリケードが黒煙をあげて激しく燃えあがり、また工学部正門玄関付近で機動隊導入に反対する一般学生、教職員ら約150人がすわり込みやジグザグデモを繰り返した。
学生の“時計塔ろう城”作戦に対し大阪府警は威力の大きい高圧放水車、ヘリコプターまで繰出したが、学生らは屋上に防水テントを張りめぐらし、放水車からの“水攻め”に備え、テントのすき間から火炎ビンや石を間段なく投げつけた。本館入口から屋上に通ずる高さ約25メートルの狭い通路には、イス、ロッカーのバリケードが積まれ、簡単に排除できず手間取り、キャンパスは警官隊の波と火炎ビンの炎、放水、黒煙、ヘリコプターの騒音に包まれた。
大阪府警は“ろう城”学生に殺人未遂、放火、傷害などの容疑で全員逮捕の方針を固めたが、コンクリートで流し込んだ堅固なバリケードに手を焼き、解除に手間どった。
大学側は同日から12日まで教職員以外の立ち入りを禁止、授業も行わないことを決め、また午後6時から午前7時までの夜間は一切学内立ち入りを禁止した。
<ノンセクトが“徹底抗戦”>
この日8時、大学側が「秩序回復のため退去を求めます」と呼びかけたとたん、本館屋上からガソリンのはいったカンと火炎ビンが投げおろされ、本館玄関の屋根に積まれた机やイスが燃え出した。しかし、約10分後、機動隊の放水車が火を消し止めると同時に本館南側の講堂から機動隊がドアをつき破って館内になだれ込んだ。
時計塔内には5人のノンセクト学生が“徹底抗戦”を叫んでたてこもった。「もう、ろう城する目的がない」と徹底抗戦戦術をとらなかった全共闘内部のプロ学同、中核、社学同などのセクトに対し「大学の機動隊導入には実力で抵抗するのが全共闘の論理だ」と塔の上でがんばっていた。
また学生の集団は市内各地でゲリラ活動を繰り返した。」

毎日新聞 1969.10.5(引用)
【時計塔も“落城” 大阪市大】

大阪市立大学の全学封鎖解除も4日朝から出動した大阪府警機動隊は、大阪市住吉区の杉本町キャンパス本部時計塔屋上の“徹底抗戦”組の排除に手こずったが、同日午後7時10分、10時間40分ぶりに、屋上へのハッチを突破、学生5人を不退去、凶器準備集合、公務執行妨害、傷害、放火未遂容疑で逮捕、全キャンパスの封鎖を解いた。
 この攻防で、警官13人、解除作業を手伝っていた民間人3人が劇薬らしい液体を浴びて軽傷を負った。“時計塔”トリデに呼応した杉本町周辺での火炎ビンによるゲリラ活動や先月30日封鎖解除したばかりの医学部(阿倍野区旭町)への再突入騒ぎでの検挙者を含めると、この日計29人の学生が逮捕された。
 機動隊を最後まで手こずらせた時計塔トリデは、屋上に工事用パイプを頑丈に組み合わせ板やテントを張り付けたもの。5人は10時間に及ぶ放水で全身びっしょり。催涙ガスで目もまっかに充血しガタガタふるえるばかり。すでに“戦意”を失って抵抗もしなかった。」
(終)

※ ホームページ「明大全共闘・学館闘争・文連」の中に大阪市大新聞を掲載しました。
こちらもご覧ください。
1968-70全国学園闘争図書館
http://meidai1970.sakura.ne.jp/gakuentousou.html

【全国学園闘争アーカイブス】
このブログでは、東大・日大闘争以外の知られざる全国学園闘争を掲載している。
今回は、以前掲載した中から東京工業大学の闘争を紹介する。
1968-69年 全国学園闘争 東京工業大学編 その1
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-23.html
1968-69年 全国学園闘争 東京工業大学編 その2
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-10-30.html
1968-69年 全国学園闘争 東京工業大学編 その3
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2009-11-06.html
【お知らせ その1】
「糟谷プロジェクトにご協力ください」

1969年11月13日,佐藤訪米阻止闘争(大阪扇町)を闘った糟谷孝幸君(岡山大学 法科2年生)は機動隊の残虐な警棒の乱打によって虐殺され、21才の短い生涯を閉じま した。私たちは50年経った今も忘れることができません。
半世紀前、ベトナム反戦運動や全共闘運動が大きなうねりとなっていました。
70年安保闘争は、1969年11月17日佐藤訪米=日米共同声明を阻止する69秋期政治決戦として闘われました。当時救援連絡センターの水戸巌さんの文には「糟谷孝幸君の闘いと死は、樺美智子、山崎博昭の闘いとその死とならんで、権力に対する人民の闘いというものを極限において示したものだった」(1970告発を推進する会冊子「弾劾」から) と書かれています。
糟谷孝幸君は「…ぜひ、11.13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。それが僕が人間として生きることが可能な唯一の道なのだ。…」と日記に残して、11月13日大阪扇町の闘いに参加し、果敢に闘い、 機動隊の暴力により虐殺されたのでした。
あれから50年が経過しました。
4月、岡山・大阪の有志が集まり、糟谷孝幸君虐殺50周年について話し合いました。
そこで、『1969糟谷孝幸50周年プロジェクト(略称:糟谷プロジェクト)』を発足させ、 三つの事業を実現していきたいと確認しました。
① 糟谷孝幸君の50周年の集いを開催する。
② 1年後の2020年11月までに、公的記録として本を出版する。
③そのために基金を募る。(1口3,000円、何口でも結構です)
(正式口座開設までの振込先:みずほ銀行岡山支店 口座番号:1172489 名義:山田雅美)
残念ながら糟谷孝幸君のまとまった記録がありません。当時の若者も70歳代になりました。今やらなければもうできそうにありません。うすれる記憶を、あちこちにある記録を集め、まとめ、当時の状況も含め、本の出版で多 くの人に知ってもらいたい。そんな思いを強くしました。
70年安保 ー69秋期政治決戦を闘ったみなさん
糟谷君を知っているみなさん
糟谷君を知らなくてもその気持に連帯するみなさん
「糟谷孝幸プロジェクト」に参加して下さい。
呼びかけ人・賛同人になってください。できることがあれば提案して下さい。手伝って下 さい。よろしくお願いします。  2019年8月
●糟谷プロジェクト 呼びかけ人・賛同人になってください
 呼びかけ人 ・ 賛同人  (いずれかに○で囲んでください)
氏 名           (ペンネーム           )
※氏名の公表の可否( 可 ・ 否 ・ペンネームであれば可 ) 肩書・所属
連絡先(住所・電話・FAX・メールなど)
<一言メッセージ>
1969糟谷孝幸50周年プロジェクト:内藤秀之(080-1926-6983)
〒708-1321 岡山県勝田郡奈義町宮内124事務局連絡先 〒700-0971 岡山市北区野田5丁目8-11 ほっと企画気付
電話  086-242-5220  FAX 086-244-7724
メール  E-mail:m-yamada@po1.oninet.ne.jp(山田雅美)

●糟谷孝幸君追悼50周年
「首都圏の集い」
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日時:2019年12月8日(日) 午後1時半~4時
会場:千代田区和泉橋区民会館
   (会議表示は「国連憲法問題研究会」)
会費:入場無料
  (参加希望者は03-6273-7233(研究所テオリア)まで申し込み下さい。

<管理人注>
野次馬雑記に糟谷君の記事を掲載していますので、ご覧ください。
1969年12月糟谷君虐殺抗議集会
http://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365465.html

【お知らせ その2】
ブログは隔週で更新しています。
次回は12月6日(金)に更新予定です。